’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(3)

 朝鮮戦争から故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード・イン》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。そこは 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

<ブルーバード・イン>

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《ブルーバード・イン》、デトロイトの史跡として保存を望む声もありますが今は廃墟に…

  フラナガンは《ブルーバード・イン》を懐かしむ。「もう閉店しています。あんなクラブは、国中探してもないでしょう。NYでさえ、見たことがありません。地元愛と同時に、ジャズクラブには不可欠な支援や応援がありました。デトロイトの至るところからジャズ・ファンが集まってきました。出演バンドも素晴らしかった。サドとエルビンのジョーンズ兄弟、それにベーシストはジェームズ・リチャードソン(カウント・ベイシー楽団に在籍したベーシスト、ロドニー・リチャードソンの兄弟)でした。

  《ブルーバード》では、我々バンドの演りたい音楽を演奏することができて、お客もそれを気にいってくれました。客入りも良かったし、バンドとしての一体感が高まって行くことを実感しました。サドとビリー(ミッチェル)は、当時すでに自分の演奏スタイルを確立していたと思います。エルヴィンのプレイも、今とさほどかけ離れたものではなかった。エルヴィンはバンドの中で、常に最も面白い存在でした。デトロイトにあんなプレイをするドラマーは居ません。(最初は違和感があっても)共演を重ねれば重ねるほど、うまくいくようになる。彼はそういうドラマーです。約一年位その店のハウスバンドとして出演し、客離れが始まると、他所の店に移りました。」

<いざNYへ>

tommyatartsession.JPG 1956年、ケニー・バレルとフラナガンは車でNY見聞に向かった。滞在資金節約のために、最初の数週間はバレルの叔母の家に居thad-jones-during-his-the-magnificent-thad-jones-session-hackensack-nj-february-2c2a01957-photo-by-francis-wolff.jpg候したが、一足早くNY入りしていたデトロイト同郷のサド・ジョーンズとビリー・ミッチェルが、あちこちのバンドリーダーに彼等を推薦してくれたおかげで、新参者は2人とも、すぐに自立することができた。フラナガンはレコーディングに参加し、コンサートに出演、それに今は亡きベース奏者、オスカー・ペティフォードのスモール・グループでライブをこなしている。
 その頃、エルビン・ジョーンズは、バド・パウエルと《バードランド》に出演中であった。ところが、フラナガンがギル・フラーとのコンサートに出演後、そこへ行ってみるとパウエルの姿はなかった。おかげでフラナガンは、仕事をすっぽかしたパウエルの代役として、2週間のギグをこなすことになる。その直後、エラ・フィッツジェラルドから初めて仕事を頼まれ3週間共演。状況は好転していく。デトロイト時代に《ブルーバード》で共演した縁で、マイルズ・デイヴィスとのレコーディングにも呼ばれた。ドラムのケニー・クラークからも声がかかり、演奏場所に行くと、当のクラークはギグにやって来なかった。だが、そのバンドでソニー・ロリンズと出会い、後の共演へとつながっていく。フラナガンはNYのジャズの高波に乗り、多忙を極めながらも、ここぞというチャンスは決して逃さなかった。

<リーダー作に思いを込めて>

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 「エラと共演した後、私はJ.J.ジョンソンのバンドに入りました。1956年から’58年迄、約3年dial_jj5.jpg間です。J.J.はカイ・ウィンディングとコンビ別れして、クインテットを新編成し、かなりきっちりした音楽を目指していました。結成後、たちまちバンドのサウンドは良くなった。メンバーは、エルビン・ジョーンズ、ホーンにボビー・ジャスパー、ベースがウィルバー・リトルです。1957年にスウェーデン・ツアーをしましたが、素晴らしい体験でした。ツアー中、 現地の”メトロノーム“というレーベルで、初リーダー・アルバムを作り、後にプレスティッジがそれを買い上げました。私は、ああいう種類の音楽がとても好きなんです。まもなく、もう一枚トリオのアルバムを作る予定です。ちゃんと用意をして、何らかの想いを込めたアルバムにしたいですね。」

 J.J.ジョンソンのバンドを辞めた時、フラナガンは楽旅に疲れ果て、NYの街に落ち着きたいと思っていた。’58年後半には《ザ・コンポーザー》にトリオで出演、トロンボーン兼ヴァイブ奏者、タイリー・グレンのバンドでは《ラウンド・テーブル》に2年間断続的に出演している。

「まあ、私にとっては良い時期でした。何とか食べて行く収入があり、レコーディングも数多くこなすことができました。ジャズの録音依頼は、おおむね偶発的に舞い込むものでしたから、何をするのか分からぬままスタジオ入りしなくてはなりません。現場に入るや否やリーダーに、『イントロをくれ!』と指示されます。出やすいイントロをあれこれ考えて作るのは好きな方ですが、スタジオに入るなり、イントロ、イントロと言われると、いい加減うんざりします。時にはエンディングまで、こっちで考えて作らなければいけません。だから、世間で”ブロウイング(吹きまくる)セッション”と呼ばれる録音も、私にとってはむしろ”シンキング(考える)セッション”でした・・・

 『予め譜面に書かれた』ことより高内容なことを、ささっと考えて、その場で演奏することは可能です。しかし、即興のアイデアに対する所有権はありません。現場で、そういうことをやればやるほど、同じ成果を繰り返し要求されることになります。「こいつはアレンジがなくても演れる奴だ」と判ると、ずっとあてにされることになるのです。

<コールマン・ホーキンスとの至福の時>

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 フラナガンは《ラウンド・テーブル》に数ケ月出演した後、NY周辺でフリーランスとして活動した後、コールマン・ホーキンスとの最初の共演作を録音した。ホーキンスとの共演は、まさに至福の音楽体験であった。

Editor~~element63.jpg 「ホーキンスは素晴らしくて、一緒に演ることがいつも楽しかった。彼の方も、まあまあ私のプレイを気にいってくれていたと思います。私は、クラリネットとサックスを演っていましたから、彼が名手であることがよくわかります。それに、もの凄く良い耳をしていました。あの年齢で、彼のような思考が出来る人はいません。2枚目のアルバムを録音した後は、ライブも一緒に演るようになりました。彼とロイ・エルドリッジの2管バンドで《メトロポール・カフェ》へ出演したり、コネチカットのハートフォードや、NY州北部のスケネクタディー、果ては南アメリカやヨーロッパまでツアーしました。ライブがない時は、もっぱらスタジオで一緒に演奏していました。ヨーロッパから帰国後は、カルテット編成に縮小しました。ホーキンスのワン・ホーンで一緒に演るのは最高です!彼との共演は本当に楽しかったですし、今もそれは変わりありません。とにかく一緒に居るのが好きなんです。」

1963-02-04.png コールマン・ホーキンスとの活動が小休止すると、フラナガンはギタリストのジム・ホールの誘いを受けた。ちょうど《ファイブ・スポット》が移転し、キャバレー・ライセンスを取得していなかった頃である。ライセンスがなければ、ドラムを入れることができない。そこでホールとフラナガンはベースのパーシー・ヒースと共にドラムレス・トリオで出演することになった。

「こんな編成は、デトロイト以来初めてでした。」と彼は言う。

 「私は、このフォーマットの演奏に夢中になりました。ジムは素晴らしいリズム感があるので、ドラムレスがいい感じでした。出演後2週間ほど経った頃に、レコーディングしておくべきでした。演奏の熱が冷めず、トリオで何が出来るのか、どこまで行けるのかが把握できた時期にね。やがて、二人目の子供が生まれたので、私はエラ・フィッツジェラルドとの仕事を再開しました。」

 伴奏者としてのフラナガンの実力は、数多くのレコードで証明されているが、伴奏の役目は彼に充足感を与えることはなかった。

「最近の自分の演奏は、もうひとつ気に入りませんね。」と彼は言う。

<目指すはエリントン!>

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coleman7.jpg 「伴奏の仕事を少しやり過ぎてしまいました。それが自分のやりたいことならいいんですが・・・ 私の音楽的な理想はエリントンの様なアプローチです。いつか、あれほど聴き手の心を掴む音楽を書ければと思います。つまり、編曲ではなく作曲です。これまで、自分で誇りに思えるような曲は何一つ書いたことがありません。でも、今まで演って来たことを発展させれば、オーケストラ的なものになります。自分で聴きたいと思う音のイメージを、そのまま譜面に書き下ろす能力は、充分身についたと自負しています。例えば、コールマン・ホーキンスのためのバックを書きたいんです。彼をインスパイアするようなリズム・セクションなら書けると思います。私が提供したアイデアを気に入ってもらえれば、きっと凄いことを演ってくれますよ!

 無論、そういう音楽を独力で作るには時間が必要です。これまでは、そういう時間がありませんでした。誰だって即興演奏を重ねていくと、プレイの先が読めるようになるものです。前もって、あれこれ考えるのと同じようにね。何事も、行き当たりばったりに生まれることはありません。頭より指のほうが先に動くということは往々にしてあります。でも、指なりのフレーズは、過去に学習したパターンの反復なんです。実際、そういうことが多すぎます。でも指がたまたま間違った所に行ってしまうと、頭がシャキっと動いて、考えながら弾くようになります。」

 ことによると、将来のフラナガンは作・編曲に向かうのかもしれない。しかしいずれにせよ、これ程妥協をせず、短期間のうちに素晴らしい業績を達成したにも拘らず、現状に満足していない、こんな人物がいるとは思いもしなかった。今回のインタビューでそれが判っただけでも良かったと感じる。

聴き手:Stanley Dance / ダウンビート ’66 1/13 flanagan1164.jpg

(了)

 35才のトミー・フラナガンの発言は、現在の「足跡講座」で寺井尚之が展開するフラナガン論と、驚くほど合致していました。このインタビュー、皆さんはどう読み解きますか?

 

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その2)

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(前回よりつづき)<トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

 静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

<アート・テイタムのことなど>

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    フラナガンにとって、特に思い出に残る場所は、《パラダイス・シアター》(訳注:デトロイトの黒人街の中心に在った映画館兼劇場です。)の少し北にあった《フレディ・ギグナーズ》と言うアフター・アワーズ・クラブ(訳注:ギグが終わったミュージシャンのたまり場となる朝まで深夜営業の店)だった。

 「ジミー・ランスフォード、アール・ハインズ、ファッツ・ウォーラー・・・レコードで愛聴した名手たちを初めて見た場所です!」-フラナガン 

   オーナーであるギグナードが自宅の地下で営業していたクラブで、テイタムもそこに足繁く現れた。テイタムは、良いピアノさえあれば、どんな場所にでも立ち寄るのであった。テイタムの弟子格のピアニスト、ウィリー・ホーキンスが出演していたためでもある。地元の名手であったホーキンスの演奏はテイタムに酷似しており、テイタムや、それ以外にも演奏しようというピアニスト達がスタンバイするまで演奏していた。

 「その頃の私はかなり内気でした。」フラナガンは言う。「まあ、今でもアート・テイタムがその場に居れば、やっぱりそうなると思います。ただし、彼が来ると判っていれば、ずっとその店で粘っていて、実際に弾いてくれるのを待ち構えていました。テイタムがもの凄い演奏をした夜のことは今もよく覚えています。皆すごいと言って、一体どんなコードを弾いていたのか?と尋ねたんです。実は、前座でウィリー・ホーキンスが弾いた一つのコードが気に障ったテイタムが、この曲は「かくあるべし」というコード進行をで、最初から最後まで弾いて見せた、と言うわけでした。すると今度は、テイタムがいかに和声進行に習熟しているかと、皆がわあわあ話し始めた。すると、テイタムは彼らに向き直ってこう言いました。

『デューク・エリントンこそがコードの達人だ!』

  テイタムがどの程度エリントン楽団を聴きこんでいたかは分かりませんが、少なくとも、あらゆるピアニストを熟知していたのは間違いありません。

  私が聴きたいのはテイタムだけでした。なぜなら彼のアプローチは私が探求していることと密接に繋がっていたからです。有り余る才能に恵まれた、真の天才だと思っていました。最初は全盲だと思っていましたが、後になってそうではないと知りました。でも、字や譜面は読めなかったと思います。あれほど凄いピアノ・テクニックをどうやって編み出したのか分かりませんが、彼の演奏する和声構造を聴くと、修練したことは明らかです。彼こそ正真正銘の名人(ヴァーチュオーゾ)だ。名人芸というものは、基本的な修練なしには、絶対に得られない!

  もう1人フラナガンに大きな影響を与えたピアニストがハンク・ジョーンズである。フラナガンがハンク・ジョーンズを初めて聴いたのは、コールマン・ホーキンスとの共演盤だった。

<ソフトタッチ>

hank-jones.jpg 「彼の演奏は、テディ・ウィルソンと同型だと感じました。」フラナガンは言う。「ただし、ハンクはテディをアップデートしたスタイルだった。私はハンクがテイタムの次世代のピアニストであると、常に感じていました。今も、その意見は余り変わっていません。あの頃からずっとハンクの演奏を尊敬してきたし、その思いは自分のプレイに反映されていると思います。あの頃の私は、きっといつかテイタムみたいに弾ける時が来ると思っていましたが、やがて、テイタムと全く同じように演奏する望みはないと思い知った。それからは、ハンクをよく聴くようになりました。バド・パウエルもよく聴きました。(訳注:これらの昔話はフラナガンの高校時代のことです。念のため)良く話題になるタッチの相違は、多分身体的な問題ではないかと思いますが、鍵盤を叩きつけるようなハードなタッチは絶対に嫌です。私の好むスモール・コンボ(ビッグ・バンドではなく)なら、ハードなタッチでプレイする必要は全くないし、とにかく、ハードなアプローチはどんな場合も必要ではないと思います。」

<13才のプロ・ミュージシャン>

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  初期の参加バンドで、フラナガンにとって特に思い出深いのは、中学時代に活動したピアノとサックスとドラムのトリオだ。当時、まだ13才ではあったが、プロに相応しい卓抜した技量をすでに備えており、早くもデトロイトでのギグが次々と舞い込んできた。1947年、ラッキー・トンプソンがデトロイトの町に戻ってくると、ミルト・ジャクソン(vib)、ケニー・バレル(g)と共に、彼のセプテットに参加している。 

  クラブ演奏可能な年齢に達する頃には、地元デトロイトでの仕事場は潤沢で、良いミュージシャンも多数居たものの、多くは名声を求めてNYへと進出した。テナー奏者のフランク・フォスターもこの街にやって来て、軍隊に入る前の2年間を過ごした。彼は “強烈な印象をもたらした。”とフラナガンは言う。 

  PepAda.gifフラナガン自身、1951年から1953年まで陸軍に入隊している。すんでのところで、音楽家等級なしで、一歩兵として韓国に送られるところであった。だが、幸運にも、訓練地のショウでピアニストの募集があり、オーディションを勝ち抜いたフラナガンは特別芸能部(Special Service)に転属となった。彼が居たキャンプ、ミズーリ州、レオナード・ウッド基地では、例のラッキー・トンプソンのデトロイト・バンドの盟友であったバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスとの偶然の再会があった。 

  「彼は、すでに数週間の基礎演習を修了していて、私がホヤホヤの新兵で居ることを知っていました。」フラナガンは回想する。「初めて野営地に向かって行進している時に、ペッパーが現れた!隊列の中の僕を目がけて走ってきたんです。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込みました。 『きっと役に立つよ!』と言って…」 

韓国駐屯を経て除隊、故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。

 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

(つづく)

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その1)

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今日はトミー・フラナガン生誕85周年!

Stanley and Earl - photo by Brian Kent.jpg 来る28日(土)は、当店OverSeasで第26回目の追悼コンサート、“Tribute to Tommy Flanagan”を開催。 この時期に愛奏した春の曲(Spring Songs)など、フラナガンならではの名演目でありし日の巨匠を偲びます。ぜひぜひご参加ください!

 というわけで、今週、来週は、当店OverSeasで毎月開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」が’60年代の演奏解説に入っていますので、’60年代のフラナガン・インビューを掲載することにしました。
 ソースはダウンビート誌、1966年1月13日号、聴き手は英国からNY近郊へ移住しジャズに一生を捧げた歴史家スタンリー・ダンス(左の写真は、アール・ハインズと)。ダンスは”Mainstream”という言葉をジャズ界に定着させ、その知力とペンの力で、多くのジャズメンやビッグ・バンドを、「芸人」から「芸術家」へと正しい評価へ導いた人、その反面、”ビバップ嫌い”ではありましたが、ここでは、好意に溢れた対話を展開しています。



 

 <トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

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 NYに進出して10年、トミー・フラナガンは、卓抜した趣味の良さ、繊細さ、そしてオリジナリティを併せ持つピアニストとして名声を手にした。その名声の源は、ケニー・バレル(g)、タイリー・グレン(tb)、マイルズ・デイヴィス(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、コールマン・ホーキンス(ts)、エラ・フィッツジェラルド(vo)といった様々な主役たちとライブやレコーディングを通じた多岐に渡る活動であるが、それは決して偶然に得られたものではない。

tommy2.bmp ”あらゆる仕事をやってみたかったので。” と、彼は説明する。

 多くのレコーディング参加は、仲間うちの彼に対する好感度と評価の高さを示すものだ。しかし、リーダー作は今のところ、プレスティッジに於るトリオ作品2枚に留まっている。それ故、彼の実力に相応しい知名度が一般のファンには行き渡っていない。

 ”決して目立つことがないんです。” 彼は少し残念そうに言ってから、すぐさま微笑んで付け加えた。”でも、自分が売れるか?売れないか?なんて気にしていません。”

 1961年、ダウンビートのレコード・レビューはいみじくも、「派手にひけらかすことはないが、複数の音楽的ルーツを継承していることを示す演奏家。」と評していた。様々なルーツを踏まえた上でのスタイルが彼独自のものであることは、言うまでもない。

 物静かで控えめな物腰とは裏腹に、フラナガンの談話は、鋭い機知と皮肉が随所にちりばめられ、彼の音楽的信条に反する不合理な仮説や教条を持つ連中に痛烈な一撃を与える。同様に、彼が大尊敬するミュージシャンについて、私が「もう盛りを過ぎたのでは?」と言うや否や、 ”じゃあ、彼の全盛期はいつだと思っておられるのですか?”と、いともクールに斬り返された。すなわち、彼の音楽性は、 尖ったり、押し付けがましさの一切ないものであり、現在も手堅く的を得たプレイは衰えることなく健在であるという所以である。

 1930年 デトロイト生まれ、フラナガンは子供の頃のクリスマスを回想する。-彼が6歳の時、ギタリストの父とピアニストの母に、子供たち全員が楽器をプレゼントされたのだった。

 私には4人の兄と一人の姉が居まして・・・” トミーは言う。”私がもらったプレゼントはクラリネットでした。高校までは、ずっとクラリネットを続けました。高校時代はサックスなどいろいろな楽器をいじくりましたが、主楽器は相変わらずクラリネット、もう少しで首席だったんだ!学校行事、例えば行進などで演奏もしました。ジャズに興味を持ったのはその頃です。当時はベニー・グッドマンが大流行で、兄貴はよくビリー・ホリデイとレスター(ヤング)の共演盤を家に持ち帰って、一緒に聴いたものでした。

 ”自分が聴いて、自分でも演奏したいと思えば、そのまま演奏することができました。まあ、単なる物真似ですがね。クラリネットが、ピアノ上の思考に影響していると思います。ずっとクラリネットを続けていましたが、いつのまにかピアノの方が好きになってしまった。それは多分ピアノ・レッスンを受けていたからです。クラリネットは、学校の教科に近かった。クラリネット教本で勉強するにはピアノに向かうことが必要だったし。”

 さらに、フラナガンは、長兄、ジョンソン フラナガンJr.のピアノの演奏を見て、兄を見習おうとした。ジョンソン・フラナガンJr.は、現在NY近郊で活躍する実力派ピアニストで、ラッキー・トンプソンとレコーディングした”ベイズン・ストリート・ボーイズ“に加入し、’40年代半ばにデトロイトを離れている。

  “兄のように演ってみたいと思って…” とフラナガンは言う。 ”そういうわけで、聴けば聴くほど、ますますピアノが好きになった。そして兄と同じピアノ教師、グラディス・ディラードに就きました。彼女は文字通り、私の家族全員にレッスンをした先生です。通常、彼女の元で修了するのに7年間かかる。彼女は完璧な教師だったから、悪い所をそのままにして見逃すことは決してなかった。

 ”自分で、レッスンの成果が出ていると判ると、上達する過程が嬉しくてたまらない。それでずっと彼女に付いて習った。兄がデトロイトを離れてから数年間は、兄の影響は少なくなりましたが、ますますジャズを演奏することに興味を持つようになりました。

 ”最初は、もっぱらレコードを聴いて影響を受けました。バド・パウエルやその他の人達も、デトロイトに来た時を除いては、全てレコードを通して聴いたのです。生で聴いて感動したのは、スモール・コンボでのチャーリー・パーカーです。メンバーはマイルズ・デイヴィス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチ・・・素晴らしかったなあ。まだ子供だったので演奏している店の中には入れなかったが、横手のドアにへばりついて必死で聴いた。そこは店内よりずっと音がよく聞こえる場所でね。私にとって、特に素晴らしいことは、前もってレコードで聴いたものを、改めて生で聴けるということだった。

 ”ダンスホールに出演する人気バンドも、いくつか聴きに行ったことがあるのだけど、そういうバンドは、レコードと寸分違わぬ様に演奏するんだ。だがバードとディジーのバンドはそうではなかった。当時はホーンに感動しました。もちろんピアニストもいいのだけれど、それ以上にバードとディジーに圧倒されました。自分は、特にフレージングの点で、彼らから大きな影響を受けていると思います。

tatum444.jpg ”その頃の私は、なんとかピアノの腕前を上げようと四苦八苦していたんです。アート・テイタムを聴いてからは、ソロで仕事ができる位うまくなりたいと思ってね。そうして、自分に欠けているのは、テイタムのようなピアニスティックな要素だと痛感しました。それは自分の考え方が余りにもホーンライクで、ホーンのフレーズを引用しているためだと気付いた。ほんの初期のころから、ずっと、リズミックなシングル・ライン中心のスタイルで、分厚いコードのオーケストラ的サウンドを弾きたいと切望するようになった。”

 フラナガンは、最初、テディ・ウィルソンやカウント・ベイシーを愛聴し、その後、やはりレコードで、アート・テイタムと出会う。そして1945年、テイタムがデトロイトを訪れた。

 ”フリーメイソンの寺院でソロのコンサートがあった。”フラナガンは回想する。

 ”途中の休息を計算に入れず、テイタムは1時間半演奏した。お客の入りは余り良いというわけではなかったが、とても熱のこもった演奏だった。二階席の切符しか買えなかったが、二階には僕以外ほとんど人が居なかった。目の前で彼の生の演奏を聴くということが、私にとって、とても大事だった。これまで彼の演奏をよく聴いて知っていて、そういう風に弾きたいと思っていたのだから!”

 (続く)

巨星クラーク・テリー逝く

funeral11021224_927702457254519_1407399710584103427_n.jpg  巨星クラーク・テリー逝く… トランペット、フリューゲル、ポケット・トランペット、ある時は 掌に隠されたのマウスピースだけでの妙技、そして“マンブル(Mumbles)”と呼ばれる独特のスキャット、どれをとっても音楽の喜びに溢れる至高のミュージシャン!バックステージで初めてお目にかかった時に、指をパタパタしながら”ハッロ~~~~”ってめちゃくちゃ可愛い挨拶をされた姿が忘れられません。

 really_big_Jimmy 51ldCZk9cJL._SS500_.jpgクラーク・テリーといえば、もうひとつ思い出があります。寺井尚之と一緒にクイーンズにあるジミー・ヒース(ts)さんのお宅にお呼ばれした時のことです。料理上手なモナ夫人が夕ごはんを用意してくださって、いそいそテーブルに付きました、すると、「ディナーはこのクイズに答えてからじゃ!」そうジミーが言っておもむろにレコードに針を降ろします。

「ヘイ、先発ソロを取ってるのは誰や?3秒以内に言うてみい!」

 ただでさえ大巨匠を前にして緊張してるのに、答えられなかったらどないしょう???…もう泣きそうになったけど、一秒で分かった!”Clark Terryですか?”と恐れながら答えると、”Yeah~! オーライト!!最近はわからんアホがたまに居るんだからな…Damn…”と例の甲高いベランメエ英語。めでたくお祈りをして夕飯にありつきました。

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 CTことクラーク・テリーはジミー・ヒースと大親友、ジミーが刑期を終えた後の初レコーディング”Really Big”にキャノンボール・アダレイ達と共に、プロデューサー、オリン・キープニュースに志願して参加しています。(奇しくも、CTが亡くなった数日後に、キープニュースさんもまた91才で大往生されています。)

 「ジミーのレコーディングなら、いつだって最低ギャラで喜んで参加する!」スカッとした男気のある人です。

 日本じゃ「トランペッターと言えば帝王マイルズ」と相場が決まっているのかもしれないけど、そのマイルズの若い頃のアイドルが同郷セント・ルイスで傑出した実力を誇るCTだった。マイルズがボクシングを好むようになったもCTに影響されたからだし、それどころか、麻薬でボロボロになった宿なしマイルズにホテルの自室を提供し、留守中に自分の所有品を一切合切売り飛ばされても慌てず騒がず、マイルズの父親に連絡して救済するように勧告した大人物です。

<生き神様>

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 CTは、カウント・ベイシー、デューク・エリントンのジャズ史を代表する楽団両方の全盛期に在籍した数少ないミュージシャン。「カウント・ベイシーOrch.は大学で、エリントンOrch.は大学院だった。」と彼は語っている。

duke12.jpg エリントン楽団で一番仲良しだったビリー・ストレイホーンへの追悼盤『…And His Mother Called Bill/エリントンOrch.』での”Buddha”のソロは、哀しみを突っ切った底抜けの明るさと、いとも容易そうな超絶技巧で、ストレイホーンの極楽浄土を描いています。
 独特のスイング感に溢れたMumblesスキャットが人気を呼んだオスカー・ピーターソンとの共演や、バルブ・トロンボーンの達人、ボブ・ブルックマイヤーの双頭コンボなど、活動歴は書ききれませんが、ジャズが下火になった’60年代になると、同胞ジャズメンの先鞭を切って、三大ネットワーク、NBCのハウス・ミュージシャンとなり、人種の壁を破った。そんなCT=クラーク・テリーさんは、米国の人間国宝、ミュージシャンにとっては生き神様!亡くなる数ヶ月前にはウィントン・マルサリス始め数多くの後輩トランペッター達がNYから貸し切りバスを駆って入院先のアーカンソー州の病院で、生演奏付のお見舞いを献上している。

<憎しみを乗り越えて>

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clarkterry_in_karati.jpg CTのコンサートを観ると、底抜けにハッピーなエンタテイナーの顔と、鳥肌が立つほど至芸を磨き抜く厳しいアーティストの顔が、いとも自然に共存している。言葉や人種のバリアをスイスイ越えていく音楽の力で、米国国務省の親善大使として中近東をツアーしたり、クリントン大統領の命を受けて世界ツアーをしました。その音楽の力は、激しい人種差別の波にもまれた末のかもしれません。
 ’30年代からミュージシャンとして各地を渡り歩いたCTは、命の危険にさらされてきました。死別した最初の妻、ポーリーンさんも幼いころKKKの襲撃に遭い九死に一生を得ています。その際、一緒のベッドで寝ていた仲良しの従兄弟は幼くして庭先で吊るされ、酷い「奇妙な果実」になり果てた。

 一方、CTは10代のときに、南部ミシシッピー州をカーニバルの楽団で巡業中の雨の夜、次の公演地へ向かう鉄道の駅で出会った白人に話しかけられて”Yeah.”(Yes,Sirでなく)と言ったのが失礼だと、こん棒で滅多打ちにされた。その男、殴っただけでは物足らず、リンチして吊るしてやると仲間を呼びに走っていった。ぬかるみで血だらけになって倒れているCTを助けてくれたのが、列車の白人乗務員達で、CTを抱え楽団の車両まで運んでくれた。すると、さっきのこん棒男が仲間を引き連れ大挙して戻ってきた。シャベルやつるはしやナイフなど様々な凶器を手にテリーを血眼で探している。すると、乗務員は「ああ、あのニガーか、面倒を起こす厄介者だから、俺たちがケツを思い切り蹴飛ばして、向こうの方へ転がしておいたぜ。」と全く反対の方角に暴徒を誘導し、そのおかげで命拾いしたと言います。

 「殺そうとしたのも白人、命の恩人も白人」CTは、その体験から人種に対する憎悪を抱くことを止めたと言うのです。

 彼が長いキャリアを歩むに連れて、人種差別は少しずつ改善されてきたけれど、その反面「黒人富裕層はバッハやモーツァルトだと、子弟にクラシックは習わせても、ジャズを演奏させることは好まない。全く残念なことだ!」と、晩年は音楽教育に力を入れて各地の大学でセミナー活動を行っていました。11人兄妹での7番目として貧困家庭に生まれたCTは音楽の先生に就くことも、楽器を買ってもらうこともありませんでした。

 ’90年代から糖尿病の合併症で視力が低下して以降、公の音楽活動は減少していきましたが、世界中からトランペット奏者が教えを乞いに彼の自宅を訪れています。2010年、グラミーで生涯功労賞受賞、公の葬儀はNYハーレムのアビシニアン教会で行われた後、ニューオリンズ式の葬送行進がウィントン・マルサリス達後輩ミュージシャンによって盛大に行われました。かつてダン・モーガンスターンは、いみじくも彼をこんな風に評しています。「成功しても、人間的にダメにならなかった男」
 
この男、なんでそれほどハッピーなんだ? funeral11016823_983468061670963_7668005501549149957_n.jpg

彼は余り眠ることをしない。

彼はビッグ・バンドを持ってる。

小さなバンドも持っている。

彼はちびっ子どもに教える。

レコードも作る、

彼はスタジオ・マンだ。

ブツブツ歌う。

この男、なんでそれほどハッピーなんだ?

それは彼がクラーク・テリーだから!

ダン・モーガンスターン

参考資料

  • Downbeat magazine 1967 6/1号
  • Downbeat magazine 1996 6月号
  • I Walked with Giants : Jimmy Heath Autobiography
  • Miles, Autobiography of Miles Davis
  • Clark Terry Obituaries; NY Times, The Guardian, The Telegraph, et al.