’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その1)

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今日はトミー・フラナガン生誕85周年!

Stanley and Earl - photo by Brian Kent.jpg 来る28日(土)は、当店OverSeasで第26回目の追悼コンサート、“Tribute to Tommy Flanagan”を開催。 この時期に愛奏した春の曲(Spring Songs)など、フラナガンならではの名演目でありし日の巨匠を偲びます。ぜひぜひご参加ください!

 というわけで、今週、来週は、当店OverSeasで毎月開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」が’60年代の演奏解説に入っていますので、’60年代のフラナガン・インビューを掲載することにしました。
 ソースはダウンビート誌、1966年1月13日号、聴き手は英国からNY近郊へ移住しジャズに一生を捧げた歴史家スタンリー・ダンス(左の写真は、アール・ハインズと)。ダンスは”Mainstream”という言葉をジャズ界に定着させ、その知力とペンの力で、多くのジャズメンやビッグ・バンドを、「芸人」から「芸術家」へと正しい評価へ導いた人、その反面、”ビバップ嫌い”ではありましたが、ここでは、好意に溢れた対話を展開しています。



 

 <トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

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 NYに進出して10年、トミー・フラナガンは、卓抜した趣味の良さ、繊細さ、そしてオリジナリティを併せ持つピアニストとして名声を手にした。その名声の源は、ケニー・バレル(g)、タイリー・グレン(tb)、マイルズ・デイヴィス(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、コールマン・ホーキンス(ts)、エラ・フィッツジェラルド(vo)といった様々な主役たちとライブやレコーディングを通じた多岐に渡る活動であるが、それは決して偶然に得られたものではない。

tommy2.bmp ”あらゆる仕事をやってみたかったので。” と、彼は説明する。

 多くのレコーディング参加は、仲間うちの彼に対する好感度と評価の高さを示すものだ。しかし、リーダー作は今のところ、プレスティッジに於るトリオ作品2枚に留まっている。それ故、彼の実力に相応しい知名度が一般のファンには行き渡っていない。

 ”決して目立つことがないんです。” 彼は少し残念そうに言ってから、すぐさま微笑んで付け加えた。”でも、自分が売れるか?売れないか?なんて気にしていません。”

 1961年、ダウンビートのレコード・レビューはいみじくも、「派手にひけらかすことはないが、複数の音楽的ルーツを継承していることを示す演奏家。」と評していた。様々なルーツを踏まえた上でのスタイルが彼独自のものであることは、言うまでもない。

 物静かで控えめな物腰とは裏腹に、フラナガンの談話は、鋭い機知と皮肉が随所にちりばめられ、彼の音楽的信条に反する不合理な仮説や教条を持つ連中に痛烈な一撃を与える。同様に、彼が大尊敬するミュージシャンについて、私が「もう盛りを過ぎたのでは?」と言うや否や、 ”じゃあ、彼の全盛期はいつだと思っておられるのですか?”と、いともクールに斬り返された。すなわち、彼の音楽性は、 尖ったり、押し付けがましさの一切ないものであり、現在も手堅く的を得たプレイは衰えることなく健在であるという所以である。

 1930年 デトロイト生まれ、フラナガンは子供の頃のクリスマスを回想する。-彼が6歳の時、ギタリストの父とピアニストの母に、子供たち全員が楽器をプレゼントされたのだった。

 私には4人の兄と一人の姉が居まして・・・” トミーは言う。”私がもらったプレゼントはクラリネットでした。高校までは、ずっとクラリネットを続けました。高校時代はサックスなどいろいろな楽器をいじくりましたが、主楽器は相変わらずクラリネット、もう少しで首席だったんだ!学校行事、例えば行進などで演奏もしました。ジャズに興味を持ったのはその頃です。当時はベニー・グッドマンが大流行で、兄貴はよくビリー・ホリデイとレスター(ヤング)の共演盤を家に持ち帰って、一緒に聴いたものでした。

 ”自分が聴いて、自分でも演奏したいと思えば、そのまま演奏することができました。まあ、単なる物真似ですがね。クラリネットが、ピアノ上の思考に影響していると思います。ずっとクラリネットを続けていましたが、いつのまにかピアノの方が好きになってしまった。それは多分ピアノ・レッスンを受けていたからです。クラリネットは、学校の教科に近かった。クラリネット教本で勉強するにはピアノに向かうことが必要だったし。”

 さらに、フラナガンは、長兄、ジョンソン フラナガンJr.のピアノの演奏を見て、兄を見習おうとした。ジョンソン・フラナガンJr.は、現在NY近郊で活躍する実力派ピアニストで、ラッキー・トンプソンとレコーディングした”ベイズン・ストリート・ボーイズ“に加入し、’40年代半ばにデトロイトを離れている。

  “兄のように演ってみたいと思って…” とフラナガンは言う。 ”そういうわけで、聴けば聴くほど、ますますピアノが好きになった。そして兄と同じピアノ教師、グラディス・ディラードに就きました。彼女は文字通り、私の家族全員にレッスンをした先生です。通常、彼女の元で修了するのに7年間かかる。彼女は完璧な教師だったから、悪い所をそのままにして見逃すことは決してなかった。

 ”自分で、レッスンの成果が出ていると判ると、上達する過程が嬉しくてたまらない。それでずっと彼女に付いて習った。兄がデトロイトを離れてから数年間は、兄の影響は少なくなりましたが、ますますジャズを演奏することに興味を持つようになりました。

 ”最初は、もっぱらレコードを聴いて影響を受けました。バド・パウエルやその他の人達も、デトロイトに来た時を除いては、全てレコードを通して聴いたのです。生で聴いて感動したのは、スモール・コンボでのチャーリー・パーカーです。メンバーはマイルズ・デイヴィス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチ・・・素晴らしかったなあ。まだ子供だったので演奏している店の中には入れなかったが、横手のドアにへばりついて必死で聴いた。そこは店内よりずっと音がよく聞こえる場所でね。私にとって、特に素晴らしいことは、前もってレコードで聴いたものを、改めて生で聴けるということだった。

 ”ダンスホールに出演する人気バンドも、いくつか聴きに行ったことがあるのだけど、そういうバンドは、レコードと寸分違わぬ様に演奏するんだ。だがバードとディジーのバンドはそうではなかった。当時はホーンに感動しました。もちろんピアニストもいいのだけれど、それ以上にバードとディジーに圧倒されました。自分は、特にフレージングの点で、彼らから大きな影響を受けていると思います。

tatum444.jpg ”その頃の私は、なんとかピアノの腕前を上げようと四苦八苦していたんです。アート・テイタムを聴いてからは、ソロで仕事ができる位うまくなりたいと思ってね。そうして、自分に欠けているのは、テイタムのようなピアニスティックな要素だと痛感しました。それは自分の考え方が余りにもホーンライクで、ホーンのフレーズを引用しているためだと気付いた。ほんの初期のころから、ずっと、リズミックなシングル・ライン中心のスタイルで、分厚いコードのオーケストラ的サウンドを弾きたいと切望するようになった。”

 フラナガンは、最初、テディ・ウィルソンやカウント・ベイシーを愛聴し、その後、やはりレコードで、アート・テイタムと出会う。そして1945年、テイタムがデトロイトを訪れた。

 ”フリーメイソンの寺院でソロのコンサートがあった。”フラナガンは回想する。

 ”途中の休息を計算に入れず、テイタムは1時間半演奏した。お客の入りは余り良いというわけではなかったが、とても熱のこもった演奏だった。二階席の切符しか買えなかったが、二階には僕以外ほとんど人が居なかった。目の前で彼の生の演奏を聴くということが、私にとって、とても大事だった。これまで彼の演奏をよく聴いて知っていて、そういう風に弾きたいと思っていたのだから!”

 (続く)

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