あの感動を再び! Akira Tana 4月ライブ決定!

akira_tana1981994.jpgアキラ・タナ:Photo by Jim Bourne

 朗報! 昨年10月OverSeasを感動の渦に巻き込んだドラムの巨匠、アキラ・タナさんが4月10日(金)再びOverSeasにやってきます!

 ご一緒するのは、もちろん寺井尚之(p)と宮本在浩(b)のレギュラー・チーム。スマートでサムライの気迫溢れる夢のピアノ・トリオ!

 前回は、アキラさんがレギュラー・ドラマーとして擁した「トロンボーンの神様」J.J.ジョンソンや、伝説的バンド、ヒース・ブラザーズの名演目、そして震災復興支援の為にアキラさんが率いる日系人オールスター・バンド「音の輪」が得意とする日本の名歌のジャズヴァージョンなどで、ひと味違った演奏を聴かせてくれました。今回は、一体どんな驚きと感動を与えてくれるのか?今からとっても楽しみです。

 前回お越しくださったお客様も、初めてのお客様も、ぜひOverSeasのアキラ・タナを聴きに来てください!

 

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寺井尚之(p)トリオ featuring Akira Tana (ds)

with 宮本在浩(b)

【日時】4月10日(金) 開場:18:00~
MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:00- /3rd set 21:00- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3500(税抜)
当日 ¥4000(税抜) 

(当店は、入場料以外にチャージはありません。ご飲食料のみ頂戴します。)

関連HP:http://jazzclub-overseas.com/concert.html#Akira Tana

3月28日(土) 恒例春のトミー・フラナガン・トリビュート開催!

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     写真は Jazzpar賞のフラナガン:フォトグラファーJan Perssonのサイトより

 今年はトミー・フラナガン生誕85周年、亡くなってからも、「ああ、あの時のプレイはそういう意味だったのか、あの言葉はそんなに深い意味があったのか・・・」と新しいことが判るのが巨匠!何年も経ってから、改めて笑っちゃう落語の名人のオチみたいです。

 そんな我らがトミー・フラナガンを偲んで開催するJazz Club OverSeas春秋の定例コンサート《Tribute to Tommy Flanagan》、今年の春は3月28日(土)に決定しました。

 在りし日の勇姿を思い出す名演目の数々を、寺井尚之(p)が名リズム・チーム 宮本在浩-bass, 菅一平-drums を擁する「The Mainstem」で、心技体整えてお聴かせいたします。初めてのお客様も大歓迎!どうぞみなさまお待ちしています。

 OverSeasでチケット好評発売中! (お問い合わせ Eメール info@jazzclub-overseas.com:TEL 06-6262-3940)

tribute_mainstem.JPG トリビュート to トミー・フラナガンHP

日時:2015年 3月28日(土) 
会場:Jazz Club OverSeas 
〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
TEL 06-6262-3940
チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
前売りチケット3000yen(税別、座席指定)
当日 3500yen(税別、座席指定)

ジーン・アモンズの肖像(2)

 <塀の中のボス>

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joliet7610578.jpg ジーン・アモンズは、違法薬物所持とそれに関連する罪状で、のべ10年間服役しています。最初は、多くのバッパーがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設、通称”NARCO”で2年間(1958-60)。タッド・ダメロンもほぼ同時期に、ここに収監されていましたが、ここから舞い戻ったものの、ジャズメンの多くが、再びヘロインに手を出し、さらに厳刑を課せられることになった。アモンズが典型的な例で、“NARCO”から帰ってきて間もなく、仮釈放中にクラブ出演をしたとして再び拘束され、その2年後には、7年間という長期間をシカゴのジョリエット刑務所で過ごすめになります。ジョリエットという名前にピンと来た映画ファンは我が同士!かの有名な『Blues Brothers』のファースト・シーン、兄のジェイクが入っていた刑務所として、今や観光スポットになっているそうです。

 アモンズの逮捕は、有名人を狙った違法な「おとり捜査」だったと言われていますが、本人は後年、麻薬に手を出したことについて、ボス・テナーにふさわしく、誰のせいにもすることなく、淡々と語っている。

「環境だ、生活状況だ、それに、逃避したくなるような苦悩があるから、ということが原因だという人もいる…だが、私が薬に手を出した理由として、自分で言えることは、『好奇心』だったってことくらいだ。一番肝心な時に、自制心が足りなかった。そして気がついた時には、どうすることも出来ないほど深入りしていたというわけだ。」

 アモンズが「どうすることも出来ないほど深入り」してしまったのは、エクスタイン楽団に居た’40年代ではなく、ウディ・ハーマン楽団からソニー・スティットとコンビを組んだ時期だったようだ。

gallery7.jpg ジュニア・マンス(p)の証言:「私が1951年~53年の軍隊生活を終えてシカゴに戻ってきた時、ジャグは完全な麻薬中毒になっていた。」

 アモンズのヒット作の大部分を制作したPrestigeのオーナー、ボブ・ワインストックは先見の明があったようで、レキシントンから帰ってきたスター奏者、アモンズが活動休止に追い込まれた時のため、シカゴやNYで、せっせと彼のセッションを録音、7年間の服役中に、それらの音源を新譜としてリリースする離れ業をやってのけた。 「親友アモンズのために一肌脱いだ」と言われているけれど、それほどアモンズは売れたのだ。

 アモンズはジョリエット刑務所からワインストックに何度か手紙を書き送っている。そこには、自分の名前が、塀の中に居る間に忘れられないよう、継続的に自分の新譜をリリースして欲しい、そのために録り貯めた音源が枯渇しなければいいのだがという願いが綴られていたそうです

 さて、刑務所の中のアモンズは、ずっと鎖に繋がれていたわけではなく、音楽の実力を買われ、受刑者バンドの音楽監督に任命されます。おかげで、更生教育の一環として団員に音楽を教え、編曲をする傍ら、テナーを持つことを許され、暇さえあればテナーを吹くことが出来た。

 出所前の18カ月間は、レコード・プレイヤーだけでなく、ラジオやTVも視聴することができたので、世相の変化や、音楽の流行、アヴァンギャルドへと向かうジャズの潮流をキャッチしながら、出所したあどんな音楽をするべきか?ということを冷静に見定めていました。

<プラグド・ニッケル>

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 1969年11月、出所後わずか12日目に、アモンズはシカゴの《プラグド・ニッケル》でカムバックを果たしました。満員の聴衆が総立ちになり拍手でアモンズを迎え、全くブランクを感じさせないアモンズ・サウンドに熱狂した!伝説のコンサートに立ち会った評論家ダン・モーガンスターンは、「完全にリラックスして、再びバンドスタンドに戻った幸福感に満ち溢れる演奏だった、」と書いていますモーガンスターンが、幕間にインタビューを行い、現在流行りの前衛ジャズについてどう思うか?と質問すると、「あれは自分の柄には合わない。自分はやっぱり、ジーン・アモンズのままでいたい。」と答えています。

  アモンズは、並のテナー奏者ならヴォリュームの点で食われてしまうハモンド・オルガンを、テナーのバンドで初めて使ったり、ソウル・ジャズという新ジャンルを容易く確立してきました。カムバック後は、一時期アンプを使ってサックスのサウンドをオーバーダブするという流行も取り入れてはみたけれど、すぐに元の自然な音色に戻している。

 カムバックしてから数年後は、がんに冒されながらも、死の3か月前までボス・テナーであり続けました。ラスト・レコーディングは亡くなる年、1974年の3月、プレスティッジには稀な一日のセッションでたった一曲だけの録音。曲目はいみじくも”グッバイ”でした。その2ヶ月後、1974年5月、オクラホマ・シティで、アモンズ・サウンドは、演奏中に腕を骨折するという形で終焉を迎えます。肺ガンの合併症で骨が弱くなっていたんでしょう・・・

 享年49歳。あの重厚さ、あの貫禄のサウンドからは信じられない若さでした。

 死後40年経った今も、アモンズの音色はやっぱり私達の心を掴んで離さない。ヘヴィー級チャンピオンであり続けています。

参考資料》: 米国公共放送 NPR Documentary: Gene Ammons ‘The Jug’

Living with Jazz / Dan Morgenstern

Jazz and Death: Medical Profiles of Jazz Greats / Frederick J. Spencer

Jazz Wax : Gene Ammons :  Up Tight

ジーン・アモンズの肖像(1)

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 2月14日(土)「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ジーン・アモンズの名作『Boss Tenor』(’60 Prestige)が登場します。アモンズがケンタッキーの麻薬更生施設から出所した直後に録音されたこの作品、2年間のブランクなど微塵も感じさせない圧倒的なワン・ホーン・アルバム!

 アモンズのサウンドが大好き!極上の大トロ、口当たりがよく滑らかで、とびきり脂が乗っているのに、ほんのり甘い余韻が残ります。

 シカゴの王者、”Boss tenor”と謳われたアモンズは、ブギウギ・ピアノの帝王、アルバート・アモンズの王子として産まれ、幼い時から桁外れのテクニックを持ちながら、技に溺れない父のクールな姿勢を見て育った。

 <天井桟敷の人々に愛されて>

 

 アモンズのプレイをこよなく愛し、どんな時も応援し続けたのは、評論家の先生やジャズ通でなく、「一般大衆」。楽しい時、哀しい時、日常の憂さを忘れたい時、街角のジューク・ボックスにコインを入れて、こぞって聴いたのが”Red Top”、”My Foolish Heart “そして、この『Boss Tenor』の”Canadian Sunset”だった。

 

  バッパー達が崇拝する女神、ビリー・ホリディは1950年代始め、メトロノーム誌の「私のお気に入りレコード」として、アモンズの”My Foolish Heart”に一票を投じた。短い歌の中に恋愛映画丸1本分のドラマを再現してみせるレディ・ディが大いに共感するプレイだったに違いありません。それを聴いた他のテナー奏者達のジェラシーのため息が聞こえてきそう… ブルースもバラードもバップ・チューンでも、アモンズのプレイにはドラマがある。ビバップの型をしっかり持って、溢れ出るメロディー、溢れ出るソウル、なによりもそのタイタニックなサウンド!一度でいいから生音を聴いてみたかった!彼の代表作を皆と一緒に聴けるのが嬉しくて、少し紹介。

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   数多のテナーの巨人たちの代表アルバムに参加してきたトミー・フラナガンは、後年、こんな事を言っている。

 「録音に際するテナー奏者というものは、自分の準備は万端だということを、いつも実感した。どんな曲をやろうとも(またやらされようとも)、テイクを重ねようとしない。1テイクでビシっとキメてしまう。」

 ジーン・アモンズも、その通り。同郷シカゴ出身で、10代から長らくレギュラー・ピアニストを努めたジュニア・マンスも、米国公共放送のアモンズ特集番組『Boss Tenor』で同じことを証言していました。即興演奏家として、いかなる状況でも、いかなるプレイをすべきか、全く迷いがないという事は、まるで「剣豪」の世界! 

 <生い立ち>

 

 ユージーン・アモンズは、1925年、シカゴ生まれ、皆さんがご存知のように、父はブギウギ・ピアノの帝王、アルバート・アモンズで、母もピアニストという音楽一家。いわばサラブレッド。子供の頃から、ミード・ラクス・ルイスやピート・ジョンソンといった強力なブギウギの巨匠達が家に出入りし、ピアノの至芸を聴いて育った。だから、”ソウル・ジャズ”というジャンルのない時代、人の心をわし掴みにするような、そういうプレイになったんですね。幼なじみのテナー奏者、ヴォン・フリーマンは10才になるかならない少年時代、アモンズ家でサックスを吹いていると、アモンズのお母さんから、「あんたは良い耳をしているのはわかるけど、これからは、譜面をちゃんと読んで、和声を勉強しなくちゃだめよ!」と言われた。ここから、自分のサックス人生が変わったと言っています。 

captain.jpg  シカゴの名門 黒人高校、デュ・セーブル校に入学してからは、名教師のほまれ高い”キャプテン”ウォルター・ダイエットに師事し、さらに腕を磨きました。元々ヴァイオリン奏者であったダイエットは、シカゴの高校の音楽監督として、選抜生徒によるレヴューを毎年プロデュースした。レヴューは毎年大人気、収益は教育資金基金となりました。鬼のように厳しい指導で有名でしたが、各自の個性を最大限に伸ばす教育法で、ナット・キング・コール、ダイナ・ワシントン、ミルト・ヒントン(b)、ジョニー・グリフィン(ts)、クリフォード・ジョーダン(ts)とキラ星の如く多くのスターや名手を輩出した偉人です。

 <バップ・エリート集団-ビリー・エクスタイン楽団>

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 Eckstine’s jazz band at the Savoy Ballroom with saxophone players Gene Ammons, Leo Parker, John Jackson, Bill Frazier, and Dexter Gordon. Tommy Potter was on bass and Art Blakey was on drums, circa 1944-1945.

 

  高校卒業後すぐさまキング・コラックス楽団に入団、中西部の巡業に出ます。その頃にはアモンズの崇拝する二人の巨匠、コールマン・ホーキンスの強靭さと、レスター・ヤングのリラックス感と繊細な陰影を、親から受け継いだアーシーな味わいとブレンドして、自分のサウンドを作り上げた。まだ18才の彼のサウンドにいち早く注目したのがビリー・エクスタインで、翌年、エクスタインが組織したビバップのドリーム・バンド、ビバップ・ビッグバンドに入団、デクスター・ゴードン達とともにテナーのソロを分けあいました。このバンドの十八番”Blowing the Blues Away”では、エクスタインが””Blow Mr. Gene, blow Mr. Dexter too”と歌って、テナー・バトルを促すのが楽しいです。

t_jughead2_170.jpg ある時、エクスタインが団員のためにステージ用の小粋なストロー・ハットを調達したのですが、アモンズだけ頭が大きくて入らなかった。それを観たエクスタインが、当時の漫画のキャラクターで、王冠みたいな帽子を頭のてっぺんにちょこっと乗っけた”Jugheadジャグヘッド”みたいだと言ってアモンズに付けたニックネームが”Jug”だったんです。

この頃、他の楽団員と同様「ほんの好奇心から」ヘロインに手を出したアモンズは、僅か50年に満たない人生の2割の年月を獄中で過ごすことになります。マイルス・デイヴィスがヘロインに手を出したきっかけはアモンズだった。

 

  バッパーのドリーム・チーム、エクスタイン楽団が、経済的な理由で解散を余儀なくされたアモンズは、自分おバンドを率いて独立、1947年、妻のニックネームをタイトルにした”Red Top”を録音、彼の初ヒットになり、本拠地シカゴでの「テナー・サックスの王者=Boss Tenor」の名前を欲しいままにしました。(続く)