ジーン・アモンズの肖像(1)

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 2月14日(土)「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ジーン・アモンズの名作『Boss Tenor』(’60 Prestige)が登場します。アモンズがケンタッキーの麻薬更生施設から出所した直後に録音されたこの作品、2年間のブランクなど微塵も感じさせない圧倒的なワン・ホーン・アルバム!

 アモンズのサウンドが大好き!極上の大トロ、口当たりがよく滑らかで、とびきり脂が乗っているのに、ほんのり甘い余韻が残ります。

 シカゴの王者、”Boss tenor”と謳われたアモンズは、ブギウギ・ピアノの帝王、アルバート・アモンズの王子として産まれ、幼い時から桁外れのテクニックを持ちながら、技に溺れない父のクールな姿勢を見て育った。

 <天井桟敷の人々に愛されて>

 

 アモンズのプレイをこよなく愛し、どんな時も応援し続けたのは、評論家の先生やジャズ通でなく、「一般大衆」。楽しい時、哀しい時、日常の憂さを忘れたい時、街角のジューク・ボックスにコインを入れて、こぞって聴いたのが”Red Top”、”My Foolish Heart “そして、この『Boss Tenor』の”Canadian Sunset”だった。

 

  バッパー達が崇拝する女神、ビリー・ホリディは1950年代始め、メトロノーム誌の「私のお気に入りレコード」として、アモンズの”My Foolish Heart”に一票を投じた。短い歌の中に恋愛映画丸1本分のドラマを再現してみせるレディ・ディが大いに共感するプレイだったに違いありません。それを聴いた他のテナー奏者達のジェラシーのため息が聞こえてきそう… ブルースもバラードもバップ・チューンでも、アモンズのプレイにはドラマがある。ビバップの型をしっかり持って、溢れ出るメロディー、溢れ出るソウル、なによりもそのタイタニックなサウンド!一度でいいから生音を聴いてみたかった!彼の代表作を皆と一緒に聴けるのが嬉しくて、少し紹介。

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   数多のテナーの巨人たちの代表アルバムに参加してきたトミー・フラナガンは、後年、こんな事を言っている。

 「録音に際するテナー奏者というものは、自分の準備は万端だということを、いつも実感した。どんな曲をやろうとも(またやらされようとも)、テイクを重ねようとしない。1テイクでビシっとキメてしまう。」

 ジーン・アモンズも、その通り。同郷シカゴ出身で、10代から長らくレギュラー・ピアニストを努めたジュニア・マンスも、米国公共放送のアモンズ特集番組『Boss Tenor』で同じことを証言していました。即興演奏家として、いかなる状況でも、いかなるプレイをすべきか、全く迷いがないという事は、まるで「剣豪」の世界! 

 <生い立ち>

 

 ユージーン・アモンズは、1925年、シカゴ生まれ、皆さんがご存知のように、父はブギウギ・ピアノの帝王、アルバート・アモンズで、母もピアニストという音楽一家。いわばサラブレッド。子供の頃から、ミード・ラクス・ルイスやピート・ジョンソンといった強力なブギウギの巨匠達が家に出入りし、ピアノの至芸を聴いて育った。だから、”ソウル・ジャズ”というジャンルのない時代、人の心をわし掴みにするような、そういうプレイになったんですね。幼なじみのテナー奏者、ヴォン・フリーマンは10才になるかならない少年時代、アモンズ家でサックスを吹いていると、アモンズのお母さんから、「あんたは良い耳をしているのはわかるけど、これからは、譜面をちゃんと読んで、和声を勉強しなくちゃだめよ!」と言われた。ここから、自分のサックス人生が変わったと言っています。 

captain.jpg  シカゴの名門 黒人高校、デュ・セーブル校に入学してからは、名教師のほまれ高い”キャプテン”ウォルター・ダイエットに師事し、さらに腕を磨きました。元々ヴァイオリン奏者であったダイエットは、シカゴの高校の音楽監督として、選抜生徒によるレヴューを毎年プロデュースした。レヴューは毎年大人気、収益は教育資金基金となりました。鬼のように厳しい指導で有名でしたが、各自の個性を最大限に伸ばす教育法で、ナット・キング・コール、ダイナ・ワシントン、ミルト・ヒントン(b)、ジョニー・グリフィン(ts)、クリフォード・ジョーダン(ts)とキラ星の如く多くのスターや名手を輩出した偉人です。

 <バップ・エリート集団-ビリー・エクスタイン楽団>

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 Eckstine’s jazz band at the Savoy Ballroom with saxophone players Gene Ammons, Leo Parker, John Jackson, Bill Frazier, and Dexter Gordon. Tommy Potter was on bass and Art Blakey was on drums, circa 1944-1945.

 

  高校卒業後すぐさまキング・コラックス楽団に入団、中西部の巡業に出ます。その頃にはアモンズの崇拝する二人の巨匠、コールマン・ホーキンスの強靭さと、レスター・ヤングのリラックス感と繊細な陰影を、親から受け継いだアーシーな味わいとブレンドして、自分のサウンドを作り上げた。まだ18才の彼のサウンドにいち早く注目したのがビリー・エクスタインで、翌年、エクスタインが組織したビバップのドリーム・バンド、ビバップ・ビッグバンドに入団、デクスター・ゴードン達とともにテナーのソロを分けあいました。このバンドの十八番”Blowing the Blues Away”では、エクスタインが””Blow Mr. Gene, blow Mr. Dexter too”と歌って、テナー・バトルを促すのが楽しいです。

t_jughead2_170.jpg ある時、エクスタインが団員のためにステージ用の小粋なストロー・ハットを調達したのですが、アモンズだけ頭が大きくて入らなかった。それを観たエクスタインが、当時の漫画のキャラクターで、王冠みたいな帽子を頭のてっぺんにちょこっと乗っけた”Jugheadジャグヘッド”みたいだと言ってアモンズに付けたニックネームが”Jug”だったんです。

この頃、他の楽団員と同様「ほんの好奇心から」ヘロインに手を出したアモンズは、僅か50年に満たない人生の2割の年月を獄中で過ごすことになります。マイルス・デイヴィスがヘロインに手を出したきっかけはアモンズだった。

 

  バッパーのドリーム・チーム、エクスタイン楽団が、経済的な理由で解散を余儀なくされたアモンズは、自分おバンドを率いて独立、1947年、妻のニックネームをタイトルにした”Red Top”を録音、彼の初ヒットになり、本拠地シカゴでの「テナー・サックスの王者=Boss Tenor」の名前を欲しいままにしました。(続く)

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