ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」Vol.5が出来ました。

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「トミー・フラナガンの足跡を辿る」編集委員会のG委員長や、貴重な時間を割いて、毎月、講座の度にテープ起こしに多大な労力を費やしてくれる寺井尚之ジャズピアノ教室のあやめ副会長、そして、講師、寺井尚之、皆の苦労の5番目の結晶が、やっととなりました。
 今回は’61年~’64年の全録音アルバムを網羅しています。読みどころは、何と言ってもコールマン・ホーキンス(ts)の一連のアルバムについての解説だ!
 コールマン・ホーキンス(1904-69)
 ありとあらゆるジャズの巨匠と共演し尽くした感のあるフラナガンが脇に回った歴史的名盤は、数限りなくあるのですが、コールマン・ホーキンスとの共演作は、少し意味合いが違います。
 トミー・フラナガンが、ボスとして、人間として最も敬愛した人は、J.J.ジョンソンでもエラ・フィッツジェラルドでもなく、勿論マイルスやコルトレーンでなく、ホーキンスだったのです。
昨日、ダイアナ・フラナガンと講座本について色々話したのですが、彼女はこう言っていた。「Good Old Broadway, No Strings,…ほんとにいいアルバムよね!トミーは、ホークと録音したブロードウェイの作品集をほんとに気に入っていて、いつもその話をしていたわよ。あんた、早く講座本を英語に訳しなさいよ。忙しいって?何がそんんなに忙しいのよ?」
  『テナーサックスの父』と呼ばれるコールマン・ホーキンス(1904-69)、フラナガンがレギュラー・ピアニストとして共演していた晩年の60年代。実は一般の評論界では、音色も衰えた下降期と言われており、本書に収録しているアルバム群は、全く正当な評価を受けていません。フラナガンは、そういうステレオタイプに対して、真っ向から反対していました。
 「生」ジャズ講座に出席された皆さんの間でも、コールマン・ホーキンスのブームが起こって、今も懸命に原盤を集めている人がいる。

 寺井尚之の解説は、音楽的な楽しみどころを判りやすく教えてくれるし、これらのアルバムが、全く準備なく、スタジオ入りしてから、レコード会社が提示する曲目のメモと市販の譜面だけを元に、ホーキンスがその場でどんどんアレンジして、簡潔にメンバーに意図を伝え、録音した様子を見せてくれます。
 会社の企画に従ってスタジオでプレイするだけ、そして演奏後は何を演ったのかも忘れてしまう。普通なら、コマーシャルな演奏になって当然の「お仕事」です。
 デューク・エリントンは、お客様の顔を見ずにやっつけ仕事をする、心のこもらないスタジオ・ワークを「音楽の売春行為」とさえ呼び糾弾しました。ところが、ホーキンスの、一連のブロードウェイ・ミュージカル集は、手塩にかけたお気に入りの楽曲に対するのと同じ温かみと品格が感じられる。
 何故なんだろう?
寺井尚之の解説からは、コールマン・ホーキンスという巨人の持つ、音楽に対するの余りある愛情というものが浮き彫りになっていく。
常に音楽的に演奏することしかできない。誠意ある演奏しかできない!高潔なミュージシャンの魂が見えて来る。トミー・フラナガンはホークのそういう点を愛し、敬ったのに違いない!
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 寺井尚之がトミー・フラナガンから直接聞いたホーキンスのエピソードに加え、特別付録として、ホーキンス・カルテットの同期生、名ドラマーエディ・ロック(ds)のインタビューの日本語訳が付いています。エディさんに直接インタビューをすることも考えたのですが、締め切りに間に合わなかったのと、ハーレムのジャズ・ミュージアムの講演会で、このインタビュアーのローレン・ショーンバーグさんが、私達が訊きたかったことを殆ど全て質問していました。ショーンバーグさんは名テナー奏者であり優れたジャズ史家です。ですから、エディさんも本音で応えている。ジャズ・ファンでなくとも、とっても面白くて為になる事が沢山見つかりますよ!原文はこちらです!
サー・ローランド・ハナ(p)3のコンサートで意気投合!寺井尚之とエディ・ロックさん(ds)
   Bean & the Boys
左からフラナガン、コールマン・ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)

 コールマン・ホーキンスは、テナーサックスという楽器を、音楽の世界で初めて主役にした偉人だけど、創始者の地位に安住することはなかった。ホーキンスの蒔いた種から育ったビバップ革命に身を投じ、クラシックにも造詣深い真の音楽家だった。そんなホークが晩年、心から愛したのがデトロイトのミュージシャン達で、メジャー・ホリー(b)も、エディ・ロック(ds)もデトロイト出身、トミー以外にホーキンスがよく使ったハンク・ジョーンズもサー・ローランド・ハナも勿論デトロイトの水に洗われたピアニストなんです。ホーキンスは『デトロイトのピアニストの美点は、ピアノを“打楽器”でなくて、ちゃんとピアノとして弾くことだ。』と言っている。
 寺井尚之のジャズピアノ教室も、ピアノをピアノとして弾けるように指導しているから大変です。
 対訳係りの私は、エディさんのインタビュー以外にも、パット・トーマスという女性歌手の希少盤の歌詞を作りました。この作品には、伴奏者のクレジットがないのですが、他の演奏者達の謎解きもお楽しみ!
 アルバムには、 サド・ジョーンズの名盤、Detroit-New York Junctionの<Blue Room>や、当ピアノ教室の課題曲(Ⅰ)<There Will Never Be Another You>などのスタンダード曲の歌詞対訳が掲載されています。パット・トーマスの歌詞解釈はとっても素直なので、音源が聴けなくても参考になると思います。
 
有名盤としては、強烈なインパクトのあるマルチ・リード、ローランド・カーク参加の『Out of the Afternoon/Roy Haynes』の章は、レコードを聴きながら、順番に読んで欲しいです。ローランド・カークが次々繰り出す、各トラックに登場する色んな楽器をちゃんと順番に解説している本も、余りないのではないかしら?
 渋いところでは、’60年代、ハーレムのブラック・ジャズ・シーンで最もお客の入ったテナー奏者、ブラック・ジャズ・ソサエティの“杉さま”と言える、Willis “Gator” Jacksonの『Shuckin’ 』。私的講座ヒット作です。ウィリス・ジャクソンは、私の好きなへヴィー級歌手ルース・ブラウンの夫君でもあり、サラ・ヴォーンとも親交深かった。
 いずれコールマン・ホーキンスのことは、機会を改めてInterludeでゆっくり書きたいと思っています。
 ジャズ講座新刊は、今のところJazz Club OverSeasで販売中。特別価格\3,000です。
 来週には、ジャズの専門店、ミムラさんや、ワルティ堂島さんにも置いていただく予定です。大阪まで買いに来れない方は、OverSeasまでどうぞお気軽に
 明日は、長年皆様にご愛顧頂いたフラナガニアトリオの最後のコンサート! 
 心を込めて皆さんをお迎え申し上げます。
CU

寺井珠重の対訳ノート(9)  <Caravan>

Son_of_Sheilk.jpg  無声映画の大美男スター、ルドルフ・ヴァレンティノで大当たりした「キャラヴァン」映画、“熱砂の舞”
<キャラバン>は、寺井尚之の隠れた18番、ピアノとドラムのスリリングな掛け合いから、あのテーマが始まると、いつもお客様は大喜び!
 今月のジャズ講座では、トミー・フラナガン3の傑作アルバム『トーキョー・リサイタル(A Day in Tokyo)』の<キャラバン>が聴けた。キーター・ベッツ(b)の地響き立てて唸るようなビートと、ギラギラ光ってズバズバ時空を切る、黒澤映画のチャンバラみたいな、ボビー・ダーハム(ds)のスティックさばき、トミー・フラナガンが二人の持ち味を生かし、息を呑むようなトラックだった。
 来月のジャズ講座では、このアルバムから5ヶ月後、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルで同じトリオをバックにエラ・フィッツジェラルドが歌う<キャラバン>が次回のジャズ講座で聴けます。
ella_montreux_75.JPGモントルーはスイス、レマン湖畔の高級リゾート、このジャズ・フェスは当時カジノの中で行われていたのです。
 後で付いた歌詞は、砂漠を行く愛と冒険の旅路、レマン湖でヴァカンスやつかの間のロマンスを楽しむお客様にぴったり!下はエラが歌った1コーラス目です。

Caravan
曲:Juan Tizol,Duke Ellington/詞:Bob Russell
Night
And stars above that shine so bright,
The mystery of their fading light,
That shines upon our caravan.
Sleep
Upon my shoulder as we creep
Across the sand so I may keep
This mistery of our caravan.
You are so exciting,
This is so inviting,
Resting in my arms
As I thrill to the magic charm of you
With me here beneath the blue     
My dream of love is coming true
Within our desert caravan…
 
夜の砂漠、
輝く満天の星、
流れて消える神秘の流星は、
キャラバンに降り落ちる。
私に肩にもたれて、
眠っておいで。
砂漠を進む、キャラバンの
長き旅路に、
愛の魔法から醒めぬよう。
ときめく心、
わが腕に休む君、
君の妖しい魅力に囚われる。
空の下、君と寄り添い、
恋の夢は叶う、
愛の砂漠、二人のキャラバン…
 

   星降る夜空、砂漠の海、静かに進むキャラバン隊…異国の地に繰り広げられる愛と冒険のスペクタクル!歌詞のムードは、第一次大戦後に大流行したルドルフ・ヴァレンチノのサイレント映画(上の写真!)や、後に「アラビアのロレンス」として日本でも有名になった、砂漠の英雄、T.E. ローレンスの実話などの「砂漠ブーム」を強く意識したものです。
  実際の作曲者、フアン・ティゾールは、エリントン楽団のバルブ・トロンボーン奏者です。20歳の時、プエルトリコから第一次大戦後の好景気に沸く本土に渡って来た。それは、はラジオがやっと出来た頃、間違ってもTVなんかない! 当時、庶民の娯楽は、劇場に行って、サイレント映画と“実演”つまりバンド演奏やショーを楽しむことくらい。劇場のピットOrch.の楽員がとにかく足りなかった時代。
 プエルトリコは、本土よりずっとハイレベルの音楽教育で知られ、即戦力で使える音楽家の宝庫だった。だから、大勢のプエルトリカンがスカウトされてやって来た。ティゾールもその一人です。彼も劇場映画館のオーケストラ・ピットで、ヴァレンチノが砂漠の首長(シーク)として活躍する大スペクタクル映画、「血と砂」や「熱砂の舞」に女性達が失神するほどうっとりするのを観ていたに違いない。
juan_tizol.jpgフアン・ティゾール(1900-84)
 ティゾールは、<キャラバン>(’36)の他にも<パーディド>など、楽団の為にたくさん作曲している。エリントンやストレイホーンだけでなく、こういう作品を総括したのがエリントニアなんです。
 ’29年に入団し、15年間在籍した後、ハリー・ジェームズ楽団に破格の報酬で引き抜かれましたが、’51年、ジョニー・ホッジス(as)達、主力メンバーがドドっと退団した楽団の危機に、助っ人として再加入した。
 楽団での彼の役割は、アドリブで魅了するソロイストではなく、しっかりとしたテクニックでエリントン・サウンドを支える縁の下の力持ち。ヴァイオリン、ピアノetc…あらゆる楽器に習熟していたから全体を考えプレイした。
 勿論バルブ・トロンボーンでは、どんなに速く広く音符が飛び回るパッセージでも容易く吹ける名手であったから、エリントンは彼の為に、普通のスライド・トロンボーンでは到底演奏不能なパートを書きまくった。そんなティゾールの複雑なラインとサックス陣のとのコントラストが、随一無比のエリントン・サウンドを生んだのです。
 ティゾールの長所はそれだけではありません。「規律」という楽団にとって最も大切なものを守った。本番でもリハーサルでも、仕事場に、誰よりも早く入ってスタンバイしている人だった。アメリカの一流ジャズメンは、日本よりずっと体育会系で、ファーストネームで呼び合っていても、上下関係が凄いのです。先輩が早く入っていたら、いくら「飲む=打つ=買う」三拍子揃ったバンドマンでも、おいそれ遅刻など出来ません。こういうメンバーがいると、バンマスはどんなに楽でしょうか!
 故に、ティゾールはエリントンの代わりにコンサート・マスターとして、リハーサルを仕切るほど重用されました。ですからずっと後から来て側近となったビリー・ストレイホーンと確執があったのは、むしろ当然のことですよね!
 <キャラバン>のエキゾチックなサウンドは、サハラ砂漠ではなく、西インド諸島で生まれたフアン・ティゾールのものだった! エリントンは『ビバップとは、ジャズの西インド的な解釈である。』と言っている。
 この作品にも、ビバップを予見するように、オルタードと呼ばれるスケールが多用されています。
 それは、ティゾールをエリントンに結びつけた第一次大戦から、社会の変化につれて、ビバップへと連なって行く。
 その道筋もまたInterludeにとっては、愛と冒険の一大スペクタクル!
 
 次回のジャズ講座は6月14日(土)、ジャズ講座の本第5巻も新発売!
CU

ビリー・ストレイホーン(1915-67) 生涯一書生

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 トミー・フラナガンは、ある午後、OverSeasで『Tokyo Recital』を聴きながら、寺井尚之に向かって言った。『ビリー・ストレイホーンは、一生エリントンの書生(a boarder)だった。そうとは書いていなくても、ストレイホーンが作ったものには、こっそりと自作と「ハンコ(stamp)」が押してあるのだ。』
 Boarder…どういうこっちゃ? フラナガンの言うBoarder…には、[下宿人]や、「寮生」というよりも、『書生』に近い意味合いが聞き取れた。そんなもんアメリカにあるのかしら? 
 ビリー・ストレイホーン…OverSeasのスタンダードナンバー、<チェルシー・ブリッジ>や<レインチェック><パッション・フラワー>の作者、なんと言っても有名なのは <A 列車で行こう>や<サテン・ドール>だ。
 トミー・フラナガン青年が、『Overseas』の録音前、街で見かけたビリー・ストレイホーンに、「今度あなたの曲を録音させていただきます。」と挨拶したら、出版社までトミーを誘い自作の譜面の束をどさっとくれた紳士だ。エリントン楽団は何度もTVで観たけど、ストレイホーンは映ってなかった…「書生さん?」どんな人なんやろう? 
 それから私は、ストレイホーンの関連する文書を手当たり次第に読んだ。丁度、’92年頃に、米ジャズ界でストレイホーン・ブームが起こり、色んな雑誌でストレイホーンの特集が組まれた。数年後、音楽ジャーナリスト、David Hajdu (日本ではデヴィッド・ハジュだけど、本当はハイドゥと読むらしい。)が書いたストレイホーン伝、『ラッシュ・ライフ』が、ジャズ界で大センセーションを巻き起こした。
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  何故なら、ビリー・ストレイホーンはゲイの市民権のない時代、ホモセクシュアル故に、正当な評価を得られなかった孤高の天才音楽家として、偉大なるデューク・エリントンの実像は、彼の天才を踏み台にして名声を得たバンド・リーダー、という構図で描いていたからだ。
 ジミー・ヒースやサー・ローランド・ハナ達、良識派は『あんな本あかんっ!』とカンカンになっていた。だけど、こっそり読みました。
  
 『生涯一書生』とは禅の言葉、楽天の監督、野村克也はそれに倣い「生涯一捕手」と言うけど、ストレイホーンは禅の境地だったのだろうか?それとも…
<いじめられっ子とヒーローの出会い> 
 ビリー・ストレイホーンは、エリントンより16才年下だ。お坊ちゃん育ちのエリントンと違い、生活は苦しかった。生まれつき体が弱く、母と祖母からは溺愛されたが、アル中で工場労働者の父から虐待され、学校では、Sissy(女っぽい男)といじめに合ったという。ただし、音楽の才は並外れていて、ピッツバーグの高校時代には、楽器なしに考えるだけでオーケストラのフルスコアを書き、いじめっ子も「天才」と一目置いた。
 ビリーはクラシック音楽家を志すのですが、黒人学生には音大への奨学金は出ない。将来の道を閉ざされたビリーは高校を中退、ジャズにクラシックと同じ美点があるのに気づき、ドラッグ・ストアでアルバイトしながら、地元でミュージシャンとして活動していた頃、エリントン楽団が町にやって来た。
 それは、ビリーが23歳の時。ビリーを応援するバンド仲間が、ツアー中のエリントンにアポを取ってくれたのだ。ピアノの腕と作詞作曲、編曲の才能に驚いたエリントンは、即編曲の仕事を与えた。<Something to Live For>は、その時に持参した作品です。
 翌年から、ビリーはNYで、エリントンの助手として仕える。エリントン楽団のテーマ、ハーレムの香り漂う<“A”列車で行こう>は、NYのエリントンを訪ねた時、手土産代わりに持参した作品で、ピッツバーグで、A列車に乗ったことのないビリーが書いたもの、最初は作風がエリントンのイメージと違うと、ボツになった作品だったのです。
 
<“A”列車で行こう>
 師匠であるエリントンが修業中のビリーに命じたことは唯一つ。「観て覚えろ (Observe)」だったと言います。
最初は、下働きのストレイホーンの存在感が一挙に高まったのは、’42年アメリカで起こった音楽戦争、『録音禁止令』のおかげだった。『録音禁止令』(Recording Ban)とは大手著作権協会ASCAPが、著作料の大幅値上げを一方的に決めた為に、音楽家協会とラジオ局が、ASCAPに属する楽曲の放送や録音を、全面的にストップしたという事件です。エリントンの曲は全てASCAP帰属だから、レコーディングもラジオ放送もできない。ところが、録音禁止令の直後にラジオ出演が入っていた。どうしても48時間以内に、エリントン名義でない大量の楽団スコアを用意しなければならない。絶体絶命だ!
 ストレイホーンと、エリントンの息子、マーサーが、不眠不休で仕事をして、何とかレパートリーの準備をする。今までの楽団のテーマ・ソング<セピア・パノラマ>に替わって使われたのが<“A”列車で行こう>で、世界中でヒットした。その間、エリントンはどうしていたかって?もちろん楽団を率いて仕事です。だからバンドリーダーであり、大作曲家というのは、例外中の例外なのです。
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<スイーピー&モンスター>
 自作曲が楽団のテーマになり、全幅の信頼を置かれたビリーは、文字通りエリントンの影武者として、演奏に多忙なエリントンの代わりに、作曲、編曲、映画やショウの監督、レコーディングのピアノ演奏に至るまでエリントン名義で担当する。寺井尚之ジャズピアノ教室で配布しているエリントン著の「ブルース教本」も実はストレイホーンの執筆だ。モンスター、スイーピーと呼び合うエリントンとストレイホーンの仕事は、どこからどこまでが区切りか本人すら判別出来ない程緊密で、今も音楽史上最高の共同作業と言われる。その事実は業界の人だけが知ることで、一般には公表されていなかったのです。
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 スポットライトが当たらない代わりに、ビリーは自由気ままな生活を享受します。兵役を免れ、偽装結婚をする必要もなく、ボーイフレンドと豪華なアパート暮らし、高価な美術品を集め、創作活動に没頭した。多くの州で同性愛が逮捕された時代、公民権法もなかった時代のことです。
 おまけに、多額の生活費用は、全てエリントン自身が決済していた。つまり、ストレイホーンに給料はなく、エリントンがポケット・マネーで彼を養っていた。フラナガンの言うように、雇用関係のない『書生』だったのです。彼がこのまま世間知らずで一生送れたらどんなに良かっただろう。
wlena.jpg  レナ・ホーンとストレイホーン
 
<迷子のスイーピー>
 スイーピーとモンスターの稀有なパートナーシップは、実の息子、マーサー・エリントンや、生え抜きのファン・ティゾールなど、多くの取り巻きとストレイホーンの間に軋轢を生じ、状況は変わっていきます。
 反面、ストレイホーンの味方には、クラーク・テリーやジョニー・ホッジス達がいた。意外にも男臭さ溢れるテナー、ベン・ウェブスターや、夭折のベーシスト、ジミー・ブラントンも親友だ。中でも仲良しだったのが絶世の美人歌手、レナ・ホーンだ。
 彼女と夫の編曲家レニー・ヘイトン(マーサー・エリントンの同窓生)は、ストレイホーンに音楽出版会社を作ろうと独立を誘う。著作権が莫大な金額を生むと教えた。世間知らずのビリーは、自分に著作権がないことに初めて愕然とするのです。まるで、リンゴを口にしたアダムとイヴの話の様に、ビリーは、気楽に思えたエリントンの庇護から独立を望むのです。
 それを知ったフランク・シナトラも、音楽監督としてビリーを好条件で引き抜こうとしますが、エリントンは、裏で手を回して計画を阻止していく。楽団のスター・プレイヤーは放出しても、スイーピーを外に出すことは徹底的に拒否したのです。時は’48年、ビッグバンド凋落の時代でエリントンが経済的に難しい時代というのを忘れてはいけません。結局、ビリーは楽団を離れて活動するのけれど、ブロードウエイも、歌の世界でも、「知名度が低い」という現実をつきつけられ挫折。放蕩息子の帰還のように、’51年にはエリントンの元に戻ります。
<ラッシュ・ライフ>
 再び二人の共同作業が始まって、更にエリントンはステイタスを高めるのですが、今度はビリー・ストレイホーンを出来るだけ前面に出して気遣いを示します。二人の第二期黄金期の代表作、『くるみ割り人形のジャズ・ヴァージョン』のジャケットに、二人の顔写真が並んでいるのは、エリントンの気遣いを象徴したものだ。それでも、抵抗勢力との確執は続いた。エリントンという大所帯にはビリー・ストレイホーンの名声は別不要なものだった。ストレイホーンが終生、名声を得られなかったのは、人間としてのエリントンより、エリントンが抱える組織の事情が大きかった。
Duke Ellington - The Nutcracker Suite
 ナット・キング・コールがヒットさせた<ラッシュ・ライフ>には、そんな彼の行き場のない思いが感じられます。
 焦燥感を紛らわせるために、父親同様、酒に溺れそうになるストレイホーンにとって、希望を与えてくれたのが、キング牧師と自由公民権運動です。フラナガンや寺井の得意とするU.M.M.Gは、同じキング牧師の支援者で、ボランティア活動に貢献したエリントンの主治医に捧げた曲なんです。でも、ワシントン大行進の頃にはストレイホーンは食道がんに侵され、今までのような享楽の生活は叶わなくなっていた。
 エリントンは、病魔と闘うストレイホーンの最期まで、経済的な援助を続けた。リノのカジノで悲報を受けた時には、その場で泣き崩れたと言う。ストレイホーンの葬儀でのエリントンの表情、エリントンの音楽と同じように、言葉では言い表せない深い思いが読み取れて、どんな名画のシーンよりも心を打たれます。
 ハイドゥの言うようにエリントンはストレイホーンを利用した打算的な人間だったでしょうか?私にはそう思えない。エリントン楽団が亡くなったストレイホーンに捧げたアルバム、『And His Mother Called Bill』(’67)を聴くと、どうしてもそうは思えないのです。
エリントンやストレイホーンを知らない人も、このアルバムは一度聴いてみて欲しい!
 エリントンは自伝にこんなことを書いています。
 「芸術家たるもの、自分の信条は、言葉であれこれ言うべきものではない。自分の作品で表現することこそ芸術家の使命なのだ。」

寺井珠重の対訳ノート(8) <Something to Live For>

Billy_strayhorn-Duke_ellington.jpeg 左:デューク・エリントン、右:ビリー・ストレイホーン 
 昨日のジャズ講座では、待望の『Tokyo Recital/ Tommy Flanagan3』を皆で聴くことが出来ました!エリントン楽団の名演をピアノトリオで演るには、キーを変え、キーター・ベッツ(b)と、ボビー・ダーハム(ds)の妙技を120%生かす…フラナガンの頭の中が講座で少し覗けた気がしました。
  寺井尚之が歌詞付きの譜面を出して解説した名曲が今も心の中で鳴っている。それは、青春の危うさと、希望の炎が、陽炎(かげろう)の様にきらめく不思議なバラード、<Something to Live For サムシング・トゥ・リブ・フォー>、OHPに出された五線紙上の歌詞が余りに小さくて、もったいなかった。だって、トミー・フラナガンのピアノは、この歌詞をストレートに歌い上げたものだったから。
 寺井の膨大な譜面には、歌詞を書き込んだものや、対訳まで横に付けているものが多い。
 ストレイホーンが二十歳になるかならない青春時代に書いたものです。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの共作とクレジットされているけど、実はストレイホーンが初めてエリントンを訪ねた際、持参した譜面の中で一番気に入られた曲だと言います。早くも翌年には、レコーディング(’39)された。現実のビリーは、ピッツバーグで暖炉も別荘もなく、アル中の父から家庭内暴力すら受けていたと言います。だけど、この作品は現実逃避のファンタジーというには、メロディも歌詞も余りに愛らしい。
 昨夜、歌詞が小さすぎて判りづらかった皆様に、それから、昨日だけよんどころない事情で来れなかった、いつもの仲間に感謝を込めて!
 
Something to Live For/ Billy Strayhorn/Duke Ellington


<Verse>
I have almost everything
 a human could desire,
Cars and houses, bearskin rugs
To lie before my fire,
But there’s something missing,
Something isn’t there,
It seems I’m never kissing
The one whom I could care for,

<Chorus>
I want something to live for,
Someone to make my life an adventurous dream
Oh, what wouldn’t I give for
Someone who’d take my life and make it seem
Gay as they say it ought to be.
Why can’t I have love like that brought to me?

My eye is watching the noon crowds,
Searching the promenade,
Seeking a clue
To the one who will someday be
My something to live for.

<ヴァース>
 人がうらやむ贅沢も、
 殆ど私は手に入れた。
 車や家や別荘も、
 熱い暖炉のその脇の、
 熊の毛皮の敷物も…
 なのに何かが欠けている。
 どうやら、私にないものは、
 本当の恋人、燃える恋。

<コーラス>
 求めるのは生きる喜び、
 冒険の夢を見せてくれる人、
 私の命を輝かせ、
 それが定めと言うのなら、
 その人のために進んで死ねる、
 そんな恋がしたいのに。

 昼間の喧騒の町、
 私は人の行きかう通りを探す。
 運命の糸口が開けるように、
 私の生きがいとなる、
 その人の手掛かりを求め。



下は、エラ・フィッツジェラルドとデューク・エリントン楽団のヴァージョン、ピアノはフラナガンが伴奏者として絶賛するジミー・ジョーンズです。
 
 トミー・フラナガンのTokyo Recital (Pablo)もぜひ聴いてみてください!これはもう、最高です。 
CU

トーキョー・リサイタルとデューク・エリントン



 今週の土曜日のジャズ講座には、(別名 A Day in Tokyo)が登場します。
 ’75年2月録音、フラナガンがエラ・フィッツジェラルドとの日本ツアーのオフ日に東京で録音したアルバム。当時大学3回生の寺井尚之は、その4日後に、最終公演地の京都で、トミー・フラナガンに初めて弟子入りを志願し、「人に教える暇があったら、自分の練習をしたい。」と見事に断られた。もし、フラナガンが調子よく「よっしゃ、今日から君は僕の弟子だよ!」と、言っていたら、寺井尚之の今はなかったかも知れない。
 当時のスイングジャーナルを読むと、このアルバムの実質的な製作者であった日本ポリドールが『スタンダード集』を要望したにも関わらず、フラナガンの強弁な主張に押し切られた形で、『エリントン-ストレイホーン集』に成ったと書いてありました。恐らくトミー・フラナガンは、来日前に「リーダー・アルバムを」とだけの録音オファーを受け、長年温めていたエリントン集の構想を、映画の絵コンテのようなしっかりとしたイメージを準備して、東京で録音に臨んだに違いないのです。
 それが土壇場になって、「トミーさん、エリントン集なんたって、そんなもの売れませんや。何とかスタンダードでお願いしますよ。」とか言われたに違いない。フラナガンという人は、そんな時、ピストルで脅されたって札束を積まれたって、、テコでも動かない人ですからね。No!と言ったはずだ。頭から湯気を出しためちゃくちゃコワイ顔が想像できる。
 <Tokyo Recital>が、どれほどの名作かは、ぜひジャズ講座に来て寺井尚之の話を聴いて楽しんで頂きたいと思います。
 ところが、最近は、ジャズが好きでも、デューク・エリントンという名前も”A列車で行こう”も聴いたことがないと言う、若い方々が増えている。時代が変わるという事は、こう言うことなのでしょうか? Oh, My God, 神様、仏様、こりゃ、困った。
 だから、ちょっとザ・デュークとストレイホーンの話をしてみよう!
とは言え、経歴だけでも、アメリカ音楽史となり、楽団メンバーの変遷だけでも、ジャズ人名辞典になる。楽曲を並べると、アメリカン・ヒットパレード。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの世界は、アマゾンの熱帯雨林より奥深い。だから、本当に少しだけ。
 ellington_1.jpg ピアノとワードローブに囲まれたデューク

撮影ハーマン・レオノール

(その1)デューク・エリントン
<明治のぼんぼん>
  “デューク”こと、エドワード・ケネディ・エリントンは、日本で言えば明治32年生まれ。”アンタッチャブル”でおなじみのギャングのボス、アル・カポネ、日本なら川端康成、笹川良一と同い年だ。当時全米で最大の黒人人口を誇った都市、ワシントンDCに生まれた。 父親は、裕福な医師の邸宅の食事やパーティを仕切る有能な執事だった。エリントン少年は、アメリカに人種差別があることも知らず、お坊ちゃまとして何不自由なく育ち、幼少からピアノを習ったが、発表会では片手を先生に手伝ってもらわなければ満足に弾けない劣等生、野球の方がずっと好きだったと自伝に書いている。
Fats_Waller.jpg エリントンの天才仲間、ファッツ・ウォーラー(p)
 
  ハイスクール入学後のエリントン少年は、“ぼんぼん”の例に漏れず、夜遊びを覚えた。プールバーや、浅草ロック座のように、綺麗なお姉さんがしどけなく踊るバーレスクの劇場に出入りする。そのうち、生演奏するピアニストの脇には、必ず美人がはべるという法則を発見し、初めてピアノへの情熱が生まれたのだった。エリントン少年の非凡な点は、女性を追い掛け回すだけでなく、ハスラー達のいかさまの極意や、お客に喜んでチップを払ってもらう術を、即座に会得したところです。例えばピアノ演奏のエンディングでは、わざと腕をオーバーに上げると喝采とチップが増えると言うような実践的テクニックを次々に身につける。電話帳に「芸能なんでも承り」と、一番大きな枠の広告を張り、自分で演奏するだけでなく、芸能事務所や広告代理店など多角経営を行い、破格の収入を得て、高校中退。そんなエリントンにNY進出を薦めたのはファッツ・ウォーラー(p)だ。’23年、エリントンが故郷を出る時に持っていた有り金は、全て道中で散財し、NYに着いた時は一文無しだったが、蛇の道は蛇、天才的な要領の良さで、酒場からコットン・クラブやブロードウエイへと、天井知らずにどんどん出世して行く。
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<禁酒法に学ぶ>
  エリントンがブレイクしたのは禁酒法時代。第一次大戦後、バブル景気に沸くアメリカで施行されたけったいな法律、禁酒法は、結果的にギャングと娯楽産業を大儲けさせた。だって非合法ビジネスは税金を払わなくていいから儲かります。客席は白人オンリーのハーレムの名店《コットン・クラブ》は、毎夜、富豪やセレブで大繁盛、専属バンドのエリントン楽団は全米にラジオ放送され、海外にも名声が轟いた。ジョニー・ホッジス(as)の官能的な響きやクーティ・ウィリアムス(tp)の野生的なプランジャー・ミュートは、絢爛たるハーレム・ルネサンスの栄華と、エキゾチックな肢体をさらすコーラス・ガールなしには生まれなかったのだ。
  エリントン達は、もぐり酒場(スピーク・イージー)で密造酒の作り方も会得した。
 非合法のもぐり酒場で提供される密造酒は、同じ中身でも、A.Bとランク付けされていた。豪華なカップで供されるAは値段が倍違う。大阪人なら、「Bでええわ」と言うところですが、景気の良いお客さんは、例え中身は同じでも、“A下さいっ”と高い方を注文し、女性達に羽振りのよさを見せ付けたのです。容器が違うから、高価な飲み物とそうでないのはひとめで判るのです。(今ならキャバクラのドンペリか?)エリントンは、それを観て「これだ!」と膝を打ったと言います。
エリザベス女王に謁見するエリントン
<音楽にジャンルなし。良い音楽とそうでないものだけ。>
 中身は同じでも、ステイタスを付けよう。 故にエリントンは、ハーレムの一流で終わることなく、禁酒法でギャングが没落し、ハーレムが廃れても、どんどん出世した。ギャングとの黒いつながりも、エリントンは巧みに避ける処世術を持っていた。 ヨーロッパでは、英国皇太子(後のウィンザー公)が“追っかけ”となり、一晩中バンドの近くから離れない。そしてエリントンが出演するイギリスの晩餐会でダイヤのイヤリングを落とした高貴なレディの名文句は世界に発信されたのだ。
 「ダイヤはいつでも買えるけど、エリントンは今しか聴けないのですよ。皆さん、どうぞ、ダイヤなんてお気になさらないで。」
   ’38年にビリー・ストレイホーンと出会い、二人の非公式な共作活動が始まってからは、組曲やクラシックのエリントン・ヴァージョン、バレーに至るまで、創作スケールは更に拡大を続ける。ビートルズやロックに主役の座を奪われたジャズ界から超越した存在になることで生き残りを図り、ジャズの枠に囚われることを徹底的に避けたのだ。
<エリントンの楽器はオーケストラだった。>
 エリントンの革新的な和声解釈はジャズだけでなく、ジャンルの区別なく20世紀の音楽に大きな影響を与えた。エリントンは、楽団メンバーの持ち味を最高に生かした楽曲を創り、自分のピアノのサウンドを絶妙に生かす楽曲を作った。
 留学時にエリントンへの弟子入りを熱望した武満徹は、こんなことを言っている。「エリントンは常にこの音を誰が弾くのかと常に考えて作曲することが出来た。あれほど作曲家冥利に尽きる贅沢はありません。クラシック界では、夢のまた夢のようなことです。」
 以前、ジャズ界のサギ師としてセロニアス・モンクの事を書きましたが、モンクが一番尊敬したのがデューク・エリントンだった。エリントンの痛快なサギ師ぶりは、またいつか書いてみたいけど、それは決して音楽家の内容のなさを小手先の術で補ったのではないのです! むしろ、自分の音楽の崇高さを、正しく世間に認めさせるために使った、「ちょっとした魔法」ではなかったか?
 Duke-Ellington--at-the-Graystone-Ballroom--1933-.jpegトミー・フラナガンが3つの時の、デトロイトでの公演ポスター
 ビッグバンド時代の終焉後も、エリントンは作曲の印税を、ほとんどバンドの給料に宛てて維持したと言いますが、主要なバンドメンバーが抜けても、エリントンは決して動じず、新しいメンバーで新しいバンドの醍醐味をどんどん創って行った。それほど懐の深いエリントンが、ただ一人、独立を徹底的に阻止したスタッフが、ビリー・ストレイホーンだったのです。
 
 次回はビリー・ストレイホーンの天才について、少し話そう!
その前にジャズ講座は10日です。皆さん、どうぞいらっしゃい!
CU

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(3) ほんのり甘口編

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 ゴールデン・ウィーク特集、KDことケニー・ド-ハムが書いたレコード評の最終回は、私も大好きな歌手、カーメン・マクレエのアルバム。これはNYのヴィレッジ・ゲイトでのカーメンのライブ盤。私がピックアップした彼のレビューは、偶然にも、全てライブ・レコーディングでした。
 
ダウンビート誌 ’66 5/19号より。
womantalk1.jpgCarmen McRae『Woman Talk』(Mainstream 6065)
評点:★★★★★
=パーソネル=
Carmen McRae(vo), Ray Beckenstein(fl), Norman Simmons(p), Joe Puma(g), Paul Breslin(b), Frank Severino(ds), Jose Mangual(bongos)
=曲目=
1. Sometimes I’m Happy
2. Don’t Explain
3. Woman Talk
4. Kick off Your Shoes
5. The Shadow of Your Smile
6. The Sweetest Sounds
7. Where Would You Be Without Me?
8. Feelin’ Good
9. Run, Run, Run
10. No More
11. Look At That Face
12. I Wish Were In Love Again 

<1>は、ゆったりスイングするベースから始まり、客席は、手拍子や指を鳴らして呼応する。2コーラス目にドラムとピアノ、そしてフルートが加わり、ミス・マックレーがひそやかに唄い出す。3コーラス目は、いつもの彼女のスタイルにちょっとエラ・フィッツジェラルドの雰囲気を加味したスキャットを聴かせて終わる。
 <2>冒頭の8小節の最後の部分は、中東の名歌手、イーマ・スーマックを思い起こす。サビの部分でのカーメンの歌唱は、余りに素晴らしく、言葉で説明できない(Don’t Explain)ほどだ。…全てが彼女自身の人生経験から滲み出る歌唱だ。1コーラス目の最後までクライマックスは持続し、ラストの8小節で、陰影、ドラマ性、そして感情、全てが溢れ出す。ラスト・コーラスはアドリブ、あの最後の8小節は僕に素晴らしい心理療法を施してくれた。
 僕は<3>で歌われているような女性たちの座り方や話し方について、詳しくないけど、マックレーの歌は本物だ!…皆さん、よく聴きなさい!
続く<4>では、実際に、楽しいことにさよならする女の子たちの姿を見ることができる。ひょっとしたら、これを聴いてがっかりする夫たちも何人か居るかも知れないな。
 <5>になると、カーメンは、より力強く活気に溢れた歌い方で、巧みにクライマックスまで持っていく。
 <6>で、一層ステージは盛り上がる。緊張感とドライブ感、説得力で、クライマックスは一層高まる…なんとも奥の深い歌唱だ。
 <7>は、定石通りの手法と力強いフィニッシュを合体させたヴァージョン。
 <8>はアドリブで始まり、そのうちイン・テンポとなる。そして、濃いラテン・リズムとフルートで色合いをガラリと変える。ゴキゲンなグルーヴを感じる。
 <9>では、歌、フルート、ギターの心躍るスイング感が聴きもの。
独特のムード溢れる<10>には、彼女の想像力と、語り口の深さに心奪われる。“あなたのことで苦しんだりしない、もうこれからは…”いいねえ。
 <11> この素晴らしさ…僕には適当なほめ言葉も見つからない。彼女の歌は、真にパーソナルで、他の誰にもないものだ。皆、聴け!よく聴くのだ!(Listen, listen!)
<12> では、彼らが舞台のずっと前方に出て行きライトを浴びる感じ。彼らが退場する時も、音楽は背を伸ばして行進を続ける。伴奏陣も素晴らしい。リチャード・ロジャーズ&ロレンツ・ハート・コンビが、命を与えられ、最高に活き活きしている。(KD)

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
KDのレビューに割り当てられたレコードは、大物の作品はどちらかというと少なくて、レコードは廃盤でも、良く知られているアーティストのものを三篇選んでみました。KDはミュージシャンなのに、テクニック面の言及はしない。譜面の読めない一般のリスナーの視点から、非常に判りやすく書いている。これはすごいね!
 今回のレビューみたいに、好きなものを語る時の嬉しそうな様子は、寺井尚之と合通じるものがあって、特に親近感を覚えます。
 このカーメン・マクレエのアルバムで、KDが一番注目しているのは、歌詞解釈。これまでの三篇に共通するKD批評の指針は、歌、曲、そして一枚のアルバムに起承転結をもたらす構成の力だ。それは、同時に『寺井尚之のジャズ講座』の指針と非常に共通している。
  
 評論集は今回で一段落。今週のジャズ講座には、トミー・フラナガン・トリオの名作、エリントン~ストレイホーン集『A Day in Tokyo』(Tokyo Recital)が登場します。OHPには譜面も多数登場予定。

 皆、聴け!よく聴くのだ!(Listen, listen!)
CU

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(2) 激辛編

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 名トランペッター、ケニー・ド-ハムが書いたレコード評は、好評、酷評の区別なく、演奏描写がしっかりしていて、やっつけ仕事がない。また、お公家さんみたいに、奥歯に物の挟まった言い方や、類語辞典片手にひねくりだした美辞麗句もない。ただ、真剣に聴き、KDのプレイと同じく、簡潔でストレート・アヘッドだ。
 今回、紹介するレコード評は、当時、日本でも非常に人気があったトランペットのスター、フレディ・ハバード(tp)のライブ盤、LPが片面一曲ずつの演奏です。メンバーはリー・モーガン(tp)を迎えた豪華版、演奏場所はブルックリンにあった『クラブ・ラ・マーシャル』。KDの評文は激辛!
ダウンビート誌 ’66 8/25 号より
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 Freddie Hubbard(tp)/ The Night Of The Cookers- Vol.2 (Blue Note 4208)
評点 ★★★
曲名
1.Jodo
2.Breaking Point
パーソネル
Freddie Hubbard(tp),
  Lee Morgan(tp)
  James Spaulding(as fl),
  Harold Mabern(p)
  Larry Ridley(b)
  Pete LaRoca(ds)
  Big Black(conga)

  16小節のシンバル・ワークに、疑問の残るアルト+トランペットのアンサンブルからフレディ・ハバードのソロ。しょっぱなから、彼お得意の『現在奮闘中』の看板を見せびらかす。
安定したペースで聴かせる他の殆どのソロイスト達(あるいは少なくとも数名の)から自分をより目立たせようとして、最初はペースを定めることをしない。
 
 ハバードは、まるでスポーツカーがくねくねしたカーブをターンするが如く、見え隠れしながら、退場するそぶりを見せ、一方で、ハイ・オクターブのエネルギーと多彩なアイデアの爆弾を投下し続ける。そのプレイは、有り余る肉体的パワー、攻撃性と、知的なハーモニーを併せ持つ20世紀的即興音楽らしい、炸裂するような流動感を作り出している。
 続くスポールディングのアルトはルーズでありながら、シャープで抑制が効いている。オープンなサウンドのメイバーンのピアノから、リズムセクションで、チーフ・ナビゲイター役のピート・ラロッカの激しいドラムが取って代わる。その後に来るのは、コンガの新人で、最も傑出した存在、今、ジャズ界で最もクリエイテイブな、ビッグ・ブラックだ。彼のプレイ自体に、先輩コンガ奏者ーチャノ・ポゾ、モンゴ.サンタマリア、、トゥオノ・オブ・ハイチやポテト・バルデス達のような深い音楽性は感じられないが、ビッグブラックには何か特別なものがある。ラロッカは最終コーラスでバンドをまとめ、<Jodo>は激しい幕切れとなる。
<Breaking Point>はカリプソの曲。ハバードが先発ソロ、、次にスポールディング、そして、“サイドワインダー”で有名なMr.リー・モーガンからメイバーン‥この曲を聴くのに延々費やした時間のおかげで、僕もついに我慢の限界(Breaking Point)に達する。
 ハバードは素晴らしい。しかし、このアルバムは退屈だ。(KD)

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フレディー・ハバード(1938-)
’92にトランペット奏者にとって一番大切な唇を損傷してから活動は少ない。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 
 ハバードは、’70年代以降、頻繁に来日していて、私もよく観ました。大学のクラブのビッグバンドのメンバー達は、皆、ハバードに熱狂していた。超うまい!パワーも凄い!へヴィー級チャンプみたいだった!だけどなあ… 
 私がずーっと感じていた、「だけどなあ…」という漠然とした感じを、ちゃんと言葉にしてくれたのは、私の知る限りケニー・ド-ハムだけだ。
(続く)

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(1)

kenny_dorham.jpgKDことケニー・ド-ハム(1924-72)はテキサス男。ビリー・エクスタイン楽団、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、BeBopの名バンドで活躍し、トミー・フラナガンとは名盤『静かなるケニー』を遺した名トランペット奏者、作編曲家。腎臓を患い僅か48歳で死去。
 寺井尚之は、懐石料理の如く、季節に因む旬の曲を聴かすのを得意にしている。先週、フラナガニアトリオはケニー・ド-ハムのハードバップ作品、”Passion Spring”を演った。春野菜には強いアクがあるけれど、それを抜いて上手に料理すると、この季節ならではの力強い味わいになる。”Passion Spring”も丁度そんな曲だった。私はケニー・ド-ハムが大好きなんです。職人というか、昔気質というか、会ったことないけど、非常に親近感を覚える。テナーの聖人、ジミー・ヒースとKDは非常に親しかったらしい。

 『Quiet Kenny』(静かなるケニー)にしても、「この音、このタイムしかない!」と言う位、どこを取っても完璧なのに、ジャズ特有の“カタギじゃない”かっこ良さに溢れていて、窮屈なところがない。だから、毎日聴いても飽きない。
 ケニー・ド-ハムを、ジャズ評論家、ゲイリー・ギディンスは『過小評価の代名詞』と呼んだ。
 ド-ハムは決して世渡りのうまい人でなく、腕の良い大工や板前さんみたいに気難しい名手だったという。大阪弁でいうと、“へんこなおっさん”だったのだ。名盤『Quiet Kenny』が録音された’59年当時、ド-ハムは、NYのマニーズという大きな楽器屋で、音楽インストラクターでなく、トランペット売り場の販売員として働いていた。いわゆるDay Gigで家族を養っていた。その気になればTV局やスタジオ・ミュージシャンの仕事がいくらでもあったろうに、けったいな人です。
 
 ケニー・ド-ハムはトランペットだけでなく、作編曲も一流で、ビッグバンド全盛時代は、ギル・フラーなど色んな編曲家のゴースト・ライターとして働いた。五線紙だけでなく、文才もあった。彼の書いた短い自叙伝は大変面白いので、いずれInterludeに載せたいな。
 さらに’66年には、ダウンビート誌でジャズ評論家としてレコード・レビューを担当している。これがまた、“へんこ”なド-ハムならではの名文です。とにかく、アルバムを真剣に聴いて書いている。ミュージシャンだから、音楽の描写力がダントツに優れていて、愛と厳しさがある。ミュージシャンの視点で、良いものは良い、ダメな物はダメとはっきり言う。
 そんなドーハムがセロニアス・モンク・カルテットのアルバム、『ミステリオーソ』について書いた異色のレコード・レビューを紹介してみましょう。(DownBeatの貴重なバックナンバーはG先生の膨大な蔵書から拝借して、日本語にしてみました。)
 この文章が書かれた’66年のジャズ界の潮流が、コルトレーン、マイルス以降のアヴァンギャルドで、“New Thing”という流行語が使われていた頃であることを心に留めて読むと一層興味深い。
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THELONIOUS MONK / MISTERIOSO(RECORDED ON TOUR)セロニアス・モンク/『ミステリオーソ』 (COLUMBIA)

 評点 ★★★1/2

ダウンビート・マガジン ’66 1/27号より

1. Well, You Needn’t
2. Misterioso
3. Light Blue
4. I’m Gettin’ Sentimental Over You
5. All the Things You Are
6. Honeysuckle Rose
7. Bemsha Swing
8. Evidence
パーソネル: Charlie Rouse(ts) Monk(p) Larry Gales or Butch Warren (b) Ben Riley or Frankie Dunlop (ds)

1. ライブ・レコーディングで、オープニングの1.では、モンクが<ウェル、ユー・ニードント>のメロディをイントロとして8小節を弾き終わる前に拍手が来る。ファーストテーマの後にラウズが先発ソロ、テーマから一貫性のある良いアドリブだ。その後モンクがソロ。続くベースのゲイルズ(b)もきっちり仕事をする。ライリー(ds)はバーラインを越えたハードなドラムソロだ。
再びアンサンブルに戻り、これぞモンクという決め技で終わる。
2.<ミステリオーソ>は風変わりなブルースだ。カット・タイムで進むが、ラウズのソロになると普通のタイムの普通のブルースになるので、全編これミステリアスということもなし。
3.<ライト・ブルー>には殆どコードがない。これは “NEW THING”のコンセプトか?いや違う。実はモンクの“OLD THING”な古いネタなのであった。だが古いと言えどあなどってはいけない。モンクのプレイする音楽の地平は“NEW THING”の、煙幕を張ったようにぼけたサウンドではない。モンクはどこまでもクリアだ。
4.は古いスタンダードだが、コンセプトは非常に斬新。テーマはモンクのストライド入りのソロで聴かせる。ラウズのリラックスした堂々たるソロは爽やかな風を呼び起こす。全く嬉しくなる(Delightな)演奏だ!
5.モンクの8小節のイントロから、グループ全体でスイングしながら<All the Things You Are>のテーマにどっとなだれ込む。部隊の先頭に立つのはラウズ。その激しさをそのまま読み取ったコード、自己主張するモンク、それをバックにするラウズ。テーマからそのままラウズがアドリブ・ソロを取る。ラウズに続くモンクは、大変に美しく、アヴァンギャルドな(というか、風変わりな)なシングルラインのシンコペーションをを弾いて見せる、秀逸なユーモアだ! モンクのソロの後、再びラウズが戻ってくるが、戻ってきても別に大したことは起こらず、モンク流のクライマックスは降下を始める。
6.モンクは自分流のコード解釈で<ハニーサックル・ローズ>を演奏。市販の譜面からはおよそかけ離れている。しかし、それでこそモンクだ。アドリブ・ソロでは、高音の慌ただしい右手の動きに入り込んでいく。本トラックにラウズは不参加。
7.各4小節で成り立つAABA形式の曲、短いフォーマットでアドリブのしやすい素材。まずラウズのソロから、モンクが続き終わる。
8.B面の<エビデンス>はオリジナリティとドラマ性では極めつけだ。-つまりメロデイとタイトルの関係において、である。
 本作品は、全体的に、’40年代のいわゆる「ハード・ジャズ」、つまり各人のソロ主体のフォーマットだが、ハーモニーとラインのコンセプトは非常に新鮮なものだ。しかし、現在流行中の“アヴァンギャルド” を特急列車に例えるなら、特急の線路上を各駅停車のが走っているような感は否めない。故に、まるで昔のレコードのように聴こえてしまう。列車の内容が余りに多いため、却って活気がなく、ハッスルが十分でない。(KD)
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
どうですか?非常に具体的な描写で、このアルバムを聴いたことがなくても、楽器を演奏できなくとも、なんとなくイメージ出来る親切な書き方でしょう?一度聴いてみたくなりますね。だけど、当たり障りのない書き方でなく、あくまで鋭くモンク音楽を見据えている。
 
 ゴールデン・ウィークなので、土曜日も休日だから、土曜にでも、更に激辛と甘口のKDの評論2種を紹介します。
 CU