寺井珠重の対訳ノート(17) Just One of Those Things (Cole Porter)

 梅雨も明けずに蒸し暑い大阪です。皆さん、夏バテしていませんか? 亜熱帯性の私は全く大丈夫ですが、7月が終盤になり、発表会の準備や、講座本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第7巻に掲載するエラ・フィッツジェラルドの対訳の整理に追われ、講座対訳の締切と格闘していた昨年の恐慌がフラッシュバック。
 そんな私の楽しみは、客席がゆったりしている火曜日に、山口マダムの横で聴く弾丸スピードの”Just One of Those Things”。もともと「火曜日の守護神」山口マダムがお好きな曲、おまけにマダムは超速スイングが好きだから、長年演っているうちに、テディ・ウイルソン、アート・テイタム、バド・パウエル!巨匠たちのエッセンスがミックスして、あんなに楽しく速くなっちゃった。
 いまや”Just One of Those Things”と”Pannonica”は火曜日のシグネチャー・ソング!
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 この曲は、いかにもコール・ポーターらしいビタースイートな「さよなら」の歌。寺井尚之の愛奏曲で、コール・ポーター作品は凄く少ない。CDに録音しているのは、”What Is This Thing Called Love? (恋とはどんなものでしょう)”ただ一曲です。ハッピーエンドを身上にする寺井には、苦味のきついコール・ポーターの歌詞にいま一つビビっと来ないらしい。

cole.jpg ジャズエイジ、享楽のパリ、上流社会、ロスト・ジェネレーション、バイセクシュアル・・・アメリカン・ポピュラー・ミュージックの中で、作詞作曲を兼務する稀有なソングライター、コール・ポーター、彼のレッテルで、私が親しみを感じるものは皆無。でも、ひとつだけ深く共感を覚えることがあります。それは、非英語圏のパリ生活の後、母国語に対する愛情と理解が深まり、作詞の力が格段に高まったという点です。
 子供の頃、おじいちゃんが歌っていた日本の都々逸(どどいつ)や小唄みたいに語呂が良くて、色っぽいコール・ポーターの歌詞が私は大好き!「可愛い」とさえいえるアイラ・ガーシュインの清潔な詞と対極にある「淫らなほのめかし」や、「ダブル・ミーニング」な言葉づかいの巧みさが、近頃ますます素敵に思えます。
 寺井尚之はヴァースを演奏することはないけれど、歌詞のムードが少しは判るかもしれないから、対訳にヴァースもつけておきました。

<Just One Of Those Things>
ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス

by Cole Porter
(Verse)
ドロシー・パーカーはボーイフレンドに言った。
「カンペキにさようなら」
お払い箱になったと知った時、コロンブスはスペイン女王に言った。
「楽しかったよ、イザベラ、サイテーだ。」
神学者アベラールは、道ならぬ愛人、エロイーズを修道院送りにして、こう言った。
「手紙をくださいよ。」
ジュリエットはロメオの耳元で泣きながらこう言った。
「ロメオ、いいかげんに現実を受け入れたら?」
(Refrain)
どこにでもある恋、
短く激しい情事だった。
こんなに燃えることもあるよ、
よくあること。
よくある夜の出来事だった、
もちろん素晴らしい夜だったがね。
まるでそよ風に乗って月まで行ったみたいな一夜だった。
だけど、よくあることだよ。
終わりのことを少しでも、
考えておけば良かったな、
盛り上がり始めたあの時に。
僕たちはのぼせすぎて、
冷静になれなかったんだ。
だから、さようなら、いとしい君よ、さようなら、
また、時々は会おうよ。
とても楽しかったよ、
いつもの火遊びだけど。

 Verseに出てくるドロシー・パーカーは、コール・ポーター同様ジャズエイジの華と謳われた女流ライターで、The New Yorkerからハリウッドをまたにかけた文化人セレブです。神学者ピエール・アベラールは、20歳も年下のエロイーズの家庭教師を買って出て、愛人にしてしまった元祖セクハラ教師、ボーダレスなコール・ポーターの雰囲気が出ていますよね。
 いかにも都会のプレイボーイを思わせる”Just One Of Those Things”はJ.D.サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」や、M・A・S・Hにも登場する。
 同じコール・ポーターでも、代表的なバラードのターンバックには、「音楽的」としか言いようのない韻を踏みながら、夢のように狂おしく切ないメロディにぴったりの詞がついている。この曲や”I Love You”は寺井尚之も時々演奏していますね!

<So In Love ソー・イン・ラブ>
・・・
So taunt me and hurt me.
Deceive me, desert me,
I’m yours ‘til I die,
So in love,
So in love,
So in love with you, my love, I am.
・・・だから、私を嘲り傷つけて。
騙しても、捨ててもいいの。
私は死ぬまであなたのもの。
それほど深く、
私はあなたに恋しているから。

 乱れたシルクのシーツが目に浮かぶような、うわ言みたいに官能的な歌詞でしょう!そんな一夜が明けたら<Just One Of Those Things>になるの?そこまで粋になれないなあ。
cole porte_'s piano.jpg  コール・ポーターの歌詞はいつも曲と一体になっている。これはポーターのNYの常宿、ウォルドルフ・アストリアホテルがポーターの部屋に寄贈し、ポーターに愛奏されていたピアノ。
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 レッスン日に生徒たちが皆成果を挙げているのに、私だけ仕事がさっぱりはかどらない日は Just one of those days、ライブで良い演奏をやっているのに、お客さんがさっぱり来てくださらない日はJust one of those nights、阪神タイガースが負けても、『なにやっとんねん!?』とボヤかずに、クールに微笑んでJust one of those ball gamesと言おう!
 週末は、新旧2種の寺井尚之トリオ、火曜日は宮本在浩(b)とのデュオ、水曜日はご存じ”エコーズ”です。
Here’s hoping we meet now and then・・・

7/ 24 (土) The Mainstem PartⅡ 

The Mainstem7月PartⅡ、天神祭の賑わいから離れた路地裏で、ゆっくりジャズを楽しんでくださって、どうもありがとうございました。
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≪セットリスト≫
<1st>
1. Bitty Ditty ビッティ・ディッティ (Thad Jones)
2. Eronel エローネル (Thelonious Monk)
3. Commutation コミュテーション (J.J.Johnson)
4. If You Could See Me Now イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ (Tadd Dameron)
5. Sid’s Delight  シッズ・デライト (Tadd Dameron)
<2nd>
1. Walkin’ ウォーキン (Richard Carpenter)
2. Our Love Is Here to Stay わが恋はここに (Ira & George Gershwin)
3. Don’t Blame Me  ドント・ブレイム・ミー(Jimmy McHugh, Dorothy Fields)
4. For Heaven’s Sake フォー・ヘヴンズ・セイク (Sherman Edwards/ Elise Bretton / Don Meyer)
5. Cup Bearers カップ・ベアラーズ (Tom McIntosh)
<3rd>
1. Thadrack  サドラック (Thad Jones)
2. Misterioso ミステリオーソ (Thelonious Monk)
3. Elora エローラ (J.J.Johnson)
4. Goodmorning Heartache グッドモーニング・ハートエイク (Ervin M. Drake , Dan Fisher / Irene Higginbotham )
5. Project “S” プロジェクト”S” (Jimmy Heath)
Encore: Star Crossed Lovers スタークロスト・ラバーズ (Billy Strayhorn)

JJ_johnson.GIF  この夜は、「7月」の季節よりも、OverSeas的「旬」の曲が並びました。生徒たちのセミナーで聴いた曲(1-4, 3-4)、先日のジャズ講座でカムバック時のプレイを聴かせてくれたトロンボーンの神様、J.J.ジョンソンのレパートリー(2-1:『 J.J. In Person』  2-2: 『Dial J.J. Five』 2-4: 『First Place』 3-2: 『J.J. In Person』)やJ.Jのオリジナル曲(1-3, 3-3, )を軸に、デトロイト・ハードバップの名曲を絡め、締めくくりはThe Mainstemの持ち味を最高に活かすジミー・ヒース(ts,ss,fl)の作品、ジミーによれば Project “S”の”S”は、SWINGの”S”、文字通り、息もつかせぬリズムの変化でといことんスイングする強烈なプレイが聴けました。ホーンのいないピアノ・トリオで、あれだけのダイナミズムを出すのはすごいなあ。小柄なジミー・ヒースは「リトル・ジャイアント」と言われているけど、The Mainstemはリトル・ビッグ・バンドみたいにかっこよかった!宮本在浩(b)、菅一平(ds) Good Job! 
 最近、チャーリー・パーカーの「Confirmation」にチャレンジする若者が増えて頼もしい限りですが、<1-3: Commutation>は、Confirmationをトロンボーン仕様にJ.J.ジョンソンが書き換えたバップ・チューン、「Commutation」は振替という意味、また直流から交流に変換する意味の電気の用語でもあるらしいから、いかにもメカに強いJJらしいギャグですね。詳しくは講座本の第一巻を読んでみてください。
 今セット・リストを書いていて気づいたのですが、今夜の作詞作曲クレジットは偶然「わけあり」が多かった。
thelonious-monk.jpg 1-2の”“エローネル”“の作者クレジットはモンクになっているけど、モンクのバンドにいたトランペット奏者のアイドリース・シュリーマンによれば、元々シュリーマンとサディック・ハキム(p)の共作で、サビのメロディを一音だけモンクが替えたものだと主張しています。「Eronelは僕のガールフレンドの名前、レノア(Lenore)のスペルを逆にしているのが何よりの証拠、なんでモンクのような偉い人が人の曲を横取りするのか理解できない。」と証言しています。(“Swing to Bop” Ira Gitler著より)
 “ウォーキン”(2-1)の作曲者はリチャード・カーペンターになっています。(あの「カーペンターズ」のお兄さんじゃないよ。)でも実のところ、カーペンターは音楽家ではなく、編曲家のエージェントや版権会社をやっていた業界人。タッド・ダメロン、ジミー・マンディなどのエージェントをやっていて、カーペンターに上前をはねられたジャズメンは数知れず。クライアントの作品を自己名義にしていたんですね。チェット・ベイカーはカーペンターを「一回殺したろか」と思ったほど搾りとられたらしい。『J.J. in Person』ではナット・アダレイのコルネットの魅力が炸裂して、マイルス・デイヴィスのヒット・バージョンよりずっと魅力を感じます。この夜のThe Mainstemのプレイも最高でした!寺井尚之はWalkin’の作者について、「ほんまはタッド・ダメロンちゃうかな?」と言ってる。
holliday.jpg ビリー・ホリディの名唱で、最も有名なジャズ・バラード、3-4にクレジットされているアイリーン・ヒギンボサムは、”Some Other Spring”などホリディの持ち歌を作ったアイリーン・キッチングス(テディ・ウイルソンの元妻)と同一人物であるとされてきました。結婚相手が変わって、姓が変わったと言われていたんです。ところが、ここ数年、二人のアイリーンを知るアイラ・ギトラーの証言などから「グッドモーニング・ハートエイク」のアイリーンは、スイング時代の有名なトロンボーン奏者、JCヒギンボサムの姪でありピアニスト、後に政府機関で公務員として勤務していた女性であり、キッチングスとは別人だと分ったんです。
 ヒギンボサムもビリー・ホリディの友人でありピアニスト、1918年生まれで、ジャズ界にいたのは短かったようです。88年まで存命だったのに、ずっとキッチングスと同一視されていたとは・・・ジャズ界でも女性は軽視されているのかな?
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 寺井尚之のきらめくタッチ、宮本在浩(b)の精妙なライン、菅一平(ds)のダイナミズム、この夜のThe Mainstemはスリルも情感もあって、とっても楽しかった!
 8月のThe Mainstemは15日(土)&28日(金)!ぜひお越しください!
CU

J.J.ジョンソン(後編):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

 皆さん、お元気ですか?梅雨はいずこ?激しい雷や日蝕は1Q84を読んだ者に軽いシステム障害をもたらすことがあるのかな?・・・あっという間に一週間が経ってしまいました。
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 さて、私がオフ・ステージのJ.J.ジョンソンにお目にかかったのは一度だけ、J.J.は緊急事態だった。あれは1988年秋、コンコード・ジャズフェスティバルの大阪公演の当日のことです。中之島のANAホテルのコーヒー・ラウンジで一緒にお茶していたスタンリー・カウエル(p)を探して部屋から降りて来られたんです。櫛のとおっていない髪、皺の寄ったシャツ、鋭い眼光はそのままでしたが白目がどんより充血していて、私の知ってる一分の隙もないダンディな「トロンボーンの神様」の姿とは余りに違っていました。
 「神様」は私たちのテーブルに座ることなく、スタンリーに静かな口調で連絡しました。
「東京に残っている私の妻ヴィヴィアンが脳溢血で倒れた。私はすぐに東京に発つから、これからのバンドは君が仕切れ。」
 たったこれだけ・・・後を任されたスタンリーは敬礼こそしなかったけど、「Yes Sir!」と即答、するとJ.J.ジョンソンは、戦争映画の司令官みたいに踵を返して足早に去って行きました。プロとはこういうものかと、思ったものです。
<トミー・フラナガン共演時代>
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’56年、BeBopのイディオムを駆使するクールなJJと、熱血プレイのカイ・ウィンディングのJ & Kaiのコンビ解消後、J.J.ジョンソンは新たに自己クインテットを結成します。J&Kaiのように商業的な成功はないにせよ、音楽的な成果は余りあるものでした。Dial J.J5、In Peson Live at Cafe Bohemia…私たちの愛聴盤がこの時期にどっさり録音されています。自己グループの活動と並行しながら、作曲家として、ディジー・ガレスピーに依頼された組曲Perceptionsや、Poem for Brass, El Camino Realなど意欲的な大作をどんどん発表して絶賛され、後の映画音楽家としての布石を打ちました。天才J.J.ジョンソンといえども、ツアー主体の演奏活動と、孤独と集中力が必要な作曲活動を両立させるのは並大抵なことではなかったはずです。でも当時の名盤に聴ける「論理的」で「明瞭」な構成や、J.J.ジョンソンの至高のプレイは、充実した作曲活動との相乗効果があったのかもしれません。
JJ_5.jpg左からJ.J、トミー、ボビー・ジャスパー、エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトル
 この時期のJ.J.ジョンソンのコンボは、大まかに分けて三種類あります。ベルギー出身の名手ボビー・ジャスパー(ts,fl)との二管クインテットが最初の布陣、リズムセクションはご存じトミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ウィルバー・リトル(b)、続いて、兄キャノンボール(as)がマイルス・デイヴィスのバンドに参加したために、フリーになったナット・アダレイ(cor)と、アルバート”トゥティ”ヒース(ds)に、既存メンバーのフラナガン、リトルを組み合わせた第二のクインテット、それらは今までのジャズ講座で、それぞれの個性を生かしたJ.J的アプローチを堪能することができました。最初のクインテットは、上等なシャツのボタンを上まできっちり留めたような隙のないサウンドがジャズの「品格」を教えてくれます。次のクインテットは、3つ目のボタンまで開けたシックさが最高、青い炎のようなボビー・ジャスパーや、レッド・ホットなナット・アダレイ・・・コンボのアプローチはメンバーに合わせて変化して、あの頃の講座で構成表をOHP用に作るのはすごく楽しかった。
 最初のクインテットが’57年にスェーデンに楽旅した際、ピアノトリオで録音したのが『Overseas』であったことも、勿論ご存じですよね!このツアーは熱狂的な歓迎を受け、ストックホルムの王立公園で開催されたコンサートには2万人の大聴衆が集まったそうです。
JJ_BJ_bandstand.jpgBobby Jaspar (1926-63) ブロッサム・ディアリー(vo)との結婚を期にNYに住んだジャスパーはヘロインの過剰摂取で手術中に亡くなった。
 この後、J.J.のコンボは、ピアノがトミー・フラナガンからシダー・ウォルトンに替り、ジャスパーとアダレイ両方を従えた三管に増員しますが、’60に「家族との時間を大切にしたい」と、突然自己グループを解散してしまいます。その後はマイルス・デイヴィス(tp)、ソニー・スティット(as.ts)、ジミー・ヒース(ts.ss.fl)と断続的に演奏活動を続けますが、活動の重点は徐々に作曲の方にシフトして、’70年にジャズ業界に見切りをつけ、昔のボス、ベニー・カーターや、BeBop時代の仲間、クインシー・ジョーンズ、ラロ・シフリンの勧めで映画TVのフィルム・ミュージックの世界で17年間仕事をします。それは、都市部の黒人層をターゲットにしたブラック・ムービー(Blaxploitation)の世界的な流行が、J.J.の才能を必要としていたと言えるかもしれません。
<映画音楽での成功とジレンマ>
shaft.jpg 映画界に入ったJ.J.ジョンソンが手がけた映画は、『黒いジャガー(Shaft)』『クレオパトラ危機一髪』などブラック・ムービーをはじめとして、アル・パチーノのギャング映画『スカーフェイス』その他娯楽映画色々・・・TVでは私が子供の時に人気番組だった刑事シリーズ『スタスキー&ハッチ』など、リアルタイムで観たものが沢山あります。ジャズ業界に幻滅して飛び込んだ映画の世界での仕事をJ.J.ジョンソンはどんな風に感じていたのでしょう?
 彼のインタビューを読むと、彼のフラストレーションは意外にも、芸術的なものではなく、業界の持つ人種差別やジャズへの偏見にあったようです。
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 J.J.ジョンソン:映画音楽の世界は凄い競争社会だ。良いエージェントを持ち、的確に仕事をしなければ業界で成功することはできない。
 それに映画界は非常に人種差別的だ。「スター・ウオーズ」「E.T」や「ジュラシック・パーク」のような大作映画の音楽の仕事が黒人に回ってくることは絶対にない。
 業界の人間は、人種差別的であるだけでなく、偏見に凝り固まっていて、視野が狭い。「J.J.ジョンソンはジャズ・ミュージシャンだろう。この映画にジャズは要らない」そんな風だ。
 私はそうでない業界人と知り合えたのはラッキーだった。そしてTV界では、私の『Poem for Brass』を高く評価してくれている人間と出会ったので、仕事を得ることができた。別にTV業界が映画界より開放的な業界というわけではない。
 私が映画界で書いた音楽はジャズとは全く違うものだ。しかし、芸術的には満足のいくものだった。私はジャズ界にいた時から、ストラヴィンスキーやラヴェル、パウル・ヒンデミットの大ファンだった。映画界ではクラシック音楽の要素を使った仕事が出来た。

<トロンボーンへの回帰>
 J.J.ジョンソンがクラシック音楽に目覚めたのは友人のミュージシャンがストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴かせてくれたのがきっかけであったといいます。チャーリー・パーカーもストラヴィンスキーやヒンデミットが好きだったそうです。だからと言ってJ.J.はクラシックに変なコンプレックスを抱いている風情も全くありません。J.J.ジョンソンはインタビューで、モーツアルト、ベートーベン、シューマンは好きではないと答えています。トミー・フラナガンも昔「サド・ジョーンズはモーツアルトよりずっと偉い」と言ってたなあ・・・
 J.J.ジョンソンは映画音楽家時代も、トロンボーンの技量を維持するためにギャラの安いTVショウのバンドで演奏を続け、自宅でも基礎練習は欠かしませんでした。
 TV番組がお手軽なホーム・コメディー全盛になり、もう本格的なフィルム・ミュージックが必要とされなくなった時、再びジャズ界にカムバックします。
 先週皆で聴いた『Pinnacles』は、選りすぐりのミュージシャンを集め、オーバーダビングや、エフェクター、キーボードのセレクションに至るまで、「映画時代に培った知識と、昔から変わらないアレンジの技法を集大成したもの」だと、J.J.ジョンソンの音楽解説書“The Musical World of J.J.Johnson”にはあります。この本はジャズ評論家のアイラ・ギトラーさんが勧めてくれたけど、高くて手が出なかったのですが、最近ペーパーバックになって安価に入手できます。同書には録音技師のノートが記載されていて、”Deak”でフラナガンが弾いているのはヤマハ・エレクトリック・グランド、”Cannonball Junction”では録音時にピアノを演奏し、後でクラヴィネットというJ.J.がTV音楽で使用したキーボードを重ねているそうです。その他にもテイク数や、オーバーダブの詳細が書かれていて興味深かった。この本が届いたのが今朝だったので、講座に使えず残念!講座本になった時に、加筆してもらいたいものです。
<晩年>
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 正式に映画界から引退したJ.J.ジョンソンは、故郷インディアナポリスに居を構え、80年代に多数の若手スターを輩出した敏腕ジャズ・エージェント、メアリー・アン・トッパーのプロダクション、Jazz Treeと契約、演奏やレコーディングを重ね、全世界のあらゆるフィールドのトロンボーン奏者の「神様」であり続けました。アヴァンギャルド系のトロンボーン奏者スティーブ・トゥーレは「自分のレコーディングはすべてJJに送って聴いてもらっている。」と告白しています。
 1997年、前立腺癌と診断されたJ.J.ジョンソンは正式に引退。それでも自宅のスタジオは、カムバックの日に備えて最新の装備が施されていたそうです。
 それにも拘らず2001年2月4日、インディアナポリスの自宅での拳銃自殺は全てのジャズ・ミュージシャンにとって大ショックでした。
 葬儀で棺を担いだのは、ポストJ.J.ジョンソン最右翼のスライド・ハンプトン、スティーブ・トゥーレ、ロビン・ユーバンクスなど世代を超えた9人のトロンボーン奏者でした。
 完全無欠の神様、J.J.ジョンソンの人生を調べていくにつれ、「神様」ですら深いジレンマを感じ、一度ならず麻薬に耽溺した時代もあったことなど、意外な事実が次から次に見つかって、私の疑問は増えるばかり・・・
 今朝届いた”The Musical World of J.J.Johnson”は、残念ながらトミー・フラナガンのクインテット時代について余り触れていませんが、譜例を含めた詳細なデータが沢山あるので、色々参考になりそうです。またいつか続編を書きたいな。
 明日のThe MainstemでもJ.J.ジョンソンのおハコが聴けるかも・・・私はリクエストのあった賀茂ナスグラタンを作って待ってます!
CU

J.J.ジョンソン(前篇):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

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 先週のジャズ講座も皆さんどうもありがとうございました。
 ジャズの真冬が終わり、バンドスタンドに戻ってきたスター達・・・講座に登場したアルバムの味わいは、すっきりしたものから、涙の味のしょっぱいものまで色々・・・秘蔵音源で、懐かしい「波止場」の風を浴びてハッピーエンドになれました!
 あの夜、皆で聴いたJ.J.ジョンソンのカムバック作品『ピナクルズ』、表面的な音楽スタイルは当時隆盛のクロスオーバー志向だけど、隙のない緻密な構成は、以前の講座で聴いたJ.J.ジョンソンの姿と少しもブレていなかった。あのアルバムを制作した”マイルストーン”というレコード・レーベルが、かつて.J.J.のバンドの一員で、フラナガンの親友だったディック・カッツ(p)さんがオリン・キープニュースと創設したレーベルであることも、感慨深いです。
<トロンボーンの神>
 J.J.ジョンソンは存命中から「トロンボーンの神様」と呼ばれる生き神さまだった。
 カフェ・ボヘミア時代から晩年までJ.J.ジョンソンを公私ともによく知るダイアナ・フラナガンは、私にJ.J.のことを色々話してくれたけど、残念ながらここで書けることは、以下の言葉以外ほとんどない。
 「トミーはステージで、しょっちゅうミスをしてたでしょ、リスクのあるプレイをするタイプだからね。でもJ.J.ジョンソンはパーフェクト!誰もJ.J.ジョンソンのミスノートなんて聴いたことないと思う。生まれてから一度もミスなんてしたことないんじゃないかしら?」

 トミーがJ.J.について饒舌に語ってくれた記憶はないけど、寺井とトロンボーンについて議論していて、寺井がJ.J.ジョンソンを持ち出したら、こう言ったのが印象にあります。
 「J.J.ジョンソン?あれはもうトロンボーンじゃない!」
 つまり、J.J.は例外なので、トロンボーンを語る時に持ち出さない方がいいという意味でこう言ったんです。カーティス・フラー、タイリー・グレンやアル・グレイ、スライド・ハンプトン・・・多くの名トロンボニストと共演して来たトミーにとって、J.J.ジョンソンのトロンボーンは既成の概念を遥かに超越したものだったんですね。
<Why Indianapolice-Why Not Indianapolice?>
 インディアナポリスに生まれ育ち、BeBop以降の全トロンボーン奏者に影響を与えた”The Trombonist”は、インディアナポリスで拳銃の引き金を引いて自ら人生の幕を引いた。
 ネット上に遺る晩年のインタビューを読むと、“Logic(論理)””Clarity(明瞭)”という二つの言葉をJ.Jは繰り返し口にしている。『論理的で明瞭』であることが、全てに優先するというのが彼の哲学だったことは、『ピナクルズ』を聴いても明らかだった。だからこそ、パーカー+ガレスピーにBeBopの洗礼を受けたとき、スライドを疾走させるためなら躊躇なくトロンボーンらしい(と思われていた)音色と決別することが出来たのかもしれない。
 J.J.ジョンソンがあっさりジャズ界を離れ、青写真技師や映画音楽家に転職したのも、評判の愛妻が亡くなって後、すぐに再婚して新しい妻をマネージャーにして、周囲を驚かせたことも、『論理的且つ明瞭』な決断だったのだろうか?
 寺井尚之は前から「J.J.ジョンソンは自殺すると思う。」と言っていたけど、彼にとっては自殺ですら「理にかなった明瞭な決断」だったのだろうか?或いは、癌に犯された時から、J.J.の内側で「論理性」と「明瞭さ」は崩壊していったのだろうか?
 ミュージシャン達が畏敬を込めて『トロンボーンの神様』と呼ぶJ.J.ジョンソンの人生を、JJ自身の証言を読みながら、駆け足で辿ってみようかな。
jj-studyingmusic.jpg<最初のアイドルはレスター・ヤング>
 J.J.ジョンソンこと、ジェームズ・ルイス・ジョンソンは’24年1月4日、中西部の大都市インディアナ州インディアナポリス生まれ。幼い頃は教会でピアノを学び、10代の初めにジャズが好きになってからサックスを志したそうです。J.J.ジョンソンの最初のアイドルはレスター・ヤング(ts)でした。でもJ.Jの楽器はバリトン・サックスで、レスターの音色を自分のものにすることはできなかった。ハイスクール・バンドで、たまたま人数が足らなかったという理由からトロンボーンに転向してからも、ずっとレスターへの想いは不変だと語っています。
art_lesteryoung.jpgJ.J.ジョンソン:最初のヒーローはレスター・ヤング(ts)だ。その頃の私は完全な”レスターおたく”だったよ。レスターは音楽を志す仲間たち全員の「神」だった。皆で何時間もレスターのソロを聴き続け、「ああでもない、こうでもない」と色々分析していたものだよ。
 トロンボーンに転向してからはレスターのソロを丸コピーして吹こうと思ったことはない。私の敬意はそういう種類のものではない。レスターの凄いところは、規制のテナーの即興演奏の枠に全く囚われない斬新なアプローチにある。たった2つか3つの音だけで『あっ!レスターだ!!』と判る強烈な個性だ。同じようなペルソナは、トロンボーン奏者のトラミー・ヤングやディッキー・ウエルズにもあり、私は大きな影響を受けた。

 J.J.ジョンソンは殆ど独学でトロンボーンに習熟、レッスンを受けた経験は数回だけだったそうです。1941年に高校を卒業するまでに、高度な音楽理論を身に付け、地元バンドに楽曲を提供していました。卒業後すぐ、スヌーカム・ラッセル楽団に加入、バンドメイトだったファッツ・ナヴァロ(tp)のBeBop的アプローチに大きく影響を受けたといわれています。J.J.ジョンソンの卓越した技量は仲間内で評判になり、翌年ベニー・カーター楽団に移籍。’44年のJ.J.ジョンソンは、すでに往年の疾走感溢れるスタイルを確立していました。
 ディック・カッツさんによれば、J.J.ジョンソンの紳士的なマナーはベニー・カーターから学んだもので、J.J.に作曲活動を強く勧めたのもやはりカーターだったそうです。“ザ・キング”の大きく聡明な瞳は、音楽家の資質をすぐに見抜いたわけですね。
 大戦後、J.J.ジョンソンはカウント・ベイシーやJATPなど様々なフォーマットでキャリアを積みます。当時J.Jが参加するイリノイ・ジャケーのバンドがシカゴで公演した時には、町中のミュージシャンが噂に聞くJ.J.ジョンソンの驚異的なプレイを一目見ようと押し寄せたと言います。
<ありえないBeBopトロンボーン>
JJJohnson_MRoach_et_OPettiford_BNote_Marcel_Fleiss_AG400.jpg  マックス・ローチ(ds)オスカー・ペティフォード(b)と。
 ’46年になると、J.J.ジョンソンはNYに腰を落ち着け、BeBopムーブメントの中心として活躍。チャーリー・パーカーのオリジナル・カルテットが迎えた唯一のゲスト・プレイヤーとして全米に名を馳せます。リーダー作だけでなく、バド・パウエル、ソニー・スティット、ディジー・ガレスピー達と歴史的録音を重ね、次のトレンドを予見するマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』にも参加しています。
 複雑なハーモニーやマシンガンのような急テンポの革命的音楽BeBopに、トロンボーンというスライド楽器を順応させるための苦労について質問されたJ.J.ジョンソンは、インタビューで、このように答えています。
J.J.ジョンソン:もちろんBeBopを演奏する上で課題はあった。だがそれは、「速く吹く」とか「高音を吹く」というテクニック的な問題でなく、即興演奏上のアプローチの問題だ。
 世間は私を超絶技巧派と思っているようだが、決してそうではない。私が演奏家として、過去も現在も一貫して目指すのは、明瞭さ(clarity)と論理性く(logic)、そして聴く者に感動を与える表現力だけだ。この三点を達成すれば、私のトロンボーンにペルソナが宿り、(レスター・ヤングのような)強烈な個性を持つことができる。そうなればいいと常に望んでいる。
 『あいつは一体何をやりたいんだ?』と思われない演奏をしたい。

<転職その1>
 チャーリー・パーカーがキャバレー・カードをはく奪され、BeBop時代の終焉が近づいた1952年、J.J.ジョンソンは突如ジャズ界を離れ、元々興味があった電子関係の企業に青写真技師として就職しました。
 最大の理由は無論経済的なものでしょうが、ジャズの行く末に幻滅を感じたこと、しばらくジャズ界を離れて、外側からジャズを眺めたかったとJ.J.自身は語っています。ロジックを最優先するJ.J.ジョンソンなら、周到な準備の上何の躊躇もなく転職したのだろうか?
 でもジャズ界はJ.J.ジョンソンを放っておかず、2年間後の1954年、デンマーク生まれのトロンボーン奏者、カイ・ウィンディングと双頭コンボを組んでジャズ界に復帰。洗練され聴きやすいサウンドの”Jay & Kai”は大人気を博し、商業的に大成功します。その時期のレギュラー・ピアニストがディック・カッツさんです。
 “J&Kai”は音楽的方向の相違から1956年にコンビを解消しますが、その後も繰り返しリユニオンしていて、私もAurex Jazz Festival(’82)で、J&Kaiの生演奏を楽しむことができました。下のYoutube動画は当時TV放映されたものです。
 コンサートでは私たちの予想に反して、J.J.ジョンソンよりもロマンス・グレーのカイ・ウィンディングの方が溌剌として沢山拍手をもらっていました。よもやその翌年にカイ・ウィンディングが亡くなるとは思ってもいませんでした。

*曲はおハコの”It’s Alright With Me “トミー・フラナガン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
 え?トミーのソロを半コーラス聴いただけで満足だから、もう先を読むのがしんどいって?
そりゃそうですね!
 じゃあ続きは数日後に!
 今週末は明日17日(金)が末宗俊郎(g)3、そして18日(土)がThe Mainstem!
お勧め料理は定番”牛肉の赤ワイン煮込み” です。
Enjoy!

ショーン・スミス(b)+寺井尚之(p)コンサート9/26(土)に!

 皆様、いかがお過ごしですか?大阪は蒸し暑くて、ほこりっぽい路地裏は水をまいても清涼感がUPしません。私は体感ベスト気温が28℃の亜熱帯派ですが、やっぱり暑い。
 高湿度なのにOverSeasのピアノは何故か調子がよく、火曜日に調律してくださった川端さんも不思議そう。ひょっとしたら9月にコンサートをやることを知って気合が入っているのかも・・・

 昨年2月に寺井とのデュオ・コンサートで大好評だった、寺井尚之の同志ベーシスト、ショーン・スミスが、再び9月にOverSeasにやってきます!

 NYで固定メンバーとがっちり自己カルテットを組んで地道な活動をしながら、巧者揃いのヘレン・メリルのバンドで、ジョージ・ムラーツに次ぐ準レギュラーとして、また手堅いプレイでビル・シャーラップ(p)、テッド・ローゼンタール(p)達NYのトップピアニストと活躍中。
 前回は二人は大好きなフラナガンの愛奏曲の数々や、寺井好みのショーンのオリジナル曲を聴かせてくれました。9月のライブには少し早いけど、ショーンの作品”Japanese Maple(もみじ)”はぜひ聴きたいな!
 トミー・フラナガンの愛奏曲”Elusive”がきっかけで生まれた寺井尚之(p)とショーン・スミス(b)の親交はもう20年!ショーン・スミスの安定したランニングとベースラインは、どんな難曲を演るときも、寺井尚之に鍵盤上の『自由』を与えてくれる大きな優しさを感じます。
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Sean Smith DUO with 寺井尚之
2009年9月26日(土)
Music 7pm-/8pm-/9pm (入替なし)
前売りチケット5,775 (座席指定、税込)
 

 ショーンは地元NYで7/30、8/12にグリニッジ・ヴィレッジの老舗クラブ“55Bar”に自己カルテットで出演予定。夏休みNYに行かれる方はぜひどうぞ!ショーンの可愛い奥様、安紀子さんがマネージメントするスイーツ・ショップ“Lady M”がアッパー・イーストサイドにあるので、お茶してみてください。
 さて、私はこれから、土曜日のジャズ講座で使うOHPシートを清書しなければ・・・J.J.ジョンソン(tb)、アート・ペッパー(as)、ロン・カーター(b)などなど、今回登場するサムライ達の面構えを眺めていると、心はアメリカ中西部インディアナポリスから西海岸シナノン麻薬刑務所へ・・・中西部といえば、土曜日はミネソタで長らく研究活動していた優秀な翻訳者にしてカーネギーホールに出演したバイオリニスト、N大准教授うだちゃんも○年ぶりにお待ちしています!
&nbsp11日(土);ジャズ講座の日のお料理は、暑さのなかで特においしそうな栗かぼちゃやポークを使って、寺井尚之の解説を聴きながら召し上がりやすいパスタを作っておきます。
CU

Echoes 十八番 ”I Loves You Porgy” aka “I Wants to Stay Here”

echoes1020565.JPG  大阪は昨夜もバケツをひっくり返したような豪雨が降り、傘を指せどびしょ濡れになって来られたお客様も。ありがとうございます!
 おかげで、しばしば”エコーズ”で自然発生するアドリブのお題は『雨』となり、笑いと涙を引き出す”エコーズ”ならではの演奏が聴けました。
 この夜、一番好評だったのは、やはり”エコーズ”十八番“I Loves You Porgy”(I Wants to Stay Here)。二人のプレイを、来日時に立ち寄った名ベーシスト、アール・メイ(2008年没)が聴いて、「ぜひレコーディングしておくべきだ!」と強く薦めてくれなければ、エコーズのCDも生まれていなかったかもしれません。
    繰り返し演奏しても、手垢のつかない情感がある”エコーズ”の“I Loves You Porgy”は凄いな!日曜セミナーのおかげなのか、演奏後に『ポーギー&ベス』やこの曲の由来など、鷲見さんが質問攻めに合っていたので、『ポーギー&ベス』のことを少し書いておきたくなりました。
<フォーク・オペラ『ポーギー&ベス』>
 <ポーギー&ベス>は元来、オール黒人キャストの『フォーク・オペラ』と呼ばれる形式のアメリカ的オペラでした。ご存知のように作曲はジョージ・ガーシュイン、原作、台本はデュボース・へイワード、作詞はへイワードと、ジョージの兄、アイラ・ガーシュインが担当。1935年に初演された時は興行的にはパッとしませんでしたが、’52にミュージカルとしてリバイバルし、ヨーロッパで好評を博したのが幸いし、ブロードウェイでもヒットしています。
 bess_sportin'life.jpg映画『Porgy and Bess』(’59)のスチール写真、中央がドロシー・ダンドリッジ演ずるベス。左はスポーティン・ライフ役のサミー・デイヴィスJr.
 物語の舞台であるサウス・キャロライナ州の漁村チャールストンで綿密な取材を行い、ジャズやブルース、ガーシュインのルーツであるユダヤ音楽の哀愁を取り入れた音楽はガーシュインが自らの最高傑作と呼んでいますが、アメリカがこの作品をオペラとして評価するのは’70年代になってからのことでした。
<あらすじ> 
 舞台は、’30年頃のアメリカ南部、サウス・キャロライナ州の漁師町、季節は夏、船着き場で漁師の妻クララが赤ん坊を抱きながら歌う “Summertime”から物語が始まります。
  町のナマズ横町(Catfish Row)に賭場があり、仕事が終わった住人はサイコロ賭博に夢中。そこにいるのが足の不自由な乞食のポーギーです。賭場に荒くれ者のクラウンが情婦のベスをつれてやって来る。ヤクの売人スポーティン・ライフから麻薬とウィスキーを手に入れてギャンブルを始めますが、負けてカッとしたクラウンは、相手の男を殺し、ベスを置いて逃走。残されたベスはポーギーの家に逃げ込み、危うく追っ手を逃れます。
cab027.jpg 情婦のベスと、乞食のポーギー、不釣合いに見える二人は、いつの間にか愛し合うようになります。ところがヤクの売人、スポーティン・ライフも、美貌のベスを狙っている。でもベスはもうヤクザ者には興味がありません。ブロードウェイの初演では、キャブ・キャロウエィがジャイブなキャラクターでスポーティン・ライフを演じ、当たり役になりました。
 ポーギー&ベスの幸せは長く続きません。住民が近くの小島へピクニックに行くことになり、足の不自由なポーギーは、ベスに一人で楽しんでおいでと優しく送り出します。それが運の尽き、その島でベスは逃げた男のクラウンに再会してしまうのです。クラウンはベスに無理やりキスをして、「お前は俺の女だ!離れられないぞ!」と脅します。
porgy-and-bess.jpg ベスはショックで病気になり、事情を察したポーギーはベスに問いただします。「もうクラウンの所には帰らない。私はポーギーと一緒にいたいの…」その場面でポーギーとベスが歌うのが、あの“I Loves You Porgy”なんです。
 ポーギーは、ベスを取り戻そうとうろつくクラウンと対決して彼を殺します。警察に事情聴取されている間に、悪賢いスポーティン・ライフはベスに麻薬を与えて、ポーギーはもう戻ってこないと、言葉巧みにベスに言い寄り、彼女を連れてNY行きの船に乗って逃げてしまうのです。
 警察から放免されたポーギーはベスにドレスを買って意気揚々と戻ってきますが、家はもぬけのから。ポーギーはベスの逃避行を知ると、ヤギに引かせた小さな台車に乗り、ベスを取り戻すため町を旅立っていくシーンで物語は幕を閉じます。
○ ○ ○ ○ ○
 映画やオペラで多少ストーリーは違っていますが、婀娜(あだ)な男や女ばかりの刃傷沙汰は、どこか江戸時代の歌舞伎と似てる。
 初演当時、貧しい黒人社会を舞台に、単純な嘘が悲劇を招くという、白人が創作したストーリーは『人種差別的』だと、黒人サイドから大きな批判を受けたそうです。
 デューク・エリントンは「顔に炭を塗りつけたようなわざとらしい黒人の姿は、虚偽のものだ!」と猛然とガーシュインを非難しました。また各地の黒人俳優組合も、激しい拒否反応を示したそうです。公民権運動以前の時代、黒人の立場だったら確かに憤懣やるかたない思いがあっても当然かもしれませんね。アパルトヘイト時代の南アフリカでは、抗議運動の一環として「ポーギー&ベス」をオール白人キャストで公演する企画が持ち上がり、ガーシュイン財団から待ったがかかったというゴタゴタもあったそうです。時代が大きく変わり、黒人の大統領がアメリカをリードする現在の方が、素直にこの物語を楽しめるかも…。
porgyandbess.jpg “I Loves You Porgy”は、オペラの中で、”I Wants to Stay Here”とタイトルを替えて2度登場するアリアです。この曲以外にも、『ポーギー&ベス』には、前述の”Summertime”や、”Bess, You Is My Woman, Now”(『白熱』/Tommy Flanagan Trio)”や、”It Ain’t Necessarily So(そうとは限らない)”それに沢山の「物売り」の歌など、忘れがたい曲が一杯。
 ジョージ・ムラーツとサー・ローランド・ハナの『Porgy & Bess』や、サラ・ヴォーンの『ガーシュイン・ライブ!』など色んなポーギーやベスたちを聴いてみれば、さらにエコーズを楽しめるかも。
billieloverman.jpg 私が”I Loves You Porgy”を初めて聴いたのは、高校時代自分のお小遣いで初めて買ったジャズのレコード、ビリー・ホリディのデッカ盤、“Lover Man”でした。その頃は英語もそんなに判りませんでしたが、何ともいえないビリー・ホリディの節回しに、いい女だけどカタギじゃないな・・きっとねんごろになった男に歌ってるんだ!と妙にマセた納得をしたのを覚えてます。

 I Loves You Porgy
Ira and George Gershwin
=Bess=
ずっとここにいたいの、
でも私はそんな値打ちのない女。
まともなあんたにはわからない。
あいつに会ったらもう終わり、
私は丸め込まれちゃう。
あいつはきっと舞い戻り、
私を捕えにやって来る。
そうなりゃ私は死んだも同然、
心の深いところで死んでしまう。
でも、あいつが迎えに来たら、
行かないわけにはいかないの。
=Porgy=
もしクラウンがいなければ、
もしお前と俺しかいなければどうだい?
=Bess=
愛してる、ポーギー、
連れていかれないよう守ってね。
あいつが私を狂わせないようにしてよ。
あんたがしっかり守ってくれりゃ、
ずっと一緒にいれるのに、
それなら嬉しいことだけど
・・・

 エコーズのプレイを聴いていると、寺井のピアノからは、『傷だらけの天使』みたいなベスの表情が、鷲見和広さんのベースからは、『あいつを消して』と囁くファム・ファタルな女の情念が聴こえ、ぞくぞくするような色気を感じますよ。
 エコーズは毎週水曜日!ぜひ一度どうぞ!
 明日は皆が知ってるジャズのスタンダードでお腹一杯楽しめる鉄人デュオ!
私は加茂なすグラタンを仕込んでおきます。
CU