新刊紹介:「ルポ風営法改正: 踊れる国のつくりかた」

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  先日ご紹介した、長年、ダンス営業を規制してきた風営法改正関連のウエブ・ニュース、この法改正の動きを3年間に渡って内外で取材した神庭亮介さんが、今度はこの話題を一冊の本として、河出書房新社より上辞されました。

  何故政府は一般市民が「踊る」という行為を規制しようとするのか?何故、日本ではダンス・クラブが「風俗」のカテゴリーに成るのか? この法律を、クラブ経営者や利用者の多くの人が立ち上がり、改正法が成立するまでの記録です。

 本の中には、英国の「クリミナル・ジャスティス法」など、海外のクラブ事情に関するダンス規制法も詳しく紹介されていて、「NYキャバレー法」の章では、不肖当ブログも紹介してもらってます。思えば、私の人生最初の文学全集は旧河出書房版、「少年少女世界の文学」でしたから、とっても名誉に感じてます。

 ダンスと日頃無縁な私にもとっても面白く読みやすいルポルタージュです。

書名:『ルポ風営法改正 踊れる国の作り方』 著者:神庭亮介 2015年9月 河出書房新社刊
ISBN 9784309247267 (4309247261) 

全国の書店、Amazon などで好評発売中です!

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(3) 母ともゑ:しなやかな人生

daisho_tomoe_tana_berkeley_buddhist_church5.jpgカリフォルニア州バークレー仏教会にて (1941) Photo from “A Century of Gratitude and Joy”

:Courtesy of Akira Tana

  アキラ・タナの音楽に導かれて知った、米国の日本人達の苦難と再生の姿は、自分の両親が体験した色々なことと重なり合って、興味は尽きません。上の写真は、アキラさんからいただいたご両親の写真です。前列中央、黒っぽい洋装のカップルが、田名大正、ともゑ夫妻。これは太平洋戦争直前戦前、人種差別のため住む場所に困る日系青少年のために、二人が資金集めに奔走して、カリフォルニア、バークレーの仏教教会に併設した学生寮(自知寮=Jichiryo)で寮生たちと記念撮影したもののようです。

 西海岸の陽光に負けないみんなの晴れ晴れとした笑み!この場面から、わずか数カ月後に太平洋戦争が始まり、「自知寮」はおろか、仏教教会も、日本人の町もあっというまになくなった。大正は他の日系リーダーと共に検挙され拘留所へ、身重のともゑと息子達は、大正と引き離され、アリゾナ砂漠の収容所で4年以上の歳月を送りました。ともゑは収容所内で三人目の男の子を出産し、何百キロも離れた夫との文通が二人の愛をさらに強く深いものにしました。二人が交わした手紙は800通近くに上ります。大正は結核に倒れますが、心は病むどころか、家族愛によって宗教家としての新たな展望を開きます。勾留所生活と病気という二つの苦難を抱えた大正は、次世代の日系人のために法話を書き続け、それを受け取ったともゑがガリ版で印刷して同胞達に回覧しました。同じ施設に拘留された位の高い僧侶達の中には、本道を忘れて野球やギャンブルに没頭する者も多かった中、病気の大正が常に前向きで居られたのは、ともゑの手紙の力であったかも知れません。

 激動の歴史を生きたアキラ・タナの母、田名ともゑはどんな女性なのだろう?

 調べていくと、ともゑは、大正の日記の他に、何冊もの短歌集を編纂し、出版していました。子育てを終え、60歳をすぎてから英語を学び、大学から大学院に進んで修士号を取得しています。
 晩年は地元パロアルトの名士として、尊敬された田名ともゑ、この人の業績は多岐に渡っていて、もう、どこから手を付けていいかわからないほどです。

 田名ファミリーのご厚意で、近いうちに大正の「抑留所日記」は原文で読むことが出来そうですので、後でゆっくりと調べることにして、その他の彼女の半生について書いてみます。

  <自分の道を拓く人>

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Tana Family (circa ’54 or ’55): photo courtesy of Akira Tana
田名大正師を中心に、ともゑさんと膝に抱っこされている幼いアキラさんと3人の兄(Yasuto, Shibun,Chinin: 敬称略)

 田名ともゑ(1913-1991)は北海道の寺の娘、父は名僧の誉れ高く、姉妹兄弟全て仏教に仕える家系の出身で、ともゑ自身は小学校の教諭をしていました。開教使仲間で、渡米後、大正の親友となったともゑの兄、早島ダイテツ(漢字不詳)が、二人の仲を取り持ち、ともゑと大正は祝言の後すぐに、赴任地に赴きました。1938年、ともゑ25才、大正37才、カリフォルニアに着いた翌朝、大正は新妻にこう言いつけたそうです。

 「これからは自分で正しい道を見つけなくてはならない。さあ、まず手始めに、サンフランシスコまで一人で行って帰ってきなさい。」

 ともゑは夫の言葉どおり、英語が全くできないままに、初めての土地でサンフランシスコ湾を渡り町を目指し一日がかりで歩き回った。まさに”ロスト・イン・トランスレーション”!でもちゃんとシスコの町までたどり着き、夫が帰宅する夕方にはちゃんと家に戻っていた。

 このエピソードは、少年時代に田名家の子どもたちと交流し、ともゑさんに習字と短歌を教わったアーティスト、ゲイリー・スナイダー修士論文「A Profile of Tomoe Tana」で見つけたものです。困難に遭遇しても、打ち克つのではなく、受け容れて、慌てることなく、素直に努力する。そのうちに、いつの間にか新しい道が拓けている。これこそともゑ投げ!それは北海道の開拓者魂と、仏教のこころに裏打ちされた比類ない資質を象徴した話のように感じます。

<肝っ玉母さん>

 収容所を出てから半年、やっと家族の再会が叶った後、ともゑは病弱の夫を支え、4人の息子を米国市民として立派に育て上げた。

 長男 Yasutoは名門公立大学、カリフォルニア州立バークレー校卒業、軍人となり米国海軍少佐まで出世しました。(日系社会に詳しいお客様によると、少佐にまで昇進できる日系人は極めて少ないらしい。)次男、Shibunはサンホセ州立大からIBMへ、三男、Chininは、ハーバード法科大学院(ロースクール)から弁護士になった。三兄弟から10歳以上年の離れた末っ子がアキラ・タナ、彼もまた全額奨学金でハーバード大学から法科大学院を卒業していますから、どれほど秀才の兄弟なのかは私にも想像がつきます。アキラは、ほかの兄弟と同じようにエリートとして安定した生活が保証されているのに、家族の猛反対を押し切って、音楽に方向転換、名門ニューイングランド音大の打楽器科に在籍中、すでに世界的なミュージシャンと共演を重ねていました。そのあとは皆さんご存じのように、在米日本人ではなく、メジャーの檜舞台に上る日系人ミュージシャンのパイオニアとなりました。

 アキラさんの「道の拓き方」もまた、両親の影響なのかも知れません。

 それにしても、夫の大正は、宗教家として余りにも誠実な人だった。常に、己よりも他の人々の利益を優先させ、法務のお布施で家族の生活を賄うことに常にジレンマを感じる僧侶、そして病弱でもありました。4人の男の子をおなかいっぱい食べさせて、一流大学に行かせるための生活費はどうしていたのだろう?

 一家の生計を支えるために、ともゑは家政婦として働いた。

 真面目で清潔好きな日本人のハウスボーイやメイドを置くことは、ビヴァリーヒルズはもちろん、当時の米国上流家庭の一種のステータスだったそうですが、元敵国人への憎悪や人種差別もあからさまな時代、短歌や琴や習字も教えることのできる女性の適職というわけじゃない。ともえは30年近く、色んなお家の掃除をして働いていた。家の用事は深夜に済ませ、夫や子どもたちにも不自由な思いをさせないスーパー肝っ玉母さんです。この家政婦の仕事が、ともゑの短歌の業績につながっていくのだから面白い!

 子育てと家政婦の傍ら、彼女は日系人の短歌サークルを主催し、創作を続けています。ほんとに、どうやって時間を工面したのか、息子のアキラさんにも謎だったと言います。とにかくエネルギーと知性と心身の健康がなければ、そのうちのどれひとつもちゃんとできませんよね。三千年の歴史を持つ「短歌」という詩の形式は俳句よりもっと認知されるべき日本の文化だ!ともゑの夢は「短歌」の素晴らしさを日系の次世代に伝え、さらに英語のTankaとして、米国で広めることだった。

 1949年、ともゑが詠進した短歌は宮中歌会始に入選を果たします。

 その年のお題は「朝雪(あしたのゆき)」 ともゑの作品は現在も宮内庁HPで読むことが出来ます。

アメリカ合衆国カリフォルニア州 田名ともゑ
ふるさとの朝つむ雪のすがしさを加州にととせこひてやまずも

  (カリフォルニアで十年の歳月を経ても、故郷で朝に積もる雪の清々しさ、その情景が恋しくてたまらない。)

 故郷、北海道の「朝つむ雪のすがしさ」は、無垢な少女時代への憧憬かも知れない。ただ残念なことに、ともゑは宮中でこの作品の詠唱を聴くことは出来なかった。入選の通知が届いた頃には、歌会始の儀はとうに終わっていたからだ。ただ、もしちゃんと知らせが届いたとしても、日本への往復の渡航費を捻出できたかどうかは分からない。

 夫の赴任先ハワイでの2年間の生活の後、’51年、一家は再びサンフランシスコに戻り、ベイエリアの町、パロアルトの寺に落ち着きました。その間も、ともゑは家政婦として働き続けます。平安の昔、上流階級の遊びであった短歌が、米国で庶民の文化になったことを、ともゑは身を持って示した。やがて、家政婦としてともゑを呼んだ女流詩人、ルシール・ニクソン(1908-63)と運命的な出会いを果たすことになります。(つづく)

 

lucileAS20140124002490_comm.jpg Lucile Nixon はカリフォルニア州パロアルトの教育者、詩人、ともゑに短歌を師事、1956年

宮中歌会始に入選し「青い目の歌人」として日本でも大きな注目を浴びた。

  

 

 

 

 

シルバーウィーク営業します。

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 大型連休19(土)~21日(月)もOverSeasは営業します。

遠方のお客様も、ご来阪のせつはぜひOverSeasにお立ち寄りください!

9/15(火) 寺井尚之+宮本在浩(b)デュオ: Live Charge 1500yen
9/16(水)寺井尚之+宮本在浩(b)デュオ: Live Charge 1500yen
9/17(木) 寺井尚之ジャズピアノ&理論教室
9/18(金)末宗俊郎(g) トリオ with 寺井尚之(p)+坂田慶治(b): Live Charge 1800yen

9/19 (土) 寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums): Live Charge 2500yen
9/20(日)岩田江(as)& The Mainstem Plays BeBop: Live Charge 3000yen
9/21(月)The Mainstem Plays Standards! : Live Charge 2500yen

演奏時間:7pm-/ 8pm- / 9pm- (入れ替えはありません)

*料金はライブ・チャージにご飲食代をプラスしたものになります。(表示は税抜です)

アクセスはこちらです。

ライブ・レポート:Akira Tana at OverSeas, 2015 9/8

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左から:寺井尚之(p)、アキラ・タナ(ds)、宮本在浩(b)

 東日本大震災復興チャリティのために結成した日系人+在米邦人のスーパーバンド、「音の輪」を率いて第三回東北応援ツアーを敢行した後、関西、東京と、様々なフォーマットで連日演奏、各地で大きな感動を巻き起こしたドラムの巨匠、アキラ・タナ。

 9月8日は、OverSeasに詰めかけた沢山のアキラ・タナ・ファンのために、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)とのトリオで出演!OverSeasのライブ史に残る名演奏になりました。

 口コミで評判が広がり場内は超満員、中には遥か熊本からのお客様も。現在、外務省の招聘教員として、神戸で

rp_primary_Tana_UAA_2-24-14.jpg教鞭をとるアキラさんの愛息、Ryan さんがジャズピアノ修行中の友人達を伴って、応援にやってきました! トランペット奏者でもあるRyan Tanaさんはアジア系アメリカ人 アスリートの名鑑に載っていて、ついこの間まで、全米有数の名門校NYU(ニューヨーク大)の強豪バスケ・チームの主将として大活躍していた名選手です! 

 

 <ドラムは歌う>

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 さて、今夜の演奏曲目は、ピアニスト、寺井尚之ゆかりのデトロイト・ハードバップ、アキラさんと共演したジミー・ヒース、J.J.ジョンソン、ベニー・ゴルソンたちのオリジナル、それに緩急自在のスタンダード曲、そしてアンコールは「音の輪」に因んだ日本のメロディー。アキラさんの実力をよーく知っている寺井尚之が、一夜限りの自由闊達な即興演奏のグラウンドになるようなプログラムを虎視眈々と組み立てていました。

  過密スケジュールで約3週間、ゆっくりする間のないアキラさんの為にリハーサルは一切しません。だって、並のプレイヤーなら崩壊不可避のややこしい小節の曲もノー・プロブレムの名手ですからね。「ドラムが演奏を作る」というマイルズの言葉通り、各人にスーパープレイ続出、笑顔でプレイするアキラさんの度肝を抜いたろう、とばかりに、演奏曲に因んださまざまなリフを入れて仕掛ける寺井尚之、返す刀で悠々と続きを叩くアキラさん、倍音に満ちたフォルテッシモから、ピアニッシモの囁きまで、ダイナミクスも三位一体!子犬のようにじゃれ合っていたずらを繰り返す二人の会話は、往年の浪速のお笑い芸術、やすきよ漫才を思わせる歯切れの良さ、華麗なドラミングの最中にも、ピアノのほんとうに小さな一音もかき消されることなくクリアに聴こえてくるのがミラクル!ベテランの間に挟まれたベーシスト、宮本在浩ならではのクールな仕切りも見事で、久々に来てくださったお客様は、彼の成長ぶりに舌を巻いていました。

 今回、最も印象に残ったナンバーは、3rd Setの”It Don’t Mean a Thing (スイングしなけりゃ意味が無い)“、意表を突く超スロー・テンポでスタートして、倍ノリ⇒倍テンポ⇒4倍ノリ⇒4倍テンポから逆方向へ、次から次へのシフト・チェンジ、まるでスイング感のジェット・コースター!満員の客席がどよめきました。

akira_tana_ippei_suga98_n.jpg 一方、ドラムに一番近い席で見ているメインステムの菅一平(ds)さんの横顔は、表情のデパート。演奏テクニックとドラムの”耳”の使い方、音楽の組み立て方・・・どれほど沢山学べたことでしょう。今回一番お得だったのはイッペイさんかも・・・(左写真)

 ””Project S”や”Sassy Samba” といったヒース・ブラザーズのナンバーがコールされるだけで大拍手、それはジミー・ヒースの音楽を聴きこむお客様。ミュージシャンが多いOverSeasならでは!ということで、私もちょっぴり鼻が高いです。(下右の写真は。ヒースBros時代のアキラ・タナ)

 アンコール”どんぐりころころ”は、「リズムチェンジで演るとおもしろいんだよ~!」というアキラさんの一言からレパートリーになった曲、寺井は「こういう曲こそ、大阪ならではのヴァージョンにせないかん。」と、歌詞が大阪弁に聞こえるメロディーになるよう少し修正して音楽劇に仕立ててしまいました。”どんぐり”=宮本在浩(b)、”どじょう”=アキラ・タナ(ds)、”横で見てるおっちゃん”=寺井尚之(p)という配役で、ベースの弓が”どんぐりころころ どんぐりこ”とおごそかに歌い出すと、会場は大爆笑!テーマが終わると、ピアノのシングルトーンが真珠の粒のように転がりだして、切れのよいドラムのビートが噴出、童謡の世界が、ビバップのロマン派世界に一変!コンサートもめでたし、めでたしでした。

 最後に ”OverSeasはHome Away from Home”とアナウンスをしてくれたアキラさんに喝采は止まず。

 次回は来年の4月頃にまたOverSeasで名演奏が聴けそうです。次回もどうぞ宜しくお願い申し上げます。 

 

=演奏曲目=

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  • Bitty Ditty (Thad Jones)
  • Out of the Past (Benny Golson)
  • Epistrophy (Thelonious Monk)
  • Lament (J.J.Johnson)
  • Eclypso (Tommy Flanagan)

<2nd>

  • Beats Up  (Tommy Flanagan)
  • Beyond the BlueBird  (Tommy Flanagan)
  • For Minors Only (Jimmy Heath)
  • If You Could See Me Now (Tadd Dameron)
  • Project ‘S’ (Jimmy Heath)

<3rd>

  • Perdido (Juan Tizol, Duke Ellington)
  • It Don’t Mean a Thing (Mercer Ellington)
  • Commutation(J.J,Johnson)
  • In a Sentimental Mood (Duke Ellington)
  • A Sassy Samba (Jimmy Heath)

Encore: どんぐりころころ@大阪 version:2015 9/8

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(2)

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「サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記 第一巻 (山喜房佛書林 刊)」より抜粋 

 「 仮収容所である、ロスアンゼルス郊外のタハンガCCCキャンプの夜は開けた。昨夜の雨は、山では雪であったと見えて真っ白になっている。…中略…

 午後一時から訪問者が来る。今日と水曜日が訪問日である。特に収容最初の日曜日であるので、ある興奮を持って家族がたくさん押かけていた。全く訪問者なき筈の身は存外平穏に過ごすことが出来てよいと思う。面会時間三十分がすんで、遠く自動車の停車場と、鉄柵内とでサヨナラの手を振る目の中は光っている。

 鉄柵を隔てて三分間の面会で何が語れよう。英語の出来ない者は、日本語のわかる者が立ち会っての会話である。中にいる者は存外あきらめているだろうが、鉄柵の内からたゞ指先だけを触れ合う、そしてサヨナラでは、折角会いに来た人達にとっては、収容された夫、父に対してどんなにみじめな気持を起こさせるか。消灯後にも室内の者は安眠していないようだった。満足を与えない面会をさせる事が、決して収容者への親切ではないと思う。折角会わせるのならば、収容者は罪人ではないのだから、人格を無視したこんな会見方法は、米国の自由精神に照らして改めるがよい。(第一巻 p.110-112)」

   アキラ・タナの父と母、ともゑによる幻の日記文学「戦時敵国人抑留所日記」、先日、アキラさんと親交厚く、アジア系アメリカ文化に造詣の深い神田稔氏 のご協力で、研究者の間で広く引用されている英訳の原文を初めて閲覧することができました。その一部が上の引用文です。大正が「僧侶である」という理由から、FBIに逮捕され、他の日系要人と共に、サンタバーバラ刑務所から「日系人一時勾留所」に移送された直後の記述。その勾留所は、LAのダウンタウンから30kmほど北上した土地、後に『E.T』のロケ地となったタハンガ(Tujunga)という山間地の「ツナ・キャニオン日系人一時勾留所」でした。アキラ・タナが誕生するちょうど10年前のことです。 

 この短い記述の中に、収容所の気候や、家族との面会の哀しさ、会話に日本語が禁じられるもどかしさが、書き手の心象風景と共に、まるで映画の1シーンのように鮮やかな歴史の一端を見ることができます。 

<仏教東漸と家族愛> 

barracks_tuna918a5fe2cfdc93062145a164579b99f0.jpg(左写真:ツナキャニオン勾留所内部)

   大正は、寺の跡取りでもなく、高学歴のエリート僧侶でもない、言わば「他力本願」ではなく「自力」で開教師に抜擢された叩き上げだった。収監されて外界と隔絶するまでは、家族よりも仏への帰依第一の人であったようで、収容所内でも、その容貌と共に「聖人(しょうにん)さま」と呼ばれていた。元々病弱であることから重労働を免除された大正は、戦争が終わった後、異国の地でどの様に仏教を広めていくべきかを思索し、家族の住む収容所のために法話を書き、習字やこれまで叶わなかった英語の学習などに費やします。同時に、東京帝国大学卒などと、立派な肩書を持ちながら、収容所で野球やギャンブルに興ずる「お坊ちゃん」開教使への批判を日記に綴りながらも、苦境の中で前向きな姿勢を崩そうとはしなかった。 

 他の日系一世の人達と同様に、大日本帝国の勝利を信じ、解放の日を心待ちにしていました。ところが1942年ミッドウエ-海戦で日本軍が大敗北を喫し戦況は暗転、入所して一年半後、大正はとうとう結核を発症し収容所内で病院暮らしを送ることになります。隔離された収容所内で更に隔離された大正、その考察は、さらに内省的になり、同時に、妻と子どもたちへの愛情に満ちたものになっていきます。

  「正直に言えば、自分自身と家族のために働くことが、最も幸福な生活であろう。そのためには、以前ともゑが言ったように、庭師になればよいであろう。だが、この僧侶然とした私の顔つきのため、仏事を為すことによって得た金で肉を買うのが心苦しい。奉納された金で、いつ妻の下着を買うのか?と訊かれることのない末世に生まれていればどれほどよかったか、と思うほどである。一方、仏僧の家族というものは悲惨である。ともゑは、それが自分の身に降りかかることであれば、甘んじて受け入れてきたが、我々の子供たちのこととなると、話は別である。(抑留所日記 第四巻、p188-189  阿満道尋による英訳より)」

 大正と妻、ともゑの恋は、戦争によって引き裂かれた状況の中、文通という手段を通して、初めて大きく燃え上がりました。日記には、名歌人であったともゑが送った短歌が挿入され、大正の心の扉が開かれて万葉集の人々のように恋や家族への思いを吐露する日記への変貌していく様子が感動的です。

 大正の内面の変容は、一徹な夫を支え続けるともゑの愛の深さと、彼女が送り続けた短歌が大きな役割を果たしています。聡明さと強靭な忍耐力を兼ね備えたアキラ・タナの母、米国で短歌を広めた立役者、田名ともゑとは? 来週の火曜日に控えるアキラ・タナさんのコンサート・レポートの後、私が感動して大好きになった日本女性、田名ともゑのお話を…(続く)