トリビュートで聴いて欲しいこのメドレー:エンブレイサブル・ユー~カジモド

tommy_red4.jpg  トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!

 フラナガンが織りなすメドレーは、深い意味が紡ぎこまれていて、何年も経ってから「あっ、そうだったのか!」と判るようなものが多い。<エンブレイサブル・ユー~カジモド>も、フラナガン・ミュージックの醍醐味を味わわせてくれる名演目でしたが、残念なことにレコーディングは残っていません。

 今週のトリビュート・コンサートで演奏予定、フラナガン・ミュージックの醍醐味と、幻のメドレーについて、ぜひ!

<歌のお里>

  “Embraceable You”とても有名なガーシュイン作のバラードで、お里はブロードウェイの『ガール・クレイジー』(’30)というミュージカルでした。後にジュディ・ガーランド主演で映画化され、愛らしくて華麗なパフォーマンスはYoutubeで観ることが出来ます。一方、フラナガンや寺井尚之が奏でると、しっとり耳元で甘く囁きかける大人のバラードの趣に変化します。

 
私を抱いて、抱き締めたいあなた、
愛しいひと、

あなたも私を抱き締めて、かけがえのない恋人よ、
一目見るだけで、酔い痴れる。
私に潜むジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

  そして”Quasimodo”は、チャーリー・パーカーがこ作品の枠組みを使って作ったいわゆるバップ・チューンです。先鋭的なメロディとアクセントは永遠のモダン・ミュージック!
 ジャズ評論家のジム・メロードも、このメドレーに感動した一人、フラナガンへの追悼文では、ガーシュインとパーカーによる二つの作品を、17世紀スペイン・バロックの巨匠ベラスケスの作品「ラス・メニーナス(女官達)」と、その構図をそっくりモダンアートに置き換えたピカソの同名作品に例えて説明しています。(下写真「ラス・メニーナス」 左がベラスケス、右がピカソ)

 (抄訳)Tommy Flanagan, a reminiscence by Jim Merod,. April  2002 より

…トミーは彼のヒーローの一人、チャーリー・パーカー作品をくまなく取り上げた。トミーが展開する即興演奏のアートそのものが、普段は寡黙なトミーの饒舌なパーカー論であった。中でも彼が愛奏したのがガーシュインの”Embraceable You”と、パーカーによる改訂版”Quasimodo”を組み合わせたメドレーだ。トミーは、一方の曲の視点から、もう一方の曲に光を当てて、メドレーの形で二つの作品を掘り下げていく。このメドレーを聴く者は、あたかもヴェラスケスの古典的名画『ラス・メニーナス』と、ピカソがそれをキュビズムによって再構築した同名のモダンアートを並べて鑑賞しているような感動を覚えた。…

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   チャーリー・パーカーが、いつ”Quasimodo”を作曲したのかは判りませんが、絵画では3世紀かかったアート革命を、バードはたった20年足らずでやってのけたことになります。この映画から数年後、’47年11月に、ダイアル・セッションと呼ばれるレコーディング群に録音されており、前の月に同レーベルに、テーマ抜きのEmbraceable You を録音している記録を見ると、その時期の作品なのかも知れません。”Quasimodo”って何なのでしょう?

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<カジモドって何?>

  ’89年にヴィレッジ・ヴァンガードでフラナガンが口にしたチンプンカンプンな言葉の意味を教えてくれたのはダイアナ・フラナガンでした。  「ヴィクトル・ユーゴーの小説に出てくる、ノートルダムのせむし男(Hunchback)の名前よ。」  

 カジモドはハリウッド映画では、キングコング以前のホラー映画に再三登場しています。ですから”抱きしめたくなるあなた”を元にチャーリー・パーカーが作った”せむし男”の曲について、上のジム・メロードを含め、洞察力があるはずの多くの評論家が、バードの”ブラック・ユーモア(Sly Joke)”であると、異口同音に解説していますが、ほんとうに単なるシャレなのだろうか?トミー・フラナガンの演奏を聴くとどうしてもそんな風には聴こえない…pepper_adams.gif   トミー・フラナガンの親友、ペッパー・アダムスの証言
 (ジャズ月刊誌Cadence’86 11月号より) チャーリー・パーカーはとにかくものすごい読書家だった。ボキャブラリーが豊富で、深みのあるいい声で整然と話す人だった。物事に精通しており、洞察力があり、いとも簡単に物事の本質を捉えることができた。

 パーカーのバップ魂を受け継ぐバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスはチャーリー・パーカーが、並外れた読書家であったことを証言しています。文芸全般に精通していたチャーリー・パーカーはホラー映画だけじゃなく、ユーゴーの原作「ノートルダム・ド・パリ」をきっと読んでいたはずです。

 だから、19世紀に書かれたヴィクトル・ユーゴーのロマン派小説、「Notre Dame de Paris」のストーリーを駆け足で見てみよう。

<本当のカジモドの物語>

tear4water.jpg     昔々、フランス郊外のノートルダム寺院の前に赤ん坊が捨てられていた。その子供は、寺院の司祭に拾われて、カジモドと名付けられ、寺の鐘つき男として働いている。背中は曲がり顔は片目がつぶれた醜い姿、毎日、鐘楼で大きな鐘を撞くため鼓膜は破れ、耳も聞こえず、言葉もまともに話せない。街の人々は、カジモドを「せむし男」と呼び嘲った。

  ある日、街でリンチされ、さらし者にされたカジモドに同情し、水を飲ませてくれた美しい娘が居た。異教徒として差別されるジプシーの踊り子、エスメラルダだった。カジモドはたちまち彼女に叶わぬ恋をしてしまう。類まれな美貌のエスメラルダは、家柄の良いエリート騎兵隊長に恋をして逢瀬を重ねている。だが、その男にとって、エスメラルダは所詮遊び相手に過ぎない。男は、出世に役立つ良家の娘と婚約してしまうのに、エスメラルダは、その男の不誠実に気づかない。もちろん、どれほどカジモドがエスメラルダに純粋な愛情を捧げても、憐れに思いこそすれ、余りにも醜いカジモドの愛を受け容れるはずもなかった。やがて、カジモドの恩人である司祭までもがエスメラルダの美しさの虜となる。聖職者でありながら、淫らな欲望を遂げようとして、エスメラルダに固く拒まれる。逆恨みした司祭は、エスメラルダに殺人の罪をきせ、彼女を死刑に追いやってしまう。怒り狂ったカジモドは鬼となり、親と慕った司祭を、ノートルダム寺院にそびえ立つ鐘楼の上から突き落として復讐するのです。

esmeralda.jpg  うわべだけの魅力に屈し、愛のない男に弄ばれるエスメラルダ、怪物であるためにいくら真の愛を捧げても成就しないカジモド、聖職者でありながら欲望に溺れる司祭、現世の欲望や社会の偏見によって3つの恋が絡み合った悲劇のお話です。

marriage.jpg  でも、物語はこれで終わりではありません。罪人の死体置き場に眠るエスメラルダの亡骸に寄り添いながら、カジモドは死んでしまいます。 死体置き場に捨てられた二人の肉体が、野ざらしにされ朽ち果てるにつれ、エスメラルダとカジモドの遺骨は固く絡み合い一つになり、分かつことができなくなっていた、というところで、物語は結ばれているのです。

 この物語は、単なるホラーではなく、精神の美しさと、人はみな神の前で平等であることを教える物語だったんですね!

<パーカーとフラナガンの真意は?>

  “Quasimodo”はラテン語で、”単に・・・のような・・・”という意味であるそうです。ヴィクトル・ユーゴーは、物語の中で一番美しい心を持つ「怪物」が、この社会では「人間」ではなく、”人間のようなもの“でしかなかったことを暗示していたのだと文学解説には書いてありました。

  アーサー・テイラー(ds)は、パーカーがラテン語に精通していたと話してくれたことがあります。人間扱いされない“人間のようなもの”とは、チャーリー・パーカーの生きた時代のアメリカ社会では何だったでしょう?
  そうなんです!カジモドとは黒人のメタファーであり、パーカーは自分自身をカジモドになぞらえたの違いありません。ダイアル・セッション時代は、チャーリー・パーカーが麻薬で身も心も滅ぼす寸前であったことを思うと、禁断症状に苦しむ自画像であったとも思えてなりません。

 物語を読んで、もう一度、上の<Embraceable You>の歌詞を見てみましょうか。

・・ジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

 ほらね!

 トミー・フラナガンのメドレーでは、<Embraceable You>はエスメラルダで、パーカーの創った<カジモド>は、エスメラルダと

魂で結ばれた片割れなんだ!

 音楽的真意をしっかり掴みとったトミー・フラナガンは、元曲と対にしたメドレー形式という、通常ではあり得ない構成によって、皆にこのことを伝えてくれていたんですね!

  フラナガンのこのメドレーは残念ながら、ヤマハの自動ピアノの音源としてソロでしか残っておらず、あれほど素晴らしかったヴァージョンや曲のアクセントを受け継ぐのは寺井尚之しかいません。

 カジモドをまだジョークだと思っている人は、ぜひ寺井尚之とメインステムの演奏を聴いてみて欲しい。この世では結ばれなかった二人の魂のラブ・ストーリーが聴こえてくるはずです。



CU

11/16:トミー・フラナガン忌に

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Tommy Flanagan (1930, 3/16- 2001, 11/16)
写真:Jan Persson Jazz Collectionより

   今日はトミー・フラナガンの命日。フラナガンが亡くなってから丸14年になります。

それは、アメリカ同時多発テロ事件の二ヶ月後でした。911が起こった朝はセントラル・パークを散歩するほど元気だったのに…「インターネットで訃報を見たのだけど」と、ジャズ評論家の後藤誠氏から知らせがあり、確認しようにも、OverSeasのピンク電話(!)では、国際電話ができないので、小銭を沢山握って、公衆電話ボックスを探し回ったのが昨日のようです。

 もちろんフラナガン家には誰も居なかったし、ハナさんの家も留守でした。やっとジミー・ヒースさんの奥さんと連絡が付いて、ニュースが本当だと知りました。しばらくすると、新聞社やジャズ雑誌から訃報の確認の電話が相次いでかかってきて、だんだんと亡くなったことが実感となっていきました。

 しばらくすると、ハナさんから寺井に連絡があり、「無理して葬儀に来なくていい。ほんとうに寂しくなるのは、数ヶ月後なのだからね、その頃にNYに来てダイアナを慰めてあげなさい。」と言ってくださった。まさか、一年後にハナさんも亡くなるとは夢にも思っていませんでした。

tfdoorP1090922.JPG  4日後にセント・ピータース教会で行われた告別式には、フラナガンゆかりの多くのミュージシャンが集まって追悼演奏をしました。後輩として、演奏を披露したマルグリュー・ミラーやジェームス・ウィリアムズも亡き人になってしまいました。( OverSeasの玄関を入ったところにある左の写真は、告別式に飾っていたものです。

 ジャズ雑誌から、告別式の写真を頼まれて、NY在住のYas竹田(b)に頼んだら「トミー・フラナガンの葬式でカメラをパチパチするような失礼なことはできません。」と言われ、大いに恥じ入ったのも覚えています。

 

 今日は、フラナガンの好きだった白い花を一輪飾りました。師匠を思う気持ちは何年経っても不変、寺井尚之はトリビュート・コンサートの練習に余念がありません。

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トリビュートの前に:デトロイト・ピアノの系譜

detroit_pianists.jpg左からサー・ローランド・ハナ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス

  トミー・フラナガンを生んだデトロイトは、ご存知のように自動車産業と命運を共にしてきました。20世紀までは函館市と同じ人口(28万人)の中都市に、南部の農場で働いていた多くのアフリカ系アメリカ人が、新天地を求め、大移動し、フラナガンが生まれた1930年代には150万人都市に。自動車産業の栄枯盛衰と、ジャズの流行は同じ歩調で、”ブルーバード・イン”が隆盛を極めた’50年代中期には、全米第5位の大都市に成長していました。

 都市の急速な発展は、激しい人種間の軋轢を生む一方、この都市は、早くから公立学校の人種混合制度を採用し、才能ある黒人師弟に手厚い音楽教育を施した。フラナガンが街のトップ・ピアニストとして名を馳せた頃には、”ワールド・ステージ”という会員数5千人を誇るジャズ・ソサエティが存在し、地元の若手と、全米に知名度を持つミュージシャンを組み合わせるコンサートを定期的に開催していた。当時まだ前例のなかったジャズ・ソサエティ活動の先頭に立っていた学生がケニー・バレルです。

 デトロイトには黒人コミュニティが積極的にジャズを応援するムードがありました。高級ナイトクラブから、大人だけが朝まで楽しむアフターアワーズの店、「ブラック&タン」と呼ばれる人種混合クラブ、バンドも客も未成年オンリーの定例ダンスパーティまで、パラダイス・ヴァレーから郊外まで、デトロイトにはジャズが溢れ、どの家庭にもピアノがあった。ミュージシャンを目指す子供は、放課後になると、自宅に仲間を集めて盛んにジャムセッションを開催し、子どもたちは、その家の家族と一緒に夕食を御馳走になる。当時のデトロイトの黒人社会はそんな状況であったのだそうです。

<デトロイトの水は甘いか?>

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 日本では、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリスの3人を、「デトロイト三羽ガラス」 とひとくくりにし、米国では、この3人にハンク・ジョーンズを加えて「デトロイト派(Detroit piano school)」としています。デトロイト派と言っても、それぞれに独自のスタイルとアプローチがありますし、実のところ、ハンクさんは、デトロイト近郊のポンティアック出身、他の3人より10才以上年上で、三羽ガラスが青年になる頃にはとっくに故郷を離れていた。ですから、必ずしも「デトロイトが育てた巨匠」ではないのですが、やはり、似た味わいを感じます。

 その味わいは、寺井尚之の言葉を借りれば「懐石料理」。スイングからバップへと発展したブラック・ミュージックの潮流をしっかり身につけた者だけが備える品格と洗練、美しいピアノ・タッチと完璧なペダル使い、流麗なテクニック、さりげない転調やハーモニーのセンスなどなど・・・

 ピアノを弾けない素人の私にも、一番わかり易いデトロイト派の特徴は、どれほどオーケストラ的なサウンドを鍵盤から発散している時でも、小柄なハナさんが必要に迫られて椅子の上を牛若丸みたいに飛ぶ、という事以外には、大仰なジェスチャーがないことかな?

 或るとき、「何故デトロイトのピアニストは洗練されているのか?」 と質問され、フラナガンは独特のユーモアで答えた。

「その原因はデトロイトの水だ。」

the-band-don-redman-built.jpg  フラナガン達が生まれた1930年前後、すでにデトロイトには実力のあるミュージシャンがひしめき合っていました。その中には例えば”マッキニー・コットン・ピッカーズ”のようにNYに進出し、ハーレム・ルネサンスの一員となったミュージシャンも居る一方で、録音が現存しないため、忘れられた天才達も居ます。ベニー・グッドマン楽団で世界的な名声を得たテディ・ウイルソンも、フラナガンが赤ん坊の頃はデトロイトで活動していました。

 アート・テイタムやバド・パウエルと言ったジャズ史に残る人々と並んで、地元の先輩ミュージシャンがデトロイト的なアプローチの源流となったことは、想像に難くありません。

<テクニックとテイスト>

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1961-weaver-of-dreams-kenny-burrell-columbia-lp-cs-85033.jpg トミー・フラナガンと親友のケニー・バレルは十代の頃、バレルがヴォーカルとギターを担当、ベーシストを加え、ナット・キング・コール・スタイルのトリオを組んでいたというのは有名です。バレル名義の『Weaver of Dreams』には、その当時の演奏が偲ばれます。フラナガン少年にとって、憧れのテイタムは、余りにスケールが大きすぎて近寄りがたい。でも、キング・コールの洒脱なピアノ・スタイルは、ハンク・ジョーンズやテディ・ウイルソンと同様、「より現実的な目標」だった、というのですから恐ろしい!

 ただし、その発想はフラナガンにとって極めて自然なものだった。テイタム―キング・コールと若いフラナガンを結ぶ線上には、もう一人、フラナガン達デトロイト派の源流なる巨匠の存在がありました。彼の名は”ウィリーA”ことウィリー・アンダーソンと言います。

 トミー・フラナガンはウィリー・アンダーソンに受けた影響を、様々なインタビューの場で繰り返し語っています。

 「・・・デトロイトの街にも、手本となるアーティストが沢山いた。その好例がウィリー・アンダーソンという人だ。独学の音楽家で、非の打ち所のないテクニックと趣味の良さがあった。彼のスタイルはテイタムとナット・コールの系統で、ピアノ+ギター+ベースでナット・コール・スタイルのトリオを率いていた。ケニー・バレルの兄さんが、そのグループのギタリストだった。なかなか良いギタリストだったよ。ビリー・バレルという名前だ。(訳注:ビリーはフォードに勤務する傍ら音楽活動をし、プロに転向することはなかった。)

 ・・・それは’40年代の始めで、私達が12か13才の頃、ちょどケニーと知り合った頃だ。アンダーソンのトリオを聴き、練習しているのを見て、色々勉強した。私達はナット・コールのレコードを全部持っていたし、それらと、彼らのスタイルはとても近かった。実際、ウィリー・アンダーソンはナット・コールのほぼ全レパートリーをカヴァーしていた。とはいえ、単なるモノマネではなく、しっかり自分の個性を持っていた。テイタムやナット・コールから、技術的なアイデアを吸収した上で、自分自身のかたちを作っていた。ほんとうに素晴らしい音楽家だった!」(WKCRラジオ・インタビュー ’94)

<伝説のピアニスト、ウィリー・アンダーソン>

young_burrell_willie_anderson_papa_jo.jpgケニー・バレル(g)、ウィリー・アンダーソン(p)、ジョー・ジョーンズ(ds)(’46) photo courtesy of “Before Motown”

  アンダーソンは、終生デトロイトで活動したピアニストだ。年齢的には、ハンク・ジョーンズとフラナガンのちょうど中間の1924年生まれで、中退したデトロイト市立ミラー高校の同級にラッキー・トンプソン、ミルト・ジャクソンがいる。この時代までの多くの天才と同じように、ピアノだけでなく、ベース、トランペット・・・とにかくどんな楽器でも一旦手にすれば、上手に(!)弾きこなすことが出来た。癌を患い47才で早逝しており、音質の粗悪なプライベート録音しか残っていない、私達には幻のピアニストです。

 そのスタイルは「アート・テイタムの饒舌さと、ナット・キング・コールの洒脱さ、エロール・ガーナーのスイング感を併せ持つ」と、当時の演奏を知るミュージシャンは口々に語る。フラナガンの証言通り、’40年代初めからキング・コール・スタイルのバンドを組み、途中からヴァイブのミルト・ジャクソンが参加して”The Four Sharps(ザ・フォー・シャープス)”というバンド名で人気を博しました。

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The Four Sharps (撮影年’44or ’45) from Detroit Music History
ミルト・ジャクソン(vib),アンダーソン(p)、ミラード・グローヴァー(b)、エミット・スレイ(g)

 当然、NYからやってくる一流ミュージシャンやプロデューサーはアンダーソンをスカウトしようと躍起になった。ベニー・グッドマンは二度も自分の楽団に勧誘し、彼のプロデューサー、ジョン・ハモンドは、’45年、エスカイヤ誌の”All American Jazz Band”のピアノ部門に彼をノミネートした。
 デトロイト派と呼ばれる4人のピアニスト全員を代り代りにレギュラーとして擁したコールマン・ホーキンスも、(当然ながら)彼のプレイをとても気に入って、NYに一緒に来るよう誘った。そして、ディジー・ガレスピーは単身デトロイトにやってきて、リハなしで”フォー・シャープス“と共演している。どんなに速く複雑なバップ・チューンでもピリっとも狂わずコンピングする彼らに、ディジーはめまいを覚えるほどぶっ飛んだ。このリーダーを、なんとかNYに連れて帰りたい!でもやっぱりアンダーソンは首を縦に振らなかった。結局ガレスピーは、ヴァイブでもピアノでも仕事ができるミルト・ジャクソンを連れて行ったので、フォー・シャープス“は解散、後に、ケニー・バレルがこのバンド名を継承している

willie_emitt.jpg アンダーソンはたびたびレコーディングのオファーを受けたのですが、制作会社が弱小で、録音セッション自体がボツになったり、リリースまでに会社が倒産したり、満足な音源がありません。もしも彼が、グッドマン達についてメジャーになっていれば、今頃ジャズ史は変わっていたかも・・・

 フラナガンはアンダーソンが地元に留まった理由を、「譜面が読めないコンプレックスのため」と推測している。そして、「白人音楽の呪縛から解放されているわけだから、譜面が読めないのは決して恥ずかしいことではないのに。」と深遠なことを言っています。

 ケニー・バレルを始め多くのデトロイト・ミュージシャンはアンダーソンの性格について異口同音にこう語る。「非常に無口で内向的だが、内に激しい情熱を秘めていて、そのプレイは饒舌そのもの。仲間に対しては、心の広い優しい人だった。」

 トミーと似てる!!フラナガンは、ウィリー・アンダーソンを最も身近な手本として、テクニックと感情をコントロールする術を身に付けたのかもしれません。

 第27回 トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートは11月28日(土)、皆様のご来場をお待ちしています!

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参考資料: Jazz Lives (Michel Ullman著) New Republic Books刊

Before Motown :A History of Jazz in Detroit, 1920-60
(Lars Bjorn. Jim Gallert共著)
University of Michigan Press刊

Detroit Music History