7/5(土) サミー・ディヴィスJr.をOverSeasで観よう!

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 20世紀を代表するエンタテイナー、サミー・ディヴィスJr.を知っていますか?もしご存じなくても、もしジャズが好きだったら、もしマイケル・ジャクソンやレディ・ガガを好きだったら、ぜひ一度観て欲しい!

 OverSeasでは7月5日(土)「楽しいジャズ講座」で、サミー・ディヴィスJr.がドイツで行ったコンサート映像を観ながら、寺井尚之がその至芸を解説します。

 昭和時代、サントリーのCMは一世を風靡しました。

 サミー・ディヴィスJr.(1925-1990)は、初期のジャズを育んだボードビル出身、つまり歌や踊りや音楽など様々な演芸を披露する旅芸人の一座から頭角を現した人、両親もボードビリアンで、デビューは4才(!)というから歌舞伎役者並です。天才子役として5才で映画デビュー、以来、20代で声帯模写の名人として有名なった後、歌手として「自分の歌」でヒットを飛ばし、ブロードウェイ、ハリウッド映画、ラスヴェガスのショウなど、様々な分野で大活躍しました。

 その芸域はヴォーカルに留まらず、タップダンスのレジェンドとして、マイケル・ジャクソンのルーツの一人に数えられているし、声帯模写も超一流、その辺りは、寺井尚之の講義でじっくりお楽しみください。

a_man_called_adam_dvd_copy.jpg ジャズというカテゴリーを超えたエンタテイナーではありますが、サミー・ディヴィスJr.はトランペットとドラムにも長けていて、映画「アダムという男」では、ナット・アダレイに吹き替えられたものの、リアルなジャズ・トランペット奏者を演じていますし、ライオネル・ハンプトン楽団、ウディ・ハーマン楽団のギグでは助っ人としてドラムを演奏した経歴を持っているというからハンパな腕ではありません。ジョー・ジョーンズやソニー・グリア、オリヴァー・ジャクソン、エディ・ロック…名ドラマー達は皆タップ・ダンサ-でしたから、歴史的に相関関係があるんでしょうね。

 そして言うまでもなくサミー・ディヴィスJr.は、「シナトラ一家 (The Rat Pack)」の一員としても有名です。フランク・シナトラを大親分に、ディーン・マーティン、ナット・キング・コール、ディーン・マーティン、ハンフリー・ボカートなどと盛んにショウを行いました。映像では親分以外の組員をサミーが一人でやってのけています。

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 その他、映画『雨に歌えば』の名ダンス・シーンやタップ・ダンスの神様と呼ばれたビル”ボージャングル”ロビンソンに捧げる名唱”Mr. Bojangles”など、見どころが一杯!

 華やかなパフォーマンスの影で、彼の生涯は、幼い頃に育ててくれた母が実は祖母だったり、キャリアの頂点で、交通事故のために、ダンサーでありながら左目を失明するという引退の危機にさらされたり、人種隔離の時代にブロンドの白人女性と結婚したことがスキャンダルになったり、絶体絶命のピンチを乗り越えてきました。

 またいずれブログに書きたいと思います。まずは7月5日(土)の「楽しいジャズ講座」にどうぞ!

音楽や芸能に興味がある方なら、どなたも必見です!

porgy-and-bess-sammy-davis-jr-1959.jpg『楽しいジャズ講座』:サミー・ディヴィスJr.

日時:7月5日(土) 7pm- 受講料 2,000yen (税抜)

「講座」サイト

 

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(3)

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 ケニー・ド-ハム(KD)は、チャーリー・パーカーが彼を選んだ理由として「僕が彼のほぼ全演目について構成からアンサンブルに至るまで、完璧に知っていたからじゃないかな。」と語っている。ひょっとしたら前任者のマイルズから「僕が独立したら、次は君の番だから、ネタを頭に入れておいてくれ。」と言われていたのかもしれないけれど、この頃のジャズメンの掟は「譜面は門外不出」、隠し録りする機材もないし、それがどれほど難しいかは想像を絶します。とにかくKDは準備万端整えてネキスト・バッターズ・サークルに入っていた。
 そういえば、生前のトミー・フラナガンがトリオでNYのクラブに出ると、色んなミュージシャンが壁際に佇み、必死の形相で、食い入るように見つめてた。私の隣にで五線紙と鉛筆持って集中する寺井尚之もご同様、「楽しい」なんて生易しいものではありません。休憩時間になると、そんな壁際の仲間が寺井の席に来て「さっきのあれ、なんや?」と情報収集。KDもそんな表情でバードのライブを見つめていたのかな?

KDandMomRoyalRoost1948.bmp1948年《Royal Roost》 にて。右端がケニー・ド-ハム夫妻、マックス・ローチ、一人置いてチャーリー・パーカー、一人置いてアル・ヘイグ、左端がミルト・ジャクソン:KDの娘さんEvette Dorhamのサイトより。

 

 マイルズからKDへのレギュラー変更は、チャーリー・パーカー・クインテット初の人事異動でした。KDは体調の波が大きいバードのために、彼が不調なとき、遅刻したときも、バンドをまとめて”チャーリー・パーカー・ライブ”のかたちを作る片腕になりました。リズム・セクションは、マックス・ローチ(ds)、トミー・ポッター(b)、アル・ヘイグ(p)、バードの天才が閃くと、その輝きを真近で享受した。入団2日目、クリスマスの夜、《ロイヤル・ルースト》で彼らが演奏した”White Christmas”のビバップ・ヴァージョンは、後にトミー・フラナガンがピアノ・トリオのヴァージョンに変換して、今では寺井尚之の演目になっています。

<ジャズでは家族を養えない>50af8aff713e2.jpg

 1950年、KDは「ジャズでは家族を養えない。」とNYを退出し西海岸に引っ越した。叩き上げの一流トランペット奏者の決断は、同年、理想の音楽家であるディジー・ガレスピーの楽団が破産の憂き目に会ったことと大いに関係があるように見えます。KDはパジェロの海軍弾薬庫や航空会社などで粛々と勤務して給料をもらった。そんな生活は、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの創設メンバーとなり、ブレイキーに「ええ加減にデイ・ギグ(昼の仕事)辞めてNYに落ち着いたらどや。」と言われるまで続きます。
 ジャズ・メッセンジャーズでは、6月18日に亡くなったホレス・シルヴァー(p)、ハンク・モブレー(ts)たちと活動、1956年に独立し、J.R.モンテロース(ts)を擁する自己バンド”ジャズ・プロフェッツ”を結成しますが、その直後にクリフォード・ブラウンが事故死、急遽マックス・ローチ(ds)に呼ばれ、ブラウン-ローチ5の後釜に入ったため、”ジャズ・プロフェッツ”はあっというまに解散。ディジー・ガレスピー楽団の崩壊とクリフォード・ブラウンの死、’50年代、ジャズの業界より、ミュージシャンを心底震撼させた2つの出来事がKDの人生に大きな影響を及ぼしています。
 

 

  ’50年代以降、フリーランス、つまり無頼派を貫いたKDは、ある時は工場で、ある時は音楽学校の教師やジャズ・モービル、ハーレムの貧困層支援プロジェクトHARYOUのコンサルタントなど、様々な活動をしています。”Quiet Kenny”というのは、ハイノートや超絶技巧を見せつけるのではなく、無駄のない抑制の効いたスタイルから、ケニー・ド-ハムについたニックネームです。名盤『静かなるケニー』を録音した’59年には渡欧し、バルネ・ウィラン(ts)やデューク・ジョーダン(p)達とリノ・ヴァンチュラ主演のフィルム・ノワール『彼奴を殺せ( Un temoin dans la ville)』の映画音楽の作曲や出演もしています。『静かなるケニー』の”Blue Spring”が映画冒頭に流れるテーマ・ソングなんですよ。

Joe_Henderson_Page_One.jpg ’62-’63年にはジョー・ヘンダーソン(ts)とコンビを組み、『ページ・ワン』を発表、”Blue Bossa”は永遠のジャズ・スタンダードとなりました。

 ’60年代の後半から腎臓病と高血圧に悩まされたKDは、だんだんトランペットを吹くことが難しくなり、ダウンビート誌で評論を書きながら、将来は教えることに専念する計画を持ち、NY大学の大学院で学び、’72年に亡くなるまで教壇に立ちました。

 KDの死後10数年経ってから、寺井尚之とNYに行くと、ジミー・ヒース(ts)は「やっとKDの譜面集が出たから、必ず手に入れて帰りなさい。」と言い、出版したドン・シックラー(tp)にその場で電話をかけてくれました。次の日シックラーのスタジオに行くと「君たちがここに来た最初の日本人だ。」と歓迎してくれました。それから数えきれない日本人ミュージシャンが、レコーディングのお世話になっています。

 <ロータス・ブロッサム>

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 KDは48年間の短い人生の中で、何度も音楽活動を休止して、音楽とは無関係な仕事に就きました。すべては妻と三人の娘さん達のためです。そんな生き方を不器用だとかB級だとか言うのはいけないと思います。彼は工場で働くことで、音楽の魂を売り飛ばさずに、信念を貫いたのではないのかな?だから、他の仕事に就いても、彼のマウスピースは錆びつかなかった。沢山の名曲も生まれた。理想を脇に置いて、コマーシャルな音楽をやり、お金と引き換えに品格を失う天才もいるし、逆に、音楽が「生活苦」という垢にまみれてしまうミュージシャンは沢山います。一方、KDは、家族への責任も、音楽に対する信念も、どちらも失わなかった。苦労を重ねるほど、作品と演奏が垢抜けするアーティストが他に何人いるでしょうか?それは、幼いころテキサスの田舎の農場で一人前に働いた体験が元になっているのかも知れません。

 KDの子供の頃は、家に新聞もなかったし、よほど大きなニュース以外全く知らなかった。5才の頃、西部で銀行強盗を繰り返し壮絶な死を遂げたカップル「ボニー&クライド」の事件が、数少ないビッグニュースで、ボニーが死に際に自分の血で書いたという詩を、自伝に引用していました。生死の間にありながら、不思議なほど静謐なこの詩は、KDの音楽と何故かとても似ている。

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 地方紙に、ボニーがありのままの人生を詠った詩を、死に際に作ったという記事が載っていた。血で書かれていたということだ。こういう詩だよ-

ジェシー・ジェームスの一生はもう読んだでしょ。
彼の生き様と死に様を
もし、他にも何か読みたいのなら
ボニー&クライドのおはなしを。

 彼の代表作”Lotus Blossom”は、泥の中から汚れのない美しい花弁を開く蓮の花、KDという人そのままです。『静かなるケニー』を聴く度に、私もがんばろう!と思います。

【参考文献】

  • Fragments of an Autobiography by Kenny Dorham (Down Beat, MUSIC ’70s 資料提供:後藤誠氏)
  • Notes and Tones : Musician To Musician Interviews / Arthur Taylor (Perigee Books刊)
  • To Be or not …To Bop / Dizzy Gillespie, Al Fraser (Doubleday and Company 刊)

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(2)

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ケニー・ド-ハム(1924-1972)

 

 1944年7月、20才を目前に、ケニー・ド-ハム(KD)はNYに辿り着いた。ビッグバンドでのツアー暮らしを辞めNYに落ち着いた理由は、理想の音楽=ビバップを極めるためだったとKDは語っている。同時に、戦時下のビッグバンド興行に対して、”キャバレー・タックス”と呼ばれる非常時特別税が新たに施行され、ダンスホール受難の時代が始まったこととも関係があるかもしれない。  

<ポスト・ファッツ・ナヴァロ>

 KDは、手始めにハーレムの”ミントンズ・プレイハウス”を訪れた。マンデイ・ナイトのジャム・セッションは新mintons_playhouse.jpg旧のミュージシャンが火花を散らしてしのぎを削る道場だ。そこにチャーリー・パーカーが現れると、バンドスタンドにひしめくホーン奏者達は敬意を表して退き、一心に聴く側に回った。バードとセッションができるホーンはディジー・ガレスピーかファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスくらいのものだった。やがてKDはプレイはそんなトップ・ミュージシャンに注目されるようになる。

 NYに来た翌年、ディジー・ガレスピー・ビッグバンドのオーディションに見事合格、ガレスピーの弟子という扱いでヴォーカルを兼任しながら修行した。ガレスピーはKDを第二のファッツ・ナヴァロしようと厳しく育て、KDもディジーに選ばれた弟子であることを誇りに精進した。『静かなるケニー』の悠然として隙のないプレイの源だ。

 当時のジャズ界には、徒弟制度が歴然と存在し、「バンド」という集団の中で、伝統や技量の継承が行われていたのは興味深いですね。

 翌年、KDは文字通りナヴァロの後任として、伝説のオールスター・ビバップ・ビッグバンド、ビリー・エクスタイン楽団に入団することになります。

 <ゴーストライター> 

DIZZY GLLESPIE GIL FULLER AND DICK BOCK.jpg左から:ディジー・ガレスピー、ギル・フラー、西海岸のレコード・プロデューサー、リチャード・ボック

  「ビバップでは食えない。」これは(私共を含め)古今東西のジレンマで、例えビバップの神様、ディジー・ガレスピーの弟子であっても、例外ではなかった。まして娯楽産業は肩身の狭い戦時中、歴史的ビッグバンドに在籍していても、ピッツバーグに妻子を持つKDは、実に色々なアルバイトで稼いだ。軍需産業や砂糖工場、ギグが空っぽの時期は、NYを離れて数ヶ月出稼ぎに行った。

 1970年に書いた自伝で彼はこう付け加えてる。 こんなこと言ったって、今の若い奴らは信じないだろうがね。」

 同時にKDは内職もやった。それはバンドの編曲、ディジー・ガレスピー楽団の番頭格、ギル・フラーは他の楽団のレパートリーもごっそり請負って数人のミュージシャンをゴーストライターとして抱えていたんです。KDが手がけたのは、ハリー・ジェームズ、ジミー・ドーシー、ジーン・クルーパー…錚々たる楽団の編曲でした。

 ギル・フラーはウォルター・フラーともクレジットされ、ビバップ時代のフィクサーとされる謎の多い人物。ジミー・ヒースもフラーから編曲のABCを習ったそうですが、とにかく沢山のクライアントを抱えて、時代の先端を行くモダンな編曲を提供するディレクターのような存在。昨今話題のゴースト・ライターも、ジャズ界では別に珍しいことではなかったんです。

 <栄光のビリー・エクスタイン楽団> 

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  ビリー・エクスタイン楽団は、パーカー、ガレスピー、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、ファッツ・ナヴァロ、アート・ブレイキーなどなど…キラ星のようなメンバーを揃えたビバップ・ビッグバンド!余りに時代の先を行ったモダンさゆえに短命に終わり、真の姿を捉えた録音も少ない伝説のバンドですが、このバンドのメンバーになることは黒人ミュージシャンの誇りだった。KDはお呼びがかかるとすぐさまNYから南部(!)の公演地まで長時間汽車に揺られて駆けつけます。

 ビリー・エクスタインやオスカー・ペティフォード、ディジー・ガレスピー、革新的なミュージシャンが組織した夢の楽団は、それに見合ったブッキングが叶わず解散の憂き目にあったんですね。

 KDは意気揚々とスーツを新調し、ベレー坊にサングラス、それにワニ皮のコンビの靴というバッパーの出で立ちで汽車に乗り込みます。目的地はルイジアナ州モンローという街、セントルイスを過ぎると車両に農夫たちが続々乗り込んできて、彼らの抱えた麻袋の中から、生きたニワトリや豚、リスやフクロネズミの鳴き声や臭いが旅のお供だった。どうにか目的地に到着したものの迎えが来ません。KDは入団初日の情景をこんな風に書いている。

artboo.jpg  本番ギリギリになってやっと迎えが来た。最初に挨拶したのがアート・ブレイキーだ。『おーい、ここだ!』と彼が叫び、初対面・・・というか、初めて間近で見るMr.B(ビリ-・エクスタイン)に紹介され、彼の楽屋に同行した。Mr.Bが着替えを始めると38口径のコルトが露わになった。楽屋を見回すと、武器が沢山あったが、テキサス出身の僕はそんなに気にはならなかった。

 舞台に上がると、僕の座席はブレイキーの隣だ。初日のこの夜、彼のドラムで僕の鼓膜は破れそうになった。だが、その晩まで、こんなに素晴らしいコントロールとドライブ感のあるドラムは聴いたことがない!それは生涯の思い出になる夜だった。”ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー”では、4小節のブレイクが僕に回ってきた。ファースト・トランペットのレイモンド・オールから送られた合図で、僕の人生は物凄く大きな一歩を踏み出したんだ。その4小節を難なく吹き切った途端、メンバー達の歓声が湧き上がり、ブレイキ-得意のあのプレスロールが炸裂した。それはみんなが僕を仲間として受け入れてくれたしるしだった。殆ど23年経った今も耳に焼きついている。」

 エクスタインはKDを弟のように可愛がってくれました。ピッツバーグの自宅でごちそうしてくれたり、クリスマスには上等のレザーのジャケットをプレゼントしてくれた。ところがKDはその恩に背くことをやらかした。日米限らずバンドマンは「呑む、打つ、買う」、KDもギャンブル三昧で生活が荒れ、Mr.Bにもらった大切なジャケットも手放した。挙句の果てに、楽屋でバンドのメンバーと拳銃がらみの暴力沙汰を起こし解雇された。在籍期間丸一年。やれやれ…

<チャーリー・パーカーとパリへ>

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 ビリー・エクスタイン楽団の経歴でハクが付いたKDは、様々なバンドを渡り歩くようになります。そんななか、1948年12月、”ロイヤル・ルースト”でチャーリー・パーカーと共演していたハリー・ベラフォンテがやって来て「バードが君に会いたがってる。」と言付けをもらった。

 「マイルズが自己バンドを率いて独立することになった。もしよかったらうちで演らないか?」

 KDは次の日からチャーリー・パーカー5のレギュラーとして”ロイヤル・ルースト”に出演。1948年のクリスマス・イヴでした。KDは翌年の春、バードとフランスの国際ジャズ・フェスティヴァルに出演。一旦、レッド・ロドニーと交代するものの、断続的に共演を続け、バードの死の一週間前、最後の演奏でもバンドスタンドを分け合いました。

 ツアーを共にし、毎夜共演していてもバードはミステリアスな存在でありつづけました。とにかく性格的に暗いところは微塵にも見せない天才音楽家だったけれど、在籍中たった一度のリハーサルを除き、本番以外に顔を合わせたことがなかったというのです。プラベートな時間はどこで何をしているのか全くわからなかった・・・

(つづく)

 

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(1)

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6月「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ハードバップの味わいがぎゅっと詰まった永遠の愛聴盤『静かなるケニー』登場!濃密なのに、こんなに誰にも愛されるアルバムも珍しい。「完璧」ではありながら、やりすぎない「程のよさ」!粋だ!しかもレーベルは”New Jazz”=つまりプレスティッジですから、このきめ細かく行き届いた名盤はほとんどぶっつけ本番のワン・テイク録りで生まれたということになります。 Kenny Dorham 2.jpg 大都会の「粋」と「憂愁」が漂うKDのトランペットですが、意外にも彼が生まれたのは、NYから遠く離れた西部の大平原でした。彼の幼少時代に聴いた音が、彼のプレイに大きく反映しているといいます。  KDは音楽だけでなく、並外れた文才があり、ミュージシャンの視点から鋭いツッコミを入れるレコード評やエッセイもとてもおもしろい。彼が晩年、晩年(’70)にダウンビート誌に寄稿した自伝的エッセイ”Fragments of Autobiography in Music”には、ビバップやハードバップの中には、彼が幼いころに聴いた大自然の音が取り込まれていると書いてあります。 KDことケニー・ド-ハムの生い立ちをちょっと調べてみることにしました。 この自伝は、現在ではなかなか入手困難、ジャズ評論家の後藤誠氏にコピーを頂いて読むことができました。後藤氏に感謝!

 

<大いなる西部>

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  ケニー・ド-ハムが生まれたのは大正13年=1924年、テキサス州のポスト・オークという土地。街でも村でもなく、土地だった。そこには大きな樫の木が群生し、オールトマンという一家の農場があったので便宜上そう呼ばれていただけ、地図にない地名だった。 『名前の無い場所に住むっていうのがどんなものか想像してみてくれ。』と彼は書いています。20kmほどいくとやっとフェアフィールド市という人里がありますが、その街ですら現在も人口2000人足らずという大西部!両親は農場の小作人で、KDも幼い頃から、白人の農場主の息子たちと一緒に仔馬を乗り回し、家畜の世話や農作業をして育った。そんな彼が最初に親しんだ音楽が自然の音、つまり鳥や動物の声だった。モッキンバード(!)を始め、カラスやキツツキ、夜鷹、ウグイスなどの鳥の声や虫の声、それにコヨーテやガラガラヘビ…それらの生き物の声と、テキサス東部を横断する鉄道の汽笛のハーモニーを楽しんだ。夜汽車の汽笛の哀愁はドーハムの記憶に大きく残っているといいます。そういえば「静かなるケニー」の”Alone Together”にも、そんな静けさと哀愁が漂っていますよね。

<ビバップとヨーデルの不思議な関係> 

 blackcowboys.jpgジャズと出会う前、KDが憧れた音楽家は、夜汽車やヒッチハイクで放浪し、民家に食べ物や一夜の寝床を恵んでもらってはブルーズを歌って聴かせる流れ者(Hobo)、それに農作業をしながら巧みなヨーデルを聴かせるカウボーイ達。 

ケニー・ド-ハムはヨーデルの歌声とビバップのフレーズの関係を、こんな風に語っています。

  「 ヨーデルというのは、カウボーイや農夫が、初期の西部のフォークソング・スタイルで即興演奏をする道具だった。これぞ西部の上流生活!綿摘み農夫がその日の最後の綿を袋に詰め終わったとき、彼がヨーデルを歌うのが聞こえるよ。後になって、チャーリー・パーカーやキャノンボール・アダレイが、ホーンでそんなヨーデルと同じメロディを吹くのを聴いたことがある。 

   カウボーイがひとりぼっちで牧場で作業していると、一日の終わりに歌うヨーデルが聞こえる。仕事を終えて、囲い檻で馬の鞍を外す間、カウボーイはヨーデルを歌うんだ。カウボーイっていうのは、見せたり聞かせたりする芸当を色々持っていて、それらはしっかり仕事と結びついていた。芸はどうやら彼らの生活の一部になっているようだった。」

  KDもそんなカウボーイに倣って、いろんな芸を身につけ、5才の頃には見よう見まねで、ピアノを両手で弾いてみせることが出来たそうです。

<ルイ・アームストロングは大天使に違いない> 

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  人里離れた農場で育ったKDがジャズと出会ったのは12才と遅い。ジャズは、ポストオークから車で一時間ほどの街に住んでいた姉から伝わった。年の離れた姉さんは、やはり音楽の才能があり、ピアノと歌で学費を稼ぎ、結婚してパレスタインという街に住んでいた。その姉が実家に帰ってくると、街で流行する「ジャズ」という音楽のこと、そしてルイ・アームストロングの話をしてくれた。

 姉さんによると、ルイ・アームストロングは本当に素晴らしくて、聖書に出てくる「大天使ガブリエルに違いない。」というので興味が湧いた。 

archangel_gabriel_blowing_trumpet_relief_color_lg.jpg ガブリエルは、神の使いとしてマリアさまに受胎告知した天使で、ラッパを持っていて、神のお告げを伝えるのです。ラジオから流れるルイ・アームストロングのペットも歌も、ガブリエルそのままに神々しいものだと、街で評判だと言うのです。そして姉さんは、まだヨーデルとウエスタンと讃美歌以外に音楽を聴いたことのない弟の将来について予言した。 

 「この子が音楽を聴いて飛んだり跳ねたりするのを見たでしょう!この子は、きっと音楽家になるわ。ルイ・アームストロングみたいな偉大なミュージシャンにね!」 

 同年KDは、ハイスクールで教育を受けるため、親元を離れテキサス、オースティンの親戚の家に下宿し、姉さんが両親を説得してKDにトランペットを買い与え、正式なレッスンを受けることになります。

Clark_Terry_copy1.jpg テキサスはフットボールが盛んな州、アメフトの応援に欠かせないのがチアリーダーとブラスバンド!だからトランペット奏者の層は厚くレベルがとても高かった。全米各地のハイスクール・ブラスバンドの交流も盛んでした。才能のある学生トランペッターがいると、プロのスカウトマンやミュージシャンがゲームにやってきて、青田刈りするということが、フットボール選手だけでなく、応援するブラスバンドの団員にも行われていたのです。なかでも遠く離れたセント・ルイスに、恐ろしくうまい神童が2人いるという噂が鳴り響いてた。それがクラーク・テリーとマイルズ・デイヴィス!

 

  一方、KDのブラバン活動は神童と言えるほどのものではなかった。耳の良いKDは、ラジオで聴いたジャズのメロディーをすぐに吹けてしまうものだから、練習の合間に、ついつい聞き覚えのフレーズを吹いてみる。それが体育会系のバンマスの逆鱗に触れてあえなく登録抹消。KDはさっさとボクシング部に転向し、そこでもなかなかの成績を上げ、同時にジャズに対する興味は衰えず下宿先の納屋で一人練習、化学専攻でウィレイ・カレッジに進学しますが、大学では音楽理論の授業ばかり受け、その頃にはピアノもトランペットも相当な腕前になっていた。

 <ビバップ開拓時代の夜明け> 

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 KDは1942年に徴兵され、陸軍のボクシング・チームに入った。マイルズといい、KDといい、トランペットとボクシングにはなにか密接な関係があるのかもしれません。ボクシングの合間には、同じ隊にいたデューク・エリントン楽団のトロンボーン奏者、ブリット・ウッドマンとジャズ三昧!そんなときに出会ったの音楽がビバップで、KDはこの新しい音楽に夢中になりました。 

 1944年に除隊した後は、ジャズ修行に各地を転々とし、カリフォルニアまで行きますが、自分の求める音楽は西海岸にはなかった。そこで東に進路を変えNYに、翌年、ディジー・ガレスピーの弟子としてガレスピー楽団に入団。ここからKDのハードバップ開拓時代が始まります。(つづく)