ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(2)

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ケニー・ド-ハム(1924-1972)

 

 1944年7月、20才を目前に、ケニー・ド-ハム(KD)はNYに辿り着いた。ビッグバンドでのツアー暮らしを辞めNYに落ち着いた理由は、理想の音楽=ビバップを極めるためだったとKDは語っている。同時に、戦時下のビッグバンド興行に対して、”キャバレー・タックス”と呼ばれる非常時特別税が新たに施行され、ダンスホール受難の時代が始まったこととも関係があるかもしれない。  

<ポスト・ファッツ・ナヴァロ>

 KDは、手始めにハーレムの”ミントンズ・プレイハウス”を訪れた。マンデイ・ナイトのジャム・セッションは新mintons_playhouse.jpg旧のミュージシャンが火花を散らしてしのぎを削る道場だ。そこにチャーリー・パーカーが現れると、バンドスタンドにひしめくホーン奏者達は敬意を表して退き、一心に聴く側に回った。バードとセッションができるホーンはディジー・ガレスピーかファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスくらいのものだった。やがてKDはプレイはそんなトップ・ミュージシャンに注目されるようになる。

 NYに来た翌年、ディジー・ガレスピー・ビッグバンドのオーディションに見事合格、ガレスピーの弟子という扱いでヴォーカルを兼任しながら修行した。ガレスピーはKDを第二のファッツ・ナヴァロしようと厳しく育て、KDもディジーに選ばれた弟子であることを誇りに精進した。『静かなるケニー』の悠然として隙のないプレイの源だ。

 当時のジャズ界には、徒弟制度が歴然と存在し、「バンド」という集団の中で、伝統や技量の継承が行われていたのは興味深いですね。

 翌年、KDは文字通りナヴァロの後任として、伝説のオールスター・ビバップ・ビッグバンド、ビリー・エクスタイン楽団に入団することになります。

 <ゴーストライター> 

DIZZY GLLESPIE GIL FULLER AND DICK BOCK.jpg左から:ディジー・ガレスピー、ギル・フラー、西海岸のレコード・プロデューサー、リチャード・ボック

  「ビバップでは食えない。」これは(私共を含め)古今東西のジレンマで、例えビバップの神様、ディジー・ガレスピーの弟子であっても、例外ではなかった。まして娯楽産業は肩身の狭い戦時中、歴史的ビッグバンドに在籍していても、ピッツバーグに妻子を持つKDは、実に色々なアルバイトで稼いだ。軍需産業や砂糖工場、ギグが空っぽの時期は、NYを離れて数ヶ月出稼ぎに行った。

 1970年に書いた自伝で彼はこう付け加えてる。 こんなこと言ったって、今の若い奴らは信じないだろうがね。」

 同時にKDは内職もやった。それはバンドの編曲、ディジー・ガレスピー楽団の番頭格、ギル・フラーは他の楽団のレパートリーもごっそり請負って数人のミュージシャンをゴーストライターとして抱えていたんです。KDが手がけたのは、ハリー・ジェームズ、ジミー・ドーシー、ジーン・クルーパー…錚々たる楽団の編曲でした。

 ギル・フラーはウォルター・フラーともクレジットされ、ビバップ時代のフィクサーとされる謎の多い人物。ジミー・ヒースもフラーから編曲のABCを習ったそうですが、とにかく沢山のクライアントを抱えて、時代の先端を行くモダンな編曲を提供するディレクターのような存在。昨今話題のゴースト・ライターも、ジャズ界では別に珍しいことではなかったんです。

 <栄光のビリー・エクスタイン楽団> 

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  ビリー・エクスタイン楽団は、パーカー、ガレスピー、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、ファッツ・ナヴァロ、アート・ブレイキーなどなど…キラ星のようなメンバーを揃えたビバップ・ビッグバンド!余りに時代の先を行ったモダンさゆえに短命に終わり、真の姿を捉えた録音も少ない伝説のバンドですが、このバンドのメンバーになることは黒人ミュージシャンの誇りだった。KDはお呼びがかかるとすぐさまNYから南部(!)の公演地まで長時間汽車に揺られて駆けつけます。

 ビリー・エクスタインやオスカー・ペティフォード、ディジー・ガレスピー、革新的なミュージシャンが組織した夢の楽団は、それに見合ったブッキングが叶わず解散の憂き目にあったんですね。

 KDは意気揚々とスーツを新調し、ベレー坊にサングラス、それにワニ皮のコンビの靴というバッパーの出で立ちで汽車に乗り込みます。目的地はルイジアナ州モンローという街、セントルイスを過ぎると車両に農夫たちが続々乗り込んできて、彼らの抱えた麻袋の中から、生きたニワトリや豚、リスやフクロネズミの鳴き声や臭いが旅のお供だった。どうにか目的地に到着したものの迎えが来ません。KDは入団初日の情景をこんな風に書いている。

artboo.jpg  本番ギリギリになってやっと迎えが来た。最初に挨拶したのがアート・ブレイキーだ。『おーい、ここだ!』と彼が叫び、初対面・・・というか、初めて間近で見るMr.B(ビリ-・エクスタイン)に紹介され、彼の楽屋に同行した。Mr.Bが着替えを始めると38口径のコルトが露わになった。楽屋を見回すと、武器が沢山あったが、テキサス出身の僕はそんなに気にはならなかった。

 舞台に上がると、僕の座席はブレイキーの隣だ。初日のこの夜、彼のドラムで僕の鼓膜は破れそうになった。だが、その晩まで、こんなに素晴らしいコントロールとドライブ感のあるドラムは聴いたことがない!それは生涯の思い出になる夜だった。”ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー”では、4小節のブレイクが僕に回ってきた。ファースト・トランペットのレイモンド・オールから送られた合図で、僕の人生は物凄く大きな一歩を踏み出したんだ。その4小節を難なく吹き切った途端、メンバー達の歓声が湧き上がり、ブレイキ-得意のあのプレスロールが炸裂した。それはみんなが僕を仲間として受け入れてくれたしるしだった。殆ど23年経った今も耳に焼きついている。」

 エクスタインはKDを弟のように可愛がってくれました。ピッツバーグの自宅でごちそうしてくれたり、クリスマスには上等のレザーのジャケットをプレゼントしてくれた。ところがKDはその恩に背くことをやらかした。日米限らずバンドマンは「呑む、打つ、買う」、KDもギャンブル三昧で生活が荒れ、Mr.Bにもらった大切なジャケットも手放した。挙句の果てに、楽屋でバンドのメンバーと拳銃がらみの暴力沙汰を起こし解雇された。在籍期間丸一年。やれやれ…

<チャーリー・パーカーとパリへ>

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 ビリー・エクスタイン楽団の経歴でハクが付いたKDは、様々なバンドを渡り歩くようになります。そんななか、1948年12月、”ロイヤル・ルースト”でチャーリー・パーカーと共演していたハリー・ベラフォンテがやって来て「バードが君に会いたがってる。」と言付けをもらった。

 「マイルズが自己バンドを率いて独立することになった。もしよかったらうちで演らないか?」

 KDは次の日からチャーリー・パーカー5のレギュラーとして”ロイヤル・ルースト”に出演。1948年のクリスマス・イヴでした。KDは翌年の春、バードとフランスの国際ジャズ・フェスティヴァルに出演。一旦、レッド・ロドニーと交代するものの、断続的に共演を続け、バードの死の一週間前、最後の演奏でもバンドスタンドを分け合いました。

 ツアーを共にし、毎夜共演していてもバードはミステリアスな存在でありつづけました。とにかく性格的に暗いところは微塵にも見せない天才音楽家だったけれど、在籍中たった一度のリハーサルを除き、本番以外に顔を合わせたことがなかったというのです。プラベートな時間はどこで何をしているのか全くわからなかった・・・

(つづく)

 

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