再掲:楽器演奏と歌詞の関係:Jimmy Heath

  米国議会図書館の音楽部門で上級図書館員としてジャズ史の資料保存に貢献し、ジャズ評論家として、ブロガーとして情報発信するLarry Appelbaumさん、先日ひょんなことからFBを通じて、有益な情報を色々教えていただきました。

 そのきっかけになったのがアッペルバウムさんのジミー・ヒース・インタビュー on Youtube、面白かったので再掲します。

 ジミーのトークは、いつでもこんな感じでスイングしてます。ラッパーよりもクールだし、話し方がビバップ・フレーズでしょ!

  冒頭、巨匠ベン・ウェブスターの「歌詞を知らないラブソングは演らない」主義はきわめて有名な話、デクスター・ゴードン主演のジャズ映画『ラウンド・ミッドナイト』でも、このエピソードが巧みに使われていた・・・

 たいへん判りやすい英語ですが、念のため和訳を作りました。ジミーの話し言葉みたいにヒップじゃないけどゴメンネ。


  

<Jimmy Heath: Why Ben Webster Learned the Lyrics>
(ジミー・ヒース:ベン・ウェブスターが歌詞を覚えた理由。)
2011年2月  Mid-Atlantic Jazz Festival(メリーランド州)にて。
司会:ラリー・アッペルバウム

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 ベン・ウェブスターはテナーサックス史上、最高のバラード・プレイヤーだ!ほら今流れているプレイを聴いてくれ。Crying! 泣けるぜ!

  じゃあベン・ウェブスターの話をしよう。昔、ベンが住んでいた街、コペンハーゲンに行ったときのことだ。ベンは僕が歌詞を知ってると見込んで、「”For Heaven’s Sake”を演奏したいから教えてくれ」と言った。ビリー・ホリディで有名なあの歌だ。「ラブ・ソングは、かならず歌詞を覚えてから演る。」と彼は言った。つまりサックスで歌詞を歌うというわけだ。判るかい?

 だが僕の友達のジョニー・グリフィンは全く違う意見だ。「歌詞は要らない。俺はサックス奏者、サックスは歌詞でなく音符を吹くんだからな!」まあ、人それぞれだ。

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  私の場合はどうするか?ビリー・ホリディの「Lover Man」というバラードで説明してみよう。(歌詞がなく)音符だけなら、こんな風に吹くだろう。(スキャットしてみせる)OK?

 じゃあ次は、歌詞をつけて歌ってみるよ♪ “I don’t know why but I’m feelin’ SO sad…(なぜだかとっても寂しい)・・・「ソー・サッド」じゃなく自然に「ソ~~・サア~ッド」となるじゃないか。大違いだろう!(次の節)“I long to try something I NE~EVER had. (決して知らなかったものに憧れる。)” 歌詞がつくと抑揚が出て、メロディに表情が生まれる!僕の求めるのはそこだよ!もともと楽器は「ヴォイス」を出すように作られている。どんな楽器も、人間の声の真似なんだ。

 ジョニー・ホッジス、ポール・ゴンザルベス、そしてベン・ウェブスター!彼らのバラードは格別で、聴く者の胸を打つ。だがサックスはこんなこともできる。(スキャット)ブラブラバリバリ○×△☆…こんなのはテクニックをひけらかしているだけなんだよ。見せびらかしから感動は生まれない。

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マルチ・リード奏者、ユセフ・ラティーフ

 今日聴いたものとは少し毛色が違うけど、グローヴァー・ワシントンJrにも、ぐっとくる歌心があるよ。

 僕の親友、マルチ・リード奏者、ユセフ・ラティーフは、ソウルフルなブルースが得意だ。弟のTootie(ドラマー、アルバート・ヒース)から聞いたんだが、あるとき、彼がブルースを演奏すると、店のオーナーに苦情を言われたそうだ。

 「おいおい!そんな風にブルースを吹かないでくれ!お客が聴くことに専念して、ちっとも酒が進まねえじゃないか!売り上げが減るんだよ!」(爆笑)

 音楽は面白いね!時にはエクサイテンィグに演奏することもできる。どんな場合も、おおむね、心や頭から湧き出るものを演奏しているわけだ。

 僕は「Three Ears: 3つの耳」というシンフォニーを作曲した。音楽は耳で聴く、その耳はいろんな場所にあるという曲だ。心にも、ケツにも、脳にも耳があるんだ。だから音楽はこれほど好まれる。ごきげんなビートならどうだい?ビートは強力だ。身体が勝手に動く。(お尻を指差して)つまり身体で聴くわけさ。クラシック音楽なら?例えばこんな交響曲(スキャットする)いいねえ!心に響くねえ。沢山の音楽家が、こういうクラシック的なものをポップ・ソングに作り変えたんだ。

 それじゃ僕がずっと聴き続けるディジー・ガレスピーはどうか?例えば、『Woodyn’ You 』という曲、あのコード・チェンジ、メロディもまた格別だ。彼の音楽の何か特別なものが、僕の心を強く揺さぶるんだ!

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サラ・ヴォーン&ビリー・エクスタイン

  歌手はどうだい?サラ・ヴォーン、いいなあ!僕は彼女に恋してる!いや、音楽的にということだが…。サラは僕の心を打つ。カーメン・マクレエ、いいなあ、ビリー・エクスタイン、いいなあ!僕はサックス奏者の代わりに歌手になりたかった!だけど、もしそうだったら、誰も僕が歌うのを聴いてなかったかも知れない・・・だって女の子達は大きくてハンサムな歌手が好きだから、背が高くてハンサムじゃないとなあ!(ジミーの身長は160センチ程度で、Little Giantと呼ばれている。)ビリー・エクスタインみたいにね!WOW!

 (あなたもジャイアントですよ!)(笑)

<了>


  アッペルバウムさんのジャズ・ブログ(英文)”Let’s Cool One : musings about music“はこちらに!

第24回トミー・フラナガン・トリビュート応援ありがとうございました。

 トミー・フラナガン・バースディの前日、3月15日(土)、24回目となるトリビュート・コンサートを皆様のおかげで盛況で終えることができました。

お越しくださった皆様、録音やCD作成、色々サポート下さった皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。

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  フラナガン没後13年、「トリビュートなんて、同じことばっかりやっている」と思われるかも知れませんが、私にとっては毎回がThe New Thing!

 世の中が移り変わり、寺井尚之や私の顔にシワが増え、2人のミュージシャン、宮本在浩(b)や菅一平(ds)の頼もしさが増そうとも、フラナガンが愛奏した演目は、時が経つほど、違う輝きを放ちながら、いつも変わらず新しいことを語りかけてきます。 

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  春のトリビュートでは、フラナガンが”スプリング・ソング“と呼んだ季節の曲がお楽しみ、彼が大好きだった清楚な春の花、カラーを飾ったトリビュートの夜は”They Say It’s Spring”と”A Sleepin’ Bee”の2曲が演奏されました。ちなみにカラーの花言葉は「夢のような美しさ」だそうですから、トミー・フラナガンのシングル・ノートにぴったりですよね!礼儀正しいナイス・ガイとフラナガンが生前評した常連様からのお供え、銘酒の香りが漂うような春のサウンドでした。

likeoldP1070766.JPG   フラナガンの演目は、いわゆるスタンダード・ナンバーが少なくて、初めてのお客様には、おおむね馴染みのない曲が多いのですが、この夜、「すごいっ」と大評判になっていたのがバド・パウエルが生まれたばかりの娘さんに捧げた”Celia”でした。フラナガンはこの曲が収められたアルバム『Jazz Giant』を自宅の書棚にずっと飾っていました。パウエル作品の中でも、尖ったところがなく比較的地味な曲ですが、1989年にフラナガンがリンカーン・センターで演奏したアレンジは、曲に秘められた優しさを一層際立たせたものになっていて、日本の侘び寂びの美学と共通するものがありました。そのアレンジで聴かせた寺井のプレイ、忘れがたい極上のバップになりました!
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  寺井尚之The Mainstemの醍醐味はレギュラートリオならではの阿吽の呼吸で繰り広げるフットワークの良さ!宮本在浩(b)、菅一平(ds)の音楽に対するリスペクトにグッと来るお客様もじわじわ増えています。”Passion Flower”では宮本在浩の弓技を、”Mean Streets”では菅一平(ds)のストーリーを語るようなドラムソロに大喝采! 

  久々に来られたお客様たちの目がまん丸になっていました。

 

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  生前トミー・フラナガンと庭の話をしていたら、”I have a green thumb“(僕は『緑の親指』を持ってるんだよ。)と言ったことがあります。それは「植物の種を植えて育てるのが上手な人」という意味、マンハッタンのアパートにはプランターさえないのに、おかしなことを言うなあと…この夜の演奏を聴いていると、忘れていたこの言葉を思いだしました。フラナガンは、寺井の中に種を植え付けて去っていったのかも知れません。

 左の写真で、トミーの写真の下にあるのは、当日ご病気で来れなくなったお客様の座席表。寺井がピアノの傍らに貼り付けていました。

 こんなちょっと変わった愛情表現も、フラナガンから受け継いだものなのかな?

  第24回トミー・フラナガン・トリビュート、録音CDをご希望の方はOverSeasまでお問い合わせください。

  

 

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=第24回トリビュート・コンサート 曲目=

<1st set>

1. Beats Up ビーツアップ (Tommy Flanagan)

2. Out of the Past  アウト・オブ・ザ・パスト (Benny Golson)

3. Minor Mishap マイナー・ミスハップ (Tommy Flanagan)

4. メドレー: Embraceable You  エンブレイサブル・ユー~ Quasimodo カジモド (George Gershwin- Charlie Parker)

5. Sunset and the Mocking Bird サンセット&ザ・モッキンバード (Duke Ellington)

6. Rachel’s Rondo レイチェルズ・ロンド (Tommy Flanagan) 7. Dalarna ダラーナ (Tommy Flanagan)

8. Tin Tin Deo ティン・ティン・デオ (Chano Pozo, Dizzy Gillespie, Gill Fuller)

<2nd set>

1. That Tired Routine Called Love ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラブ (Matt Dennis)

2. They Say It’s Spring ゼイ・セイ・イッツ・スプリング (Bob Haymes)

3. Celia シリア (Bud Powell)

4. Eclypso エクリプソ (Tommy Flanagan)

5. A Sleepin’ Bee スリーピン・ビー (Harold Arlen)

6. Passion Flower パッション・フワラー (Billy Strayhorn)

7. Mean Streets ミーンストリーツ (Tommy Flanagan)

8. Easy Living イージー・リヴィング (Ralph Rainger)

9. Our Delight アワー・デライト (Tadd Dameron)

<Encore>

 With Malice Towards None ウィズ・マリス・トワード・ノン (Tom McIntosh)

メドレー: Beyond the Bluebird ビヨンド・ザ・ブルーバード ~ Like Old Times ライク・オールド・タイムズ (Tommy Flanagan – Thad Jones)

トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(最終回)

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<演奏のこと、レパートリーのこと>

 「このあいだヴィレッジ・ヴァンガードで、ある人物に、私が影響を受けたピアニストは誰かとしつこく尋ねられた。実は(ピアニストではなくて)ホーン奏者のようなプレイを狙っているんだけどね…つまりピアノでブロウするわけだ。
 演奏で一番気を使うのは、一曲のサウンド、つまり全体のトーナリティだ。もしCのブルースを演るなら、全体が一つの円になるようにプレイしなければならない。頭にはCのサウンドをしっかりキープしながらも、心はそのサウンドに覆われて茫洋とするわけだ。(トーナリティに比べれば)曲のコード進行もメロディも、さほど重要ではない。でも弾いているときに迷ったときには、メロディとコードが道標になる。

 僕の取り上げる題材に、目新しいものは殆どないよ、僕にとっては新鮮だとしてもね。新曲をレパートリーに加えると、プレイが高揚する。特に好きなのは(ジェローム・)カーン、(ハロルド・)アーレン、ガーシュイン、それにデューク・エリントン―ビリー・ストレイホーン、タッド・ダメロンといった作曲家たちだ。まあ何を演ろうと、演奏するというのは大変な仕事だ。一週間続けてギグをやった後は、とにかく休みたい!癒されたい!」

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 フラナガンは真剣に聴くことをリスナーに求める。シングルノートのメロディラインは上へ下へと動き続けるが 、彼はパーカッシブなプレイヤーでもあるから、思いがけない音にアクセントを付ける。絶え間なく変化するフレーズはリスナーに挑みかかると思えば、また遠ざかる。その結果生まれるダイナミクスは微妙で、しかも魅力に溢れている。縦横の双方向に流れるメロディに、聴く者は2本のラインが動いているような印象を受けるし、フラナガンはその両方をしっかり聴いて欲しいと思っているのだろう。このラインの内側が、また違う動きを見せる。―倍テン、倍ノリの動き、それにフラッテッド・ノートの塊、ダンスするように疾走感のあるパッセージ、そして休符-それは前のフレーズの余韻を響かせる空間だ。フラナガンはまさしく超一級である。

 時として、天気が良く、聴衆が熱意に溢れ、ピアノも良く、最高の雰囲気になると、彼の情熱はすさまじいものになる。一旦そうなると、もう手がつけられない。熱いインスピレーションを沸き立たせ、息を呑むソロ、ソロ、ソロ繰り出し、一夕を弾き通す。すると聴衆は、神々しい出来事に立ち会ったような気分にさせられる。

<ダイアナ・フラナガン再登場>

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 ダイアナ・フラナガンが居間へ入ってきた。するとフラナガンは立ち上がり伸びをして、散歩の時間だからと言う。今日のコースはリンカーン・センターに向かって南下し、セントラルパークを通って帰宅する、そう言って日除け帽をかぶると部屋を出て行った。

 ダイアナ・フラナガンはクッキーをつまみソファに腰掛けた。
彼女曰く、今までの人生で、一番良かった行いは、NYに来たことと、フラナガンとの結婚だ。

  「私はアイオワ州エイムズからNYにやって来ました。父が転々として落ち着いたのがアイオワだったので。生まれた場所はケンタッキー州ラッセルビルで、そこから、テネシー州クラークスビル、ケンタッキー州ホプキンスビル、ノースキャロライナ州、ゴールズボロなど色んな場所に移り住んで育ちました。父はセールスマンで保険や紳士服、冷蔵庫、色んな営業マンをして、ナショナル・キャッシュレジスターにも務めてました。物静かで、洞察力があり優しく上品な人でした。父の名前はウイリアム・キルシュナー、スコットランド、アイルランド、ドイツの血を引いています。トミーも私も、父がテネシーに住んだことがあったので、テネシーの言葉使いが一緒だったんです。例えばテネシーでは「靴べら」のことを「スリッパのスプーン」と言うんです。父は1971年に亡くなりました。

B00000GWXL.01_SL75_.jpg 母は老人ホームで暮らしており、もうすぐ90才です。フィラデルフィア出身で名前はルース・ステットスンと言います。母方の祖父はイングランド人で、祖母はフランスとアイルランドの混血、母はいつも音楽や書物が趣味でした。ウイットがあり、感情の起伏の大きい人でした。私はアイオワ大学で奨学生として2年間音楽を学び、NYに出てきたのは1949年です。ずっと、自分の落ち着く場所はNYだと思っていました。9-10才頃、1939年のNY万博に連れていってもらってからずっとそう思っていました。NYに行ってからはコロンビア大の演劇科に進みました。それとは別にバイオリニストや歌手もやりました。芸名はダイアナ・ハンター…ああカッコ悪い! NY界隈で歌ったり、エリオット・ローレンスやクロード・ソーンヒルの楽団とツアーもしたわ。ソーンヒルは私にとても親切でした。今でも彼のプレイはビューティフルです!”スノウ・フォール”とか、夢見るようなシングルノートのサウンドがいいわね。

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  1956年、私はエディ・ワッサーマンというテナー奏者と結婚しました。彼はジュリアード出身でチコ・オファレル、チャーリー・バーネット楽団で活動、ジーン・クルーパー・カルテットにも長いこと在籍していました。私は1962年にプロ歌手を引退し、エディとは1965年に離婚しました。それからシティ・カレッジで国語の学位を取得し、バンクストリートで教育学を学んで教師になり、最初はベドフォード・スタイブサント、そしてサウス・ブロンクスで10年間、音楽、英語、黒人学などの教鞭を取りました。教師の仕事は、トミーと結婚する直前の1976年まで続けていました。
 私とトミーは、本などを読み聞かせし合うんです。私が興味のあることはなんでも興味を持ってくれるし、彼が興味の持つことは、私も面白いんです。スポーツ以外ですけどね。

Rainbow_room.jpg 彼の優しさや物静かなところは見せかけです。本当は強い男性です。とても気骨があり、面白くて、一緒に暮らすには最高の伴侶です。彼の発言には、どれも表と裏の2重の意味があって、尖っているのよ。二人だけのゲームをしたり、一緒に笑ってばかりいます。彼はダンスもするんですよ。ちょっとしたタップダンスや、サイドシャッフルなんかをこの辺りで踊るの、人前では絶対にしませんが。昔デューク・エリントン楽団を聴きに”レインボー・グリル”(訳註:ロックフェラーセンターの高級展望レストラン 左写真)に行ったことがあって、彼は私をダンスフロアに誘ってくれたのだけど、同じ所に突っ立って左右に身体を揺すってるだけだったわ・・・

 夜が更けたら、彼の伴奏で、今も時々歌ってます。今じゃもう誰も知らないような曲を私たちは沢山知ってるんですもの。」

(抄訳)

原書 ”American Musicians II: Seventy-one Portraits in Jazz, POET (pp 455-pp 461)”  Whitney Balliett 著  Publisher: Oxford University Press,

 Jazz Club OverSeasでは、寺井尚之メインステムがトミー・フラナガンを偲ぶトリビュート・コンサートを誕生月3月と逝去月11月に、開催しています。ぜひ一度お越しください。

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トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(2)

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<幼い頃、両親のことなど>

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    玄関のベルが鳴り、フラナガンが妻を家に招き入れた。

 「トミー、ごめんなさい!荷物が一杯で鍵がどこにあるかわからなくて…ブドウとクッキーを買って来たから、荷物をほどいたらお出ししますね。」

   山のような食料品を抱え、よろよろしながら彼女は言った。ブルネットの美人だ。その黒髪が透き通るように色白の顔を引き立て、ビクトリア朝絵画を思わせるが、声は夫より大きく、動きも倍は早い。

 フラナガンは再び腰掛けて語りだした。

 「心臓発作に襲われたとき、たいしたことはないと言われながらも、17日間入院した。禁煙し、酒を控え、体操も始めた。もっぱらウォーキングするだけだが…とにかく街中を正しいペースで歩く。これは郵便配達だった父親の遺伝かもしれないな。子供の頃、兄弟で父が郵便を配達するルートを計算してみたら、少なくとも10マイル(16km)あった。父は郵便配達の前はパッカード自動車会社で働いていた。とにかく大恐慌時代の行政のほうがずっと手厚かった。

cob651.jpg 僕の父は1891年、ジョージア州のマリエッタの近くで生まれた。第一次大戦で、陸軍に入隊し、終戦後に北部へ移住した。その前はフロリダやテネシーを転々とした。父と僕は背丈も同じでそっくりなんだ。若いうちから禿げていたしね。父も音楽が好きで、カルテットを組みスパッツ姿で歌っていた。ギターを抱えた父の写真を見たことがあるが、実際に弾くのは聴いたことがない。6人兄弟、そのうち男が5人で、僕が末っ子だ。5人もいる男の子をちゃんと躾けるのは大変だから、父は規則をつくって、いつも僕達を厳しくチェックした。悪さをすると、地下室に入れて、特権を剥奪する決まりもきちんとあった。でも父は、まともな人間になるにはどうしたらいいかを完璧に教えてくれた人だった。それに父はある種のユーモアのセンスも持っていた。ジョークを言い始めると、自分でウケて大笑いするんだけど、絶対にオチがないんだ。

53373582.jpg   母の名はアイダ・メイ、小柄で美しい人だった。1895年、ジョージア州のレンズ生まれで、父と同時期に北部に移住してきた。母はインディアンとの混血だ。両親は20才になる直前に結婚し、母は教会の仕事を沢山していた。実際にデトロイトの僕達の地域(コナントガーデンズという黒人居住区域)に教会を開いたのは僕の両親だ。母のほうが父より音楽好きで、アート・テイタムやテディ・ウイルソンも知っていた。僕がそんな人たちのレコードをかけると、『それ、アート・テイタム?』『あら、これはテディ・ウイルソンでしょ?』なんて言うから、僕は嬉しくなったもんだよ。
 母は独学で譜面を読んだ。おっとりしたシャイな人で、料理や洋裁がすばらしくうまかった。僕らの洋服や、綺麗なパッチワークのキルトを縫ってくれた。1930年代の暮らしは決して楽ではなかったはずだが、母は生活苦をスイスイ乗り切って、僕たち家族に不自由を感じさせなかった。milkdoor.JPG母は1959年に亡くなり、父も1977年に86才で亡くなった。父の晩年には、長男のジョンスン・アレキサンダー・ジュニアが父の家で同居し最期を看取った。兄夫婦は今でもそこで暮らしている。姉のアイダは医院で働いていたが今は隠居している。姉には7人子供がいて、末っ子は双子だ。別の兄ジェイムズ・ハーベイは最近亡くなり、ダグラスはデトロイトの教育委員会で働いている。ルーサーはランシングに住み地域の社会福祉の仕事をしている。父の家は玄関と裏側に両方ポーチがあり今は柵で囲ってある。2階と1階に2部屋ずつ、合計4つベッドルームがある。台所口にはミルク・ドアといって、牛乳配達に空ビンを出しておく郵便受けのようなものがある。

 

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  僕が幼い頃、辺りは凄く田舎で、道は舗装されてなかったし両側に深い溝が掘ってあった。舗装されたのは1930年代の終わりだったし、地域に学校はなかった。だから、小学校は徒歩1マイル、ハイスクールはバスを2つ乗り継がねばならなかった。学校は人種混合だったが、当時のデトロイトには至るところで激しい人種差別があった。勿論、その結果が1943年の人種暴動だった。この家にはずっとピアノがあった。僕はピアノの椅子にハイハイしてよじのぼれるようになると、すぐピアノで遊び出した。6才のクリスマス・プレゼントに兄弟全員が楽器をもらった。僕はクラリネット、他の兄弟はバイオリンやドラム、サックスなどをもらったから、兄弟でちょっとしたバンドを作り、変てこな音楽を演っていた。だけど、クラリネットは余り気に入らなかった、音を出すのが凄く難しかったから。でもクラリネットのおかげで、譜面が読めるようになったのさ。ラジオのクラリネット教室の講師、マッティ先生にフィンガリングの譜面を申し込んでね。学校でも番組と同じ譜面を教材にしていたから、ラジオで勉強していて、中学に上がるまでにはちょっとは吹けるようになっていたよ。高校に上がったら、学校のバンドに入っても、へたに聞こえず溶け込めるくらいにはなっていた。

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 ピアノのレッスンを始めたのは10才か11才位でバッハやショパンを習った。地元で有名な先生、グラディス・ディラードに指示した。彼女の教室は凄く大きくなり、やがて学校を開設して講師を7-8人抱えていた。最近デトロイトでソロ・コンサートを演った時、彼女に会ったがとても元気そうだったよ。でもクラシックを習っていても、僕が聴いていたのはファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソン、アート・テイタム、それに色んなビッグバンドだった。高校時代になると、バド・パウエルが定着していたし、ナット・キング・コールも同じくらい基本になっていた。ナット・コールは、洒落ていてすっきりしたテクニックと、鮮やかなアタックがテディ・ウイルソンと共通していた。それに、すごくスイングしてどの音も弾けるようにバウンスしていた。

<朝鮮戦争>

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  僕は朝鮮戦争から逃げなかった。終戦間近に徴兵され陸軍で2年過ごした。基礎訓練を受けたのは韓国と同緯度にあるミズーリ州のレオナードウッド基地で、そこは地形まで似せてあった。訓練の終了前に、僕の訓練任務が短縮され戦地に派遣されることになっていた。まさに悪夢だったが、ちょうど、基地の余興のショウでオーデションがあることがわかった。そのショウにピアニストの出番があって、応募したらうまくパスしてミズーリに留まれた。だが1年ほどしてからやはり派遣された。僕はすでに映写技師として訓練されており港町、クンサン(群山)に着任した。戦時下だったから、深夜や早朝に、あの北朝鮮の戦闘機が我々のレーダーをかいくぐって空襲してきた。僕らは空襲に「ベッドチェック(就寝検査)・チャーリー」という名前を付けていた。軍隊のキャリアでただひとつ良かったことは、ぺッパー・アダムス(bs)としょっちゅう出会えたことくらいだな…

pepper-adams.jpg(Pepper Adams バリトンサックスの名手:デトロイト出身 1930-86)

 妻の ダイアナ・フラナガンがブドウとジンジャークッキーを盛った菓子盆を持って居間に入ってきた。フラナガンはクッキーを2枚取り礼を云うと、彼女は台所に戻った。フラナガンは2枚のクッキーを平らげ、ブドウも少しつまんだ。しばらくの沈黙をおいてから、彼はさらに語り続ける・・・ (続く)

 

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トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(1)

Jazz-Poet.jpg トミー・フラナガン(1930-2001)の誕生月、3/15(土)に、寺井尚之(p)メインステムが名演目をお聴かせするコンサートを開催します。その華麗な楽歴の中でも最高レベルのアルバム『Jazz Poet』(’82)から、”ジャズ・ポエット”はフラナガンの代名詞になりましたが、この名付け親は”The New Yorker”のコラムニスト、ホイットニー・バリエットという人で、1950年代からフラナガンのことを”Poet :詩人”と呼んでいた。

03Balliett.jpg ご存知のように、”The New Yorker”は、音楽雑誌でもタウン誌でもなく、世界的な影響力を持つ文芸誌、歴史的カリスマ編集長、ウィリアム・ショーンの厳格な統括時代は、ゴシップ記事皆無、格調高い編集ポリシーで(にもかかわらず?)週刊誌として広く愛読されてた一流誌。「これさえ読んでりゃあんたもインテリ!」みたいなブランド力がありました。バリエットは40年間、ここでジャズや書評のコラムを書き、長文、短文、署名、無署名併せて550篇の記事があります。だからジャズの記事でも、文学的な比喩が多いし、少々難しいかもしれないけれど、いわゆる「ジャズ評論家」とは少し違った文章が味わえます。もとより音楽誌ではないので、村上春樹が「意味がなければスイングはない」で、当代一番評価の高いジャズ・アーティストを「うさんくさい」と書いたのと同じように、業界の通例に従う必要のない自由闊達さがいい感じ!これから紹介するのは『Poet』というタイトル、フラナガンがエラの許から独立した1970年代の終盤に書かれたフラナガンのポートレート。勿論インタビューもあります。バリエットは、テープを一切回さず素早くメモしながら取材する伝統的職人芸。フラナガンとバリエットが個人的に親しかったのは、そういうアナログなところが好きだったのかも・・・

 原書は、彼が自分のコラムを一冊の本にまとめた『American Musicians Ⅱ』、ジェリー・ロール・モートンからセシル・テイラーまで、アメリカの音楽、すなわちジャズに関わる実に71人の一味違ったポートレート集。ずっと以前に、レスター・ヤングの章も紹介しています。英語がお得意で、ジャズと文学がお好きなら、ぜひ原書で読んでみてください。

<POET 詩人>

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 <シングル・ノートの系譜>

EarlHines.jpg 叙情的でホーンライクなシングルノートを身上とするピアニストの系譜、その源流はアール・ハインズである。カウント・ベイシーの言葉を借りるなら、かれらは『ピアノの詩人』だ。その先駆者はメアリー・ルー・ウイリアムスかもしれない。ジェリー・ロール・モートン、ファッツ・ウォーラー、ハインズ、アート・テイタムから色々吸収した後に、バップ・ピアニストとなり、同時にビバップを教える師となって、セロニアス・モンクやパウエルと共に、ピアノ奏法の若き革命家として活動した。次に現れたのがテディ・ウイルソンである。(テイタムはそれより数年早く登場しているが、もっとオーケストラ的なピアニストだ。)

teddy_wilson_2.jpg ウイルスンの静かではあるが、殆ど数学的な無敵の右手パターンはピアノ・スタイルの一大ジェネレーションを形成することになる。この世代に属するのはビリー・カイル、ナット・キング・コール、ハンク・ジョーンズ、ジミー・ロウルズ、レニー・トリスターノたちだ。カイルの右手は断続的な破線を表現し、肝心かなめのフレイズの最初の音符に強烈なアクセントを付けるというところが特徴だ。一方、ナット・キング・コールは’40年代には、ジャズ界で最もビューティフルなピアニストであった。そのタッチ、いともやすやす繰り出される驚異的なラインの数々、心憎い独特のリリシズム、そのプレイがキラキラと輝いていた。透明感のあるタッチということでは、ハンク・ジョーンズも同じだが、彼の場合はテディ・ウイルソンの右手のタッチを、一層モダンに、そしてソフトにしたスタイルだ、ジミー・ロウルズは、ウイルソンとテイタムを併せ、そこに独特のウイットと鋭いハーモニー・センスをブレンドして、ルイス・キャロル(訳注:不思議の国のアリスの作者)やエドワード・リアー(ルイス・キャロルに影響を与えたと言われているナンセンス詩人&画家)を彷彿とさせるようなシングルノートを得意とする。トリスターノは、ウイルスンやテイタムとは、異なった奏法を追求し、悪魔的な力で、息継ぎも、一部の隙も無いメロディクなラインを創造した。ジョン・ルイスとエロール・ガーナーは「ハインズ-ウイルソン世代」の最後を飾る、最も風変わりなピアニスト達だ。言わばジョン・ルイスは点描派であり、エロール・ガーナーは野獣派であった。ピアニスト達は、ハインズの豊かな音楽性に、ありとあらゆるものを見出したわけである。

Bud_powell81.jpg ‘40年代半ば、ビリー・カイルとアート・テイタムから生まれたバド・パウエルは、ピアノの新世代を魅了した。彼のシングルノートは緊張感に満ち、硬質で、スイングする。特にアップテンポでは、荒々しく、超速の閃きを見せた。このバド・パウエルの信奉者は2つのグループに分けられる。一つは初期のビバップのピアニストたち、ドド・マーマローサ、アル・ヘイグ、デューク・ジョーダン、ジョー・オーバニー、ジョージ・ウォーリントンなどのグループだ。もう一つは、彼らよりもっと若く、もっとオリジナリティのあるピアニスト集団で、ホレス・シルバー、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、そしてビル・エヴァンスたちがいる。(50年代に登場し、パウエルに追従しなかった例外的ピアニストは2人いる。デイブ・マッケンナとエディ・コスタだ。)

Bill_Evans-Portrait_In_Jazz.jpg ビル・エヴァンスは、シルバー、トリスターノ、ナット・キング・コールといった人たちの要素に、独特の内向性を結び付けた。彼はやがて、バド・パウエル以降、最も影響力のあるピアニストとなったのである。’60年代以降に登場したピアニストで彼の影響から逃れられた者はほとんどいない。

<トミー・フラナガン登場>

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 そして、二つの全く無関係な事件が相次いで起こった。ひとつめは、1978年にトミー・フラナガンが10年来携わったエラ・フィッツジェラルドとの仕事を辞めたこと。ふたつめは、1980年、エヴァンスが死去したことの二つだ。フラナガンはソロ・ピアニストとして、時にはトリオやデュオで再出発、ゆっくりではあるが順調な道を歩んだ。今では、影響力という点で、この非常に内気な男がエヴァンスの後継者となっている。

Jimmy-Rowles-Isfahan-550106.jpg   シングル・ノートの長老ピアニスト、ジミー・ロウルズはフラナガンについてこう語る。

 「トミーは凄いピアニストだよ。賞賛の言葉以外思いつかないな・・・伴奏者としてもソロイストとしてもね。よく一緒に”ブラッドレイズ” (訳注:NY大学の近くにあったジャズ・クラブでフラナガンが出演していた。朝までやっていて、仕事がハネたミュージシャンのたまり場だった。)で、うだうだ飲んだもんだよ。色んな曲をおさらいしたり、仕事のぐちや噂話をしたりしてね。彼のレパートリーの広さには舌を巻くよ!今どき『鈴掛の木の下で』を知ってるピアニストが何人いると思う?!

 トミーはね、 ちょっと水くさいところもある、何でもあけっぴろげにするのが嫌な性格なんだ。だけど面白い奴だよ。会ったら「近頃どうだい?」って挨拶するだろ?すると、『ああ、僕の持ち物(訳注:tools: ピアノや仕事、そして男性のシンボルも併せて…)で、最善の効果を挙げようと鋭意奮闘中だ。』 なんてね!」

 03_bradleys-sm.gif  “ブラッドレイズ”のオーナー、ブラッドレイ・カニングハムはこう語る。

 「トミーは礼儀正しいし、それでいてめっぽう面白い人だ。一緒に居て楽しいし、プレイはそれ以上に大好きだよ。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバル期間中、エラの仕事にしばらく空き日があり、トミーをうちの店に雇ったことがあった。ジョージ・ムラーツとデュオでね。ところが初日に一人の客も来なかった。うちの客も知り合いも、誰も来なかった。この業界で長くやってると、そんなこともあるから、私だって承知の上さ。成す術なし!せいぜい、”お手上げ”のジェスチュアをするのが関の山だ。トミーとジョージは周りを見回してから、顔を見合わせているばかりだったよ。しかし、この二人は音楽的に一体だった。その夜、閉店後、二人がちょっと演奏したんだが、それは、今までに聴いたこともないほど独創的でスイングする音楽だった。ピアノ弾きというものは、まず聴く者を笑わせ、それからおもむろに、笑ってた同じ心が感動で張り裂るようなプレイをしなければならない。トミーの演奏は、まさにその手本だ。」

 

 <アパートにて>

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  フラナガンは中肉中背だ。禿げ頭の裾野に白髪が残っていて、その頭に釣り合いのとれた濃い口髭を蓄え、シャイな目元に眼鏡をかけている。話す時には、首を右にかしげ、部屋の左側に目をやる、あるいは左に首をかしげ、部屋の右側に目をやる。彼の握手は柔らかく、声も同じく柔らかで、その言葉は人をはぐらかせる。しかし、そういう態度の大部分はかりそめの姿だ。彼は端正でえくぼの入る微笑みを見せ、よく笑う。フラナガンは妻ダイアナとアッパーウエストサイドに住んでいる。アパートは南向きで昼間は太陽がさんさんと差し込む。窓辺にはレースのカーテンが掛かり、ロイヤルブルーのベルベットのソファが置かれ、ダイアナ・フラナガンの蔵書が壁の一方を埋めている。そこにはアンドレ・マルロー、ジューン・ジョーダン、アレック・ワイルダー、ポール・ロブスン、ジャイムズ・アギー、デューク・エリントン、メイ・サートンなどの著作が並んでいる。 

 或る午後のひと時、フラナガンは、その居間に座り自分自身について語った。その話振りはとても遠慮がちで、まるで今初めて会った人間について語っているかのようだった。

 フラナガンは1930年、デトロイトに昔からある黒人居住区、コナントガーデンズに生まれた。’40~’50年代にデトロイトで音楽的才能が大量に噴出したのは、当時デトロイトの過酷な人種差別状況に対する、婉曲な代償であったのかも知れない。

 <回想>

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 その時代のジャズ・シーンは、フラナガンの思い出として心の中で今も輝き続けている。

MusicANDWillie.jpg 「デトロイト出身者には、ミルト・ジャクソン(vib)、ハンク・ジョーンズ(p)、ラッキー・トンプソン(ts,ss)のように、早くから町を離れ、ときおり演奏の仕事で町に戻ってくる先輩達が居る一方、ウイリー・アンダースン(p)のように地元に残るミュージシャンも居た。アンダースンは長く美しい指を持ち、独学でベース、サックス、トランペットを演奏する事ができた。ベニー・グッドマンにスカウトされても、彼は一緒に行こうとしなかった。多分字が読めないことが恥ずかしかったのだろう。その下が僕達の一団だ。僕より後輩もいたし、早まって町を出るのをよしとしない先輩もいた。名前を挙げると、僕の同窓生のローランド・ハナ(p)、ポール・チェンバース(b)、ダグ・ワトキンス(b)、ドナルド・バード(tp)、ケニー・バレル(g)(ケニーはオスカー・ムーアが大好きで、僕らはナット・キング・コール・スタイルのトリオを結成したことがある。)、ソニー・レッド・カイナー(as)、バリー・ハリス(p)、ぺッパー・アダムス(b)(ペッパーはロチェスター高校出身で、最初会ったときはクラリネットを吹いてた。)カーティス・フラー(tb)、ビリー・ミッチェル(ts)、ユセフ・ラティーフ(ts,etc…)、テイト・ヒューストン(ts.bs)、フランク・ガント(ds)、フランク・ロソリーノ(tb)、パーキー・グロート、サド・ジョーンズ(cor)にエルビン・ジョーンズ(ds)(ふたりともハンク・ジョーンズの弟でデトロイトから少し離れたポンティアック出身だ。)アート・マーディガン(ds)、オリバー・ジャクソン(ds)、ダグ・メットーメ(tp)、フランク・フォスター(ts)(出身はシンシナティ) 、 ジョー・ヘンダースン(ts)、JRモンテローズ(ts)、ロイ・ブルックス(ds)、ルイス・ヘイズ(ds)、ジュリウス・ワトキンス(french horn)、テリー・ポラード(p.vib)、ベス・ボニエ(p)、アリス・コルトレーン(p)… 歌手ではベティ・カーター、シーラ・ジョーダンという連中だ。ミュージシャンが集まり、ザ・ワールド・ステージ・シアターという劇場で毎週コンサートを主催した。僕らはまた<ブルーバード・イン>、<クラインズ・ショウバー>、<クリスタル>、<20グランド>といったクラブや、<ルージュ・ラウンジ><エル・シーニョ>といった店でも演奏した。エル・シーニョはチャーリー・パーカーが出演した店だ。10代の頃、僕らははパーカーがその店に出演するというと、みんなでバンドスタンドの脇にある網戸の外につっ立って、中を覗き込んだもんだよ。そんな生活が’50年代半ばまで続き、やがて皆、町を去り始めた。ビリー・ミッチェルはディジー・ガレスピー楽団に、サド・ジョーンズはベイシー楽団、チェンバースはポール・キニシェット楽団、ダグ・ワトキンスはアート・ブレイキー、ルイス・ヘイズはホレス・シルバーのバンドに落ち着いた。僕は1956年頃までデトロイトに居て、それからケニー・バレルとNYへ出ていった。

<NYへ>

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  その当時は、まだアップタウン(ハーレム)でジャムセッションが行われていた。月曜は<125クラブ>、火曜は<カウント・ベイシーズ>水曜は<スモールズ>だった。ジャムが自分の実力を世間に披露するのに最適な場所だ。もちろん新入りは、出番が回ってくるまで長いこと待たなくてはならない。時には午前3時、4時までバンドスタンドに上がれないときもあった。だが、NYにきてたった数週間で初レコーディングの仕事をした。レーベルは”ブルーノート”、アルバム・タイトルは<デトロイト-NYジャンクション>で、ビリー・ミッチェル、サド・ジョーンズ、ケニー・バレル、オスカー・ペティフォード、シャドウ・ウイルスン(ds)の共演だった。その後すぐに、マイルズ・デイビスやソニー・ロリンズとも録音した。コールマン・ホーキンスとの出会いはマイルズの紹介で、彼ともレコーディングした。初めてのナイトクラブの仕事は”バードランド”だ。バド・パウエルの代役を頼まれたんだ。同じ年の7月、ニューポート・ジャズフェスでエラ・フィッツジェラルドと初めて共演した。それからJJジョンスンのバンドで1年間やって、ヨーロッパ全土を楽旅した。その後はNYに留まり、色々なところで演奏したりレコーディングした。

  1960年に最初の妻、アンと結婚したが、70年代の初めに離婚した。私達の間には3人の子供がいる。トミーJr.はアリゾナ在住、レイチェルとジェニファーは二人とも子供をもうけて、カリフォルニアに住んでいる。アンは1980年に自動車事故で亡くなった。

<エラ・フィッツジェラルドと>

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  1962年、エラと2度に渡る長期の仕事の一回目が始まり、’65年まで続けた。その後1年間はトニー・ベネットと共演した。その頃には西海岸に移住していた。その後は「カジュアル」-いわゆるクラブギグを専ら演っていた。西海岸の仕事は手堅い。というか、派閥が強くて排他的だった。エラもカリフォルニアに住んでいて、1968年に、再びエラから声がかかった。以来10年間彼女のミュージカル・ディレクターとして落ち着いた。彼女のことをよく知ってしまえば、これほど一緒に仕事をやりやすい相手はいない。だけど最初のうちはきつかったよ。とにかくいつクビになるか不安で危なっかしい。例えば僕が少しでもミスしようものなら、「もしこれからもこんなブサイクなことになるんだったら、仕事がなくなっちゃうじゃないっ!」と言われるんだ。だから、しっかり演奏しなければと肝に銘じた。何しろ僕はエラのミュージカル・ディレクターなんだし、彼女の引退が僕の責任だなんてまっぴらだったからね。

 でも彼女は僕たちの誕生日だって絶対に忘れることはない。エラの為に働くというのは、他の歌手の伴奏とは全く違っていた。求めるレベルがずっと高度だ。彼女のイントネーションは完璧だった。ジム・ホールが以前、彼女の声はチューニングできるとまで言ってたよ。僕は楽旅することがキツくなり、1978年に心臓発作にやられたこともあって、とうとう辞めたんだ。」 (続く)