第22回トミー・フラナガン・トリビュートCDが出来ました。

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 3月ももう終わり、東京のお客様たちから満開の桜の写真が届きますが、大阪のソメイヨシノは五分咲きといったところです。

 さて、先日のトミー・フラナガン・トリビュート・コンサートのCD(3枚組)が出来上がりました。 

 演奏を盛り上げて下さった拍手や掛け声、曲にまつわるフラナガンのエピソードを語る寺井尚之のMCなど、Jazz Club OverSeasならでは、トリビュートならではの楽しい雰囲気が味わえます。

 トミー・フラナガンのオリジナル曲もそれぞれに精彩を放っていたし、寺井尚之がNYの春に聴いたスプリングソングの感動が、色褪せることなく、お伝えできたように思えます。特に”A Sleepin’ Bee”の独特の「温もり」感が印象的でした。

 実は第一部のTin Tin Deo” の演奏中に、寺井尚之の指が内出血するという大アクシデントがありました!今回の演奏が、良い出来になったのは、「それにもかかわらず」なのか、「それだから」なのかは判りません。The Mainstem、宮本在浩(b)と菅一平(ds)が頑張ってくれたし、お客様の応援が、なんといっても大きな力になりました!トミー・フラナガンも応援してくれたのかな?

 トリビュートCD、お申込みはOverSeasまで。すでにご予約くださっている常連様は、ご来店の際にお渡しいたします。

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【収録曲】

<第一部>

1. The Con Man (Dizzy Reece)
2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)
3. Minor Mishap (Tommy Flanagan)
4. メドレー: Embraceable You (Ira& George Gershwin)
~Quasimodo (Charlie Parker)

5. Sunset & the Mocking Bird (Duke Ellington)

6. Rachel’s Rondo (Tommy Flanagan)
7. Dalarna (Tommy Flanagan)
8. Tin Tin Deo (Chano Pozo,Gill Fuller,Dizzy Gillespie)

<第二部>

1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)
2. They Say It’s Spring (Marty Clark/Bob Haymes)

3. A Sleepin’ Bee (Harold Arlen)

4. Eclypso (Tommy Flanagan)

5. Spring Is Here ( Richard Rodgers)

6. Mean Streets (Tommy Flanagan)
7. But Beautiful (Jimmy Van Heusen)
8. Our Delight (Tadd Dameron)

<Encore>

With Malice Towards None (Tom McIntosh)

メドレー Ellingtonia
 Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)

 ~Passion Flower (Billy Strayhorn)

~Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)

第22回トリビュート・コンサート 皆さんありがとうございました。

triflowerP1060107.JPG 3月16日、トミー・フラナガンが生きていたら、83歳の誕生日に、OverSeasでトリビュート・コンサート開催!

 ダイアナ・フラナガンのお達しで、トリビュートには必ず花を飾ります。今回は、フラナガンの大好きだった白いカラーを活けました。

 トミーは華麗なバラやランの花より、カラーは白ユリといった清楚な花が好きで、よく花を携えてOverSeasに現れました。「僕は園芸の才能があって、緑の親指だ!」と自慢してたっけ。(ほんとかな?)

 

 

 

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 春らしい日和に、フラナガンが得意としたスプリング・ソングの数々や、今や寺井尚之しか演奏することのないフラナガン作品、デトロイト・ハードバップとはこれや!というフラナガン・ミュージックの集大成を、多くのお客様と一緒に楽しむことが出来ました。

 トリビュートの目的は、何と言っても、フラナガンの音楽を楽しんでいただくこと! コンサートに来て下さった新しい仲間のために、曲の合間に、寺井尚之の楽しいMCも挟まれ、それに対して、常連様が絶妙のレスポンスを入れてくださるのが最高です!ヒップなリスナーが客席にいると、フラナガンはいつも大喜びしていたなあ・・・実は「トリビュート・コンサートにレパートリーの説明を入れればどうか?」というのも、お客様のアイデアでした。(初期のトリビュートでは、フラナガン的「間合い」をそのままに演奏するので、殆どMCはなかったんです。)ヒップなアドバイスのおかげで、スタンダード曲の少ないフラナガンのレパートリーがぐっと身近に感じられるようになってよかった!

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 とにかく難しいフラナガンの演目は、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)のThe Mainstemが、血のにじむような稽古をしようとも、アット・イーズにはいきません。でも、トリビュートも22回を数えるところまで来ると、「フラナガンの名演目」の中に、演奏する寺井尚之の「生き様」みたいなものが見えてきた!そしたら、なんか堅苦しかったところがふっと消えて、楽しかったり、哀しかったり・・・トミー・フラナガン一筋に還暦過ぎても研鑽を続ける、寺井自身の幸せだったこと、苦労したことの独白みたいなものが聴こえてきました。凄いな!この人すごいなあ!身内ながら感動しました。

 それには、トリオの宮本在浩、菅一平の熟成が大きいんだと思います。自分の親くらいのピアニストと演りながら、デトロイト・ハードバップという枠の中で、フリーダムが見えてきた!「この一瞬、このハーモニーに命賭けるんだ!」という集中力が付いてきた!こうなったらシメたもんだ!The Mainstemはもっともっと面白くなりますよ。

 

310.JPG そして、なにより、コンサートを創るのは、長年、トリビュート・コンサートを忍耐強く応援し続けてくださるお客様、フラナガンのトリビュート、面白そうやから聴いてみたろう、と思ってくださったお客様の力です。本当に感謝の言葉もありません。

 ”というわけで、HPにトリビュート・コンサートのプログラムと、演奏曲目の説明をUPいたしました。

http://jazzclub-overseas.com/tribute_tommy_flanagan/tunes2013mar.html

 コンサートのCDをご希望の方はOverSeasまでお申し込みください。

今週(土)には、トリビュート・イベントとして、御大トミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ、ルイス・ナッシュ)の全盛期のお宝映像を観る講座、ぜひご一緒に!

 心よりありがとうございました。

トミー・フラナガン:思い出の種

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 3月16日は トミー・フラナガンの誕生日で、第22回トリビュート・コンサート開催です。

 昨夜は、「ずっと来たかったでんです。」と、OverSeas初見参のグループが!ハードバップ大好き、トミー・フラナガン大好き!と言う言葉に偽りなし!寺井尚之と宮本在浩のデュオで、”They Say It’s Spring”に”Joy Spring”の一節が挿入されると、大きく頷いてニッコリ!音楽をとてもよくご存知なお客様が楽しんでくださる様子を観るのは最高!生きてて良かった、と思える瞬間です。マナーも紳士的な方々だと思ったら、英国のジェントルメン!「フランスのマルシアックでフラナガンを聴き、原宿のビー・フラットで、ジョージ・ムラーツやサー・ローランド・ハナを聴いた。」とヒュー・グラントみたいなかっこいいクイーンズ・イングリッシュで言われると、良い音楽に国境はないんだ… と改めて感じます。

 1984年に初めて演奏アーティストとしてお迎えした頃、フラナガンは、日本→西海岸→NYに帰ったと思えば、その翌週からヨーロッパ・ツアーと慌しく世界中を駆け回っていました。

 

<温厚紳士>

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 トミー・フラナガンは、”Soft-spoken”=物静かで温厚な紳士という風に評された。確かに、普段の話し声は低くて、”WOW!”なんて言うのは、めったに聞いたことがない。

 NYに行っても、信号無視が普通のマンハッタンの街を、トミーが赤信号で渡ったのを観たことない。私達が大阪流に渡っても、トミーは無表情で、青信号になるまで悠然と待っている。食事に行っても、ウエイターに注文をつけたり、急がせたりすることは絶対になかった。そういうことは、全部、奥さんのダイアナがするのです。

 楽団の元歌手で、ビッグバンド時代が終わると、国語の先生になったダイアナは、’70年代にトミーと再婚し、彼がエラ・フィッツジェラルドの許から独立してからは、トミー・フラナガンのパーソナル・マネージャーになった。トミーが独立後、フリーランスでありながら、あれよあれよという間に名実ともにトップ・ピアニストになれたのは、ダイアナの敏腕のおかげだったかどうかは別として、とにかくフラナガンが表に出さない強い自我の代弁者として、ダイアナを憎まれ役にしていたことは確かです。J.J.ジョンソンが、2度目の結婚の直後、それまでジャズに無縁な保険会社のOLだった新譜をマネージャーにしたのは、元レギュラー・ピアニストで親交厚かったトミーの成功を見倣ったということです。

<寺内貫太郎一家>

 デトロイト・ジャズ史、『Before Motown』には、フラナガンを、数多くのデトロイト・ジャズメンの内でも、コマーシャリズムを徹底的に拒否する、並外れたビバップ原理主義者だったと書いてある。身内だけしかいない時のトミー・フラナガンは、Before Motownに書かれた20代の血気盛んな青年と全く違わない。

 フラナガンは並外れて「情の深い」人だったのだと思います。言葉や文化が違っていても、人生を賭けて慕う寺井尚之を、真正面から受け止めて、自分の手の内を全部見せてくれました。

 寺井尚之に対しては日常とても優しかったけど、私に対しては、時にはとても厳しかった。だいたい、ヒサユキは「息子」と呼びながら、なぜか私は「娘」じゃなくて「シスター」で、「行儀」や「礼儀」、ジャズ界の「掟」を守れるよう、厳しく仕込んでくれました。理由はここで言えないけど、目に染みるくらい電話で怒鳴られたこともあります。その時は悔しかったけど、今では怒ってくれたことを、とても感謝しています。

 日本のバブルが弾けて、景気が落ち込んだ時は、深夜送っていったホテルで、「ヒサユキに手紙を書いたから渡してくれ」と封筒を預かり、持って帰ると、綺麗な文字で、長い励ましの言葉を書き綴った便箋と一緒にお金が入っていたこともあった。

 フラナガンは、何かにつけ、そういう人だった。演奏も、言葉も、行動も、口先だけのものは何一つないリアルな人。

 その反面、大きなジャズクラブに出演した時は、わざと「OverSeasの寺井尚之さ~ん、どこにいらっしゃいますか?フラナガンさんが楽屋でお呼びです。」と、スタッフに大声で言わせてPRをしてくれるようなイタズラなところもありました。

 情が深くて、自我が強くて、それでいて、ピアノにも世間様にもソフトタッチであった巨匠。だから心臓を悪くして早く亡くなったんだと、私は固く思ってます。

 決して器用な生き方ではなかったけれど、真のバッパーは器用なだけではなれないのだ!

 寺井尚之は、そういうところも受け継いでしまったんだなあ・・・そう思うトリビュート前、思い出の種が一杯です。

   

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J.J.ジョンソンをもっと楽しむためのキーワード

 

jjwithhat.jpgJ.J.ジョンソン (1924-2001)

  大阪は急に暖かくなりました!「ブログずっと読んでますよ。」とOverSeasに来て下さったお客様、ありがとうございます。おかげで気分は「春の如し」!
 
 小鳥のさえずりに『Dial J.J.5』の “Bird Song”や、ボビー・ジャスパーの”It Could Happen to You”が重なります。

 3月9日、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」用『Dial J.J.5』の構成表も、ようやくPCファイルに転写できました。
 J.J.の「理にかなった明快さ」、レコードを聴きながら構成表を見れば、一目瞭然!リスナーもミュージシャンも、一緒に楽しめるよう、寺井尚之が解りやすく図解しています。複雑だけどすっきり明快なリズムの割り振り、プレイヤーの個性を生かしたアレンジにのけぞりましょう!
 
 トミー・フラナガンでさえ、「J.J.ジョンソンがバンドスタンドでミスをしたことは、一度もない。私は間違ってばかり。ただただ粛々と演奏するのみ・・・」と信じられないことを言っていました。実際にお目にかかった時の眼光の凄さが忘れられません。
 コルトレーンがGiant Stepsを録音する8年も前、J.J.ジョンソンは、”サークル・オブ・4th”の進行を取り入れた”Turnpike”(’51)という曲をさり気なく作ってた!なんというメティキュラスな天才!私のようなチャランポラン人間には、アンビリーバブルな雲の上の遠い人・・・今回のプリント資料のために、色んな伝記的インタビューを読んでみても、「こんなに私は練習した」とか「こんなに私は勉強した」とか、音楽的な発展という意味での苦労話は全く見当たらない。J.J.ジョンソンの「苦労」は、むしろビジネスの方だったのかも知れません。

 『Dial J.J.5』は永遠の愛聴盤、同じくらい人間として、親しみを持てるようなキーワードを列挙しておきます。

 

<Naptown>

 ”ナップタウン”とは米国中西部、インディアナ州、インディアナポリス(Indianapolis)のこと。J.J.ジョンソンはこの街で生まれ、NYやLAと東西の大都会で暮らした後、この街に戻り、自ら命を立つまで暮らした。

  父は地元の人間で貨物運送の労働者、母はミシシッピからやって来た。両親とも、教会の聖歌隊の他には、音楽とは無縁だったとJJは言う。普通高校を卒業後、すぐにプロ活動。正規の音楽教育は受けなかった。「音楽理論」は、ジュリアード音楽院で勉強したマイルズ・デイヴィスから教えてもらったそうです。多分、実地体験として、知ってることばかりだったのかも知れないけど。

<レスター・ヤングとフレッド・ベケット>

  lester.jpeg「音楽的な影響」を問われれば、必ず挙げるのが、テナー奏者、レスター・ヤング と、夭折の天才トロンボーン奏者、フレッド・ベケット、レスターからは、「一音一音、隅々までを追求する『理に適った』アドリブの姿勢」を、ベケットには、レスター的な要素を、トロンボーンに置き換えた「かたち」として影響を受けた。ベケット(Fred Beckett: 1917- 1946)は、ジミー・ヒースはじめ多くの名手が在籍したテリトリー・バンドNat Towles楽団やライオネル・ハンプトン楽団などに在籍していましたが、残念ながら、J.J.の発言を私たちが実感できる録音は見つけることが出来ませんでした。

 

 

 

<ベニー・カーター>

benny_carter50wi.jpg J.J.ジョンソンは、多くの楽団で活躍しましたが、憧れのレスター・ヤングが仕えたカウント・ベイシーよりも、「The King」 ベニー・カーターは、J.J.にとって、とても特別な存在!プロとしての手本だった。ミュージシャンたるものはこうでなくては!バンドリーダーとしての帝王学、そして、作編曲の面でも大きな影響を受けたと言っています。J & Kai時代.のピアニスト、ディック・カッツさんも、同じ事を言ってました。ミュージシャンにとってベニー・カーターの存在は、私たちが思うよりずっと大きいんですね。

<ディジー・ガレスピー>

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   1946年、カウント・ベイシー楽団と共にNYにたどり着いたJ.J.ジョンソンは、楽団を去り街に落ち着いて、52ndストリートで活躍、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンクたちと盛んに共演、彼らの創った新しい「ビバップ」のイディオムをトロンボーンに充当して、モダン・トロンボーンの開祖に成長します。
 ステージで彼らと共演しながら、耳にした新しいサウンドを、幕間にせっせと書き留めているジョンソンを、常に励ましたのがガレスピーだった。

  「俺は、トロンボーンが従来とは違う可能性があると判っていたよ。いつか、きっと誰かがそれをやってのけるってね。J.J.、お前が、その『お役目』を授かったんだよ。」

  J.J.ジョンソンはディジー・ガレスピーについてこう言っています。

 「ディジー・ガレスピーをビバップという狭いカテゴリーに押し込めてはいけない。彼の才能は、それをはるかに超えている!」

  
 

<中毒>

 
 
 数あるJ.J.ジョンソンのインタビュー記事を読んでいて、最も頻繁に出てくる言葉ベスト1が先週書いた「logic and clarity」、そしてベスト2は、「中毒」を表す、「addict」や「・・・holic」という言葉、「レスター・ヤング中毒」「MIDI中毒」「ストラビンスキー中毒」などなど・・・「好き」なものには「中毒」するほどのめりこむのがJ.J.ジョンソン流なのかも・・・あるいはJ.J.にとって、何かを徹底的に追求するためのロジカルな方法として「中毒」することをためらわなかったのかも・・・

 並外れてクールなJ.J.が立派なヘロイン中毒だったというのを知って、私はびっくり仰天したけれど、サウンドへの集中力をぎりぎりまで高めるための、「理詰め」の選択であったのかしら? ジャズ界のオスカー・ワイルドのような人だったのかも知れません。

<J.J.ジョンソンの死>

 

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 J.J.ジョンソンは、2001年2月4日、自宅で拳銃自殺をした。J.J.ジョンソンの二度目の奥さんでマネージャーでもあったキャロラインによれば、J.Jは、家族や親友を亡くした寂しさから、過去にも自殺を真剣に考えたことがあったそうだ。

 死の理由は様々な憶測を生んでいる。公共放送のケン・バーンズのジャズ・ドキュメンタリーでJ.J.のことが全く語られなかったからと言う人もいる。(まさか!)

 或いは、前立腺がんの痛みに耐えかね、24時間付き添い看護が必要だと医師に告げられたため、家族のお荷物にならないように死ぬことを選んだ。最初の理由よりはもっともらしい。・・・でも、亡くなる直前まで、自宅のスタジオで過ごしたり、トロンボーンの教則本を書いたりしていたと言います。トミー・フラナガンやジミー・ヒースたちは、みんな「わからない」としか言いません。

 では、3月9日(土)は『Dial J.J,5』を聴きながら、J.J.ジョンソンの、徹頭徹尾「理詰め」なところと、熱く燃えるジャズ魂を味わいましょう!

「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は6:30pm開講、受講料は2,625yen

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