第21回トミー・フラナガン・トリビュートCDできました・

 トリビュート・コンサートが終わったら、あっという間に真冬に!

 今回も、録音担当してくださった 生徒会あやめ会長のおかげで、首尾よくコンサートCD完成!

 

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<Disk 1>
1. Beats Up
(ビーツ・アップ) / Tommy Flanagan
2. Out of the Past  (アウト・オブ・ザ・パスト) /Benny Golson
3. Minor Mishap (マイナー・ミスハップ)/ Tommy Flanagan
4. Embraceable You (エンブレイサブル・ユー) /Ira & George Gershwin
Quasimodo (カジモド) /Ira & George Gershwin
5. Good Morning Heartache(グッドモーニング・ハートイエク) / Irene Higgibotham, Ervin Drake, Dan Fisher
6. Mean Streets (ミーン・ストリーツ 旧名ヴァーダンディ)/ Tommy Flanagan
7. Dalarna (ダラーナ) / Tommy Flanagan
8. Tin Tin Deo (ティン・ティン・デオ) /Chano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespie

<Disk 2>
1. When Lights Are Low
(灯りが暗くなったとき)/ Benny Carter
2. That Tired Routine Called Love (ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラヴ) /Matt Dennis
3. Beyond the Bluebird (ビヨンド・ザ・ブルーバード) / Tommy Flanagan
4. Rachel’s Rondo (レイチェルのロンド) / Tommy Flanagan
5. Smooth As the Wind (スムーズ・アズ・ザ・ウィンド) / Tadd Dameron
6. Eclypso (エクリプソ)/ Tommy Flanagan
7. That Old Devil Called Love (ザット・オールド・デヴィル・コールド・ラブ)/Allan Roberts, Doris Fisher
8. Our Delight (アワー・デライト)/ Tadd Dameron

<Disk 3>
Encore:
1.With Malice Towards None
(ウィズ・マリス・トワーズ・ノン) /Tom McIntosh

2. Ellingtonia デューク・エリントン・メドレー
Chelsea Bridge (チェルシーの橋) / Billy Strayhorn
Passion Flower (パッション・フラワー) / Billy Strayhorn
Black and Tan Fantasy(黒と茶の幻想) / Duke Ellington

 

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 コンサート全プログラム中、フラナガンのオリジナル曲は7曲。 オープニングの”Beats Up“は『OVERSEAS』に収録されているフラナガンのオリジナル、トリビュート・コンサート初登場!The Mainstemのレギュラー・トリオとしての充実ぶりが、最初の2小節バース・チェンジから窺えます。

 エラ・フィッツジェラルドの音楽監督から独立後、ピアノ・トリオを率いて活躍した全盛期のフラナガンのレパートリーは、Bebop黄金時代のビッグ・バンドのナンバーを、すっきりとピアノ・トリオ用にまとめ上げ、ビッグバンドよりダイナミックに演奏することで、世界中のバップ・ファンを興奮のるつぼに巻き込みました。Bebopの立役者、タッド・ダメロンの”Smooth As the Wind“や”Our Delight “、ディジー・ガレスピー楽団の”Tin Tin Deo“、サウンドのカラー・チェンジ、スピード感の変化が生み出すスリルは、高級スポーツカーかジェット・コースター!トミー・フラナガンが青年時代に味わったBebopの感動が、そのまま凝縮されたアレンジなのかもしれません。

 トミー・フラナガンが幼いころ、デトロイトのトップ・バンド、「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ」で活躍したベニー・カーターの代表曲 ”When Lights Are Low “(灯りが暗くなったとき)は、フラナガンがYAMAHAの自動演奏ピアノのために遺したソロ・ピアノ・ヴァージョンのRiffが聴けます。詳しい曲説はHPをご覧ください。

 トリビュート・コンサートも21回目を数えますが、フラナガンの愛奏曲は、どれもこれも超難曲揃い、なかなか涼しい顔ではできない演目ばかり、フラナガンに「捧げる」という責任も大ですが、お客様のおかげで、だんだんとリラックスしていく様子もまた楽しい!録音されている拍手や掛け声は、私にとってビタミン剤より効きます!

本日ダイアナ未亡人に CDが出来上がったことを報告したら、とても喜んで、トリビュート・コンサートに来てくださった皆さんに、もう一度よろしくね!と何度も言っていました。

第21回トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートCDは3枚組です。ご希望の方はOverSeasまでお問い合わせください。

Black and Tan Fantasy 幻想の時代

allIMG_1518.JPG第21回トリビュート・コンサート開催!

 久々に駆けつけてくださった懐かしいお顔、初めてのお客様、いろいろ楽しいご縁ができるのも、トリビュート・コンサートご利益です!

 皆様、応援ありがとうございました。

 『OVERSEAS』でおなじみの”Beats Up”から、アンコールのエリントン・メドレーまで、フラナガンの演目は、所謂スタンダード・ソングが少ないので、毎回、曲目説明をHPに出しています。ぜひご一読ください。

 今回は、ジャズ評論家&名カメラマン、後藤誠氏の写真のおかげで、かっこよくUPできました。後藤先生ありがとうございます!

 
 
 
<黒と茶の幻想って?>
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 トリビュート・コンサート、アンコールで聴いた、”Black and Tan Fantasy”がまだ耳にこだましています。この曲は「黒と茶の幻想」というアートな邦題。デューク・エリントン・コットン・クラブOrch.のヒット曲、短編映画では、美しいダンサーが、病を押して愛するエリントンのためにダンス踊り死んでいく・・・ああ、美人薄命・・・という半分悲劇仕立て。幻想的ではあるけれど、”ブラック&タン”の意味はあまりよくわからなかったのです。

 最近、モータウン以前のデトロイトのジャズ史、”Before Motown”のBebop以前の章を詳しく読むと、“Black and Tan” という言葉の意味が詳しく書かれていて目からうろこでした。

<Black and Tan>

harlem_nocturne.jpg  “Black and Tan “という言葉は、この曲が生まれた1920年代にできた言葉だそうです。“Black”は「黒人」、そして茶色というよりはむしろ「小麦色」、「褐色」を意味する“Tan”は、「褐色の美女」ではなく「白人」を指す。すなわち“Black and Tan “ は「黒人&白人」だというのです。現在は米国人にもわからない言葉です。

  1920年代以前は、売春宿のサロンではない一般社会では、”ジャズ”のような音楽さえ、白人の聴衆は白人の演奏を聴くのがふつうでした。それが、第一次大戦後に、「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる黒人文化の開花期が訪れ、白人の間でも、ジャズや文学など、黒人の文化がとてもかっこいい、おしゃれなものとしてもてはやされるようになり、白人客のために、黒人たちのダンスや音楽を聞かせるキャバレーやバーが流行しました。それが“Black and Tan “ なんですって!

 フラナガンの生地、デトロイトでも、 第一次大戦後、“Black and Tan “の店は、パラダイス・バレーで繁盛しましたが、なんといっても全米一の“Black and Tan “ はNYハーレムの”コットン・クラブ”、そこで“Black and Tan Fantasy”が生まれた!  当時“Black and Tan “の主役は、楽団ではなく、褐色の踊り子たちが繰り広げるセクシーなショウでした!衣装は限りなく裸に近く、ジャングルをイメージしたもの。  白人にとっては、黒人=アフリカのジャングルというステレオタイプを逸脱すると、売れなかった。だから、エリントンもジャングル・ミュージックを演るしかなかったんですね。

 エリントンという人は、最初は春歌みたいなのを演っていて、だんだん「芸術家」に化けていく。それも桁外れの芸術家に化けるのだからモンスターですね!エリントン楽団は“Black and Tan “仕様 、白人のお客向けのレパートリー・ブックと、同胞の黒人向けのブックの二通りのレパートリーを装備して、演奏活動を行っていたのです。

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 視点を変えると、”Black and Tan”こそが、ジャズ芸術が一般社会に認知される出発点であったのだと”Before Motown”は結論付けています。”Black and Tan”の営業形態はさまざまで、「コットンクラブ」は白人専用高級クラブ、有色人種はお客になれなかった。でも、客席も人種混合というのも数多くあったそうです。

 エリントンは、白人社会の偏見を受容しながら、芸を荒らすどころか、逆に新しい「芸術」を作っていったというのが、すごいですね! 

 
 
<ブラック・ビューティ、フレディ・ワシントン>tumblr_lfc7tbNiU31qgtqgzo1_500.jpg

  余談ですが、短編映画のヒロインを勤めた美しい女優さんはフレディ・ワシントン(1903-1994)といい、ブラック・ビューティの草分け的な女優さんです。ブロードウエイのダンサーであった彼女の映画デビューが『Black and Tan』でした。当時の映画界で黒人の役といったら、ほとんど「召使」、美貌ゆえ、却って役柄に苦労した。エージェントは「あんたの外見は白人で通るのだから、仕事のために自分を白人といいなさい。」と勧めたけれど、「私は黒人です!」と、人種的なプライドから、ガンとして首を縦に振らず、いろいろ苦労をしたといいます。
 
 映画『Imitation of Life』では、黒人の血を引くことを隠して生きる、自分とは逆のヒロインを演じたため、バッシングを受けるという目にもあいましたが、のちにアカデミー賞にノミネートされました。
 
 私生活では、エリントンと浮き名を流しながら、楽団のトロンボーン奏者、ローレンス・ブラウンと結婚、目の覚めるような美男美女の二人がハーレムを闊歩すると、町が騒然としたという伝説もあります。
 
 その肌の白さゆえ、さまざまたな苦難にあったワシントンは、後年、黒人俳優のコンサルティングを務め、公民権運動にも大きな貢献をしたといいます。
 
 日本も外国も、明治の女はエライ!
 
 そんなことを思い返しつつ、私の耳にはトリビュート・コンサートでThe Mainstemが演奏した“Black and Tan Fantasy”がこだましています。
 

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 コンサートのCD(三枚組)がもうすぐできる予定ですので、ご希望の方は、当店までお申し込みください。
 
CU 
 

 

 

タブロイド的 ”ブルーバード・イン”考

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  明日11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日、デトロイト・ハードバップが産声を上げたジャズクラブ “ブルーバード・イン”について書くことにいたします。フラナガンがケニー・バレルと録音した『ビヨンド・ザ・ブルーバード』は、このクラブへのオマージュです。..

   地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒルと、NY帰りのモダン・ドラマー、アート・マーディガンから、ポスト・ハードバップのジョー・ヘンダーソン(ts)まで…デトロイトのモダンジャズの象徴的ジャズクラブ、ここしばらくは毎月の足跡講座で楽しむことが出来るデトロイト・ハードバップの基礎を構築したビリー・ミッチェル+サド・ジョーンズ+トミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズたちが出演した期間は1953年から54年と、驚くほど短いのです。でも、その間の思い出は、出演ミュージシャン達めいめいのジャズライフのハイライトを飾る重要な位置を占めています。

 

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 1948当時の”ブルーバード・イン”、玄関脇の窓際がバンドスタンドで、OverSeas旧店舗とよく似てるとフラナガンが言っていた。フィル・ヒル(p)、アート・マーディガン(ds)、エディ・ジャミソン(as)、ビーンズ・リチャードソン(b)、エイブ・ウーリー(vib)

 

 

 

  創業1930年、”NYの名門クラブと違い、黒人の経営する黒人のためのジャズクラブ、お客の99%が黒人でしたが、店の中では驚くほど人種のこだわりがなく、気取りもない。(ペッパー・アダムス証言)とにかく別世界、最高の雰囲気!いかなる公的援助も受けず、21世紀になっても業態を変えながら営業を続けた大変な老舗でもあります。

 サド・ジョーンズの曲「5021」のとおり、”ブルーバード・イン”の住所は、「5021 Tireman St, Detroit, MI 48204」いかにも自動車工業の街を思わせる”タイアマン”地区は、デトロイトのウエストサイドにあり、旧来の黒人居住区(ブラックボトム)のあるイーストサイドと反対側のの新興住宅地です。開店の1930年は、奇しくもトミー・フラナガンの生まれ年でした。

 タイアマンのあるウエストサイドの黒人居住地は、第二次大戦の戦争特需で街が好景気に転じた時期に開発されました。徴兵の為に労働者が不足した結果、黒人の雇用が安定し、収入の増加を受け、黒人用一戸建て住宅が沢山建設されたと言います。

 因みに、フラナガンのお父さんは景気と余り関係のない実直な郵便配達夫、生家のあったコナント・ガーデンズは、タイアマンから北東約10キロの地区でした。

<経営者たちのアウトレイジ>

 銀行の援助の期待できない黒人のビジネス、”ブルーバード・イン”の創業者は町の顔役、デュボア・ファミリーのロバート・デュボアといいます。開店当時はアメリカ料理と中華料理が楽しめるレストラン・バーで、ジャズクラブではありません。

 1938年、創業者ロバートは息子に殺害されてしまいます。父親殺しのバディ・デュボアが戦勝の恩赦で出所する1945年まで、子分のヘンリー・ブラックが社長代行を務めました。

 デュボアは戦後のビバップ・ブームに着眼し、モダンジャズに特化したジャズクラブへ経営方針を変更、するとそれが大当たり!1948年ごろにはデトロイトでピカイチの音楽を提供するトップ・ジャズクラブとなっていました。

 当時のクラブは、コミックやダンスといった他の出し物を合わせるショウバー形式か、ダンスホール兼用が多く、『聴く』を重視した”ブルーバード・イン”のジャズクラブ戦術は最も都会的でおしゃれなものだったんです。

bebop_look.jpeg お客は、近隣だけでなく、デトロイト中からやってきました。ミュージシャンもリスナーも、客席のほとんどがビバップ・ファッション、ディジー・ガレスピーよろしくベレーと眼鏡にヤギ髭とカーディガン・ジャケットという出で立ちで、ジャズに聴き入り、ミュージシャンを応援してくれたのです。幕間にジュークボックスでダサい音楽をかけようものなら、バーテンにまで怒られる始末でした。

 当時のハウス・バンドは地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒル、NYから戻って来たアート・マーディガン(ds)を中心に、ワーデル・グレイ(ts)や近所の住人、ビリー・ミッチェル(ts)、それに地元の有名ミュージシャンが参加。ヒルは駆け出しのトミー・フラナガンを可愛がり、まだ16才のトミーにピアノを演奏させたことがあったそうですが、経営者のデュボアに追い出されたという証言が残っています。未成年だったからかもしれませんね。

Clarence_Eddins1950s.jpg 1953年、実業家クラレンス・エディンズ(左の写真)が共同経営者として本格的に参入。ちょうどフラナガンが朝鮮戦争から帰還し、テリー・ギブズ(vib)にスカウトされNYに進出したテリー・ポラードの後任としてハウス・ピアニストになった頃です。エディンスはクリーニング屋や食堂などを経営していましたが、本業はナンバーズ賭博の胴元です!恐らくはデュボア・ファミリーに資金を提供していたのかもしれません。エディンスはジャズを愛し、マイルズ・デイヴィスの後援者として有名でした。マイルズが麻薬と縁を切るためデトロイトで滞在したときには、彼に様々な便宜を図り、”ブルーバード・イン”に出演させ、ホテルを世話し、自分のワードローブさえ自由に使わせる寛大なタニマチでした。

ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、マックス・ローチなどNYSugar-Ray-Robinson.jpgのトップ・ジャズメンはデトロイトに来ると必ず”ブルーバード・イン”に顔を出して、サド・ジョーンズのアイデアを吸収し、見込みのあるミュージシャンをチェックして行きました。デトロイト出身の大チャンプ、シュガー・レイ・ロビンソンも”ブルーバード・イン”のセレブな常連でした。

 やがて第二の凄惨な事件が起こります。1956年、バディ・デュボアが店から僅か数ブロック離れたところで待ち伏せにあい殺されたのです。事件は迷宮入り、エディンスが名実ともに唯一の経営者となったわけです。この頃には、トミー・フラナガン、ケニー・バレル、サド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルは皆NYに進出していました。

 

<ブルーバードの変貌>

  フラナガンが「OVERSEAS」をスエーデンで録音する頃、”ブルーバード・イン”は改装、窓際にあったバンドスタンドは店の奥に移り、NYのトップ・グループを出演させるブッキング、いわばデトロイト版「ブルーノート」となり、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズと言ったハードバップ・バンドがライブ・スケジュールのラインナップを飾っていました。

 SonSti.gifところが、再び暴力沙汰が起こります。”ブルーバード・イン”に頻繁に出演していたソニー・スティットと店が揉め、エディンスがショットガンでスティットを脅した挙句、大事なサックスを壊すという事件が起こり、スティットはAFM(アメリカ事件音楽家協会)に提訴。結果、”ブルーバード・イン”はAFMのブラックリストに入り、会員の出演を禁止する事態に。スターの出ない”ブルーバード・イン”の客足は遠のいて行きました。

 時代は変わり、デトロイトの治安が悪化する’70年代初めにライブを中止。店はそのままに守られていましたが、エディンズは1993年に死去。

 その後、夫の愛した”ブルーバード・イン”の歴史を守るため、未亡人のメアリー夫人が、サンデイ・ジャムセッションなど、様々なイベントを主催しましたが、彼女も2003年に亡くなり、2008年に店舗は競売にかけられました。

 デトロイトでは、”ブルーバード・イン”を史跡として保存しようという声もあるそうですが、時節柄、実現していません。

 上の荒れ果てた店舗の写真を見ると、諸行無常の響きが聞こえて来ます。往時はNYのジャズクラブのようなテントが通りに張り渡してあった玄関口。ブルーの塗装はフラナガンが居た頃にはなかったものでしょう。

 デュボア・ファミリーの抗争も、お客たちの歓声も、窓から漏れ聴こえるライブに耳を澄ます未来のミュージシャンたちの輝く瞳も今はありません。 

 トミー・フラナガンたちの演奏するサド・ジョーンズのオリジナル曲、聴きなれなくとも受け容れて、大きな拍手で応援してくれた”ブルーバード・イン”の陽気で音楽をよく知っていたお客さんたちは、その後どんな人生を送ったのでしょうか? 

 

 土曜日は、トリビュート・コンサート!精一杯お客様に楽しんでいただけますように!まだ少し席はありますので、どうぞ沢山お越しください!

 

CU

 

デトロイト:モーターシティ創世記

 オバマ再選!少なくともジャズに関係ある米国人なら、人種や居住地に関係なく、共和党ロムニー候補に投票した人は、まずいなかったでしょう・・・

 このロムニーさんは意外にもデトロイト出身、一方オバマ大統領が属する民主党から 1930年代に出馬したフランクリン・ルーズベルトの大統領就任に一役買ったのは、自動車産業に従事するデトロイトの黒人労働者たちでした。

 米国中西部有数の大都市、モーターシティ、デトロイトは、言うまでもなくトミー・フラナガンだけでなく数えきれないほど多くのジャズ・ミュージシャンを輩出しました。またビバップ時代、ディジー・ガレスピーが本拠地に選び、マイルズ・デイヴィスが長期滞在した場所です。

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 フィラデルフィアやシカゴなど、ジャズ・ミュージシャンを多数輩出した他の都市とデトロイトはどう違うのでしょう?

 昔、トミー・フラナガンと一緒にリンカーン・センターの図書館に行った時、私の見慣れない人たちの古めかしい写真にフラナガンが大喜びしたことがありました。(下の写真)

  「マッキニー・コットン・ピッカーズ(McKinney Cotton Pickers)!わたしはこの人たちを聴いて育ったんだよ!デトロイトから有名になった。ベニー・カーターもここにいたんだよ。」
???

 Cotton Pickers (綿摘人夫さんズ)……人種差別に対しては、物凄い大声で怒るリベラルなトミーにしては、いかにも不釣り合いな名前やん・・・私は昔のデトロイトにとても興味を持ったのでした。

 というわけで、土曜日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、そして17日(土)のトリビュート・コンサートまでに、トミー・フラナガン以前のデトロイトをざっと駆け足で辿っておきます♪

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  <移民と黒人の街> 

 モダン・ジャズにとって、もうひとつの重要な街:フィラデルフィアが18世紀からの歴史的な大都市であったのに対し、デトロイトは自動車産業というものが出来てから急激に大きくなりました。
 1900年までのデトロイトは、さしたる産業もなく人口は30万人弱、それが自動車産業のおかげで、僅か20年後に、全米第4位の100万人都市となり、1920年代には、更に50万人が流れ込んできました。デトロイトにやってきた人たちのほとんどが製造業に従事。彼らの多くは外国からの移民、あるいは南部からやってきた黒人達でした。黒人労働者の大部分はジョージア、アラバマ、テネシー、サウスキャロナイナ、ミシシッピー州といった南部の農村地帯から流入した人々で、フラナガンの両親も同様です。

 南部から流入する黒人の人口の急激な増加は、KKKの襲撃といった深刻な人種対立を生んだ一歩で、黒人コミュニティの発展につながっていきます。

<黒人による黒人の街>

  モーターシティとなったデトロイトは、黒人の社会的階層に大きな変化をもたらしました。大部分が掃除人や日雇い人夫といった最低賃金の職業で形成されていた階層が、自動車工場に従事する新しい労働者層と入れ替わり、彼らを顧客にする商店や食堂、質屋、下宿屋、医者などの自営業が増えます。自営業者は、19世紀には、ごく少数の超エリートだったのですが、そういう黒人中産階級が増えて行きました。つまり、モーターシティの黒人労働者層が、黒人エリートを支えることになったのです。
  1919年、デトロイトに出現した黒人の劇場経営者、エドワード・ダドリーは、全米の黒人メディアにヒーローとして絶賛されています。ダドリーは、デトロイトの黒人街にあるユダヤ人経営の劇場のマネージャーを歴任した後、ヴォーデッド・シアターという劇場のオーナーとなり、それはシカゴやフィラデルフィア、どこにも例のない快挙でした。

 黒人コミュニティの繁栄は、歓楽街の発展や音楽の充実、そして何よりも黒人のプライドを鼓舞しました。その結果、ミシガン州では1937年に人種平等を推進する強力な公民権法が成立、人種混合かつ、黒人師弟の将来に手厚い公立学校教育がフラナガン世代に大きな影響をもたらしたのです。でも、その反動として強い人種間の軋轢が続きました。

 
<デトロイト・ジャズ誕生!>

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 黒人コミュニティの中心的な繁華街はパラダイス・バレーと言われました。そこには劇場や映画館、ナイトクラブが集中し、それらの遊興施設の大部分は黒人の経営だったそうです。
ラジオのない時代、20世紀初頭、”ジャズ”と呼ばれたデトロイトの黒人音楽は、南部から流入してきたブルース・スピリットと、従来的なワルツやクラシック、ラグタイムなどの軽音楽が融合した、多様というかアバウトな形態でした。演奏場所は映画館、劇場、ボール・ルーム、バンドも客と同じ人種、白人、黒人が分割され、両方とも隆盛だったといいます。バンドリーダーにはバイオリニストが多く、編成は、クラシックのオーケストラを模したものから、吹奏楽的なものまで様々でした。
 ラジオもなく、無声映画の時代ですから、それぞれの地方によって様々な楽団があったのでしょうが、残念ながらほとんど記録は残っていません。

pyramid.ai.jpg  やがて、ラジオが普及し、映画がトーキーになってからは、楽団が淘汰され、いわゆるスイング・ジャズを演奏する楽団だけが生き残ります。

 無声映画の劇場付の古い楽団は一掃され、人気楽団は各地を巡業をする”テリトリー・バンド”になります。さらに人気のある楽団は、ラジオやレコードを通じて全国的な人気を博する”ナショナル・バンド”としてNYや放送局にひっぱりだこになりました。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、白人ならベニー・グッドマンの率いる全国的な楽団を頂点に、”テリトリー・バンド”、地元のローカルなバンドが底辺を支えるピラミッド型の楽団階層になり、実力のあるミュージシャンは上に上っていくわけです。ビリー・ミッチェルやサド・ジョーンズはテリトリー・バンドでキャリアを積み、デトロイトの”ブルーバード・イン”で開花し、カウント・ベイシーというナショナル・バンドに落ち着きました。

 楽団が巡業することで、各地の音楽性が融合し、化学反応を繰り返しながらジャズは発展していったのです。

 トミー・フラナガンが親しんだマッキニー・コットン・ピッカーズという楽団はデトロイト初の黒人”ナショナル・バンド”として、ドン・レッドマンやベニー・カーターたちのNY的なジャズの要素を取り込みながら、デトロイトの音楽を洗練させていったのです。1920年代に結成されたこの楽団、街の育ちでも、黒人は「南部」のイメージがなければ売れなかったので、こんな名前になったのですが、そのアンサンブルの優雅でスイングすることは、どんなNYの楽団にもひけを取らなかったといわれています。

Jeangraystoneorchpostcardsmall.jpg コットン・ピッカーズに比肩する白人楽団もデトロイトにはありました。ジーン・ゴールドケット楽団は、白人モダンジャズの「祖父」といわれる夭折のトランペット奏者、ビックス・バイダーベック(tp)、レスター・ヤングが憧れたというサックス奏者、フランキー・トラムバウワー、トミー&ジミーのドーシー兄弟tといった白人のジャズスターの宝庫だったのです。客層の人種は隔絶されていましたが、楽団同士の音楽交流はデトロイトの劇場の裏庭で、密造酒片手に頻繁に行われたといいます。そのため、「スイング時代はNYではなくデトロイトから始まった」と主張する評論家(ジーン・リース)もいるのです。

 デトロイトでは、黒人テリトリー・バンドのプロモーターも黒人、彼らはボクシングの興行を正業としていたのでした。

 

<黒人が経営する歓楽街、パラダイス・バレー>

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 ジャズ・エイジの後にやってきた大恐慌、自動車工業の労働者の半数が失業しても、スイング・ジャズとダンスホールの流行で、パラダイス・バレーは盛況を続けました。
  

 ダンスホールが下火になり、ナイトクラブ時代には、ハーレムの「コットン・クラブ」同様、白人客向けに、黒人音楽やダンスのショウを供するクラブがパラダイス・バレーに沢山出来ました。そのオーナーの多くがまた黒人であったのは、デトロイトだけの状況です。NYハーレムのコットン・クラブは白人のマフィアのものでした。デトロイトだけに黒人経営者がいたのは、デトロイトの黒人ギャングたちが”ナンバーズ賭博”で莫大な利益を得たおかげだと言われていますが公式な記録はもちろん残っていません。

billy_mitchell_PIC.jpg サド&エルヴィンのジョーンズ兄弟、ビリー・ミッチェル、そしてトミー・フラナガンが切磋琢磨した“ブルーバード・イン”も、もともとは黒人のデュボア・ファミリー が新興の黒人地区タイヤマンに開店したレストランで、デュボア・ファミリーは息子が父親を殺害すると言う凄惨な事件を経て、クラレンス・エディンス(上の写真)という経営者に変わり、デトロイト・ハードバップの華が開くのです。

 土曜日の「新・トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、その辺りの社会状況や、公民権運動盛んなデトロイトの充実した黒人教育について、寺井尚之が音楽内容と一緒に楽しく解説したします。どうぞお気軽に覗いてみてくださいね!

 寒くなったので、お勧め料理はRoaring Twentiesならぬロール・キャベツにする予定です。

CU

御礼&ハリケーンのことなど

11月17日(土) 7pm- トリビュート・コンサート開催
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 今年も釧路から、黄金色のジャガイモをお供えに頂戴しました。北海道摩周湖、スェーデンのダラーナ地方を思わせる風光明媚な天然川湯温泉から届きました!御園ホテルのジャックフロスト氏、毎年ありがとうございます!
 トミー・フラナガンと一緒に、御園ホテルのかけながし温泉に入りたかったです!
 3日(土)のDVD講座「映像で偲ぶトミー・フラナガン」から。トリビュートまで、最高のジャガイモを使ったお料理でおもてなしいたします! 
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 NYを襲った想定外のハリケーン、上はFBで回覧されていた昨日のマンハッタン島、半分がブラックアウト!
 ミッドタウンにある「バードランド」は営業再開されているようですが、「ジャズ・スタンダード」や、ダウンタウンの「ヴィレッジ・ヴァンガード」、「ブルーノート」などNYの一流ジャズクラブも3日連続で休業を余儀なくされている模様です。
 老舗ヴィレッジ・ヴァンガードは路上にある階段を下りたところにある地下店舗ですので、ピアノや什器など、水害に遭っていないように祈るばかり・・・
 トミー・フラナガンの未亡人、ダイアナさんの住むアッパー・ウエストサイドは被害をまぬかれてた模様。
 「台風をサンディって気安く呼ぶからいけないのよ。ちゃんとサンドラと本名で呼ばなくちゃ。」と冗談をいいながら、トリビュート・コンサートを楽しみにしてくれていました。
cars_n.jpg ジョージ・ムラーツ夫妻は、自宅の周りの樹木がなぎ倒されていたけれど、住居は大丈夫だったそう、日本のファンの皆さんによろしくとのことです。
 ムラーツ兄さんの近所に住む、石川翔太君(b)も無事です。
 OverSeasの常連様に来日を待望されているベーシスト、Yas竹田氏はブルックリン在住、インターネットが数日間つながらなかったこと以外は数年前の竜巻のときの方が被害甚大だったということです。ただ、息子さんの学校は今週いっぱいは休校かもしれないということですから被害は推して知るべし。
 デトロイト・ハードバップの社会的背景について書く予定だったのですが、予定を変更して、御礼&安否情報となってしまいました。
 NYの皆さま、どうぞお大事に!地震大国日本も、注意を怠らないようにしなければ!
 台風や地震のない時は、ぜひOverSeasに来てください。
CU