女の言い分:リー・モーガン事件(最終回)

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 リー・モーガンに近いミュージシャンは、ヘレン&リーについてこんな風に語っている。

lee-morgan-quintet-left-bank-copy.jpg 事件現場に居た L.モーガン・クインテットのテナー奏者、ビリー・ハーパー:「リーといえば、必ずヘレンを連想する。それほど強く結ばれた夫婦だ。とにかくヘレンはリーをドラッグから救済しようと必死だった。ヘレンも裏社会の人間だから似た者同士だ。彼女は人生のほとんどを彼に捧げ、その一大プロジェクトに、僕達も乗っかったわけだ。リーはリーで、全てを変えたいと切望し、彼女の生き方をも変えたいと望んだ・・・」

hartmages.jpg   ドラマー、ビリー・ハート:「ヘレンは大した女だよ。頭は切れるし、仕事ができた。リーだって負けず劣らず頭が良かった。クスリをやっていても、毎日NYタイムズには目を通すような人間だ。リーは、ヘレンと若い恋人の両方を愛し苦悩していた。愛の種類は違うとしてもね…」

 姉さん女房の理想の夫婦も沢山いるけれど、ヘレンの場合は、モーガンを救うため、敢えて「妻」や「恋人」でいるより、厳しい「母」になろうとした。例え、彼に裏切られようとも…

 コカインをやりだすと、ハイでない時には、強烈にイラついたり、被害妄想になったり、エキセントリックになるといいます。ヘレンが人前でズケズケ言い、モーガンが逆ギレするようになったのは、二人がコカインを吸うようになってからなのかもしれない・・・

「誰のお陰で、ここまで立ち直れたと思ってんの!」これがヘレンの口癖だった。

 「あれほどのスターが、奥さんにがんじがらめにされるなんてミジメだよね。」と陰口が聞こえてくると、家に帰らず、若いガールフレンドとの将来を夢みても、ちっとも不思議じゃない。きっとモーガンは若い彼女と一緒に居るときには「妻と別れて一緒になる。」と決意し、彼女に約束していたのかも知れない。

 ヘレンがモーガンに別れを告げたのは1972年2月13日の日曜日のことだ。ところが、ヘレンを思いとどまらせると、3日と経たぬうちに、再び若いガールフレンドと同棲を始め、家に寄りつかなくなった。ちょうどその時期、モーガン・クインテットで一週間のクラブ出演が始まろうとしていた。

<SLUGS’>

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  《スラッグス SLUGS’》は、当時、非常に物騒で荒涼としたイースト・ヴィレッジにあり、モーガンがNYの本拠地として、ここに定期的に出演出来たのも、ヘレンの尽力の賜物だった。当時の『The New Yorker』のタウン情報には、「うら寂しい地区でひときわ賑わう人気スポット」というような紹介文がある。とにかくタクシーを店の前に停めて降りるなり、ナイフを突きつけられるかも、とまで言われるほどのうら寂しい場所だった。《スラッグス》はうなぎの寝床のような長細い店で、奥にバンドスタンドがあり、75席ほどだったけれど、当時のスタッフによれば、時にはその倍ものお客で賑わう繁盛店だった。

 モーガンはここで2月15日(火)から2月20日(日)の出演を予定していた。悲劇の起こったのは週末、2月19日(土)、日中の気温が零度を越えない寒い日であった。

<悲劇の予兆>

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  その日、日中のモーガンはゴキゲンだった。ガールフレンドと連れ立って “ジャズモービル”の冬期ジャズワークショップで授業をしている友人のジミー・ヒース(ts)の教室を訪問している。

designCanvasAngelaDavis.jpgジミー・ヒース: 「あの日、リー・モーガンは、大きなアフロヘアで、とても綺麗な若い女の子とフラっとやって来た。その子は、黒人運動のヒロイン、アンジェラ・ディヴィスに似た美人だった。リーは授業を遮ってこう言った。

『よう、チビ公、俺の彼女はどうだい?』

 彼が、もっと年上のヘレンと一緒だという事はよく知っていた。ヘレンのおかげでドラッグから立ち直り、まっとうな人間にしてもらって、ギグやツアーも出来て、うまく行ってる事もね。仕方なくこう言ったよ。

『リー、いま授業中なんだ。ああ、確かに彼女はイケてる。おめでとうさん、よかったな。』…」

 この後、二人は最初の災難に見舞われた。乗っていた彼女のフォルクスワーゲンが、凍結した道路でスリップしカーブを曲がりきれず大破。レッカー車が来るのを待つ余裕もなく、モーガンはほうほうの体で、トランペットのケースだけを抱え、ガールフレンドと震えながら《スラッグス》にやって来た。一番先に店に入っていたビリー・ハーパーは、その様子を見て、かつてモーガンが師と仰いだクリフォード・ブラウンの事故を思い出したと言っている。

  一方、長らくモーガンの出演場所に顔を出すことのなかったヘレンは、この夜、自宅に訪ねてきたゲイの友人に夫婦の悩みを聞いてもらっていた。やがて、彼女は《スラッグス》にモーガンの様子を見に行くから同行して欲しいと言い出した。その友達は「私はいや。あんたも絶対行かないほうがいい!」と説得したけれど、一旦決めたら引かない女だ。「大丈夫!ちょっと挨拶に寄るだけ。それから《ヴィレッジ・ヴァンガード》に行ってフレディ(ハバード)を聴くんだから。」

 そして彼女は拳銃をバッグに入れた。それは、モーガンは「留守中に一人ぼっちだと、心配だから」と、護身用にくれたものだった。その夜は、彼女がモーガンのコートを取り戻してやった、あの冬の夜よりも、ずっと冷え込んでいた。彼女が《スラッグス》についたのは真夜中頃だ。その後の出来事を彼女はインタビューで克明に語っている。

<その夜の出来事>

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 ヘレン・モーガン: 私はブロンクスの自宅からタクシーに乗り、イースト・ヴィレッジの《スラッグス》に行った。店に入るとモーガンが私のところにやって来た。話をしていると、例の女の子が、彼に詰め寄ったの。「ちょっと!この人とは別れたって言ったじゃん!」

「そうさ、別れたよ。だから、もうつきまとうなって言ってるところなんだよ!」

 私はカッとして彼を平手打ちした。彼も逆上し、夜中の寒空に、私を放り出した。私はコートなしで、バッグしか持っていなかったのに。そのはずみで、バッグから拳銃がこぼれ落ちた。私はコートを取りに、もう一度店に戻ろうとしたが、店のドアマンに閉めだされた。

  「あの、ミス・モーガン、言いにくいんですが、リーからあなたを入れるなと言われているんです。」

 でも、ドアマンは銃を見て、私を中に入れた。するとモーガンが私をめがけて凄い形相で走ってきたの。その目は途方も無い怒りでギラギラと燃えていた…

 その瞬間、彼女は発砲し、銃弾はモーガンの胸元に命中した。

 ハーパーはこう証言する。「僕らはまだバーで雑談していた。突然、銃声が聞こえた。大きい音ではなかったがパンッという音がした。現実とは思えなかった。振り返ると、リーは立ったままで、ああ、大丈夫だと思った瞬間、彼は崩れ落ちた。」

 ヘレンは泣き叫び、完全に取り乱していた。

 もう夢なのか、現実なのかもわからなくなっていた。私は倒れた彼に駆け寄って謝った。

Sorrry, こんなつもりじゃなかったの!Sorry…」 

すると、彼はこう言ってくれたの。

「ヘレン、わかってる。そんなつもりじゃなかったんだろ。僕も悪かったんだ。ごめんよ・・・」

  警察と救急車がやって来たのは20分以上経ってからで、モーガンは病院に搬送される前に出血多量で死亡した。もしもこの事件が病院に近い《ヴィレッジ・ヴァンガード》で起こっていたら助かっていたのにと、ビリー・ハート(ds)は言う。

  若いガールフレンドは、次の標的になることを恐れ、いち早くその場から姿を消した。彼女は、二度と関係者の前に現れることはなかった。彼女が何者なのか?その名前すら、関係者全員が固く口を閉ざしている。

  《スラッグス》は、この事件から数週間で閉店を余儀なくされ、ショックを受けたベーシストのジミー・メリットは、事件後、NYを去り故郷フィラデルフィアに帰った。

 ヘレンは第二級殺人罪に問われたが、公判記録は残っていない。「刑務所で3ヶ月服役した後保釈された」、或いは、「一定期間を精神病棟で過ごした」と、様々に推測されていいます。

  彼女はその後、親族の居るノースキャロライナ州、ウィルミントンに戻り、教会に通いながら1996年に亡くなるまで、モーガン姓を通した。彼女の証言は、死の2ヶ月前、彼女が通った大学講座の史学の教官であり、ラジオ・パーソナリティであるラリー・レニ・トーマスに遺したインタビューによるものです。

 MI0001341650.jpg「(亡くなった)クリフォード(ブラウン)を聴くと、そして今トレーンを聴くと、医者から、こんなふうに忠告されているような気持ちになる。『今日、持っているもの全てを演奏に出せ。明日になると、そのチャンスは来ないもしれないのだから。』:リー・モーガン

 

参考資料:The Lady Who Shot Lee Morgan by Larry Reni Thomas

Death of a Sidewinder by W.M.Akers http://narrative.ly/stories/death-of-a-sidewinder/

I Walked with Giants :Jimmy Heath自伝 

Benny Maupin Interview : Live at the Lighthouse ライナーノート 

NEA Jazz Master interview: Benny Golson” Smithsonian National Museum of American History

The Murder of Lee Morgan from “Keep Swinging” blog

Podcast Episode: The Day Lee Morgan Died by Billy Hart

The New Yorker Magazine 1972 Feb.12 & 19 issues

女の言い分:リー・モーガン事件(その2)

 先週から、この事件のことを書き始めたら、思いがけなく沢山の反響を頂きました。リー・モーガンが今もなお、ジャズの枠や時代を越えて、多くの人達を今も魅了していることを実感し、とても嬉しかったです。

<ハードバップ・バイオハザード>

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 10代から、地元フィラデルフィアで天才の名を欲しいままにしていたモーガンは、並み居る先輩にタメ口をきく、超「生意気なガキ」でしたが、ドラッグとは無縁の少年だった。19才でNYに進出したきっかけは、麻薬禍で崩壊寸前だったジャズ・メッセンジャーズ立て直しを図る、ベニー・ゴルソンが、同郷フィラデルフィアで傑出した存在だったモーガンを最終兵器として呼び寄せたからだ。 皮肉にも、そのモーガンをヘロイン漬けにした張本人は、リーダーのアート・ブレイキーだったと周囲はこぞって証言しています。ヘロインはたった一度試しただけで、ひどい禁断症状に襲われるために、瞬く間に依存症になるのだそうです。

ヘレン: モーガンがアートにハイな状態はどれくらい続くの?と訊いたら、ブレイキーが永遠だ。(Forever)と言ったから。ヘレンはそう語っている。ブレイキー自身は、ヘロインのさじ加減を熟知していて、うまくクスリと付き合うことが出来たけれど、20才になるかならないモーガンは、あっというまに呑まれてしまった・・・

 

 1940年代中期以降、ヘロインが米国の他の都市より、NYで一番流行した背景には第二次大戦中にルーズベルト大統領とマフィアの間に交わされた密約のためだと言われています。大戦中、NYマフィアは、連合軍が表立って執行できない闇の作戦を命を張って遂行し、連合軍の勝利に大いに貢献し、その見返りとして、麻薬の密輸が容易に出来るようになった。おかげで、ヘロインはNYのストリートで、アスピリンよりずっと手軽に買えるようになった。おまけに、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリディというジャズメンの永遠のヒーロー、ヒロインのおかげで、麻薬は「最高の高揚感」だけでなく「最高のプレイ」を与えてくれる魔法の薬と信じた、多くの若手が人生を台無しにした。そんな確率はSTAP細胞が出来るより少ないのに…

 「麻薬は、ギャンブルよりもずっと危険で、善良な市民の生活を破壊する。あんなものを扱うべきではない。」 映画『ゴッドファーザー1』の中で、マーロン・ブランド扮する昔気質の侠客、ヴィトー・コルレオーネがヘロインの売買に反対すると、他のボスが「それじゃあ、ニガーにだけ売れば?」と議論するシーンがありました。つまり、黒人は「市民」じゃなかった。ましてジャズが流行し、白人女性が黒人ミュージシャンに恋をするようになると、「やってまえ!」と絶好のターゲットになった。麻薬中毒のミュージシャンは、クスリ代で借金まみれになり、タダ同然でレコーディングをし、著作権を二束三文で売り飛ばす。人種差別に拳を上げると、薬物所持で摘発され、キャバレーカードを剥奪され、仕事ができなくなるわけですが、それはまた別の話。モーガンの物語に戻りましょう。

<シーシュポスの神話>

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 さて、ヘレンは、モーガンとの付き合いが始まったのは1960年代初めだと語り、周囲のミュージシャンの証言では、二人がマネージャー、プレイヤーのおしどり夫婦として、円満な二人三脚が出来た時期は、1965年から1970年ごろまでのようです。

 彼の年譜を観ると、最初の妻、キコ・モーガンが彼の許を去ったのが1961年、その直後にジャズ・メッセンジャーズを退団、独立してからのギグがたびたび「体調不良」でキャンセルされている。1962年、NYシーンからこつ然と消えた彼について、「従軍」「入院」「転職」と色々憶測が流れた。真相は、多くのジャズメンがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設NARCOで療養していたようです。クスリとの付き合い方を覚え、再びNYに戻ったモーガンは『サイドワインダー』華々しいカムバックを遂げた。

 1963年、すでにジャズは流行遅れとなり、時代はすでにロックンロール全盛時代、そんな頃、斜陽のBLUENOTEに録音したアルバムが『サイドワインダー』。録音中に急遽トイレに籠ってトイレットペーパーに走り書きしたロック・テイストのソウルフルな変則ブルースが大ヒット!プレスが追いつかないくらいよく売れて、儲けたお金が15,000ドル!せっかく療養したというのに、大金はヘロインとなって血液中に消え、また元の黙阿弥。聴く者を翻弄しながらクライマクスに連れて行く、クールに計算された圧倒的なプレイとは裏腹に、彼の生き様は、頂点に上り詰める寸前に奈落へ転げ落ちるという不条理の繰り返しだった。

Nightofthecookers.jpg 1965年、フレディ・ハバードのライブ盤『The Night of the Cookers』にゲスト出演した時、モーガンは借り物のトランペットで演奏するしかない極貧状態だったとビリー・ハート(ds)は証言しています。それを見かねたヘレンは、本格的に彼の救済に立ち上がった。

 ヘレンはモーガンの楽器を調達し、ジャズ・メッセンジャーズに舞い戻ったり、レコーディングと単発のツアーだけの状態だった彼を鼓舞して、自己バンドを結成させた。レギュラー・メンバーは、ハロルド・メイバーン(p)、元メッセンジャーのジミー・メリット(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、控えにはシダー・ウォルトン(p)やハート(ds)を擁し、バンドを抱えるための資金も彼女が肩代わりしていた。ヘレンがただの娼婦であったのなら、40才になってこれほど資金力があるはずはない。彼女は詳しく語っていないけれど、やっぱり裏社会で働いていたのかも知れません。とにかく、彼女はテキパキ仕事が出来、はっきり物が言えるサバケた女傑だった。

 ヘレンはモーガンに、ヘロインを克服するように説得する。

「ヘロインをやり過ぎなければ、もう一度凄いプレイができるようになるのよ!だから自分で努力しなさい!」

 納得したモーガンはブロンクスの病院に通い、メタドンというヘロインの代替物を処方する薬物治療を受けるようになった。その頃のヘレンの家の冷蔵庫を開けるとメタドンが山のように貯蔵されていたそうです。

 同時にヘレンはモーガンの「取り巻き」を「寄生虫」と呼び、バッサリ排除するという荒業をやってのけた。寄生虫の代表格が、モーガンとホテルの部屋を共有していたルロイ・ゲイリー、彼に因んだ”Gary’s Notebook”という曲が『サイドワインダー』に収録されている。モーガンはヘレンと同居する直前、安ホテルでゲイリーと同宿し、ホテル代が払えず追い出さた挙句、二人一緒にヘレンの家に転がり込んできたジャンキー仲間だ。彼は、モーガンが立ち直るにつれて「自然消滅」した、ということになっていますが、実のところどんな形で消滅したのかは分からない。

 治療のおかげで、モーガンは精力的にギグとレコーディングをこなすようになります。ヘレンはいつも彼と一緒で、ツアーがあると必ず同行し、シャツやスーツにピシっとアイロンをかけてスタイリッシュなトランペッターの出で立ちを整えた。1968年、ヘレンはマンハッタンの”ヘレンズ・プレイス”を引き払い郊外ブロンクスの高級コンドミニアムに転居。仕事の話は全てヘレンを通して行われ、二人は、年の離れたおしどり夫婦として世間に広く認知されるようになっていました。

 思えばメタドンの治療期間が、二人の蜜月だった。ヘレンは彼が立ち直るよう、誠心誠意尽くしたけれど、彼が本当に立ち直ってしまえば、モーガンは自分の許から巣立ってしまうことを、心のどこかでずっと恐れていたのかも知れない。ヘレンにとっては年の差の不安を紛らわすため、モーガンにとってはヘロインに頼らないため、その頃巷で流行した比較的依存性の少ないコカインが絶好の嗜好物になって行きます。

<Fine and Mellow>

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 1970年になると、モーガンは高級スポーツカーを乗り回し、夜の街のどこかで、だれかとコカインを楽しむようになっていきます。朝帰りをして、ヘレンにズケズケ言われるのが耐えがたく、反抗期の子供のように、うとましいと思うようになっていた。

 この頃、彼は恋が出来るほど元気を取り戻していました。相手は、彼にお似合いの若い女の子だった。彼女が何者かはどこにも書かれていませんが、少なくとも業界の人間ではなかった。当時流行の先端だったアフロヘア、スレンダーな抜群のスタイルで、ひと目を引くほどの美女だった。モーガンは彼女と一緒にコカインを楽しみ、スポーツカーに同乗させて、仲間に見せびらかすようになった。ヘレンは、最初のうちは鷹揚に振舞っていましたが、モーガンは、恋人とコカインの両方にぞっこんになり、ブロンクスの家に帰らなくなります。そしてモーガンのギグに、これまでのようにヘレンが声援を送る姿は見られず、マネージャーとして最終日にギャラの受け取りに現れるだけになっていきます。

 或る日、ヘレンが家に帰ると、モーガンは浴室で若い恋人と一緒だった!

 ヘレンが恐れていたときが、とうとうやって来た。彼女は、自殺を図りましたが、モーガンが病院に運び一命をとりとめます。

 「もう潮時だ。」ヘレンは別れる決心がつきました。

 「私はあんたの本妻で、愛人は別にいる。」そういうのは無理なのよ。私はそういう女じゃない。そんな生き方はいや!だから、もう別れましょうよ。あなたは彼女と一緒になりなさい。私はちょっとシカゴに行ってくる。昔の友達に会いたくなった。いつ戻るかは分からない。あなたが望むのなら、これまでどおりにマネージャーの仕事はしてあげる。でも、もう終わりにしましょう。」

 すると、モーガンは喜ぶどころか懇願した。ヘレンの庇護がなければ、おちおち女の子と遊んでいられない甘えん坊なのだろうか?

「行かないで。シカゴには行くな。嫌だよ。別れたくない!」

 モーガンの甘えに負けたヘレンは結局、思いとどまり、そのときつぶやいた。

「いいわ、モーガン、でもヨリを戻すなんて、私の人生最大の過ちになるかもね。」 

 厳寒のNYでモーガンが質入れしたコートを取り返したことが縁で結ばれた二人は、数年後、やはり厳寒のNYで、一着のコートのために破滅へと導かれていきます。(続く)

 

女の言い分:リー・モーガン事件(その1)

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 北国の皆様、暴風雪の影響はいかがですか?被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。こちら大阪も日頃の寒さが身に染みます。

  リー・モーガンがイースト・ヴィレッジのクラブ、Slugs’ Saloonで、内縁の妻に射殺された1972年2月19日の夜も、みぞれ混じりの雪が降る、凍てつくような夜だったそうです。

 嫉妬に狂った毒婦の犯行だ!と勝手に決め込んでいましたが、今年発表された彼女のインタビュー『The Lady Who Shot Lee Morgan』(Larry Reni Thomas著)を読んでみると、あながちそうでもないらしい。

 

<女の履歴書>

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 モーガンを撃った女、ヘレン・モアは1926年、ノース・カロライナ州の農業地帯の生まれ。リーよりも一回り上の姉さん女房ということになります。美人で早熟だったヘレンは13才で未婚の母となり翌年にはもう一人出産、子どもたちは祖父母が自分の子として育てました。

 やがて、ヘレンはウィルミントンという都市で知り合った22才年上の男性と17才で結婚。夫はNY出身で密造酒売買に携わり、たいそう羽振りのいい結婚生活を送った。しかし、わずか2年後、夫は溺死体となり、ヘレンは19才の若さで未亡人となります。NYから夫の身内がやって来て、ヘレンをNYに連れ帰りましたが、自分の居場所はなかった。大都会で、頼る人もなく、職能もなく、黒人で、若く美しい女の子が、手っ取り早くお金を稼ぐには、夜の世界に行くしかない。モーガンの共演者ビリー・ハートは、ヘレンが娼婦だったとはっきり証言しています。同時に彼女は麻薬の運び屋もやっていた。玄人であり麻薬中毒でない黒人は、その世界では” Hip Square”と呼ばれ、商品の薬に手を付けず、女だから怪しまれることも少なかった。ドラッグの取引は、たいていハーレムのアフターアワーズのクラブで行われ、ジャズ・ミュージシャンとの付き合いも、ドラッグの売人達を通じて始まりました。特に親しかったのが、その頃ハーレムで弾き語りをしていたエッタ・ジョーンズで、ヘレンが殺人罪で告発された時も、彼女は奔走してくれました。

 ヘレンはハードバップを演奏するジャズメン達が、非常に知的で教養があることに驚きます。それにもかかわらず、彼らが白人から二重三重に搾取され、白人客しか入れない場所で演奏をしなければ生きていけない。深い人種の悩みを抱え、真面目に音楽を追求しながらも、麻薬に耽溺していく姿が不憫でたまらなくなります。

 彼らが悩みを忘れられるのは、演奏に没頭できるバンドスタンドだけ。そんな若いミュージシャン達の姿は、少女時代に産んだ子供達には叶わなかった母性本能の対象となり、時にはそれが男と女の愛になりました。

 彼女のアパートは”バードランド”のすぐそばで、ジャズメン達が仕事を終えて立ち寄るには絶好の場所、まともな食事を摂る機会のない彼らはヘレンのアパートに行けば、温かくおいしい手料理をごちそうしてもらえた。そこで麻薬をやるのだけは厳禁。若手バッパー達は53丁目の彼女のアパートを”ヘレンズ・プレイス”に呼び、ヘレンはみんなに姉御として慕われるようになります。ほとんどのミュージシャン達にとって彼女は「女性」ではなく、面倒見が良く、何でも相談できる「おばちゃん」だったんです。

<男の事情>

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 リー・モーガンが初めてヘレンのアパートを訪れたのは1960年代の始め、やっぱり真冬で、その頃ヘレンと男女の関係にあったトロンボーン奏者のベニー・グリーンが連れてきた。寒い寒いNYの冬にやってきたモーガンはジャケットしか着ていなかった。おまけに仕事帰りなのに、楽器のケースも抱えていない。

「ボクちゃん、今夜は零度よ!コートはどうしたの?」

 クスリを買うためにコートもトランペットも質入れしてしまっていたのだ。

「なんてことするの!金槌持たずに仕事に行く大工なんていないわ!それじゃ、コートとトランペットを出してあげるから一緒に質屋に行きましょう。でもお金はあげないわよ。お金を渡すと、あんたはまっ先にクスリを買っちゃうでしょ!」

 あれこれ母親のように面倒を見てくれる年上のお姐さん、モーガンは年上の彼女と一緒に居ると、とても安心できて、音楽に専念できた。一文無しになっても住む場所はあるし、食事も作ってくれる。当時のモーガンは、麻薬のせいで、たびたび仕事をすっぽかすという悪評が立ち、ギグが激減していたんです。

 或る時、先輩ミュージシャンが急死し追悼演奏を頼まれたモーガンは「悪いけど行けない。」と断ろうとしていた。理由は黒い革靴まで質入れしてしまい、履くものがなかったから・・・

 情けなくて、見ちゃいられない!

 ヘレンは彼のために知り合いのクラブに電話をして仕事を取り始めた。

「私が責任を持ってギグに行かせます。もし来なかったら私が弁償するからブッキングしてよ。」と保証人になった。

 地方のクラブに行くときは、交通の手配も怠りなく、隅々まで気を配ってあげていた。モーガンは、ヘロインを辞める薬物治療を始め、だんだんと立ち直っていきました。

 「ヘレンは大した女だ。ボロボロのモーガンがまともになってきたじゃないか!」 仲間は、ヘレンを敬愛していた。

 でも彼女がどれほど努力しても、モーガンの麻薬癖だけは断ち切ることだけはできなかった。一旦ヘロインから遠ざかり、生活が安定するにつれ、今度は、比較的依存性が少ないと言われる高級薬物、コカインに手を出すようになります。そして、ヘレンも一緒にコカインを吸うようになります。

(続く)

愛しき呑んだくれ:Pee Wee Russell

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 トミー・フラナガンが、最も緊張し、最も面白かったというピーウィー・ラッセルのアルバム『The Pee Wee Russell Memorial Album』(オリジナルタイトル『Swingin’ with Pee Wee』)が今週の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。

 リーダーのピーウィー・ラッセルは録音にあたって、ディキシーランドのリズム・セクションには飽々しているから、もっと活きの良い連中を集めてくれとプレスティッジ側に注文を付けたそうです。フラナガンのプレイは、ハーレム・ストライドの巨匠達からジェス・ステイシーまで数多の名ピアニストと共演してきたラッセルに、「これまでに共演したうちで最高のピアニスト!」と言わしめた。

 pee_wee_russell.jpg 日本式に言うと明治の男、ピーウィー・ラッセル(1906-1969)は、ビックス・バイダーベックの盟友として、またデキシーランド・ジャズの花形奏者として、後には「中間派」の代表的クラリネット奏者として知られています。それでも実際の彼のプレイは従来のカテゴリーに属さない型破りなもので、ホイットニー・バリエットは「あれほど飾り気がなく、大胆不敵で閃きに満ちた演奏者はない。」と断言し、現在のトップ・クラリネット奏者ケン・ペプロウスキは、ファースト・ノートだけで判る独特のサウンドと、有り余るテクニックや音楽的知識を敢えて取っ払う、従来のクラリネットの枠からはみ出したラッセルを「クラリネットのセロニアス・モンク」と評した。

 鉄腕アトムのタワシ警部を思わせる飄々とした風貌と、しみじみ聴かせる味のあるプレイ、ピーウィー・ラッセルの人生も音楽に負けない型破りなものでした。

<甘やかされっ子>

young_peewee50386397.jpg  一説にはジャック・ティーガーデンやリー・ワイリーと同じようにチェロキー・インディアンの血が混じっていると言われるピーウィーはミズーリ州セントルイス生まれ、本名はチャールズ・エルズワース・ラッセル、プロ活動を始めた十代の頃、華奢な体つきからPeewee(チビスケ)という芸名がついた。

  父親は高級ホテルの給仕長、母親は新聞社勤務のインテリ女性、共働きの裕福な家庭で、母が40才の時、やっと授かった巻き毛の可愛い一人っ子がラッセル、とにかく猫かわいがりされ、大の甘ったれに育った。よその親なら叱りつけるようなおねだりも、両親ははいはいと買い与えた。ヴァイオリンでもドラムスでもクラリネットでも、欲しいものは何でも買ってもらえる羨ましい幼年時代。それでもラッセル自身は、自分が二人のお荷物で、愛されていないように感じていたようです。 幼い時に、父が友人と組んでガス田を掘り当てたため、オクラホマ州マスコギーという町に移住、再びセントルイスに戻るという子供時代でした。 

 幼い時は、お坊っちゃまらしく、ヴァイオリンのレッスンを受けていた。10才の時、ヴァイオリンの発表会で演奏したラッセルは、迎えの車の助手席に座り、楽器を後部座席に置くなり、お母さんが乗り込んで楽器の上にドカっと座った。 ラッセルの前途洋々なるヴァイオリンのキャリアはあえなく挫折、ラッセル坊やは「ありがたい、もう練習しなくていいんだ!」と密かに快哉を叫んだ。そんなお坊っちゃまが、クラリネットを始めたのは12才の頃で、町唯一の劇場の楽団のクラリネット奏者に個人レッスンを受けました。当時のオクラホマは禁酒州(ドライステイト)でしたが、酒好きの先生は密造酒をこっそり飲みながらレッスンを行った。その姿が後年のラッセルに悪影響を及ぼしたのかもしれません。早くも14才でプロデビュー、学校に行くと言っては父親の車を乗り回して遊ぶという陽気な登校拒否児であったそうですが、音楽の勉強だけはしたくてオクラホマ州立大に進学を希望していた。そころが同居していた叔母さんが、彼の甘ったれぶりに呆れ果て「あの子の根性は曲がっているから、士官学校に入れて今のうちに真人間にしておかなくちゃ!」と両親に進言したおかげで、イリノイ州の名門私立士官学校に入学させられるはめになります。甘ったれに規律正しい生活が出来るわけはなく僅か1年で中退。同校の最も著名な中退者として記憶に残る存在になりました。ラッセルは、その叔母さんと一生口をきくことはありませんでした。

<武勇伝> 

nina-leen-aug-1944-pwr.jpg 再びセントルイスに戻ってから、ラッセルは本格的にプロ活動を始めます。両親は彼のために当時400ドル近いアルト・サックスを買ってくれた!まもなく異国の地で演奏するバンマスから電報が届きます。「メキシコデ演奏サレタシ」

 流血のメキシコ革命が終わって間もない時代でしたが、両親は、未成年のラッセルを、快く送り出してくれました。男たちはみんな銃を携帯し、日常的に銃撃戦が行われるマカロニ・ウエスタンさながらの土地、結構なギャラをもらったラッセルは異国の地で放蕩三昧、酔っ払って気がついたら牢屋に入っていた。

 帰国後、はミシシッピ川の遊覧船で演奏し、暇があれば黒人ジャズ・ミュージシャンの演奏に聴き入りました。1920年代中盤、ジャック・ティーガーデンや伝説のコルネット奏者、永遠の親友となったビックス・バイダーベックと出会い、甘えん坊ラッセルの音楽家魂が開花します。無二の親友バイダーベックがジーン・ゴールドケット楽団に入団し町を去ると、ラッセルは「5つの銅貨」でお馴染みのスター・コルネット奏者、レッド・ニコルスに呼ばれてNYに進出。町に着いた翌日からブランズウィックの録音スタジオに入り、当時の白人ジャズのスター達とレコーディングを重ねながら、夜になるとハーレムを歩きまわりフレッチャー・ヘンダーソンやデューク・エリントン、エルマー・スノウデンといった黒人一流ビッグバンドの演奏を聴き漁った。或る夜、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板テナー、コールマン・ホーキンスが病欠し、たまたま居合わせたラッセルが1セット飛び入りで入ることに。

「譜面を観ると、なんてこった!あんな楽譜見たことない!♭だらけでね、♭が6つとか8つ(!?)とかついてやがる…かんべんしてくれ!僕は遊びに来ただけなのに…」

 ラッセルのインタビューは、どれもこれも自虐的ギャグのオンパレード、話がポンポン飛ぶのは彼のフレーズと一緒です!

<ラッキー・ルチアーノ親分、助けてください!>

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 「或る町で、友達が連れてきた女の子に見とれていただけなのに、ドサクサにまぎれて人を撃ち殺したことがある。」と豪語するラッセルの話はどこからどこまでが本当なのかよく分からない。ともかく’30年代中盤のジャズのメッカであった「52丁目」のスターであり、’40年代にはグリニッジ・ヴィレッジのNick’sを拠点に大いに人気を博したことは間違いありません。

’30年代、彼がルイ・プリマ楽団と52丁目の人気クラブ”フェイマス・ドア”に出演中、2,3人のヤクザな連中がプリマとラッセルに因縁をつけてきた。出演中のみかじめ料として、プリマに毎週50ドル、ラッセルに25ドルの大金を支払えというのす。「それが嫌なら、一生演奏できねえ体にしてやるぜ。」

 そこでラッセルはNYマフィアのドン、ラッキー・ルチアーノに電話をした。ルチアーノが主催する宴会で何度も演奏していたから顔見知りだったんです。弱い民衆の味方であるドン・ルイチアーノは早速ボディガードを派遣してくれました。それが、マフィア史上、最も凶暴な殺し屋と言われたユダヤ系ヒットマン、プリティ・アンバーグ、顔が余りにも怖いので「プリティ」とあだ名が着いたギャングです。彼が毎晩、大きな黒塗りの車でホテルと仕事場を送り迎えしてくれたおかげで、いつの間にか、因縁を付けたヤクザはいなくなった。ひょっとしたらハドソン川に浮いていたのかもしれません。

 一匹狼の殺し屋、プリティ・アンバーグはゴルゴ13と同じように無駄口は叩かない。だから毎晩一緒に過ごしても、話す言葉はHelloとGoodbyeだけ!いずれにせよ、ラッキー・ルチアーノがプッチーニではなく、スイング・ジャズのファンでよかったですね!

 

<奇跡のカムバック>

 

 「麻薬をやらなくても繊細でいられた」稀有なアーティスト、ラッセルの悪癖は、盟友ビックス・バイダーベック同様、過度の飲酒。起き抜けにコップ一杯のウィスキーを呑まないと、ベッドから出られないというほどのアル中で、中年になるとだんだん食べ物が喉を通らなくなってきた。医者に行くと、胃には異常なしと言われるのに食べられない。だんだん被害妄想の症状が現れ、1948年、妻から逃げるようにシカゴに行ってしまいます。そこから3年間、彼の記憶は途絶え、気が付くと1951年、サンフランシスコの病院に入院していた。病名は膵臓炎、肝硬変、栄養失調で、余命いくばくもないという診断でした。彼は文無し、手術費用と入院費は当時のお金で$4500というとてつもない金額でしたが、多くの仲間達が立ち上がり、チャリティ・ライブを行って賄ってくれたというからありがたい!ラッセルはよほど仲間内で好かれていたんでしょうね。

 彼を援助したミュージシャンの中にはルイ・アームストロングやジャック・ティーガーデンという大スターもいました。二人が見舞いに来て「心配すんな!お前を助けるためにコンサートやるから元気になってくれ!」と励ますと、ラッセルは声にならない声でこう言ったそうです。

「ありがとよ。それじゃ、新聞に何でもいいから俺の哀れな話を言いふらしてくれよな。」

 パリではシドニー・ベシェが手際よく”ピーウィー・ラッセル追悼コンサート”を行ったにも関わらず、ラッセルは奇跡的に一命をとりとめ回復します。

<おもろい夫婦>

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 ラッセルの妻、メアリーはロシア系ユダヤ人でベニー・グッドマンやエディ・コンドンと親しい間柄でした。彼女の両親が下宿屋をやっていて、そこに滞在していたラッセルと親しくなり1943年に結婚。(本人談:結婚指輪も花束もないサイテーの結婚式だったわ。)彼女が会社勤めをしてラッセルの生活を支えていたのに、3年間蒸発され、それでも面倒を見続けた糟糠の妻ですが「ベニー・グッドマン以外のクラリネットなんて大嫌い。」「彼が優しそうなんて見かけだけよ。あれほどジコチューな人間はいないわ!」と、インタビューでもボロカスに夫をこき下ろすなかなか痛快な女性です。
 インテリという点ではラッセルのお母さんと似ているし、ラッセルはうんと悪いことをして、妻に「叱ってくれるお母さん」の役割を求めていたのかも知れませんね。

 ラッセルの奇跡的な回復の後、また彼女は再びグリニッジ・ヴィレッジのアパートで夫と暮らし、彼がまともな食生活を送り、このフラナガンとのアルバムを始め、オリヴァー・ネルソンとの共演作などなど、新しい活動を大いに助けました。

 ラッセルの絵画の才能をいち早く看破したのもこの奥さん、1965年の或る日、メアリーは突然メイシーズ百貨店のバーゲンセールで画材用具一式を買ってきてラッセルに「描きなさい!」と渡しました。それ以来、メアリーが急死するまでラッセルは音楽より油絵に熱を入れ、50点余の作品はどれも500ドル以上で売れたそうです。その内の一点がこれ、ラトガーズ大学のダン・モーガンスターン(最高のジャズ評論家)さんの研究所にもラッセルの作品が二点飾られているそうです。

 ラッセルが絵を描き始めてから2年後、メアリーは58才の若さでラッセルを残して亡くなりました。体調が悪いと自覚したときには、末期のすい臓がんだった。膵炎を患う夫の面倒をさんざん看ながら、自分の病気には気づかなかったんですね。

 ラッセルは妻が亡くなってから二度と絵筆を取ることはなく、瞬く間に元のアル中に戻り、彼女の死の翌年に亡くなりました。

 ラッセルの妻、メアリーはロシア系ユダヤ人でベニー・グッドマンやエディ・コンドンと親しい間柄でした。彼女の両親が下宿屋をやっていて、そこに滞在していたラッセルと親しくなり1943年に結婚。(本人談:結婚指輪も花束もないサイテーの結婚式だったわ。)彼女が会社勤めをしてラッセルの生活を支えていたのに、3年間蒸発され、それでも面倒を見続けた糟糠の妻ですが「ベニー・グッドマン以外のクラリネットなんて大嫌い。」「彼が優しそうなんて見かけだけよ。あれほどジコチューな人間はいないわ!」と、インタビューでもボロカスにこき下ろすなかなか痛快な女性です。

 ラッセルの奇跡的な回復の後、また彼女は再びグリニッジ・ヴィレッジのアパートで夫と暮らし、彼がまともな食生活を送り、このフラナガンとのアルバムを始め、オリヴァー・ネルソンとの共演作などなど、新しい活動を大いに助けました。

 ラッセルの絵画の才能をいち早く看破したのもこの奥さん、1965年の或る日、メアリーは突然メイシーズ百貨店のバーゲンセールで画材用具一式を買ってきてラッセルに「描きなさい!」と渡しました。それ以来、メアリーが急死するまでラッセルは音楽より油絵に熱を入れ、50点余の作品はどれも500ドル以上で売れたそうです。その内の一点がこれ、ラトガーズ大学のダン・モーガンスターン(最高のジャズ評論家)さんの研究所にもラッセルの作品が二点飾られているそうです。

 ラッセルが絵を描き始めてから2年後、メアリーは58才の若さでラッセルを残して亡くなりました。体調が悪いと自覚したときには、末期のすい臓がんだった。膵炎を患う夫の面倒をさんざん看ながら、自分の病気には気づかなかった・・・

 ラッセルは妻が亡くなってから二度と絵筆を取ることはなかった。ラッセルは瞬く間に元のアル中に戻り体調を崩し、彼女の死の翌年に亡くなりました。

PeeWeeRussellST.jpg「音楽を演る」ことの90%は「聴く」ということで、実際に演奏するのは10%に過ぎない。常に共演者の出す音に耳を傾けて、自分もそこに飛び込むんだ。

 何でも怖がらずにやってみること。最悪でも、面目が丸つぶれになるくらいのもんだ。

実際、僕は何度もそんな目にあってるがね。

Pee Wee Russell 

 

年末ディナー@OverSeas

今年も開催!
12月17日(水)~27日(土): 特別価格 お一人様¥3000(ライブ・チャージ、税別)にてコース・ディナーをご用意いたします。必ず前日までにご予約ください。
 <メニュー>

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  • オードブル
シュリンプ・カクテル
  ブルスケッタ
  生ハム 
  • チキンと蕪のクリーム・パスタ
  • サラダ
  • 特製ビーフ・パイ
  • アイスクリーム、コーヒー
 お一人様 :¥3000 (税金、ライブ・チャージ別)
ディナー営業日:12/17(水),19(金),20(土), 24(水),26(金),27(土)
ご注意: 前日までに必ずご予約ください。
キャンセルやご人数の変更も前日までにお願いいたします。ライブ・チャージはHPでご確認ください。
info@jazzclub-overseas.com TEL 06-6262-3940

第25回トリビュートCDできました。

25th_tribute_cd_P1080720.JPG  あっという間に師走!先日開催した第25回トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートの3枚組CDが出来上がりました。

 巨匠トミー・フラナガンがレギュラー・トリオとライブの場で発展させていった名演目の数々を、寺井尚之が、宮本在浩(b)、菅一平(ds)と組んだ自己のレギュラー・トリオで培った演奏がここにあります。

 コンサートにご参加いただいたお客様にも、お越しになれなかったお客様にも、OverSeasのトリビュート風景を共に感じていただける三枚組CD、寺井尚之も満足の逸品になりました。

 録音からCD製作まで、毎回ボランティアでお世話くださる福西You-non+あやめ夫妻に感謝。
お申込みはメールでお願い致します。すでにご予約いただいているお客様は次回ご来店の際にお渡しいたします。

=曲目=(解説はHPに

<1st>

1. 50-21 ( Thad Jones)

2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan )

3. Rachel’s Rondo  (Tommy Flanagan )

4. Medley : Embraceable You (George Gershwin )

~ Quasimodo (Charlie Parker)

5. Lament (J.J.Johnson)

6. Bouncing with Bud (Bud Powell)

7. Dalarna  (Tommy Flanagan )

8. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Dizzy Gillespie, Gill Fuller)

<2nd>

1. That Tired Routine Callrd Love (Matt Dennis)

2. Smooth As the Wind (Tadd Dameron)

3. Minor Mishap  (Tommy Flanagan )

4. Eclypso  (Tommy Flanagan )

5. Good Morning Heartache ( Irene Higginbotham)

6. Mean Streets  (Tommy Flanagan )

7. That Old Devil Called Love (Allan Roberts, Doris Fisher)

8. Our Delight (Tadd Dameron)

Encore: With Malice Towards None (Tom McIntosh)

Ellingtonia: Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)

Passion Flower (Billy Strayhorn)

Black & Tan Fantasy (Duke Ellington)