女の言い分:リー・モーガン事件(その2)

 先週から、この事件のことを書き始めたら、思いがけなく沢山の反響を頂きました。リー・モーガンが今もなお、ジャズの枠や時代を越えて、多くの人達を今も魅了していることを実感し、とても嬉しかったです。

<ハードバップ・バイオハザード>

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 10代から、地元フィラデルフィアで天才の名を欲しいままにしていたモーガンは、並み居る先輩にタメ口をきく、超「生意気なガキ」でしたが、ドラッグとは無縁の少年だった。19才でNYに進出したきっかけは、麻薬禍で崩壊寸前だったジャズ・メッセンジャーズ立て直しを図る、ベニー・ゴルソンが、同郷フィラデルフィアで傑出した存在だったモーガンを最終兵器として呼び寄せたからだ。 皮肉にも、そのモーガンをヘロイン漬けにした張本人は、リーダーのアート・ブレイキーだったと周囲はこぞって証言しています。ヘロインはたった一度試しただけで、ひどい禁断症状に襲われるために、瞬く間に依存症になるのだそうです。

ヘレン: モーガンがアートにハイな状態はどれくらい続くの?と訊いたら、ブレイキーが永遠だ。(Forever)と言ったから。ヘレンはそう語っている。ブレイキー自身は、ヘロインのさじ加減を熟知していて、うまくクスリと付き合うことが出来たけれど、20才になるかならないモーガンは、あっというまに呑まれてしまった・・・

 

 1940年代中期以降、ヘロインが米国の他の都市より、NYで一番流行した背景には第二次大戦中にルーズベルト大統領とマフィアの間に交わされた密約のためだと言われています。大戦中、NYマフィアは、連合軍が表立って執行できない闇の作戦を命を張って遂行し、連合軍の勝利に大いに貢献し、その見返りとして、麻薬の密輸が容易に出来るようになった。おかげで、ヘロインはNYのストリートで、アスピリンよりずっと手軽に買えるようになった。おまけに、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリディというジャズメンの永遠のヒーロー、ヒロインのおかげで、麻薬は「最高の高揚感」だけでなく「最高のプレイ」を与えてくれる魔法の薬と信じた、多くの若手が人生を台無しにした。そんな確率はSTAP細胞が出来るより少ないのに…

 「麻薬は、ギャンブルよりもずっと危険で、善良な市民の生活を破壊する。あんなものを扱うべきではない。」 映画『ゴッドファーザー1』の中で、マーロン・ブランド扮する昔気質の侠客、ヴィトー・コルレオーネがヘロインの売買に反対すると、他のボスが「それじゃあ、ニガーにだけ売れば?」と議論するシーンがありました。つまり、黒人は「市民」じゃなかった。ましてジャズが流行し、白人女性が黒人ミュージシャンに恋をするようになると、「やってまえ!」と絶好のターゲットになった。麻薬中毒のミュージシャンは、クスリ代で借金まみれになり、タダ同然でレコーディングをし、著作権を二束三文で売り飛ばす。人種差別に拳を上げると、薬物所持で摘発され、キャバレーカードを剥奪され、仕事ができなくなるわけですが、それはまた別の話。モーガンの物語に戻りましょう。

<シーシュポスの神話>

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 さて、ヘレンは、モーガンとの付き合いが始まったのは1960年代初めだと語り、周囲のミュージシャンの証言では、二人がマネージャー、プレイヤーのおしどり夫婦として、円満な二人三脚が出来た時期は、1965年から1970年ごろまでのようです。

 彼の年譜を観ると、最初の妻、キコ・モーガンが彼の許を去ったのが1961年、その直後にジャズ・メッセンジャーズを退団、独立してからのギグがたびたび「体調不良」でキャンセルされている。1962年、NYシーンからこつ然と消えた彼について、「従軍」「入院」「転職」と色々憶測が流れた。真相は、多くのジャズメンがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設NARCOで療養していたようです。クスリとの付き合い方を覚え、再びNYに戻ったモーガンは『サイドワインダー』華々しいカムバックを遂げた。

 1963年、すでにジャズは流行遅れとなり、時代はすでにロックンロール全盛時代、そんな頃、斜陽のBLUENOTEに録音したアルバムが『サイドワインダー』。録音中に急遽トイレに籠ってトイレットペーパーに走り書きしたロック・テイストのソウルフルな変則ブルースが大ヒット!プレスが追いつかないくらいよく売れて、儲けたお金が15,000ドル!せっかく療養したというのに、大金はヘロインとなって血液中に消え、また元の黙阿弥。聴く者を翻弄しながらクライマクスに連れて行く、クールに計算された圧倒的なプレイとは裏腹に、彼の生き様は、頂点に上り詰める寸前に奈落へ転げ落ちるという不条理の繰り返しだった。

Nightofthecookers.jpg 1965年、フレディ・ハバードのライブ盤『The Night of the Cookers』にゲスト出演した時、モーガンは借り物のトランペットで演奏するしかない極貧状態だったとビリー・ハート(ds)は証言しています。それを見かねたヘレンは、本格的に彼の救済に立ち上がった。

 ヘレンはモーガンの楽器を調達し、ジャズ・メッセンジャーズに舞い戻ったり、レコーディングと単発のツアーだけの状態だった彼を鼓舞して、自己バンドを結成させた。レギュラー・メンバーは、ハロルド・メイバーン(p)、元メッセンジャーのジミー・メリット(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、控えにはシダー・ウォルトン(p)やハート(ds)を擁し、バンドを抱えるための資金も彼女が肩代わりしていた。ヘレンがただの娼婦であったのなら、40才になってこれほど資金力があるはずはない。彼女は詳しく語っていないけれど、やっぱり裏社会で働いていたのかも知れません。とにかく、彼女はテキパキ仕事が出来、はっきり物が言えるサバケた女傑だった。

 ヘレンはモーガンに、ヘロインを克服するように説得する。

「ヘロインをやり過ぎなければ、もう一度凄いプレイができるようになるのよ!だから自分で努力しなさい!」

 納得したモーガンはブロンクスの病院に通い、メタドンというヘロインの代替物を処方する薬物治療を受けるようになった。その頃のヘレンの家の冷蔵庫を開けるとメタドンが山のように貯蔵されていたそうです。

 同時にヘレンはモーガンの「取り巻き」を「寄生虫」と呼び、バッサリ排除するという荒業をやってのけた。寄生虫の代表格が、モーガンとホテルの部屋を共有していたルロイ・ゲイリー、彼に因んだ”Gary’s Notebook”という曲が『サイドワインダー』に収録されている。モーガンはヘレンと同居する直前、安ホテルでゲイリーと同宿し、ホテル代が払えず追い出さた挙句、二人一緒にヘレンの家に転がり込んできたジャンキー仲間だ。彼は、モーガンが立ち直るにつれて「自然消滅」した、ということになっていますが、実のところどんな形で消滅したのかは分からない。

 治療のおかげで、モーガンは精力的にギグとレコーディングをこなすようになります。ヘレンはいつも彼と一緒で、ツアーがあると必ず同行し、シャツやスーツにピシっとアイロンをかけてスタイリッシュなトランペッターの出で立ちを整えた。1968年、ヘレンはマンハッタンの”ヘレンズ・プレイス”を引き払い郊外ブロンクスの高級コンドミニアムに転居。仕事の話は全てヘレンを通して行われ、二人は、年の離れたおしどり夫婦として世間に広く認知されるようになっていました。

 思えばメタドンの治療期間が、二人の蜜月だった。ヘレンは彼が立ち直るよう、誠心誠意尽くしたけれど、彼が本当に立ち直ってしまえば、モーガンは自分の許から巣立ってしまうことを、心のどこかでずっと恐れていたのかも知れない。ヘレンにとっては年の差の不安を紛らわすため、モーガンにとってはヘロインに頼らないため、その頃巷で流行した比較的依存性の少ないコカインが絶好の嗜好物になって行きます。

<Fine and Mellow>

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 1970年になると、モーガンは高級スポーツカーを乗り回し、夜の街のどこかで、だれかとコカインを楽しむようになっていきます。朝帰りをして、ヘレンにズケズケ言われるのが耐えがたく、反抗期の子供のように、うとましいと思うようになっていた。

 この頃、彼は恋が出来るほど元気を取り戻していました。相手は、彼にお似合いの若い女の子だった。彼女が何者かはどこにも書かれていませんが、少なくとも業界の人間ではなかった。当時流行の先端だったアフロヘア、スレンダーな抜群のスタイルで、ひと目を引くほどの美女だった。モーガンは彼女と一緒にコカインを楽しみ、スポーツカーに同乗させて、仲間に見せびらかすようになった。ヘレンは、最初のうちは鷹揚に振舞っていましたが、モーガンは、恋人とコカインの両方にぞっこんになり、ブロンクスの家に帰らなくなります。そしてモーガンのギグに、これまでのようにヘレンが声援を送る姿は見られず、マネージャーとして最終日にギャラの受け取りに現れるだけになっていきます。

 或る日、ヘレンが家に帰ると、モーガンは浴室で若い恋人と一緒だった!

 ヘレンが恐れていたときが、とうとうやって来た。彼女は、自殺を図りましたが、モーガンが病院に運び一命をとりとめます。

 「もう潮時だ。」ヘレンは別れる決心がつきました。

 「私はあんたの本妻で、愛人は別にいる。」そういうのは無理なのよ。私はそういう女じゃない。そんな生き方はいや!だから、もう別れましょうよ。あなたは彼女と一緒になりなさい。私はちょっとシカゴに行ってくる。昔の友達に会いたくなった。いつ戻るかは分からない。あなたが望むのなら、これまでどおりにマネージャーの仕事はしてあげる。でも、もう終わりにしましょう。」

 すると、モーガンは喜ぶどころか懇願した。ヘレンの庇護がなければ、おちおち女の子と遊んでいられない甘えん坊なのだろうか?

「行かないで。シカゴには行くな。嫌だよ。別れたくない!」

 モーガンの甘えに負けたヘレンは結局、思いとどまり、そのときつぶやいた。

「いいわ、モーガン、でもヨリを戻すなんて、私の人生最大の過ちになるかもね。」 

 厳寒のNYでモーガンが質入れしたコートを取り返したことが縁で結ばれた二人は、数年後、やはり厳寒のNYで、一着のコートのために破滅へと導かれていきます。(続く)

 

「女の言い分:リー・モーガン事件(その2)」への7件のフィードバック

  1.  Tamae さんこんにちは.
     とても楽しく拝見しております、Tamae さんの記事はとても読み易いですね.
     すぐにでも一冊の本になりそうです.
     Lee Morgan についてはもちろんですが、ボクが興味持ったのは1940年代の”暗黒街工作”からヘロインのお話しの部分.
     ちょっと調べてみたら、面白いことがたくさん出てきました.
     この先も楽しみにしています.

  2. motoさま、ご興味もっていただけて光栄です。
    ぜひ色々調べて、戦時マフィアの落合信彦になってください。
    ブログ楽しみにしています!

  3. tamae‹ さん、早いもので今年も終わりですね。
    ご無沙汰ばかりで失礼しておりますが、こちらのサイトでは随分勉強をさせていただきました。
    また、来年もよろしくお願いします。
    タイガー・ウッズに似ているリー・モーガンは格好が良かった。死にかたもハードバップ、いやハードボイルドですね。
    それでは、良いお年を!
    そして楽しい Jazz Life を!

  4. fb友達からの紹介で拝読
    今日に深くて面白いですね。
    当時の背景や二人の関係を改めて知る機会になりました‼️

  5. Kitagawaさま、読んでいただけて光栄です。
    暮れに、”I Called Him Morgan”というタイトルのドキュメンタリー映画が公開されるそうなので、ぜひ観に行こうと思っています。

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