生徒会セミナー 満員御礼!

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 寺井尚之ジャズピアノ教室生徒会主催の日曜セミナーが、昨日華々しく開催されました。先週は発表会、今週はセミナーと、寺井門下のエネルギーはすごいです。
 「スタンダード曲をトミー・フラナガンの味わいにするには?」というテーマは講師陣には大変手ごわいものであったと思います。なぜなら、トミー・フラナガンという人は、誰でもがこぞって演るようなスタンダードを好んで弾く人ではなかったからです。
 それでもなお、スタンダード曲をテーマに選んだのはひとえにジャズ初心者の後輩たち想いの心からで、あやめ会長、むなぞう副会長はBeautifulでした。
munazou_lecture.JPG  トミー・フラナガンと個人的に接する貴重な経験を演奏に活かすむなぞう副会長は、アービング・バーリンの永遠の名曲“How Deep Is the Ocean”を取り上げて、フラナガンのピアノは、しっかりと曲の意味を伝えていることを教えてくれました。「音楽は特殊言語」であるということの証明ですね!英語に堪能でスタンダードの歌詞に憧憬深いむなぞうくんの個性が溢れ、後輩たちにも判りやすいレクチュアが大好評でした。
ayame_lecture.JPG  発表会「最優秀賞殿堂入り」の理論派、あやめ会長は、歌詞のあるガーシュインのスタンダード曲“Isn’t It a Pity?”と歌詞のないモンク・チューン、“Ruby, My Dear”を取り上げ、エラ・フィッツジェラルドよりも歌詞をよく覚えていたフラナガンのピアノ的音韻の踏み方や、セロニアス・モンクとトミー・フラナガンのアドリブ・コンセプトの違いを、譜例を出して専門的に解説してくれました。初心者にはかなり難しい理論解説もあったけれど、皆一生懸命に耳を傾けノートを取っている姿も印象的でしたね!充実した内容のレクチュアをありがとうございました。私も勉強になりました。
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 今回一番ノリノリで準備をしていたのが真打 寺井尚之で、いつも自分が演奏しないくせに“ベサメ・ムーチョ”“サテン・ドール”“枯葉”を徹底研究したので解説は舌好調!シンプルで楽しいトークの中に、音楽への愛が溢れていて「今日のテライさんて淀川長治みたいやなあ・・・」ってお客様が笑ってました。
 愛が溢れると、寺井尚之は毒舌もあふれます。ハイブロウなトークの中に、いかりや長助やバキューム・カーも登場して、皆笑い転げてました。
 楽しいセミナーでピアニストたちが学んだことは、「誰でも出来るトミー・フラナガン」みたいなマニュアルはないということです。毎日努力をコツコツと積み重ねるのみ。それを楽しいと思える人、You Are Lucky!
 OverSeas常連の皆様、生徒会にお付き合いくださって、ほんとにほんとにありがとうございます!生徒ではない皆さんがお越しになると、いっそう張り切りますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
CU

対訳ノート(19)  東西「枯葉」事情

ph_feuille_jaune_ver_ptp.jpg    発表会が無事終わり、9月6日(日)は生徒会セミナー!教室外のお客様も多数ご予約いただき、生徒会に代わりまして心より感謝します!
 今回のテーマは「スタンダード曲」とあり、日ごろOverSeasでは滅多に聴かない超スタンダード曲、「枯葉」の対訳を色々作るうち、世界中でヒットしたこの曲の歌詞のイメージも、それぞれの文化によってかなり変化することが判って、今までとは違う親近感を持ちました。
<日本の「枯葉」:もののあはれ>
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 日本の「枯葉」は戦後のシャンソン・ブームの代表曲で、その時代の代表歌手、高英夫のシングル盤は、当時破格の10万枚セールスを記録したそうです。さすがに私も、リアルタイムのことは知りませんが、それから数10年後の私の小学生の頃ですら、秋になると「笑点」などのTV寄席で、必ず「枯葉よ~♪ 枯葉よ~♪」と、東西の漫才師や落語家が必ずネタにしているのを、夕御飯を食べながら笑ってました。ジャズ・ファンでなくとも、「枯葉」は超有名な曲だった。
 日本語詞は、イラストレーターとして余りに有名な中原淳一作、高英夫さんの歌唱を聴きとりしたらだいたいこんな感じ。

<枯葉 ジョセフ・コズマ曲/中原淳一詞>
(Verse)
風の中のともしび
消えていった幸せ
底知れぬ闇の中
 
はかなくも呼び返す
・・・
(Chorus)
枯葉よ~ 絶え間なく,
散りゆく 枯葉よ、
風に散る 落ち葉のごと 
冷たい土に・・・ 

 万葉の時代から紅葉狩りを愛でる大和民族の「枯葉」観がここにある。秋風に吹かれる枯葉の散りざまに、恋の終わりを重ね会わせた奇麗な詞ですね。祇園精舎の鐘の声に 諸行無常の響きを聴く私たち日本人にはすごく判りやすい!
<祖国フランスは「死せる葉」>
 それでは、元祖のシャンソンの「枯葉」はどうなんだろう?この曲は元来ジョセフ・コズマ作のバレー音楽で、大戦直後のフランス映画「夜の門」(’45)の挿入歌に使うため、脚本を担当していたジャック・プレヴェールが歌詞を後付けしたもの。この映画で主役に抜擢されデビューを飾ったイヴ・モンタンが歌ったものの映画も歌もヒットせず、後にジュリエット・グレコが歌い世界的にヒットしたそうです。「夜の門」の枯葉のシーンはYoutubeで観ることが出来ますが、円熟期の歌唱とは比較にならない青臭いものです。
prevert.jpgJacques Prevert (00-’77)
 フランス映画が殆どロードショーされない現在ではジャック・プレヴェールを知る人も少ないかも知れない。ピカソ、マチス、シャガールなど20世紀美術の旗手たちと交わり多くの美術書を編纂したプレヴェールは、詩人であるだけでなく仏映画史上を代表する脚本家、ピカソの「青の時代」を彷彿とさせるような映像と名セリフに溢れる名画「天井桟敷の人々」や、OverSeasでは皆が知ってるあのカシモドの「ノートルダム・ド・パリ」の脚本家でもあります。
  詩人としてのプレヴェールの視線は、階級社会にありがちな「上から目線」ではなく、常に庶民と共にあるストリート系。
 原題は「Les Feuilles Mortes」、直訳すれば「死んだ葉」の複数形。日本の「枯葉」というネーミングは、この題名のニュアンスをうまく表現していますよね。でもプレヴェールの書いた「枯葉」は「散りゆく葉」ではなく、ゴミとしてシャベルで集められた落ち葉の塊。普通ならイケていない情景を一遍の詩に仕立て上げた非凡なものだった。原詩はこちら。

<Les Feuilles Mort by Jacques Prevert>
Verse
どうか君よ、覚えていておくれ、
僕たちが恋していた幸せな日々を。
あの頃の人生は美しく、
太陽はもっと輝いていた。
死んでしまった落ち葉がシャベルで積まれ、
道の片隅に捨てられている。
積もる枯葉は、
僕の追憶と後悔の姿(後略)・・・

 歌詞の中の過去の情景には色彩と光が溢れている。逆に、シャベルで積まれた現実の落ち葉には、紅葉の鮮やかさなど無縁なモノクロの風景しか聞こえてこないのです。日本人なら、色のない「枯葉」はまず詩にはしないでしょう。
 私のフランス人の友は、かねてからパリの男は絶対に浮気をするからケシからんと言い、ベルギー人の誠実な男性と結婚しました。それが本当だとすると、この詞に登場する「追憶」も「後悔」も「あんたが悪いんでしょ!」と言いたくなるけど、セミナーで聴く円熟期のイヴ・モンタンの歌唱を聴くと、そんな批判力が吹っ飛ぶ位説得力がありますから、どうかセミナーではトイレに行かず聴いてね。
<マーケティング重視の米国版>
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 生徒会セミナーで、色んなヴァージョンが聴けるアメリカ版の「枯葉」の詞は、偉大なるジョニー・マーサーの作詞。セミナーでは、マーサーがやはり歌詞を後付けして大ヒットした「サテン・ドール」も登場します。
 英語のタイトルは「Autumn Leaves (秋の葉)」と改題し、原作のヴァースの部分は大胆にカットして、コーラスの部分だけにして、ビング・クロスビーやナット・キング・コールでヒット(’52)!数年後、ポピュラー・ピアニストのロジャー・ウィリアムスが、はらはら落ちる葉っぱのイメージのイントロをつけて爆発的にヒットして、ジャズの世界でも大いに演奏されたんですね。

Autumn Leaves by Johnny Mercer>
落ち葉が窓辺を漂う。
赤や黄金に染まる秋の木の葉。
僕は君を想う、
夏の日に交したキスや、
僕がいつも握っていた
陽焼けした君の手を。
(中略)
でも君がいないことが何よりつらい、
枯葉の落ちる季節になると。

johnny_mercer.jpgJohnny Mercer(09-76)  自らうまい歌手だったマーサーの歌詞は、歌い手に実力があれば最高の素材。
 ここで懐かしむ「恋」はひと夏の情事、上の2作に比べて、秋の葉がとてもカラフルに表現され「つらさ」もほどほどといった感じ。
 ゆえに、シャンソン派からは、英語詞はヴァースを一刀両断にし、プレヴェールに比べ芸術性が低い、感傷的に過ぎると厳しく批判されているけれど、J.マーサーらしい自然で丸いサウンドと、実力のある歌手なら歌い上げるのに便利な長い詩節で、なかなか良い歌詞だと思います。
 ヴァースを削り原作のニュアンスを変えたのは、あくまでキャピトル・レコードの重役としてのマーサーの判断かも・・・収益第一のハリウッド映画と同じ発想かな?
 と、言う訳で秋の枯葉の色は、お国柄で色々違う、そしてジャズの演奏歌唱はそれ以上に十人十色です。対訳は、もっとちゃんとしたものを作ってあるので当日お楽しみください!
日曜日の生徒会セミナー、ほとんど満席ですが、参加ご希望の方はOverSeasまでお問い合わせください。(TEL 06-6262-3940)
 なお、牛すじは前回以上の上物を入手したので、給食のカレーもさらにおいしく出来そうです!
CU

日曜セミナーでスタンダードをDIG!

 こんにちは!夏の疲れや、世界陸上による寝不足でバテバテになっていませんか?寺井尚之ジャズピアノ教室は発表会後も燃え尽きず、来る9月6日(日)お昼に、日曜セミナーを開催いたします。

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一般参加歓迎!寺井尚之ジャズピアノ教室生徒会主催セミナー
テーマ:「スタンダード曲をフラナガンの味わいにするには?」
日時:2009年9月6日(日)正午~4pm(開場11:30am)
場所:Jazz Club OverSeas
受講料:2,500円

seminar_chairpersons.JPG  寺井門下優等生コンビの講演もこうご期待!あやめ会長、むなぞう副会長
 今回は初心者の生徒たちに、いわゆるスタンダード曲の楽しさと、彼らが大師匠と呼ぶトミー・フラナガンの音楽の特徴を体験してもらおうという趣旨で開催いたします。演奏家でないジャズ・ファンにも楽しい講座になりそう!

sea_changes.jpgのサムネール画像

 長年トミー・フラナガン&寺井尚之を聴きこんできたむなぞう副会長は、アービング・バーリンのじーんとする名曲、『How Deep Is the Ocean (ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン)』を解説。「”海より深い恋心”・・・トミー・フラナガンがこの名歌詞をどう読むか?」その辺りの解説と、むなぞう君による歌詞対訳が、私も楽しみです!フラナガン・バージョンは”Sea Changes”に収録されているので、聴いておくといいかも・・・
lady_be_good_for_ella.jpg  あやめ会長は、モンク・チューン『Ruby, My Dear ルビー・マイ・ディア』と、ガーシュイン歌曲、『Isn’t It a Pity イズント・イット・ア・ピティ』の2曲、様々な演奏、歌唱を例に取りながら、トミー・フラナガン音楽の特徴や、門下生が応用できそうなテクニックの秘密を教えてくれるでしょう。なお『Ruby, My Dear』のフラナガン・バージョンは”白熱”で、また『Isn’t It a Pity』は”Lady Be Good for Ella”で聴けるので、お持ちの方はぜひ聴いてみてください。
<真打は枯葉とベサム・ムーチョ、それからサテンドールでジャズ高座>

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 今回のレクチュアを取り分けルンルンで準備していたのが真打、寺井尚之。「それならわしは、バリバリのスタンダードで勝負や!」とピックアップしたのは、なんと『枯葉』、『ベサメ・ムーチョ』それに『サテン・ドール』の3大スタンダード、おかげで、対訳係りにはシャンソンからトリオ・ロス・パンチョスのスペイン語まで・・・「勘弁して~」という位、どっさりタスクの山。
 当初、子供の頃から、それら大スタンダードの数え切れない凡演を聴き育った私には苦役に思えましたが、やって良かった!イヴ・モンタンの男の魅力や、サボテン・ミュージックの明快さにシビれながら、楽しくお仕事させていただきました。外国生まれの歌詞を読み解くと、その国の「文化」や「情」の違いというものが垣間見えて面白いものですね。
 ナット・”キング”・コールからマイルス・デイヴィスまで、名演、凡演、怪演・・・3大スタンダード曲のさまざまな演奏を聴きながら、トミー・フラナガン音楽の神髄に迫る寺井尚之の日曜噺、たった2曲なのに、どうしても喋り足りないそうで、生徒会にかけあって、当初3時までの予定を、4時前まで延長してもらいました。今回も後半は講座から「高座」になりそうです。しかしオチは私も知りません。
 一般のお客様のご参加も、生徒一同大歓迎です。なお、給食は日曜名物、牛すじカレーとロール・ケーキになっております。
参加ご予約はOverSeas(TEL 06-6262-3940)まで。
CU

Jazz講座:Bottom-Up

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 昨日のジャズ講座、お休みの中来てくださって、どうもありがとうございました!
 この夜、一番印象に残ったのは、やはりレッド・ミッチェル(b)!寺井尚之の耳の中で今も響き続けるミッチェルのボトム・ラインの話でした。“Communication”で聴かせた、トミー・フラナガン、ジェリー・ダジオン(as)との絡み合い、せめぎ合いの波動、まるで、ライブ会場の”Fat Tuesday’s”にいるようにリアルに感じ取れて、楽しかった~。
 レッド・ミッチェルは、通常のチューニングとは異なり、ヴァイオリンやチェロと同じの「五度チューニング」を使用しています。それが、どのような音楽的効果を生むのかを、The Mainstemのベーシスト、宮本在浩(b)さんが、ピアノの下にあるOverSeasの店置きベースの調弦を変えながら、ベースに触ったことのない私たちに判り易く解説してくれたので、この夜の講座が一層楽しくなりました。
 現在のベースの基本になっている4度チューニングは、クラシックのオーケストラでは、他の弦楽器との不調和を生む悪しきものだというのが、レッド・ミッチェルの信念であるようです。
 クラシックのオーケストラによっては、ブラームスのシンフォニーを演奏する際はベース・セクションの数人のチューニングを変更するようなことも一般的に行われているそうです。オケの人はまたいろいろ教えてください。
red_mitchell_in_black.jpg Red Mitchell (l927- 1992)  ミッチェルの一番のアイドルはベーシストでなく、テナー・サックスのズート・シムズ、2番目は歌手サラ・ヴォーン。
 2枚のライブ盤で、バップ・チューンからオリジナル曲、スタンダードまで、いろいろ楽しみましたが、私がなぜか印象に残ったのが”These Foolish Things(思い出の種)” 三人のプレイヤーの音楽の途は三者三様ですが、ビリー・ホリディという同じ観音様をお守りにしていることが、演奏ににじみ出ていた!私は江戸っ子でもなんでもないけど、「 鮨食いねぇ!!」って言いたくなるような、親近感を持てる演奏だった!
   寺井尚之の解説は、熱く楽しく、ライブで掛声をかける私設応援団の人数を数え、何者なのか、人物鑑定までしてしまいました。やっぱり、大向こうの掛声は上手にしないといけませんね・・・

 来月のジャズ講座にも、引き続きレッド・ミッチェルが登場。今度はトミー・フラナガンのトリオ作品、『Super Session』ですから、これは絶対に参加していただきたいと思います。
CU
 

ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は8/8 土曜日!

bradley's.jpg  ’84年 Bradley’s, NYにて:左からJimmy Knepper(tb), 寺井尚之(p), Red Mitchell(b)
 皆さん、暑いけどお元気ですか?私もなんとか元気にやってますが、毎日アタフタ、火傷もして暑い日々。夏休みというものがあった過去を懐かしむばかり・・・エアコンもジャクジーも要らない!南の島で潮風に吹かれ、一日中寝転がって過ごしたい・・・
 でも明日の土曜日はジャズ講座、夏休みを満喫している皆さん、高校球児の応援に燃える皆さんも、明日はジャズに燃えよう!講座に集合しましょう!
 今回は、トミー・フラナガン、レッド・ミッチェル(b)、ジェリー・ダジオン(as)が組んだ“Communication (コミュニケーション)”という名前のトリオのライブ盤2枚(’79)を中心に、寺井尚之が深く楽しく解説していきます。
FAT-TUESDAYs_title.jpg  ライブ盤のロケーションはNYグリニッジ・ヴィレッジで盛業だったジャズクラブ、Fat Tuesdays、ここはかつて、エレキギターの無形文化財みないなレス・ポールが出演し、ジミー・ペイジなどロック・ギタリストも頻繁にセッションに参加していることでも有名でした。’80年代にはスタン・ゲッツの息子、スティーブ・ゲッツがブッキング・マネージャーになっています。
communication.jpg  Communicationのライブは’79年11月の第三週目13日(火)~17日(土)の一週間ギグでした。当時の”The New Yorker”のタウン情報のナイトライフ欄には、こんな紹介文が。
 Fat Tuesday’s : 190 3rd Ave. at 17th St. – 地下にあるジャズクラブ、寄木張りの床と鏡が組み込まれた滑らかな茶色の壁は、ここが以前ディスコだった名残だ。
 11/10(土)まではブラジルのパーカッショニスト、アイアート・カルテット・フィーチュアリング・ロン・カーター(b)。11/13(火)より、The Communication Jazz Bandが5日間出演。ジャズバンドと銘打っているが、実はレッド・ミッチェル(b)、トミー・フラナガン(p)そしてアルト奏者ジェリー・ダジオンのトリオ。5日間出演。開演は9:30pm、ディナーも可。

 そういえば、私も東京の六本木のディスコを改装したクラブで、レッド・ミッチェル+フレッド・ハーシュ(p)に松本英彦(ts)さんが飛び入りしたセッションを見たことがあります。レッド・ミッチェル(b)はどこで会っても、黒のハイネックシャツだった・・・彼のお部屋のクローゼットは同じ形のハイネック・シャツがずらりと並んでいるって、ジョージ・ムラーツ兄さんが言ってたけどほんとかしら?
knickerbocker_front.jpg 当時のトミー・フラナガンはレッド・ミッチェルと盛んに共演していて、10月の下旬から11月の第一週までは、”ファット・チューズデイズ”から徒歩10分ほどのUniversity Placeにあるピアノ・サロン、”ニッカボッカー・サルーン”にデュオで出演していました。ニッカボッカーはステーキがおいしいレストランとして現在も盛業中、でもライブは週末だけみたい。
red_mitchell_at_piano.JPG コーネル大中退、ジュリアード中退、しかしピアノもヴォーカルもたしなむ得体の知れない仙人、変則五度チューニングの巨匠レッド・ミッチェル(b)はたった一晩だけ、寺井尚之と一緒に演奏したことがあります。それが一番上の写真。場所は、同じグリニッジ・ヴィレッジの伝説のクラブ、Bradley’s。ふとした偶然が重なって、こんなハプニングになったのですが、そのおかげで、今でも寺井尚之の耳には、生のレッド・ミッチェルの温かく柔らかでいて核心を突くビートが響いている。
 アルト・サックスのジェリー・ダジオンは、叩き上げのバンド・マン、サド・メルOrch.の、最高の二塁手のような手堅いプレイが印象的でした。フラナガン、ミッチェル、ダジオン、3人のプロが繰り広げるトリオ、”Communication”のライブは、出たとこ勝負のカオス?それとも、リラックスしたライブ?それとも三人三様の役どころが生かされるプロ中のプロしか出来ぬギグだったのか?
 明日のジャズ講座で、寺井尚之により迫真の実況中継がお楽しみなれますよ。 乞うご期待!
 私は、夏バテでもおいしく召し上がれる生春巻を仕込んでお待ちしています。
CU

“Walkin’ “ 本当の作曲者

 2週間前、The Mainstemが聴かせてくれたブルース、 “Walkin’ (ウォーキン)”の作曲者について少し書いたのですが、「わけあり」の作曲者についてジャズ講座でおなじみのG先生から「”Walkin'”の原曲はテナーサックス奏者、ジーン・アモンズのオリジナル、”Gravy(グレイヴィー)”というのがジャズ界の通説です。」とメールが来ました。
 ところが、G先生が”Gravy(グレイヴィー)”の収録されているアルバムの作曲者クレジットを見ると、そこにはベーシストのレイ・ブラウンの名前があったそうです。G先生の知的好奇心は否応無く刺激され、懇意にするミュージシャンで、米ジャズ界で「物知り博士」と異名を取る某氏に照会した結果、やっぱり彼もアモンズの作品だと断定している旨のメールが・・・。
 「著作権」などないミケランジェロやダ・ヴィンチの時代から芸術作品や作者の真贋を調査するのは、探偵ごっこみたいで面白い。そこで、私も”Walkin'”を少し追っかけてみたら諸説紛々。
<Who Is リチャード・カーペンター?>
 そもそも”Walkin'” の公式作曲者というなっているリチャード・カーペンターとは何者なのか?
 カーペンターズのお兄さんと同じ名前のこの人は、浅黒い肌の元会計士であったそうです。アンタッチャブルなシカゴ出身、腕っ節が太く二重顎の大男で、みかけはヤクザの用心棒。専ら編曲者のエージェントとして仕事を斡旋し、彼らの著作を自分の音楽出版社に帰属させ、作曲者の版権を不当に取得していたらしい。自分の欲しいものは、「相手の胸倉を掴み脅迫して手に入れた」カツ上げ派。  チェット・ベイカー伝記’Deep In a Dream’:James Gavin著より
<ジーン・アモンズの”Gravy”>
Walkin-LP.jpg “Walkin'”は’54年にプレスティッジから出たマイルス・デイヴィス・セクステットの録音で有名。そこに参加していたのがJ.J.ジョンソン(tb)です。印象的なタグ・ラインとファンキーな曲想で”Walkin'”はマイルスの名演目として繰り返し演奏され、誰もが知るスタンダードとなりました。
 マイルスのLPのライナー・ノート(アイラ・ギトラー執筆)には、ジーン・アモンズが’54年に”Gravy”というタイトルでこの曲を同レーベルから録音済みであると明記されています。
LPライナーノートより:「(Walkin’とGravyの)テーマはほぼ同一だが、一音も違わないというわけではない。また(マイルスやJ.J.ジョンソンがイントロとインタールードに使っている)タグ部分は簡略化されている。
 私が(アモンズのGravy以降)この曲に遭遇したのは’52年、NYのジャズクラブ”ダウンビート”に出演していたマイルス・デイヴィス&ジャズInc.のライブだった。Gravyが潜在意識下で蘇り、たびたび気になっていたのが、この’54年のマイルスのレコードが出ると、曲名はWalkin’に変更されていた・・・

gene_ammons_classics.jpg  ネット上でアモンズの演奏する”Gravy”のサンプル音源を聴いてみると、確かにほとんど同一曲。同じページの演奏曲リストを見ると、作曲者は”Brown”とあり、G先生の言うとおり、Ray Brownのことだろう。Garvyのカタギじゃないファンキーさは確かにジーン・アモンズの匂いで一杯ですが、アモンズ作の物証は発見できなかった。
<ジミー・マンデイ作曲説> jimmy_monday.jpg 色々調べていくうちに、ジャズ・メディアの中には、”Walkin'”の作者をジミー・マンディ(’28-83)に帰属させている人も多いことを発見。 マンディはテナー奏者兼編曲者で’30年代に一時アール・ハインズ楽団に所属、後にベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、ディジー・ガレスピーなど様々な人気ビッグバンドのアレンジャーとして活躍した人です。
 西海岸のジャズ系FM局のスーパーヴァイザーであるジョー・ムーアなど複数の関係者が、まるで当たり前みたいにこの説を唱えていました。マンディがこのブルースを演奏したデータなどあるのかな?
 というわけで、ジャズ・スタンダードとして知られる名作”Walkin'”の作曲者が誰なのか、私はまだ釈然としません。ジャズ系の掲示板には、寺井尚之がふと口にしたタッド・ダメロン説を唱える人もいるし、後の捜査はG先生に委ねたいと思います。
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 G先生の友人であるNYの「物知り博士」(実名を出せないのが残念)はラトガーズ大学でリチャード・カーペンターと会ったことがあるそうで、 譜面の読み書きができない「作曲者」カーペンターを”ペテン師”と言い切っています。また「物知り博士」の友人には、カーペンターが不当に取得した著作権を本当の作曲者に返すために活動している人もいるそうです。きっと著作権帰属運動をしている友人なら、とことん調査をしているだろうし、やっぱりアモンズ説が正しいのかも知れませんね。
CU

J.J.ジョンソン(後編):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

 皆さん、お元気ですか?梅雨はいずこ?激しい雷や日蝕は1Q84を読んだ者に軽いシステム障害をもたらすことがあるのかな?・・・あっという間に一週間が経ってしまいました。
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 さて、私がオフ・ステージのJ.J.ジョンソンにお目にかかったのは一度だけ、J.J.は緊急事態だった。あれは1988年秋、コンコード・ジャズフェスティバルの大阪公演の当日のことです。中之島のANAホテルのコーヒー・ラウンジで一緒にお茶していたスタンリー・カウエル(p)を探して部屋から降りて来られたんです。櫛のとおっていない髪、皺の寄ったシャツ、鋭い眼光はそのままでしたが白目がどんより充血していて、私の知ってる一分の隙もないダンディな「トロンボーンの神様」の姿とは余りに違っていました。
 「神様」は私たちのテーブルに座ることなく、スタンリーに静かな口調で連絡しました。
「東京に残っている私の妻ヴィヴィアンが脳溢血で倒れた。私はすぐに東京に発つから、これからのバンドは君が仕切れ。」
 たったこれだけ・・・後を任されたスタンリーは敬礼こそしなかったけど、「Yes Sir!」と即答、するとJ.J.ジョンソンは、戦争映画の司令官みたいに踵を返して足早に去って行きました。プロとはこういうものかと、思ったものです。
<トミー・フラナガン共演時代>
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’56年、BeBopのイディオムを駆使するクールなJJと、熱血プレイのカイ・ウィンディングのJ & Kaiのコンビ解消後、J.J.ジョンソンは新たに自己クインテットを結成します。J&Kaiのように商業的な成功はないにせよ、音楽的な成果は余りあるものでした。Dial J.J5、In Peson Live at Cafe Bohemia…私たちの愛聴盤がこの時期にどっさり録音されています。自己グループの活動と並行しながら、作曲家として、ディジー・ガレスピーに依頼された組曲Perceptionsや、Poem for Brass, El Camino Realなど意欲的な大作をどんどん発表して絶賛され、後の映画音楽家としての布石を打ちました。天才J.J.ジョンソンといえども、ツアー主体の演奏活動と、孤独と集中力が必要な作曲活動を両立させるのは並大抵なことではなかったはずです。でも当時の名盤に聴ける「論理的」で「明瞭」な構成や、J.J.ジョンソンの至高のプレイは、充実した作曲活動との相乗効果があったのかもしれません。
JJ_5.jpg左からJ.J、トミー、ボビー・ジャスパー、エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトル
 この時期のJ.J.ジョンソンのコンボは、大まかに分けて三種類あります。ベルギー出身の名手ボビー・ジャスパー(ts,fl)との二管クインテットが最初の布陣、リズムセクションはご存じトミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ウィルバー・リトル(b)、続いて、兄キャノンボール(as)がマイルス・デイヴィスのバンドに参加したために、フリーになったナット・アダレイ(cor)と、アルバート”トゥティ”ヒース(ds)に、既存メンバーのフラナガン、リトルを組み合わせた第二のクインテット、それらは今までのジャズ講座で、それぞれの個性を生かしたJ.J的アプローチを堪能することができました。最初のクインテットは、上等なシャツのボタンを上まできっちり留めたような隙のないサウンドがジャズの「品格」を教えてくれます。次のクインテットは、3つ目のボタンまで開けたシックさが最高、青い炎のようなボビー・ジャスパーや、レッド・ホットなナット・アダレイ・・・コンボのアプローチはメンバーに合わせて変化して、あの頃の講座で構成表をOHP用に作るのはすごく楽しかった。
 最初のクインテットが’57年にスェーデンに楽旅した際、ピアノトリオで録音したのが『Overseas』であったことも、勿論ご存じですよね!このツアーは熱狂的な歓迎を受け、ストックホルムの王立公園で開催されたコンサートには2万人の大聴衆が集まったそうです。
JJ_BJ_bandstand.jpgBobby Jaspar (1926-63) ブロッサム・ディアリー(vo)との結婚を期にNYに住んだジャスパーはヘロインの過剰摂取で手術中に亡くなった。
 この後、J.J.のコンボは、ピアノがトミー・フラナガンからシダー・ウォルトンに替り、ジャスパーとアダレイ両方を従えた三管に増員しますが、’60に「家族との時間を大切にしたい」と、突然自己グループを解散してしまいます。その後はマイルス・デイヴィス(tp)、ソニー・スティット(as.ts)、ジミー・ヒース(ts.ss.fl)と断続的に演奏活動を続けますが、活動の重点は徐々に作曲の方にシフトして、’70年にジャズ業界に見切りをつけ、昔のボス、ベニー・カーターや、BeBop時代の仲間、クインシー・ジョーンズ、ラロ・シフリンの勧めで映画TVのフィルム・ミュージックの世界で17年間仕事をします。それは、都市部の黒人層をターゲットにしたブラック・ムービー(Blaxploitation)の世界的な流行が、J.J.の才能を必要としていたと言えるかもしれません。
<映画音楽での成功とジレンマ>
shaft.jpg 映画界に入ったJ.J.ジョンソンが手がけた映画は、『黒いジャガー(Shaft)』『クレオパトラ危機一髪』などブラック・ムービーをはじめとして、アル・パチーノのギャング映画『スカーフェイス』その他娯楽映画色々・・・TVでは私が子供の時に人気番組だった刑事シリーズ『スタスキー&ハッチ』など、リアルタイムで観たものが沢山あります。ジャズ業界に幻滅して飛び込んだ映画の世界での仕事をJ.J.ジョンソンはどんな風に感じていたのでしょう?
 彼のインタビューを読むと、彼のフラストレーションは意外にも、芸術的なものではなく、業界の持つ人種差別やジャズへの偏見にあったようです。
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 J.J.ジョンソン:映画音楽の世界は凄い競争社会だ。良いエージェントを持ち、的確に仕事をしなければ業界で成功することはできない。
 それに映画界は非常に人種差別的だ。「スター・ウオーズ」「E.T」や「ジュラシック・パーク」のような大作映画の音楽の仕事が黒人に回ってくることは絶対にない。
 業界の人間は、人種差別的であるだけでなく、偏見に凝り固まっていて、視野が狭い。「J.J.ジョンソンはジャズ・ミュージシャンだろう。この映画にジャズは要らない」そんな風だ。
 私はそうでない業界人と知り合えたのはラッキーだった。そしてTV界では、私の『Poem for Brass』を高く評価してくれている人間と出会ったので、仕事を得ることができた。別にTV業界が映画界より開放的な業界というわけではない。
 私が映画界で書いた音楽はジャズとは全く違うものだ。しかし、芸術的には満足のいくものだった。私はジャズ界にいた時から、ストラヴィンスキーやラヴェル、パウル・ヒンデミットの大ファンだった。映画界ではクラシック音楽の要素を使った仕事が出来た。

<トロンボーンへの回帰>
 J.J.ジョンソンがクラシック音楽に目覚めたのは友人のミュージシャンがストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴かせてくれたのがきっかけであったといいます。チャーリー・パーカーもストラヴィンスキーやヒンデミットが好きだったそうです。だからと言ってJ.J.はクラシックに変なコンプレックスを抱いている風情も全くありません。J.J.ジョンソンはインタビューで、モーツアルト、ベートーベン、シューマンは好きではないと答えています。トミー・フラナガンも昔「サド・ジョーンズはモーツアルトよりずっと偉い」と言ってたなあ・・・
 J.J.ジョンソンは映画音楽家時代も、トロンボーンの技量を維持するためにギャラの安いTVショウのバンドで演奏を続け、自宅でも基礎練習は欠かしませんでした。
 TV番組がお手軽なホーム・コメディー全盛になり、もう本格的なフィルム・ミュージックが必要とされなくなった時、再びジャズ界にカムバックします。
 先週皆で聴いた『Pinnacles』は、選りすぐりのミュージシャンを集め、オーバーダビングや、エフェクター、キーボードのセレクションに至るまで、「映画時代に培った知識と、昔から変わらないアレンジの技法を集大成したもの」だと、J.J.ジョンソンの音楽解説書“The Musical World of J.J.Johnson”にはあります。この本はジャズ評論家のアイラ・ギトラーさんが勧めてくれたけど、高くて手が出なかったのですが、最近ペーパーバックになって安価に入手できます。同書には録音技師のノートが記載されていて、”Deak”でフラナガンが弾いているのはヤマハ・エレクトリック・グランド、”Cannonball Junction”では録音時にピアノを演奏し、後でクラヴィネットというJ.J.がTV音楽で使用したキーボードを重ねているそうです。その他にもテイク数や、オーバーダブの詳細が書かれていて興味深かった。この本が届いたのが今朝だったので、講座に使えず残念!講座本になった時に、加筆してもらいたいものです。
<晩年>
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 正式に映画界から引退したJ.J.ジョンソンは、故郷インディアナポリスに居を構え、80年代に多数の若手スターを輩出した敏腕ジャズ・エージェント、メアリー・アン・トッパーのプロダクション、Jazz Treeと契約、演奏やレコーディングを重ね、全世界のあらゆるフィールドのトロンボーン奏者の「神様」であり続けました。アヴァンギャルド系のトロンボーン奏者スティーブ・トゥーレは「自分のレコーディングはすべてJJに送って聴いてもらっている。」と告白しています。
 1997年、前立腺癌と診断されたJ.J.ジョンソンは正式に引退。それでも自宅のスタジオは、カムバックの日に備えて最新の装備が施されていたそうです。
 それにも拘らず2001年2月4日、インディアナポリスの自宅での拳銃自殺は全てのジャズ・ミュージシャンにとって大ショックでした。
 葬儀で棺を担いだのは、ポストJ.J.ジョンソン最右翼のスライド・ハンプトン、スティーブ・トゥーレ、ロビン・ユーバンクスなど世代を超えた9人のトロンボーン奏者でした。
 完全無欠の神様、J.J.ジョンソンの人生を調べていくにつれ、「神様」ですら深いジレンマを感じ、一度ならず麻薬に耽溺した時代もあったことなど、意外な事実が次から次に見つかって、私の疑問は増えるばかり・・・
 今朝届いた”The Musical World of J.J.Johnson”は、残念ながらトミー・フラナガンのクインテット時代について余り触れていませんが、譜例を含めた詳細なデータが沢山あるので、色々参考になりそうです。またいつか続編を書きたいな。
 明日のThe MainstemでもJ.J.ジョンソンのおハコが聴けるかも・・・私はリクエストのあった賀茂ナスグラタンを作って待ってます!
CU

J.J.ジョンソン(前篇):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

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 先週のジャズ講座も皆さんどうもありがとうございました。
 ジャズの真冬が終わり、バンドスタンドに戻ってきたスター達・・・講座に登場したアルバムの味わいは、すっきりしたものから、涙の味のしょっぱいものまで色々・・・秘蔵音源で、懐かしい「波止場」の風を浴びてハッピーエンドになれました!
 あの夜、皆で聴いたJ.J.ジョンソンのカムバック作品『ピナクルズ』、表面的な音楽スタイルは当時隆盛のクロスオーバー志向だけど、隙のない緻密な構成は、以前の講座で聴いたJ.J.ジョンソンの姿と少しもブレていなかった。あのアルバムを制作した”マイルストーン”というレコード・レーベルが、かつて.J.J.のバンドの一員で、フラナガンの親友だったディック・カッツ(p)さんがオリン・キープニュースと創設したレーベルであることも、感慨深いです。
<トロンボーンの神>
 J.J.ジョンソンは存命中から「トロンボーンの神様」と呼ばれる生き神さまだった。
 カフェ・ボヘミア時代から晩年までJ.J.ジョンソンを公私ともによく知るダイアナ・フラナガンは、私にJ.J.のことを色々話してくれたけど、残念ながらここで書けることは、以下の言葉以外ほとんどない。
 「トミーはステージで、しょっちゅうミスをしてたでしょ、リスクのあるプレイをするタイプだからね。でもJ.J.ジョンソンはパーフェクト!誰もJ.J.ジョンソンのミスノートなんて聴いたことないと思う。生まれてから一度もミスなんてしたことないんじゃないかしら?」

 トミーがJ.J.について饒舌に語ってくれた記憶はないけど、寺井とトロンボーンについて議論していて、寺井がJ.J.ジョンソンを持ち出したら、こう言ったのが印象にあります。
 「J.J.ジョンソン?あれはもうトロンボーンじゃない!」
 つまり、J.J.は例外なので、トロンボーンを語る時に持ち出さない方がいいという意味でこう言ったんです。カーティス・フラー、タイリー・グレンやアル・グレイ、スライド・ハンプトン・・・多くの名トロンボニストと共演して来たトミーにとって、J.J.ジョンソンのトロンボーンは既成の概念を遥かに超越したものだったんですね。
<Why Indianapolice-Why Not Indianapolice?>
 インディアナポリスに生まれ育ち、BeBop以降の全トロンボーン奏者に影響を与えた”The Trombonist”は、インディアナポリスで拳銃の引き金を引いて自ら人生の幕を引いた。
 ネット上に遺る晩年のインタビューを読むと、“Logic(論理)””Clarity(明瞭)”という二つの言葉をJ.Jは繰り返し口にしている。『論理的で明瞭』であることが、全てに優先するというのが彼の哲学だったことは、『ピナクルズ』を聴いても明らかだった。だからこそ、パーカー+ガレスピーにBeBopの洗礼を受けたとき、スライドを疾走させるためなら躊躇なくトロンボーンらしい(と思われていた)音色と決別することが出来たのかもしれない。
 J.J.ジョンソンがあっさりジャズ界を離れ、青写真技師や映画音楽家に転職したのも、評判の愛妻が亡くなって後、すぐに再婚して新しい妻をマネージャーにして、周囲を驚かせたことも、『論理的且つ明瞭』な決断だったのだろうか?
 寺井尚之は前から「J.J.ジョンソンは自殺すると思う。」と言っていたけど、彼にとっては自殺ですら「理にかなった明瞭な決断」だったのだろうか?或いは、癌に犯された時から、J.J.の内側で「論理性」と「明瞭さ」は崩壊していったのだろうか?
 ミュージシャン達が畏敬を込めて『トロンボーンの神様』と呼ぶJ.J.ジョンソンの人生を、JJ自身の証言を読みながら、駆け足で辿ってみようかな。
jj-studyingmusic.jpg<最初のアイドルはレスター・ヤング>
 J.J.ジョンソンこと、ジェームズ・ルイス・ジョンソンは’24年1月4日、中西部の大都市インディアナ州インディアナポリス生まれ。幼い頃は教会でピアノを学び、10代の初めにジャズが好きになってからサックスを志したそうです。J.J.ジョンソンの最初のアイドルはレスター・ヤング(ts)でした。でもJ.Jの楽器はバリトン・サックスで、レスターの音色を自分のものにすることはできなかった。ハイスクール・バンドで、たまたま人数が足らなかったという理由からトロンボーンに転向してからも、ずっとレスターへの想いは不変だと語っています。
art_lesteryoung.jpgJ.J.ジョンソン:最初のヒーローはレスター・ヤング(ts)だ。その頃の私は完全な”レスターおたく”だったよ。レスターは音楽を志す仲間たち全員の「神」だった。皆で何時間もレスターのソロを聴き続け、「ああでもない、こうでもない」と色々分析していたものだよ。
 トロンボーンに転向してからはレスターのソロを丸コピーして吹こうと思ったことはない。私の敬意はそういう種類のものではない。レスターの凄いところは、規制のテナーの即興演奏の枠に全く囚われない斬新なアプローチにある。たった2つか3つの音だけで『あっ!レスターだ!!』と判る強烈な個性だ。同じようなペルソナは、トロンボーン奏者のトラミー・ヤングやディッキー・ウエルズにもあり、私は大きな影響を受けた。

 J.J.ジョンソンは殆ど独学でトロンボーンに習熟、レッスンを受けた経験は数回だけだったそうです。1941年に高校を卒業するまでに、高度な音楽理論を身に付け、地元バンドに楽曲を提供していました。卒業後すぐ、スヌーカム・ラッセル楽団に加入、バンドメイトだったファッツ・ナヴァロ(tp)のBeBop的アプローチに大きく影響を受けたといわれています。J.J.ジョンソンの卓越した技量は仲間内で評判になり、翌年ベニー・カーター楽団に移籍。’44年のJ.J.ジョンソンは、すでに往年の疾走感溢れるスタイルを確立していました。
 ディック・カッツさんによれば、J.J.ジョンソンの紳士的なマナーはベニー・カーターから学んだもので、J.J.に作曲活動を強く勧めたのもやはりカーターだったそうです。“ザ・キング”の大きく聡明な瞳は、音楽家の資質をすぐに見抜いたわけですね。
 大戦後、J.J.ジョンソンはカウント・ベイシーやJATPなど様々なフォーマットでキャリアを積みます。当時J.Jが参加するイリノイ・ジャケーのバンドがシカゴで公演した時には、町中のミュージシャンが噂に聞くJ.J.ジョンソンの驚異的なプレイを一目見ようと押し寄せたと言います。
<ありえないBeBopトロンボーン>
JJJohnson_MRoach_et_OPettiford_BNote_Marcel_Fleiss_AG400.jpg  マックス・ローチ(ds)オスカー・ペティフォード(b)と。
 ’46年になると、J.J.ジョンソンはNYに腰を落ち着け、BeBopムーブメントの中心として活躍。チャーリー・パーカーのオリジナル・カルテットが迎えた唯一のゲスト・プレイヤーとして全米に名を馳せます。リーダー作だけでなく、バド・パウエル、ソニー・スティット、ディジー・ガレスピー達と歴史的録音を重ね、次のトレンドを予見するマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』にも参加しています。
 複雑なハーモニーやマシンガンのような急テンポの革命的音楽BeBopに、トロンボーンというスライド楽器を順応させるための苦労について質問されたJ.J.ジョンソンは、インタビューで、このように答えています。
J.J.ジョンソン:もちろんBeBopを演奏する上で課題はあった。だがそれは、「速く吹く」とか「高音を吹く」というテクニック的な問題でなく、即興演奏上のアプローチの問題だ。
 世間は私を超絶技巧派と思っているようだが、決してそうではない。私が演奏家として、過去も現在も一貫して目指すのは、明瞭さ(clarity)と論理性く(logic)、そして聴く者に感動を与える表現力だけだ。この三点を達成すれば、私のトロンボーンにペルソナが宿り、(レスター・ヤングのような)強烈な個性を持つことができる。そうなればいいと常に望んでいる。
 『あいつは一体何をやりたいんだ?』と思われない演奏をしたい。

<転職その1>
 チャーリー・パーカーがキャバレー・カードをはく奪され、BeBop時代の終焉が近づいた1952年、J.J.ジョンソンは突如ジャズ界を離れ、元々興味があった電子関係の企業に青写真技師として就職しました。
 最大の理由は無論経済的なものでしょうが、ジャズの行く末に幻滅を感じたこと、しばらくジャズ界を離れて、外側からジャズを眺めたかったとJ.J.自身は語っています。ロジックを最優先するJ.J.ジョンソンなら、周到な準備の上何の躊躇もなく転職したのだろうか?
 でもジャズ界はJ.J.ジョンソンを放っておかず、2年間後の1954年、デンマーク生まれのトロンボーン奏者、カイ・ウィンディングと双頭コンボを組んでジャズ界に復帰。洗練され聴きやすいサウンドの”Jay & Kai”は大人気を博し、商業的に大成功します。その時期のレギュラー・ピアニストがディック・カッツさんです。
 “J&Kai”は音楽的方向の相違から1956年にコンビを解消しますが、その後も繰り返しリユニオンしていて、私もAurex Jazz Festival(’82)で、J&Kaiの生演奏を楽しむことができました。下のYoutube動画は当時TV放映されたものです。
 コンサートでは私たちの予想に反して、J.J.ジョンソンよりもロマンス・グレーのカイ・ウィンディングの方が溌剌として沢山拍手をもらっていました。よもやその翌年にカイ・ウィンディングが亡くなるとは思ってもいませんでした。

*曲はおハコの”It’s Alright With Me “トミー・フラナガン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
 え?トミーのソロを半コーラス聴いただけで満足だから、もう先を読むのがしんどいって?
そりゃそうですね!
 じゃあ続きは数日後に!
 今週末は明日17日(金)が末宗俊郎(g)3、そして18日(土)がThe Mainstem!
お勧め料理は定番”牛肉の赤ワイン煮込み” です。
Enjoy!

「問題作」登場!6月13日(土)ジャズ講座

 皆さん、お元気ですか?
 前回ご紹介した生徒会セミナー、おかげさまで残席がかなり少なくなってきました。参加ご希望の方は早めにJazz Club OverSeasまでご連絡ください。
 今週の土曜日は、寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」開講です。
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 今回は、トミー・フラナガンディスコグラフィー中「問題作」とされる、The Super Jazz Trioの作品群の内、二作が登場します。
 ベースはジョン・コルトレーンとの共演が有名なレジー・ワークマン、何年か前、ジミー・ヒース(ts)のバンドが京都で公演したときお会いしたことがありますが、初対面でもうちとけた笑顔の素敵な紳士でした。ドラムは、ジョー・チェンバース、フレディ・ハバード(tp)やウエイン・ショーター(ts,ss)との共演作で有名なチェンバースは、以前スタンリー・カウエル(p)がNY市立大のリーマン・カレッジで教鞭を取っていた時、スタンリーの研究室で助手をやっていました。二人とも、現在はジャズ教育者として定評のある人たちです。
 トミー・フラナガンが、OverSeasでコンサートを行った時、このアルバムが原因で大騒ぎになったことがあります。詳しいことはどうぞ本番のジャズ講座でお聞きください。
 ジャズ・ミュージシャンたちは、相容れない共演者のことを、「あっち: the Other Side」、同じヴァイブレーションで演奏する味方を「こっち: This Side」と、仲間内で呼ぶことがあります。今回登場する『The Super Jazz Trio』、そして、アート・ファーマーに同じトリオを組み合わせた『Something Tasty』を講座で聴くと、きっとその言葉の意味がよく判って、気分はYeah, Man! ジャズメン!になるかも…
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 そして、もう一枚は、ケニー・バロン(p)とのピアノ・デュオ、『Together』、現在は押しも押されもしないピアノの巨匠ケニー・バロンですけれど、「トミー・フラナガンの背中を見て育ったピアニスト」という言い方をされていた時代の録音で、現在のバロンのプレイとはずいぶん違った印象を受けるかもしれませんね。
 今回も秘蔵音源を併せてお聴きかせしながら、寺井尚之が、トミー・フラナガン独立直後の秘話や、プレイから判る色んな状況を、楽しく解説する講座になるでしょう!
 講座のお奨め料理は、男の料理by 寺井尚之:「黒毛和牛の赤ワイン煮込み」、私が鶴橋市場に行って、冷凍していない最高のお肉を仕入れてきました。(重たかった~!)今回のお肉は特に上物です。こちらも乞うご期待!
寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」
6月13日(土)6pm開場 6:30開講 (要予約
受講料:2,625 円 (税込)

CU

“Ballads & Blues” 古新聞古雑誌 根掘り葉掘り・・・

  先週の“Ballads & Blues”ジャズ講座は皆が好きなあの曲、このブルース・・・正にOverSeasヒットパレードで、凄い熱気!一生もの名盤を共に聴いた仲間達の色んな感動がOverSeasの掲示板にズラリと並んでいましたね!
 講座のあった5月9日はOverSeas開店30周年記念日、時間音痴、方向音痴の私は寺井の解説を聴くまで完全に失念…、温かいお祝いメッセージ、皆様どうもありがとうございました!
 講座には、  河原達人(ds)さんや菅一平(ds)+宮本在浩(b)のメインステム・チーム、若手ドラマーImakyくんなど、ピアニスト以外のミュージシャンの顔も沢山客席に!ギグで来れなかった鷲見和広(b)さんからは「僕も行きたかった~(涙)」とメールが…。
tf_gm.jpg    パルスとメロディラインを併せ持つベーシスト、ジョージ・ムラーツは  “Ballads & Blues”以外にも、サー・ローランド・ハナやウォルター・ノリスたちと数多くデュオの名盤を残しています。胸が張り裂けそうになる高揚感が体験できるハナさんとのプレリュード集や、たった4分ほどの演奏でフランソワ・トリュフォーの濃密な恋愛映画を見たような気分にさせてくれるノリスさんとのデュオ作品…どれも心を奪われるけど、“Ballads & Blues”はまた違う。深いところでぴったり寄り添いながら、息を読み合い奔放に流れるプレイ・・・緻密な構成表を見ながら聴くと、こんなに自由で完璧な音楽があるのか!とまた感動してしまいました。
 「最高の酒は水の如し」と言うけれど“Ballads & Blues”は丁度そんな感じ。残り少ない人生、一生聴いて楽しもう。
<1978年>
  “Ballads & Blues”が録音されたのは’78年11月。’78年といえば、トミー・フラナガンが10年努めたエラ・フィッツジェラルドの許から独立した節目の年でした。理由は心臓発作で楽旅が困難になった為となっていますが、実際はどうやったんやろう?講座の前に気になって、当時の雑誌や新聞を調べてみました。
 NYタウン情報とダイアナ・フラナガン情報によれば、“Ballads & Blues”(11/15)録音直前10/16~30の2週間、フラナガンとムラーツはNY大学のそばにあるピアノ・バー、Bradley’sに出演していた。名盤のアウトラインはきっとこの2週間の間に固まったのに違いない。講座の皆で「飛ぶ教室」みたいに当時のNYにツアーすれば、さぞ面白かったでしょうね!
 ムラーツ関連では、同年2月に、サー・ローランド・ハナが新生New York Jazz Quartet結成の記事も!自己グループで活動を始めたロン・カーターに替わり新メンバー、ジョージ・ムラーツ参加とありました。コンサート情報やレコード紹介では、ズート・シムス(ts)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb),ジミー・ロウルズ、ハナさん、フラナガンと数え切れないアーティストと共演していたみたい…34歳のムラーツ兄さんは、NYの一流ミュージシャンたちの間ですでに引っ張りだこになっていた。
<フラナガン独立の真相>
 意外だったのは、NYタイムズの電子版アーカイブに、フラナガンではなくエラ・フィッツジェラルドが病気でコンサートをキャンセルしたという記事です。
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   ’78 6/6付 NYTimes 
 『エラに大喝采!』 エラ・フィッツジェラルドは3月19日に予定していたエイブリー・フィッシャー・ホールのコンサートを病気のためキャンセルし、代替公演が先週の日曜日の夕方行われた。満員のファンの前でエラは絶好調・・・

 ダウンビートや他の書物にはフラナガンはその3月に心臓発作をおこし17日間入院したと書いてあるのに… どういうことやろ?
  ダイアナがフラナガンと結婚したのは’76年だから、その辺りの事情は知っているはず。電話して訊いてみました
<ダイアナの証言>
ダイアナ・フラナガン:  「トミーの心臓発作??ああ、最初の発作のこと?確かに’78年3月よ。あんなのぜーんぜん大したことなかったわ。
 体調を悪くしたのはエラの方だった。あの頃から糖尿病が悪くなって、予定しているコンサートをキャンセルした後、意図的に仕事を減らしたの。
 当時トミーは、エラのコンサートで、トリオだけでたっぷり演奏するようになっていた。世界中で賞賛されたけれど、それだけでは満足できず、自分の音楽をしたくてたまらなくなっていたの。だからフリーになっただけ。本当は心臓発作なんて関係ないの。もっと深刻だったのは、何年か経って大動脈瘤が出来ていると判ったときよ。あんたもよく知ってるじゃない。
 私と一緒にいたいから辞めたのかって?まさか!だって私はエラ時代も、トミーにくっついて行ってたもん。それにエラのところを辞めたってトミーは世界中を飛び回っていたわ。
 とにかく辞めるためにはエラの後任を見つけるのが先決だった。だけどエラがどうしてもトミーを引き止めたがってね、とうとう直接電話をかけてきたの。「トミー、あなたどうしてもジャズに戻っちゃうの?」って。すったもんだの末、結局ジミー・ロウルズ(p)に決まったのよ。え?トミーとタイプが違うって?いいのよ!伴奏者は決まった仕事をきっちりすればいいの。ジミーならうってつけだからね。
 へえー!”Ballads & Blues”のレクチュアが予約で満員なの!?すごいわねえ!そうそう、この間のトリビュート・コンサートの写真ありがとう。部屋に飾って楽しんでるわよ!
 だけどタマエ、あんた、私が忘れていることを根掘り葉掘り訊いて一体どうするつもり?トミーの伝記でも書くつもりなの?…」
 エラの専属ピアニストとしてのフラナガンの最後のNY公演は、同年のニューポート・ジャズフェスティバル、やはりエイブリー・フィッシャーホールだったともダイアナは言っていました。
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 『エラ・フィッツジェラルド、エンジェル・アイズで大成功!』
 タイムズ紙のジョン・ウィルソンは、フラナガンとの最後の大舞台でエラが歌った”エンジェル・アイズ”を絶賛しています。後年トミー・フラナガンがエラに捧げたアルバム『Lady Be Good』の”エンジェル・アイズ”は、きっとラスト・コンサートの思い出なんだ!
 トミー・フラナガンがエラの許から独立したというインタビューがジャズ専門誌ダウンビートに載ったのは、本当の独立から4年後で、遅ればせもいいところ。レコード会社の広告収入が大事なジャズ誌は、フリーランスのフラナガンの記事はなかなか書いてくれなかった。
 逆にNYのメディアは、速攻でフラナガン独立のニュースを報じていた。
flanaganleft.jpgNYタイムズ ’78 11/24付 :当面フラナガンはカーライル・ホテルのベメルマンズ・バーで演奏すると書いているけど、実際はごく短期の仕事だったとダイアナは言っていた。
<ホイットニー・バリエットの記事>
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 私の愛するホイットニー・バリエットは珍しく自分のコラムをフラナガンだけに絞り込み、さりげなく後方支援していました。(The NewYorker 11/20号)
 『Tommy Flanagan』というシンプルなタイトルのコラムは、『American MusiciansⅡ』の中の名文<Poet>の原型で、フラナガンの人となりをうまく描き上げてから、フラナガンの独立を「良いニュース」とだけさらりと書いてある。趣味の良い音楽を愛する読者だったら、ぜひ一度聴きに行きたいと思うような粋な書きっぷりです。
 秀逸なのはコラムの最後のアルバム紹介。フラナガンが初期に録音したサイドマンとしての有名盤については一切語らず、『Eclypso』『Montreaux ’77』『Tokyo Recital』などアメリカのジャズ誌ではマイナー・レーベル作品として、長い間正当に評価されなかった新譜のリーダー作ばかりズラリと並べて絶賛しています。この辺りが超一流文芸誌The NewYorkerの面目躍如!
 バリエットのコラムは、フラナガンが「珠玉のピアニスト』から『ダイアモンドのピアニスト』に変貌したことを宣言して結ばれていました。

…『Montreaux ’77』もまた秀作、リラックスした雰囲気のある”イージー・リヴィング”はフラナガンの愛奏曲、イン・テンポに落ち着いた時、彼が繰り出す高音部の縦横無尽のランは、光を反射しながらきらめいて、まるでダイアモンドのようだ。


 来月のジャズ講座は、これほどの名盤が聴けるかどうかは判りませんが、色んな話や音源が聴けて、きっと面白いプログラムになるはずです!
 明日はBop & Bluesの末宗俊郎(g)3、そして旬の曲が楽しめる土曜日のThe Mainstemもお楽しみに!
CU