トリビュート・コンサート速報

昨日は、ありがとうございました!!日本の色んな場所から、沢山お客様が駆けつけてくださって、12回目のトリビュート・コンサートを開催することが出来ました!
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<1st><2nd>
1. Oblivion (Bud Powell)

 ~Bouncing with Bud (Bud Powell)

 オブリヴィオン~ビッティ・デッティ
1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)

 ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラヴ
2. Out of the Past  (Benny Golson)

 アウト・オブ・ザ・パスト

2. They Say It’s Spring (Marty Clark/Bob Haymes)

 スムーズ・アズ・ザ・ウィンド
3. Minor Mishap (Tommy Flanagan)

  マイナー・ミスハップ
3. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

 ビヨンド・ザ・ブルーバード
4. Embraceable You(Ira& George Gershwin)

  ~Quasimodo(Charlie Parker)

 エンブレイサブル・ユー~カジモド
4. Thelonica(Tommy Flanagan)

 ~Mean Streets (Tommy Flanagan)

 セロニカ~ミーン・ストリーツ

 
5. Lament (J.J. Johnson)

  ラメント
5. Good Morning Heartache (Irene Higginbotham)

 グッドモーニング・ハートエイク
6. Rachel’s Rondo (Tommy Flanagan)

 レイチェルのロンド
6. Our Delight (Tadd Dameron)

  アワ・デライト
7. I’ll Keep Loving You (Bud Powell)

 アイル・キープ・ラヴィング・ユー
7.Dalarna (Tommy Flanagan)

  ダラーナ
8. Tin Tin Deo (Chano Pozo,Gill Fuller,Dizzy Gillespie)

 ティン・ティン・デオ
8.Eclypso (Tommy Flanagan)

  エクリプソ
<Encore:>
With Malice Towards None (Tom McIntosh)

 ウィズ・マリス・トワード・ノン



Ellingtonia: エリントニア

 Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)

  ~Passion Flower (Billy Strayhorn)

  ~Black & Tan Fantasy (Duke Ellington)

メドレー:

チェルシーの橋~パッション・フラワー~黒と茶の幻想

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 大人たちに混じって、ベイビーだった頃から、ご家族で埼玉からずっと来てくれている可愛いお嬢ちゃんも、小学校高学年になって、一際プレイを楽しんでくれました。なんとお行儀の良いお嬢ちゃんでしょう!演奏を聴くキラキラした瞳、食事のマナーの良さ…私の今までの悪辣な行儀を反省しつつ、も今後見習います。ダイアナにその話をしたら、「まあ、なんて素敵なんでしょう!!将来はミュージシャンかしら…」なーんて喜んでいました。
 フラナガニアトリオの演奏は骨太で、軽やかだったり、重厚だったり、トリビュートならではのサウンドに、レジの前では「感動しました!」と、嬉しい笑顔が見れて、元気を沢山いただき、ありがとうございました。
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ミーティング中のフラナガニアトリオ、宮本在浩(b),河原達人(ds),寺井尚之(p)
 ご来店くださったお客様、激励メッセージを下さった皆様、ほんまにおおきに!ありがとうございます!
これからも、身を引き締めて努力します。
 曲目説明はHPに近日UP!
CU

トリビュート・フィンガーズ

  ’75京都にて、トミー・フラナガン&寺井尚之 

 「白魚のようなピアニストの指…」というのは真っ赤な嘘です。
 明日のトリビュートに向けて、稽古を重ねた寺井尚之の指先は、子供の頃のおやつだった『爆弾あられ』のようにツヤツヤで弾けています。
fingers.JPG 寺井尚之の指先 
 ピアノの方は、川端名調律師が、優しく厳しいチューンナップを5時間ほど施して下さったら、明るい春の音色になって、明日の本番を待ちかねている様子。
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 当夜の演奏はフラナガニアトリオ
ドラムスは、トミー・フラナガン3を何度も生で見て、アーサー・テイラー、ケニー・ワシントン、ルイス・ナッシュたち代々のドラマーのサポートぶりや、演奏曲の隅々まで知っている長年のパートナー、河原達人、ベースは、伸び盛りベーシスト、宮本在浩。スイングしていて意味のあるプレイをしてくれます!
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 トミー・フラナガンを想う沢山のお客様に、「思い出の種」を沢山蒔いて欲しい。
 トミーは子供のときに、植物の世話がうまくて、「良く育つ」緑の指を持った子だと言われたそうです。明日は弾けた指で、トミー・フラナガンの音楽の芽をどんどん育てて欲しいです!
 明日のコンサートが楽しいイベントになるように、私も、スタッフ達もOverSeasの片隅で精一杯働きます。
 開場6pm-、開演は7pm-
 CU
 
 
 
 

トリビュート・コンサートの前にスプリング・ソングスの話をしよう。(2) They Say It’s Spring

 先週お話したビターなスプリング・ソングと違い、<They Say It’s Spring>はパステルカラーの春の歌、ブロッサム・ディアリーという歌手のおハコでした。
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 フラナガンによれば、名盤<Ballads & Blues>を録音した’78当時には、NYのクラブで彼女が歌うのをよく聴いていたらしい。

 ディアリーの歌はこんな感じです。 
 もし英語がよく判らなくても、歌詞に頻繁に出てくる、”L”とか”M”とか”F”の可愛い響きを、ディアリーはとってもうまく表現して、恋する女の可愛らしさに仕立てているのがわかりますよね。英語の歌詞はこちらにありました。

They Say It’s Spring
Marty Clark/Bob Haymes

<ヴァース>
夢見る少女だった頃、
ありそうもない伝説やおとぎ話、
私は想像の世界で暮らしてた。
正直言えば、
大人になった今でも、
現代人が声高に叫ぶ皮肉っぽい意見には、
どうも疑問を感じるの…
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<コーラス>
春だってね、
だから、羽のように
浮き浮きするんだって。
春だってね、
私たちがかかった魔法も
この季節はよくあることなんだって。

五月のせいなんだって、
ヒナゲシみたいに
チリチリ熱く燃えるのは。
五月はね、
世の中をクレイジーにして、
ぼんやりさせるんだって、

今の私は、
空を舞うヒバリや、
チカチカ光って踊る蛍みたいな気分、
だけど、私には、
この気持ちが、
単なる季節の産物とは
決して思えない。

春のせいだってね、
ウエディングベルが聞こえるのは。
そりゃ、今は春でしょうよ、
だけど、コマドリがさえずりを止め
この季節が終わっても、
私はずっとあなたと一緒。
皆は春のせいだって言うけど、
本当は、愛するあなたのおかげなの。…

 どうですか?春らしい可愛い歌詞でしょう!

bobby_jaspar1.jpg トミー・フラナガンが演奏するときには、必ず「ボブ・ヘイムズの曲…ゼイ・セイ・イッツ・スプリングを」>とアナウンスして演奏していました。
 ところで、若い皆さん、ブロッサム・ディアリーって知ってます?
  白人女性ジャズヴォーカルの一人ですが、Interludeを読んで下さっている方には、J.J.ジョンソン5のテナーサックス、フルート奏者、ボビー・ジャスパーの奥さんと言った方が判りやすいかも知れません。旧友の未亡人だから、フラナガンもディアリーの歌を良く聴きに行っていたのかも知れない。
   好き嫌いは別として、一度聴いたら忘れられない声をしてますよね。だから今でもカルト的な人気があるシンガーなんだそうです。

’70年代のNYの香りがプンプンする、ウッディ・アレンの恋愛コメディ『アニー・ホール』という映画を見たことがありますか?

  

  お笑い芸人と歌手、どちらも余り売れてない二人の、私小説的なラブ・ストーリーなんですが、ヒロインの歌手、アニーの歌を、もっと可愛く、うまく、洗練させたら、ブロッサム・ディアリーになるように思いました。アニー・ホールを演じるダイアン・キートン(実はキートンの本名がアニー・ホールなんだけど…)もディアリーがよく出演していたNYのキャバレー、『レノ・スウィーニーズ』に歌手として出演していました。
 

  ディアリーは、歌手に留まらず、この声と演技力で、アニメの声優をしたり、CMソングでヒットを飛ばしたりしました。ジャズというよりは、むしろシャンソン的な味わい深い詞の語り方で、NYではとっても評価が高いシンガーなんです。
 とはいえ、彼女の歌うThey Say It’s Springは、アメリカのケーキみたいにお砂糖を固めたアイシングがべったり付いた感じで、私にはちょっと甘すぎる。一方、フラナガンのプレイには、彼女の歌に滲み出る無邪気さや可愛さはそのままに、甘さを抑え、曲と歌唱解釈のエッセンスだけが抽出されているように感じるのです。「素材の持つ一番良いところを見抜き、最大限に引き出す。」のがトミー・フラナガン流なのだ!(エヘン)

   先週からお話してきたスプリング・ソングス、フラナガンが、その年に演奏した春の歌は、もっと色々あっただろうけど、これらの曲を聴くと、フラナガンと過ごしたNYの春の香りが甦ります。

   心臓に爆弾を抱えたトミーは、「後何回、自分は春を迎えられるだろうか…」と思いながら渾身のプレイを、毎年披露したのだろうか…

 追憶に浸る私とは違い、寺井尚之は、あの春にフラナガンから盗んだものを、20年近く熟成発酵させ、自分自身のものにしている。そして、毎年、春になると上の曲に加えて、<How High the Moon>とか<All the Things You Are>など、寺井的な色々なスプリング・ソングを聴かせてくれます。だって、春に2週間しかライブをしないトミーと違って、寺井尚之は春夏秋冬毎週4日演奏しなければならないんですから、色んな春のレパートリーが出来ました。

 土曜日はトリビュート・コンサート!フラナガンの雄姿を心に思い浮かべながら、「春」を満喫しよう!

 CU

トリビュート・コンサートの前に、スプリング・ソングスの話をしよう!(1)

 恒例、「トミー・フラナガンに捧ぐ」=春のトリビュート・コンサートがいよいよ来週に迫りました。
 寺井尚之は、他の仕事を極端にセーブし、フラナガンの演目を磨くために一日中ピアノの前。私は本番はハードだから、なるべくスタミナが付くように、香辛料たっぷりのジューシーなスペアリブやカツレツを作ってます。春の野菜と一緒に供すると、日頃あっさり和食が好きなピアニストも、この時期はおいしいと言って食べてくれる。
  何故、春にトリビュートをするかというと、トミー・フラナガンの誕生日が3月16日だから。年2回のトリビュートは、ダイアナ未亡人の要望でもあります。仏教では命日から数えて法事をするけど、西洋では「生誕○年」と誕生日から数えるんですね。先週の誕生日には、ダイアナ未亡人から電話がかかってきて、「ヒサユキに私からハグを!しっかり演奏するように!」と激を飛ばされました。
scrap_from_the_apple.JPG  私の<ヴィレッジ・ヴォイス>スクラップブックは、新聞紙の色が風化してます。
  この時期に欠かせないのが『スプリング・ソングス』とトミーが呼んだ春にちなむ一連の曲。’80年代後半から、フラナガンは、毎年春になると、地元NYのジャズ・クラブにトリオで出演するローテーションを組んでいた。この時期のギグは世界中から出演交渉にやって来るプロデューサー達と、夏期のジャズフェスティバル・シーズンの仕事について交渉するショーケースであったのです。出演場所は、移り変わりの激しいクラブ・シーンで、その時期、最も隆盛でソリッドなプレイを聴かすクラブ、<ヴィレッジ・ヴァンガード>、<ファット・チューズデイズ>、<スイート・ベイジル>、<イリディアム>など、店は年によって色々でした。私達は’91年の4月、<スイート・ベイジル>で、2週間の出演中、ほぼ全セットを聴き、スプリングソングを味わえて幸せだった。
sweetbasil-1.JPGスイート・ベイジルにて。
   NYの春、昼間はポカポカ陽気で、レストランやカフェはどこも屋外にテーブルを出して、街の人々は半袖姿、でも日没後は4月でも毛皮のコートが要るほど寒かった。
    ダイアナは、自分達のアパートから少し南に降りたリンカーン・センターの向かいにある、こじんまりした『エンパイア・ホテル』(左の写真)を予約してくれ、近所の行きつけのレストランも何軒か教えてくれた。車社会のアメリカで、トミーとダイアナにはマイカーがなかったから(それどころか、アパートには食器洗い機も、携帯電話のない頃にミュージシャンが仕事を取るのに必携のファックスすらなかった。)ハイヤーで店に出勤する途中で、私たちをピックアップしてくれた。ミッドタウンからダウンタウンまで、ずーっと皆で歌を歌いながら行くこともあったなあ。
   トリオの中で、毎晩、若手のルイス・ナッシュ(ds)が一番先に店に入って、きちっとセッティングを終えている。当時のジョージ・ムラーツ(b)はクイーンズの自宅から、釣竿やバケツと一緒にイタリア製のベースを積んだスズキのセルボでマイカー通勤していた。
   フラナガン3は、通常1週間で出し物が変わるジャズ・クラブで、異例の2週間の連続出演と決まっていた。トップ・ピアノ・トリオの出演に、他店もビッグスターをぶつける。この時期、<ヴィレッジ・ヴァンガード>はマッコイ・タイナー3、<コンドンズ>ではテイラーズ・ウエイラーズと、最高のラインナップだったけど、他店に行く余裕はありませんでした。
   2週間の間に、フラナガンのレパートリーは、一定することなく、毎晩目まぐるしく変わった。バド・パウエル、エリントニア、モンク・チューン、サド・ジョーンズ…そして、さまざまなメドレー、2週間で、のべ100曲は演ったように記憶してます。ある晩演奏したビリー・ストレイホーンの晩年の名曲、<ブラッドカウント>が余りに素晴らしく、滞在中、街中のピアニストの間でずっと話題になっていた。殆ど固定の演目で通す期間もあるのだけど、毎晩、五線紙を鉛筆を持ちながら必死で聴きこむ寺井尚之に、トミーはありったけのレパートリーを聴かしてやろうと思ったのではないかと思う。
 
   そんな中で、毎夜、一曲か二曲必ず演奏するのが、スプリング・ソングだったのです。フラナガンは必ず、「では、スプリング・ソングを一曲」と言ってからおもむろに演る。軽やかなプレイは、新緑のように爽やかで、春野菜のように精気に溢れていながら、アクが抜けていた。決して、ラスト・チューンにするような大ネタではないのだけど、忘れられないNYの思い出だ。
 この時期にフラナガンが演ったスプリング・ソングは、ビリー・ホリディのおハコ、<Some Other Spring>そして<Spring Is Here>、そして、フラナガン・ファンなら、名盤『Ballads & Blues』での名演が忘れられない<They Say It’s Spring>だ。
最初の2曲は、ふきのとうみたいに、ほろ苦い春の歌。
 
<サム・アザー・スプリング>は、テディ・ウイルソンの妻であったアイリーン・ウイルソン、後のアイリーン・キッチングスが作曲した。もう一つのホリデーのおハコ、<グッドモーニング・ハートエイク>を作曲したアイリーン・ヒギンボサムと同じ人だとずっと思っていたのですが、アイラ・ギトラー達が別人であると証言しているいます。知らなかった…
 ピアニスト、作編曲家のアイリーンはテディより年上で、先に名声を獲得していて、夫の出世に大いに貢献した。ところがテディは自分が有名になると、妻を捨て他の女性と駆け落ちしてしまう。傷心のアイリーンは、ある日、レストランで、離婚の嘆きを親友達に聞いて貰っていた。奇しくも、悩みの聞き役は、フラナガンの崇拝するビリー・ホリディ(vo)とコールマン・ホーキンス(ts)だった。その時、テーブル脇のエアコンがブンブン言う音にインスピレーションを得て、この歌が出来あがったと言われている。まあ、天才というのは、凡人にとって非音楽的極まりないものも、名曲の元にしてしまうものなんですね。真っ暗な絶望の中で、小さな小さな希望がほのかに光る、稀有な名歌はテディ・ウイルソンの裏切りのおかげ(?)で生まれたのだった。

<サム・アザー・スプリング>

Irene Kitchings(写真):曲 / Arthur Herzog Jr.:詞
いつか春が来たら、
また恋でもしてみよう、
今は終わりと知りながら、
枯れそうな花に惨めたらしく
しがみつく。
咲き誇ったその途端、
踏みつけにされた花は、
私の恋と同じ。
いつか春が来て、
黄昏が夜に変るとき
新しい恋人に出会えるかしら?
もしもそうなら、
あなたのような人でないように、
「恋は盲目」と言うけれど、
もう私には通用しない。
暖かい日光が降り注いでも、
氷のように凍てつくこの心、
恋よ、お前は一度、
私を救ってくれたけど、
新しい物語は
始まるのかしら?
いつか春が来たなら、
私の心も目覚めるの?
そして、恋の魔法の音楽を
熱く歌えるようになるかしら?
昔のデュエットを忘れ、
新しい恋人と出会うかしら?
いつか、春が来たら。

 <Spring Is Here>は、私のお気に入り、リチャード・ロジャーズ=ロレンツ・ハート作品で、春というのに、失恋に沈む気持ちを、浮揚感のあるメロディに託すバラードです。エヴァンス派が好んで演奏するスタンダードで、リッチー・バイラーク(p)を擁するジョージ・ムラーツ・カルテットがOverSeasで演奏してくれたことがある。
 上の2曲と違って、NYの洒落っ気溢れる春らしい歌が、<They Say It’s Spring>、ブロッサム・ディアリーのキュートな歌唱を聴いてレパートリーにしたとトミーが言っていました。
 ああ…また長くなっちゃった。極めつけのスプリング・ソング、<They Say It’s Spring>のことは来週の前半にお話しましょう。
CU
 

氏より育ちか?:トミー・フラナガンの幼年時代

 我らのトミー・フラナガンの幼年時代はどうだったのだろう?

 旧ページで体裁が読みにくいので、別ページに改定しました。ぜひどうぞ!

http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/10/post-220.html

寺井珠重の対訳ノート(6)

もうひとつの”奇妙な果実”
What’s Going On / エラ・フィッツジェラルド


 今週のジャズ講座には、いよいよエラ・フィッツジェラルドの『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』が登場します。さきほど、やっと、当日にお見せする対訳や構成シートが出来上がりました。寺井尚之に何度もダメ出しされて校正をしたものです。MCまで訳したので、物凄い数のOHPシートになっちゃった…
 日本の評論では、何故かエラのライブ盤は「エラ・イン・ベルリン」と相場が決まっているようです。レコードを素直に聴けば、成熟を極めた’70年代のライブアルバム群に軍配が上がるのが自然なのになあ… 中でも、前作の『Jazz At The Santa Monica Civic ’72』と本作はコンサートのスケール自体が凄い。
 カーネギー・ホールのコンサートには、これまで毎日世界中を飛び回っていたエラが、糖尿病の合併症で視力を損い、不本意ながら取った休養中、じっくりと自分の歌を見つめ、熟成発酵させた後がありあり判る。
 詳細は、ぜひジャス講座で寺井尚之の名解説をお聞き下さるか、後に出る講座本をお待ちください。
 愛のゆくえ 今回、私がブッ飛んだこの歌は、オリジナルの2枚組LPではボツになっていた演目です。ヴェトナム戦争終盤の’71年に、マーヴィン・ゲイが大ヒットさせた反戦歌だけど、リリース時の日本名は「愛のゆくえ」だった。当時の洋楽ディレクターはとてもクレバーですね。この歌の社会性を前面に出さずにプロモートしたかったのでしょう。
 マーヴィン・ゲイやこの歌については、Interlude読者の皆さんの中に、私よりずーっと詳しい方々がおいでになると思います。トミー・フラナガン達がNYに去った後のデトロイトで、黒人が黒人音楽をビジネスにして大成功した稀有な会社、モータウン・レコードの看板スター、マーヴィン・ゲイが、モータウンの総帥、ベリー・ゴーディの反対を押し切り’71年にリリースした反戦歌です。
 ゴーディが反対したのは、売れないからではなく、反戦フォークソングがビッグ・ビジネスになった’70年代でさえ、まだまだ「黒人は政治問題にタッチするべからず。」という不文律があったからこそ、反対したのだ。
 それでもゲイ自らプロデュースし、リリースにこぎつけた<What’s Going On>はモータウン創立以来の大ヒットを記録し、批評家からも絶賛される。でも、マーヴィン・ゲイはアメリカ国税庁にマークされ、一時は破産状態となり、「薬物中毒、情緒不安定」というレッテルを貼られ、45歳の誕生日、「情緒不安定な父親」に銃殺されてしまった。
 その昔には、ジャズの世界でも似たようなことがあった。合衆国で人種の差別や区別が行われていた頃の話、’30年代のNYには、出演者もお客様も、人種の分け隔てをせず、最高のエンタテイメントを提供することで人気を博した<カフェ・ソサエティ>という革新的なナイトクラブがあった。その店のスターだったビリー・ホリディが歌って、大センセーションを巻き起こしたのが、南部でリンチによって木に吊るされる残酷な人種問題の歌「奇妙な果実」だ。これがホリディの歌の真髄かどうかは判らないけれど、彼女のレコードの内で最高のセールスを記録し絶賛された。しかし、その結果どうなったか?<カフェ・ソサエティ>の来店者は、FBIに監視され、名オーナー、バーニー・ジョセフソンは、「共産主義者で、しかも薬物中毒」であると、芸能レポーター達にバッシングされた挙句、店は閉店、ホリディ自身は麻薬所持現行犯で逮捕され、NYクラブ出演のライセンスを剥奪され、マーヴィン・ゲイより一才若く、僅か44才で亡くなった。
 本作で、エラはビリー・ホリディに捧げ、<Good Morning Heartache>の名唱を披露している。これもぜひ聴いて見てください。
カフェソサエティ
カフェ・ソサエティで歌うビリー・ホリディ
○   ○   ○   ○   ○
 ’73年当時、ジャズ・ソングの女王、エラ・フィッツジェラルドにとっても、<What’s Going On>は「取り扱い注意」であったことは明白だ。ビートルズやバカラックのヒット・ソングとは違う社会性の強い演目は、エラのマネージャー、ノーマン・グランツが薦めたとは到底思えない。浮世離れしたスター、エラは、この作品を単にヒット・ソングのうちの一つとして歌ったのだろうか?
 答えはNO! 絶対違います。 歌詞を拾って行くと、泥沼化したヴェトナム戦争終盤の’72年、<サンタモニカ・シヴィック>でのライブと、米軍がベトナム完全撤退した直後の本作では、歌詞をガラリと変え、スキャットに至るまで、真正面から楽曲と向き合って、誠心誠意、歌ってるのがよく判るのです。
 <サンタモニカ・シヴィック>のヴァージョンでは、きちんとフルバンのアレンジが出来ており、歌詞はほとんどマーヴィン・ゲイのオリジナルと同じだ。
『Jazz At The Santa Monica Civic ’72』より抄訳
サンタモニカ・シヴィック
マザー、マザー、
こんなに大勢の母親が泣いている、
ブラザー、ブラザー、
こんなに多くの兄弟達が死んでいく、
何か方法を見つけなくちゃ、
愛ってものを、ここに、
持ってくる方法を、今見つけよう!
母さん、母さん、
髪が長いって、皆はなぜ文句を言うの?
兄弟、兄弟、
なぜ、私達が間違っていると言うの?

 ところが、本作では、トミー・フラナガン3+ジョー・パス(g)をバックに、表面上は終結した戦争について疑問符を投げかける歌に仕立てている。
『Ella Fitzgerald/The Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』より抄訳

マザー、マザー、
余りにも多くの母親が泣いた、
ブラザー、ブラザー、
大勢の兄弟が死んで行った、
何とかよい方法を、見つけなくてはならなかったのに。
愛があればこんなことにはならなかったのに。


だから私は言ったのに。
さあ、兄弟達、
私にちゃんと話してよ、


お父さん、お父さん、
戦争が唯一の解決策でないと
もう判ったでしょ。
愛だけが憎しみに打ち勝つの、
暴力でなく、愛で解決する方法を
考えるべきだったのよ。

 マーヴィン・ゲイの、クールな感情表現と違って、「ヘイ、ダディ、何が起こったのか、ちゃんと話しなさいよ!」としっかり相手の目を覗き込む心でエラは歌いかける。これはCover Versionというより、お砂糖がかかった甘い薄皮を引っ剥がして曲の真髄をそのままドンと聴かすUncover-Version なのだ!
 かつてガーシュインもエラのガーシュイン集を聴いて驚いたといいます。『僕の曲が、あれほど良いものとは知らなかった!」と。楽曲の真髄を見抜き、最大限に表出するのがエラとフラナガンの音楽的な共通点なんですね!
 さらに圧倒的なスキャットで、ジャズの曲を引用しながら、畳み掛けるように歌いかける。”I’m Beginning to See the Light (だんだん真実が見えてきた)”、そして”I Cover the Waterfront(波止場にたたずみ)”を引用する。これは、第二次大戦中に、引き裂かれた恋人や家族のシグネイチャー・ソングだ!ジャズ歌手がコンテンポラリーな歌で聴かすスキャットの内で、これを凌ぐものがあるだろうか? 
 でも、当初リリースされた2枚組LPでは、このトラックは収録されていなかったし、当時のNYの批評は、大変醒めたものでした。エラ・フィッツジェラルドが、こういう社会派の歌唱で売れるのは、筋ではなかったのだ。
 
 だけどエラさん、ちゃんと判ってますからね! この歌に取り組んだあなたは真剣だった! あなたはビューティフル、あなたはアメイジングです!!
 土曜日のジャズ講座は、寺井尚之の強い要請で、MCから大向こうの掛け声に至るまで完全対訳付き。歌詞を拾うたび、エラにぶっ飛び、フラナガン達のプレイに涙して、体が揺れて総力を使い果たす私ってアホやわあ。
 
今は、ひたすら講座の解説を楽しみにするのみ!明日は、おいしいポーク・ビーンズを仕込もう。
土曜日は全員集合!
CU

寺井珠重の対訳ノート(5)

淑女の一分(いちぶん):Miss Otis Regrets (Cole Porter)

 最近のOverSeasのライブは、とっても充実していて、一昨日は、各方面で引っ張りだこ、長年OverSeasで根強い人気を持つベーシスト、鷲見和広さんの41歳のバースデイ・ライブで、大変充実した演奏が聴けました。(彼は20代初めからOverSeasで寺井とプレイして、フラナガンやムラーツにも注目されていたし、ピアノの巨匠ウォルター・ノリスとも共演した。)
 OverSeaでは、3月末に寺井尚之フラナガニアトリオにより、トミー・フラナガンへのトリビュート・コンサートも控えているし、のんびりできない日々です。
 店を開けてお客様をお迎えするまでは、仕込みや掃除に加え、来週、3月8日のジャズ講座のために、エラ・フィッツジェラルド屈指のライブ盤、『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』の対訳作りで、楽しい悲鳴をあげています。
 でも、自分が作った日本語を読みながら、エラの天才を楽しんでもらえるってスゴい!すごく光栄です。
 
 日曜になると、対訳を使う寺井尚之と近所の喫茶店で進捗状況の報告会。「(私)あの歌、エラはなぜチョイスしたんやろ?」「(私)この歌、この間のサンタモニカ・シヴィックのヴァージョンと歌詞全部変わってるねん、よういわんわ…(私)」「(寺井)この曲は、えらい変則小節や… あのナンバーでドジ踏んどる奴がおるねん…(寺井尚之)」などと、詳細なミーティング(?)を行うのが又楽しい。
 
 今回のテーマ、コール・ポーターが作った、ちょっと風変わりな歌、Miss Otis Regrets も、勿論このコンサートの収録曲。かつてElla Fitzgerald Sings The Cole Porter Songbook(’56)でもピアノとデュオで歌っているのだけれど、言うまでもなく17年後のエラの歌作りは、トミー・フラナガンの力も手伝って、何倍もスケールアップしている。
 
 昔から、なんか気になる歌だった。
 ミス・オーティスと昼食を共にするために訪問した貴婦人に、屋敷の執事が”マダム”と何度も呼びかけながら、女主人を襲った悲劇を徐々に伝えるドラマ仕立て。ビリー・ワイルダーの傑作古典映画「サンセット大通り」を想起させるコワさがあります。
porter-cole21.jpg コール・ポーター(1891~1964)
 
 下の歌詞は、講座用に製作中のものを一部出しました。完成版は来週のジャズ講座でゆっくりご覧ください!
Miss Otis Regrets 詞曲 コール・ポーター


Miss Otis regrets,

  she’s unable to lunch today, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.

She is sorry to be delayed,

But last evening down in Lover’s Lane

     she strayed, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When she woke up and found that her dream

 of love was gone, madam,

She ran to the man who had led her so far astray,

And from under her velvet gown,

She drew a gun and shot her lover down, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When the mob came and got her

and dragged her from the jail, madam,

They strung her upon the old willow

across the way, far away

And the moment before she died,

She lifted up her lovely head and cried, madam

"Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today."

残念なことに、ミス・オーティスは、

本日のお昼をご一緒できません、奥様、

お約束を延期にし、申し訳わけないと

申しております、奥様、

実は、あの方は、昨日の夕方、

恋人の小道で道に迷いました、奥様、

残念ですが、ミス・オーティスは、本日、お昼をご一緒できません。



あの方は、うたかたの夢から目覚め、

恋の終わりに気づかれました、奥様、

そして、自分を絶望させた相手に駆け寄り、

ベルヴットのドレスの下に隠した拳銃で、

恋人を撃ったのです。

ミス・オーティスは、残念なことに

本日のお昼をご一緒できなくなりました。



荒れ狂った群集が

あの方を留置場から引きずり出し、

道のずっと向こうの

あの柳の木に吊るしました、

息絶えるその時、あの方は美しいお顔を上げ、

泣きながらおっしゃいました。

「残念ながら、ミス・オーティスは、

今日のお昼をご一緒できない。」と…



 平明な言葉ばかりで、和訳がなくとも、なんとなく判るでしょう? 瀟洒なお屋敷のロビーで、使用人が穏やかな口調でマダムに語りかけます。ラストの断末魔で、昼食が出来ないことを詫びる顛末は、演劇的に過ぎて…色々揶揄する向きもあるけれど、エラが歌うと、ストーリーを損なわずに、全く自然に聴こえてしまう。
 恋に破れた淑女、ミス・オーティスは恋人を撃ち殺す。純潔を汚された淑女の一分(いちぶん)だ。寺井尚之の大好きな曲、Poor Butterflyで、帰らぬ男性を待ち続け最後に自害する蝶々夫人の悲劇が日本の淑女の一分なら、ミス・オーティスは西洋のカウンターパートだ。女性が男性を殺すと、その逆よりも、ずっと大罪だったその昔、それを知った土地の民衆が暴徒と化し、留置場のミス・オーティスを引きずり出し、町外れの柳の木に吊るして処刑しようとする。ミス・オーティスは息絶える前に、凛と顔を上げてこう言う。「残念だけど、今日の昼食は出来ないの。」
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 この歌は「西部」の感じがすると言う書物もあるけれど、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが着るグリーンのベルベット・ガウンや、「奇妙な果実」のリンチの歌で育った私には、どうもウエスタンの『ハイヨー・シルヴァー!」の世界と言うよりは、「南部」の感じがする。
 
『コール・ポーター・ソングブック』のライナー・ノートによれば、ポーターがレストランで食事をしているとき、他のテーブルから聞えて来たウエイターの応対にピンと来て書いた曲だと言われている。
 「恐れ入りますが、ミス○○はランチにお越しになれないそうです、マダム。」の一言から、こんな刃傷沙汰(にんじょうざた)を連想するコール・ポーターは、第一次大戦中に徴兵を逃れ、パリでジャズエイジに享楽の日々を送った。 自分の生活態度は、アメリカの地方に行けば処刑に値するのではないかという、潜在的な自覚があったのだろうか?
 また、この曲は、ポーターのパリ時代に親交深かったエンタテイナー、ダンサー、シンガー、クラブ・ママでパリ社交界の華と呼ばれたアダ・ブリックトップがショウで歌う為に書かれた。
 
 昨年の秋、英国のTVドラマ、<ミス・マープル:アガサ・クリスティー>の「バートラム・ホテルにて」というエピソードの冒頭シーンに、この歌詞が使われて少し話題になった。1960年代のロンドンで、30年代のエドワード朝時代の懐古的な雰囲気で人気のホテルを舞台にした、おなじみのミステリーなのだけど、ホテルのフロント係りが、電話口で「恐れ入りますが、ミス・オーティスは本日、昼食にお越しになれません。」と話すことで、そんな時代がかったムードを表現したのだった。イギリス人らしいウィットですね!
 この曲本来の姿を探し、「最高のコール・ポーターの歌い手」と賞賛されるボビー・ショートのヴァージョンを聴くととても参考になりました。
 カーネギー・ホールでのエラの歌唱は、おそらくコール・ポーター自身も想像しなかったほど高潔だ。
 「ちょっとソフトな歌を…」と前置きしてから”Miss Otis regrets…” と歌い出すと大拍手が沸く。それほど有名スタンダードではないはずなのだけど、通の多いNYの土地柄を表しているのだろうか?
 エラは、高貴で堂々としていて、決して執事にも女中頭のようにも聴こえない。彼女がベルベットのガウン…と歌うとき、そのドレスの色は、「風と共に去りぬ」のグリーンではなく、深いブルー以外にはないと思えてしまう。私にはMiss Otisの悲劇を語るエラ・フィッツジェラルドは、女中の姿に身を変えたミス・オーティス自身の幻のように聴こえてならないのです。
 寺井尚之のジャズ講座:『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』は3月8日、来週土曜日、お近くの方はぜひどうぞ! 遠くの方はジャズ講座の本で!
 
 CU

寺井珠重の対訳ノート(4)

 My Funny Valentineとシェイクスピアの粋な関係
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ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616) ロジャーズ・ハート・コンビ、右のバーコードの人がロレンツ・ハートです。
 
  寺井尚之のジャズ講座が始まってから足掛け11年、毎月第二土曜は、相変わらず楽しい集い!ビリー・ホリディから始まった私の対訳歴も10年を超えてしまったのですが、今だに名歌手の歌唱解釈、名歌詞に学ぶことが一杯です。
 
  英語の歌詞を日本語に置き換える際には、ごくシンプルな一節でも、その出所や、時代、歌手の歌い方…色んなことを想う。原典の映画や原作、作者の人となりなど、とにかく調べてみる。『スタンダード』と呼ばれる歌は、殆どがジャズ用に書かれたわけでなく、芝居や映画で流行ったもの、俗にティン・パン・アレイと呼ばれるNYの音楽出版の街角が出生地だ。当時の歴史やファッションなど色々調べ回し、全てを一旦ご破算にした上で、歌手の歌唱解釈をもう一度考えてみる。出典とは全く無関係な音楽世界になっているものもあるから、歌の出身ににドップリ浸るのも問題です…
  なーんて言うと大げさですね。ガキの頃から映画好き小説好き。”Sleepin’ Bee”の訳詩の為に、カポーティ短編集一冊読むのも全く苦にならないおっちょこちょいなだけ。
  寄り道好きの私が、このところ気になってしかたないのが、歌詞の後ろに見え隠れするむシェイクスピアの影なんです。クリーム・シチューに白味噌をちょっぴり隠し味として入れるように、バッパーたちがスタンダードを土台にヒップなバップ・チューンを作ったように、フラナガンがアドリブの中にスルっと引用フレーズを織り込むように、シェイクスピアは、幾多のスタンダード・ソングの中にかくれんぼしながらウィンクしているから、発見すると嬉しくてたまらない。
 古典シェイクスピアの戯曲や詩は、著作権がないからか、大部分がネット上で読めるんです。
 
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  シェイクスピアの香り、一番判りやすい例なら、寺井尚之が騒々しい夜に愛奏し、フラナガン3が、『Magnificent』で聴かせてくれる“Speak Low スピーク・ロウ”の歌詞の冒頭部分、

Speak Low
When you speak love,
愛を語るなら小声で囁いて、

  これはシェイクスピアの有名な喜劇「空騒ぎ」第二幕の仮面舞踏会でのくどき文句と同じ。作詞のオグデン・ナッシュが、作曲のクルト・ワイルの口にした名台詞から、一編の歌詞に仕立て上げたと言われている。それ以外にも色々あるのだけど、2月にぴったりのスタンダード曲にも、シェイクスピアの影法師が見えます。
 それはMy Funny Valentine、この歌詞に16世紀の劇作家の影が、もっと巧妙に隠れてました。以前、Interludeで取り上げたThe Lady Is a Tramp同様、”Babes in Arms”の劇中歌、名コンビ、リチャード・ロジャーズ(曲)=ロレンツ・ハート(詞)の作品です。
 ”マイ・ファニー・ヴァレンタイン”は、大スタンダードなのに、とっても誤解されている。
 昔、何かの雑誌で読んだことがあります。「この歌はヴァレンタインという名の恋人へのラブ・ソングで、ヴァレンタイン・デーとは無関係な曲だ。日本人がバレンタインデーにこれを演るのはアホで的外れだ。」と…現在もそういう通念があるみたいです。どうやら”Babes in Arms”の劇中で歌うシチュエーションが、誤解の元になっているのでしょう。
 だけどね、ロバート・キンボール&ゴットリーブ・コンビが編纂したオリジナル歌詞(ランダムハウス社刊:Reading Lyricsより)を見ると、下記のようになってます。訳詩は、以前寺井尚之の生徒達が主催してくれたエラ・フィッツジェラルド講座で使ったものを元にしました。
 エラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン3が’75の2月14日、東京中野サンプラザでの名唱です。エラもバレンタインデーに歌っていたのです。

My Funny Valentine 曲:リチャード・ロジャーズ、詞:ロレンツ・ハート


My funny valentine,

Sweet comic valentine,

You make me smile with my heart.

Your looks are laughable,

Unphotographable,

Yet, you’re my fav’rite work of art.

Is your figure less than Greek?

Is your mouth a little weak?

When you open it to speak

Are you smart?

But don’t change a hair for me.

Not if you care for me,

Stay, little valentine, stay!

Each day is Valentine’s Day.
私のおかしな恋人さん、

可愛い、楽しい恋人さん、

私を心から微笑ませてくれる人。

あなたのルックスは笑っちゃう、

写真向きじゃない。

それでも、私が一番好きな芸術品。

スタイルはギリシャ彫刻に負けてるかな?

口元が弱い?

その口を開けて話したら、

あなたは野暮ったいんだもの。

でも、私を想ってくれるなら、

どんな些細な所も変えないで。

今のあなたでいて欲しい。

あなたとの毎日が私のヴァレンタインデイ。

 
 
 ほらね、個人の名前なら大文字のValentineだけど、歌詞は小文字のvalentine なんです。「a valentine」というのは、ヴァレンタイン・デーににチョコでなくともカードを送る相手、つまり恋人のこと。決して千葉ロッテ・マリーンズの監督の応援歌ではない。
  この歌は、正真正銘のラヴソングなのに、月も星も、”Love”という言葉すら出てこない。それどころか、「写真向きじゃない」とか「野暮ったい」とか、ネチネチ皮肉っぽいことばかり言う。でも、完璧でない恋人が、却って愛しくてたまらない。どうか、不完全なままでいて欲しい。野暮なままでいい!へんてこなところが好きで堪らないの!と、憎まれ口を言ってから、最後にはとっても切ない気持ちが堰を切ったように溢れる。サラ・ヴォーンが歌うと一層セクシーになって…相手へ官能的な情愛がひしひし伝わるでしょう!
  メロディも”都会的”と言うのかな… 例えば夜更けに、セントラルパークを見下ろす瀟洒なアパートの窓からカーテン越しに見える向かいの部屋の風景。薄暗いNYの照明の下で語らう年齢の離れた男女の姿…『プラダを着た悪魔』に出てくる、最新ファッションでキメたメリル・ストリープみたいな人が年下の恋人に、初老のケーリー・グラントがブラック・ドレスと真珠でキメた太眉のオードリー・ヘップバーンに歌うと、ぴったりする感じ。だって、最後の切なさは、青春を通り過ぎたことを知ってる大人が、なりふり構わず愛を告白する構図が表現されてこそ味がある。
   その反面、聴く者に、完璧な人間でもなく見た目もイマイチなこの私でも、こんな風に想ってくれる人がいるかも知れない!という希望を与えてくれる。本当に粋な詞だ!…と、私はずっと思ってた…
 ところが、この間、シェイクスピアのソネット集を読んでいると、こんなのに出会いました。『ソネット』とは、一定のアクセントを持つ14行の詩です。シェイクスピアのソネットには、愛する少年に宛てて書いた詩と、「ダークレイディ」と呼ばれる謎の黒髪の女性の恋人に宛てたものと大まかに2種類あって、この詩は、明らかに後者ですね。
 

新潮社刊:「シェイクスピアのソネット」小田島雄志訳:<ソネット130番>より抜粋
「私の恋人は輝く太陽にはくらぶべくもない。(中略)
 髪が絹糸なら、彼女の頭にあるのは黒糸にすぎない。(中略)
 香水ならかぐわしい香りを放つものがある、
 彼女の息の匂いなど、とうていそれにかなわない。
(中略)・・・・
 だが誓って言おう、私の恋人は、そのような
 おおげさな比喩で飾られたどの女より美しいと。」

 
  ほらねっ!!アイデアが一緒でしょう!日本なら安土桃山時代か、江戸時代初期、エリザベス朝の英国人、ウイリアム・シェイクスピアの発想を、ロレンツ・ハートが取り込んでいた!大発見やー!と、愚かなる私は得意になったのですが、調べてみたら、「詞」ではなくて「詩」関連の英文サイトに同じことを書いていた人がいました。…ネイティブはエラいな…。
   “シャッキーおばさん”なる人の投稿記事を読むと、My Funny Valentineの歌詞には、『この歌はシェイクスピアのこのソネットを読んで書いたんだ』という、ロレンツ・ハートの犯行声明が潜んでいる、というのです。
   ほんまや!そのとおり、My Funny Valentineの歌詞のヴァース以降の「リフレイン」と呼ばれるコーラス部分はシェイクスピアのソネットと同じの14行詩にしつらえられていたのだった。
  ロレンツ・ハートさん、いえラリー(と呼ばせてもらいたい) ニクいね!!
  モダンでウィットに富む作風を身上にしたハートは、第二次大戦中のアメリカのムードにそぐわず、締め切りを守れない生活態度も災いし、学生時代からの相棒、ロジャーズとコンビを解消後は一層アルコールに溺れ、不遇で孤独な最期を遂げた。
  ナチ台頭時代にユダヤ民族としての悩を抱え、さして見目麗しいゲイでなく、抑圧された気持ちを酒で紛らわしていたラリー・ハートの作った、My Funny Valentineは、ひょっとしたら自分宛てのラブソングだったのかも知れない。
 
 来年のヴァレンタイン・デーには、そんなことを思いながら、この曲を聴いてみようかな。Interludeが奨めたいのは、マット・デニスのMy Funny Valentine、都会的で、シナトラほどカッコよくないけど、とっても粋で、ほんとにファニーな芸術作品なんですから。マット・デニスを聴きながらチョコレートを食べよう!(体重注意)
次回のInterludeは、多分カーネギー・ホールのエラ・フィッツジェラルドにヒーヒー言っているはずなので、エラの歌った曲から紹介する予定です。
CU

コンサート・レポート:ショーン・スミス+寺井尚之デュオ 2/8 ’08

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<目にも耳にも楽しいコンサートだった!>
  NYで地道な活動を続けるベーシスト、ショーン・スミス=寺井尚之の顔合わせは、私にとってすごく楽しみな企画でした。
 当夜、遠くから近くから、大勢来て下さったお客様、どうもありがとうございました!
 日常、新レパートリーを開拓しつつ、一生モノの愛奏曲を熟成発酵させることに余念のない寺井尚之(p)が迎えるゲスト、ショーン・スミス(b)は、作曲家としてグラミー賞にノミネートされるほど、オリジナル曲を書き貯めるベーシスト。彼の持ち込む新ネタの土俵で、真っ向勝負で四つに組む相撲を取るのか?変則技で逃げを打つのか?音楽を良く知るお客様の前で、一夜のステージをどうしつらえるのか…?
 結果は、見た目も絵になる二人のミュージシャンの音楽的な会話が聴く者にちゃんと伝わる、とってもリッチな一夜だった。
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<当夜のレパートリー>
1st
1. Bitty Ditty (サド・ジョーンズ)
2. Lawn Ornament(ショーン・スミス)
3. Japanese Maple(ショーン・スミス)

4. Minor Mishap(トミー・フラナガン
2nd
1. Mean What You Say (サド・ジョーンズ)
2. Strasbourg (ショーン・スミス)
3. Lament(J.J.ジョンソン)
4. Scrapple from the Apple(チャーリー・パーカー)

3rd
1. That Tired Routine Called Love(マット・デニス)
2. Smooth As the Wind(タッド・ダメロン)

3. Poise(ショーン・スミス)
4. Hitting Home (ショーン・スミス)

Encore: Elusive (サド・ジョーンズ)
<段取りはプロの証>
   上の演奏曲目、青字はショーン・スミスのネタで、茶色は寺井尚之のネタ、因縁のアンコール曲=イルーシブ以外は、事前にメールや郵便でちゃんと譜面を交換していたのです。加えて寺井ネタは、何曲かのオファーの中から、ショーンに選んでもらって決めました。ネットって便利ですね!
 かつてトミー・フラナガンにOverSeasで演奏をお願いする時は、午前3時や4時に、何度も国際電話をかけて、回らない頭を英語モードにしてお願いしなくてはならなくて、完全に睡眠不足になってました。
 ショーンが送って来た5曲は、全て彼のオリジナル、それも結構難しい。ショーンの譜面は、いまどきのPCソフトで作ったものでなく手書きでした。寺井は、それらを自分できちっと清書し、毎日稽古して備えました。
 一方、ショーンにとって、寺井サイドの曲は、どれも、彼が20~30代にトミー・フラナガン3で聴き込んだレパートリーばかり、来日時にもテープやCDで予習している様子だった。
 ショーン・スミス&宮本在浩ss-zaiko.JPG当日1時間足らずのリハーサルを予定していた二人、ショーンは、宮本在浩(b)が快く貸してくれたイタリアの名器、コルシーニをかなり気に入った様子だったけど、弦高をできるだけ高めにしました。以前はもっと低かったのに、いつ替わったんだろう?ザイコウさんがOverSeasの掲示板に書いていたように、いつもより張りのある音色、アンプ臭がなくて非常にアコースティック、おかげで寺井の個性ある潤いのあるピアノ・サウンドが、一層引き立ち、よりカラフルな印象を与える。でも、この弦高でElusiveのテーマをユニゾンするというのは、かなりキツいんじゃないかしら…
★宮本在浩(b)とショーンです。
 ジャズが、室内で演奏されるようになり、ウッドベースを使い出したその昔は、ベースアンプなどないし、大きな生音を出す必要から、弦高は高かった。でも、アンプが発達し、無理に音量にこだわらなくてもよくなってからは、ベースの役割がビートだけでなく、メロディへと広がり、弦高は自ずと低くなって行きました。ニールス・ペデルセンやジョージ・ムラーツのような目くるめくような速いパッセージは昔のような高い弦高では難しい。だからといって、弦高を低くしアンプに頼ってばかりいると、ベタベタした頼りない音になってしまうので、ベーシスト達は皆、それぞれ秘密の工夫をしているみたい。寺井尚之と私が、今まで生で観た内で一番弦高の高かったベーシストは、ジョージ・モロウとチャールズ・ミンガス!バキバキとビートが空気を振動させて、男性的な魅力が一杯だったなあ…
 打ち合わせ風景1-duo-1.JPG 寺井尚之とショーン・スミスは、6年ぶりの再会なのに、まるで、毎週会っている友人同士のように挨拶をし、新婚の可愛い奥様を紹介してもらってから、ベースの弦高を調節して、コーヒーを片手に打ち合わせがテキパキ進みます。曲順はどうしよう?各曲のテーマ取りはピアノかベースか?ライブのアウトラインが瞬く間に決まった。この間わずか15分(!)。 
 その後、二人が楽器に向かうリハーサルでは、テンポ、イントロ、エンディング、決めの箇所を、ピンポイント的にチェックして全13曲、あれよあれよと言う間に、格好が付いていく様子を皆様にもお見せしたかったです。万一、言葉の問題があった時の為に、通訳で横に付いていた私もスカっとするリハーサルに、一昨年のジョージ・ムラーツ・トリオのリハを思い出しました。
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<聴き合う心が通う本番!>
 真っ赤なニットから渋いジャケットに着替えて来たショーン・スミス、ネクタイを締めてキメようと思っていたらしいけど、「わしはこのままやで。」と言う普段着の寺井に合わせ、ノータイ姿です。オープニングの“ビッティ・デッティ”から長年一緒にやって来たデュオ・チームのように、こなれたインタープレイで魅せました。“紅葉”(Japanese Maple)というショーンの作品は、色彩を音色で表すのが得意な寺井好みの曲、自分のレパートリーとしてしまうようです。
 セカンド・セットのオリジナル曲、“ストラスブール”は哀愁に溢れる日本人好みのメロディ、寺井門下の“つーちゃん”は、ストラスブールにも3日間滞在したことがあるそうですが、この曲を聴きながら、川面に映し出される夕焼けの心象風景が衝撃的に蘇ったと、印象的なコメントをくれた。ストラスブール ストラスブールは世界遺産のこんな街。
ショーンのアルバム・タイトルになっている、ラストセットのバラード、“ポイズ”も、一筋縄で行かぬ曲だし、軽快なミディアム・バウンスの“ヒッティング・ホーム”は転調だらけで、指使いに工夫をしないと弾けない難曲だったらしいけど、そんな事を微塵にも感じさせぬプレイでしたね。
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 アンコールのお楽しみ、例の“イルーシブ”は、ユニゾンのテーマが、朝飯前のように行ったリハーサルに比べれば、6割位の出来で、ショーンの悔しそうな表情と、狸寝入りみたいな寺井のポーカーフェイスが対照的で、却って印象的だった。近い将来、また二人で演奏して欲しいです。
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 タッド・ダメロンやサド・ジョーンズの難曲でも、ショーンはしっかりしたビートと、自然で洗練されたボトムラインをしっかり受け持ち、ピアノが「ピアノ」として音楽できるようにお膳立てをして行く。ベーシストとしての仕事をきっちりする。寺井はショーンのビートとラインの動きを感じながら、鍵盤のパレットで色んなカラーを作り、ショーンのソロが最もスムーズに流れるように、最高のバッキングで応える。そんな二人のハーモニーがとってもいい感じ。
 普段の生活でも、自分の言いたいことだけ言う人がいますよね。相手が話しているときは、合槌も打たず、時には、話している途中に割り込んだり、自分の話すタイミングだけを待っている人とは、その人の話がどんなに有益でも、ちょっとシラけてしまうけど、今夜の二人は正反対。
   お互いの話に耳を傾け、うまく相槌を打ちながら、話がどんどん盛り上がる、聞き上手、話し上手、楽しい対談を、傍らでふんふんと聴いているような心地よさに浸りました。
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 レギュラー・コンビではないけれど、全編、逃げを打たず、ソリッドなレパートリーで、真摯に聴かせたショーン・スミス=寺井尚之デュオ、ショーンはバンドスタンドに行くと男っぷりが数段上がるミュージシャン、ハイポジションを繰り出すと顔が高潮し、一段と男前!ぜひともまた近いうちに聴きたいものですね!
 帰り際も、何度も丁寧にお礼を言うショーン、昔と変わらない真面目なベーシストだったけど、それ以上に、自分が何をすべきか知っている極上のベーシストだった!皆様、どうもありがとうございました!
 さあ、来月、3月29日(土)はいよいよ、第12回トリビュート・コンサート、このコンサートで調子を上げている寺井尚之と宮本在浩(b)河原達人(ds)の大舞台!
 最後になりましたが、このレポートに掲載した写真は、当夜東京から来てくださったジャズ評論家、後藤誠氏の提供です。G先生、二人の音が聴こえてくるような写真をどうもありがとうございました。
CU
 

サー・ローランド・ハナ伝記(2) 真実一路

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<ハナさん・リターンズ>
 苦労して奨学金を得て合格した名門校、イーストマン・スクール・オブ・ミュージック、しかしローランド・ハナに突きつけられたのは「ジャズ禁止」の校則だった。
 

「クラシックとジャズの間に区別なし。」
「アドリブとは瞬間的作曲法だ。」

確固たる信念を持つハナさんは、名門校に何の未練も残さずさっさとデトロイトに帰郷、翌年、ジュリアード音楽院に合格し、再びNYで仕切りなおしをする。ジュリアードは、テディ・ウイルソン(p)達ジャズの巨匠を講師に迎えるリベラルな校風だから、ジャズ禁止の校則もなかった。以前ブログに書いた、ディック・カッツ(p)さんは、’56年にジュリアードでテディ・ウイルソン(p)に個人レッスンを受けた。マイルス・デイヴィスやニーナ・シモン(vo)も、ジュリアード、後年、ハナさんとNYJQで共演したヒューバート・ロウズ(fl)も同校出身だった。
<ベニー・グッドマンからファイブ・スポットまで>
 ローランドは水を得た魚のように、クラシックとジャズ・シーンを併走しながら、学生生活を送る。ジョージ・タッカー(b)、ボビー・トーマス(ds)とトリオを結成、クラブやTVのジャズ番組に出演するうち、ベニー・グッドマン(cl)に認められ、学校を一時休学し、ベルギー、ブリュッセル万博やヨーロッパ各地を楽旅した。
 後に、ハナさんの来日時、パスポートが期限切れだったのに、「グッドマンと共演した人だったらOK」と、審査官が一発でハンコを押して通してくれたという話は語り草だ。
benny_goodman.jpgベニー・グッドマン(cl)
 ジャズの仕事に流されず、きっちり4年で卒業したというのもハナさんらしい。卒業後は歌手の伴奏者として、サラ・ヴォーンと2年半、エリントンとの共演で有名な盲目の男性歌手、アル・ヒブラーの伴奏者として2年活動し「伴奏者」時代を卒業、グリニッジ・ヴィレッジの有名ジャズクラブ、<ファイブ・スポット>で、チャーリー・ミンガス(b)のバンドに参加、自己トリオでセロニアス・モンク・グループの対バンを務める間に、モンク音楽への理解を深め、後年の名盤、Plays for Monkに結実した。(対バン:クラブなどで、メインの演目の休憩中に演奏するバンド、60年代まで、NYの殆どのジャズクラブには、対バンが入っており、2バンド聴けたのです。)
 
five_spot.jpg ’50年代、Five Spotのモンク・カルテット
  同時期、コールマン・ホーキンス(ts)と出会い、大きな影響を受ける。ヨーロッパ生活の長かったホークはクラシック音楽に対して大きく心を開く巨匠だった。コールマン・ホーキンス親分が声をかけるピアニストはトミーが一番、二番手がハンク・ジョーンズ、三番手がハナさんだったという。ハナさんは後年、コールマン・ホーキンスに捧げた名曲、After Parisを上辞している(Prelude Book 1)。
<初来日>
 ’64年、大映の「アスファルト・ジャングル」という映画音楽の仕事で、カルテットで初来日。同行メンバーは行サド・ジョーンズ(cor)、アル・ヒース(ds)、アーニー・ファーロー(b)、日本で、「自分のビッグ・バンドを持ったらどうか」とサドに助言し、2年後、サド・メルOrch.が生まれた。
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 気がつけば、もう60年代中盤、NYの町に響いていたジャズはビートルズにとって代わっていた。ベトナム戦争が始まり、街の大人達はナイト・クラブに行かずに、夜は自宅の居間でTVを観る生活スタイルになっていく。ジャズメンにとって、クラブ・ギグだけで、食べていけない冬の時代がやって来たのだ。腕のあるミュージシャンの多くは、生活の糧を放送メディアに求めた。トミー・フラナガンは、スタジオの仕事より、エラ・フィッツジェラルド伴奏の道を選び、しばしNYから離れることになる。
 ハンクやサドのジョーンズ兄弟、クラーク・テリー(tp)と言った人たちは、三大ネットワークTVの人気番組の専属バンドのメンバーとなり、メル・ルイス(ds)やリチャード・デイヴィス(b)、ペッパー・アダムス(bs)たちは、スタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を確保した。ツアーがないから、ずっと家族と過ごすことが出来る反面、ジャズの喜びは得られない。
 そこで、彼らはジャズ・メン本来のの芸術的欲求、あるいは快楽のため、ストレート・アヘッドな音楽を損得なしでやろうとした。実力派が、ノーギャラのリハーサルを惜しまず、本番で熱く燃える姿は、結果として、お客さん達を狂喜させることになった。’70年代の新しいジャズのかたちだ。
 この典型が伝説のビッグ・バンド「サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.」だった。デビューまでに、レパートリーを用意し、週一回、スタジオを借りて、リハーサルに3ヶ月を費やした。このバンドの本拠地となった<ヴィレッジ・ヴァンガード>のマンデイ・ナイト、当初のライブ・チャージは、僅か2.5$、バンド・ギャラは一人、たった17$だったという。それでも、毎週演奏場所があるから、バンドのクオリティを何年も保つことが出来たのだ。月曜のジャズクラブは、スローと決まっていたのだけど、サド・メル時代のヴァンガードの月曜は大盛況となったのだ。
 下は、TV番組“ジャズ・カジュアル”でのサド&メルOrch.ビッグ・バンドの醍醐味とハナさん節が堪能できます。

 <サド・メル時代>
  ’67以降、ハナさんは、ダブル・ブッキングを常とする超多忙なハンク・ジョーンズ(p)の後釜として、レギュラーの座に8年間就くことになる。サド・ジョーンズとクレジットされている名曲、A Child Is Bornは、実はこの時期のハナさんの作品だ。
 当時のメンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、ペッパー・アダムス(bs)、スヌーキー・ヤング(tp)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、などなど、様々なバックグラウンドを持った腕利きがサド・ジョーンズという天才の元に結集している。まさにNY・Jazzのドリーム・チームだ。ハナさんの後ろでレギュラーを狙い二軍ピアニストは、チック・コリア、ハービー・ハンコックたちスター予備軍だ。
 楽団の掟もハナさんにぴったり!

「常にストレート・アヘッドで行く!コマーシャルなことをしない。」

 ハナさんは楽団のピックアップ・メンバーを集め、’69年から、ニューヨーク・ジャズ・カルテット(NYJQ)を結成、ソリッドなコンボ活動を始める。また、当時のハナさんは、ヘヴィースモーカーで、大酒豪だったそうだ。
 しかし、’74年に、ハナさんは突然サド・メルを降板。楽団維持のために、スティービー・ワンダーのヒット曲のレコーディングが決定されたのが、引き金となった。
 
 <ハナさん、騎士になる>
 ’70年に、ハナさんはアフリカをツアーした。当地の青少年の教育資金のために、無料でコンサートをしたのだ。
 その功労で、リベリア共和国タブマン大統領から、騎士の称号を与えられ、以後サー・ローランド・ハナと名乗ることになる。ハナさんは、サーの称号を終生誇りにしていた。
 William_Tubman2.jpgウィリアム・タブマン大統領の両親はアメリカで黒人奴隷だった。
 ’70年代半ば、NYJQにジョージ・ムラーツ(b)が加入するのと同時期に、コンビを結成し、日本で10枚近いアルバムを製作、デュオやNYJQでも数え切れないほど来日を果たし、私も何度もコンサート・ホールで聴かせてもらいました。
 ’80年代になると、教育者として教鞭にウエイトを置くハナさんのレコーディングは極端に少なくなるけれど、デンマークの巨匠、ジェスパー・シロ(ts)との共演盤や、ソロ・ピアノの白眉、Round Midnightなど高質名盤が並んでいく。
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 ’90年にやっと、ハナさんはOverSeasに来てくれるのですが、その出会いや、’90年代以降のプレイについては、また機会を改めてゆっくり書こうと思います。
 ハナさんは、寺井尚之がジャズ黄金期と呼んだ’70年代以降、大きく花開いたジャズピアノの大巨匠です。
 サー・ローランド・ハナがリリースした名盤の数々は、華麗さと潔さが同居していて、聴くたびに心が洗われる。これらを廃盤として埋もれさせてしまっていいのでしょうか?
 ジャズ・レコード界の心ある人たちは、ぜひ、ハナさんのレコードを再発させて欲しいものです。宜しくお願いします。
 CU