ジャズを聴き始めた高校時代、ナンシー・ウィルソンのセクシーなメロディ・フェイクが大好きだった。でも、あの頃はうわべのカッコよさだけで、本当のすごさは分かってなかった。女優系シンガーといわれる彼女の十八番〈Guess Who I Saw Today〉は、偶然、夫の浮気の現場目撃した妻が、何食わぬ顔で帰宅した夫に語りかける趣向ですが、なぜそうなったのか?の状況は歌詞の中でしっかり説明されています。それと対照的に、この〈I Was Telling You About You〉という歌は、主人公の独白のみで、前後の状況説明がほとんどありません。余白が多いところが、ナンシーの腕の見せどころ! ナンシーの演じる主人公は、ある男性としっぽりチークダンスをしている。ちょうどそのとき運悪く、彼女が心を寄せる別の男性が通りすがり、目と目が合うが、彼は背を向け、無言で去っていった。「違うの!この人とは何でもない、ダンスしながらあなたのことを話していただけ…」と言い訳をする、という歌。歌詞の中に、ダンスの相手は、夫なのか、元カレなのか?去っていった恋人は何者なのか?どれほど深い仲なのか、詳しいことは一切語られない。
ナンシーがここで描き出す主人公は、甘えや狡さを併せ持つ、成熟した女性だ。失った恋を惜しむ惨めさを必死で隠そうとする女の可愛さと哀れさがストレートに響いてきます。動画は1987年、カーネギーホールのコンサートで、指揮は佐藤充彦さん。初録音『I Know I Love Him』(Capitol, 1973)より、磨かれた表現に舌を巻きます。 素肌にまとったイヴニングドレスが素晴らしくゴージャスでセクシーだったナンシーは、一方では熱心な公民権運動の支持者であり、アメリカ公共放送ラジオNPRのジャズ番組のナレーターとしての話しぶりは明瞭な発音と知的な語り口は、私にとって最高の英語教材でした。 巨匠ベーシスト、ルーファス・リードは、若い頃ナンシー・ウィルソンの伴奏者として一緒にツアーしたそうです。譜面の読めないナンシーはミュージシャンに対していつも敬意を持っていて、本来ならスターはリムジン、バックバンドはバス、といった感じで移動も別にするのですが、ナンシーだけは自分のリムジンにバンドを一緒に乗せて移動をした、素晴らしい人だったと語ってくれたことがあります。
ナンシー・ウィルソンは、女の出し方が最高に上手な歌手だった!
=I Was Telling You About You= (曲:Moose Charlap, 歌詞:Don George) オリジナル歌詞はこちら
一方、共演ピアニストの寺井尚之は、歌詞が聴こえてくるピアノ・プレイと言われ、師匠トミー・フラナガン同様、歌詞に強いこだわりを持っているので、滝川さんのトークにアドリブで突っ込みを入れるものですから、ライヴが一層盛り上がります。 そんな滝川さんがよく聴かせてくれるのが、この〈I Thought About You〉です。 ご存じない方は、スタンダードの教科書として、多くのプレイヤーが参考にするエラ・フィッツジェラルドのヴァージョンを聴いてみて❣
〈I Thought About You〉は、昔々1939年のヒット曲、作曲 Jimmy Van Heusen(ジミー・ヴァン・ヒューゼン)、作詞はJohnny Mercer(ジョニー・マーサー)です。南部ジョージア州サヴァナの名家に生まれたマーサーは、同時代の大部分のソングライターたちの大都会的なスノビズムとは一線を画した作風で、私が大好きな作詞家です。だから、久しぶりに対訳ノートを書いてみました。
=夜の車窓から=
〈I Thought About You〉は、Johnny Burke(ジョニー・バーク)とのコンビでヒットを量産した作曲家Jimmy Van Heusenとコラボであること、そして、後付けの名作詞家と呼ばれたマーサーが、先に詞を書いて、後から曲が付いたという点でも、マーサーにしては、少し異色の作品だ。 一方、自分の創作スタイルを「聴く人がまだ見ぬ場所を体験できるよう、歌詞を使って絵画を描いてみせる。」としたマーサーの作風が最も色濃く出た名歌のようにも思えます。
Sir Roland Hanna and Hisayuki Terai at Itami Airport, Osaka, 1990
=ハナさん=
Sir Roland Hanna (1932 2/10-2002 11/13)
サー・ローランド・ハナ没後22年、トミー・フラナガンが、寺井尚之とJazz Club OverSeasの「親父」なら、サー・ローランド・ハナはモノンクル、まさに「叔父貴(おじき)」だった。二人は、ともにデトロイト生まれで、多くのミュージシャンを輩出した市立ノーザン・ハイスクールの卒業生だ。ハナさんはフラナガンの2学年下、フラナガン夫妻は感謝祭になると、ハナさん家で食事を共にする親戚付き合いが続いた。不思議なことに、2人は誕生日も命日も近い。そのため、寺井がハナさんのトリビュート・コンサートを行なうことが困難だった。(T.Flanagan 1930 3/16生-2001 11/16没, Sir Roland 1932 2/10生-2002 11/13没)
一方、排日運動高まる中、二人の幼児、そして三人目の子供を身籠りながら、夫の留守を守るともゑは、いつアメリカ人の襲撃を受けるかと不安な日々を過ごした。やがて、大統領令9066号が発効され、ともゑは息子たちと共に、アリゾナ州のヒラ・リヴァー転住センター(Gila River Camp:下左写真)に収容、砂漠の中の施設で、夫と離れ離れの生活を送ることになった。
Joe Turner(1907-90) ボルチモア出身、ルイ・アームストロングなどの名楽団で活躍した華麗なるストライド・ピアニスト、第二次大戦後はパリのクラブで人気を博した。パリ没。
Joe Turner
西部をツアーしたとき、ベニー・カーター(as.tp.comp.arr.)は私に警告をした。-「オハイオ州のトレドに着いたら、決して土地のクラブでピアノに触ってはいけない。街にいる盲目の若造はやり手だ。お前が逆立ちしても太刀打ちできない。」 一体どんな奴だろう?私はトレドの街に着くとすぐ、そのピアノ弾きの居所を尋ねた。なんでも、そいつは夜中の2時きっかりに、決まってある軽食屋に現れると言う. 午前零時、劇場の仕事がハネると、私はその店に行って例のピアノ弾きが来るのを待った。しばらく私がピアノを弾いていると、ピアノの傍らで、2人の若い女が言い合いを始めた。「この人ならアートをやっつけちゃうわね。」と一人が言うと、もう一人が言い返した。「そのうちアートが来るから、どっちが勝つか、じっくり見物しましょうよ。」 噂どおり、2時きっかりにアート・テイタムが現れた。私が挨拶をすると、「ああ、お前さんが、”Liza“を素晴らしいアレンジで演っている、あの有名なジョー・ターナーかい?」と言うじゃないか!私が演奏してほしいと頼むと、『まずあんたのピアノを聴かせてもらってからだ。』と言って聞かない。アート相手に言い合いをしても勝ち目はなかった。私は、ベニー・カーターの忠告を無視し、“Dinah”で指慣らしをしてから、十八番の”Liza”を演った。 弾き終わると、アートが『なかなかいいね。』と言ったので、私は少しムっとした。私の”Liza”を聴いた者は、余りの凄さにびっくりするのが常だったからだ。なのに、ただ『なかなかいいね』とは何事だ! それからアートはピアノの前に座り、“Three Little Words”を弾いた。その凄かったこと! 三つの短い言葉どころか、三千語でも足りない、もの凄い演奏だった!あれほどの音の洪水を生まれてから聴いたことはない。 それ以来、私達は無二の親友となった。次の朝早く、私がベッドから出る前に、彼は、もう私のところに遊びに来て、昨日私が弾いた”Liza”を一音違わず、全く同じように弾いてみせた。 (出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff)
Billy Taylor (1921-2010) ビバップから現代まで、激動のジャズ史を生き抜いたピアノの巨匠、全米ネットワークのジャズ番組のホストとして有名。知名度を生かし、音楽教育や文化プログラムの資金集めを含めジャズ界に貢献した。ネット上でフラナガンとのものすごいデュオが観れる。
テイタムのピアノ、ホーキンスのテナー、そしてエリントン楽団、この三つがビバップ語法の基礎を作った。 テイタムが繰り広げたジャム・セッションの中で忘れがたいものがある。相手はクラレンス・プロフィットというピアニスト兼作曲家だった。私を含め、皆、彼のことを単なるファッツ・ウォーラーの亜流と思い込んでいたが、この二人のジャム・セッションは何ともすさまじかった。 二人がピアノの前に座り、同じメロディを延々弾き続ける。メロディは変えずにハーモニーを次から次へと変えていくのだ。フレーズを考えるのでなく、色んなハーモニーをどんどん考え出すという凄いジャムだった。 特に”Body & Soul”を演った時が面白かった!あの曲にはすでに決まったコードが付いているからね。彼らのセッションは信じられないような内容だった。だが、あの時やったようなことは、私の知る限り全く録音されていない。 (出典:Swing to Bop/Ira Gitler著)
=カーメン・マクレエ(vo)の証言= Carmen McRae (1920-94) ビバップの誕生に立ち会い、ビリー・ホリディの生き様を見て育った大歌手。
ハーレムのセント・ニコラス通りを少し入ったところにアフターアワーズの店があってね、一流ミュージシャンは仕事が終わると、皆そこに集まった。レスター・ヤング達カウント・ベイシー楽団の面々、ベニー・グッドマン、アーティ・ショウ、そしてアート・テイタム、アートはアフター・アワーズの店が大好きだった。彼が正規の出演場所よりも、アフターアワーズの方が良い演奏したっていうのは本当よ。多分、その場の雰囲気のせいかもね。違った空気があれば、それに即して違った弾き方、歌い方をする人は多いの。ある種のお客やクラブには、ミュージシャンが、普通は出来ないことをしたいと思わせる何かがあるのよね。まあアート・テイタムは余りに素晴らしくて、いつの演奏が良かったと選ぶのも無理なんだけど… (出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff著)
なにしろ、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル or ジョージ・ムラーツ or ロン・カーター、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、毎夜、ほぼ生音で聴けた。深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、ブラッドリー・カニングハムの好みだったのかもしれない。
ブラッドリーの誕生日は、ジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと同じ9月9日で、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドリーの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(’77, Progressive)に収録しています。
上の3か条で運営された《Café Bohemia》は100席ほどでNYのクラブにしては小さい。料理はなく、ドリンク提供のみ。1955~60年の営業期間だったとされている。そこで、有名ジャズ・クラブの演奏スケジュール欄を毎週載せていたThe New Yorkerのアーカイブを週ごとに辿っていくと、推移がわかってくる。
NewYorkerならではのビミョーな紹介文だが、店のマネジメントが不安定だったのかもしれない。状況は加速し、1958年5月以降は「予定ミュージシャンの出演は五分五分」となり、同年7/12号を最後に、《Café Bohemia》の案内自体が同誌から消滅する。52丁目の《Birdland》やブロードウエイ51丁目の《Basin Street Café》と並び “3B(The Three Bs)”と言われた時期はせいぜい2年ほどだった。
一方、音楽的理想に全てを賭けるオスカー・ペティフォードは、《ボヘミア》のセッションでフラナガンに即白羽の矢を立て、ABCパラマウントでクリード・テイラーが制作した、超ド級ビッグバンド作品『Oscar Pettiford in Hi-Fi』(56)に起用。《ボヘミア》つながりで、J&Kaiを休止して一本立ちを画策するJ.J.ジョンソンのレギュラーとなる。
(Sources) The Complete New Yorker DVDs (2004) Before Motown Lars Bjorn & Jim Gallert 著 The University of Michigan Press (2001) Tommy Flanagan Interview by Loren Schoenberg WKCR NY,1990 Rutgers University, Kenny Clarke Oral History Interviews The Café Bohemia Story スミソニアン国立歴史博物館所蔵 NEA JAZZ MASTER INTERVIEW-Kenny Burrell (2010) Swing to Bop, Ira Gitler著, Oxford University Press (1985) Reflectory, The Life and Music of Pepper Adams, Gary Carner著 e-book (2022) 筆者へのトミー・フラナガン談
Jazz Club OverSeasでは、今年の春から、寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の第3巡目が始まりました。今月は、トミー・フラナガンがスウェーデンで『Overseas』を録音するきっかけになったJ.J.ジョンソン・クインテットの『Live at Café Bohemia 1957』が登場します。