4/10(金)アキラ・タナ、楽しかった!すごかった!

hisayuki_terai_akira_tana_zaikou_miyamoto_ippei_suga1.JPG   待ちに待ったアキラ・タナ(ds)ライブ。4月に不似合いな冷たい雨でしたが、昨年に引き続き、「楽しい!」「すごいっ!」の歓声が口々に漏れる最高の演奏が聴けました。

akiraP1090110.JPG アキラ・タナさんと寺井尚之のお付き合いは、もう30年になります。でも、最初に彼の演奏を聴いたのはもっと前、寺井も私も二十代でした。大学時代の寺井の盟友ギタリスト、現在マレーシアでギター・レジェンドとして活動し、あちらの音大で教鞭を取る布施明仁さんが、その頃ボストンのニューイングランド音大に留学中で、「同じクラスにソニー・スティットと一緒に演っている奴が居ます。」といって彼の地のジャズクラブでライブ録音したカセット・テープ(!)を送ってくださったのがアキラさんとの最初の出会いでした。

 初めてOverSeasにお招きしたのは、Walter Bishop Jr.のトリオで’80年代中盤、それからコンサートで、プライベートで何度演奏していただいたか数えきれません。

 今回の来日も公私ともに超多忙スケジュールの合間を縫っての出演でしたが、譜面を一瞥した途端に、曲の構成がズバッと頭に入る感じ、イントロなしで寺井の首振りから始まる曲、超変則のBeyond the Bluebirdなど、どの曲もリラックスしてこなれた印象に。やっぱりアキラさんが加わったジミー・ヒース作品は、格別の味わいです。

 アキラさんを聴きにきてくれたロック・ミュージシャンのお客様を紹介すると、次のセットではすかさず8ビートでソロを取る茶目っ気も素敵でした。寺井尚之(p)は得意のポーカーフェイスですが、とっても気持ちよさそうにアキラさんと音楽でジョークを言い合っているし、宮本在浩(b)も本当に楽しそう!「ザイコウ、最高!」と声が掛かるソロを出してベテラン二人に強烈アピールしています。


ippeiP1090120.jpg  ラスト・チューンのA Sassy Sambaでは、アキラさんの傍らで食いつくように聴いていたメインステムの菅一平(ds)さんが、隠し持っていたパーカッションでジョイント、すると会場に居た先輩ミュージシャン達の応援が甲子園の外野席のようで、場内は興奮の坩堝に!

 アンコールは前回大好評の「どんぐりころころ=リズムチェンジ」に続き、今回は「七つの子」ジャズヴァージョン。最近大阪環状線が駅ごとに発車メロディーを鳴らすのにインスパイアされた寺井が、ここぞとJRのホームで耳にした色んなメロディーを、最高のピアノタッチで繰り出すのに、皆大爆笑。最後まで笑顔の絶えないライブになりました。 

 「楽しい」を生み出すためには日頃の厳しい修練が必要なんだ!改めて実感したコンサート。またの再会を約束し、アキラさんは明日帰国の途につきます。

 アキラ・タナ(ds)ライブ、次回も宜しくお願い申し上げます!

terai_akiraP1090117.JPG=演奏曲目=

<1st Set>

1. Ladybird (Tadd Dameron)

2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

3. Mean What You Say (Thad Jones)

4. If You Could See Me Now  (Tadd Dameron)

5. Minor Mishap (Tommy Flanagan)

<2nd Set>

1. Suddenly It’s Spring (Jimmy Van Heusen)

2. They Say It’s Spring (Bob Haymes)

3. Bro’ Slim (Jimmy Heath )

4. The Voice of the Saxphone (Jimmy Heath )

5. Rifftide (Coleman Hawkins)

<3rd Set>

1. What Is Thing Called Love? (Cole Porter)

2. Quietude (Thad Jones)

3. Stablemates (Benny Golson)

4. I’ll Keep Loving You (Bud Powell)

5. A Sassy Samba  (Jimmy Heath )

Encore: 七つの子:環状線メドレー

第26回トリビュート・コンサートCDできました。

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 3月のトミー・フラナガン・トリビュート・コンサートの3枚組CDが出来上がりました。

 巨匠フラナガンが最も好んだピアノ・トリオというフォーマットで培った名演目、そのアレンジを受け継ぐ弟子、寺井尚之が手塩にかけたメインステム・トリオ(宮本在浩-bass、菅一平-drums)で、渾身のプレイを披露しています。

 コンサートにご参加いただいたお客様にも、お越しになれなかったお客様にも、OverSeasならではの演奏風景を感じていただける逸品になりました。

 録音からCD製作まで、毎回ボランティアでお世話くださる福西You-non+あやめ夫妻に感謝。
お申込みはメールでお願い致します。すでにご予約いただいているお客様は次回ご来店の際にお渡しいたします。
応援くださった皆様、心よりお礼申し上げます。

トリビュート・コンサート!

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第26回トミー・フラナガン・トリビュート・コンサート、おかげさまで盛況で開催することができました。

 今年でフラナガン没後14年、客席に生前の勇姿を生で知るお客様は少なくなっていきますが、新旧のお客様に支えられ、26回のコンサートが出来たと思うと感慨もひとしおです。

zaiko_miyamoto_26th.jpg 寺井尚之のレギュラー・トリオも、当初のフラナガニア・トリオ(宗竹正浩-bass、河原達人-drums)から、現在のザ・メインステム (宮本在浩-bass、菅一平-drums )に衣替えして、今回で14回目、トリビュートの過半数のコンサートをメインステムで演ったことになります。稽古が三度のご飯より好きな寺井がこれまで8年の歳月をかけてトリオとしてのサウンドを磨いてきたわけですから、メンバーはさぞ大変だったろうと思いますが、長年の常連様から「いやあ、よくなったねえ。」声をかけられると、疲れも吹っ飛んだのではないでしょうか。

 トリビュート・コンサートのプログラムは、毎回、フラナガンが愛奏した名演目と呼ばれるものから、寺井がセレクトして起承転結のあるひとつのコンサートにまとめていきます。今回は、故郷デトロイト時代からフラナガンが大きな影響を受けたサド・ジョーンズ作品で始まり終わるプログラム。ippei_suga_26thtribute.jpgその間にフラナガンが理想としたデューク・エリントン+ビリー・ストレイホーン作品、バド・パウエル、タッド・ダメロンなどのビバップの名曲、フラナガンが春になると奏でたスプリング・ソングたち、それにフラナガン・ライブの最大の聴きどころだったメドレーを織り交ぜ、このコンサートがひとつのフラナガン音楽史というか、読み応えのある「物語」になったと、初めて感じることが出来ました。

 ピアノの鳴りは息を呑むほど美しかったし、 宮本在浩(b)、菅一平(ds)のふたりも存在感を見せつけてくれました。お客様からもらったコンサートの感想メールを引用させていただきます。

「ザイコーさん、一見控えめに見えて、実はしっかり師匠のピアノに絡みつつ、菅さんとはお互いに支え合って、というのがよく見えました。」

「菅さんのプレーは、師匠から次から次に来る暗黙の要求に穏やかな表情で応えられている姿がカッコ良かったです。」

 「冒頭のLet’sが始まった途端、2000年の大阪ブルーノートのフラナガン・トリオの演奏を思い出して涙が出た。」と言ってくれた人も居ました。

 前回のフラナガン・インタビューにこんな発言があったのを覚えていますか?

「演奏するからには、しっかり準備をして、そこに或る思いを込めたい。」

 そんなフラナガンの心は確かに受け継がれているなあ。そんな風に感じることができました。

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<曲目>

《第Ⅰ部》

1. Let’s /Thad Jones

 作曲者はコルネット奏者としても、バンドリーダーとしても天才的な手腕を発揮したサド・ジョーンズ。ジョーンズの作品は一筋縄ではいかない難曲が多いために、沢山の演奏者に取り上げられるスタンダードは少ない。だがフラナガンは終生彼の作品を掘り下げた。

 「サド・ジョーンズ作品には強力なパワーを内蔵していて、演奏すると、自然にそのパワーが発散する。彼の作品を演奏できるならば、演奏者として順調な道を歩んでいる証だ。」トミー・フラナガン

 

 

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2.Beyond the Blue Bird /Tommy Flanagan

 青年時代のフラナガンがサド・ジョーンズ(cor.tp)と共に、毎夜、デトロイトの黒人居住地で熱い演奏を繰り広げた場所《ブルーバード・イン》を偲んで作ったオリジナル。本曲は若き日へのノスタルジーに溢れている。

 生前のフラナガンは、《ブルーバード・イン》と《OverSeas》の雰囲気は、よく似ていると言ってくれた。

 デトロイトのお家芸である左手の”返し”が印象的、親しみやすいメロディでありながら、、転調が多く弾くのは大変むずかしい。寺井尚之はリリース前に、この曲を写譜して、演奏を許されたことが誇りだ。

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3. Mean What You Say  /Thad Jones

 ゆったりしながら、爽快なスピード感が味わえるサド・ジョーンズ作品、サド・メルOrch.の十八番でもあった。’Mean what you say(ズバっと、相手に伝わるように言え!)’はジョーンズの口癖らしいが、デトロイト・ハードバップのモットーとも言えるだろう。

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4.メドレー: Embraceable You  
/George Geshwin

        Quasimodo /Charlie Parker

 ガーシュインの有名なバラード(抱きしめたくなるほど愛らしい君)、そのコード進行を基にして作ったバップ・チューンに、チャーリー・パーカーは「カジモド」という醜い「ノートルダムのせむし男」の名前を付けた。原曲とバップ・チューンを絶妙な転調で結ぶ意表をついたメドレーには、パーカーの真意を読み解いたフラナガンの深い洞察力が見える。 ライブで、フラナガンのメドレーは最高の聴きどころだったが、これは数あるメドレーの内でも白眉だった。残念なことにレコーディングは遺されておらず、トリビュート・コンサートでその素晴らしさを偲ぶしかない。関連ブログ

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5. Sunset & the Mockin’ Bird / Duke Ellington, Billy Strayhorn

  エリントン&ストレイホーン作品、エリントン・ミュージックはフラナガン終生の理想だった。この曲はフラナガン67才のバースデイ・コンサートのライブ盤(右写真)のタイトルになっている。エリントンの自伝『Music
is my mistres』によれば、フロリダ半島をハリー・カーネイ(bs)運転の車で移動中、夕焼けの中で耳にした不思議な鳥の鳴き声に霊感を得て、瞬く間に書き上げた曲とある。後にエリントンは、この曲を含めた「女王組曲」を収録し、たった一枚プレスして英国のエリザベス女王に献上品とした。フラナガンは、FMラジオのジャズ番組のテーマ・ソングとして毎週流れるのを聴き覚え(!)レパートリーに加えたと言う。

 トリビュート・コンサートでは息を呑む寺井尚之のピアノタッチの至芸で。

 

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6.Raincheck  / Bily Strayhorn

 ビリー・ストレイホーンが第二次大戦中、カリフォルニアで作ったと言われている作品。雨雲を吹き飛ばすような颯爽とした雰囲気に溢れている。

  フラナガンは、ジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオで、名盤『Jazz Poet』に収録している。スピード感と品格を併せ持つフラナガン流ヴァージョンで。

 

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7. Dalarna / Tommy Flanagan  

 ”ダラーナ”は、『Overseas』を録音したスウェーデンの風光明媚な地域の名前を冠した初期のオリジナル。転調の奥義や印象派的な曲想に、心酔していたビリー・ストレイホーンの影響が垣間見える。

 『Overseas』以降、フラナガンが演奏することはほとんどなかったが、寺井尚之のアルバム『ダラーナ』(’95)の演奏に触発され、寺井のアレンジを使って『Sea Changes』(’96)に再収録した。

 

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8. Tin Tin Deo / Chano Pozo, Dizzy Gillespie, Gill Fuller

 フラナガンは、ビッグバンドの演目を、コンパクトなピアノ・トリオ編成でダイナミックに料理するのを得意にしていた。この曲は、哀愁に満ちたキューバの黒人音楽と、ビバップの洗練されたイディオムが見事に融合したブラック・ミュージックだ。

 ディジー・ガレスピー楽団がこの曲を初録音したのはデトロイトで、フラナガンの親友、ケニー・バレル(g)が参加した。フラナガンにはその当時の特別な思い出があったのかもしれない。

 現在は寺井尚之The Mainstemがそのアレンジをしっかりと受け継いでいる。

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 《第Ⅱ部》

1. Eclypso  /Tommy Flanagan

 フラナガン作品中、最も有名なのがこの曲かも知れない。『Overseas』(’57)や『Eclypso』(’75)を始め、フラナガンは繰り返し録音している。、”Eclypso”は「Eclypse(日食、月食)」と「Calypso (カリプソ)」の合成語。トミー・フラナガンを含めバッパーは、言葉の遊びが好きで、そんなウィットがプレイにも反映している。

  フラナガンが寺井尚之をNYに呼び寄せ、別れの夜にヴィレッジ・ヴァンガードで寺井のために演奏してくれた思い出の曲。

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 2. They Say It’s Spring  / Bob Haymes

 フラナガンが”スプリング・ソングス”と呼んで愛奏した季節の演目。

 ’50年代中盤に、ブロッサム・ディアリーのキュートな歌声でヒットした。彼女の夫は、当時J.J.ジョンソンのバンド仲間であったボビー・ジャスパー(ts.fl)であったことから、フラナガンはディアリーのライブで、この曲を聴き覚えレパートリーに加え、フラナガンの演奏を聴いたダグ・ワトキンス(b)も愛奏するようになったという。NYのジャズシーンでは口コミで音楽が広まっていったのだ。

 作曲者、ボブ・ヘイムズは人気歌手ディック・ヘイムズの弟、俳優、歌手、TV番組タレントとしても有名だった。

 ’70年代にジョージ・ムラーツ(b)との名デュオ・アルバム『Ballads & Blues』に収録されている。
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 3. Rachel’s Rondo  /Tommy Flanagan

 最初の妻、アンとの間に生まれた美しい長女レイチェルに捧げた作品。フラナガンは『Super Session』(’80)に収録したが、ライブでは余り演奏することはなかった。

 一方、寺井はこの曲を大切にして長年愛奏し、『Flanagania』(’94)に収録している。

 冴え渡るピアノのサウンドがこの曲の気品を遺憾なく発揮する。

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 4. A Sleepin’ Bee  / Harold Arlen
 これも、春にNYでフラナガンがよく演奏したスプリング・ソング。Aペダルの軽快なヴァンプが春の浮き浮きした気分にぴったりだ。ライブで演奏していくうちに、’78『ハロルド・アーレン集』に収録したヴァージョンからどんどんアップデートしていて、トリビュートで演奏するのは進化ヴァージョンだ。

 元々「A House of Flowers」というハイチを舞台にしたブロードウェイ・ミュージカルの劇中歌。「蜂が手の中で眠ったら、あなたの恋は本物」というハイチの言い伝えを元にした可愛らしいラブ・ソング。 

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5.Passion Flower  / Bily Strayhorn

 フラナガンがジョージ・ムラーツ(b)の弓の妙技をフィーチュアして盛んに演奏したビリー・ストレイホーンの名曲。ムラーツはフラナガン・トリオを離れてからも、自分のグループで愛奏し続けている。

 パッション・フラワーはトケイソウのこと。ビリー・ストレイホーンは花を題材にした作品を好んで作っているが、その中でも、この曲を最も愛奏している。

 今夜は、宮本在浩が秀逸な演奏で大きな存在感を示した。

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6. Mean Streets  /Tommy Flanagan

  元々”Verdandi”という曲名で、エルヴィン・ジョーンズのドラムソロをフィーチュアし『Overseas』(’57)に収録、20年後、レギュラー・ドラマーに抜擢したケニー・ワシントン(ds)のフィーチュア・ナンバーとして盛んにライブで演奏し、ケニーのニックネーム、”ミーンストリーツ”と改題し『Jazz Poet』に収録。

 トリビュートでは、菅一平(ds)が細部まで神経の行き届くダイナミックなドラムソロで、大きな成長ぶりを見せつけた。

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 7. I’ll Keep Loving You  /  Bud Powell

   バド・パウエルが歌手の女友達の持ち歌に書き下ろしたとされる作品で、凛とした美しさがみなぎる硬派のバラード。フラナガンは、ビバップのアンソロジー集、『I
Remember Bebop』(’77)に収録。フラナガンを愛し続ける寺井尚之の心が溢れる名演となった。

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 8.Our Delight  / Tadd Dameron

 

 ビバップの立役者の一人、ピアニスト、作編曲家、タッド・ダメロンの代表作。フラナガンはダメロン作品には「オーケストラの要素が内蔵されているので非常に演りやすい。」と言い、ライブを最高に盛り上げるラスト・チューンとして盛んに愛奏した。それにもかかわらず、レコーディングはハンク・ジョーンズとのピアノ・デュオしか残されておらず、バップの醍醐味が炸裂するスリリングなフラナガンのアレンジを再現できるのは寺井しかいない。

 

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collar.jpg《アンコール》

1. With Malice Towards None  / Tom McIntsh

  フラナガンが、真の「ブラック・ミュージック」として愛奏したトム・マッキントッシュ初期の作品。

 「誰にも悪意を向けずに」という題名は、エイブラハム・リンカーンの名言で、メロディは賛美歌を基にしたスピリチュアルな曲。

 この曲が生まれた頃、マッキントッシュとフラナガンは住まいが近所で親しく行き来しており、フラナガンはこの曲の創作過程に立ち会って、自分のアイデアを盛り込んだ。様々な編成で多くの録音があるものの、フラナガンのスピリチュアルな演奏解釈が傑出している。その中でも最も心を打たれるのは、フランク・モーガン名義のアルバム『You Must Believw in Spring』に収められたソロピアノの演奏だ。

 

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2. Like Old Times  / Thad Jones

 

 フラナガンがアンコールで頻繁に演奏した作品。サド・ジョーンズ名義の『Motor City Scene』(’59)や、ヴィレッジ・ヴァンガードのライブ盤(’87 右写真)に収録されている。「昔のように」は、デトロイトの《ブルーバード》のアフターアワーズの楽しさを指すのかもしれない。

 今夜のコンサートでは、昔のフラナガンのように、寺井が隠し持っていたホイッスルを、絶妙のタイミングで吹き鳴らし大喝采を浴び、文字通り「昔のように」笑いが溢れる楽しい締めくくりとなった。

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トリビュート・コンサートの演奏を演奏をお聴きになりたい方へ:3枚組CDがあります。

OverSeasまでお問い合わせ下さい。

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(3)

 朝鮮戦争から故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード・イン》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。そこは 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

<ブルーバード・イン>

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《ブルーバード・イン》、デトロイトの史跡として保存を望む声もありますが今は廃墟に…

  フラナガンは《ブルーバード・イン》を懐かしむ。「もう閉店しています。あんなクラブは、国中探してもないでしょう。NYでさえ、見たことがありません。地元愛と同時に、ジャズクラブには不可欠な支援や応援がありました。デトロイトの至るところからジャズ・ファンが集まってきました。出演バンドも素晴らしかった。サドとエルビンのジョーンズ兄弟、それにベーシストはジェームズ・リチャードソン(カウント・ベイシー楽団に在籍したベーシスト、ロドニー・リチャードソンの兄弟)でした。

  《ブルーバード》では、我々バンドの演りたい音楽を演奏することができて、お客もそれを気にいってくれました。客入りも良かったし、バンドとしての一体感が高まって行くことを実感しました。サドとビリー(ミッチェル)は、当時すでに自分の演奏スタイルを確立していたと思います。エルヴィンのプレイも、今とさほどかけ離れたものではなかった。エルヴィンはバンドの中で、常に最も面白い存在でした。デトロイトにあんなプレイをするドラマーは居ません。(最初は違和感があっても)共演を重ねれば重ねるほど、うまくいくようになる。彼はそういうドラマーです。約一年位その店のハウスバンドとして出演し、客離れが始まると、他所の店に移りました。」

<いざNYへ>

tommyatartsession.JPG 1956年、ケニー・バレルとフラナガンは車でNY見聞に向かった。滞在資金節約のために、最初の数週間はバレルの叔母の家に居thad-jones-during-his-the-magnificent-thad-jones-session-hackensack-nj-february-2c2a01957-photo-by-francis-wolff.jpg候したが、一足早くNY入りしていたデトロイト同郷のサド・ジョーンズとビリー・ミッチェルが、あちこちのバンドリーダーに彼等を推薦してくれたおかげで、新参者は2人とも、すぐに自立することができた。フラナガンはレコーディングに参加し、コンサートに出演、それに今は亡きベース奏者、オスカー・ペティフォードのスモール・グループでライブをこなしている。
 その頃、エルビン・ジョーンズは、バド・パウエルと《バードランド》に出演中であった。ところが、フラナガンがギル・フラーとのコンサートに出演後、そこへ行ってみるとパウエルの姿はなかった。おかげでフラナガンは、仕事をすっぽかしたパウエルの代役として、2週間のギグをこなすことになる。その直後、エラ・フィッツジェラルドから初めて仕事を頼まれ3週間共演。状況は好転していく。デトロイト時代に《ブルーバード》で共演した縁で、マイルズ・デイヴィスとのレコーディングにも呼ばれた。ドラムのケニー・クラークからも声がかかり、演奏場所に行くと、当のクラークはギグにやって来なかった。だが、そのバンドでソニー・ロリンズと出会い、後の共演へとつながっていく。フラナガンはNYのジャズの高波に乗り、多忙を極めながらも、ここぞというチャンスは決して逃さなかった。

<リーダー作に思いを込めて>

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 「エラと共演した後、私はJ.J.ジョンソンのバンドに入りました。1956年から’58年迄、約3年dial_jj5.jpg間です。J.J.はカイ・ウィンディングとコンビ別れして、クインテットを新編成し、かなりきっちりした音楽を目指していました。結成後、たちまちバンドのサウンドは良くなった。メンバーは、エルビン・ジョーンズ、ホーンにボビー・ジャスパー、ベースがウィルバー・リトルです。1957年にスウェーデン・ツアーをしましたが、素晴らしい体験でした。ツアー中、 現地の”メトロノーム“というレーベルで、初リーダー・アルバムを作り、後にプレスティッジがそれを買い上げました。私は、ああいう種類の音楽がとても好きなんです。まもなく、もう一枚トリオのアルバムを作る予定です。ちゃんと用意をして、何らかの想いを込めたアルバムにしたいですね。」

 J.J.ジョンソンのバンドを辞めた時、フラナガンは楽旅に疲れ果て、NYの街に落ち着きたいと思っていた。’58年後半には《ザ・コンポーザー》にトリオで出演、トロンボーン兼ヴァイブ奏者、タイリー・グレンのバンドでは《ラウンド・テーブル》に2年間断続的に出演している。

「まあ、私にとっては良い時期でした。何とか食べて行く収入があり、レコーディングも数多くこなすことができました。ジャズの録音依頼は、おおむね偶発的に舞い込むものでしたから、何をするのか分からぬままスタジオ入りしなくてはなりません。現場に入るや否やリーダーに、『イントロをくれ!』と指示されます。出やすいイントロをあれこれ考えて作るのは好きな方ですが、スタジオに入るなり、イントロ、イントロと言われると、いい加減うんざりします。時にはエンディングまで、こっちで考えて作らなければいけません。だから、世間で”ブロウイング(吹きまくる)セッション”と呼ばれる録音も、私にとってはむしろ”シンキング(考える)セッション”でした・・・

 『予め譜面に書かれた』ことより高内容なことを、ささっと考えて、その場で演奏することは可能です。しかし、即興のアイデアに対する所有権はありません。現場で、そういうことをやればやるほど、同じ成果を繰り返し要求されることになります。「こいつはアレンジがなくても演れる奴だ」と判ると、ずっとあてにされることになるのです。

<コールマン・ホーキンスとの至福の時>

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 フラナガンは《ラウンド・テーブル》に数ケ月出演した後、NY周辺でフリーランスとして活動した後、コールマン・ホーキンスとの最初の共演作を録音した。ホーキンスとの共演は、まさに至福の音楽体験であった。

Editor~~element63.jpg 「ホーキンスは素晴らしくて、一緒に演ることがいつも楽しかった。彼の方も、まあまあ私のプレイを気にいってくれていたと思います。私は、クラリネットとサックスを演っていましたから、彼が名手であることがよくわかります。それに、もの凄く良い耳をしていました。あの年齢で、彼のような思考が出来る人はいません。2枚目のアルバムを録音した後は、ライブも一緒に演るようになりました。彼とロイ・エルドリッジの2管バンドで《メトロポール・カフェ》へ出演したり、コネチカットのハートフォードや、NY州北部のスケネクタディー、果ては南アメリカやヨーロッパまでツアーしました。ライブがない時は、もっぱらスタジオで一緒に演奏していました。ヨーロッパから帰国後は、カルテット編成に縮小しました。ホーキンスのワン・ホーンで一緒に演るのは最高です!彼との共演は本当に楽しかったですし、今もそれは変わりありません。とにかく一緒に居るのが好きなんです。」

1963-02-04.png コールマン・ホーキンスとの活動が小休止すると、フラナガンはギタリストのジム・ホールの誘いを受けた。ちょうど《ファイブ・スポット》が移転し、キャバレー・ライセンスを取得していなかった頃である。ライセンスがなければ、ドラムを入れることができない。そこでホールとフラナガンはベースのパーシー・ヒースと共にドラムレス・トリオで出演することになった。

「こんな編成は、デトロイト以来初めてでした。」と彼は言う。

 「私は、このフォーマットの演奏に夢中になりました。ジムは素晴らしいリズム感があるので、ドラムレスがいい感じでした。出演後2週間ほど経った頃に、レコーディングしておくべきでした。演奏の熱が冷めず、トリオで何が出来るのか、どこまで行けるのかが把握できた時期にね。やがて、二人目の子供が生まれたので、私はエラ・フィッツジェラルドとの仕事を再開しました。」

 伴奏者としてのフラナガンの実力は、数多くのレコードで証明されているが、伴奏の役目は彼に充足感を与えることはなかった。

「最近の自分の演奏は、もうひとつ気に入りませんね。」と彼は言う。

<目指すはエリントン!>

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coleman7.jpg 「伴奏の仕事を少しやり過ぎてしまいました。それが自分のやりたいことならいいんですが・・・ 私の音楽的な理想はエリントンの様なアプローチです。いつか、あれほど聴き手の心を掴む音楽を書ければと思います。つまり、編曲ではなく作曲です。これまで、自分で誇りに思えるような曲は何一つ書いたことがありません。でも、今まで演って来たことを発展させれば、オーケストラ的なものになります。自分で聴きたいと思う音のイメージを、そのまま譜面に書き下ろす能力は、充分身についたと自負しています。例えば、コールマン・ホーキンスのためのバックを書きたいんです。彼をインスパイアするようなリズム・セクションなら書けると思います。私が提供したアイデアを気に入ってもらえれば、きっと凄いことを演ってくれますよ!

 無論、そういう音楽を独力で作るには時間が必要です。これまでは、そういう時間がありませんでした。誰だって即興演奏を重ねていくと、プレイの先が読めるようになるものです。前もって、あれこれ考えるのと同じようにね。何事も、行き当たりばったりに生まれることはありません。頭より指のほうが先に動くということは往々にしてあります。でも、指なりのフレーズは、過去に学習したパターンの反復なんです。実際、そういうことが多すぎます。でも指がたまたま間違った所に行ってしまうと、頭がシャキっと動いて、考えながら弾くようになります。」

 ことによると、将来のフラナガンは作・編曲に向かうのかもしれない。しかしいずれにせよ、これ程妥協をせず、短期間のうちに素晴らしい業績を達成したにも拘らず、現状に満足していない、こんな人物がいるとは思いもしなかった。今回のインタビューでそれが判っただけでも良かったと感じる。

聴き手:Stanley Dance / ダウンビート ’66 1/13 flanagan1164.jpg

(了)

 35才のトミー・フラナガンの発言は、現在の「足跡講座」で寺井尚之が展開するフラナガン論と、驚くほど合致していました。このインタビュー、皆さんはどう読み解きますか?

 

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その2)

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(前回よりつづき)<トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

 静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

<アート・テイタムのことなど>

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    フラナガンにとって、特に思い出に残る場所は、《パラダイス・シアター》(訳注:デトロイトの黒人街の中心に在った映画館兼劇場です。)の少し北にあった《フレディ・ギグナーズ》と言うアフター・アワーズ・クラブ(訳注:ギグが終わったミュージシャンのたまり場となる朝まで深夜営業の店)だった。

 「ジミー・ランスフォード、アール・ハインズ、ファッツ・ウォーラー・・・レコードで愛聴した名手たちを初めて見た場所です!」-フラナガン 

   オーナーであるギグナードが自宅の地下で営業していたクラブで、テイタムもそこに足繁く現れた。テイタムは、良いピアノさえあれば、どんな場所にでも立ち寄るのであった。テイタムの弟子格のピアニスト、ウィリー・ホーキンスが出演していたためでもある。地元の名手であったホーキンスの演奏はテイタムに酷似しており、テイタムや、それ以外にも演奏しようというピアニスト達がスタンバイするまで演奏していた。

 「その頃の私はかなり内気でした。」フラナガンは言う。「まあ、今でもアート・テイタムがその場に居れば、やっぱりそうなると思います。ただし、彼が来ると判っていれば、ずっとその店で粘っていて、実際に弾いてくれるのを待ち構えていました。テイタムがもの凄い演奏をした夜のことは今もよく覚えています。皆すごいと言って、一体どんなコードを弾いていたのか?と尋ねたんです。実は、前座でウィリー・ホーキンスが弾いた一つのコードが気に障ったテイタムが、この曲は「かくあるべし」というコード進行をで、最初から最後まで弾いて見せた、と言うわけでした。すると今度は、テイタムがいかに和声進行に習熟しているかと、皆がわあわあ話し始めた。すると、テイタムは彼らに向き直ってこう言いました。

『デューク・エリントンこそがコードの達人だ!』

  テイタムがどの程度エリントン楽団を聴きこんでいたかは分かりませんが、少なくとも、あらゆるピアニストを熟知していたのは間違いありません。

  私が聴きたいのはテイタムだけでした。なぜなら彼のアプローチは私が探求していることと密接に繋がっていたからです。有り余る才能に恵まれた、真の天才だと思っていました。最初は全盲だと思っていましたが、後になってそうではないと知りました。でも、字や譜面は読めなかったと思います。あれほど凄いピアノ・テクニックをどうやって編み出したのか分かりませんが、彼の演奏する和声構造を聴くと、修練したことは明らかです。彼こそ正真正銘の名人(ヴァーチュオーゾ)だ。名人芸というものは、基本的な修練なしには、絶対に得られない!

  もう1人フラナガンに大きな影響を与えたピアニストがハンク・ジョーンズである。フラナガンがハンク・ジョーンズを初めて聴いたのは、コールマン・ホーキンスとの共演盤だった。

<ソフトタッチ>

hank-jones.jpg 「彼の演奏は、テディ・ウィルソンと同型だと感じました。」フラナガンは言う。「ただし、ハンクはテディをアップデートしたスタイルだった。私はハンクがテイタムの次世代のピアニストであると、常に感じていました。今も、その意見は余り変わっていません。あの頃からずっとハンクの演奏を尊敬してきたし、その思いは自分のプレイに反映されていると思います。あの頃の私は、きっといつかテイタムみたいに弾ける時が来ると思っていましたが、やがて、テイタムと全く同じように演奏する望みはないと思い知った。それからは、ハンクをよく聴くようになりました。バド・パウエルもよく聴きました。(訳注:これらの昔話はフラナガンの高校時代のことです。念のため)良く話題になるタッチの相違は、多分身体的な問題ではないかと思いますが、鍵盤を叩きつけるようなハードなタッチは絶対に嫌です。私の好むスモール・コンボ(ビッグ・バンドではなく)なら、ハードなタッチでプレイする必要は全くないし、とにかく、ハードなアプローチはどんな場合も必要ではないと思います。」

<13才のプロ・ミュージシャン>

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  初期の参加バンドで、フラナガンにとって特に思い出深いのは、中学時代に活動したピアノとサックスとドラムのトリオだ。当時、まだ13才ではあったが、プロに相応しい卓抜した技量をすでに備えており、早くもデトロイトでのギグが次々と舞い込んできた。1947年、ラッキー・トンプソンがデトロイトの町に戻ってくると、ミルト・ジャクソン(vib)、ケニー・バレル(g)と共に、彼のセプテットに参加している。 

  クラブ演奏可能な年齢に達する頃には、地元デトロイトでの仕事場は潤沢で、良いミュージシャンも多数居たものの、多くは名声を求めてNYへと進出した。テナー奏者のフランク・フォスターもこの街にやって来て、軍隊に入る前の2年間を過ごした。彼は “強烈な印象をもたらした。”とフラナガンは言う。 

  PepAda.gifフラナガン自身、1951年から1953年まで陸軍に入隊している。すんでのところで、音楽家等級なしで、一歩兵として韓国に送られるところであった。だが、幸運にも、訓練地のショウでピアニストの募集があり、オーディションを勝ち抜いたフラナガンは特別芸能部(Special Service)に転属となった。彼が居たキャンプ、ミズーリ州、レオナード・ウッド基地では、例のラッキー・トンプソンのデトロイト・バンドの盟友であったバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスとの偶然の再会があった。 

  「彼は、すでに数週間の基礎演習を修了していて、私がホヤホヤの新兵で居ることを知っていました。」フラナガンは回想する。「初めて野営地に向かって行進している時に、ペッパーが現れた!隊列の中の僕を目がけて走ってきたんです。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込みました。 『きっと役に立つよ!』と言って…」 

韓国駐屯を経て除隊、故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。

 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

(つづく)

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その1)

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今日はトミー・フラナガン生誕85周年!

Stanley and Earl - photo by Brian Kent.jpg 来る28日(土)は、当店OverSeasで第26回目の追悼コンサート、“Tribute to Tommy Flanagan”を開催。 この時期に愛奏した春の曲(Spring Songs)など、フラナガンならではの名演目でありし日の巨匠を偲びます。ぜひぜひご参加ください!

 というわけで、今週、来週は、当店OverSeasで毎月開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」が’60年代の演奏解説に入っていますので、’60年代のフラナガン・インビューを掲載することにしました。
 ソースはダウンビート誌、1966年1月13日号、聴き手は英国からNY近郊へ移住しジャズに一生を捧げた歴史家スタンリー・ダンス(左の写真は、アール・ハインズと)。ダンスは”Mainstream”という言葉をジャズ界に定着させ、その知力とペンの力で、多くのジャズメンやビッグ・バンドを、「芸人」から「芸術家」へと正しい評価へ導いた人、その反面、”ビバップ嫌い”ではありましたが、ここでは、好意に溢れた対話を展開しています。



 

 <トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

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 NYに進出して10年、トミー・フラナガンは、卓抜した趣味の良さ、繊細さ、そしてオリジナリティを併せ持つピアニストとして名声を手にした。その名声の源は、ケニー・バレル(g)、タイリー・グレン(tb)、マイルズ・デイヴィス(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、コールマン・ホーキンス(ts)、エラ・フィッツジェラルド(vo)といった様々な主役たちとライブやレコーディングを通じた多岐に渡る活動であるが、それは決して偶然に得られたものではない。

tommy2.bmp ”あらゆる仕事をやってみたかったので。” と、彼は説明する。

 多くのレコーディング参加は、仲間うちの彼に対する好感度と評価の高さを示すものだ。しかし、リーダー作は今のところ、プレスティッジに於るトリオ作品2枚に留まっている。それ故、彼の実力に相応しい知名度が一般のファンには行き渡っていない。

 ”決して目立つことがないんです。” 彼は少し残念そうに言ってから、すぐさま微笑んで付け加えた。”でも、自分が売れるか?売れないか?なんて気にしていません。”

 1961年、ダウンビートのレコード・レビューはいみじくも、「派手にひけらかすことはないが、複数の音楽的ルーツを継承していることを示す演奏家。」と評していた。様々なルーツを踏まえた上でのスタイルが彼独自のものであることは、言うまでもない。

 物静かで控えめな物腰とは裏腹に、フラナガンの談話は、鋭い機知と皮肉が随所にちりばめられ、彼の音楽的信条に反する不合理な仮説や教条を持つ連中に痛烈な一撃を与える。同様に、彼が大尊敬するミュージシャンについて、私が「もう盛りを過ぎたのでは?」と言うや否や、 ”じゃあ、彼の全盛期はいつだと思っておられるのですか?”と、いともクールに斬り返された。すなわち、彼の音楽性は、 尖ったり、押し付けがましさの一切ないものであり、現在も手堅く的を得たプレイは衰えることなく健在であるという所以である。

 1930年 デトロイト生まれ、フラナガンは子供の頃のクリスマスを回想する。-彼が6歳の時、ギタリストの父とピアニストの母に、子供たち全員が楽器をプレゼントされたのだった。

 私には4人の兄と一人の姉が居まして・・・” トミーは言う。”私がもらったプレゼントはクラリネットでした。高校までは、ずっとクラリネットを続けました。高校時代はサックスなどいろいろな楽器をいじくりましたが、主楽器は相変わらずクラリネット、もう少しで首席だったんだ!学校行事、例えば行進などで演奏もしました。ジャズに興味を持ったのはその頃です。当時はベニー・グッドマンが大流行で、兄貴はよくビリー・ホリデイとレスター(ヤング)の共演盤を家に持ち帰って、一緒に聴いたものでした。

 ”自分が聴いて、自分でも演奏したいと思えば、そのまま演奏することができました。まあ、単なる物真似ですがね。クラリネットが、ピアノ上の思考に影響していると思います。ずっとクラリネットを続けていましたが、いつのまにかピアノの方が好きになってしまった。それは多分ピアノ・レッスンを受けていたからです。クラリネットは、学校の教科に近かった。クラリネット教本で勉強するにはピアノに向かうことが必要だったし。”

 さらに、フラナガンは、長兄、ジョンソン フラナガンJr.のピアノの演奏を見て、兄を見習おうとした。ジョンソン・フラナガンJr.は、現在NY近郊で活躍する実力派ピアニストで、ラッキー・トンプソンとレコーディングした”ベイズン・ストリート・ボーイズ“に加入し、’40年代半ばにデトロイトを離れている。

  “兄のように演ってみたいと思って…” とフラナガンは言う。 ”そういうわけで、聴けば聴くほど、ますますピアノが好きになった。そして兄と同じピアノ教師、グラディス・ディラードに就きました。彼女は文字通り、私の家族全員にレッスンをした先生です。通常、彼女の元で修了するのに7年間かかる。彼女は完璧な教師だったから、悪い所をそのままにして見逃すことは決してなかった。

 ”自分で、レッスンの成果が出ていると判ると、上達する過程が嬉しくてたまらない。それでずっと彼女に付いて習った。兄がデトロイトを離れてから数年間は、兄の影響は少なくなりましたが、ますますジャズを演奏することに興味を持つようになりました。

 ”最初は、もっぱらレコードを聴いて影響を受けました。バド・パウエルやその他の人達も、デトロイトに来た時を除いては、全てレコードを通して聴いたのです。生で聴いて感動したのは、スモール・コンボでのチャーリー・パーカーです。メンバーはマイルズ・デイヴィス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチ・・・素晴らしかったなあ。まだ子供だったので演奏している店の中には入れなかったが、横手のドアにへばりついて必死で聴いた。そこは店内よりずっと音がよく聞こえる場所でね。私にとって、特に素晴らしいことは、前もってレコードで聴いたものを、改めて生で聴けるということだった。

 ”ダンスホールに出演する人気バンドも、いくつか聴きに行ったことがあるのだけど、そういうバンドは、レコードと寸分違わぬ様に演奏するんだ。だがバードとディジーのバンドはそうではなかった。当時はホーンに感動しました。もちろんピアニストもいいのだけれど、それ以上にバードとディジーに圧倒されました。自分は、特にフレージングの点で、彼らから大きな影響を受けていると思います。

tatum444.jpg ”その頃の私は、なんとかピアノの腕前を上げようと四苦八苦していたんです。アート・テイタムを聴いてからは、ソロで仕事ができる位うまくなりたいと思ってね。そうして、自分に欠けているのは、テイタムのようなピアニスティックな要素だと痛感しました。それは自分の考え方が余りにもホーンライクで、ホーンのフレーズを引用しているためだと気付いた。ほんの初期のころから、ずっと、リズミックなシングル・ライン中心のスタイルで、分厚いコードのオーケストラ的サウンドを弾きたいと切望するようになった。”

 フラナガンは、最初、テディ・ウィルソンやカウント・ベイシーを愛聴し、その後、やはりレコードで、アート・テイタムと出会う。そして1945年、テイタムがデトロイトを訪れた。

 ”フリーメイソンの寺院でソロのコンサートがあった。”フラナガンは回想する。

 ”途中の休息を計算に入れず、テイタムは1時間半演奏した。お客の入りは余り良いというわけではなかったが、とても熱のこもった演奏だった。二階席の切符しか買えなかったが、二階には僕以外ほとんど人が居なかった。目の前で彼の生の演奏を聴くということが、私にとって、とても大事だった。これまで彼の演奏をよく聴いて知っていて、そういう風に弾きたいと思っていたのだから!”

 (続く)

巨星クラーク・テリー逝く

funeral11021224_927702457254519_1407399710584103427_n.jpg  巨星クラーク・テリー逝く… トランペット、フリューゲル、ポケット・トランペット、ある時は 掌に隠されたのマウスピースだけでの妙技、そして“マンブル(Mumbles)”と呼ばれる独特のスキャット、どれをとっても音楽の喜びに溢れる至高のミュージシャン!バックステージで初めてお目にかかった時に、指をパタパタしながら”ハッロ~~~~”ってめちゃくちゃ可愛い挨拶をされた姿が忘れられません。

 really_big_Jimmy 51ldCZk9cJL._SS500_.jpgクラーク・テリーといえば、もうひとつ思い出があります。寺井尚之と一緒にクイーンズにあるジミー・ヒース(ts)さんのお宅にお呼ばれした時のことです。料理上手なモナ夫人が夕ごはんを用意してくださって、いそいそテーブルに付きました、すると、「ディナーはこのクイズに答えてからじゃ!」そうジミーが言っておもむろにレコードに針を降ろします。

「ヘイ、先発ソロを取ってるのは誰や?3秒以内に言うてみい!」

 ただでさえ大巨匠を前にして緊張してるのに、答えられなかったらどないしょう???…もう泣きそうになったけど、一秒で分かった!”Clark Terryですか?”と恐れながら答えると、”Yeah~! オーライト!!最近はわからんアホがたまに居るんだからな…Damn…”と例の甲高いベランメエ英語。めでたくお祈りをして夕飯にありつきました。

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 CTことクラーク・テリーはジミー・ヒースと大親友、ジミーが刑期を終えた後の初レコーディング”Really Big”にキャノンボール・アダレイ達と共に、プロデューサー、オリン・キープニュースに志願して参加しています。(奇しくも、CTが亡くなった数日後に、キープニュースさんもまた91才で大往生されています。)

 「ジミーのレコーディングなら、いつだって最低ギャラで喜んで参加する!」スカッとした男気のある人です。

 日本じゃ「トランペッターと言えば帝王マイルズ」と相場が決まっているのかもしれないけど、そのマイルズの若い頃のアイドルが同郷セント・ルイスで傑出した実力を誇るCTだった。マイルズがボクシングを好むようになったもCTに影響されたからだし、それどころか、麻薬でボロボロになった宿なしマイルズにホテルの自室を提供し、留守中に自分の所有品を一切合切売り飛ばされても慌てず騒がず、マイルズの父親に連絡して救済するように勧告した大人物です。

<生き神様>

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 CTは、カウント・ベイシー、デューク・エリントンのジャズ史を代表する楽団両方の全盛期に在籍した数少ないミュージシャン。「カウント・ベイシーOrch.は大学で、エリントンOrch.は大学院だった。」と彼は語っている。

duke12.jpg エリントン楽団で一番仲良しだったビリー・ストレイホーンへの追悼盤『…And His Mother Called Bill/エリントンOrch.』での”Buddha”のソロは、哀しみを突っ切った底抜けの明るさと、いとも容易そうな超絶技巧で、ストレイホーンの極楽浄土を描いています。
 独特のスイング感に溢れたMumblesスキャットが人気を呼んだオスカー・ピーターソンとの共演や、バルブ・トロンボーンの達人、ボブ・ブルックマイヤーの双頭コンボなど、活動歴は書ききれませんが、ジャズが下火になった’60年代になると、同胞ジャズメンの先鞭を切って、三大ネットワーク、NBCのハウス・ミュージシャンとなり、人種の壁を破った。そんなCT=クラーク・テリーさんは、米国の人間国宝、ミュージシャンにとっては生き神様!亡くなる数ヶ月前にはウィントン・マルサリス始め数多くの後輩トランペッター達がNYから貸し切りバスを駆って入院先のアーカンソー州の病院で、生演奏付のお見舞いを献上している。

<憎しみを乗り越えて>

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clarkterry_in_karati.jpg CTのコンサートを観ると、底抜けにハッピーなエンタテイナーの顔と、鳥肌が立つほど至芸を磨き抜く厳しいアーティストの顔が、いとも自然に共存している。言葉や人種のバリアをスイスイ越えていく音楽の力で、米国国務省の親善大使として中近東をツアーしたり、クリントン大統領の命を受けて世界ツアーをしました。その音楽の力は、激しい人種差別の波にもまれた末のかもしれません。
 ’30年代からミュージシャンとして各地を渡り歩いたCTは、命の危険にさらされてきました。死別した最初の妻、ポーリーンさんも幼いころKKKの襲撃に遭い九死に一生を得ています。その際、一緒のベッドで寝ていた仲良しの従兄弟は幼くして庭先で吊るされ、酷い「奇妙な果実」になり果てた。

 一方、CTは10代のときに、南部ミシシッピー州をカーニバルの楽団で巡業中の雨の夜、次の公演地へ向かう鉄道の駅で出会った白人に話しかけられて”Yeah.”(Yes,Sirでなく)と言ったのが失礼だと、こん棒で滅多打ちにされた。その男、殴っただけでは物足らず、リンチして吊るしてやると仲間を呼びに走っていった。ぬかるみで血だらけになって倒れているCTを助けてくれたのが、列車の白人乗務員達で、CTを抱え楽団の車両まで運んでくれた。すると、さっきのこん棒男が仲間を引き連れ大挙して戻ってきた。シャベルやつるはしやナイフなど様々な凶器を手にテリーを血眼で探している。すると、乗務員は「ああ、あのニガーか、面倒を起こす厄介者だから、俺たちがケツを思い切り蹴飛ばして、向こうの方へ転がしておいたぜ。」と全く反対の方角に暴徒を誘導し、そのおかげで命拾いしたと言います。

 「殺そうとしたのも白人、命の恩人も白人」CTは、その体験から人種に対する憎悪を抱くことを止めたと言うのです。

 彼が長いキャリアを歩むに連れて、人種差別は少しずつ改善されてきたけれど、その反面「黒人富裕層はバッハやモーツァルトだと、子弟にクラシックは習わせても、ジャズを演奏させることは好まない。全く残念なことだ!」と、晩年は音楽教育に力を入れて各地の大学でセミナー活動を行っていました。11人兄妹での7番目として貧困家庭に生まれたCTは音楽の先生に就くことも、楽器を買ってもらうこともありませんでした。

 ’90年代から糖尿病の合併症で視力が低下して以降、公の音楽活動は減少していきましたが、世界中からトランペット奏者が教えを乞いに彼の自宅を訪れています。2010年、グラミーで生涯功労賞受賞、公の葬儀はNYハーレムのアビシニアン教会で行われた後、ニューオリンズ式の葬送行進がウィントン・マルサリス達後輩ミュージシャンによって盛大に行われました。かつてダン・モーガンスターンは、いみじくも彼をこんな風に評しています。「成功しても、人間的にダメにならなかった男」
 
この男、なんでそれほどハッピーなんだ? funeral11016823_983468061670963_7668005501549149957_n.jpg

彼は余り眠ることをしない。

彼はビッグ・バンドを持ってる。

小さなバンドも持っている。

彼はちびっ子どもに教える。

レコードも作る、

彼はスタジオ・マンだ。

ブツブツ歌う。

この男、なんでそれほどハッピーなんだ?

それは彼がクラーク・テリーだから!

ダン・モーガンスターン

参考資料

  • Downbeat magazine 1967 6/1号
  • Downbeat magazine 1996 6月号
  • I Walked with Giants : Jimmy Heath Autobiography
  • Miles, Autobiography of Miles Davis
  • Clark Terry Obituaries; NY Times, The Guardian, The Telegraph, et al.

あの感動を再び! Akira Tana 4月ライブ決定!

akira_tana1981994.jpgアキラ・タナ:Photo by Jim Bourne

 朗報! 昨年10月OverSeasを感動の渦に巻き込んだドラムの巨匠、アキラ・タナさんが4月10日(金)再びOverSeasにやってきます!

 ご一緒するのは、もちろん寺井尚之(p)と宮本在浩(b)のレギュラー・チーム。スマートでサムライの気迫溢れる夢のピアノ・トリオ!

 前回は、アキラさんがレギュラー・ドラマーとして擁した「トロンボーンの神様」J.J.ジョンソンや、伝説的バンド、ヒース・ブラザーズの名演目、そして震災復興支援の為にアキラさんが率いる日系人オールスター・バンド「音の輪」が得意とする日本の名歌のジャズヴァージョンなどで、ひと味違った演奏を聴かせてくれました。今回は、一体どんな驚きと感動を与えてくれるのか?今からとっても楽しみです。

 前回お越しくださったお客様も、初めてのお客様も、ぜひOverSeasのアキラ・タナを聴きに来てください!

 

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寺井尚之(p)トリオ featuring Akira Tana (ds)

with 宮本在浩(b)

【日時】4月10日(金) 開場:18:00~
MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:00- /3rd set 21:00- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3500(税抜)
当日 ¥4000(税抜) 

(当店は、入場料以外にチャージはありません。ご飲食料のみ頂戴します。)

関連HP:http://jazzclub-overseas.com/concert.html#Akira Tana

3月28日(土) 恒例春のトミー・フラナガン・トリビュート開催!

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     写真は Jazzpar賞のフラナガン:フォトグラファーJan Perssonのサイトより

 今年はトミー・フラナガン生誕85周年、亡くなってからも、「ああ、あの時のプレイはそういう意味だったのか、あの言葉はそんなに深い意味があったのか・・・」と新しいことが判るのが巨匠!何年も経ってから、改めて笑っちゃう落語の名人のオチみたいです。

 そんな我らがトミー・フラナガンを偲んで開催するJazz Club OverSeas春秋の定例コンサート《Tribute to Tommy Flanagan》、今年の春は3月28日(土)に決定しました。

 在りし日の勇姿を思い出す名演目の数々を、寺井尚之(p)が名リズム・チーム 宮本在浩-bass, 菅一平-drums を擁する「The Mainstem」で、心技体整えてお聴かせいたします。初めてのお客様も大歓迎!どうぞみなさまお待ちしています。

 OverSeasでチケット好評発売中! (お問い合わせ Eメール info@jazzclub-overseas.com:TEL 06-6262-3940)

tribute_mainstem.JPG トリビュート to トミー・フラナガンHP

日時:2015年 3月28日(土) 
会場:Jazz Club OverSeas 
〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
TEL 06-6262-3940
チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
前売りチケット3000yen(税別、座席指定)
当日 3500yen(税別、座席指定)

ジーン・アモンズの肖像(2)

 <塀の中のボス>

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joliet7610578.jpg ジーン・アモンズは、違法薬物所持とそれに関連する罪状で、のべ10年間服役しています。最初は、多くのバッパーがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設、通称”NARCO”で2年間(1958-60)。タッド・ダメロンもほぼ同時期に、ここに収監されていましたが、ここから舞い戻ったものの、ジャズメンの多くが、再びヘロインに手を出し、さらに厳刑を課せられることになった。アモンズが典型的な例で、“NARCO”から帰ってきて間もなく、仮釈放中にクラブ出演をしたとして再び拘束され、その2年後には、7年間という長期間をシカゴのジョリエット刑務所で過ごすめになります。ジョリエットという名前にピンと来た映画ファンは我が同士!かの有名な『Blues Brothers』のファースト・シーン、兄のジェイクが入っていた刑務所として、今や観光スポットになっているそうです。

 アモンズの逮捕は、有名人を狙った違法な「おとり捜査」だったと言われていますが、本人は後年、麻薬に手を出したことについて、ボス・テナーにふさわしく、誰のせいにもすることなく、淡々と語っている。

「環境だ、生活状況だ、それに、逃避したくなるような苦悩があるから、ということが原因だという人もいる…だが、私が薬に手を出した理由として、自分で言えることは、『好奇心』だったってことくらいだ。一番肝心な時に、自制心が足りなかった。そして気がついた時には、どうすることも出来ないほど深入りしていたというわけだ。」

 アモンズが「どうすることも出来ないほど深入り」してしまったのは、エクスタイン楽団に居た’40年代ではなく、ウディ・ハーマン楽団からソニー・スティットとコンビを組んだ時期だったようだ。

gallery7.jpg ジュニア・マンス(p)の証言:「私が1951年~53年の軍隊生活を終えてシカゴに戻ってきた時、ジャグは完全な麻薬中毒になっていた。」

 アモンズのヒット作の大部分を制作したPrestigeのオーナー、ボブ・ワインストックは先見の明があったようで、レキシントンから帰ってきたスター奏者、アモンズが活動休止に追い込まれた時のため、シカゴやNYで、せっせと彼のセッションを録音、7年間の服役中に、それらの音源を新譜としてリリースする離れ業をやってのけた。 「親友アモンズのために一肌脱いだ」と言われているけれど、それほどアモンズは売れたのだ。

 アモンズはジョリエット刑務所からワインストックに何度か手紙を書き送っている。そこには、自分の名前が、塀の中に居る間に忘れられないよう、継続的に自分の新譜をリリースして欲しい、そのために録り貯めた音源が枯渇しなければいいのだがという願いが綴られていたそうです

 さて、刑務所の中のアモンズは、ずっと鎖に繋がれていたわけではなく、音楽の実力を買われ、受刑者バンドの音楽監督に任命されます。おかげで、更生教育の一環として団員に音楽を教え、編曲をする傍ら、テナーを持つことを許され、暇さえあればテナーを吹くことが出来た。

 出所前の18カ月間は、レコード・プレイヤーだけでなく、ラジオやTVも視聴することができたので、世相の変化や、音楽の流行、アヴァンギャルドへと向かうジャズの潮流をキャッチしながら、出所したあどんな音楽をするべきか?ということを冷静に見定めていました。

<プラグド・ニッケル>

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 1969年11月、出所後わずか12日目に、アモンズはシカゴの《プラグド・ニッケル》でカムバックを果たしました。満員の聴衆が総立ちになり拍手でアモンズを迎え、全くブランクを感じさせないアモンズ・サウンドに熱狂した!伝説のコンサートに立ち会った評論家ダン・モーガンスターンは、「完全にリラックスして、再びバンドスタンドに戻った幸福感に満ち溢れる演奏だった、」と書いていますモーガンスターンが、幕間にインタビューを行い、現在流行りの前衛ジャズについてどう思うか?と質問すると、「あれは自分の柄には合わない。自分はやっぱり、ジーン・アモンズのままでいたい。」と答えています。

  アモンズは、並のテナー奏者ならヴォリュームの点で食われてしまうハモンド・オルガンを、テナーのバンドで初めて使ったり、ソウル・ジャズという新ジャンルを容易く確立してきました。カムバック後は、一時期アンプを使ってサックスのサウンドをオーバーダブするという流行も取り入れてはみたけれど、すぐに元の自然な音色に戻している。

 カムバックしてから数年後は、がんに冒されながらも、死の3か月前までボス・テナーであり続けました。ラスト・レコーディングは亡くなる年、1974年の3月、プレスティッジには稀な一日のセッションでたった一曲だけの録音。曲目はいみじくも”グッバイ”でした。その2ヶ月後、1974年5月、オクラホマ・シティで、アモンズ・サウンドは、演奏中に腕を骨折するという形で終焉を迎えます。肺ガンの合併症で骨が弱くなっていたんでしょう・・・

 享年49歳。あの重厚さ、あの貫禄のサウンドからは信じられない若さでした。

 死後40年経った今も、アモンズの音色はやっぱり私達の心を掴んで離さない。ヘヴィー級チャンピオンであり続けています。

参考資料》: 米国公共放送 NPR Documentary: Gene Ammons ‘The Jug’

Living with Jazz / Dan Morgenstern

Jazz and Death: Medical Profiles of Jazz Greats / Frederick J. Spencer

Jazz Wax : Gene Ammons :  Up Tight