寺井門下、きんちゃんのベニー・ゴルソン・ライブ・レポート

00_RQT_0251.JPG 関学ジャズ研の伝説的学生ピアニストで寺井門下、サー・ローランド・ハナの演目を大学時代ガンガン弾いていた金ちゃんは、OverSeas長年のお客様ならどなたもご存知の好青年!現在は東京で敏腕営業マンですが、当ブログの「軍師ゴルソン」に興味を覚え、先日東京ブルーノートに出演したTHE QUARTET LEGEND featuring KENNY BARRON, RON CARTER, BENNY GOLSON & LENNY WHITEに行ったよ!とライブ・レポートを送ってきてくれました。

 さすがは寺井門下生、なかなか面白いレポートで私も一緒に聴きに行きたかった!

ということで、本人の許しを得てここに転記させていただきます。

kin-chan.JPG<きんちゃんのライブ・レポート>

・・・先日のInterludeで軍師ゴルソンの功績を紹介されてましたが、
とてもタイムリーでこれは行かねばということで1st&2ndセット通しで楽しんできました。

1. Stablemates
2. Sonia Braga (featuring K.B.)
3. Someday, My prince Will Come (piano trio)
4. L’s bop (featuring Lenny White)
5. You’re My Sunshine (featuring Ron Carter)
6. Cut and Paste (R.Carter作のrhythm change)
7. Whisper Not
Encore. Blues March

 これが1stの演目でしたが、2ndはまさかの1stと全く同じ!!というオチ(笑)
さすがに2ndのアンコールでI’ll Remember Cliffordが出てくるかと期待しましたが、そんな期待をよそに、Blues marchで大団円を迎えたのでした。
 でも、考えてみれば一晩に作曲者本人による1管でのBlues marchを2回も聞けることなんて有り難いなぁとの思いも湧いてきて、85歳を迎えてもゴキゲンに吹きまくるゴルソンの姿を見れて楽しかったです。

 1st&2nd共にほぼ満席で、客層も30代-70代の男女が幅広く駆けつけて大盛り上がりでした。
 (ゴルソンによる次曲のコールで湧き起こる拍手や、各プレーヤーのソロ後にすぐに起こる拍手は、オーバーシーズに匹敵していたと思います!!)

  そして何より、ゴルソンのステージでの立ち居振る舞いが見れたのはとても勉強になりました。
MCのうまさ、ソロ後のバンドメンバーを労う姿には、名バンマス、名マネージャーとしての風格が滲み出ていて、人望の厚さを如実にうかがえました。

 ゴルソンが完全に休んだのは、3と5。2はK.B.をイントロでフィーチャーしといてテーマから加わってました。

 3を始める前のMCでは、「客席のみんなには、マイルスや&コルトレーンの演奏が印象的だろうけども、
このステージにいるメンバーも負けちゃいないよ。聞かせてあげよう! でもワシ抜きのピアノトリオでね。」と言って笑わせてました。

それと、ブルースマーチのイントロではドラムのフィルに合わせて、客席に敬礼をして茶目っ気たっぷりでした。

 あの元気な姿を見てると来年も来日してくれないかなと期待しております。

ところで、オーバーシーズでは田井中さんを迎えられてのライブが凄かったようですね。ブログを読んだだけで、シビれました。無理やり大阪に仕事を作って見に行こうと試みたのですが叶いませんでした(泣)
目下、今度の西の横綱 アキラ・タナさんを迎えられてのライブに行けないか画策中です。

それと、銀太も元気な姿を見せたんですね。(銀太は在NYのベーシスト、田中裕太君、きんちゃんの後輩で、きんちゃん、ぎんちゃんコンビでした。)もう随分彼のプレーを聞いてないので、今どれだけ化けてるのかとても興味深いです。

 長くなりましたが、今年はまだ一度もそちらに顔を出せてないので、年末までになんとか伺いたいです。
季節の変わり目でも何があってもバッパーは体を壊さないでしょうから心配はしておりませんが、お体ご自愛ください。

14.jpgきんちゃん、名レポートどうもありがとう!ご家族と一緒にまた遊びに来てね!寺井尚之ライブのレポートも今度来た時は頼みます!何よりも金ちゃんのプレイがまた聴きたいです。

Big News! Akira Tana 10月ライブ決定!

akira_tana_hisayuki_terai.jpg 先週、ジャズ大使、アキラ・タナさんのお話をブログに書きました。ツアー中、当店のお客様がお世話になったり、色々ご縁もあったり・・・色々あって、「いつかOverSeasに来てください」というお願いが叶うことになりました。

ついさきほど決まったところです!

 10月27日(月)に寺井尚之との夢の共演が実現します

寺井尚之(p)トリオ featuring Akira Tana (ds)
with 宮本在浩(b)

【日時】10月27日(月) 開場:18:00~
MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:00- /3rd set 21:00- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3,000(税抜)
当日 ¥3,500(税抜) 

今年の夏にNYからやって来て素晴らしいドラミングを聴かせてくれた田井中福司さんが、日系ジャズメンの東の横綱なら、アキラ・タナさんサンフランシスコ在住ですから西の横綱!

 巨匠の貫禄あふれるカラフルで歯切れの良いアキラ・タナさんのプレイ、OverSeasに来て実感してください!

関連サイトはこちらです。

CU!

ジャズ大使の夏(1) Akira Tana

akira.jpgtomoP1080324 (2).jpg 今年の夏も、初めての出会いや再会が沢山ありました。その中には「HPやブログを観てます。やっと寺井さんを聴きに来れました!」という方々も!夏季休暇を利用して、東京から来てくださったスワさん、タナカさん、それに名古屋や甲府からお越しくださったお客様、皆さん、お元気ですか?

 7月末には田井中福司(ds)さんをお招きして寺井尚之、宮本在浩と手に汗握るセッションが楽しめました。それに、かつてスーパー・フレッシュ・トリオの「銀太」としておなじみのベーシスト、現NY在住の田中裕太(b)君が一時帰国、大きな成長ぶりを、嬉しく確かめることもできました。

familyP1080293.JPG 常連様達も、この季節は日焼けしてちょっと違った雰囲気です。 夏休みのない当店も、皆さんに楽しい気分を分けてもらいました!

 一番上の写真は、7月末の猛暑日に、久々にOverSeasを訪問してくれた巨匠ドラマー、アキラ・タナさん。

 アキラさんとのお付き合いはもう30年以上!OverSeasでの初演奏は、確か’80年代中盤、ウォルター・ビショップJr.(p)のトリオでしたが、すでに私達は”Heath Brothers”の一連のアルバムでの、カラフルで歯切れのいいプレイを聴いて、すっかり大ファンになっていました。

 アキラさんはカリフォルニア生まれの日系2世、お父さんは、北海道からカリフォルニアに渡り、の日系人のために仏教寺院を建立した偉いお坊さん、お母さんは、皇室の歌会始に招かれたほどの歌人です。

 米国人として英語で育ったアキラさんは、ハーバード大学と、ニューイングランド音大打楽器科で学位を修め、流暢な日本語は大人になってから習得したという秀才です。在学中からボストンのクラブで、ソニー・スティットを始めとする一流ミュージシャンと活躍!寺井の盟友で、同じ頃ニューイングランドでジョージ・ラッセルに指示していた布施明仁さん(g)から噂は聞いていました。

 The-Heath-Brothers-Brotherly-Love-532355.jpg卒業後、アキラさんはNYに進出、その才能をいち早く見抜いたのがテナーの巨匠ジミー・ヒースでした。“Heath Brothers”のレギュラー・ドラマーに抜擢されてからは、J.J.ジョンソンを始め多くの一流ジャズメンと共演、その後、ルーファス・リード(b)との双頭コンボ、TanaReidを結成、ドラマーとして、またプロデューサーとして大活躍。日本のFM局のパーソナリティとしても人気を博しました。

 ジミー・ヒースやジュニア・マンス達が好んで日系、アジア系のプレイヤーを起用するようになったきっかけは、アキラさんの実力と共に「和を尊ぶ」人間性に惹かれたのではないでしょうか?

MI0001983223.jpg  ここ最近は西海岸のアジア系音楽シーンのリーダーとして、古巣のサンフランシスコを拠点に国際的な演奏活動と後進の指導を続けています。

音の輪=Sound Circle>

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 今年の夏、アキラさんは、東日本大震災被災地支援の為に日系人の名手達を集めたバンド「Otonowa=音の輪」を率いて東北の被災地を中心に全国ツアーを敢行。ジャズに無縁な全ての方々に喜んでもらうために「ふるさと」など日本のメロディーをアレンジしたプログラムを用意して、岩手県陸前高田や大槌町など被災地を周り、公演したり学生達とワークショップを開催。最終日には海外特派員協会でも公演し、アキラ・タナとして単独公演もこなすというハードな日程でした。

 OverSeasにやって来たアキラさんは、野外の仮設会場での演奏が多かったせいか、日焼けして一層逞しく、かっこよく見えました。

 「僕達が日本の歌を演奏したらね!地元のお年寄り達が涙を流して聴いてくれたんだよ!!それから一緒に歌ってくれたの!本当に感動した!だから僕のほうが一杯涙を流しちゃった!」と、様々な場所での演奏風景や、地元の皆さんに歓待してもらった沢山の写真と、アキラさんの非日常的な演奏体験に私も感動、涙が出そうになりました。

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 バンドスタンドのアキラさんには近寄りがたい巨匠の風格がありますが、その素顔は本当に気さくで、威張らない人、大切な長年のお友達です。

 

 アキラさん、久々に来てくれてありがとうございました!次回はコンサート・アーティストとしてOverSeasで演奏してくださいね!

 Hi, Akira-san, we are so happy you were here! We are all waiting for you coming back to Japan!

9/14(日)エコーズ・リユニオン開催します!

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 寺井尚之と鷲見和広(b)のデュオ・チーム、”エコーズ”は1990年結成、以来、サー・ローランド・ハナ(p)+ジョージ・ムラーツ(b)の名コンビを模範にしながら、ユニークなプレイを長年展開しました。

 鷲見和広の超絶テクニックを、とぼけた顔でかわす寺井尚之の関係は、漫才で言うならば、ツッコミとボケで、二人の織りなす音のダイアローグはお客様がお腹を抱えて笑うほど面白かった!

 なかなかライブで聴けないサー・ローランド・ハナやジョージ・ムラーツのオリジナルや、ハナ+ムラーツの名盤『ポーギー&ベス』の中の名曲、ベルリンからOverSeasに飛んできてくれて鷲見和広(b)と演奏してくれたウォルター・ノリスさんが書き下ろしてくれた曲・・・レパートリーもユニークなものでした。

echoes.jpg 或る夜、名ベーシスト、アール・メイが、このデュオを聴きに来てくれて二人に言った。

「君たちの音楽は素晴らしい。レコーディングしなさい。いつまでもこんな演奏ができるとは限らないんだ。だから絶対にレコーディングしておくべきだよ。」

 それで出来たCDが『Echoes of OverSeas』(2002年)、この10年後、アール・メイの言ったとおり、『エコーズ』は活動を休止。
 でも、「また聴きたいなあ…」というご要望と、「また演りたいなあ・・・」という想いで、一晩のリユニオンをいたします!

初秋の日曜日、『エコーズ』はどんな会話を聴かせてくれるのでしょう?

拍手を沢山いただけばいただくほど、想造力が豊かになる、大阪弁で言うといちびりな『エコーズ』!どうぞ皆様、お越しください!

Echoes Reunion! 

寺井尚之 Hisayuki Terai (p) 鷲見和広 Kazuhiro Sumi (b)

日時:9月14日(日)7pm-/8pm-/9pm-

Live Charge: 2,000yen(税抜)

ブッチ・ウォーレン:漂泊のベーシスト(後編)

butch-warren.jpgPHO-10Apr08-216628.jpg 1960年代、ケニー・ド-ハム・クインテットでNYデビューを果たし、その後、無二の親友となったソニー・クラークの推薦でブルーノートのハウス・ベーシストとして数々の名盤に参加したブッチ・ウォーレンはヘロインの過剰摂取によるクラークの死にパニックとなり、自らのドラッグ癖と相乗し、精神に破綻を来たしました。時代の寵児として脚光を浴びたセロニアス・モンク・カルテットを退団後、ブッチの父親が彼をワシントンD.Cに連れ帰り、聖エリザベス病院に入院。ピアニストとして地元で有名でありながら、家族のために正業を優先させた父、エディ・ウォーレンは手塩にかけた一人息子の世界的な活躍を、どれほど誇らしく思ったことでしょう。それが僅か数年で「妄想型統合失調症」になってしまった・・・両親の辛さは想像に余りあります。

 ブッチは電気ショックや投薬など、様々な治療で約一年間入院、仲間のミュージシャン達に励まされ、退院後は投薬治療で精神状態を保ちながら演奏活動を再開、アダムスモーガン地区の《カフェ・ロートレック》など、地元のレストランやバーで活動、地元TV番組に演奏者として出演する順調な仕事ぶりで、2度目の結婚もしました。ところが浮き沈みの激しい音楽の世界で精神疾患を抱えるブッチは投薬を嫌い、時として精神に変調をきたします。1970年が近づくと、夜中に一人徘徊する彼の姿がたびたび目撃されるようになります。バンドスタンドでうずくまって涎をたらすというようなトラブルをたびたび起こします。彼を支援するミュージシャン達の忍耐も限界となり仕事を減らしていきました。一旦演奏を始めると、プレイはちっとも錆びついてはいなかったと言うものの、 ジャズを置き去りにする時代の流れの中、ラジオやテレビの修理や掃除夫をしながら、ジャズシーンから彼の姿は再び消えていきました。

 この頃、ブッチのために懸命に仕事を回していた地元のピアニスト、ピーター・エデルマンはこんな風に証言しています。

「私が薬をきちんと飲むか、仕事をやめるかだ。」とブッチに詰問すると、逆に「俺には気が狂う権利すらないのか!」と激高した。

「ブッチは自分の身の周りのことも満足にできないが、しかしプレイは常に確かだった。」

<ホームレスから再び病院へ>

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 2004年頃、ブッチはホームレスになります。シルヴァー・スプリングの低所得高齢者住宅で、夜中に友人と大騒ぎするために、近隣住人から苦情を申し立てられて退去させられた。ベースやジーンズ姿のミュージシャンの中でオーラを放つシックなスーツも失って路上生活、真冬に近隣の商店に忍び込んだとして不法侵入の罪で逮捕。それからは、ホームレスのシェルターや、メリーランド州の更生施設などを転々とし、再び流れ着いた場所は古巣から80キロ以上離れたメリーランド州のスプリングフィールド総合病院の精神病棟だった。一般人の近づきたくない場所であっても、ブッチにとっては屋根もあるしベッドもあり鍵までかかった静寂な安全地帯。それまでの人生で一番安心できる棲家だったそうです。彼は病院で皆に”エド”と呼ばれていた。歯が抜け落ち、ところかまわずひどい咳を撒き散らす、実年齢(65才)よりずっと老けて見える老いぼれ爺さんの正体を知る者は誰もいない。来る日も来る日も虚ろな目つき、楽しみは次の食事と、誰彼なしにせびって、たまにもらえる一服の煙草だけ。エドが他の患者と違うのは、遊戯室のピアノを弾かせて欲しいとしつこく頼むことだけだった。

 或る日、病院のスタッフが面白半分に彼の本名をGoogleしてみた。するとびっくり仰天!ブルーノート・レコードのサイトを始め、数千件がヒット、画像を観るとどうやら間違いないらしい…

「あの歯抜け爺さん、ブッチ・ウォーレンという有名なジャズマンなんだってさ!」

 精神病棟のエドの話は病院中に知れ渡り、彼が遊戯室のピアノを弾くとなると、見物人で一杯になっちゃった!往年の名ベーシストが精神病院にいるという噂はたちまち広がって、スタッフがグーグルしてから僅か数週間、2006年5月21日付けのワシントン・ポストに「ある男と音楽の間に流れる数十年間の不協和音」と題する記事まで掲載された。

<義を見てせざるは…>

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 ワシントンDC在住の一人のドラマーが、この記事を読んで大いに感銘を受けます。DCのロックやブルーズの世界で活躍するアントワーヌ・サフエンテスなる紳士。スクエアな見かけと裏腹に、CD録音経験も豊富で、大のジャズファンでもあったこのセミプロ・ドラマーの本業は、三大ネットワークの一つNBC報道局のワシントンDC支局長、エミー賞まで受賞した敏腕ジャーナリストでした。サフエンテスは一時的美談として取り上げるだけのマスコミとしてでなく、同胞ミュージシャンとして彼に支援の手を差し伸べます。ブッチがカムバックして独り立ちできるように、痒いところに手の届くような活動を展開します。支援を募りベースを調達、ブッチを退院に導きました。同時に過去の印税が支払われるように法的な手続きをし、自局で彼の数奇な人生を紹介した。さらにライブやCDをプロデュース、ニュース番組をやってる著名ジャーナリストが後ろ盾なら、出演を断る店があるわけない。さらにはイラク戦争報道時に身につけたカメラの腕でブッチを撮影、味わいのあるポートレートを販売、 全てが義援金として彼に支払われるようにしてあげた。その活動の一部はHPツイッターFBで確認出来ます。

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 ブッチ・ウォーレンは、思いがけない劇的カムバックの時期に肺ガンの宣告を受けながらも、最晩年まで現役で演奏を続け、2013年10月5日、74才で波瀾万丈の一生を終えました。

 ブッチ・ウォーレンを支援したのは、サフエンテスを始め、往年の彼のプレイに感銘を受けた人々ばかり、彼らの動機の源は、何と言ってもブルーノートのアルバム群で、それがなければブッチ・ウォーレンは人知れず無縁の墓地に埋葬されていたかもしれません。 ブッチが心身を病み、流転の人生を送ったきっかけが親友ソニー・クラークの死であり、ブッチを救済することになったブルーノート作品群へのきっかけもやはりソニー・クラークであったとは…人間の運命とはほんとうに不思議なものです。

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 晩年のブッチ・ウォーレンのミニ・ドキュメンタリーは今もネットで観ることが出来て、セロニアス・モンク4への参加がサム・ジョーンズ(b)によってもたらされたことや、ドラッグのこと、今の楽器も自分のプレイにも不満なこと、NY時代のことなどを独白している。なによりも、彼のベースが、私達に沢山のことを語りかけてくれています。

 サフエンテス氏が制作したブッチの遺作も、HP上で自由に聴くことができます。

「うまくなるには練習だ、練習しなけりゃ。そしてすべての音符が聴けるようにせにゃならん。俺はエリントン楽団のベーシスト、ビリー・テイラーに教わったんだ。全てはメロディーに尽きる。メロディーを聴け!そしてベース音をはめて行けってな・・・」ブッチ・ウォーレン(1939-2013)

参考サイト:

ブッチ・ウォーレン:漂泊のベーシスト(前編)

 「我々の生活は非常に厳しい。バーやクラブを仕事場としているから、常にアルコールやドラッグの危険にさらされる。アーティストとして音楽や人間の本質の探求に熱中すると、一時的に意識を変えてくれる酒やドラッグに溺れて、思わぬ落とし穴にはまる。」ソニー・ロリンズ

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 先週のジャズ講座:「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は歴代のレクチャーの内でもベスト10に入るものでした。フラナガンが激烈な敬愛の情をプレイの中に刻印した『Coleman Hawkins All Stars (Swingville)』に続いて鑑賞したケニー・ド-ハムの名盤、『The Kenny Dorham Memorial Album (Xanadu 125)』はレギュラー・バンド中、ピアノのみスティーブ・キューンに変わってフラナガンが補強に起用されたセッション。作編曲家としても優れた才能を持つKDの「ひねりの効いた構成」を「ごく自然に心地良く」聴かせるレギュラー・バンドのならでは息!例えば”Stage West”はブルースですが、テーマとインタールードを併せ6つのブルース・パターンが万華鏡のように有機的に広がる構成。山あり谷ありの枠組みに縛らるどころか、各人のプレイはその枠があるから、一層自由闊達に流れを変える!これぞハードバップの醍醐味!構成表を見れるから、プレイの面白さのツボをしっかり実感できて楽しかった!
 このクインテットのベーシストが若干20才のブッチ・ウォーレン、ドラムのアーノルド”バディ”エンロウと一糸乱れぬ歩調、ピチカートから弓へ、弓からピチカートへ、間髪入れず移行するテクニックとビートが凄かった!講座で寺井尚之はつぶやいた。「このまま行ったらポール・チェンバースを越えてたんちゃうか…」
 ところが、この4年後、ウォーレンの柔軟なビートはNYジャズ・シーンから完全に消滅していた。

 
<早熟のベーシスト>

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Edward “Butch” Warren (1939-2013)

 エドワード”ブッチ”ウォーレンはワシントンD.C生まれ。母親はタイピスト、父親は電気技師で比較的裕福な黒人家庭の一人っ子だった。父は仕事の傍ら、夜はピアニストとして活動し、自宅にミュージシャン達を快く招いた。幼いブッチはそんな家庭でミュージシャン仲間のセッションを聴きながら育った。家に出入りしていたのはジミー・スミス(org)、スタッフ・スミス(vln)、少年時代のビリー・ハート(ds)、定期的に楽旅でやって来る一流バンドの面々も居た。ある時、デューク・エリントン楽団のビリー・テイラーというベーシストが事情があって自分の楽器をウォーレン家に置いて行っちゃった。その大きな楽器の松脂の香りや魅力的な曲線が大好きになったブッチはナショナル・シンフォニーのコントラバス奏者についてクラシックのレッスンを始めます。最初のアイドルはもう一人のエリントニアン、ジミー・ブラントンで弓とピチカートの大きな美しい音の虜になりました。彼の通う学校は荒れていて喧嘩ばかり、ゆっくり勉強なんかしていられない。音楽の才能に恵まれた子どもにとって「ジャズはサバイバル・ツールだった。」と後年彼は語っている。

 14才で父親のバンドでプロ・デビューして以来、未成年ながら地元ワシントンDCのジャズ・シーンで活躍します。

<ケニー・ド-ハムに誘われて>

4129332634_afbe74bf1a_z.jpg ブッチ・ウォーレンが19才になったとき、早くもチャンスが巡ってきました。メリーランド州に近いワシントンD.C.の北西部で現在も盛業中のジャズ・クラブ《Bohemian Caverns》にケニー・ド-ハムのバンドが来演した時のことです。ベーシストが楽器を置いたまま蒸発し、本番の時刻になっても姿を見せません。その場に居たブッチが急遽代役を買って出ることになりました。演奏が終わってからKDはブッチにこう言った。
「自分でやって行けると思うならNYに出てこいよ。自信がなければ来ない方がいい。」
 まあ、NYでやっていくのは楽じゃないぞ、自己責任だぞ、ということをKDは言いたかったのかもしれません。
 それからしばらくして、正式にKDからNYで共演したいという手紙が届き、ブッチはすぐさまNYへ。ブルックリンの《Turbo Village》というクラブに6ヶ月間出演しました。『The Kenny Dorham Memorial Album 』は丁度この時期に録音されたものですから、レギュラー・バンドとしての旬な演奏内容になっているんですね!出演クラブに因んだ”Turbo”という曲がアルバムのラスト・チューンになっています。
 ブッチは後年のインタビューでこの当時を回想していますが、レギュラーの仕事があったにもかかわらず、その日暮らしの生活で、「イタリア人街に住んでいたけどピッツァを買う金もなかった。」と語っている。金欠だったということは、この頃すでにドラッグに染まっていたのかもしれません。

<ハロウィン・パーティはたくさんだ!>

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 NYの暮らしは楽じゃなかったけど結婚をして家庭を持ち、友達は出来た。一番の親友はピアニストのソニー・クラーク。KDと共演した翌年、クラークが『Leapin’ and Lopin’』(’61)の録音に彼を推薦したのがきっかけで、アルフレッド・ライオンはBLUENOTEのハウス・ベーシストにブッチ・ウォーレンを起用、以来、KDとのリユニオンとなる『Page One』(’63)、デクスター・ゴードン(ts)の『GO!』(’62)など、ハードバップ期を代表する多くの名盤に少しソウルフルになったブッチのクリアで柔軟なビートが光っています。『Leapin’ and Lopin’』では、よちよち歩きできるようになった幼い息子への愛が溢れた”Eric Walks”を収録するほどの優しい父親でしたが、その陰に抱え込んだドラッグの悩みは、どんどん深刻になっていきました。少年時代、「サバイバル・ツール」として強い味方であったはずのジャズが今では家庭や自分自身までを破滅させようとしていました。

 Leapin'_and_Lopin'.jpeg彼が恐れる死神の刃は、まず親友を奪った。’63年1月、無二の親友ソニー・クラークがヘロインの過剰摂取で死亡。場末の”シューティング・ギャラリー”と呼ばれるジャンキーの巣窟での哀れな最後でした。アルフレッド・ライオンに事件を知らされたブッチは妻子を車に待たせて、NYベルヴュー病院の死体安置所に並ぶクラークを確認します。31才のハードバッパーの死に顔は、そのまま自分の未来でもありました。葬式代もないクラークの末路を不憫に思ったパノニカ男爵夫人が葬儀の費用を肩代わりしてくれましたが、そこに送られてきたのはブッチが確認した遺体とは似ても似つかぬ別人のものだった。黒人ジャンキーの死体に、当局が敬意を払うはずもなかったんです。・・・ブッチはこの事件にひどいショックを受け、薬物依存症と相まって、精神は徐々に壊れて行きます。

thelonious-monk-its-monks-time-1964-front-cover-47351.jpg この春、ブッチは時代の寵児、セロニアス・モンクのカルテットに入団、チャーリー・ラウズ(ts)、フランキー・ダンロップと共に世界でひっぱりだこになります。パリ公演や日本公演、ニューポート・ジャズフェスティバル!意気揚々の若手ベーシストであるはずが、日々多忙な楽旅がクスリなしでは耐え難いものだったのか、彼の精神はボロボロになり被害妄想を思わせる状態に陥っていました。

同年の夏、「 こんなバンド、クスリなしでやってられるかい!もうハロウィン・パーティはまっぴらだ!」と捨て台詞を吐き退団。”ハロウィン・パーティ”というのはジャンキーのたまり場を指す隠語で、辞めた後に、ハロウィンのお菓子をモンクに送りつけるという念の入れ方でした。

 
 退団後ブッチはNYを去り、故郷のワシントンDCに舞い戻りました。初冬のワシントンで彼が観たものは、暗殺されたケネディ大統領の葬列でした。

「僕の周りの人間は皆死んでいく、僕もいつか同じ目に遭うんだ!」絶望と混乱に耐え切れず、ブッチは自ら精神病院の扉を叩き、要塞のように堅牢な聖エリザベス精神病院に入院、病名は「妄想型統合失調症」でした。この精神病棟で約一年間、ショック療法や投薬治療などを施されます。

 ブッチ・ウォーレンの残された人生は「カッコーの巣の上で」のような生きる屍だったのでしょうか?(次号に続く)

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When Tommy met Hawk: 『Coleman Hawkins All Stars』

Coleman+Hawkins+-+Coleman+Hawkins+All+Stars+-+LP+RECORD-361107.jpg  今月の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、テナーの巨人、コールマン・ホーキンスとの記念すべき初共演『Coleman Hawkins All Stars』が登場!ホーキンスはフラナガンにとって、数多くの巨匠の内でも最高に敬愛した親分です。

 昨年のフラナガンの誕生日にテッド・パンケンというジャズ・ジャーナリストが、彼のブログ“Today is the Question “に一挙UPしたフラナガン・インタビューで、このセッションが二人のレギュラー活動を決定づける契機になったことが判明!プレスティッジ得意の1テイク録りセッション、そこに今までの叡智を注ぎ込んだフラナガンの入魂のプレイ、ホークのサウンドに心と耳を傾けたバッキングと、清流の鮎のようなソロ!フラナガンのミュージシャン魂ここにあり!演奏中の心の機微、寺井尚之の迫真の解説に私も期待!

 このインタビューは、1994年に、NYのFM局”WKCR”で放送されたもので、フラナガンはパンケンさんを信頼しているようで、デトロイト時代からNYに出てからの数々のエピソードをフラナガン独特の語法で楽しそうに話しています。そこにはフラナガンならではの切り口が光っていて、数あるインタビューの内でも三本の指に入るかもしれません。そこにあった発言を引用しながら、フラナガンが観たコールマン・ホーキンスの言を書いてみます。

<マッチメイカーはマイルズだった>

 ホーキンスはサー・ローランド・ハナからジョー・ザヴィヌルまで、多数のピアニストやミュージシャン達に慕われた。とりわけフラナガンはホークに心酔し、レギュラーを去った後、ホーキンスがアルコールで体調を崩し引退状態になった時にも支援したらしい。

 上のアルバム『Coleman Hawkins All Stars』(’60)の録音時、ホーク55才、フラナガン30才、ジャズ史的には数世代の隔たりがある二人の出会いをもたらしたのはマイルズ・デイヴィスだった。意外!だってフラナガンは、デトロイト時代からマイルズと交流があったものの『Collector’s Item』中のセッション(’56)で、マイルズにブロック・コードを弾けという命令に従わず、それ以来レコーディングで使われることもなかったのですからね…。

 パンケンのインタビューでフラナガンはコールマンについて次のように語っている。

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 TF:  コールマン・ホーキンスとの出会いは、《バードランド》だった。実はそこに居たマイルズ・デイヴィスが僕を紹介してくれたんだ。マイルズは人を結びつける達人だ!「コールマン、トミー・フラナガンを知っているかい?」と水を向けてくれたんだよ。

コールマンは「Yeah、もちろん知ってるさ!」と言ってくれたから嬉しかったね。でも本当は一度も会ったことがなかったんだ。一体どこで僕の演奏を聴いてくれたんだろう?彼がデトロイト出身のピアニストが好きなことは知っていたけどね。ベテランの巨匠で、初めて一緒にレコーディングしたのがコールマンで、その時の僕のプレイを大いに気に入ってくれたんだ。

 *これが『Coleman Hawkins All Stars』!マイルズって思った以上にいい人ですね。

<レギュラーバンドの結束>

 だって、僕はコールマンのレパートリーをよく知っていたもの。生まれてこのかた僕は彼のレコードをずうっと聴きこんでいたんだから当たり前さ!このレコーディングの後、コールマンはロイ・エルドリッジと一緒に出演していた7thアヴェニューの《メトロポール》で僕を使ってくれた。それからツアーにも同行した。ノーマン・グランツの初期JATPで6週間の英国ツアーだった。リズムセクションは僕とメジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)、その間に、この小さなバンドはとてもタイトなサウンドになった。

 *『Coleman Hawkins All Stars』のセッションは1960年1月で、英国楽旅は同年の11月から年末まで行われていました。下の写真がホーク親分とフラナガン、ホリー、ロックの腹心の子分たち。

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 コールマン・ホーキンスのミュージッシャンシップには感服するのみだ。彼は音楽に関するありとあらゆることを知る生き字引だ。やることなす事、彼の全てがすごかった。僕達は市販のシートミュージックを渡されてそれをレコーディングする、という仕事をよくやったんだけど、彼はどんなクレフのついた譜面でも即座に読んで、スコアにある情報を完璧に収集し、どんな曲も初見の1テイクで演ってのけた。
 *『Moodsville』の名盤はほとんどそういう録音だったというから恐ろしい…

 沢山の録音経験を重ねてわかったことだが、録音の際、完璧に準備した上で演るというテナー奏者がいる。そういうテナー奏者は、往々にして、1テイク以上録音しようとしない。コールマン・ホーキンスもそういう人種だ。あの有名な “Body and Soul.” もそういう録音で、恐らくは1テイクだ。二度とは出来ない、そういうプレイだ。

TP(テッド・パンケン): でも、彼はあなたともしょっちゅう”Body and Soul”を演ってたんでしょう?
TF: Yeah,
TP: それで毎晩演奏内容が変わるんですか?違うプレイを演るというんですか?
TF: もちろん!
TP: 本当に?毎晩、全てが変わるんですか?
TF: ほとんど変わらないのはエンディング・コーダだけだったよ。 (歌ってみせる)つまり、ラストは曲とは別もの だからね。まあ、どえらいミュージシャンだった!

 それに彼は若いミュージシャンに対してとてもオープンだった。彼は、誰よりも早く、モンクこそが聴く価値があり学ぶべき音楽家だと看破した。モンクがすごいということを皆に伝えて注目させた最初の人だ。 僕はコールマン・ホーキンスのそういうところが大好きなんだ。彼がそうしてくれなかったら、モンクはあそこまで大きく成れなかっただろう。勿論、ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィス達、若手達と交流し、彼らの音楽を紹介した。

Coleman Hawkins 10.jpg

  一方、オフステージでは人間としての模範だった。酒のたしなみ方、洋服の着こなし、全てを教えてもらった。彼の酒の趣味は最高だったし、酒を飲んで、酒に呑まれない方法は彼から学んだ。教えてくれた。音楽的にも、人間的にも、ほんとうに素晴らしい人だったよ!

 明治生まれの巨匠、コールマン・ホーキンス再発見!ホークの人間として素晴らしいところ、ビッグなプレイはこれから「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」にどんどん登場します。

バップ・ドラマー田井中福司 礼賛 :Live at OverSeas

fukushi_tainaka_solo.JPG 海外のジャズ・シーンでは”Fuku”というニックネームで知られる田井中福司さん、NYを本拠に”The Master!” “Amazing!” “Brilliant!” と最大級の賛辞で形容されるバップ・ドラムの巨匠です。バップ語法を自由自在に操る強烈なドラム・ソロにはフィリー・ジョー・ジョーンズから受け継いだヒップで危険な魅力が一杯!ライブで感動した人たちの口コミでファンがネズミ算のように増え、お里帰りには日本全国各地のジャズ・クラブから引っ張りだこ、そんな超過密スケジュールの合間を縫って、OverSeasで寺井尚之(p)とのピアノ・トリオが実現しました。ベテラン2人の間に入るベーシストはお馴染み宮本在浩、今回のライブをお膳立てしてくれたのは、田井中さんのプレイと人柄に心酔するザイコウさんでした。

 ジャズ界の人間国宝、ルー・ドナルドソン(as)のレギュラーを努めてほぼ30年、NYの第一線で34年といいますから、もう完璧なNew Yorker!とはいえ、久々にお目にかかった田井中さんは、熱い湯の風呂から上がったばかりの粋な江戸っ子みたいな颯爽とした出で立ち、折り目正しくて、調子よく喋らない。黙っていても発散されるプロ中のプロのオーラに身が引き締まります。

 寺井尚之は田井中さんより2才上、今日の共演をとても楽しみにしていました。あっという間にドラムをセッティングして、簡単な打ち合わせの後、じゃあちょっとだけサウンドチェック、ということでOverSeasではおなじみの、”Mean What You Say”を。日頃からドラムのフィル・インをフィーアチュアするサド・ジョーンズのナンバーで、田井中さんがこの曲を演るのは初めてだったそうですが、そのブラシの切れとコントロールの良さ、フィル・インの華やかさ、集中力の凄さに鳥肌がたちました。 

 平日にも関わらず、客席はミュージシャン、常連様、田井中ファンで満員、「田井中さんと演ると、いつもと違う寺井さんが聴けるのかな?」「ガチで演ったらどないなるんやろ?」色々な声が聞こえてきます。数日前に熊本で共演した古荘昇龍(b)さんや、NYで薫陶を受けるベーシスト、田中裕太君の姿も!

 キレのある田井中さんのドラムスの音量は、想像していたよりずっと小さく、しかも超明瞭、ドラムと同じようにソフトタッチを身上とする寺井尚之のピアノの美しさを際立たせてくれます。故にダイナミクスが大きくて、クライマックスは夏の夜空の大輪の花火が上がったように華やかで、聴く者を酔わせます。ベースソロでは、田井中さんの掛け声が絶妙に入り、宮本在浩のプレイが冴え渡りました。ザイコウがあんなに陶然とした表情をしたことあったかしら?

tainaka_sanP1080254.JPG 店の奥では、ギターの末宗俊郎さんが冷蔵庫の前で、喜んで踊りっぱなしです。おしぼりの小さなかごを両手で握りしめて必死で聴いてるお客さまもいましたよ。伝説のドラムソロが聴ける”Cherokee”では、冒頭のインディアンの雄叫びが客席に飛び火して場内騒然!

 お客様の熱気と対照的に、丁々発止のベテラン2人は音楽でジョークを飛ばし合いながら、汗ひとつかかず涼しい顔。これが田井中福司、寺井尚之という2人のバッパーの似ているところです。

 田井中福司さんのドラミングはOne and Onlyの田井中さんならではのアート!真正バップの磨きぬかれた技量は勿論ですが、その技量の見せ方は、”Cool”と英語で言うよりも、「美」「技」「心」が一皿に盛られた一流割烹の和食のような清々しさを感じました。本場NYで長年愛されている秘訣は、案外、ドラミングの中に光る「日本の美」にあるのかも知れません。

 田井中さんは8月24日まで日本全国で演奏予定です。まだ聴いたことのない人は、ぜひ足をお運んでみてくださいね。

田井中福司2014夏季日本ツアー予定表はこちら

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=セットリスト=

<1>
1. Crazy Rhythm
2. Out of the Past
3. Mean What You Say 
4. If You Could See Me Now
5. Scrapple from the Apple

<2>
1. What is This Thing Called Love?
2. All the Things You Are
3. Lament
4. Just One of Those Things

<3>
1. Lady bird
2. It Don’t Mean a Thing
3. In a Sentimental Mood
4. Cherokee 

Encore: A Night in Tunisia 
      Dry Soul

 

The King of Cartoon:ウィリアム・スタイグの話

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 先週来られたお客様のスマホケースに目が釘付け。コロンビアの稀少盤『Jazz Omnibus』のイラストがすごくおしゃれ!このオムニバス盤に収録されているSmoke Signal”は、Donald Byrd/Gigi Gryceの双頭コンボ”Jazz Lab”にTommy Flanagan、Arthur Taylorが入り颯爽とスイング!小粋でユーモラスなジャケットも好きだった!

 高級車から降り立つマダムはミンクのコート、気取って手にするのは、エルメスのバッグではなくトランペットのケース、お付には、お犬さまを抱えたお抱え運転手、制服を着たドア・ボーイが開けるドアには「ジャムセッション」の看板!ありそうでなさそうな、古き良きNYの一コマが、ジャズクラブの張り出しテントが作り出すフレームにすっきり収まっている。

 その常連様が教えてくれました。「このイラスト書いたんはウィリアム・スタイグやねん。」ふーん、そういえば、トミー・フラナガン愛好会のご夫妻が山中湖で営む「森の中の絵本館」にジェレミー・スタイグ(fl)のお父さんの絵本があるって言ってたな…ウィリアム・スタイグってどんな人なんだろう?

 William Steig (1907―2003)William Steig, c 1930s.jpg

  1960年代、Newsweekはウィリアム・スタイグに the “King of Catroons” という名を献上。つまり「漫画王」!1930年以来、記事のクォリティの高さで世界中で読まれたタウン誌”The New Yorker”に、スタイグが描いた表紙や一コマ風刺漫画の総数およそ2,700点、上に掲げた『Jazz Omnibus』を始め、傍系Epicのジャズ・レコードのユーモラスなアルバムジャケットを始めとするコマーシャル・アートや、潜在意識をテーマにしたユニークなイラスト集、、それに木彫の彫刻、さらには、児童文学の名作群、彼の創造したキャラクター、”シュレック”はアニメとして大ヒット! “Shrek!”とは、ユダヤ系移民の言葉、イディッシュ語で「恐い!」という意味なんですって。

 <実業家になるな。労働者になるな。>

7years_itch.jpg スタイグは移民二世、ブルックリン生まれでブロンクス育ちの典型的ユダヤ系ニューヨーカーだった。兄弟全員絵心があり、なんともユニークな経歴の持ち主ばかり。アーサー(Arthur Steig)はイラストレーターであり詩人、後にアーティスト向けの画材屋を営み繁盛した。ヘンリー(Henry Anton  Steig ) はイラストレーターでジャズ・ミュージシャン、独学でダイヤモンドの加工に習熟、人気ジュエリー・デザイナーになった。余談ですが、マリリン・モンローのスカートが舞い上がる『7年目の浮気』の歴史的名シーンはレキシントン・アヴェニュー52丁目にあったヘンリーの宝石屋の前で撮影されている!(マリリンのスカートの中以外に場面のディテールを観る人は少ないだろうけど)、Steigのジュエリー工房は映画遺産になりました。

 さて、スタイグ家のアーティスティックな系譜は、オーストリアから移民してきたポーランド系ユダヤ人の両親のDNAと教育法にあったようです。お父さんはペンキ職人、お母さんは裁縫師という職人夫婦で根っからの社会主義者、2人は子供たちをこう言って諭しました。

「大きくなっても労働者になってはいけない。労働者は資本家に搾取されるから。実業家にもなってはいけない。労働者を搾取して儲けるなんてもってのほかだ!」

 WilliamSteig_NewYorker_1950-12-16.jpgだからスタイグ家の子供たちには、アーティストが、一番身近な職業選択肢だったようです。ウィリアムは高校生の時から生徒新聞で名漫画家として鳴らし、卒業後はNY私立大学やいくつかの美術学校に通うものの、どうも長続きしなかった。そのうち大恐慌でお父さんの仕事が激減、必然的に長男のウィリアムが稼がなくてはならなくなった。大恐慌の翌’30年、幸運にも”The New Yorker”が、まだ駆け出しの彼の風刺漫画を40ドルという大金で買ってくれて、まもなく雑誌お抱えの漫画家となります。’31年には、彼の描くユーモラスなキャラクター「Small Fry (じゃりんこ) 」が人気を博し、以来30年の長い間、じゃりんこ君達は”The New Yorker”の表紙や紙面を彩ることになりました。後にビング・クロスビーの同名ヒット曲の収録アルバムに、このキャラクターが使われています。

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  スタイグの作品はネット上に無数にあり、日本人の私も笑えて、知的なNewYorkerみたいな気分にしてくれる。色々な絵をしげしげ眺めたおかげで、このエントリーを書くのに思いの外時間がかかってしまいました。

 他にも、スタイグは「ジャズ・ミュージシャン」を意味する”Cats”のキャラクターを使ってEpicのジャズ・シリーズに様々デザインを遺した。音楽内容とは、さほど関係はないにせよ、大人カワイイものばかり。

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<心理学的ドローイング>

659625_640.jpg スタイグはユーモアに富んだ楽しい人だったらしいけれど、自分の心の闇と格闘し、それをイラストで表現した。 reich1.jpg 最初の結婚がうまく行かなくなりノイローゼになったスタイグをカウンセリングで救ったのは、精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒという人で、彼の理論に心酔したスタイグは、サイコロジカル・ドローイングという新たなジャンルを開拓しました。このライヒがまたぶっ飛んだ科学者で、調べていると、またまた時間の立つのを忘れるほどです。フロイトの弟子であったライヒは、潜在的な性的欲望が人間を支配するという原則に立つ精神分析や、性的オーガズムを物理的エネルギーとして捉えるというユニークな「オルゴン理論」を展開しました。まるでウディ・アレンの映画みたいでしょう!  彼は上のイラストみたいな「オルゴン・ボックス」に籠るエナジー療法を提唱し、アルゴン理論は共産主義やUFOにまでリンクしていく。つまり、私のような凡人には摩訶不思議なマッド・サイエンティストで、実際、ウディ・アレンは”The Sleepers”というSFコメディでこのボックスをパロディ的に使ってた。ライヒは思想弾圧を逃れて米国に亡命したものの、結局、詐欺罪で投獄され、スタイグの経済的援助も虚しく、’57年に獄中死した。

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 上、左:「あこがれ」 右:「子ども時代の思い出/キャンデイを持ってきてくれた女の人」「子どもが観る父親の姿」(作品集”About People”より)

  “The New Yorker”の編集者の一人は、スタイグの心理学的なドローイング・スタイルが、”The New Yorker”を、更に高級な文芸誌に変貌させたと証言しています。それほど強い影響力を持つイラストレーターだった。

<児童文学へ>

 
jeremy1388689785_car-feber.jpg スタイグは93才で亡くなるまで4回結婚している。私の知ってるジャズ・ミュージシャンは2回宗教を変え、結婚歴も(少なくとも)4回あるけど、決してめんどくさい人ではなく、穏やかな正確で、誠実かつ真面目な人です。納得の行くまで人生を追求するタイプなのかも知れません。

 スタイグと最初の奥さんとの間に出来たのが、フルート奏者ジェレミー・スタイグで、彼の画才はフルート以上かも…左のアルバム・ジャケットもかなりなものですよね。ウィリアムが下書きせずにインキで直に描く手法へと移行したのは、この息子のアドヴァイスからだった。

 スタイグは、60才にして娶った4人目(で最後)の妻と93歳で亡くなるまで連れ添った。彼女は作家兼ヴィジュアル・アーティストのジーン・ドロンで、妻に乞われるまま、児童文学の世界でも新境地を開きました。

 おなじみの「みにくいシュレック」は、ジーンの簡単な描写から遊び半分で作ったキャラクターでした。その他にも「Doctor De Soto / 歯いしゃのチュー先生」「Amos and Doris / ねずみとくじら」などなど、殆どの作品が日本語に翻訳されています

9780312367138.jpg  挿絵やジャケット、一コマ漫画、どれを見てもスタイグの作品は、優れたジャズ・ミュージシャンのプレイのように、メッセージが明瞭で、絵としても面白く、すっきりまとまっています。キャプション不要の稀有なイラストレーター、スタイグが愛したアーティストは、ピカソやゴッホ、そしてレンブラント!彼の作品を観ると、素人の私にもなんとなく頷ける。
 93才まで、ほとんど現役で活躍したスタイグは、自身の内なる闇との戦いの勝利者だった。悩みに勝つ秘訣は彼の書いた童話に隠されているのかも知れません。だって彼の童話に出てくるヒーロー達は悪者を殺さない。悪者は降伏するだけ。それでハッピーエンドなんだって!

めでたし、めでたし。

8/2(土)特別企画:トミー・フラナガン・ジャズパー賞を映像で!

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 1993年、トミー・フラナガンは、毎年デンマークが、最も優れたジャズ・アーティストに贈る「ジャズパー賞」を受賞しました。

 「(他所ではイマイチだが)日本人好み」だとか「地味」だとかいう風評を吹っ飛ばす北欧での快挙にバンザ~イ!という感じでした。

1341.jpg 同年4月に、コペンハーゲンで開催された受賞記念コンサートは、フラナガンのお気に入りの北欧ではレギュラー同然のベース奏者、ジェスパー・ルンドガードとルイス・ナッシュ(ds)、そしてデンマークの名手達で特別編成されたJazzpar Windtetや、北欧を代表するテナーの巨匠、ジェスパー・シロの共演、フラナガンの絶頂期を象徴するライブ・レコーディングの一つとしてCD化されているのは、皆さんも御存知の通りです。

 トミー・フラナガンは、ジャズパー賞の賞金200,000クローネで、フラナガンが愛する作曲家、サド・ジョーンズ集という、レコード会社が決してウンと言わない企画を自費で録音、『Let’s play the music of Thad Jones』も、私達終生の愛聴盤となりました。 

  実は、このジャズパー賞ガラ・コンサートの模様が、なんとデンマークの公共放送で特別番組として放映されていたんです!CDでゲスト演奏しているジェスパー・シロがホスト役!CDで聴くだけだったコンサートが映像で観れるというフラナガン・ファン感涙の番組!それを、お盆にさきがけて、8月2日(土)の楽しいジャズ講座で、皆で観ることにしました。

 トミー・フラナガン・ファン 全員集合!ぜひ一緒にフラナガンを偲びましょう。

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【日時】8月2日(土) 7pm-

【受講料】2,000yen(税抜)

楽しいジャズ講座の予定表はこちらです。

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