転送メール:贈る言葉

Walter_Norris-germany.jpg  OverSeasが愛する「ベルリンの巨匠」ウォルター・ノリス先生は、来月、故郷(米アーカンソー州)で開催されるコンサートやクリントン元大統領主催のリトル・ロック映画祭に自分のドキュメンタリーフィルムが上映されるなど、渡米の準備で超多忙のはず。なのに「このスピーチを皆に回覧せよ!」とミッションが来ました!
 
 それはボストン音楽院(Boston Conservatory)の新入生の父兄に対しての歓迎スピーチ。ボストン音楽院は、MLBレッドソックスの本拠地フェンウエイ・パークのすぐ近くの学校で、クラシック主流、講演者のカール・ポールネック先生は当学院の主任教授でありクラシック・ピアニストです。
 「音楽」の価値や意義は何なのか?子供を「音楽学校」という非実用的な場所に送り出していいのだろうか?そんな不安を持つ父兄達に、古代ギリシャの音楽認識や、ナチ収容所で作曲されたメシアンの四重奏、そして講演者自身の神秘的な音楽体験を通し、「音楽の意義」を伝える誠実なスピーチは、ノリス先生の語り口を思い出すものでした。
  ただ、フラナガン達を育んだデトロイト公立校の音楽教育が、「職業選択肢が限定された黒人の子弟に、社会で困らないような専門職を身につけさせる」という理念であったことを知るInterludeとしては、お金持ちの子弟が集まる私学は世界が違うな、という感じは否めません。でも、音楽のルーツを考える上では、「寺井尚之ジャズピアノ教室」に入門した時に行う理論講習と同様、誰にでも興味深いスピーチなので、英文メールを誰彼なしに転送するより、和訳してInterludeに公開することにしました。
 
   ネット上で調べてみたら、このポールネック先生のスピーチは2003年秋のものでしたが、この3月に同校のサイトに公開されて以来、大反響を呼んでいるようで、多くのブログや、ジャズ系ブログ、”ダグ・ラムゼイのRifftide“にも取り上げられています。
 原文はここに。
 
 下のエントリーに全訳を載せておきます。長文ですがご興味があればどうぞ!
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歓迎の挨拶:カール・ポールナック:ボストン音楽院

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<音楽の効用とは>
 私が音大に入学した時、両親は私の将来について非常に心配いたしました。「うちの息子は社会に音楽家と認められるのだろうか?」「売れない音楽家で終わるのではないだろうか?」ということです。私は理数系が得意でしたので、両親は、医者や科学者になることを期待していました。私が音楽科に進むと言うと、「自分の偏差値をドブに捨てるつもりか!」と母に言われたのを覚えています。多分、私の両親は「音楽の価値」や「音楽の目的」というものを今ひとつよく理解していなかった。二人とも音楽好きで、一日中クラシックを聴いて過ごしていたのですが、「音楽の働き」については定かでなかったのです。
  ですから、今日は皆さんに、音楽の機能について少し語ってみたいと思います。というのも、現在の社会では、音楽を”娯楽-芸術”の枠組みで定義しています。新聞の記事が良い例ですね。しかし子供たちが習うような音楽は「シリアスな」音楽で、「娯楽」とは何の関係もないことを考えれば、娯楽-芸術というくくりは矛盾しているように見えます。
  そこで、私は音楽の効用について語ろうと思います。それを歴史上初めて認知したのは、古代ギリシャの人々でした。これはなかなか惹き付けられる考え方です。古代ギリシャでは、音楽と占星術が、同じコインの表と裏であると理解されていました。占星術は可視的で永劫な外的世界の星の関係についての学問であり、音楽は不可視で内面的な隠されたものの関係を探求する学問と考えられていました。音楽は、我々の心と魂の中にある、目に見えない様々な大きな物体の動きを感知し、それらの位置関係を定めるものであるとみなされていたのです。判りやすい実例をお話いたしましょう。
<生きるための音楽>
   歴史上もっとも深遠な音楽作品のひとつに、フランスの作曲家メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」があります。メシアンはナチの仏侵攻時に31歳でした。’40年、ドイツ軍に拉致され家畜運搬車に乗せられ収容所に連行されました。幸運にも、温情ある看守に出会い、作曲が出来る場所と紙を与えられたのです。その収容所には、彼以外に3人の音楽家がおりました。チェロ、バイオリン、クラリネットの奏者たちです。メシアンは自分も含め、各々の演奏家をイメージしながら四重奏曲を書いたのです。’41年、その作品は、収容所内でに4000人の囚人と看守達の前で演奏されました。現在、作品は傑作として非常に有名です。
  収容所は生き延びるだけで精一杯の場所であります。それなら、何故、まともな人間が、音楽に貴重な時間と労力を費やすのでしょう? そこに居る人々のエネルギーは、水や食料を見つけ、怪我から逃れ、暖かな場所に安住することだけで一杯のはずなのに、わざわざ音楽に労力を注ぐのは何故なのでしょう?収容所のような厳しい場所でも、我々は詩や音楽や絵画を創ろうとするのです。決して熱狂的なメシアンだけに限ったことではありません。極めて多くの人間達が芸術活動をしたのです。それは何故なのか?
  生きることで精一杯、最低限のものしかない場所でも、やはり、芸術は不可欠なものなのです。収容所は金もない、希望もない、商業もない、息抜きも、基本的な尊厳すらない場所であります。それでもなお、芸術は不可欠なものなのです。芸術活動とは「生き残る」こと、精神の一部、自分が誰であるかを表現するという押さえ難い衝動なのです。つまり芸術とは、「私は生きている、そして私の生には意味がある!」と言う手段なのであります。
 「911-アメリカ同時多発テロ事件」の翌朝のことです。当時私はマンハッタンに住んでおりました。あの朝、私は自分の芸術や社会とのかかわりについて、新しい理解を得ました。午前10時、いつものように練習のためにピアノの前に座りました。何も考えず習慣的に、ピアノの蓋を開け譜面を出し、鍵盤に指をおいたのです。が、ふと思いました。
 「今ピアノを弾くことに、いったい何の意義があるのだろう?、この街に昨日起こったことを考えてみろ。ピアノなど、馬鹿げた無意味なことなのではないだろうか? 私などここに存在する意味があるのだろうか?」
 私は途方に暮れたまま、その週を送りました。
「一体自分は再びピアノを弾きたいと思っているのだろうか?」私は悩みました。 
  近所を見ても、その週はいつものバスケットボールで遊ぶ人たちもいない、トランプもしない、TVも見ない、買い物にも行かないといった有様でした。そんな状況の中で、私が見たものは、セントラルパークの消防署の周りで「We Shall Overcome」や「America the Beautiful」を唄っている人々の姿だったのです。やがて、週末にリンカーン・センターで、NYフィルがブラームスのレクイエムを演奏したのを覚えています。つまり、歴史上初の公式な悲嘆の表現は音楽であったのです。その夜から、社会全体が息を吹き返しました。
 この二つの経験から、私は音楽が単なる「芸術と娯楽」ではないことを実感しました。音楽とは決して贅沢なものではありませんし、暇つぶしや趣味などではないのです。
  音楽とは人間が生き残りを求める産物なのです。音楽とは、我々の生に意味を与える術であります。我々が悲惨な体験をして言葉をなくす時、代弁してくれるのは音楽なのです。
 皆さんの中には、サミュエル・バーバー作曲の、心をかきむしられるように美しい「弦楽のためのアダージョ」をご存知の方もおられるでしょう。映画「プラトーン」で使用されていた音楽だといえば判るかもしれません。「プラトーン」はヴェトナム戦争の悲惨さを訴えた映画ですが、観た方なら、音楽がいかに我々の心を開くことが出来るかよくお解かりに成ると思います。
 音楽はあなたの意識下に滑り込み、最高のセラピストのように、心の深い所で起こっている動きに到達することが出来るのです。
<音楽の役割>
 皆さんは今まで様々な結婚式に招待されておられるでしょうが、どんな結婚式でも、音楽の良し悪しに関係なく多少は音楽が流れているはずです。結婚式では、様々な感情の発露があります。そういう時にには決まって、唄やフルート演奏といったものが引き金になるものです。下手くそであったり、良い音楽でなくとも、結婚式で音楽が流れると、何割かの人が涙を流します。何故か?ギリシャ人の言うとおり、音楽は我々の内部の目に見えぬものを動かすことが出来るからなのです。
 台詞だけで音楽のない「インディ・ジョーンズ」「スーパーマン」や「スター・ウオーズ」なんて想像できますか?「ET」を映画館で観ていると、クライマクスで音楽が大きくなると、涙もろい人が同時にすすり泣くでしょう?同じ映画を音楽なしで観ると、同じ現象は起こらないはずです。
<私の最高の演奏体験> 
  もうひとつ、私の人生で最も重要なコンサートのお話をいたしましょう。
私は今までに1000本近いコンサートを行ってきました。その中には大舞台もありました。カーネギー・ホールで演奏するのも好きですし、パリでコンサートをするのも楽しいものです。ペテルスブルグの批評家達に満足してもらえたことも、嬉しい体験でした。高名な批評家や大新聞、外交官達などVIPの前で演奏もしてきました。しかし私の音楽人生のうちで最も貴重なものは、4年前にノースダコタ州、ファーゴの老人ホームで行ったコンサートでした。親友のバイオリニストと共にアーロン・コープランドのソナタを演奏したのです。その曲はコープランドが青年時代の友で、戦死したパイロットに捧げたものです。コンサートでは、プログラムに演奏曲の説明を書くよりも、出来るだけその場で語ることにしています。しかし、この曲はコンサートの最初の曲でしたので、説明を後にして、先に演奏をすることにしました。
 
 演奏の途中で、一人の車椅子に座った老人がすすり泣きを始めたのです。後から、その男性は70歳半ばでも、しっかりした顎や物腰から、長年軍隊で過ごした元兵士だと察せられました。私には、この作品中のフレーズが涙を誘うことに、不思議な気持ちを覚えましたが、この曲の演奏中に何度かすすり泣きが聞こえました。次の曲を演奏する前に、今の曲はコープランドが戦死したパイロットに捧げたものであると説明したのです。すると前列のその男性は非常にバツが悪そうで、今にも退席しそうな様子でした。ですから、私は二度とこの男性に会うことはあるまいと思っていました。しかし彼はコンサートの後、楽屋にやってきて、涙の理由や自分自身について語ってくれたのです。
 「戦争中、私はパイロットでした。ある空中戦で、自分の飛行隊の一機が撃墜されたのです。私は戦友がパラシュートで脱出するのを見たのですが、戻ってきた日本軍が彼のパラシュートの命綱をマシンガンで撃ち、彼は海に堕ちて行きました。  私は、友人が戦死して行く様子を、自分の戦闘機から一部始終目撃していたのです。あなた達のさきほどの演奏を聴いていると、昔の思い出がまざまざと甦り、まるで、あの体験を再び繰り返したような気持ちに襲われました。それが何故なのか全然判らなかったのですが、戦死したパイロットに捧げた曲だと、あなたが説明をされ、もう何とも言えない気持ちになりました。一体、音楽はそういうものなのでしょうか?これはどういうことなのでしょう?何故私の昔の気持ちが呼び覚まされたのでしょう?」
  皆さん、古代ギリシャ人が音楽を、内的要素を関連付ける学問であると定義していたことを、もう一度思い出してください。ファーゴの老人ホームでの演奏は私の音楽人生にとって、最も大事なコンサートになりました。私の演奏が、コープランドの曲を通じて、老兵士の失われた友人の思い出を甦らせたのです。ここに音楽の意義があります。
<音楽家は救命士だ>
 
 さて、数日後、新入生の皆さんに贈る祝辞の一部を、前もって父兄の皆様にもお聞きいただきたいと思います。私は皆さんのご子弟達に、次のような責任を課すつもりです。
 「例えば、本校が医科大学で、新入生の皆さんが盲腸の手術をするような医学生であれば、新入生諸君は自分の仕事に真摯に取り組まねばなりません。午前二時にあなたのいる救急室に病人が担ぎこまれ、その命を救わなければならないのですから。でもこれだけは心に留めて置いてください。皆さんも、いつか自分の出演するコンサートの開演時間に、心も気持ちも、打ちのめされて動転し、疲れ果てた魂を持つ人がやって来ることになるのです。その人の心を立て直せるかどうかは、皆さんの腕次第なのです。
 諸君はエンタテイナーになるためにここに入学したのではありません。自分の技量で金儲けをするために入学したのではありません。本当は、諸君には売るものなどありません。音楽家であることは、中古のシボレーのような商品を販売するのとは違います。私はエンタテイナーではありません。私の仕事は、むしろ救急医療員や消防士や救命士に近いのです。あなた方は、人間の魂のセラピストになるためにここに入学されたのです。つまり、精神の整体師、理学療法士であり、私達の心の内面を見通し、調和が取れるよう、健康で幸せになれるよう、心を整える方法を学ぶのです。
 
 率直に申し上げましょう。諸君は、ただ音楽を習得するのではなく、地球を救ってくれる事を私は期待します。
 もしも地球に平和が訪れ、戦争が終結し、人類に相互理解や平等と公平がもたらされる日が訪れるとしたら、それは、政府や軍事力や軍事協定によるものではないと私は思います。無論、宗教のおかげでもないでしょう。それらは皆今まで平和よりも争いを多く産みました。将来の地球に平和が来るとすれば、我々の眼に見えない内なるものが平穏になる日が来るとすれば、それは芸術家がもたらすものであると、私は思っています。何故なら、我々がやっていることは、そういうことのなのですから。
 今までお話した収容所や同時多発テロの体験が教えるように、芸術家とは、我々人類の「内なる生命」を救う大きな役目を授かっているのです。
(了)

トリビュート・コンサート曲目解説できました!

コンサート前に譜面をチェックするトミー・フラナガン
 こちらは雨模様の大阪です。
 今日は寺井-田中裕太(b)-菅一平(ds)のトリオ、初顔合わせでどんな演奏が聴けるか楽しみ!
 トリビュート以降、ピアニストの骨密度を高めるために、鰯や鯖の骨が入った削り節でお昼ごはんのおでんを炊きながら、やっとトリビュート・コンサートの曲目説明が完成しました。
 チーム・ワークを最優先事項にし稽古を重ね、その結果、個人の美技が際立ったのは、WBCのみならず、今回のトリビュート・コンサートも同じでした。
 あかげで書きたいことがいっぱいありすぎ、削っているうちに早一週間経ちました。スローですみません。
 トリビュートの客席から、魔法を使って名演を引き出してくださったお客様、残念ながら来れなかった皆様、トリビュート・コンサートのCDRを聴きながら静養中のトミー・フラナガン愛好会石井会長、どうぞ覗いてみてください!
 第14回トリビュート・コンサートの曲目紹介はこちらです。
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トリビュート曲目解説もうすぐUP!

  皆様、お元気ですか?
 トリビュート・コンサートの後も、掲示板メッセージや感想メールなど、色々嬉しいお便りをありがとうございます!
 トリビュートの曲説を書いていて、まだ皆さんにお返事しきれずすみません!
 今回はThe Mainstemが、一歩空きぬけたすごい演奏をしてくれたおかげで、「これも書きたい、あれも書きたい・・・」と、寺井尚之のピアノと正反対にコーラス数ばかり増え、ミスノートではなく誤字脱字も一杯で、今スリムに読みやすくしているところです。
 tribute_family.JPG この二人の女の子達は、お行儀のよさと演奏を聴く真剣なまなざしでトリビュートの客席で一番注目の存在でしたね!トリビュートの常連ですから覚えておられたお客様も多かったのでは・・・お父様のKD氏は、独身時代からの常連様、はるばる埼玉からライブに来てくださっていました。
 そのうち可愛い奥様とご結婚され、ベビー・カーに赤ちゃんを乗せてOverSeasのジョージ・ムラーツ・ライブに!だから小さな彼女たちはジャズ通で、ドラムやピアノも得意です。二人とも赤ちゃんの時からお行儀がいいので、私はいつも見習いたいと思ってるのですが、一旦大阪のおばちゃんに出来上がると・・・
 現在KD氏は単身北京に赴任されていて、トリビュートのために北京から飛んできて、埼玉からのご家族と合流!Beijin-Saitama-Junktionは大阪だったのだ!遠いところから本当にありがとうございました!
 今回のトリビュートは、演奏も良かったけど、「お客様が素敵な人ばかりだった」と、色んなお客様に言っていただけてとっても光栄です!!
 トリビュート曲説は今週中にUP予定!
CU

速報:第14回トリビュート・コンサート

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   トミー・フラナガンの誕生月に因んで、今年も3月28日に、恒例のトミー・フラナガン追悼コンサートを行うことが出来ました。
 お休みの中、フラナガンを偲ぶため、一番遠いところでは北京から(!)沢山の皆さんが、予定を繰り合わせ、オフィス街のOverSeasに集まってくださって、素晴らしい夜になりました!
&nbsp寺井尚之(p) – 宮本在浩(b)-菅一平(ds)のThe Mainstem が、この日のために用意したトミー・フラナガンの名演目、スプリング・ソングスが春の到来を告げます。トミー・フラナガンのオリジナルからエリントニアまで、それぞれに、リズムと音色の花が開き、皆の楽しい気持ちが春の香りになって、OverSeasに溢れてました。
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【曲目】
<Ⅰ部>
1. 50-21
2. Beyond the Bluebird
3. Minor Mishap
4. Embraceable You~Quasimodo
5. Lament
6. Rachel’s Rondo
7. Dalarna
8. Tin Tin Deo
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<Ⅱ部>
1. Bitty Ditty
2. They Say It’s Spring
3.That Tired Routine Called Love
4. Thelonica ~Mean Streets
5. Some Other Spring
6. Eclypso
7. I’ll Keep Loving You
8. Our Delight
tr_ippeiCF9207.JPGEncore:
With Malice Towards None
=Ellingtonia=
A Flower Is a Lovesome Thing
~Chelsea Bridge
~Passion Flower
~ Raincheck
 宮本在浩(b)+菅一平(ds)の演奏を久しぶりに聴いて「本当にうまくなったもんだなあ!!」と、つぶやくお客様も・・・本当に二人とも大きくなりました!
 トリビュート常連のお嬢ちゃんたちも、Our DelightやRaincheckに体がスイング!
 今回はジャズ評論家のG先生も東京から撮影係を兼ねて来て下さったので、良い写真を沢山いただきました。(G先生レポートはこちらです。)上の写真も全て後藤誠氏撮影です。
 コンサートに来て下さった皆様、心よりお礼申し上げます!今回のトリビュートにお越しになれなかったお客様からも、いろいろ激励いただき、ありがとうございました!皆さんのおかげで、素晴らしい集まりになりました。
 今回の曲目説明には、G先生にいただいた写真を沢山載せようと思います。乞うご期待!
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CU

春のトリビュート:特別メニュー

spring_cuisineP1020140.JPG  現在、寺井尚之 The Mainstemはリハーサル中:
 私は、おいしい地鶏で、春のトリビュートらしいお料理を仕込みました。
アスパラガスやこごみ、セロリやなす、色んな野菜とトマトで作った、春野菜のラタトゥイユと、ミラノのパスタでいただきます。
スプリング・ソングを聴きながら召し上がれ!
ボナペティ!

トリビュートの前に「青い鳥」の話をしよう:The Blue Bird Inn

     “ビヨンド・ザ・ブルーバード&ジャケットにあった”ブルーバード・イン”の写真
 春のトリビュート・コンサートが間近になり、今も寺井尚之が稽古するピアノの音色がキラキラと響いています。毎週必ず演奏を聴きに来て下さる山口マダムも、すぐ気づかれて「すごいわねえ!力強い音やねえ...ピアノにも超常現象っていうのがあるのかしら・・・」と少女のように目をクリクリされていました。お客様の耳って本当に鋭いですね!
 世界中を回って演奏していたトミー・フラナガンは、「オマエたちのクラブは良いお客さんが一杯いるなあ。デトロイトの“ブルーバード・イン”にもこんな温かさがあったんだ・・・」とよく言ってました。
 トミー・フラナガンが「その頃」を懐かしみ一枚のアルバムまで作ってしまった”ブルーバード・イン”ってどんなクラブだったのでしょう?1950年代のデトロイトにちょっとタイムスリップしてみませんか?
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<タイヤマン5021番地にジャズを聴きに行こうか?>
 トミー・フラナガンの少年時代、デトロイトは活況を呈する自動車産業に従事する黒人の人口が急激の増加し、’50年代には街の総人口の60%を占めて、黒人のコミュニティが確立していたそうで、黒人の経営する商店や会社も何百とあったそうです。
50^old_photo_from_detroit.jpg  パラダイス・シアター左:1950年のデトロイトの街、右:パラダイス・シアター
 上右のパラダイス・シアターは、デトロイト銀座とでも言うべきウッドワード・ストリートにあり、黒人が入れる数少ない劇場&映画館、フラナガンがビリー・ホリディやディジー・ガレスピー、ビリー・エクスタイン楽団を観に行っていた場所です。“ブルーバード・イン”は、このウッドワードからずっと西の方で、黒人街のウエスト・サイドTiremanの5021番地にありました。サド・ジョーンズの”50-21″は、この番地なんです。「タイヤマン」とはいかにも自動車の街:モーターシティらしい地名ですよね!
<黒人の経営する黒人のためのジャズクラブ>
 “ブルーバード”の玄関にて:歴代オーナーの一人、クラレンス・エディンス

 “ブルーバード・イン”がいつ頃オープンしたのかは、私の集めた資料ではよく判りませんが、戦中の1940年頃にはもう営業していたようです。タイヤマンは中流の黒人層の住宅地のはずれにあり、オーナーも黒人、客層も殆ど黒人という、アメリカでも特異なジャズクラブでした。お客さんたちも通ぞろいで、ジャズのことをよく知っていたそうです。
 NYのメジャーなジャズクラブは、客席の7-8割が観光客、地元の人は少ないし、ミュージシャンでない黒人も少ない。それに経営者は昔から白人ばかりです。”ブルーバード”はかなり違った雰囲気だったんでしょうね!
pepper_adams_detroit.gif“カシモド”のエントリーにも登場した私の愛するミュージシャン&コメンテイター、ペッパー・アダムス(bs)の”ブルーバード”評をちょっと読んでみましょう。
 

 “ザ・ブルーバード・イン”は素晴らしいクラブだった。ある意味、特異なジャズクラブだ。絶頂期には、理想のジャズクラブだったと思うよ。
 すごい店だった!雰囲気が良かった。気取りが全然なくてさ。
 見掛け倒しでなく、本当にスイングする音楽があった。クレインズ・ショウ・バー(デトロイトにあった別のジャズクラブ)もちょっと似た感じだったけど、あっちの方が少し高級だったなあ。… ”ブルーバード”のお客さんは99.5%が黒人で、純黒人向けジャズクラブだった。だけど白人の僕でも、居心地が悪いなんて事は全くなかった。
 【デトロイトのジャズ史、Before Motown より】

 フラナガンが出演していた頃の”ブルーバード”は、一番上の写真の小窓の内側がバンドスタンドで、入店できない未成年の少年達は、この窓にへばりついて生演奏を必死で聴いたそうです。その後改装して小さな円形のバンドスタンドに変わったのですが、ピアノはグランド・ピアノでなく小さなスピネット型のピアノでした(!)それでも、フラナガンが最も愛したクラブであったというのは、演奏と125あった客席に座る方々がよほど良かったに違いありません。
“ブルーバード”の向かうはNY
 トミー・フラナガンが”ブルーバード・イン”のハウス・バンドとして出演していたのは、1951年の終わり頃から約2年間のことです。バンド・マスターはビリー・ミッチェル(ts)、そしてサド・ジョーンズ(cor)をフロントに、ベースはアリ・ジャクソン、またポール・チェンバース(b)やダグ・ワトキンス(b)たち、そしてドラムはエルヴィン・ジョーンズ(ds)というドリーム・バンド、ピアノはフラナガンの他に、やはりNYに進出したテリー・ポラード(p)やバリー・ハリス(p)が出演していました。
ビリー・ミッチェルとサド・ジョーンズ ビリー・ミッチェルとサド・ジョーンズ(’56) Francis Wolff撮影
 ビリー・ミッチェル(ts)は15歳でプロデビューし、映画に出演したほどの男前で、当時は、デトロイト・ビバップ・シーンの”最高幹部=エグゼクティブ”と呼ばれていました。フラナガンのアルバム、『Let’s』や、『Detroit-New York Junction』に収録されている”Zec”という軽快な作品は、EXecutiveのヒップな略語なんだよとトミーが教えてくれました。余談ですが、ミッチェルはジャズ以降のモータウンで、スティーヴィー・ワンダーの音楽監督を務めていたこともあります。
 ハウスバンドに加えて、このお店は常にNYで活躍する全国区のゲスト・ミュージシャンが入れ替わり立ち替わりハウスバンドとセッションを繰り広げていました。上のチラシはマイルス・デイヴィス(tp)とソニー・スティット(ts,as)のダブル・ビルになっているでしょう!聴いてみたいですね!マイルス・デイヴィスは、麻薬中毒から立ち直る為にしばらくデトロイトで住み、”ブルーバード”に出演していたので、NYに出て来たフラナガンを即戦力としてすぐに雇ったんです。
 それ以外にデトロイトからディジー・ガレスピーにスカウトされてNYで成功した、「デトロイト・ジャズ界のイチロー」とも言えるミルト・ジャクソン(vib)やJ.J.ジョンソン(tb)、アート・ブレイキー(ds)など数え切れないほどのジャズメンがゲスト出演していました。同時に、ツアー中で他の劇場に出演しているミュージシャンも、必ず”ブルーバード”に立ち寄り、演奏をチェックして、使えそうなミュージシャンには電話番号を教えてコネをつけて行きました。
“ブルーバード・イン”は文字通り、デトロイト-NY・ジャンクション(合流点)だったんです!
 円形ステージで演奏するソニー・スティット、白いTシャツで恥ずかしそうにしている青年は、未来の巨匠チャールス・マクファーソン(as)!
 デトロイトの他のクラブでは、ミュージシャンに服装規定があったり、演奏レパートリーもお店から指定があったりしたそうですが、”ブルーバード・イン”では、店の方から音楽に干渉されることは一切なかったそうです。何故ならお客様たちが、バップをこよなく愛し、演奏者を応援して良い音楽が育つように見守ってくれていたからなんです!
なんとなく親近感を感じるなあ・・・
<トミー・フラナガンの証言>
 トミー・フラナガンは’66年にダウンビート誌のインタビューで”ブルーバード・イン”について、映画『オズの魔法使い』で、ドロシーがオズの国に飛んできた時に口にする名台詞を使いながら、こんな風に語っています。

 “ブルーバード・イン”は素敵なクラブだった!何ともいえない良い雰囲気でね、『もうここはデトロイトじゃないみたいね・・・』みたいな場所だった。というか、アメリカ中探しても、あんなクラブは他になかったろう。NYにもないなあ・・・近所同士の親しさや、ジャズクラブにはなくてはならない『応援してやろう』という温かさがあった。デトロイトの街でジャズが好きな人なら、皆が聴きに来てくれた。そこでやっている音楽は非常に先鋭的なもので、演奏者がケタはずれに良かった。
 “ブルーバード・イン”では、我々が演りたい音楽を演奏することができたし、それを、お客さんが心から楽しんでくれたんだ!

  カウント・ベイシーにスカウトされる前のサド・ジョーンズの凄さにはメジャーなジャズメンが圧倒されました。マイルス・デイヴィスは店の片隅で涙を流し、チャーリー・ミンガス(b)は、「やっと天才を見つけた!」興奮してナット・ヘントフに手紙を書きました。
 デトロイト1の若手ピアニストとして”ブルーバード・イン”で演奏した期間はせいぜい2年ほどですが、そこで得たものは計り知れません。そんな頃に朝鮮戦争への召集礼状が来て、フラナガンと「青い鳥」は決別します。
 “ブルーバード・イン”はタイヤマンの5021番地で業態を変えながら営業を続け、1990年代にもフラナガンは何度か里帰り公演を行いましたが、現在のFlicker.comに、人気のない様子の写真が載っていました。でもかつて演奏が漏れ聴こえた窓はそのままです。
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 やっぱりジャズクラブというものは、お客様の応援がなければ「良いクラブ」になれないんだと、改めて思います。
 サド・ジョーンズが、”ブルーバード・イン”の住所から名前をつけた“50-21”や、フラナガンの“ビヨンド・ザ・ブルーバード”・・・幾多の名曲を生んだ”ブルーバード・イン”で生まれた様々なドラマに思いを馳せながらトリビュートの演奏を楽しみたいですね!
 CU

速報:今夜のエコーズ

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 毎週水曜日のお楽しみ”エコーズ”!今夜は、客席に来られていた河原達人(ds)さんが急遽参加のハプニング!
 EnigmaI Wants To Stay Hereなど、おなじみのエコーズのレパートリーやスタンダード・ナンバーなど、2nd セットから飛び入りとは思えない肩の力の抜けたドラミングで、春らしい華やかな彩りを添えてくれて、大いに盛り上がりました。
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 「WBC優勝記念セッション」・・・というわけではではありませんが、昨日は一日シビれて仕事にならなかったという常連様も来られていて、連日連夜の大喜び!ビールかけが始まりそうな雰囲気になりました。
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   楽しいリユニオンに片隅の私も元気をもらいました!
 皆さま、ありがとうございました。
CU

トリビュートの前にメドレーの話を!”エンブレイサブル・ユー~カジモド”

  トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!

 年月が経ち、改訂を加えて以下のURLに再掲しました。

http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/11/-embraceable-you30youtube.html

ジョージ・ムラーツ、ヨーロッパ・ツアー中

 
 現在、ジョージ・ムラーツ(b)はピアノのニュー・スター、リン・アリエールのカルテット、“ニュアンス”に参加してヨーロッパ各地をツアー中。
  ムラーツ兄さんに加え、ランディ・ブレッカー(tp)を擁したニュアンスという名前のカルテットを組むリン・アリエールは、今年、大きく注目されそうな存在です。
Lynne_Arriale.jpg 赤毛と青い瞳でプレス写真もとっても魅力的な熟女リン・アリエールさん・・・どっかで観たことあるなあ・・・と思ったら、1990年頃に富士通100GOLD FINGERSでトミー・フラナガンと一緒に来日していた、リン・バーンスタインだった!当時は全く無名で、マリアン・マクパートランドが腰痛で降板し急遽代理で出演したはず...私と同い年だったと思います。あれから20年たって、大学で教鞭を取りながらデビューとはやるなあ・・・ 
 “ニュアンス”はすでにレコーディングを済ませており、5月発売予定。ツアーは、オランダ、ドイツ、イタリアなど、3月19日からヨーロッパ各地を回り、4月にはフロリダに出演予定だそうです。
 往年のジョアン・ブラッキーンをシックにしたような感じのプロモーションヴィデオがネット上にありました。ムラーツ兄さんの深遠なる賛辞も聞けますよ!いずれ日本にも来るかもしれませんね!
 明日はお店がお休みなので、フラナガンの遺した名演目、Embraceable You-Quasimodoについてちょっと書いてみる予定です。
CU