コンサート・レポート:ショーン・スミス+寺井尚之デュオ 2/8 ’08

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<目にも耳にも楽しいコンサートだった!>
  NYで地道な活動を続けるベーシスト、ショーン・スミス=寺井尚之の顔合わせは、私にとってすごく楽しみな企画でした。
 当夜、遠くから近くから、大勢来て下さったお客様、どうもありがとうございました!
 日常、新レパートリーを開拓しつつ、一生モノの愛奏曲を熟成発酵させることに余念のない寺井尚之(p)が迎えるゲスト、ショーン・スミス(b)は、作曲家としてグラミー賞にノミネートされるほど、オリジナル曲を書き貯めるベーシスト。彼の持ち込む新ネタの土俵で、真っ向勝負で四つに組む相撲を取るのか?変則技で逃げを打つのか?音楽を良く知るお客様の前で、一夜のステージをどうしつらえるのか…?
 結果は、見た目も絵になる二人のミュージシャンの音楽的な会話が聴く者にちゃんと伝わる、とってもリッチな一夜だった。
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<当夜のレパートリー>
1st
1. Bitty Ditty (サド・ジョーンズ)
2. Lawn Ornament(ショーン・スミス)
3. Japanese Maple(ショーン・スミス)

4. Minor Mishap(トミー・フラナガン
2nd
1. Mean What You Say (サド・ジョーンズ)
2. Strasbourg (ショーン・スミス)
3. Lament(J.J.ジョンソン)
4. Scrapple from the Apple(チャーリー・パーカー)

3rd
1. That Tired Routine Called Love(マット・デニス)
2. Smooth As the Wind(タッド・ダメロン)

3. Poise(ショーン・スミス)
4. Hitting Home (ショーン・スミス)

Encore: Elusive (サド・ジョーンズ)
<段取りはプロの証>
   上の演奏曲目、青字はショーン・スミスのネタで、茶色は寺井尚之のネタ、因縁のアンコール曲=イルーシブ以外は、事前にメールや郵便でちゃんと譜面を交換していたのです。加えて寺井ネタは、何曲かのオファーの中から、ショーンに選んでもらって決めました。ネットって便利ですね!
 かつてトミー・フラナガンにOverSeasで演奏をお願いする時は、午前3時や4時に、何度も国際電話をかけて、回らない頭を英語モードにしてお願いしなくてはならなくて、完全に睡眠不足になってました。
 ショーンが送って来た5曲は、全て彼のオリジナル、それも結構難しい。ショーンの譜面は、いまどきのPCソフトで作ったものでなく手書きでした。寺井は、それらを自分できちっと清書し、毎日稽古して備えました。
 一方、ショーンにとって、寺井サイドの曲は、どれも、彼が20~30代にトミー・フラナガン3で聴き込んだレパートリーばかり、来日時にもテープやCDで予習している様子だった。
 ショーン・スミス&宮本在浩ss-zaiko.JPG当日1時間足らずのリハーサルを予定していた二人、ショーンは、宮本在浩(b)が快く貸してくれたイタリアの名器、コルシーニをかなり気に入った様子だったけど、弦高をできるだけ高めにしました。以前はもっと低かったのに、いつ替わったんだろう?ザイコウさんがOverSeasの掲示板に書いていたように、いつもより張りのある音色、アンプ臭がなくて非常にアコースティック、おかげで寺井の個性ある潤いのあるピアノ・サウンドが、一層引き立ち、よりカラフルな印象を与える。でも、この弦高でElusiveのテーマをユニゾンするというのは、かなりキツいんじゃないかしら…
★宮本在浩(b)とショーンです。
 ジャズが、室内で演奏されるようになり、ウッドベースを使い出したその昔は、ベースアンプなどないし、大きな生音を出す必要から、弦高は高かった。でも、アンプが発達し、無理に音量にこだわらなくてもよくなってからは、ベースの役割がビートだけでなく、メロディへと広がり、弦高は自ずと低くなって行きました。ニールス・ペデルセンやジョージ・ムラーツのような目くるめくような速いパッセージは昔のような高い弦高では難しい。だからといって、弦高を低くしアンプに頼ってばかりいると、ベタベタした頼りない音になってしまうので、ベーシスト達は皆、それぞれ秘密の工夫をしているみたい。寺井尚之と私が、今まで生で観た内で一番弦高の高かったベーシストは、ジョージ・モロウとチャールズ・ミンガス!バキバキとビートが空気を振動させて、男性的な魅力が一杯だったなあ…
 打ち合わせ風景1-duo-1.JPG 寺井尚之とショーン・スミスは、6年ぶりの再会なのに、まるで、毎週会っている友人同士のように挨拶をし、新婚の可愛い奥様を紹介してもらってから、ベースの弦高を調節して、コーヒーを片手に打ち合わせがテキパキ進みます。曲順はどうしよう?各曲のテーマ取りはピアノかベースか?ライブのアウトラインが瞬く間に決まった。この間わずか15分(!)。 
 その後、二人が楽器に向かうリハーサルでは、テンポ、イントロ、エンディング、決めの箇所を、ピンポイント的にチェックして全13曲、あれよあれよと言う間に、格好が付いていく様子を皆様にもお見せしたかったです。万一、言葉の問題があった時の為に、通訳で横に付いていた私もスカっとするリハーサルに、一昨年のジョージ・ムラーツ・トリオのリハを思い出しました。
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<聴き合う心が通う本番!>
 真っ赤なニットから渋いジャケットに着替えて来たショーン・スミス、ネクタイを締めてキメようと思っていたらしいけど、「わしはこのままやで。」と言う普段着の寺井に合わせ、ノータイ姿です。オープニングの“ビッティ・デッティ”から長年一緒にやって来たデュオ・チームのように、こなれたインタープレイで魅せました。“紅葉”(Japanese Maple)というショーンの作品は、色彩を音色で表すのが得意な寺井好みの曲、自分のレパートリーとしてしまうようです。
 セカンド・セットのオリジナル曲、“ストラスブール”は哀愁に溢れる日本人好みのメロディ、寺井門下の“つーちゃん”は、ストラスブールにも3日間滞在したことがあるそうですが、この曲を聴きながら、川面に映し出される夕焼けの心象風景が衝撃的に蘇ったと、印象的なコメントをくれた。ストラスブール ストラスブールは世界遺産のこんな街。
ショーンのアルバム・タイトルになっている、ラストセットのバラード、“ポイズ”も、一筋縄で行かぬ曲だし、軽快なミディアム・バウンスの“ヒッティング・ホーム”は転調だらけで、指使いに工夫をしないと弾けない難曲だったらしいけど、そんな事を微塵にも感じさせぬプレイでしたね。
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 アンコールのお楽しみ、例の“イルーシブ”は、ユニゾンのテーマが、朝飯前のように行ったリハーサルに比べれば、6割位の出来で、ショーンの悔しそうな表情と、狸寝入りみたいな寺井のポーカーフェイスが対照的で、却って印象的だった。近い将来、また二人で演奏して欲しいです。
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 タッド・ダメロンやサド・ジョーンズの難曲でも、ショーンはしっかりしたビートと、自然で洗練されたボトムラインをしっかり受け持ち、ピアノが「ピアノ」として音楽できるようにお膳立てをして行く。ベーシストとしての仕事をきっちりする。寺井はショーンのビートとラインの動きを感じながら、鍵盤のパレットで色んなカラーを作り、ショーンのソロが最もスムーズに流れるように、最高のバッキングで応える。そんな二人のハーモニーがとってもいい感じ。
 普段の生活でも、自分の言いたいことだけ言う人がいますよね。相手が話しているときは、合槌も打たず、時には、話している途中に割り込んだり、自分の話すタイミングだけを待っている人とは、その人の話がどんなに有益でも、ちょっとシラけてしまうけど、今夜の二人は正反対。
   お互いの話に耳を傾け、うまく相槌を打ちながら、話がどんどん盛り上がる、聞き上手、話し上手、楽しい対談を、傍らでふんふんと聴いているような心地よさに浸りました。
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 レギュラー・コンビではないけれど、全編、逃げを打たず、ソリッドなレパートリーで、真摯に聴かせたショーン・スミス=寺井尚之デュオ、ショーンはバンドスタンドに行くと男っぷりが数段上がるミュージシャン、ハイポジションを繰り出すと顔が高潮し、一段と男前!ぜひともまた近いうちに聴きたいものですね!
 帰り際も、何度も丁寧にお礼を言うショーン、昔と変わらない真面目なベーシストだったけど、それ以上に、自分が何をすべきか知っている極上のベーシストだった!皆様、どうもありがとうございました!
 さあ、来月、3月29日(土)はいよいよ、第12回トリビュート・コンサート、このコンサートで調子を上げている寺井尚之と宮本在浩(b)河原達人(ds)の大舞台!
 最後になりましたが、このレポートに掲載した写真は、当夜東京から来てくださったジャズ評論家、後藤誠氏の提供です。G先生、二人の音が聴こえてくるような写真をどうもありがとうございました。
CU
 

サー・ローランド・ハナ伝記(2) 真実一路

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<ハナさん・リターンズ>
 苦労して奨学金を得て合格した名門校、イーストマン・スクール・オブ・ミュージック、しかしローランド・ハナに突きつけられたのは「ジャズ禁止」の校則だった。
 

「クラシックとジャズの間に区別なし。」
「アドリブとは瞬間的作曲法だ。」

確固たる信念を持つハナさんは、名門校に何の未練も残さずさっさとデトロイトに帰郷、翌年、ジュリアード音楽院に合格し、再びNYで仕切りなおしをする。ジュリアードは、テディ・ウイルソン(p)達ジャズの巨匠を講師に迎えるリベラルな校風だから、ジャズ禁止の校則もなかった。以前ブログに書いた、ディック・カッツ(p)さんは、’56年にジュリアードでテディ・ウイルソン(p)に個人レッスンを受けた。マイルス・デイヴィスやニーナ・シモン(vo)も、ジュリアード、後年、ハナさんとNYJQで共演したヒューバート・ロウズ(fl)も同校出身だった。
<ベニー・グッドマンからファイブ・スポットまで>
 ローランドは水を得た魚のように、クラシックとジャズ・シーンを併走しながら、学生生活を送る。ジョージ・タッカー(b)、ボビー・トーマス(ds)とトリオを結成、クラブやTVのジャズ番組に出演するうち、ベニー・グッドマン(cl)に認められ、学校を一時休学し、ベルギー、ブリュッセル万博やヨーロッパ各地を楽旅した。
 後に、ハナさんの来日時、パスポートが期限切れだったのに、「グッドマンと共演した人だったらOK」と、審査官が一発でハンコを押して通してくれたという話は語り草だ。
benny_goodman.jpgベニー・グッドマン(cl)
 ジャズの仕事に流されず、きっちり4年で卒業したというのもハナさんらしい。卒業後は歌手の伴奏者として、サラ・ヴォーンと2年半、エリントンとの共演で有名な盲目の男性歌手、アル・ヒブラーの伴奏者として2年活動し「伴奏者」時代を卒業、グリニッジ・ヴィレッジの有名ジャズクラブ、<ファイブ・スポット>で、チャーリー・ミンガス(b)のバンドに参加、自己トリオでセロニアス・モンク・グループの対バンを務める間に、モンク音楽への理解を深め、後年の名盤、Plays for Monkに結実した。(対バン:クラブなどで、メインの演目の休憩中に演奏するバンド、60年代まで、NYの殆どのジャズクラブには、対バンが入っており、2バンド聴けたのです。)
 
five_spot.jpg ’50年代、Five Spotのモンク・カルテット
  同時期、コールマン・ホーキンス(ts)と出会い、大きな影響を受ける。ヨーロッパ生活の長かったホークはクラシック音楽に対して大きく心を開く巨匠だった。コールマン・ホーキンス親分が声をかけるピアニストはトミーが一番、二番手がハンク・ジョーンズ、三番手がハナさんだったという。ハナさんは後年、コールマン・ホーキンスに捧げた名曲、After Parisを上辞している(Prelude Book 1)。
<初来日>
 ’64年、大映の「アスファルト・ジャングル」という映画音楽の仕事で、カルテットで初来日。同行メンバーは行サド・ジョーンズ(cor)、アル・ヒース(ds)、アーニー・ファーロー(b)、日本で、「自分のビッグ・バンドを持ったらどうか」とサドに助言し、2年後、サド・メルOrch.が生まれた。
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 気がつけば、もう60年代中盤、NYの町に響いていたジャズはビートルズにとって代わっていた。ベトナム戦争が始まり、街の大人達はナイト・クラブに行かずに、夜は自宅の居間でTVを観る生活スタイルになっていく。ジャズメンにとって、クラブ・ギグだけで、食べていけない冬の時代がやって来たのだ。腕のあるミュージシャンの多くは、生活の糧を放送メディアに求めた。トミー・フラナガンは、スタジオの仕事より、エラ・フィッツジェラルド伴奏の道を選び、しばしNYから離れることになる。
 ハンクやサドのジョーンズ兄弟、クラーク・テリー(tp)と言った人たちは、三大ネットワークTVの人気番組の専属バンドのメンバーとなり、メル・ルイス(ds)やリチャード・デイヴィス(b)、ペッパー・アダムス(bs)たちは、スタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を確保した。ツアーがないから、ずっと家族と過ごすことが出来る反面、ジャズの喜びは得られない。
 そこで、彼らはジャズ・メン本来のの芸術的欲求、あるいは快楽のため、ストレート・アヘッドな音楽を損得なしでやろうとした。実力派が、ノーギャラのリハーサルを惜しまず、本番で熱く燃える姿は、結果として、お客さん達を狂喜させることになった。’70年代の新しいジャズのかたちだ。
 この典型が伝説のビッグ・バンド「サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.」だった。デビューまでに、レパートリーを用意し、週一回、スタジオを借りて、リハーサルに3ヶ月を費やした。このバンドの本拠地となった<ヴィレッジ・ヴァンガード>のマンデイ・ナイト、当初のライブ・チャージは、僅か2.5$、バンド・ギャラは一人、たった17$だったという。それでも、毎週演奏場所があるから、バンドのクオリティを何年も保つことが出来たのだ。月曜のジャズクラブは、スローと決まっていたのだけど、サド・メル時代のヴァンガードの月曜は大盛況となったのだ。
 下は、TV番組“ジャズ・カジュアル”でのサド&メルOrch.ビッグ・バンドの醍醐味とハナさん節が堪能できます。

 <サド・メル時代>
  ’67以降、ハナさんは、ダブル・ブッキングを常とする超多忙なハンク・ジョーンズ(p)の後釜として、レギュラーの座に8年間就くことになる。サド・ジョーンズとクレジットされている名曲、A Child Is Bornは、実はこの時期のハナさんの作品だ。
 当時のメンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、ペッパー・アダムス(bs)、スヌーキー・ヤング(tp)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、などなど、様々なバックグラウンドを持った腕利きがサド・ジョーンズという天才の元に結集している。まさにNY・Jazzのドリーム・チームだ。ハナさんの後ろでレギュラーを狙い二軍ピアニストは、チック・コリア、ハービー・ハンコックたちスター予備軍だ。
 楽団の掟もハナさんにぴったり!

「常にストレート・アヘッドで行く!コマーシャルなことをしない。」

 ハナさんは楽団のピックアップ・メンバーを集め、’69年から、ニューヨーク・ジャズ・カルテット(NYJQ)を結成、ソリッドなコンボ活動を始める。また、当時のハナさんは、ヘヴィースモーカーで、大酒豪だったそうだ。
 しかし、’74年に、ハナさんは突然サド・メルを降板。楽団維持のために、スティービー・ワンダーのヒット曲のレコーディングが決定されたのが、引き金となった。
 
 <ハナさん、騎士になる>
 ’70年に、ハナさんはアフリカをツアーした。当地の青少年の教育資金のために、無料でコンサートをしたのだ。
 その功労で、リベリア共和国タブマン大統領から、騎士の称号を与えられ、以後サー・ローランド・ハナと名乗ることになる。ハナさんは、サーの称号を終生誇りにしていた。
 William_Tubman2.jpgウィリアム・タブマン大統領の両親はアメリカで黒人奴隷だった。
 ’70年代半ば、NYJQにジョージ・ムラーツ(b)が加入するのと同時期に、コンビを結成し、日本で10枚近いアルバムを製作、デュオやNYJQでも数え切れないほど来日を果たし、私も何度もコンサート・ホールで聴かせてもらいました。
 ’80年代になると、教育者として教鞭にウエイトを置くハナさんのレコーディングは極端に少なくなるけれど、デンマークの巨匠、ジェスパー・シロ(ts)との共演盤や、ソロ・ピアノの白眉、Round Midnightなど高質名盤が並んでいく。
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 ’90年にやっと、ハナさんはOverSeasに来てくれるのですが、その出会いや、’90年代以降のプレイについては、また機会を改めてゆっくり書こうと思います。
 ハナさんは、寺井尚之がジャズ黄金期と呼んだ’70年代以降、大きく花開いたジャズピアノの大巨匠です。
 サー・ローランド・ハナがリリースした名盤の数々は、華麗さと潔さが同居していて、聴くたびに心が洗われる。これらを廃盤として埋もれさせてしまっていいのでしょうか?
 ジャズ・レコード界の心ある人たちは、ぜひ、ハナさんのレコードを再発させて欲しいものです。宜しくお願いします。
 CU

サー・ローランド・ハナ伝記 (1) ビバップ・ハイスクール

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  サー・ローランド・ハナのバイオグラフィーは、英文のものは色々ありますが短く、日本語のものは余り見かけません。
&nbsp以下にまとめたものは、ハナさんの’70,’75年のダウンビート誌のインタビュー、ハナさんのHPのバイオ、ミシガン大から発行されているデトロイト・ジャズ史:“Before Motown”、寺井尚之と私が、生前のハナさんから直接伺った話を短くまとめてみました。
“BeFore Motown”:デトロイト・バップ・ファン垂涎の貴重な写真や情報満載!
<雪の降る街に…>
&nbspピアノの巨匠サー・ローランド・ハナは、ローランド・ペンブローク・ハナとして、1932年2月10日、デトロイトに生まれた。ハナさんの父はキリスト教バプティスト派の伝道師、ハナさんが2才で読み書きが出来たのは、お父さんの教育の賜物だそうだ。、後年のハナさんの、訴えかけるようなMCは、お父さんから受け継いだものかもしれない。
 
&nbspハナさんは5才の時、音楽と不思議な出会いをする。それは雪積もる寒い日のことだった。ローランド少年が路地で遊んでいると、雪の中に何かが埋もれているのが目に入った。雪をどけると音楽書が出てきたのだと言う。グリム童話“野いちご”か?落語“金の大黒”か? いや、音楽書は、天からの授かりものだったに違いない。
 初めに言葉ありき。少年は、拾った本を手がかりにピアノの独習を続け、8才でバッハ、ショパン、ベートーヴェンを弾いた。天才ですね! 11才で、ようやく正式なピアノ・レッスンを受ける。教師はジョセフィン・ラヴという黒人女性で、オーストリアに音楽留学の経験があり、医師の夫君と共に地域の医療、文化に貢献した名士だった。
love.jpg 右は、ローランド少年の才能を看破した最初の教師、ジョセフィン・ラヴ氏、後年は医学の道に進んだ。
 
 ローランド少年は、レッスンを受ける前の10才からプロ活動をしており、後年、バリー・ハリス(b)やレッド・ガーランド(p)達とレコーディングのあるベーシスト、ジーン・テイラーの証言によれば、彼の初ギグは、’42年、13才の時で、バンドのピアノは当時10歳のローランド・ハナであったという。日本が戦時中で音楽どころでなかった頃、デトロイトでは、庶民の生活に、ジャズが溢れていたのだ!
 
<ビバップ・ハイスクール>
&nbsp’45年、ノーザン・ハイスクールに入学。ハナ夫人、ラモナさんは、ノーザン高校時代の同級生だ。当時、デトロイトの公立高校は、職能訓練を優先し、音楽技能の習得に専念したい生徒は、他の教科の単位取得を免除されたと言う。故にローランド少年は、毎日稽古三昧、どれほど稽古をしたかと言うと、高校の音楽堂のグランドピアノで練習したいから、7時に登校し、深夜11時まで、音楽の授業以外はパスして稽古をする。早く来て遅く帰るから、用務員さんと顔なじみになり、校門の鍵を預けてもらったそうだ。しかし、うっかりすると、もっと早く登校して、ピアノを占有する先輩がいるので、かなり気をつけなくてはならなかった。
NORTHERN%20HIGH98.JPGノーザン高校’98撮影
 
「いつも、ローランドは僕の弾きたいピアノを独り占めしていたんだよ…」と言った先輩は、勿論、トミー・フラナガンだ。すでにフランク・ロソリーノ(tb)のバンドでプロ・デビューしていたトミー少年は、アート・テイタムやバド・パウエルそのままに、講堂のピアノをスイングさせていた。ショパンやバッハ一辺倒だったローランド君に、トミー先輩のかっこよさは衝撃的で、あっという間にジャズの虜となる。そしてトミーの真似をして、未成年ながら、アート・テイタムが出入りしたアフターアワーの店にせっせとライブ通いする。ローランドは、ピアノ以外にアルトサックスをたしなみ、音楽の名門校、カス・テクニカル・ハイスクールに編入後は、チェロをたしなんだ。
280px-CassTechHighSchool.jpg カス・テック高
 当時ハナさんが一番影響を受けたピアニストとして、まずトミー・フラナガン、そして、アート・テイタムや、ルービンシュタイン、それにデトロイトのフリーメイスン教会で観たラフマニノフに感銘を受けたと言う。それだけでなく、当時のデトロイトには、ウィリー・アンダーソン(p)など、地元に留まり世界的には無名で終わった名手が数多くいた。
youngKB.jpg&nbsp PepAda.gif 左:ペッパー・アダムス(bs) 右:バレル&フラナガン 若い!
 同時に、デトロイトには、ハナさんやフラナガン以外に、未来のスター達が、花開くのを待っていた。ケニー・バレル(g)、ミルト・ジャクソン(vib)、フランク・フォスター(ts)、ビリー・ミッチェル(ts)、バリー・ハリス(p)、ペッパー・アダムス(bs)と言った人たちだ。デトロイトの音楽的豊穣は、決して神のいたずらではなく、必然性があったのだ、と、サー・ローランド・ハナは言う。自動車産業の隆盛で各地から黒人達が集まり、音楽を愛する環境があっただけでなく、ナチの迫害を受け、米国に逃げ延びたヨーロッパの一流音楽家達が、多数、デトロイトの地に音楽教師として赴任していて、若い才能を大きく育んだからだと言うのです。
<カス・テック高へ>
 ハナさんはノーザン高からカス・テックニカル・ハイスクールという、音楽の名門校に編入後、ピアノと同時にチェロもたしなみます。同校は、ルーマニア人やポーランド系ユダヤ人の音楽家達が教鞭を取り、ローランド少年の才能を見抜き、コンテストに出るように薦めました。
 ローランド少年は、フラナガン、バリー・ハリス(p)、ドナルド・バード(tp)、ペッパー・アダムス(bs)、フランク・フォスター(ts)達、ジャズ・ジャイアンツ予備軍である仲間たちと切磋琢磨を続けます。週一度、放課後に皆で自動車を駆り、近郊のポンティアックにあるジョーンズさんというお宅へと走った。そこにはグランドピアノがあり、ジョーンズ家のお母さんが、皆のためにフライドチキンなどのご馳走を用意してくれ、ジャム・セッションをやっていた。そのお家の兄弟は恐ろしい名手ばっかり、長兄のハンク(p)は、もうプロとしてツアーしていたので、殆ど家にはいなかった。後はサド(cor)とエルヴィン(ds)楽器もそれぞれですが、並外れた力量を持っていた。ピアノの椅子は一つだけですから、トミーやバリーが先、ローランドに出番が回ってくることはなかなかなかったけれど、サド・ジョーンズがコードを自在に変えていく様子や、先輩達の演奏に学び、自らは“ハック”・ハナという名前で、ラッキー・トンプソン(ts,ss)や、同世代バンドでギグを重ねました。
 1949年9月7日付のミシガン・クロニクル誌には、「ローランド・ハナによるバップとクラシック音楽」というコンサート広告が載っています。(Before Motownより)
<NYへ行ったけど…>
 カス・テック卒業後、ローランド少年は2年間の兵役に就き、奨学金資格を取り、ジャズとクラシックの中心地NYの名門“イーストマン・スクール・オブ・ミュージック”に入学、昼間は学業、夜はクラブ演奏と、念願のクラシック-ジャズの二足のわらじで精進しようとしたのも束の間、当時のイーストマンには「ジャズ禁止」の校則があり、教官にジャズを演奏しているのがバレてしまう。その教官はジャズ・ファンだったのだろうか?
 若きローランド・ハナは、どうしたか? クラシックか?ジャズか?とハムレットのように人知れず苦悩したのか? NO! ハナさんは、了見の狭い名門校をスパっと辞め、サッサとデトロイトに帰ってしまう。この話をした時ハナさんは、“I Quit.”とひとこと、眉を上げてきっぱり言った。筋の通らないことは絶対に受け容れない!ここがハナさんらしいところ。ハナさんは再度NYに赴くのですが、続きは次週。
CU

サー・ローランド・ハナ (その1)

ぼくの叔父さん:Sir Roland Hanna (1932 2.10- 2002 11.13)
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OverSeasの壁に飾ってあるサイン入り譜面&写真
《ハナさん》
 寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が目前に迫り、色々準備に追われているうちに、むしょうにハナさんのことを書きたくなってしまいました。ハナさんというのは、デトロイトが生んだ屈指のピアニスト、サー・ローランド・ハナのことです。
 ちなみに、寺井尚之はいつも「ハナさん」と呼び、ハナさんは「ヒサユキちゃん」と呼んだ。私は「Sir Roland」と呼び、Sir Rolandは「タマエ」に「ちゃん」はつけてくれなかった…
  生前のハナさんは、ジャズを懸命に学ぼうとする寺井の生徒達に、強いシンパシーを感じてくれていた。
 「来年ここに来る時には、ヒサユキちゃんの生徒たちのために、絶対に講演会をする!私はピアノ奏法でなく、音楽の精神について語りたい。ちゃんとセッティングをするように!」と申し渡されましたのですが、同じ年の秋、中山英二(b)さんとの日本ツアー中、体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。だから発表会の時期になるとハナさんのことを一層強く想う。
《プロフェッサー》 
  ハナさんは壮年期にNYクイーンズ・カレッジで精力的に教鞭を取り多くの音楽家を育成した。ジェブ・パットン(p)、YAS竹田(b)もクイーンズ大出身だ。
教室のハナさん大学教室でのハナさん。
 ハナさんは中山英二(b)さんや青森義雄(b)さんと言った日本人ベーシスト達を深く愛した。お二人にとって、サー・ローランド・ハナは”父”のような存在だったろう。一方、トミー・フラナガンを”父”とする寺井尚之にとって、ハナさんは、文字通り”叔父さん”で、ハナさんも”甥っ子のヒサユキちゃん”として寺井尚之を見守ってくれた。トミーの身辺に何か事件が起こった時、ニュースはしばしばハナさんからもたらされた。トミーの心の秘密を教えてくれたのもハナさんだった。ただし、寺井がピアノを教えてくださいと頼んでも、「私から君に教えることはもうない。」と言ってレッスンをしてくれることはなかった。その代わりに、音楽家としてあるべき姿勢、人間として人生に立ち向かう姿勢というものを、身をもって示した巨匠だと思う。
  サー・ローランド・ハナ=ハナさんは、デトロイトの公立高校、ノーザン・ハイスクールでトミー・フラナガンの2年後輩だ。クラシック一辺倒からジャズの道に入ったきっかけは、学校の講堂にあるグランド・ピアノで、アート・テイタムやバド・パウエルそのまま(!)に弾くトミー・フラナガンだった。卒業後、フラナガンがジャズの現場で”ミーン・ストリート”として名を成した”叩き上げ”派であったのに対し、ハナさんはノーザン高からカス・テックと呼ばれる専門学校に編入、2年の兵役の後、NYの名門ジュリアード音楽院でクラシックを勉強しながら、夜はクラブでジャズをプレイした”学究派”だった。
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《いらち》
  ハナさんの性格を関西弁で言うなら“いらち=苛ち”の一言。標準語なら”せっかち”です。何でもさっさとする。ごちゃごちゃ言わない。時間に正確で、規律を重んじる。来日ツアーにラモナ夫人を同行した時、夫人が送迎車を待たせ、少女のように周りの風景を見回っていると、ハナさんは、あの特徴のある眉を曇らせ、俳優の志村喬のように低い声で、送迎スタッフ全員に丁寧に詫びた。
 「皆さん、どうかラモナを許してやって下さい。あれは一般人で、団体行動というものを知らんのです。」ラモナさんは、ただ2-3分そこら辺を見回っていただけなのに…。
  トミーは対照的に、常に些細な問題には超然としていた。ダイアナが誰にケンカを吹っかけようと、何を落として割ろうとも、「良きにはからえ」と知らん顔。
  だけど、二人とも、一旦「No!」と言ったらテコでも動かない頑固なところはそっくり!
  音楽について何か質問すると、トミーは、ボソッと一言答える。こっちはずーっとその意味を考えて、数年後に「ああ!こう言うことやったんか!」と膝を打つ。ハナさんは即答!徹底的に詳しく回答してくれたので、私はハナさんに何か尋ねる際はノートとペンを横に置いておく習慣を身に着けたほどです。だけど、二人の答えはどちらも、当たり障りのないものでなく、奥が深かった。
《ピアノ・タッチ》
  ピアノのアプローチも然り、ハナさんはフラナガンに比べて、胸がキュンとなるようなエモーショナルな表出をした。寺井尚之はこれを、“デトロイト・バップ・ロマン派”と呼ぶのだけど、タッチの美しさとほとばしるパッセージには、圧倒的な美しさがある。
  ハナさんとトミーがOverSeasのピアノを弾いた後は、異様にピアノの鳴りがよくなって、川端名調律師と寺井尚之が愕然とする。私には、ピアノがハナさんやトミーが鳴らしてくれた音色の快感を覚えていて、自分で、その歌をもう一度歌おうとしているようで、いじらしい。
 寺井+川端さんチームの科学的な分析によれば、二人ともタッチが研ぎ澄まされていて、常に鍵盤上で一番良くサウンドするツボに指がヒットする。おまけに、88鍵をフルに使う為、ピアノの弦を叩くフェルトの全ての溝が非常にクリアになっている為なのだそうです。
《クラシカル》
  デトロイトの豊穣な音楽的環境を背景に、フラナガンの音楽のキーワードが”Black”であったのに対し、ハナさんはジョン・ルイス(p)のようにクラシックとジャズの境界線取り払うアプローチをした。ハナさんにとって、アート・テイタムとアルトゥール・ルービンシュタインは、同一線上のアイドルだ。日本の大プロデューサー、石塚孝夫氏の製作した”24のプレリュード集”(bass:George Mraz ’76/ CTI)は、その意味で歴史的名盤なのに、今は廃盤になっているらしい。信じられません。

《Soul Brothers》
   大きな共通点と対照的な面を併せ持っていた二人は、終生、兄弟のように付き合った。勿論トミーが兄で、ハナさんが兄想いの弟だ。フラナガンの出演するジャズクラブで、騒々しい酔っ払いに激怒するダイアナをなだめるのも、最高の掛け声でプレイを盛り上げるのもハナさんだ。
 「ジョージ・ムラーツ(b)やルイス・ナッシュ(ds)、私が良い若手を見出して育てたら、トミーがいつも横から持っていっちゃうんだよ。」ハナさんはボヤいていた。まるで、お気に入りの野球のグラブを兄に横取りされた弟みたいに。
Reflections On Tommy Flanaganハナさんがトミーの死後作ったトリビュート盤、Reflections On Tommy Flanagan “Cup Bearers”で寺井尚之が使うリフを入れてくれている。
 トミーの未亡人、ダイアナ・フラナガンはハナさんが亡くなった時に、ふとこんな風につぶやいたのが忘れられない。
 「あの二人には、何か尋常でない深いつながりがあったのよねえ。生まれ月も命日も近いし。おまけに、直接の死因も心臓疾患だったってラモナ(ハナさんの奥さん)が言ってたのよ。私には、それがどうしても偶然だとは思えないの…」(トミーは’30 3.16-’01 11.16)
  ハナさんが亡くなって早6年、仏教なら今年が七回忌。うちの教室もハナさんを知らない生徒達が大半となっている。ダイアナの希望で、3月と11月の年2回、トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートを開催しているために、現実的にハナさんへのトリビュート・コンサートが出来ないことや、ハナさんが遺した名盤の殆ど廃盤になっていることも一因だろう。ハナさんのことを覚えておいてほしい!忘れて欲しくない!!
  次回のハナさんの章では、ハナさんに馴染みのない皆さんに、私が書き留めたハナさん語録も交えつつ、どんな人生を歩んだ人だったかを紹介しようと思ってます。
CU

ザ・コン・マン:ジャズ界の偉大なるサギ師(1)

セロニアス・モンク
 お正月休みは実家で母親と共に、TVやヴィデオで歌舞伎三昧、花道を進む役者のあでやかな姿を見ると、トミー・フラナガンや寺井尚之が愛奏するブルース、“ザ・コン・マン The Con Man”の威勢の良いテーマを思い出す。名盤、Beyond The Bluebird(’90)で、この曲が聴けます。
   この曲を初めて聴いたのは’80年代後半、NYの<スイート・ベイジル>というクラブ、トミー・フラナガンがMCしたけれど“The Con Man”の意味が判らず、後で「“カンメン(乾麺?)”って何ですか?」と尋ねたら、トミーは「コン・アーティストのことや。??わからんかなあ(ため息)…コンフィデンシャル・マン、信用サギ師のことや。」と教えてくれたのです。

   ふーん、サギ師=The Con Manか…ヘンなタイトル…
 最近になってやっとCon Man であることが、ジャズや“芸術”を“判った”気持ちにさせてくれる重要なテクニックであるとじわじわ気が付いてきました。
 
   昨年の秋、お店から帰ってきて、夜更けにセロニアス・モンク・カルテット(チャーリー・ラウズ ts、ラリー・ゲールズ b. ベン・ライリー ds)のヴィデオを観ながら、寺井尚之と晩酌していた時のことです。WOWOWで放映されていたものですが、『Jazz Icons』というDVDシリーズをそのまま流していたようです。’66年、オスロと、コペンハーゲンでの2本のTV用の映像とありました。
 オスロでの映像のモンクはソフト帽とダークスーツ姿、右手の小指には、宝石か?ガラス玉か?重たそうなピンキーリングが!寺井尚之なら弾きにくいと言って腕時計すらはめないのに、すごく大きな指輪です。それが鍵盤上をゴロゴロと転がりながら、モノクロ画面に怪しい光をビカビカ放つ。さすがはBeBop界のベスト・ドレッサー!音楽とファッションがトータルなものになっている。

 Youtubeに同じ映像の一部を発見。かっこいい足の動きはここでは見れないけど、ダンパーの動きが見れます。
  ピアノから長い足がはみ出る大男モンク!大きな右足で強烈にカウントを取りながら、ガンガンスイングしている。
 かつてトミー・フラナガンはモンクのプレイについてこう語った。

「地下のクラブへと階段を降りると、ベースソロが聴こえてくるとする。ピアノの音は全く漏れ聴こえていない。それでも、今夜はモンクだな!と判る。それがモンク・ミュージックというものなんだ。」


 そのとおりにメンバー全員がモンクのカリスマに取り込まれ、完全にモンクのパーツ化している。モンクはレコードより絶対映像ですね!もう一杯!思わず酒量も上がるというものです。
  ところが、寺井尚之がこの映像を観ながら「おおーっ!?」とびっくりして座布団を投げそうになった場面が…。 オスロのTV映像は、バンドの全景やモンク自身を横から捉えた映像と、正面からモンクの表情を捉えたものと、二つのアングルで構成されているのですが、サイドからモンクを撮影している間は、モンクの足はせわしなくステップを踏み、絶対にペダルを踏まない。つまり既成のピアノ奏法を無視したワイルドなプレイに徹してます。
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   ちなみにトミー・フラナガンやハンク・ジョーンズはペダル使いの名手で、ピアノの響きを自由自在に操ります。ピアニストは指使いだけでなく、ペダルの使い方も技量が必要で、色々個性が出るものです。
 モンクの足を撮影するサイドからのカメラアングルでは、ペダルなんて、まるで関係ないようにプレイしていたモンク…しかし…なんてこった!カメラ・アングルが正面からになると、ダンパーがせわになく上下してるやんか!ピアノは、右のペダルを踏むと、このダンパーが上下してピアノの響きを調節する仕組みになってるのです。つまりモンクは足が映らない時だけペダルを使っていたというわけ。TVの画面に向かって、酔っ払いの私は野次った。ヘイ、コン・マン!
赤い矢印の黒いかまぼこの列みたいなのがダンパー。
  モンクといえば、以前病気療養中に、セロニアス・モンクの伝記『セロニアス・モンク―生涯と作品』(トマス・フィッタリング著・勁草書房)の翻訳を、少しお手伝いしたことがあります。
 モンクはエラ・フィッツジェラルドと同じく1917年生まれ、NYハーレムに育ちました。ハーレム・ストライドという超絶技巧のピアノ・スタイルが隆盛の時代、ハーレムにはウィリー“ザ・ライオン”スミス、ジェームス・P・ジョンソンと言った名手がワンサカいたといいます。
 「必要は発明の母」:ピアノで名を成すにしても、到底テクニックでは勝負できない、どないしょう…というところからあのユニークな奏法を編み出したのか…
 でもセロニアス・モンクの頭は並ではなかった。ケニー・クラーク(ds)、パーカー=ガレスピー、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)達と切磋琢磨して新しい和声を編み出し、ジャズにBeBop革命を起こした。いつの世も、時代の先を行くアートは世間になかなか受け容れられない。おまけに黒人ミュージシャンは、いくら優れていても白人社会にはなかなか認められない。
  モンクは、高度な理論を持つBeBopを、お客さんたちがリディアン・セブンスとかオルタードなんて言葉を知らなくても、この音楽のかっこよさを感じてもらえるように、特注のサングラスやスーツ、ベレー帽やチャイナ・キャップでかっこよく身を飾り、目で見ても判るようにしてくれた人でもあります。
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  オスロでの映像も、明らかにそんなモンクのタヌキっぽい策略が感じられてすごく楽しい。オレオレ詐欺や上方のランドマークであった高級料亭の偽装はまっぴらですが、こんなサギなら喜んで騙されたいね!
 
  モンクは、ファッションやプレイばかりか、禅問答まがいの不可解な言葉や深遠なる曲名で、マスコミや共演者までも煙に巻いた。反面、素顔のモンクは、特に尊敬するデューク・エリントンやコールマン・ホーキンスなど先輩ミュージシャンに対しては、全く普通の人であったという証言が多い。でも、やがて、音楽的に行き詰るにつれ、モンクは本当に精神を病み、音楽活動も喋ることも止めてしまう。モンクが頭に描くBeBopの理想を、そのままピアノで表現してくれたモンクの弟子、というか分身であったバド・パウエルと同じように。
 バド・パウエルが脳を病んだのは、警官に警棒で殴打されそうになったモンクをかばい、身代わりになった為と一説には言われている。モンクは、パウエルのことが生涯心に付きまとっていたのだろうか?
monk_bud.jpg 左:モンク、右:バド・パウエル ’64
  かつて“ファイブ・スポット”で半年間セロニアス・モンク・カルテットの幕間ピアニストを務めたサー・ローランド・ハナ(p)は「モンクの曲は大好きだが、プレイは余り好きではない。」と言って、わざとアクの強いケレンで武装するプレイを決してよしとしなかった。

 モンクはプレイだけでなく、その作品も、筍やうどの春野菜のように精気と共にアクが一杯だ。他のミュージシャンが演奏する時も、わざとモンクっぽいフレーズを使ってアクの強いプレイをすることが多い。でも、トミー・フラナガンのアルバム、“Thelonica”で聴くモンクの作品群は、どれも、不要なアクや渋皮が取り去られて、モンク作品が本来持つみずみずしくピュアな、本当の味わいを出している。フラナガンという人は、音楽や人間の本質を鋭く見極める稀有な才能の持ち主だったのだ、といつも思う。
 フラナガン自身は、NYに出てきた当時モンク家の近所だったので、パウエルよりモンクの方がずっと親しみの持てる人だったと言っていた。 
 カーメン・マクレエは名盤“Carmen Sings Monk”のMonk’s Dreamでこんな風に歌っています。
私が夢見た人生は
純粋で真実ひとすじ。
私が夢見た職業は、
私だけが出来る仕事。
ひとりの男とチームを組み、
求める道へ突き進む。
だけどそれは夢。
真実一路、
そうすればひと財産。
闘い抜いて前進し、
決して嘘はつかぬこと。
そうすれば名声は
この手に入ると思っていた。

だけど夢で終わったよ。

 (了)

寺井珠重の対訳ノート(3)

“酒バラ”再発見!
 かつて「映画音楽」や「ポピュラー(軽音楽)」というジャンルがあった頃、「酒とバラの日々」という歌は、テレビやラジオの音楽番組で、国内外の色んな歌手がよく歌っていた。
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The Lady Is a Tramp

 今回のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルドの、ベオグラード(旧ユーゴスラヴィア、現セルビア共和国の首都、)での歌唱を聴くことが出来ます。’71年の録音で、丁度、私がTVでよくこの曲を聴いていたのと同じ時期でした。
 大学に入ると、先輩ミュージシャン達は「あんなもんバイショウ(コマーシャルな音楽のことを指すバンドマン用語。)や。」と、北新地やキャバレーの仕事場での演目と見做し、アーティスティックなランキングは非常に低かった。つまり、ピンからキリまでありとあらゆる演奏家たちの手垢にまみれたスタンダードナンバーという感じ。私も同じようなステレオタイプに囚われ、今回の講座の対訳準備の際も、全くノーマークでした。しかし、実際に訳を作る段になると、このジョニー・マーサーの流れるような歌詞は、非常に手ごわく奥深く、「歌詞」や「歌詞解釈」について色々と考えざるを得なかった。
 それというのもエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン3の演奏に、しっかりと「歌の心」を聴けたからこそ、愚かなる私が、今まで見過ごしていたことを教えてもらったのです。エラってスイングしていて意味があるなあ!
  この「酒とバラの日々」は、前半と後半に分かれているABAB形式という形なのですが、歌詞には、たった二つのセンテンスしかありません。16小節分の言葉が、綺麗な韻を踏みながら一くくりに繋がっているんです。でも、日本語は英語と語順の構造が違う。歌詞を聴きながら読む為の訳は、なるべく後ろから前への「訳し上げ」を避けたいので、その特徴は残念ながら日本語では出せない。どうぞジャズ講座で、対訳OHPを見ながら、寺井尚之の楽しい解説をお楽しみください。

The days of wine and roses
Laugh and run away
Like a child at play
Through the meadow land toward a closing door,
A door marked nevermore that wasnt there before.
The lonely night discloses
Just a passing breeze filled with memories
Of the golden smile that introduced me to
The days of wine and roses and you.

 エラとトミーを聴きながら、私は歌の情景を色々頭に思い描く…

 明るい太陽がさんさんと降り注ぐ青空の下、見渡す限りの大草原を、まるでフェリーニの映画のように、「酒とバラの日々」の化身である愛らしい子供がキャッキャと笑いながら走って行く。その子を必死で追いかけるのだけど、不思議なことにどうしても追いつくことが出来ない。もう少しで捕まえられると思った途端、その子は不思議な扉に滑り込み、自分もそれに続こうとするのだけれど、扉は閉まってしまう。戸口には“nevermore”(ここから先へは行けないよ)と不思議な文字が書いてあり、自分は途方にくれてしまう。

そして後半になると、同じメロディなのに、情景はガラリと暗転する…
 ふと気が付くと、自分は現実の世界に戻り、深夜、寒々とした寝床にひとりぼっちで横たわっている。今見た情景は、追憶の気持ちが一陣の風になって吹き去った幻でしかなかったのだ。
 過ぎ去った酒とバラの日々、あの人との出会い、自分を輝かしい愛の日々に誘ったその微笑が今も心から離れない。どんなに懐かしんでも、決して輝いていた昔には戻れない。

  相似形の2つのメロディに、フルカラーとモノクロの情景が並置されて、より一層陰影のあるドラマチックな世界を作り上げている。
後半の語り口には、松尾芭蕉が最後に詠んだ俳句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を連想してしまいました。
 エラは、前半ではaway, play, またdoor,more,foreと韻を踏み、後半は有声音“z”の脚韻三連発を明快な発音で完璧にサウンドさせて行く。これは英語を母国語としない歌手には、一層至難の業。すっきり音を作らないと、マーサーの詞も生きずにイケテないバイショウの歌となり対訳を作るのが苦痛になります。
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 ジョニー・マーサー(1909-76)はCapitolレコードの創設者の一員。
 作詞はジョニー・マーサー(1909-76)、 彼をアメリカのポピュラー・ソング界最高の作詞家と絶賛する作詞家は多い。エラのソング・ブック・シリーズの内で、作曲家でなく作詞者のソングブックは、随一ジョニー・マーサー集だけだ。
 ジョニー・マーサーはジョージア州サヴァナの富裕な家庭に生まれたが、家業が没落したために、大学進学を辞め、NYに出て芸能界入り、ビング・クロスビーの後釜としてポール・ホワイトマン楽団に参加、先に歌手として名声を得た後、’30年代から、作詞家としても大活躍した。ちゃんと歌うと、丸みのある最高に美しいサウンドが作られる魔法のような歌詞は、彼自身が良い歌手であると同時に、抑揚の大きな言語文化の(大阪弁みたい)南部出身であるためかもしれません。
余談ですが、クリント・イーストウッドがマーサーの故郷サヴァナを舞台にし、彼の名曲をたっぷり使って、「真夜中のサバナ」という趣向を凝らしたミステリー映画を監督している。観ましたか?ケヴィン・スペイシーやジュード・ロウといった個性派がいい味を出してます。
 マーサーは決してマンシーニ専属ではなく、半世紀に渡る作詞活動の間、殆どの一流作曲家と共作している。マーサー自身も作曲をし“Dream”などの名曲をものにした。今回の講座では、That Old Black Magic(ハロルド・アーレン曲)がマーサーの詞です。
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左:Jazz Poetには”I’m Old Fashioned”、右:ハロルド・アーレン集には、“My Shining Hour”収録
 トミー・フラナガンの名演が印象的な“I’m Old Fashined”(ジェローム・カーン)“My Shining Hour”(ハロルド・アーレン)にもマーサーの響きのいい歌詞がついていて、フラナガンのピアノから、独特の丸いゆったりとしたサウンドが聴こえてきます。ホーギー・カーマイケル作曲の“Skylark”も響きが良くて情感が豊かな名作ですよね。講座本に収録されている曲にも、わんさかマーサー作品があります。そうそう、ビリー・ストレイホーンの超有名曲“Satin Doll”のヒップな歌詞も、マーサーがメロディに沿って付けたものだった。
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 「酒とバラの日々」のポスター、キャッチコピーは、“凍りつくような怖さ、でもこれはラブ・ストーリーだ。”
 「酒とバラの日々」は、アルコール依存症で壊れ行く夫婦の姿をテーマにした同名映画の主題歌で、マンシーニ=マーサーのコンビは’62年の「ムーンリヴァー」(ティファニーで朝食を)に続き、2年連続でオスカーを受賞した。映画は高校時代に見たのですが、余りに深刻な内容でガキにはちょっと判りづらかった。今もう一度観たら、映画の良さも判るかもしれません。
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 <ティファニーで朝食を>オードリー・ヘップバーン、この映画は当初マリリン・モンローの主演が予定されていたという。
 寺井尚之と私にとっては、元気な頃のトミー・フラナガンと過ごした日々が、「酒とバラの日々」だったかも知れない。トミーが寺井をNYに呼び寄せ、街中を食べ歩き、呑み歩き、パーティやジャズ・クラブを梯子した日々、そんな時代には決して戻れないけれど、今もそんなに悪くはない。それなりに人生を一定期間過ごせば、誰にでも、そんな戻れない日々に対する追憶は、あるはずですよね。
 毎晩自宅で晩酌をするせいで、なかなか夜中にブログを書ききれない私には、「酒バラ」は、むしろ映画の方が必見かも…
 新年ジャズ講座は1月12日(土)6:30pm開講!CU

エラ・フィッツジェラルド礼賛

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若き日のエラ・フィッツジェラルド!
 新年明けましておめでとうございます!本年もJazz Club OverSeasをよろしくお願いします。
 年末年始のラッシュも一段落。K-1や時代劇の間も、これから数ヶ月間、ジャズ講座に登場するエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン・トリオが繰り広げる歌、歌、歌が私の頭の中で鳴っています。
 エラ・フィッツジェラルドは1917年(大正6年)生れ、どんな年かと言いますと、アメリカは第一次大戦に参戦、日本では松下幸之助が改良ソケットを販売し、「味の素」の会社が設立された年であるそうです。エラは子供のときからNYヨンカーズで一番ダンスの上手な女の子と言われており、17歳(一説には16歳)の時、ハーレムはアポロ劇場の名物「アマチュアナイト」つまり「素人名人会」にダンサーとして出場し、賞金を獲得しようとします。ところが、本番間際に、地元で評判のダンスデュオ、エドワーズ・シスターズがエントリーしているのを知り、到底勝ち目がないと判断したエラは、急遽ダンスを断念し歌で勝負することに作戦変更、結果見事優勝!賞金25ドル也を獲得し、歌手への道が大きく開けたのです。
 もし、その夜ダンスの強敵が出場していなければ、エラは、ダンサーとしての人生を歩み、この感動は得られなかったかもしれないんですから、エドワーズ姉妹さんには感謝したい!
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エラはチック・ウェッブ楽団の看板歌手となってから、サインしてもらうため筋向いのクラブに出演していたビリー・ホリディを幕間に訪問したという逸話がある。
 その後はトントン拍子、10代でビリー・ホリディと並ぶ最高のバンドシンガーとなり、エラの後見人であった天才ドラマー、名バンドリーダー、チック・ウエッブの死後彼の楽団を引き継ぎ、僅か22歳でバンドリーダーの看板を張ります。
 やがて第2次大戦が勃発し、ビッグバンド時代が終焉を迎えると、ノーマン・グランツの強力なマネージメントの元、エラはソロ歌手として独立、台頭するBeBopのエレメンツを完璧に吸収し、スキャットだけで歌うFlying Homeや、How High the Moon, Oh, Lady Be Goodなど、その後何十年間に渡ってヴァージョンアップを続けたオハコのレパートリーをどんどん開発し、後年フラナガンとのコラボ時代に再び大輪の花を咲かせます。
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ハリウッドのセレブ御用達の一流クラブ“モカンボ”の人種差別のバリアを破り、初の黒人歌手としてエラを出演させるよう掛け合ったエラの熱烈なサポーター、マリリン・モンローと。
 
 ソロ歌手へ転進したエラ・フィッツジェラルドが、’50-’60年代、Mr.Jazzと言われた最高のマネジャー、プロモーター、ノーマン・グランツと打ち立てた金字塔が一連のソング・ブック・シリーズです。グランツの立ち上げたレコード会社Verveで、入念なアレンジを施したフル・オーケストラをバックに、ガーシュイン、コール・ポーター、ハロルド・アーレンなど、アメリカが生んだポピュラー・ソング芸術を作家別に次々と録音、アルバム・ジャケットにはビュッフェやマティスの趣味の良いアートを惜しみなく使用し、素材も歌もしつらえも超一流のミュージアム・レベルで、好セールスを記録するという偉業を達成しました。その当時のレコーディングは、当然、同時録音で、現在の、歌とオケの別録りでは聴けない、有機的なサウンドは大きな文化遺産です。
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ガーシュイン・ソングブックのジャケットはベルナール・ビュッフェの作品で統一されている。
 ソングブックの連作に対し、トミー・フラナガンが参加しているエラのレコーディングは殆どが録音コストのかからないライブ盤です。一説によれば、トミー・フラナガンは、グランツの様な大物ボスに対しても、自分のほうから揉み手をして、こびへつらうタイプではなかった為に不興を買い、スタジオ録音の機会をなかなか与えられなかったとも言われています。
 とはいえ、トミー&エラのライブ盤を聴きながら、そこで歌われる即興の歌詞を一語一句聴き取り、対訳を作っていると、トミーをバックにしたエラの歌唱には、豪華なソングブックでは聴くことの出来ない「途方もない爆発力」にシビれてしまう。
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 エラは目を悪くする前の最盛期には、年間40週以上(!)仕事を取り、世界中を駆け回りました。ハード・スケジュールはエラ自身の意思であったと言います。長年、そのスケジュールに付き合ったフラナガンは「エラにとって喝采に勝るものなし…」とちょっぴり皮肉を込めて語っています。(Jazz Lives/Michel Ullman著)
 エラ・フィッツジェラルドの歌唱の摩訶不思議なところは、エリントンであろうが、バカラックであろうが、どの歌も、「紛れもなくエラ」でありながら、彼女の私生活の「臭い」というものが、まるで感じられないところです。
 例えばビリー・ホリディを聴くと、「レディ、あんたも男で苦労したものねえ。」と、彼女の私生活に心を馳せてしまいます。トニー・ベネットの力強い声を聴くと彼の描く水彩画を思い出したり、美空ひばりを聴くと家族関係を想ったり、フランク・シナトラの洒落た歌いまわしを聴くと、「この録音の後はどこの店で遊んだんだろう?」とか…マイルス・デイヴィスなら、「この曲は、あのカスれ声で何か指示を出したのかしら?」とか…ファンは余計な事に思いを馳せつつ聴くのが楽しみなものです。
 だけど、エラは違う!エラの歌を聴いていると、歌にしか集中できなくなる。エラの実体はステージの上だけで、それ以外はかげろうのような抜け殻でも、全然不思議じゃないとさえ思う。…だけど、そう思わせるのが、真のスターなのかも知れません。
 
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’64年カンヌでのステージ、エラが登場する前の演奏、トミー、ロイ・エルドリッジ(tp)、ビル・ヤンシー(b)ガス・ジョンソン(ds)客席左端は、女優ソフィア・ローレンらしい。写真をクリックするとちょっとわかります。(写真提供;藤岡靖洋氏)
 
 加えてライブ盤では、エラの中に強力な充電池が存在しているのがはっきりと判る!聴衆の大歓声や熱い“気”を、胎内に取り込み、歌唱のエネルギーに変換して発散する。それにまたお客さんが反応してエネルギーを返す。その作用を繰り返すから、まるで「神が降りてきた」としか言いようのない凄い状況になる。多分、これは、ごく一部のミュージシャンにしか起らない化学反応です。私も、OverSeasでトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツ、サー・ローランド・ハナ、そしてモンティ・アレキサンダーのコンサートで同様の超常現象を目の当たりにしました。
 エラの場合、もう一枚、トミー・フラナガンが加わると、その充電能力がより増幅されて、パチパチと不思議な火花を散らすのを感じるのです。そうダイアナ・フラナガンに言うと、ダイアナは「余り拡大解釈しちゃダメよ。トミーは伴奏の仕事を粛々といしていただけなのよ。エラは叩き上げのバンドシンガーなんだから、トミーでなくたって、ちゃんとショウを作れるの!」とブレーキをかけます。でも、レコードを聴いてごらんよ!フラナガンが絶賛するエリス・ラーキンスや、名手ルー・レヴィー、ポール・スミス、コンビで売ったジョー・パス(g)、どの名演を聴いても、フラナガンがバックに回った時に立ち上る、チカチカとした、あの不思議な火花は見えないのです。そう言い返すと、ダイアナは妙に納得していた。
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 エラはJ.J.ジョンソン(tb)のように「ミスのない」名手ではありません。来週聴くエラのライブ録音の中には、明らかに体調不良と判るものがあります。エラはマドンナのようにコンサートをドタキャンするようなことはしないのだ!
 それどころか、歌詞やアレンジのミスもする!ピンチになるとスキャットの引用フレーズでHere’s That Rainy Day(まさかの事態になっちゃったわ)とか、Misty(私を見てよ、キュー出しするから)と歌いまくり、堂々とブロックサインでバックに状況説明して、土俵際をうっちゃる!これはすごい!歌詞を忘れるというのも、その時期の流行歌をどんどん取り込むためで、バーブラ・ストライザンドがたまにコンサートをする時、プロンプターにかじりついて歌詞を間違えずに済むというのと、土台レベルが違うのです。そんな場合にフラナガンが出す助け舟がまた凄い。007の秘密兵器のように最高の手際でエラを支えて復活させる。
 
 どんなジャズの解説書を見ても、エラ・フィッツジェラルドの最高傑作はソングブック・シリーズであると書かれています。しかしエラの最高にハジけた歌唱が聴けるのは、なんと言ってもトミー・フラナガンとの共演盤にとどめを指すのです。
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エラのおハコで、しかめつらしいクラシック音楽家が登場するユーモラスな歌、『Mr.パガニーニ』で彼女はこう歌ってる。
“パガニーニさん、
もうケチるのはイイ加減にしてよ。
あんたの奥の手は何なのさ?
さあさあ、ハジけてみなさいよ。
ハジけないなら、
せめてスイングしなさいよ!”

新年のジャズ講座は1月12日(土)6pm開講。CU

年の瀬 雑感

Nice E-Meeting You
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左:今年のパーティ料理のごく一部!皆のおいしい顔が、私のごちそう!    右:寺井尚之とパーティを盛り上げてくれたスター達!皆ピアニストですよ。 
 年末恒例パーティも終わり、本年度のOverSeasのライブも今夜が最終、歳を取ると一年が経つのが速い!今年も平坦な道のりではなかったけれど、どうにか新年を迎えることができそうです。
 クリスマス・ラッシュであたふたしているところに、オスカー・ピーターソンの訃報。中学時代から何度もコンサート・ホールやTVで見た巨匠。体躯もプレイも全て大きくてベーゼンドルファー・インペリアルが小さく見えた。好き?嫌い?…そんなことを超越したスーパースターでした…
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 
 今年の私のささやかなNewsはひょんなことから、このblog『寺井珠重のInterlude』を開設したこと!「ただでさえ時間がないくせに、何と無謀な!」と言われましたが、意外な人が意外なところで読んでくれていて、励まされたり、びっくりしたり、嬉しかったり。
 Interludeをご訪問下さった皆さま、実際にOverSeasをご訪問下さった皆様、どうもありがとうございました!
 10月にOverSeasでジョージ・ムラーツの至芸が聴けたのは、今年のGood News! 偶然ムラーツも、このブログと同時期に公式HPを開設、私が彼のサイトのbio(ムラーツ伝)の和訳を、日本のファンの為にbioのページに採用してくれました。(すったもんだの末、彼のWebデザイナー、ジャックが、日本語の活字を扱いかね、私の作ったページにリンクを貼ってます。)
 最近、ムラーツのHPのフォト・ギャラリーには、在りし日のサー・ローランド・ハナや、パーシー・ヒースとの写真が追加されていて一見の価値あり!
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ムラーツ公式サイト、フォト・ギャラリーより、パーシー・ヒース、ジョージ・ムラーツ=二人の巨匠の釣り旅行風景。
 それが縁で、ムラーツの共演者イヴァ・ビトヴァから、「私にも日本語のバイオを作って!」とメールがあり、彼女の公式HPにも私の訳が載ってます。イヴァちゃん(私が勝手にこう呼んでいる。)はチェコでは演劇、音楽の大スターで今年春から米国在住、創造の妨げになると、自宅にはTVやラジオは一切なし。NY郊外で自然に囲まれた生活を送っています。Eメール上の彼女はスターぶらず、とっても魅力的な女性でした。珍しくムラーツが「凄いキャリアのパフォーマーと共演することになった。」と録音前にこっそり教えてくれたのも納得の経歴、ぜひご一読を。英語のbiographyから日本語にリンクしてます。
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 ジョージ・ムラーツ&イヴァ・ビトヴァは、新年にプラハ、ウィーンとスロヴァキアで公演予定、冬休みに彼の地に行かれる方はぜひどうぞ!写真はIva Bittovaフォトギャラリーより。
 また、イヴァちゃんの翻訳を請け負う過程で、日本の前衛芸術家たちとも交流がありました。彼女が以前プラハで共演した日本の舞踏家達の連絡先を探して欲しいと頼んできたのです。探していたのは田中泯(たなか みん)氏。俳優としても活躍していて、山田洋二の名画『たそがれ清兵衛』で、日本アカデミー賞助演男優賞を受賞しているから、ご存知の方も多いかも。真田広之扮する清兵衛が、意に反して果し合いをしなければならない不条理な敵役が印象的でしたね。
 なんという幸運!連絡をした時、ちょうど田中氏の舞踏グループはNYで公演中で、めでたくイヴァちゃんと再会!ひょっとしたら、イヴァちゃんの来日が果たされるかも知れません。スターというものは強運ですね。
 またイヴァちゃんと特に親しい田中氏のマネジャーは木幡和枝氏で、東京芸大教授、ブラックパンサー運動のエキスパートとして著名な文化人でしら。ちょうど11月のジャズ講座でブラックパンサーの女性リーダー、エレイン・ブラウンのアルバムを取り上げた直後のことでした。偶然は重なります。
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 本ブログでCafe Bohemia探索中に、私に色んな事を教えてくれたピアノの巨匠、ディック・カッツさんの紹介で、著名なジャズ史家、プロデューサー、アイラ・ギトラー氏からは、J.J.ジョンソンの関連書籍などについてアドヴァイスのメールをいただきました。ギトラー氏の著書、『Swing to Bop』は、BeBopの誕生と栄枯盛衰を語るミュージシャンの証言集で私の愛読書、嬉しかった!
 そして横浜からは、A.T.やCafe Bohemiaにまつわるブログを読んで下さった、マシュマロ・レコードのオーナー、上不三雄氏が、来阪の折、若き日のトミー・フラナガンの貴重な写真を携えて立ち寄ってくださって下さいました。
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上不氏が寄贈して下さった写真です。素敵でしょ!トミーの笑顔に似合うフレームを物色中。ありがとうございました。
 マシュマロ・レコードは、貴重な音源や映像の再発や、ヨーロッパやカナダのミュージシャンの新録音を丁寧に製作する良心的なレコード・レーベル。マシュマロ・サイトの上不さんのコラムでは、デューク・ジョーダンの墓参やカフェ・ボヘミアなどの興味深いエピソードも読めます。
 近くから、遠くから、ブログを通じて、OverSeasにやって来て下さった沢山の新しい皆さん、どうもありがとうございました。来年も毎週、(流行と無関係でアンタイムリーな)色んなトピックをお届けします。
 
では、良いお年を! CU

ショーン・スミスという真面目なベーシストのこと。

 
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 ショーン・スミスはN.Yを地盤にコツコツという感じでキャリアを重ねる実力派ベーシストだ。自己リーダー作や、ビル・シャーラップ(p)の初期の録音、アニタ・オデイ(vo)のラスト・レコーディングなどに参加。人柄は、喰うか喰われるかのNYシーンでやっているミュージシャンにしては、控えめでガツガツしたところがありません。それが、何度も来日しているのに、日本でも知名度がない一因かも知れない…彼の曲がグラミー賞の候補になった事すら、今回の記事を書くに当たって初めて知りました。
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 ショーン・スミスは1965年生まれ、’87~’90マンハッタン・スクール・オブ・ミュージックでベースを学び、NYを本拠に、今やトップ・ピアニスト、ビル・シャーラップや、実力派ドン・フリードマン(p)、巨匠ジェリー・マリガン(bs)達と共演を重ね、’94年から自己カルテットで活動する傍ら、完璧な音程と、安定したビート、アレンジの才能で、ペギー・リー、ローズマリー・クルーニー、ヘレン・メリル等、スター歌手達に重宝されます。1997年に、ショーンのオリジナル曲がマーク・マーフィーのアルバムのタイトル曲になり、グラミー賞にノミネートされました。
 ショーンのプレイは、彼の尊敬するジョージ・ムラーツ、レッド・ミッチェル、マイケル・ムーアのエッセンスをうまくミックスした感じで、ランニングの音使いのうまさには、いつも舌を巻きます。
 <それは一枚の譜面から始まった。>
 寺井尚之とショーンの出会いは、一枚の譜面から始まりました。話は’90年代に遡ります。ジェド・レヴィーというテナーサックス奏者が、NYから大阪の重鎮、西山満(b)氏の招聘で、寺井尚之と一緒にコンサートをしました。
 トミー・フラナガンはジェドのアイドルですが、フラナガンの演奏曲は譜面のないものが殆どで、寺井尚之の譜面帳は、ジェドには宝の山でした。その中あった“Elusive イルーシヴ”を見つけた時のジェドの嬉しそうだったこと!
 “イルーシヴ”はサド・ジョーンズが作った難曲、どれほど難しいかと言うと、数学に例えれば“ポワンカレ予想”に近い。前回ブログで紹介したペッパー・アダムスの『Encounter!』にも収録されています。その当時、脂の乗り切ったトミー・フラナガン3がNYのジャズシーンで、バリバリ演奏をしていました。elusiveとは「雲を掴むような、捉えどころのない」という意味で、その通り、何がなんだか全く判らないけど、滅茶苦茶かっこいいのです。サドの曲名は、悪魔的な茶目っ気に溢れている。例えば、Bitty Ditty(ちょっとした小唄)とかCompulsory(規定演技)とか…これも、サド・ジョーンズらしいネーミングですね。
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 フラナガンのサド・ジョーンズ集、『Let’s』のリリースは、それからまだ3年後のことでした。共演者へのみやげとして、寺井はその譜面を気前良くプレゼントしたのです。
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Jed Levy
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 それから約5年後、丁度ジャズ講座を開講し、寺井尚之がその準備であたふたし始めた頃です。講座が近づくと、寺井尚之は午後は調理場から出てきて、毎日、譜面や原稿書きに夕方まで没頭していました。
 ある日の午後、細身の白人青年が、入り口のレジのところで佇んでいます。道に迷ったのかと思うと、オーナーと話がしたいと言います。
(セールスにしては内気そうな人やなあ…)
 寺井尚之は「あかーん!今忙しいねん。タマちゃん、適当に相手して追い返してくれ。」とにべもない。私が、「今忙しくて手が離せないんです。私が代わって話を聞きます。」と言っても「どうしても直接話したい。」と言って引き下がりません。
(内気そうな割には、押しの強い人やわ…)
 押し問答になり、結局「5分だけ」と言って、10番テーブルに案内しましたが、寺井尚之は最高の仏頂面です。
 青年は、真面目な顔つきで小さな声で話しかけました。
「OverSeasのオーナーですね。私はあなたにお礼を言いにやって来ました。
 僕は、ベースを弾いてるショーン・スミスと言う者です。昨日へレン・メリルと大阪に来ました。トミー・フラナガンとジョージ・ムラーツを尊敬しています。“Elusive”を弾きたいと思っても譜面を持っている者はいないし、あの曲をコピーするのは絶対無理でした。
 ところが、あるバンド仲間を通じて譜面を手に入れたんです。その譜面を書いたのが、日本のピアニストだと聞いていました。おかげで僕たちも、今はこの曲をプレイしています。日本に行くことがあったら、ぜひあなたに会いたいと思っていたんです。やっとOverSeasを探して来ました。ミスター・テライ、どうもありがとう!」
 寺井の仏頂面はどこかに消え、二人は夕方まで楽しく話をしていました。
 それ以来、ショーンは日本に来たらOverSeasに寄って、時間があれば、寺井とセッションをして行きます。未だに、ヒサユキと言わずにミスター・テライと呼ぶ生真面目なミュージシャンです。
別にメル友でもないけれど、彼からライブ告知があれば出来るだけOverSeasの掲示板に載せてます。
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 トミー・フラナガンが亡くなった翌年の初春、アイルランド系の人々のお祭り、セント・パトリック・デイの直後にNYを訪れた時のこと。
 出不精のダイアナが、アイリッシュ・レストランでジャズを演っているところがあるから行こうと言うので、ヴィレッジの南の方にある“Walker’s”に行ったら、バンドスタンドで、こっちを見て目をまん丸にしていたのがショーンだった。とかく不思議な縁のある人です。
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“Walker’s”はNY最古のバーと言われている。ここはミュージック・ルームで静かですが、表はジュークボックスやTVがあって、相当ザワザワしてます。当夜のギタリストはピーター・リーチ、二人はこの夜、ダイアナの為に“エクリプソ”を弾いてくれた。
 
 そんなショーン・スミスと寺井尚之のコンサート、どんな音楽が聴けるのだろう? 演奏の上では、敬称略の、「腹を割った」音楽の会話を聴かせてくれるはず! 真剣勝負の聴き応えある一夜になると思います!
 2月8日(金)演奏時間は通常のライブと同じ7pm-/8pm-/9pm  前売りチケットは¥5,500(座席指定:税込¥5,775)です。チケットはOverSeasでのみ販売中。
席に限りがありますので、どうぞお早めに!詳しくはこちら。 CU
 

「偶然の旅人」:村上春樹を読みながら…

トミー・フラナガンのレパートリー考
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 NYにあった“ブラッドリーズ”というユニークなジャズクラブのオーナーの妻、ウェンディ・カニングハムが言っていましたが、ジャズクラブという仕事は、そこに従事する者の時間を容赦なく吸い取ってしまいます。
 私の時間も、毎日あっと言う間になくなって、ゆっくりと小説を読む暇などないのが実情ですが、村上春樹の作品には寝る間を惜しんで読みたくなる魅力があります。なんと言っても文章がうまい!日本語がうまい!人間の心の奥底に隠れる“闇”のようなものを、ソフトタッチの文章と、小説ならではの奇抜なストーリーで開示していくところが魅力です。彼のペットフレーズ、“メタファー(隠喩)”がいたるところに隠された文章は、北欧ルネサンスの絵画のように思えるし、読み手の心を掴んだまま、ラストまでグイグイ引っ張っていくドライブ感は、優れたジャズ・ミュージシャンのプレイのようでもあります。
 今年7月の電子版NYタイムズに掲載された彼のエッセイ、『Jazz Messenger』に、自分のスタイルは、チャーリー・パーカーの奔放なリフや、マイルス・デイヴィスの飽くなき自己革新の姿勢に大いに影響を受けている、というような事が述べられていて、大変興味深く思いました。
 彼がかつて、ジャズ喫茶を営む間に文筆活動を始めた事は、きっと私よりも、これを読む皆さんの方がずっとよくご存知でしょうね。
 最近文庫になった短編集、『東京奇譚集』のオープニング・ストーリー「偶然の旅人」の、枕というか、ヴァースの一部分になるのが、作者自身が体験した、トミー・フラナガン・トリオのライブにまつわる不思議な偶然のエピソードです。もうご存知の方が多いかも知れませんが、フラナガンに関する枕のあらすじはこんな感じ。
 ‘作者自身である“僕”は、’93-’95、ケンブリッジに住む間、一度だけトミー・フラナガン・トリオを聴きに行った。…お気に入りのピアニストのプレイに期待していたものの、その夜のフラナガンは、決して絶好調とは言えなかった。“僕”はレガッタ・バーでひとりワイングラスを傾けながら、「もし、彼に2曲リクエストをする権利が与えられたとしたら…」と思いを巡らせ、余り知られていない渋い2曲,“Star-Crossed Lovers(スター・クロスト・ラヴァーズ)”と“Barbados(バルバドス)”を選ぶ。すると、不思議にも、フラナガンはセットの最後に、この2曲を続けて演奏した!それは実にチャーミングで素晴らしい演奏だった。というのです。そして、彼はジャズの神様みたいなものがいるのかな…と思う…’
 普通の人なら、世間話で終わってしまうような、「ちょっと不思議な」いい話を、押し付けがましくない絶妙の語り口で、一編のショートストーリーにしているところが流石です。このエピソードは、『やがて哀しき外国語』にまとめられた『新潮』のエッセイが元になっているから、余程、作者に霊感を与えた印象深い体験だったのかもしれない。
 村上氏が不思議な体験をした“レガッタ・バー”は、ケンブリッジ、ハーバードスクエアのチャールズ・ホテルにあり、当時から、フラナガン以外にも、ジョージ・シアリング、ビリー・テイラー、アーマド・ジャマールなど、一流ピアニストが年間サーキットに組み入れていた店です。今年の年末はマッコイ・タイナー、来年の春にはジャマール出演と出ていました。私は行った事ありませんが、先日、ボストンに恩師ジョージ・ラッセルを訪ねた布施明仁氏(g)が、「ボストンのジャズクラブは、今はほとんどなくなってしまったけど、あそこは、まだなんとか健在やった。」と言ってました。
 ノーベル文学賞候補と言われる村上春樹、この作品は『Chance traveler』という題名でハーパーズ・マガジン誌に掲載され、USAの春樹ファン達がネット上で、「僕もレガッタ・バーでフラナガンを聴いた!」「私もBarbadosを聴いた!」とか色々盛り上がっていたようです。それで、G先生に無理を言って図書館でコピーを取ってもらい、ダイアナ未亡人に読ませてあげたら、「ムラカミは、いい小説家ねえ!」と、とっても喜んでいました。
トミー・フラナガンが、この小説を読むことが出来れば喜んだろうな…因みに、フラナガンのアルバム『バースデイ・コンサート』のライナーを書いているのは、ピーター・ストラウブというジャズファンの作家で、自分の小説にコールマン・ホーキンスやレスター・ヤングの音楽を登場させているらしい。
 ダイアナの証言によれば、トミー・フラナガンがレガッタ・バーに出演するのは、毎年主に、6-8月の夏時分だったそうです。上記の2曲は、どちらも渋い曲ですが、共にフラナガンの愛奏曲でした。フラナガンは季節感を意識してレパートリーを組む人ではあったけれど、どちらも特に季節に関係なく演奏していたはずだと言います。
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Encounter! 11月のジャズ講座で大反響だった名盤です。
 村上氏が選んだ2曲のうち、バラードの“Star-Crossed Lovers”は、デューク・エリントンの片腕で、フラナガンが愛してやまないビリー・ストレイホーンの作品です。“Pretty Girl”というタイトルでしたが、改題されて、シェイクスピア組曲《Such Sweet Thunder》に組み込れました。星のまたたく夜の冴え冴えとした空気が漂うような曲で、小説に書いてあるとおり、ペッパー・アダムスのアルバム、《Encounter!》に名演があります。余談ながら、寺井尚之は、シェークスピアが作った造語と言われる“星巡りの悪い恋人達”を、織姫-彦星の七夕に見立て、好んで7月に演奏します。
 一方、Barbadosは、チャーリー・パーカーのルーツ、カリブ海の島国の名前で、ラテンリズムの軽快なFのブルースです。作者お気に入り、OverSeasの常連なら皆大好きな名盤《Dial J.J.5》に収録されている他、リーダー作、《Beyond the Bluebird》で再演しました。
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名盤!Dial J.J.5 (’57 1/31録音)
 実はこの2曲とも、《Tommy Flanagan Trio, Montreux ’77》というアルバムに収録されているのです。スイス、モントルー・ジャズフェスティヴァルで、エラ・フィッツジェラルドが登場する前の、「前座」というには凄すぎるトリオ演奏のライブ盤で、演奏日は’77年7月13日です。ひょっとしたら、氏がレガッタ・バーでワイングラスを傾けたのと同じ季節であったかも知れません。
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参考までに、このレコードの録音順は以下のとおり
Barbados
Medley: Some Other Spring / Easy Living –
Medley: Star Crossed Lovers / Jump For Joy
Woody’n You –
Blue Bossa –
Heat Wave
 耳の肥えた村上氏が、その夜、この2曲を心に思い浮かべたのには、なにか、それを連想させるような曲をフラナガンが聴かせたからではないのかしら?ステレオタイプに毒されて、ガチガチに凝り固まった自称ジャズ通ならいざ知らず、イマジネイティブな彼なら、耳に聞えるサウンドに刺激され、リクエストの問いを自分に投げかけたのではないかしら?
 寺井尚之に訊いてみよう…
私:「かくかくしかじかの短編があるねんけど…
 この2曲がフラナガンのセットリストに入っていたとしたら、後にどんな曲を入れたと思う? 1st 7:30pm-/ 2st 10pm-の、一晩2セットで、多分1stで演ってはんねん。それで、この2曲は最後の方に入っていて、Star- Crossed Lovers~Barbadosの順やて。」
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寺井尚之:「バルバドスがラスト・チューン!? それはフラナガンやったら、絶対にあり得へんな。その後まだラストに続くはずや。
 
 エリントンの曲はトランプで言うたらジョーカーみたいなもんやから、前後何を持ってきてもええねん。そやけど、スター・クロスト…持って来たんやったら、ラストは、ほぼ100%エリントンの曲に決まってるわ。
 
 そういう話なら、最初の方に、“Mean Streets:ミーン・ストリーツ”とか、間に“That Tired Routine Called Love:ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラヴ”なんぞを、演らはったんちゃうか?」
私:「えーっ? “Mean Streets”なんか最初の方に持ってくるのん?ラスト・チューンじゃなくて…?」
寺井尚之:「そうや!この演奏の時期やったら、ピーター・ワシントン(b)、ルイス・ナッシュ(ds)のトリオや。ケニー・ワシントン(ds)やったら、“Mean Streets”は、絶対ラスト・チューンやけど、ルイスやったら、最初の方に演る可能性の方が大や。」
 寺井尚之が挙げた、Mean Streets(ミーン・ストリーツ)は、昔はVerdandi(ヴァーダンディ)という名前のフラナガンのオリジナルで、《Overseas》や、“Star- Crossed…”と同じ《Encounter!》に入っているドラム・フィーチュアのハードな曲だ。そして、“That Tired…”という長いユーモラスな名前の名歌は、’80年代後半からトミー・フラナガンの愛奏曲で、そのルーツは、J.J.ジョンソンの、もうひとつの秀作《First Place》だ。
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 ひょっとしたら、それらの曲を耳にして、例の2曲が心に浮かんだのではないかしら?ジャズ通の村上春樹であったからこそ、ごく自然に、ほとんど無意識に…。
 ダイアナも言っていたのですが、「私がやって欲しいと思っていた曲をズバリ演ってくれた、なんて素晴らしい偶然なんだろう!」とフラナガンが言われることは、世界中どこで演奏しても、実に頻繁にあったんです。
 例えば、OverSeasでも、フラナガン3が、レコーディングもしていない’Round Midnightを演った時には、「僕のテレパシーが通じた!」と大喜びするお客さまがおられました。それは、そのセットの前に別のモンク・チューンを演ったからだったと記憶しています。
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“偶然の旅人”当時のレギュラー・トリオ。左からトミー・フラナガン、ピーター・ワシントン(b)、ルイス・ナッシュ(ds):ピーターの画像はhttp://www.jazznow.com/1004/Newport2004.htmlより拝借、ルイスの画像はwww.drummerworld.com/ drummers/Lewis_Nash.htmlより拝借。
 フラナガンという人は、唐突なリクエストは絶対に受けないアーティストでした。それは、単に愛想が悪い、客に迎合しない、という訳でなく、1夜の曲目を、フルコースや懐石料理のように、最初から最後まで、最高のしつらえで聴かそうと考えていたからなのです。とはいえ「選りすぐりの曲順で演ってるのじゃ!」みたいな大仰な態度ではなく、さりげない風情を崩しません。だからこそ、メリハリが効き、一生忘れられないような、自由奔放な演奏になったのですね。
 「これが聴きたかった!」と思わせる演奏、「自分が願ったから演ってくれた!」と思ってもらえる演奏は、プレイヤー冥利に尽きます。最近は、寺井尚之も同じことを言ってもらえる時があるのですが、フラナガン流なのか?「偶然の旅人」効果なのか?
 全く同様に、読者の潜在願望に応えるのが村上文学のキーではないのかな、と私は思う。例えば、この『偶然の旅人」に出てくる、「アウトレット・モールの書店の一角にある居心地の良いカフェ」や、『海辺のカフカ』に登場する「甲村記念図書館」などは、読書好きなら、「こんな所で本を読みたいなあ…」と、漠然と求めていた理想郷が、そのまま描かれている。
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 「偶然の旅人」以降、フラナガンとジョージ・ムラーツを深く愛する東京の友人S君も、自分の不思議な体験を教えてくれました。彼は学生時代、ベーシストとして寺井について修行していて、生真面目で少年然とした性格から、お店の人たちから常連様、果てはジョージ・ムラーツに至るまで、皆から、弟のように可愛がられていました。数年後、彼が東京で離婚し、子供と暮らしていると聞いた時は、ちょっと信じられない気持ちになったものです。
 その後、S君はある女性と知り合い、初めて彼女の自宅を訪問した、その瞬間に流れていたのが、S君が好きなMoodsvill-フラナガン3の、“In a Sentimental Mood”だった!彼がフラナガン・ファンだとか言うことは全く知らないはずなのに…S君は腰を抜かすほど驚いたのだけど、彼女は、ジャズが好きと言う彼のために、100円ショップで売っているような、海賊盤の寄せ集めのCDをかけていただけだった。エリントンのこの曲に不思議な啓示を受け、二人は再婚し、現在、お互いの子供さんと共に、とっても幸せな家庭を作って暮らしている。
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 私自身の個人的な体験もついでに書いておこうっと。ここ数年間、ビリー・ホリディをジャズ講座などで取り上げるにつれ、私は心ひそかに確信していたのです。ホリディの歌の本質は「男の不実を赦し、自分の悪癖を赦し、聴く者のあらゆる罪を赦す観音様だ。」と。そして、「これは私だけが知っている秘密の真実だ!」と人知れず得意になっていたのですが、彼の本を読むと、似たような事を、いとも簡単にスパっと書いてあって、「ええっ、なんで知ってるの?!」度肝を抜かれたことがありました。村上流ジャズ論に、全て賛同はできないのですが、例え世界的文豪であっても、彼になら、「村上さん、ここ、違うよ」と言っても、無視したり、気を悪くせず「なんで?」と耳を貸してもらえそうな幻想を与えてくれるのが、村上スタイルですね。
 この「偶然の旅人」に登場するフラナガンのエピソードこそ、“僕”こと村上春樹の小説作法のメタファーであるのだと、私には思えてならなりません。だからこそ、村上作品は、その夜のフラナガンの2曲のプレイと同様、実にチャーミングで素晴らしいのです。