ウエスとフラナガンをつなぐピアニスト

 10月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いた『The Incredible Jazz Guitar』、寺井尚之ならではの音楽の道案内で、この大名盤が示すプレイヤー達の心のやりとりを、皆で楽しみました。

  エロール・ガーナー同様、「譜面の読めない」天才と謳われたウエス・モンゴメリー、でもこのアルバムの”Mr. Walker”はウェスのオリジナルで、しかも細かい仕掛けが細部に施されている。本当は読譜力があるのではないか?と、前々から寺井尚之は疑問を投げかけてていました。

 ところが、寺井への答えは意外にも、最近ネットで公開された1994年のラジオ・インタビューの中にありました。共演作についての談話でなく、「子供の時のお気に入りピアニスト」を語るうちに、ポロリと落ちた言葉の中に答えがあった!こういうところがフラナガンらしい・・・

<アール・ヴァン・ライパーというピアニスト>

graystone-earlvanriper-300x300.jpg Earl Van Riper (1922-2002)

 少年時代(12-13才)のフラナガンは、ラジオやレコードでアート・テイタム、ナット・キング・コール、テディ・ウイルソンを夢中になって聴いていた。時はビバップ以前、豊穣なデトロイトの街にも名ピアニストは多くいて、中でも感動した地元の2大ピアニスト、一人はウィリー・アンダーソン、キング・コールばりの洒落たテイストと完璧なテクニックで、ベニー・グッドマン楽団に誘われたほどの名手でしたが、文盲であることを恥じて、終生地元に留まった。そしてもう一人が上のアール・ヴァン・ライパーという人。

フラナガン:「もう一人、近所に住んでいたEarl Van Riperも素晴らしいピアニストだった。すっきりした芸風で、よりテディ・ウイルソン的で明快なスタイルだった。彼は、やがてクーティ・ウィリアムズやR & B系のクリーンヘッド・ヴィンソンの楽団に入り街を出て、インディアナポリスに落ち着いた。 ウエスの初期の演目は彼が譜面にしたんだろう。ウエスは譜面の読み書きをせず、他の誰かに採譜させて、共演者に渡していたんだ。だから彼が初めてNYにやって来た時も、ちゃんと譜面を持ってきた。あのレコーディング(『The Incredible Jazz Guitar』)に参加できたのは幸運だった。それにしても、この世界は狭いね。生まれて初めて生で真近に見たピアニスト、正真正銘のプロ、Earl Van Riperが譜面を書いていたんだから・・・」

 子供時代の憧れのピアニストが採譜した譜面を元にウエスと初共演したフラナガン、その感慨はどれほど深いものだったでしょう!

incredible20090917155711ca5.jpg このアルバムをプロデュースしたオリン・キープニュースの著書『The View from Within』の中には、このレコーディングの経緯が詳しく書かれています。キープニュースのアドヴァイザーだったキャノンボール・アダレイがインディアナポリスから帰ってくるなり、「どえらいギター弾きが居るから一刻も早く契約しなくちゃ!」と興奮して駆け込んできた。キープニュースは数日後、現地に趣き録音の契約を取り付け、大急ぎでアルバム制作のお膳立てしたそうです。一方NYでは、評判高いウエスがやって来たら、ジャムセッションでボカボカにしてやろうと、腕利き達が手くすね引いて待っていた。でも、ウエスは極端なほど自分の腕を過小評価していて、謙遜深く丁寧な人間だったので、皆の戦闘意欲が萎えてしまうほどだったとか…

 フラナガンとウエスをつなぐピアニスト、Earl Van Riperについて調べてみると、’89年代のヴィデオ・インタビューがYoutubeにありました。

 編集がされていないので、70才のライパーさんの話は、話が前後に飛んで何度も聞き直さなければなりませんでしたが、なんと「日本から帰ってきたばかり・・・」とおっしゃていました。1989年、日本のどこで演っていたんでしょう?ご存じの方、教えてください。

 50分近い彼の話によれば、音楽教師の母の元できっちりとした音楽教育を受けたライパー、最初は演奏よりも読譜力に優れ、ブルースからビバップまで、実に様々人たちと仕事をした。ダイナ・ワシントンの伴奏者を経て、インディアナポリスに9年ほど居住する間にウエス・モンゴメリーやその兄弟達と共演。ところが、デューク・エリントン楽団で歌いたいという歌手志望の白人美女に利用され、彼女の夫に脅されて、ウエスのバンドを辞めなければならなくなった。

 そしてウエスについては、やはりエロール・ガーナー同様、忘我の状態でただただ演奏するという神がかりなものだった。一緒に演っているうちに、そのやり方を自然に会得したように思う、と語っています。でも、彼がウエスのレパートリーを採譜したということははっきり名言していませんが、ウエスのために、バンド全体のコードを整えることに努力し、「バンドのアレンジを置いていくから私が辞めてもなんとかなるだろう。」と言い残して辞めたと発言しています。「ウエスの譜面を自分が書いた」と言わないのは、この時代のプロとしての礼節なのかも知れません。

 このEarl Van Riperの演奏は、最近Resonance Recordsが復刻したインディアナポリス時代の初期ウェスの未発表ライブ『Echoes of Indiana Avenue』に収録されています。このアルバム、夏に来店されたお友達のプロデューサー、Zev Feldmanさんが送ってきてくれたものだったので一層不思議なご縁を感じました。

 トミー・フラナガンの言ったとおり。それにしても、この世界は狭いね!

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Wes Montgomery/Echoes of Indiana Avenue

 

 

 

 誰も言わない名盤の本当の醍醐味、寺井尚之の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は毎月第ニ土曜6:30pmより開催、どうぞOverSeasに来てください!

10/11(土)足跡講座のお楽しみ

あっと言う間に10月突入!エクリプスの赤い月はご覧になりましたか?その夜、OverSeasでは、メインステム・トリオがトミー・フラナガンの”Eclypso”を演奏して、最高の気分が味わえました。  OverSeasが長年開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は’60年に突入。30才になるかならないフラナガンが、長年ジャズの第一線で活躍する絶対的個性を持つ先人達のレコーディングに連日付き合いながら、個性を輝かせ、自分の進む道を見つけていくフラナガンの姿!寺井尚之のリアルな解説で、その時代にワープできるのが足跡講座の醍醐味です。  昨年ネット上に公開されたフラナガンのラジオ・インタビュー(’94)で、次々と大先輩たち録音に付き合う秘訣は「まず、自分の耳を彼らの音楽にチューニングしてから、両手を耳に連動させるようにすること」だとフラナガンは語っています。

<ウエスとフラナガンを結ぶ点と線>

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 今回の足跡講座は鉄板アルバム、ウエス・モンゴメリーの『Incredible Jazz Guitar』(後編)から!フラナガンは上のインタビューで、ウエスと共演できたことを「名誉だった」と語ってる。ウエスは譜面の読み書きができない、言わばギターのエロール・ガーナーのような天才で、レコーディングする以前から、「親指だけで演奏し、コーラス毎に次々とコードを変えていくギタリスト」として、まさにIncredibleな伝説的存在だったそうです。ところが、スタジオで一緒になったウエスはとてもシャイなミュージシャンだったらしい。

トミー・フラナガン「彼はおかしな奴だった。譜面が読めないから、自分のことを良いミュージシャンではないと思っていたんだなあ。彼はその分野の第一人者なのに!殆どの音楽家が一度は学ぶアカデミックな教義に縛られていないのだから。」(『Jazz Spoke Here/Waine Enstice & Paul Rubin著』より)

 レコーディングで初顔合わせしたウエスとフラナガン、この2人の間にはあっと驚く接点があったことを寺井尚之が発見!講座でじっくりとお伝えします。

<ハリー”スイーツ”エジソンの専売特許> 

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カウント・ベイシー楽団時代から、シンプルなのに誰にも真似の出来ないフレーズを専売特許としたハリー”スイーツ”エジソンがフリーランスとなって録音したリーダー作は、その名も『エジソン特許=Patented by Edison』 。“スイーツ”というニックネームは、レスター・ヤングから頂戴したらしい。エディソンさんは、’80年代に神戸のホテルでハンク・ジョーンズやジョージ・ムラーツとのコンサートがあった時に、お目にかかったことがあります。写真よりもずっと長身で分厚い胸板の逞しい方、子供の時に見た「ひょっこりひょうたん島」のブル元帥とそっくりでした。

harry sweets edison.jpg ジョージ・ムラーツが寺井尚之を「フラナガンの弟子です。」と紹介すると、「おお、トミーか!あいつが若い頃、ギグやレコーディングによく使ってやったもんだ。」とおっしゃったので、寺井は思わず「サンキュー!」って言ってました。何よりも印象的だったのが、いかにも上等そうな真っ赤なレザーのトランペット・ケース、そして真近で見せてもらった腕時計!images.jpg

 「スイス製だよ!本物だよ!」って、中にダイヤの粒が、文字通りスイーツな砂糖菓子みたいにコロコロと入っていて、そのお金持ちぶりにも驚いたものでした。

 簡潔な構成に輝く、スイーツの専売特許と、ダイヤの粒のようなフラナガンのプレイ!楽しみです。

<Hipster フランク・ミニヨンのジャイヴな歌詞>

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 さて、これが今回最大の問題作、ヴォーカリーズを得意としたフランク・ミニオンは、『バードランド』などNYのクラブの人気者だったらしい。声はさほど魅力的でなく、この後役者を志したといいますから、ジャマイカン・イングリッシュを売り物にしたヒップなトークが売り物だったのかもしれません。今ならラッパーとして大成功していたかも…  「黒アヘンの街」という叙事詩的な組曲は、NYのストリートの魅力を怪しい魔女にたとえたもの。ヒップな歌詞の面白さをお伝えするため、初版に更に修正を加えました。ヒップな歌詞の魅力が伝わるかな・・・?

 というわけで、足跡講座は10月11日(土) 18:30より開催。

講師: 寺井尚之

受講料:2,500円(税抜)

初めてのお客様も歓迎いたします。

トミー・フラナガン・ソロにまつわるミステリー

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 楽しい4月はダンスしながら去っていく、講座前の準備時間はもっとシビアに走り去る・・・.

 今月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は12日(土)に開催! fullerBluesetteSavoy_lp.jpg 

 今回は、ハードバップで数あるアルバムの内でも名盤中の名盤『Blues-Ette』、そしてデンマークの名門レーベル”Storyville”からリリースされ、わずか数ヶ月で廃盤となった『Tommy Flanagan Solo』、この2枚を寺井尚之が徹底的に音楽解説します。  

 『Blues-Ette』は、皆さんご存知のようにフラナガンと同郷デトロイト出身のトロンボーン奏者カーティス・フラー(tb)が、ジャズ界の黒田官兵衛というべき名参謀ベニー・ゴルソン(ts)とタッグを組んで録音したアルバム。大昔にラジオのジャズ番組のテーマ曲として毎週親しんだ『Five Spot After Dark』始め、テーマは勿論、アドリブまで一緒にくちづさめる。これほど親しみやすいモダンジャズ・アルバムも珍しいですよね。

 寺井尚之はピアノの生徒さんたちのスイング感増強のために、このアルバムを使った自宅練習方法を強く薦めています。   

 『Blues-Ette』と対照的に、もう一方の『Tommy Flanagan Solo』は「幻の名盤」、発売後わずか数ヶ月で市場から撤収されてしまったからです。騒動のきっかけは、サンプル盤を聴いた寺井尚之が、CDに収録された20トラックの一部が、「フラナガンの演奏ではない。」ことに気づいたためでした。

 追って、アルバムを試聴したダイアナ未亡人も寺井と同一の意見で、NYからジャズ評論家のダン・モーガンスターン氏が北欧に飛び事の真相を調査する騒動になり、結果、アルバムは市場から撤収され、現在に至るまで、再び陽の目を観ることのないという不本意な結果になってしまったんです。

1341.jpg Storyville レーベルは、トミー・フラナガンが1993年にデンマークの「ジャズパー賞」の授賞式のライブ・レコーディング『Flanagan’s Shenanigans』でお世話になったレコード会社で、カール・エミール・クヌセンが1952年に創設したヨーロッパ最古のジャズ・レーベルです。晩年、クヌセンは聴覚を失い、2003年に他界、問題のソロ・アルバムがリリースされた時には、代替わりしていました。

 

 問題の音源は、カール・エミールが、’70年代に存在した”Hi-Fly”という独立系レーベルが、1974年にフラナガンを録音したテープを発掘し譲り受けたということになっています。

 <謎の人物:ポール・メイヤー>

 ”Hi-Fly”のオーナーはポール・メイヤー氏というスイス人で、1932年生まれ、スイスでプロモーター、ジャズ・レコード・ショップのオーナーとして業界では有名であったそうです。彼は一時、アパルトヘイト体制下の南アフリカに住んでいたことがあり、南アのピアニスト、アブドゥラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)をヨーロッパに導き、デューク・エリントンの支援を仰いで表舞台に出した立役者でもありますが、1988年に自分のレコード店で殺害されるという不幸な最期を遂げました。

 ”Hi-Fly”というレーベル名はメイヤーが一番好きだったピアニスト、ランディ・ウエストンの代表曲に因んで命名されており、レーベルのカタログは4枚、1947年のディジー・ガレスピー楽団の音源をアルバム化したものと、後は”Informal Solo”と銘打ったソロ・アルバムが3枚、演奏者はランディ・ウエストン、サー・ローランド・ハナそしてトミー・フラナガンで、ハナさんのLPは寺井尚之も所有しています。ところが、寺井が当時血眼になって探してもフラナガンによる”Informal Solo”は見つかりませんでした。このフラナガンのアルバムが市場に出た、或いは誰かが所有しているという事実は現在も見当たりません。そして3枚のソロ・アルバムの録音場所は、フランス人、コレット・ジャコモッティという女性の邸宅で、スイスとの国境に近い風光明媚な山村、アヌシーのスキー・ロッジであったということになっています。

collette無題.png ジャコモッティは、スキー・ロッジの経営者で、熱烈なジャズファンでもあり、当時メイヤー氏と懇意にしていたことから、メイヤーがジャズメンを同行すると、料理の腕をふるって温かく接待してくれた。左の写真しかネットには見当たりませんでしたが、とてもチャーミングですよね。

 ランディ・ウェストンは自伝『African Rhythms』の中で、この”Informal Solo”の事を詳しく語っています。メイヤーとともにコレットのロッジを訪問すると、自宅に友人であるメルバ・リストン(tb)の大きな写真が飾られており驚いた。彼女の写真を飾っている家を初めてみたからだ。彼女は素晴らしく料理が上手で、ごちそうを頂いていると、メイヤーがここでぜひレコーディングして欲しいと、色々お世辞を使って頼み始めた。私を説得するためにフランス人ドラマー、ダニエル・ユメールも同席していた。説得されている間中、コレットは甲斐甲斐しく飲み物や食べ物を持ってきてくれ、彼女の厚意に根負けした形で、格安のギャラで録音することに同意した。すると彼らはその夜のうちにさっさと録音機材を整え、一時間のレコーディングを行った。

 自伝中、ウェストンはこうも書いています。

「後になって分かったのだが、ポールはサギ師(Con Man)で、せこい男だった。私を録音するためにコレットを利用したのだ。」

 ジャコモッティは、この後、ウェストンとさらに親密になり、、自らマネージャーをかって出て、フランス文化省にウェストンのコンサートを各地で開催するように取り計らい、それがきっかけでウェストンの評価は高まりました。もしアルバム騒動のときに、彼女の居所を知っていれば、フラナガンがそこで録音したのかはっきりしたのでしょうが、関係者は黙して語らず。彼女の事を私がインターネットで知ったのは、2013年の追悼記事でした。元音源の録音の関係者が、彼女の情報をくれなかったのは、フラナガンのレコーディングが実際にあったかどうかについて、確認されると具合が悪かったのでしょうか?

 ダイアナはヨーロッパでジャコモッティと会ったことはあるそうですが、彼女がどんな人かはよく知らず、トミーがここで録音したかどうかも知りません。ここでソロ録音を行ったハナさんも、すでに亡くなっていたし、真相は五里霧中。

 もう10年以上も前の騒動ですが、ダイアナに頼まれて、スイスから日本まで、各方面にコンタクトをとって色々な方にお話を伺ったのが昨日のことのようです。

 ただし、この音源からフラナガンが語りかけてくることはたくさんあって、講座で、寺井尚之が明瞭に謎を解き明かしてくれるはずです。

 経緯はどうあれ、フラナガンのソロ・ピアノ、そしてフラナガンでない演奏も、どれもこれも素晴らしい演奏ばかり!  一緒に聴くのが楽しみです。

CU 

 

トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(2)

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<幼い頃、両親のことなど>

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    玄関のベルが鳴り、フラナガンが妻を家に招き入れた。

 「トミー、ごめんなさい!荷物が一杯で鍵がどこにあるかわからなくて…ブドウとクッキーを買って来たから、荷物をほどいたらお出ししますね。」

   山のような食料品を抱え、よろよろしながら彼女は言った。ブルネットの美人だ。その黒髪が透き通るように色白の顔を引き立て、ビクトリア朝絵画を思わせるが、声は夫より大きく、動きも倍は早い。

 フラナガンは再び腰掛けて語りだした。

 「心臓発作に襲われたとき、たいしたことはないと言われながらも、17日間入院した。禁煙し、酒を控え、体操も始めた。もっぱらウォーキングするだけだが…とにかく街中を正しいペースで歩く。これは郵便配達だった父親の遺伝かもしれないな。子供の頃、兄弟で父が郵便を配達するルートを計算してみたら、少なくとも10マイル(16km)あった。父は郵便配達の前はパッカード自動車会社で働いていた。とにかく大恐慌時代の行政のほうがずっと手厚かった。

cob651.jpg 僕の父は1891年、ジョージア州のマリエッタの近くで生まれた。第一次大戦で、陸軍に入隊し、終戦後に北部へ移住した。その前はフロリダやテネシーを転々とした。父と僕は背丈も同じでそっくりなんだ。若いうちから禿げていたしね。父も音楽が好きで、カルテットを組みスパッツ姿で歌っていた。ギターを抱えた父の写真を見たことがあるが、実際に弾くのは聴いたことがない。6人兄弟、そのうち男が5人で、僕が末っ子だ。5人もいる男の子をちゃんと躾けるのは大変だから、父は規則をつくって、いつも僕達を厳しくチェックした。悪さをすると、地下室に入れて、特権を剥奪する決まりもきちんとあった。でも父は、まともな人間になるにはどうしたらいいかを完璧に教えてくれた人だった。それに父はある種のユーモアのセンスも持っていた。ジョークを言い始めると、自分でウケて大笑いするんだけど、絶対にオチがないんだ。

53373582.jpg   母の名はアイダ・メイ、小柄で美しい人だった。1895年、ジョージア州のレンズ生まれで、父と同時期に北部に移住してきた。母はインディアンとの混血だ。両親は20才になる直前に結婚し、母は教会の仕事を沢山していた。実際にデトロイトの僕達の地域(コナントガーデンズという黒人居住区域)に教会を開いたのは僕の両親だ。母のほうが父より音楽好きで、アート・テイタムやテディ・ウイルソンも知っていた。僕がそんな人たちのレコードをかけると、『それ、アート・テイタム?』『あら、これはテディ・ウイルソンでしょ?』なんて言うから、僕は嬉しくなったもんだよ。
 母は独学で譜面を読んだ。おっとりしたシャイな人で、料理や洋裁がすばらしくうまかった。僕らの洋服や、綺麗なパッチワークのキルトを縫ってくれた。1930年代の暮らしは決して楽ではなかったはずだが、母は生活苦をスイスイ乗り切って、僕たち家族に不自由を感じさせなかった。milkdoor.JPG母は1959年に亡くなり、父も1977年に86才で亡くなった。父の晩年には、長男のジョンスン・アレキサンダー・ジュニアが父の家で同居し最期を看取った。兄夫婦は今でもそこで暮らしている。姉のアイダは医院で働いていたが今は隠居している。姉には7人子供がいて、末っ子は双子だ。別の兄ジェイムズ・ハーベイは最近亡くなり、ダグラスはデトロイトの教育委員会で働いている。ルーサーはランシングに住み地域の社会福祉の仕事をしている。父の家は玄関と裏側に両方ポーチがあり今は柵で囲ってある。2階と1階に2部屋ずつ、合計4つベッドルームがある。台所口にはミルク・ドアといって、牛乳配達に空ビンを出しておく郵便受けのようなものがある。

 

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  僕が幼い頃、辺りは凄く田舎で、道は舗装されてなかったし両側に深い溝が掘ってあった。舗装されたのは1930年代の終わりだったし、地域に学校はなかった。だから、小学校は徒歩1マイル、ハイスクールはバスを2つ乗り継がねばならなかった。学校は人種混合だったが、当時のデトロイトには至るところで激しい人種差別があった。勿論、その結果が1943年の人種暴動だった。この家にはずっとピアノがあった。僕はピアノの椅子にハイハイしてよじのぼれるようになると、すぐピアノで遊び出した。6才のクリスマス・プレゼントに兄弟全員が楽器をもらった。僕はクラリネット、他の兄弟はバイオリンやドラム、サックスなどをもらったから、兄弟でちょっとしたバンドを作り、変てこな音楽を演っていた。だけど、クラリネットは余り気に入らなかった、音を出すのが凄く難しかったから。でもクラリネットのおかげで、譜面が読めるようになったのさ。ラジオのクラリネット教室の講師、マッティ先生にフィンガリングの譜面を申し込んでね。学校でも番組と同じ譜面を教材にしていたから、ラジオで勉強していて、中学に上がるまでにはちょっとは吹けるようになっていたよ。高校に上がったら、学校のバンドに入っても、へたに聞こえず溶け込めるくらいにはなっていた。

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 ピアノのレッスンを始めたのは10才か11才位でバッハやショパンを習った。地元で有名な先生、グラディス・ディラードに指示した。彼女の教室は凄く大きくなり、やがて学校を開設して講師を7-8人抱えていた。最近デトロイトでソロ・コンサートを演った時、彼女に会ったがとても元気そうだったよ。でもクラシックを習っていても、僕が聴いていたのはファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソン、アート・テイタム、それに色んなビッグバンドだった。高校時代になると、バド・パウエルが定着していたし、ナット・キング・コールも同じくらい基本になっていた。ナット・コールは、洒落ていてすっきりしたテクニックと、鮮やかなアタックがテディ・ウイルソンと共通していた。それに、すごくスイングしてどの音も弾けるようにバウンスしていた。

<朝鮮戦争>

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  僕は朝鮮戦争から逃げなかった。終戦間近に徴兵され陸軍で2年過ごした。基礎訓練を受けたのは韓国と同緯度にあるミズーリ州のレオナードウッド基地で、そこは地形まで似せてあった。訓練の終了前に、僕の訓練任務が短縮され戦地に派遣されることになっていた。まさに悪夢だったが、ちょうど、基地の余興のショウでオーデションがあることがわかった。そのショウにピアニストの出番があって、応募したらうまくパスしてミズーリに留まれた。だが1年ほどしてからやはり派遣された。僕はすでに映写技師として訓練されており港町、クンサン(群山)に着任した。戦時下だったから、深夜や早朝に、あの北朝鮮の戦闘機が我々のレーダーをかいくぐって空襲してきた。僕らは空襲に「ベッドチェック(就寝検査)・チャーリー」という名前を付けていた。軍隊のキャリアでただひとつ良かったことは、ぺッパー・アダムス(bs)としょっちゅう出会えたことくらいだな…

pepper-adams.jpg(Pepper Adams バリトンサックスの名手:デトロイト出身 1930-86)

 妻の ダイアナ・フラナガンがブドウとジンジャークッキーを盛った菓子盆を持って居間に入ってきた。フラナガンはクッキーを2枚取り礼を云うと、彼女は台所に戻った。フラナガンは2枚のクッキーを平らげ、ブドウも少しつまんだ。しばらくの沈黙をおいてから、彼はさらに語り続ける・・・ (続く)

 

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トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(1)

Jazz-Poet.jpg トミー・フラナガン(1930-2001)の誕生月、3/15(土)に、寺井尚之(p)メインステムが名演目をお聴かせするコンサートを開催します。その華麗な楽歴の中でも最高レベルのアルバム『Jazz Poet』(’82)から、”ジャズ・ポエット”はフラナガンの代名詞になりましたが、この名付け親は”The New Yorker”のコラムニスト、ホイットニー・バリエットという人で、1950年代からフラナガンのことを”Poet :詩人”と呼んでいた。

03Balliett.jpg ご存知のように、”The New Yorker”は、音楽雑誌でもタウン誌でもなく、世界的な影響力を持つ文芸誌、歴史的カリスマ編集長、ウィリアム・ショーンの厳格な統括時代は、ゴシップ記事皆無、格調高い編集ポリシーで(にもかかわらず?)週刊誌として広く愛読されてた一流誌。「これさえ読んでりゃあんたもインテリ!」みたいなブランド力がありました。バリエットは40年間、ここでジャズや書評のコラムを書き、長文、短文、署名、無署名併せて550篇の記事があります。だからジャズの記事でも、文学的な比喩が多いし、少々難しいかもしれないけれど、いわゆる「ジャズ評論家」とは少し違った文章が味わえます。もとより音楽誌ではないので、村上春樹が「意味がなければスイングはない」で、当代一番評価の高いジャズ・アーティストを「うさんくさい」と書いたのと同じように、業界の通例に従う必要のない自由闊達さがいい感じ!これから紹介するのは『Poet』というタイトル、フラナガンがエラの許から独立した1970年代の終盤に書かれたフラナガンのポートレート。勿論インタビューもあります。バリエットは、テープを一切回さず素早くメモしながら取材する伝統的職人芸。フラナガンとバリエットが個人的に親しかったのは、そういうアナログなところが好きだったのかも・・・

 原書は、彼が自分のコラムを一冊の本にまとめた『American Musicians Ⅱ』、ジェリー・ロール・モートンからセシル・テイラーまで、アメリカの音楽、すなわちジャズに関わる実に71人の一味違ったポートレート集。ずっと以前に、レスター・ヤングの章も紹介しています。英語がお得意で、ジャズと文学がお好きなら、ぜひ原書で読んでみてください。

<POET 詩人>

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 <シングル・ノートの系譜>

EarlHines.jpg 叙情的でホーンライクなシングルノートを身上とするピアニストの系譜、その源流はアール・ハインズである。カウント・ベイシーの言葉を借りるなら、かれらは『ピアノの詩人』だ。その先駆者はメアリー・ルー・ウイリアムスかもしれない。ジェリー・ロール・モートン、ファッツ・ウォーラー、ハインズ、アート・テイタムから色々吸収した後に、バップ・ピアニストとなり、同時にビバップを教える師となって、セロニアス・モンクやパウエルと共に、ピアノ奏法の若き革命家として活動した。次に現れたのがテディ・ウイルソンである。(テイタムはそれより数年早く登場しているが、もっとオーケストラ的なピアニストだ。)

teddy_wilson_2.jpg ウイルスンの静かではあるが、殆ど数学的な無敵の右手パターンはピアノ・スタイルの一大ジェネレーションを形成することになる。この世代に属するのはビリー・カイル、ナット・キング・コール、ハンク・ジョーンズ、ジミー・ロウルズ、レニー・トリスターノたちだ。カイルの右手は断続的な破線を表現し、肝心かなめのフレイズの最初の音符に強烈なアクセントを付けるというところが特徴だ。一方、ナット・キング・コールは’40年代には、ジャズ界で最もビューティフルなピアニストであった。そのタッチ、いともやすやす繰り出される驚異的なラインの数々、心憎い独特のリリシズム、そのプレイがキラキラと輝いていた。透明感のあるタッチということでは、ハンク・ジョーンズも同じだが、彼の場合はテディ・ウイルソンの右手のタッチを、一層モダンに、そしてソフトにしたスタイルだ、ジミー・ロウルズは、ウイルソンとテイタムを併せ、そこに独特のウイットと鋭いハーモニー・センスをブレンドして、ルイス・キャロル(訳注:不思議の国のアリスの作者)やエドワード・リアー(ルイス・キャロルに影響を与えたと言われているナンセンス詩人&画家)を彷彿とさせるようなシングルノートを得意とする。トリスターノは、ウイルスンやテイタムとは、異なった奏法を追求し、悪魔的な力で、息継ぎも、一部の隙も無いメロディクなラインを創造した。ジョン・ルイスとエロール・ガーナーは「ハインズ-ウイルソン世代」の最後を飾る、最も風変わりなピアニスト達だ。言わばジョン・ルイスは点描派であり、エロール・ガーナーは野獣派であった。ピアニスト達は、ハインズの豊かな音楽性に、ありとあらゆるものを見出したわけである。

Bud_powell81.jpg ‘40年代半ば、ビリー・カイルとアート・テイタムから生まれたバド・パウエルは、ピアノの新世代を魅了した。彼のシングルノートは緊張感に満ち、硬質で、スイングする。特にアップテンポでは、荒々しく、超速の閃きを見せた。このバド・パウエルの信奉者は2つのグループに分けられる。一つは初期のビバップのピアニストたち、ドド・マーマローサ、アル・ヘイグ、デューク・ジョーダン、ジョー・オーバニー、ジョージ・ウォーリントンなどのグループだ。もう一つは、彼らよりもっと若く、もっとオリジナリティのあるピアニスト集団で、ホレス・シルバー、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、そしてビル・エヴァンスたちがいる。(50年代に登場し、パウエルに追従しなかった例外的ピアニストは2人いる。デイブ・マッケンナとエディ・コスタだ。)

Bill_Evans-Portrait_In_Jazz.jpg ビル・エヴァンスは、シルバー、トリスターノ、ナット・キング・コールといった人たちの要素に、独特の内向性を結び付けた。彼はやがて、バド・パウエル以降、最も影響力のあるピアニストとなったのである。’60年代以降に登場したピアニストで彼の影響から逃れられた者はほとんどいない。

<トミー・フラナガン登場>

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 そして、二つの全く無関係な事件が相次いで起こった。ひとつめは、1978年にトミー・フラナガンが10年来携わったエラ・フィッツジェラルドとの仕事を辞めたこと。ふたつめは、1980年、エヴァンスが死去したことの二つだ。フラナガンはソロ・ピアニストとして、時にはトリオやデュオで再出発、ゆっくりではあるが順調な道を歩んだ。今では、影響力という点で、この非常に内気な男がエヴァンスの後継者となっている。

Jimmy-Rowles-Isfahan-550106.jpg   シングル・ノートの長老ピアニスト、ジミー・ロウルズはフラナガンについてこう語る。

 「トミーは凄いピアニストだよ。賞賛の言葉以外思いつかないな・・・伴奏者としてもソロイストとしてもね。よく一緒に”ブラッドレイズ” (訳注:NY大学の近くにあったジャズ・クラブでフラナガンが出演していた。朝までやっていて、仕事がハネたミュージシャンのたまり場だった。)で、うだうだ飲んだもんだよ。色んな曲をおさらいしたり、仕事のぐちや噂話をしたりしてね。彼のレパートリーの広さには舌を巻くよ!今どき『鈴掛の木の下で』を知ってるピアニストが何人いると思う?!

 トミーはね、 ちょっと水くさいところもある、何でもあけっぴろげにするのが嫌な性格なんだ。だけど面白い奴だよ。会ったら「近頃どうだい?」って挨拶するだろ?すると、『ああ、僕の持ち物(訳注:tools: ピアノや仕事、そして男性のシンボルも併せて…)で、最善の効果を挙げようと鋭意奮闘中だ。』 なんてね!」

 03_bradleys-sm.gif  “ブラッドレイズ”のオーナー、ブラッドレイ・カニングハムはこう語る。

 「トミーは礼儀正しいし、それでいてめっぽう面白い人だ。一緒に居て楽しいし、プレイはそれ以上に大好きだよ。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバル期間中、エラの仕事にしばらく空き日があり、トミーをうちの店に雇ったことがあった。ジョージ・ムラーツとデュオでね。ところが初日に一人の客も来なかった。うちの客も知り合いも、誰も来なかった。この業界で長くやってると、そんなこともあるから、私だって承知の上さ。成す術なし!せいぜい、”お手上げ”のジェスチュアをするのが関の山だ。トミーとジョージは周りを見回してから、顔を見合わせているばかりだったよ。しかし、この二人は音楽的に一体だった。その夜、閉店後、二人がちょっと演奏したんだが、それは、今までに聴いたこともないほど独創的でスイングする音楽だった。ピアノ弾きというものは、まず聴く者を笑わせ、それからおもむろに、笑ってた同じ心が感動で張り裂るようなプレイをしなければならない。トミーの演奏は、まさにその手本だ。」

 

 <アパートにて>

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  フラナガンは中肉中背だ。禿げ頭の裾野に白髪が残っていて、その頭に釣り合いのとれた濃い口髭を蓄え、シャイな目元に眼鏡をかけている。話す時には、首を右にかしげ、部屋の左側に目をやる、あるいは左に首をかしげ、部屋の右側に目をやる。彼の握手は柔らかく、声も同じく柔らかで、その言葉は人をはぐらかせる。しかし、そういう態度の大部分はかりそめの姿だ。彼は端正でえくぼの入る微笑みを見せ、よく笑う。フラナガンは妻ダイアナとアッパーウエストサイドに住んでいる。アパートは南向きで昼間は太陽がさんさんと差し込む。窓辺にはレースのカーテンが掛かり、ロイヤルブルーのベルベットのソファが置かれ、ダイアナ・フラナガンの蔵書が壁の一方を埋めている。そこにはアンドレ・マルロー、ジューン・ジョーダン、アレック・ワイルダー、ポール・ロブスン、ジャイムズ・アギー、デューク・エリントン、メイ・サートンなどの著作が並んでいる。 

 或る午後のひと時、フラナガンは、その居間に座り自分自身について語った。その話振りはとても遠慮がちで、まるで今初めて会った人間について語っているかのようだった。

 フラナガンは1930年、デトロイトに昔からある黒人居住区、コナントガーデンズに生まれた。’40~’50年代にデトロイトで音楽的才能が大量に噴出したのは、当時デトロイトの過酷な人種差別状況に対する、婉曲な代償であったのかも知れない。

 <回想>

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 その時代のジャズ・シーンは、フラナガンの思い出として心の中で今も輝き続けている。

MusicANDWillie.jpg 「デトロイト出身者には、ミルト・ジャクソン(vib)、ハンク・ジョーンズ(p)、ラッキー・トンプソン(ts,ss)のように、早くから町を離れ、ときおり演奏の仕事で町に戻ってくる先輩達が居る一方、ウイリー・アンダースン(p)のように地元に残るミュージシャンも居た。アンダースンは長く美しい指を持ち、独学でベース、サックス、トランペットを演奏する事ができた。ベニー・グッドマンにスカウトされても、彼は一緒に行こうとしなかった。多分字が読めないことが恥ずかしかったのだろう。その下が僕達の一団だ。僕より後輩もいたし、早まって町を出るのをよしとしない先輩もいた。名前を挙げると、僕の同窓生のローランド・ハナ(p)、ポール・チェンバース(b)、ダグ・ワトキンス(b)、ドナルド・バード(tp)、ケニー・バレル(g)(ケニーはオスカー・ムーアが大好きで、僕らはナット・キング・コール・スタイルのトリオを結成したことがある。)、ソニー・レッド・カイナー(as)、バリー・ハリス(p)、ぺッパー・アダムス(b)(ペッパーはロチェスター高校出身で、最初会ったときはクラリネットを吹いてた。)カーティス・フラー(tb)、ビリー・ミッチェル(ts)、ユセフ・ラティーフ(ts,etc…)、テイト・ヒューストン(ts.bs)、フランク・ガント(ds)、フランク・ロソリーノ(tb)、パーキー・グロート、サド・ジョーンズ(cor)にエルビン・ジョーンズ(ds)(ふたりともハンク・ジョーンズの弟でデトロイトから少し離れたポンティアック出身だ。)アート・マーディガン(ds)、オリバー・ジャクソン(ds)、ダグ・メットーメ(tp)、フランク・フォスター(ts)(出身はシンシナティ) 、 ジョー・ヘンダースン(ts)、JRモンテローズ(ts)、ロイ・ブルックス(ds)、ルイス・ヘイズ(ds)、ジュリウス・ワトキンス(french horn)、テリー・ポラード(p.vib)、ベス・ボニエ(p)、アリス・コルトレーン(p)… 歌手ではベティ・カーター、シーラ・ジョーダンという連中だ。ミュージシャンが集まり、ザ・ワールド・ステージ・シアターという劇場で毎週コンサートを主催した。僕らはまた<ブルーバード・イン>、<クラインズ・ショウバー>、<クリスタル>、<20グランド>といったクラブや、<ルージュ・ラウンジ><エル・シーニョ>といった店でも演奏した。エル・シーニョはチャーリー・パーカーが出演した店だ。10代の頃、僕らははパーカーがその店に出演するというと、みんなでバンドスタンドの脇にある網戸の外につっ立って、中を覗き込んだもんだよ。そんな生活が’50年代半ばまで続き、やがて皆、町を去り始めた。ビリー・ミッチェルはディジー・ガレスピー楽団に、サド・ジョーンズはベイシー楽団、チェンバースはポール・キニシェット楽団、ダグ・ワトキンスはアート・ブレイキー、ルイス・ヘイズはホレス・シルバーのバンドに落ち着いた。僕は1956年頃までデトロイトに居て、それからケニー・バレルとNYへ出ていった。

<NYへ>

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  その当時は、まだアップタウン(ハーレム)でジャムセッションが行われていた。月曜は<125クラブ>、火曜は<カウント・ベイシーズ>水曜は<スモールズ>だった。ジャムが自分の実力を世間に披露するのに最適な場所だ。もちろん新入りは、出番が回ってくるまで長いこと待たなくてはならない。時には午前3時、4時までバンドスタンドに上がれないときもあった。だが、NYにきてたった数週間で初レコーディングの仕事をした。レーベルは”ブルーノート”、アルバム・タイトルは<デトロイト-NYジャンクション>で、ビリー・ミッチェル、サド・ジョーンズ、ケニー・バレル、オスカー・ペティフォード、シャドウ・ウイルスン(ds)の共演だった。その後すぐに、マイルズ・デイビスやソニー・ロリンズとも録音した。コールマン・ホーキンスとの出会いはマイルズの紹介で、彼ともレコーディングした。初めてのナイトクラブの仕事は”バードランド”だ。バド・パウエルの代役を頼まれたんだ。同じ年の7月、ニューポート・ジャズフェスでエラ・フィッツジェラルドと初めて共演した。それからJJジョンスンのバンドで1年間やって、ヨーロッパ全土を楽旅した。その後はNYに留まり、色々なところで演奏したりレコーディングした。

  1960年に最初の妻、アンと結婚したが、70年代の初めに離婚した。私達の間には3人の子供がいる。トミーJr.はアリゾナ在住、レイチェルとジェニファーは二人とも子供をもうけて、カリフォルニアに住んでいる。アンは1980年に自動車事故で亡くなった。

<エラ・フィッツジェラルドと>

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  1962年、エラと2度に渡る長期の仕事の一回目が始まり、’65年まで続けた。その後1年間はトニー・ベネットと共演した。その頃には西海岸に移住していた。その後は「カジュアル」-いわゆるクラブギグを専ら演っていた。西海岸の仕事は手堅い。というか、派閥が強くて排他的だった。エラもカリフォルニアに住んでいて、1968年に、再びエラから声がかかった。以来10年間彼女のミュージカル・ディレクターとして落ち着いた。彼女のことをよく知ってしまえば、これほど一緒に仕事をやりやすい相手はいない。だけど最初のうちはきつかったよ。とにかくいつクビになるか不安で危なっかしい。例えば僕が少しでもミスしようものなら、「もしこれからもこんなブサイクなことになるんだったら、仕事がなくなっちゃうじゃないっ!」と言われるんだ。だから、しっかり演奏しなければと肝に銘じた。何しろ僕はエラのミュージカル・ディレクターなんだし、彼女の引退が僕の責任だなんてまっぴらだったからね。

 でも彼女は僕たちの誕生日だって絶対に忘れることはない。エラの為に働くというのは、他の歌手の伴奏とは全く違っていた。求めるレベルがずっと高度だ。彼女のイントネーションは完璧だった。ジム・ホールが以前、彼女の声はチューニングできるとまで言ってたよ。僕は楽旅することがキツくなり、1978年に心臓発作にやられたこともあって、とうとう辞めたんだ。」 (続く)

対訳ノート(42) Blues for Dracula

先週の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、チャラ男系の巨匠ドラマー、フィリー・ジョー・ジョーンズの『Blues for Dracula』(Riverside)で、大いに楽しみました。フィリー・ジョー自らブラッシュでパタパタパタとコウモリの羽音でイントロを奏でてから繰り出すドラキュラ伯爵のモノローグ。
 
 ジョニー・グリフィン(ts)、ナット・アダレイ(cor)、ジュリアン・プリースター(tb)、ジミー・ギャリソン(b)、トミー・フラナガン(p)という申し分のないフィリー・ジョーのセクステット(訳詞にある「夜の子どもたち」)が奏でるこのブルーズはグリフィン作、本録音の4ヶ月前には”Purple Shades“というタイトルで、『Art Blakey’s Jazz Messengers and Thelonious Monk』(Atlantic ’58)に収録されています。
 足跡講座では、まず構成表でプレイの組み立てを頭に入れておいて、レコードを聴きながら、下の対訳表をモノローグに沿って映写しました。
 お時間があれば、下の音源と対訳表で、OverSeasの足跡講座の気分を、私と一緒に味わってみませんか?

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  フィリー・ジョー・ジョーンズはこのレコーディング以前、2年間”Prestige”でハウス・ドラマーのような役割をしていました。オーナーのボブ・ワインストックに、「もういい加減自分のリーダー・アルバムを作ってくれ」と掛け合ったが、ワインストックは首を縦に振らなかった。「そんなら、うちで演らないか?」と声をかけたのが”Riverside”のオリン・キープニュース、初リーダー作録音の休憩中に、ふざけてやってたチャラ男のドラキュラ・ネタがあまりにも面白かったので、ブルーズに乗せて録音、『Blues for Dracula』がそのままアルバム・タイトルになったと言われています。
 でも、このモノローグはとてもその場でやったとは思えないほど、しっかりした作りになっている。『ビバップ・ヴァンパイア』や『夜の子供たち』は、ヘロインの禁断症状に悩むバッパーだとすぐにわかるけど、そんなジャズメンを脅して生き血を吸うクラブ・オーナーこそが、「ほんとはコワいんだぞお~」というオチが最高です。
 
view_from_within_the.jpg ”Riverside”のプロデューサー、オリン・キープニュースはフィリー・ジョーや、このモノローグの本家、レニー・ブルースとベラ・ルゴシのドラキュラについて、面白いことを書いていました。 
 「レニー・ブルースのスタンダップ・コメディが、とりわけジャズ・メンに愛されたのは、彼らを取り巻く環境がよく似ていたからだ。5時に終わる仕事なら、それからカクテルでもすすりながらほっと一息つく場所はどこにでもある。だが、午前2時や4時に仕事が終わる人間にとって、仕事帰りにくつろげる場所は非常に限定されてしまうんだ。
 彼らはオールナイトの映画館で朝まで過ごし、TVの深夜映画を観て、否が応でもB級映画に詳しくなってしまった。ベラ・ルゴシへの愛と理解は、正にレニーとフィリー・ジョーが共有するものだった。」
(”The View from Within:Jazz Writings 1948-1987″ Orrin Keepnews著/ Oxford University Press刊)

ニュー・イヤー講座、フィリー・ジョー・ジョーンズ:対訳覚書

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Philly Joe Jones (1923-85)

 
 新年明けましておめでとうございます。暦の関係で、何年ぶりかの正月休みでした。ただし、夜なべに講座用の対訳を作りながら・・・それも、スタンダード・ソングではなく、ハチャメチャに早口な約10コーラスのヴォーカリーズや、フィリー・ジョー・ジョーンズの”吸血鬼ブルーズ”のモノローグ・・・前回の講座で使った資料は、プロジェクターの仕様が替わったのを機に、一から洗い直しです。

 新年講座の番外編として、カウント・ベイシー楽団、ジョー・ウィリアムズが、”Lambert Hendrick and Ross”とコラボした一大傑作、『Sing Along with Basie』の代表的な2トラック・・・どれも歌詞が多すぎて、OHPを閲覧した後は忘れ去られる虚しい内職と、指揮官を恨んだものの、結構奥が深くて、やっぱり対訳は楽しいです!
 

 昔、トミー・フラナガン、モンティ・アレキサンダーの2大ピアニストと御飯を食べている時、楽器別ミュージシャンに共通する性格の談義になり、「一番のチャラ男はドラマーだ。」という結論になった。フラナガンがジェスチャー付きで言うには、ドラマーというものは、バンドスタンドで叩きながら、「可愛い女の子がいないか、会場内をくまなくスキャンしている。」らしい… 

 チャラ男なら、私が一番最初に思い浮かべる巨匠こそフィリー・ジョー・ジョーンズ!
 本名、ジョセフ・ルドルフ・ジョーンズ: 地元では普通にジョー・ジョーンズであった彼に、「そのままでは、本家の(パパ)ジョー・ジョーンズに仁義が悪い」と、出身地フィラデルフィア(フィリー)の冠を付けてくれたのは他ならぬタッド・ダメロンだった。
 

 コージー・コール直伝の正統派テクニックと、軍警察やトロリーバスのカタギ社会、ドラッグ密売の闇社会で培ったヤクザなストリート系の魅力を併せ持つミュージシャン!昔OverSeasの調理場にいた海千山千の凄腕バーテンダーを思い出します。

 フリー・ジャズ全盛の70年代、フィリー・ジョーは、「楽器ケースを持ち歩くだけの連中や、ノイズは音楽とちゃう!まともなことやって売れんのんかい!」と、アヴァン・ギャルドの看板を掲げるミュージシャンをバッサリ斬り捨てた。
 

lenny_bruce__the_jazz_stars.jpg  そのフィリー・ジョーが愛したのが「お笑い」、中でも人種的なギャグや下ネタで、警察から睨まれたユダヤ系のスタンダップ・コメディアン(日本なら漫談家orピン芸人)、レニー・ブルースが一番のご贔屓!

 二人はドラッグという共通の楽しみもあり、大親友でした。
 スタンダップ・コメディというのは、座布団なしの落語、いわゆる漫談、ヴィレッジ・ヴァンガードのようなジャズクラブでも’50年代にはジャズ・バンドと演芸の二枚看板でライブがあったんです。レニー・ブルースの得意ネタが、ドラキュラ役者 ベラ・ルゴシの物真似、彼にかかると、ドラキュラの嫁さんは口うるさいユダヤ系の女性で、ドラキュラ伯爵が、東欧訛りで一言文句を言おうものなら、10倍返しで突っ込まれる。街に出れば、バーで酔っぱらいと喧嘩したり、ドラキュラ伯爵は、東欧訛で血を吸うこと以外は、どこにでもいる一市民、「訛りすぎるベラちゃんです。」って感じ。

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 ハードバップにそのまんま話芸を乗っけたのが、フラナガンも参加するハードバップの名盤のタイトル曲、”Blues for Dracula”、当初、レニー・ブルース本人がトークの部分をやる企画もあったそうですが、色々あってフィリー・ジョー本人がベラ・ルゴシのドラキュラ伯爵に扮して、一席やってます。これが凄い、真打ち級の話芸が堪能できます。

 なにしろバッパー、噺の内容も物まねではなくジャズ仕様、話し振りもスイングしています。  belle-dee-dracula.jpg 

 お話は 嫁も子供も居るドラキュラ伯爵の家に、ジャズ・バンドが余興に呼ばれ、そこでブルースを演奏するというもの。
 

 訛りすぎのドラキュラ伯爵は、ジャンキーのバッパーように禁断症状に苦しんだり、ジャズ評論家の真似をしたり、ドケチのクラブ・オーナーになったりする。ジャズメンの自虐と、ジャズ界への痛烈な皮肉が共存してて、最高です。

 今回は、ワイドサイズになった対訳の映写で、「語り」の楽しさがさらにお伝えできればいいのですが・・・

 

 フィリー・ジョーの生き様や音楽については、またじっくり調べて書きたいと思いますが、このエントリーの結びとして、心臓発作と報じられたフィリー・ジョーの死の真相について、大阪の巨匠ベーシスト、西山満さんが親交厚いNYのジャズ・ミュージシャンたちから口伝えに伝わったお話を書いておきます。

 フィリーは60年代、一時英国に住んでいたことがあります。亡くなる前、わざわざイギリスから一人の弁護士が彼の元に訪ねてきました。フィリーの大ファンであり、友人でもあった英国貴族が亡くなり、遺書にフィリー・ジョーに多額の遺産を遺すと記されており、その遺産譲渡の法的手続きのためでした。降って沸いた大金!フィリー・ジョーは高級車やデザイナー・ブランドのスーツを買い込んだ!マイケル・ジャクソンも顔負けの伊達男、滅多に味わえない極上のコカインをどっさり手に入れた。それを一気に服用してオーヴァードーズ、心臓麻痺を起こして天に召されたというのです。西山さんは言った。「幸せな奴や。大往生や・・・」

 このお話の裏づけはまだ取れていないのですが、いかにもフィリー・ジョーらしい最期!ビバップ・ヴァンパイアはまた甦る!

と、いうわけで続きは講座で! CU 

 

 

Jazz it’s Magic とデトロイト・ジャズ・シーン

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Magic.jpg  シーツをかぶり、白いパンスの上に赤い水着…あまちゃん??これ誰がデザインしたの?

 『Jaz…It’s Magic』(1957年9月録音)が、14日(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。CD化されたときは、当たり障りのないジャケットでした。いずれにせよ、中身はれっきとしたハードバップ!

 NYっ子、ジョージ・タッカー(b)以外、全員がデトロイト出身ですから、CDのライナー・ノートに書かれているように、Savoyがら出た、もうひとつの『Jazz Men Detroit』なのかも知れません。

  

 フロントのカーティス・フラー(tb)とソニー・レッド(as)は、この年に一緒にNYに出てきたばかりの新進ミュージシャンでした。

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 フラーは、永遠の愛聴盤『Blues-Ette』など、今後の足跡講座に頻繁に登場しますが、レッドはこの一枚だけです。 

 ソニー・レッド(表記が色々ありますが、正しくはSonny Red)は、本名、シルヴェスタ・カイナー、1932年デトロイトのノース・エンドと呼ばれる黒人居住区に生まれました。フランク・ガント(ds)やドナルド・バード(tp)と幼馴染、アレサ・フランクリンやダイアナ・ロスもこの地区出身です。

 

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 レッドは、デトロイトの若頭的存在だったバリー・ハリス(p)の指導をうけ、一人前のバッパーに成長、1954年になるとハリスやフランク・ロソリーノ(tb)と共演、同僚にはダグ・ワトキンス(b)がいました。一足先にNYに進出し、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの創設メンバーとなったワトキンスの推薦だったのか、同年、NYで短期間、メッセンジャーズで活動し、’57年に再びフラーとNY進出することになるわけです。

 この年、レッドはフラーのリーダー作『New Trombone』や、ポール・クイニシェットのアルバム『On The Sunny Side』 に参加し、快調なスタートを切るのですが、レッドには肺疾患の持病があり、ホーン奏者として致命的な問題でした。

 レッドは翌1958年、父が亡くなったのを機に一旦デトロイトに活動の拠点を移します。トミー・フラナガンやサド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルなど、デトロイト・ハードバップを牽引した天才たちがNYに去った後の、”ブルーバード・イン”やデトロイトのジャズ・シーンはどんな様子だったのでしょう?


<トミー・フラナガン後の”ブルーバード・イン”> 
sonny_redSCN_0017.jpg“ブルーバード・イン”にて:NYのから帰郷後のソニー・レッド (1932-1981) 

 

 OverSeasで寺井尚之が演奏を続けているデトロイト・ハードバップの基礎を作った、トミー・フラナガンやサド・ジョーンズでおなじみの“ブルーバード・イン”、サド&エルヴィンのジョーンズ兄弟やトミー・フラナガンは、いわば楽天イーグルスのマーくんのようにメジャー行きが約束される別格的存在でした。

 彼らが去った後、後輩ミュージシャンを指導し束ねるボス的な役割は、自宅で私塾的セッションを開催するバリー・ハリス(p)や、昼間はクライスラーの工場で働きながら、精力的に演奏していたユセフ・ラティーフ(ts,ss,etc…)が果たしていたようです。

  

tommy5994508.jpg ”ブルーバード・イン”は地元の精鋭でハウスバンドを組織し、そこに一流ゲストを組み合わせることで人気を博しましたが、そのためにハウス・ミュージシャンがNYにスカウトされ流出するという図式になっていたのかもしれません。 1957年、店は一旦改装、再オープンのときには、全国区クラスのモダン・ジャズ・バンドをブッキングする方針に転換。経営者、クラレンス・エディンスが、マイルズ・デイヴィスやミルト・ジャクソン、ソニー・スティットなどのスターと特に懇意なタニマチで、比較的安いギャラで導入できる利点があったためでした。以後2年間はデトロイトで唯一ビッグ・ネームを出演させるクラブとして君臨。再オープンした年は、モダン・ジャズ界で人気ナンバー1を誇るジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイを擁するマイルズ・デイヴィス・セクステットを始め、スターの公演が目白押し、さらにカウント・ベイシー・オール・スターズとして、サド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルが里帰り公演を行い、大盛況であったといいます。

 この時期の”ブルーバード・イン”で、ハウス・バンドというのは大物ローテーションの谷間を埋める役割で、インターナショナル・ジャズ・バンドというグループ名。アリス・コルトレーン(p)の義兄となるアーニー・ファーロウ(b)がリーダーで、フロントに、帰郷したソニー・レッド(as)が、そして ヒュー・ロウソン(p)、オリヴァー・ジャクソン(ds)というメンバーでした。(上の写真) レッド以外のメンバーは3人とも、ユセフ・ラティーフの舎弟といえるミュージシャンたちです。


 デトロイトで唯一、大物が出演するジャズ・クラブとして再び隆盛を誇るった“ブルーバード・イン“ですが、そのうち、同じような業態のライバル店が出現、そんな状況で、ミュージシャンの出演ギャラが高騰、やがて満員になってもペイできない状況になり、モータウン・ミュージックへの流行の移り変わりで、ジャズ・シーンは衰退していきます。

 だんだん身につまされてきたので、今日はここまで!

 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は毎月第ニ土曜日 6:30pm- OverSeasにて開催中!

受講料2,625yenです!(学割半額)

デトロイト:モーターシティ創世記

 オバマ再選!少なくともジャズに関係ある米国人なら、人種や居住地に関係なく、共和党ロムニー候補に投票した人は、まずいなかったでしょう・・・

 このロムニーさんは意外にもデトロイト出身、一方オバマ大統領が属する民主党から 1930年代に出馬したフランクリン・ルーズベルトの大統領就任に一役買ったのは、自動車産業に従事するデトロイトの黒人労働者たちでした。

 米国中西部有数の大都市、モーターシティ、デトロイトは、言うまでもなくトミー・フラナガンだけでなく数えきれないほど多くのジャズ・ミュージシャンを輩出しました。またビバップ時代、ディジー・ガレスピーが本拠地に選び、マイルズ・デイヴィスが長期滞在した場所です。

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 フィラデルフィアやシカゴなど、ジャズ・ミュージシャンを多数輩出した他の都市とデトロイトはどう違うのでしょう?

 昔、トミー・フラナガンと一緒にリンカーン・センターの図書館に行った時、私の見慣れない人たちの古めかしい写真にフラナガンが大喜びしたことがありました。(下の写真)

  「マッキニー・コットン・ピッカーズ(McKinney Cotton Pickers)!わたしはこの人たちを聴いて育ったんだよ!デトロイトから有名になった。ベニー・カーターもここにいたんだよ。」
???

 Cotton Pickers (綿摘人夫さんズ)……人種差別に対しては、物凄い大声で怒るリベラルなトミーにしては、いかにも不釣り合いな名前やん・・・私は昔のデトロイトにとても興味を持ったのでした。

 というわけで、土曜日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、そして17日(土)のトリビュート・コンサートまでに、トミー・フラナガン以前のデトロイトをざっと駆け足で辿っておきます♪

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  <移民と黒人の街> 

 モダン・ジャズにとって、もうひとつの重要な街:フィラデルフィアが18世紀からの歴史的な大都市であったのに対し、デトロイトは自動車産業というものが出来てから急激に大きくなりました。
 1900年までのデトロイトは、さしたる産業もなく人口は30万人弱、それが自動車産業のおかげで、僅か20年後に、全米第4位の100万人都市となり、1920年代には、更に50万人が流れ込んできました。デトロイトにやってきた人たちのほとんどが製造業に従事。彼らの多くは外国からの移民、あるいは南部からやってきた黒人達でした。黒人労働者の大部分はジョージア、アラバマ、テネシー、サウスキャロナイナ、ミシシッピー州といった南部の農村地帯から流入した人々で、フラナガンの両親も同様です。

 南部から流入する黒人の人口の急激な増加は、KKKの襲撃といった深刻な人種対立を生んだ一歩で、黒人コミュニティの発展につながっていきます。

<黒人による黒人の街>

  モーターシティとなったデトロイトは、黒人の社会的階層に大きな変化をもたらしました。大部分が掃除人や日雇い人夫といった最低賃金の職業で形成されていた階層が、自動車工場に従事する新しい労働者層と入れ替わり、彼らを顧客にする商店や食堂、質屋、下宿屋、医者などの自営業が増えます。自営業者は、19世紀には、ごく少数の超エリートだったのですが、そういう黒人中産階級が増えて行きました。つまり、モーターシティの黒人労働者層が、黒人エリートを支えることになったのです。
  1919年、デトロイトに出現した黒人の劇場経営者、エドワード・ダドリーは、全米の黒人メディアにヒーローとして絶賛されています。ダドリーは、デトロイトの黒人街にあるユダヤ人経営の劇場のマネージャーを歴任した後、ヴォーデッド・シアターという劇場のオーナーとなり、それはシカゴやフィラデルフィア、どこにも例のない快挙でした。

 黒人コミュニティの繁栄は、歓楽街の発展や音楽の充実、そして何よりも黒人のプライドを鼓舞しました。その結果、ミシガン州では1937年に人種平等を推進する強力な公民権法が成立、人種混合かつ、黒人師弟の将来に手厚い公立学校教育がフラナガン世代に大きな影響をもたらしたのです。でも、その反動として強い人種間の軋轢が続きました。

 
<デトロイト・ジャズ誕生!>

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 黒人コミュニティの中心的な繁華街はパラダイス・バレーと言われました。そこには劇場や映画館、ナイトクラブが集中し、それらの遊興施設の大部分は黒人の経営だったそうです。
ラジオのない時代、20世紀初頭、”ジャズ”と呼ばれたデトロイトの黒人音楽は、南部から流入してきたブルース・スピリットと、従来的なワルツやクラシック、ラグタイムなどの軽音楽が融合した、多様というかアバウトな形態でした。演奏場所は映画館、劇場、ボール・ルーム、バンドも客と同じ人種、白人、黒人が分割され、両方とも隆盛だったといいます。バンドリーダーにはバイオリニストが多く、編成は、クラシックのオーケストラを模したものから、吹奏楽的なものまで様々でした。
 ラジオもなく、無声映画の時代ですから、それぞれの地方によって様々な楽団があったのでしょうが、残念ながらほとんど記録は残っていません。

pyramid.ai.jpg  やがて、ラジオが普及し、映画がトーキーになってからは、楽団が淘汰され、いわゆるスイング・ジャズを演奏する楽団だけが生き残ります。

 無声映画の劇場付の古い楽団は一掃され、人気楽団は各地を巡業をする”テリトリー・バンド”になります。さらに人気のある楽団は、ラジオやレコードを通じて全国的な人気を博する”ナショナル・バンド”としてNYや放送局にひっぱりだこになりました。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、白人ならベニー・グッドマンの率いる全国的な楽団を頂点に、”テリトリー・バンド”、地元のローカルなバンドが底辺を支えるピラミッド型の楽団階層になり、実力のあるミュージシャンは上に上っていくわけです。ビリー・ミッチェルやサド・ジョーンズはテリトリー・バンドでキャリアを積み、デトロイトの”ブルーバード・イン”で開花し、カウント・ベイシーというナショナル・バンドに落ち着きました。

 楽団が巡業することで、各地の音楽性が融合し、化学反応を繰り返しながらジャズは発展していったのです。

 トミー・フラナガンが親しんだマッキニー・コットン・ピッカーズという楽団はデトロイト初の黒人”ナショナル・バンド”として、ドン・レッドマンやベニー・カーターたちのNY的なジャズの要素を取り込みながら、デトロイトの音楽を洗練させていったのです。1920年代に結成されたこの楽団、街の育ちでも、黒人は「南部」のイメージがなければ売れなかったので、こんな名前になったのですが、そのアンサンブルの優雅でスイングすることは、どんなNYの楽団にもひけを取らなかったといわれています。

Jeangraystoneorchpostcardsmall.jpg コットン・ピッカーズに比肩する白人楽団もデトロイトにはありました。ジーン・ゴールドケット楽団は、白人モダンジャズの「祖父」といわれる夭折のトランペット奏者、ビックス・バイダーベック(tp)、レスター・ヤングが憧れたというサックス奏者、フランキー・トラムバウワー、トミー&ジミーのドーシー兄弟tといった白人のジャズスターの宝庫だったのです。客層の人種は隔絶されていましたが、楽団同士の音楽交流はデトロイトの劇場の裏庭で、密造酒片手に頻繁に行われたといいます。そのため、「スイング時代はNYではなくデトロイトから始まった」と主張する評論家(ジーン・リース)もいるのです。

 デトロイトでは、黒人テリトリー・バンドのプロモーターも黒人、彼らはボクシングの興行を正業としていたのでした。

 

<黒人が経営する歓楽街、パラダイス・バレー>

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 ジャズ・エイジの後にやってきた大恐慌、自動車工業の労働者の半数が失業しても、スイング・ジャズとダンスホールの流行で、パラダイス・バレーは盛況を続けました。
  

 ダンスホールが下火になり、ナイトクラブ時代には、ハーレムの「コットン・クラブ」同様、白人客向けに、黒人音楽やダンスのショウを供するクラブがパラダイス・バレーに沢山出来ました。そのオーナーの多くがまた黒人であったのは、デトロイトだけの状況です。NYハーレムのコットン・クラブは白人のマフィアのものでした。デトロイトだけに黒人経営者がいたのは、デトロイトの黒人ギャングたちが”ナンバーズ賭博”で莫大な利益を得たおかげだと言われていますが公式な記録はもちろん残っていません。

billy_mitchell_PIC.jpg サド&エルヴィンのジョーンズ兄弟、ビリー・ミッチェル、そしてトミー・フラナガンが切磋琢磨した“ブルーバード・イン”も、もともとは黒人のデュボア・ファミリー が新興の黒人地区タイヤマンに開店したレストランで、デュボア・ファミリーは息子が父親を殺害すると言う凄惨な事件を経て、クラレンス・エディンス(上の写真)という経営者に変わり、デトロイト・ハードバップの華が開くのです。

 土曜日の「新・トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、その辺りの社会状況や、公民権運動盛んなデトロイトの充実した黒人教育について、寺井尚之が音楽内容と一緒に楽しく解説したします。どうぞお気軽に覗いてみてくださいね!

 寒くなったので、お勧め料理はRoaring Twentiesならぬロール・キャベツにする予定です。

CU

新シリーズに向けて!「トミー・フラナガンの足跡を辿る」完遂記念パーティ~!

 先週の土曜日、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」完遂を記念してパーティ開催!

 懐かしいお客様から、講座に長期間出席いただいている皆さま、それに、パーティの機会に初めてお目にかかれたみなさままで、沢山お越しいただきありがとうございました! 

  <メニュー>写真は常連Noda氏の撮影! 料理写真  

  •  *オードブル:生ハム&いちじく、セサミ・チキンのカナッペ、スタッフド・エッグ、オイルサーディンのカナッペ、
  •  * 自家製ローストビーフ
  •  * 鶴橋名物 蒸し豚プレート
  •  * カリカリ・ベーコンと胡桃のウォルドフ・サラダ
  •  * シュリンプ・カクテル
  •  * 寺井ママお手製 バラ寿司
  •  * 特製ビーフ・シチュー
  •  * メダリオン・ビーフ・ステーキ、アンチョビ・ソース
  •   * トマト&きのこのパスタ
  •  * デザート: レモン・マーマレードのレア・チーズケーキ
  •    いろいろフルーツ&2色アイスクリームケーキ etc,,,

いかきri-kinohikari-yoko-411e0.jpg 講座の権威、後藤誠先生が差し入れしてくださった、東京赤羽の”どら焼き”もサプライズで大好評!

 お飲物も色々とり揃えましたが、なんといっても一番人気は、ダラーナ氏が差し入れてくださった生原酒や純米大吟醸の名酒コレクション。 ダラーナ氏はOverSeasジャズ講座の発起人、音楽の耳味覚も並々ならぬテイスト!バブリーでフルーティな日本酒の芳香は、まさにFragrant Times!でした。

 楽しいメンバーが揃い和気藹々でも、食べて飲むだけじゃないというところが、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」パーティです!

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 パーティ特番、ミニ足跡講座として、トミー・フラナガン3(キーター・ベッツ bass, ジミー・スミス drums)の、’78年6月 カーネギーホールに於ける演奏の超レアな音源を、寺井尚之が解説!

 普段の講座と同じように寺井尚之の解説を聴きながら、構成表を目で辿り、絶好調のトミー・フラナガンのプレイにうっとり!キーター・ベッツ(b)をフィーチュアした”カン・フー”も渋かったです!

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 セミナー講師としてトークはお手の物のあやめ会長は、「寺井尚之のジャズ講座の変遷」を、超懐かしいヴィデオや、NYの巨匠たちの素顔の写真とともに、整然とした語り口で見せてもらいました!

 模造紙に手書きした資料を掲示して、今は亡きワルツ堂のミムラさんがディスコグラフィーを作ってくださっていた頃から、ダラーナ氏に機材を提供していただいて、近代的な今のスタイルになったことがよくわかって、改めて感謝でした。初代のOHP映写係、Annさんも来られていて嬉しかったです!どうもありがとうございました!

 

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 フィナーレは足跡講座皆勤賞、寺井尚之のレギュラー・ベーシスト、宮本在浩さんが手紙を朗読してくださって、しみじみ秋の夜が更けて行きました。

 

 ご出席いただいたお客様、おひとり、おひとりのおかげで、OverSeasにとって思い出に残るパーティになりました。心よりお礼申し上げます。

ito_kana.jpg  司会は、寺井尚之ジャズ理論教室生、プロのアナウンサー、伊藤加奈さんが担当!本業はハーモニカ奏者、”ミネストローネ”というハーモニカ・トリオで東京を中心に活躍中!

 仕事の合間を縫って、寺井ジャズ教室生として、一肌脱いでくれました。今週は東京で、一連のコンサートに出演中です。

 

さて 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、11月10日(土)から新開講!

 モーターシティ、デトロイトで開花したデトロイト・ハードバップ・ジャズ、その町で最も実力ある若手と言われたトミー・フラナガンとケニー・バレル(g)は、1956年の春、二人で車に乗ってNYにやってきました。その直後に、Blue Noteに録音したアルバム、 『Kenny Burrell Vol.2』から新講座が始まります。kburrell_vol2.jpg

  ポップ・アートの王様、アンディ・ウォーホールが無名時代に手がけたジャケットも印象的ですが、それ以上に20代のフラナガン、バレルたちの貫録が素晴らしい!

 今回は、モーターシティ、デトロイトの社会的、音楽的な土壌も、しっかり解説。デトロイト市の驚愕の音楽教育事情や、世界史を俯瞰すると、音楽もよく見えてきます!

 よく、「ジャズは初心者ですが、大丈夫でしょうか?」とお問い合わせをいただくのですが、そんなの全然関係ないと思います。私だって、最初は、な~んにも知りませんでした。でも、音楽がお好きなら、どなたでも楽しんで頂けると思います。

 ジャズ・ミュージシャンである寺井尚之が、半世紀近く、誰よりも楽しんできたものについて語るのですから、面白くないはずがありません。

 ひょっこりご参加大歓迎!新 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」どうぞお待ちしています!

CU

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