★トミー・フラナガンや寺井尚之の音楽に親しんでいらっしゃる方は、このセット・リストで、充分楽しいでしょ?
明日は、コンサートの前後に、寺井尚之に起こった色んな事件を写真とともにレポートします!
CU
カテゴリー: ジャズのサムライ達、聖人達
初めてのトミー・フラナガンDAY(1)
What It Is! Mr. Flanagan?
Tommy Flanagan Trio Live at OverSeas George Mraz(b), Arthur Taylor (ds)
1984年12月14日、初めてトミー・フラナガンがやって来た!
終演後の記念写真:最前列左からアーサー・テイラー(ds)ジョージ・ムラーツ(b)、ダイアナ&トミー・フラナガン、ダイアナの背後にいるのが寺井尚之、私はトミー・フラナガンの右後に。
大阪の小さなジャズクラブがトミー・フラナガンのコンサートを公表するや否や、北海道から九州まで全国のファンから電話が殺到し、二部制で各60席分しかないチケットは瞬く間に売り切れてしまいました。それどころか、「うちの店でも“トミフラ”をやりたいが、どうすれば出来るのか?」と、全国のジャズクラブから問い合わせが来ました。
「どうすれば出来たのか?」
…それは、寺井尚之がずうっとトミー・フラナガンを尊敬していたからと言うほかはありません。単なる大ファンやコレクターでなく、フラナガンの音源を研究して、譜面を起こし、すでに自分のレパートリーとして消化していました。学生の頃からトミフラなんて呼んだこともありません。OverSeasも開店以来5年の歳月が過ぎ、それが、すでにジャズ界の関係者には良く知られていました。それで、阿川泰子(vo)さんの伴奏者として来日の話が出た時、「せっかくフラナガンを呼ぶのなら、OverSeasでやってはどうか?」と関係者に助言をして下さった方々がいたのです。今思っても、本当にありがたいことでした。
前回のブログにも書いたように、私はビリーからアメリカ人であるMr.フラナガンの心に通じるように、英会話を教わって、OverSeas開店以来、5年間、ひたすらこの日を待っていた事を伝え、寺井尚之を弟子として受け入れてもらえるような空気を作りたいと切望していました。
ところが、コンサートの数日前、招聘元の事務所から、異例の通達が来ました。
 「一行は、ハード・スケジュールで疲れ切っていて、非常にナーバスになっている。とにかくフラナガンは神経質なアーティストだから、応対にはくれぐれも気をつけて欲しい。疲れているので、店に入るのも本番直前にして欲しいし、終演後は、サインや接待も一切お断り。翌日に備え、すぐにホテルに戻り休養したいと希望している。加えて、フラナガン夫人がマネジャーとして同行しており、この人がフラナガンに輪をかけた難しい人です。お願いですから、そっとして刺激しないようにして下さい。」というのです。
ええっ!?あんな美しいピアノを弾く人が威張り屋の意地悪じいさんなの?信じられない…どうしよう!!! もう大ショックでした。
一方、寺井尚之は慌てず騒がず、調理場のコックさん達に通達しました。「どんなに気難しい人間でも、うまいもんには弱いはずや。コーヒー言うはったらケーキもつけて出してくれ。腹減った言うはったら、アメリカ人が好きそうなピザやフライド・チキンでも、子羊のローストでも、何でも、欲しい言いはるもんを、思い切りうまいこと作って手早く出したってくれ!」
コンサート第一部のトミー・フラナガン
その日は、12月らしくなく、とても暖かい日だったと記憶しています。本番ぎりぎりにしか来ない予定でしたが、結局フラナガン一行は5時過ぎにやって来ました。初めて近くで見る姿は、別に尊大でもないけれど、むやみに愛想を振りまくという風でもありません。写真で見るとおり、ヘリンボーンのハンチングをかぶっています。
奥で歓迎の拍手をしている私に、フラナガンが近づいてきた瞬間、(最初の挨拶はWhat it is!だよ。)ビリーの声が頭に蘇り、ここぞとばかりに呼びかけました。
“Hi! What it is!(調子はどう?) “
寡黙なムードのハンチングの紳士は、まるで、小学生にカツ上げされそうになったアインシュタインのような表情になり、うつむき加減で眼鏡を少しずらしてから、眼鏡越しに、長いまつげの鋭く大きな瞳で、私をじーっと見つめました。(気に障りはったんかしら…大失敗やん、どないしよう…)一瞬の沈黙が、果てしなく感じます。地球外生物に会ったように、私の頭の先から足の先まで観察した後、立派な鼻から少し息を出し、おもむろに彼は答えました。
“Yeah, What it is!(絶好調さ、お前さんはどうだい?) …エヘン、私のコートを預かってくれるかね? ”
“イエッサー!!We are So Happy you are here! ヨウコソ、オコシクダサイマシタ!”
“I am happy, too”(私も嬉しいよ。)あのかすれ声で、フラナガンは威厳を持って言うと、再び私のニコニコ顔を、診察なのか観察なのか判らない目つきで見つめました。
きっと私は、桂米朝の様な大師匠に、「ヨロオネ!」みたいな初対面の挨拶をしてしまったのだ、今になって思います。でも、フラナガンの反応は、”恥ずかしいことをした”という気持ちにさせるような意地悪なものではなかった。
預かったベージュ色のバーバリーはウールのライナーが付いていて、ずっしり重かったけど、「そんな意地悪じいさんでもないやんか!」と、スキップしながらハンガーに掛けに行きました。
一部の風景:左、ジョージ・ムラーツ、右、アーサー・テイラー
ジョージ・ムラーツ(b)は当時40歳、瞳と同じブルーのスーツと、より淡いブルーのワイシャツでビシっと決めた姿は、ジャズメンというより外交官か一流商社マン、ため息の出るような男前。アーサー・テイラーは、日本の職人さんのようにキリっとした様子、二人とも黙々と楽器のセッティングをしています。トップシンバルは、いかにも使い込まれたもので、BeBopの歴史を生き抜いてきたドラマーの風格を感じさせました。
飲み物に少し口をつけただけで、休憩もせず、立ち位置を決めて、そのままサウンド・チェックに入るようです。寺井尚之はピアノの後ろにセミのように張り付き、どんな些細なことも見逃さず、聞き逃さぬように集中しています。
サウンド・チェックというのは、マイクの調子やモニターを調べる為にするものですが、今回はフラナガン側の要望で、全てマイクなしの生、ジョージ・ムラーツだけがポリトーンのベース・アンプを使います。だから、サウンドチェックはピアノの調子と、トリオのバランスを調べるためだけに軽く弾いてみるだけのはず…
ところが、フラナガンは、後の二人を放っておいて、ソロで弾き始めました。聴いたことのないルバートから、ゆったりした分厚い質感の“Yesterdays”が響きます。それはサウンドチェックというよりも、寺井尚之へのメッセージだったのです。「お前が待ち焦がれたトミー・フラナガンがここにいるんだぞ。しっかり聴け!」と言わんばかり、侠客の仁義や、歌舞伎役者が切る見得と似ているように感じました。
背後の寺井は、全身全霊で貪りつくような聴きぶりです。6年後に出た”ビヨンド・ザ・ブルーバード”という名盤で、この聴いたこともなかったYesterdaysのヴァースは再現されています。
次の「サウンドチェック」もソロ、それも、BeBopでもこれ以上ハードなものはないというバド・パウエルの“Un Poco Loco”でした。イントロを聴いただけで寺井尚之が「おおっ!!」と呻きながらピアノの後ろにある手すりを握ってのけぞります。余裕がありながら疾走するグルーヴ、”Amazing Bud Powell Vol.1″でパウエルすら突っかかっている左手の猛烈なカウンター・メロディが、ごくスムーズに繰り出されます。本家パウエルより磨きのかかった”Un Poco Loco”、私達は竜巻に呑み込まれ、OverSeasごと不思議な夢の世界にワープした様な、非現実的な気持ちになりました。強い衝撃を受けた寺井尚之は後年、自分でもこの曲の鮮烈なヴァージョンを“Fragrant Times”というアルバムに収録しています。
Beyond the Bluebird/Tommy Flanagan4, Fragrant Times/寺井尚之3
ふと我に返ると、傍らのフラナガンのマネジャー兼奥さんと目が合います。おっちょこちょいの私は、そっとしておくよう事務所の人に言われていたこともすっかり忘れ、ビリーに習った最高の褒め言葉が口をつきました。
「He is Amazing! isn’t he!? 」
彼女は、人懐っこい優しそうな笑みを浮かべました。
「ええ、そのとおり!トミーはAmazingなの! 私はダイアナっていうの。あなたの名前は? 英語上手ね、カリフォルニアにいたことあるの?」
サウンドチェックを終え、ウィンストンをふかせながら休憩をするフラナガンにダイアナ夫人が話しかけます。
「トミー、この子はタマエ、あなたのこと、Amazingだって言ったわ!彼女英語が話せるのよ。」
フラナガンは、どこ吹く風という様子で、宙を見ながら「I know.」とボソっと言ったのを覚えています。フラナガンは目も鼻も口もすごく立派なので、ボソボソとしゃべると、声帯が振動せずに、立派な鼻孔から発声しているようです。「トミー、演奏の後で、ディナーを作ってくれるんだって。ぜひごちそうになりましょうよ!さっき生ハムのサンドイッチを作ってもらったんだけど、おいしかったのよ。ねえ、タマエ。」
私は、予想に反する彼女の笑顔に見とれながら、「なんだ、フラナガン夫妻は、それほど神経質でも難しい人でもないじゃない。」と思ったのでした。そんな私の思いは、ある意味当たっていたし、ある意味でははずれていました。
これからのコンサートでの演奏や、その後の年月で、私達はトミー・フラナガンと言う人が、心の中に途方もなく熱く激しいマグマを秘めた、余りに巨大なアーティストである事を見せ付けられるのです。
さあ、これから初めてのトミー・フラナガン3の開演!
(つづく)
ビリー・ハーパー(ts) カルテット
義を見てせざるは…美しきミュージシャンシップ
ビリー・ハーパー(ts,ss)
ビリー・ハーパーというテナー奏者をご存知ですか?
トミー・フラナガンゆかりのOverSeasのサイトですから、ここを訪れてくれる若い皆さんには、特に馴染みがないかもしれませんね。ビリー・ハーパーは、テナーの宝庫、テキサス出身、1943年生まれで、昔は何度も来日しました。でも’94年のコンコード・ジャズフェスティバルで、<テナー・サミット>と銘打ってジョニー・グリフィンと競演して以来、日本に来たという話は聞きません。
幼い頃から歌っていたゴスペルの延長線上でテナーサックスを習得、16歳でプロ入りしNYに進出するや否や、魂を揺さぶるような歌心のあるハードなプレイで注目を浴び、ジョン・コルトレーンの跡を継ぐ若手の逸材と騒がれます。以来ギル・エヴァンスOrch.、ジャズ・メッセンジャーズ、サドーメルOrch.など名だたる楽団で活躍しました。特に’74年、サド-メルOrch.で、サー・ローランド・ハナ(p)、ジョージ・ムラーツ(b)や、弱冠20歳の天才トランペッター、ジョン・ファディスと共に来日して、強烈な印象を残しました。深夜、確かサンTVでサド・メル特番があり、その迫力と、個性溢れる人種のるつぼの様なメンバー達、圧倒的なフルバン・ジャズ!高校生だった私は、ものすごく感動したのを覚えています。
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アジアビルにあったOverSeas
これからの話は、もう20年も前のこと、来日中のビリー・ハーパー(ts)カルテットがツアー中に、大阪で数日間オフとなり、OverSeasに、プライベートで遊びに来た或る夜の出来事です。
同行メンバーは、サー・ローランド・ハナ(p)の一番弟子と言われた超絶技巧のピアニスト、ミッキー・タッカー(p)、スタンリー・カウエル(p)、チャールズ・トリヴァー(tp)のMusic inc.またジョン・ヒックス(p)やウディ・ショウ(tp)と共演するベーシストで速弾きの鬼才と言われたクリント・ヒューストン、現在、巨匠として第一線で活躍するビリー・ハート(ds)、全員が新主流派の錚々たる面々です。寺井尚之は30歳少し出たくらい、OverSeasはボンベイビルからアジアビルに移転して間もないころでした。
その夜、OverSeasの客席にはハーパー達の他に、サラリーマンの団体さんが、居酒屋気分でワイワイ飲んでいました。演奏が始まっても、一向に耳を貸そうとしません。それどころか、音楽に負けじと自然に声も高くなる…ジャズ演奏を提供しているNYのレストランでも、よく出くわす光景です。
客席のハーパー達の前で、何となく恥ずかしく、またプレイヤーに申し訳ない、そう思いつつも、ホール係りの未熟な私は成すすべなしのお手上げ状態でした。
ハーパー達は、細長いお店の後部にある9番テーブルに陣取り、ざわめきも気にならないのか、真剣な表情で演奏に耳を傾けてくれています。一曲目のピアノソロが終わった瞬間、4人のミュージシャンが、一斉に大きな歓声と拍手を爆発させました。すると、大騒ぎしていたお客さんたちが、ぎょっとなって彼らの方を振り向き、演奏をしていることに初めて気付いたように静かになったのです。
クリント・ヒューストン(b)
4人の風貌だけでも人目を引くのに充分でした。ビリー・ハーパーは身長190センチ以上の長身で肌はチョコレートの様に艶のある褐色、大きな瞳がマッチ棒の先の様に小さな顔の強いアクセントになっています。ジーンズに漆黒のタートルセーター、精悍な姿はバスケ選手のようにも見えました。ビリー・ハート(ds)は対照的に、クレオールの浅黒い肌、ずんぐりした体型で、鋭い目つきと、角刈りのような短髪がいかにもコワモテ、クリント・ヒューストン(b)は、白人の様に白い肌と淡いへーゼル色の瞳が美しく、アフロヘアと濃い髭面がビートニク詩人のように知的で個性的、ミッキー・タッカー(p)が、激しい演奏ぶりと裏腹に一番目立たない風貌だけど、甲高い掛け声が凄かった。
ビリー・ハート
ほとぼりが冷め、再び大声を出す背広姿のお客さんに、今度はハートが、射抜くような視線を投げ、絶妙のタイミングで、バンドスタンドに喝采を送ります。今思えば、メジャーリーグのベンチの様でもありました。
強力な味方に意を強くした寺井尚之デュオがゴキゲンに2曲目を演奏し終える頃には、客席はすっかり静かになっていました。騒いでいたお客さんたちも、ハーパー達の魔法にかけられたように、いつしかプレイに大きな拍手と歓声を送りながら、一緒に音楽を楽しんでくれていたのです。
私はハーパー達の応援ぶりに、初めてミュージシャンシップというものの素晴らしさを体験したのです。格の上下は関係なし、心のこもったプレイには、受け手も全力で聴くのがジャズメンの道、バンドスタンドの窮地を見れば、進んで手を差し伸べるのがジャズメンの掟と学びました。
翌日再びやって来たミッキー・タッカー(p)と寺井尚之
音楽を聴いてくれない人たちの前でシリアスにプレイするということが、どんなものかを一番良く知っているのは演奏家自身です。一流ピアニストのサー・ローランド・ハナやジュニア・マンスでさえ、騒々しいヤッピー達には無力であるバンドスタンドの悲哀を口にしたのを聴いたことがあります。
そんな光景に出くわせば、絶対に見殺しにせず助けてやろうというミュージシャンシップは、「義を見てせざるは勇なきなり。」の武士道精神と同じやん!と、意気に感じたのでした。
それ以来、OverSeasでも他所のお店でも、NYでもどこでも、同じような光景に出くわすと、必ずその夜のことを思い出して、私も同じように応援しようとします。この事件の後、トミー・フラナガン達、ジャズの巨人というものは、目下の者の演奏であろうと、全力で聴く態度が備わっていることに気づきました。
他人の演奏を全力で精魂込めて受け取ろうとする人は、自分が演奏の送り手となる時のエネルギーも、より大きくなる。ジャズの世界でも、「エネルギー保存の法則」は成り立つのです。
夜が更けると、楽器を持ってきていなかったハーパー以外のメンバー達と寺井尚之のセッションが始まりました。送り手となった彼らの演奏は、やはり物凄いものでした。
ただのセッションなのに、寺井尚之とデュオで顔を高潮させ汗だくになってプレイしたヒューストンや、ハイハットの二段打ちのウルトラCをまざまざと見せつけてくれたハート、タッカーの剃刀の如く研ぎ澄まされたピアノ・サウンド、今でも強く心に焼き付いています。
その後ミッキー・タッカー(p)は単身で何度も何度も寺井尚之を訪ねて来てくれるのだけど、それはまた別の機会にお話しましょう。
現在もビリー・ハーパーは活躍中で、最近ポーランドで60人の合唱団を入れたコンサートがDVDになるらしい。ビリー・ハートは押しも押されもせぬドラムの巨匠となり、’99年にムラーツカルテットのコンサートで正規に演奏してくれました。
一方クリント・ヒューストンは2000年に53歳という若さで亡くなりました。ミッキー・タッカーは、’89年に奥さんの祖国オーストラリア、メルボルンに移住、’91年、当地の音楽学校で教鞭を取っている最中に突然脊椎を損傷し、不幸にもピアノを演奏することが出来なくなったけれど、音楽への情熱は衰える事無く、現在もプロデュースなど活動を続けているそうです。
或る夜、旅の途中でふらりとOverSeasに立ち寄った4人のジャズのサムライ達、彼らのくれた贈り物は、今も私の心にしっかり焼き付いています。
さて、次回は、ジャズ講座名場面集シリーズ、サド・ジョーンズの名盤 – Detroit-New York Junctionを聴きながら、デトロイト・ハード・バップについて語る予定です。
来週末に更新予定、CU
Oscar Pettiford in Hi-Fi- ビッグ・ハード・バップ・バンド!(その2)
=オスカー・ペティフォードの肖像=
ジャズ、クラシック、民俗音楽、映画やTV音楽、ビートニクのカルチャー・ムーヴメントなど、ボーダレスな音楽界の名士として、私を含め、カルト的信奉者を持つデヴィッド・アムラムは”Oscar Pettiford in Hi-Fi”など一連のオスカー・ペティフォード楽団のアルバムにフレンチホルンで参加しています。作編曲、指揮、それに数え切れないほどの楽器を演奏できるらしい。
トミー・フラナガンと同じ1930年生まれで、彼の自伝「ヴァイブレーションズ」には、ペティフォードのカリスマ性や、楽団を必死で維持する熱い生き方が、活き活きと描かれています。
こういう話は他人事と思えない!ついつい誰かに教えたくなってしまいます。下記のオリジナル・テキストを日本訳にし、それからダイジェスト版にしてみました。もっと編集するつもりでしたが、寺井尚之に「このままでええ!」と言われたので、ちょっと長いよ。
デヴィッド・アムラム 著 ”ヴァイブレーションズ“より
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僕がとうとう文無しになり、昼の職を探そうとした矢先、オスカー・ペティフォードからお呼びがかかった。オール・スター・バンドでしばらくツアーをするという。僕は喜んで仕事に飛びついた。ギャラが少ないのは承知の上だ。とにかくもう一度、仲間と一緒にプレイをしたいと思っていた。シェイクスピア祭(NYでは’54から毎年行われているイヴェント、現在はセントラル・パークでやっているようです。)の仕事ばかりやっていた僕にとって、20世紀に戻るというのは、最高の気分転換だ。ペティフォードと仕事をすれば、自分の三重奏の作品を書くためにもためになるだろう。
この楽団はツアーに参加するミュージシャン達との付き合いがまた楽しい。リハはなるべく早めの時間にして、後は一緒に飲んでは話に興じた。
「俺はお前のプレイを聴いたぜ。ヤバダバディー♪」:テナー奏者のジェローム・リチャードソンは、なんと、僕が昨年のシェークスピア祭で、作曲して演奏したファンファーレをくちずさんでくれた。他にも何人かのメンバーは僕の演奏を聴いていた。僕はミントンズで1955年に、ジェロームとジャムったことがあった。彼はジャズと同じくらいクラシック音楽や音楽理論に精通しており、4種類の楽器に熟達していた。だが彼だけでなく、全員がそういうレベルの楽団だったのだ。
*本拠地『バードランド』に出演中のペティフォード楽団、画像をクリックして拡大すると、ハープのジャネット・パットナム、JRモンテロース(ts)、アート・ファーマー(tp)、ブリット・ウッドマン(tb)など、”In Hi-Fi”に参加している面々の姿が見れる。
オスカーは、リハが終わると「ギャラは雀の涙くらいかも知れない。」とバンド全員に警告した。だが誰も文句を言う者などいない。皆、彼を敬愛していたからだ。約束していたギャラが払いきれぬ場合は、扶養家族の居ない独身ミュージシャンのギャラが一番安くなる決まりだった。勿論、彼の懐が豊かなら、我々は必ず分け前をもらえた。こういう楽団を維持していくのは、苦労がつきものさ。しかし、全員が楽しんでいた。
フロリダへのツアーは、毎日が移動日で仕事という、一番ハードなツアーだった。レギュラーのトロンボーン奏者が行方不明になり、代理の奏者は”ポークチャップ”っていう仇名だ、実力は推して知るべし…
列車やバスを乗り継ぎ、空港からフロリダのどこかに着陸し、最初のバスよりもオンボロのバスに乗り込むと、フロリダの風光明媚な湿地帯エヴァーグレードを途中駐車することもなく走り抜ける。青い目をしたなんとも感じの悪い白人運転手が、同じ白人のエド・ロンドン(frh)や、J.R.モンテローズ(ts)たちに向かって話しかけた。「おめえら、黒いのと一緒に混ざりやがってうっとうしい!いい加減にしろってんだ。すぐにおだぶつにされちまうぜ。」まるで自分がその予言を実行したいような口ぶりだった。
それはまだワシントン大行進や公民権運動以前のことだ。バスを待っている間、僕はすでに気付いていた。フロリダの黒人達が、3人の白人を従えた黒人のバンドリーダーを見て呆気に取られていたのを。一方NYのミュージシャン達は、フロリダの「人種」に関するひどい社会常識に動揺していた。同時に地元の黒人達に浮かぶある種の「恐怖」の表情に対しても。それは僕らには悲しい光景だった。
やっとの思いで我々は大学に着いた。今までのトラブルのおかげで、オスカーはとても気分を害していて、バスから出ようとしない。「俺はここで寝るよ。」と言ったきり、車両の奥で横になりバタンキューと寝込んでしまった。僕達団員は、着替えと食事の部屋を提供されたものの、部屋に入れたのは夕刻6時で、じきに本番だった。”ポークチャップ”のように 土壇場でトラとして入った連中は、演奏曲の譜面さえ見ておらず、本番前にリハーサルをすることになっていたのだが、オスカーは寝ている。しかたなく僕達は夕食を取り、余った時間は疲れ切った体を休める事にする。そして、本番直前にオスカーを起こして演奏を始めた。無論『バードランド』でのいつもの演奏レベルには及ばなかったが、学生達は大いに楽しみ、ダンスに興じた。彼らは、バンド・メンバーの多くがジャズ界で有名であることを知っていて、惜しみなく喝采を送ってくれた。
コンサートの後、大学の学長が楽団の為に公式レセプションを開催してくれた。しかしオスカーは当夜の演奏の内容が不服で、宴会場の隅っこにふてくされて座っていた。
とうとう、件の学長が、団員と共にオスカーのところに挨拶にやって来た。「オスカー、学長さんを紹介したいんだけど。」団員がそう言うや否や、ふくれっつらのオスカーの顔が悪魔的な笑顔に一変した。腕を大きく広げ抱擁し、びっくり仰天している学長に向かってこう言った。「ヘイ、マザーファッカー、調子はどうだい?」それから再び学長をしっかり抱きしめると、まるで、それが彼の出来る唯一の芸であるかのように、雄叫びのような笑い声を出した。学長も他の教授達も呆気にとられた様子だったが、両者の緊張がほぐれて、パーティはぐっと打ち解けた雰囲気になったのだ。
僕も多くのバンドリーダーと仕事をしたが、オスカーほど誠実で気性の良い人はいない。狂気じみたところも彼が大天才である証拠だった。だからミュージシャン達は彼のためならどんな苦労も厭わなかった。
パーティが終わる頃には、学部のスタッフ全員が、すっかりオスカーに魅了されていた。我々は朝の4時まで起きていて、バスでNYへと戻った。やっとの思いでマンハッタンたどり着いたと思ったら、その15時間後には、再び汽車や飛行機、バスを乗り継ぎ、トイレや食事の時だけ小休止というハードな巡業が始まるのだった。
その一週間後、僕達の最後の大仕事があった。マサチューセッツ州スプリングフィールドで、人気歌手ダイナ・ワシントンも出演するコンサートだ。しかし、コンサートの看板は町中にたった8つしかなかったし、新聞広告も出ていない、PRとおぼしきものが皆無なのだ。武器庫をにわかコンサート・ホールに仕立てた会場に、お客はたったの25人。誰もコンサートがあることを知らないのだから仕方がない。オスカーは当時ジャズ界のスターだし、ダイナ・ワシントンはそれ以上の知名度があったから、満員になって当然なのに。ダイナも不入りに驚いていた。ダイナがうちの楽団に飛び入りで歌い、我々も彼女のバンドに入り、コンサートはセッションの様相になった。不入りのコンサート終了後、オスカーはどうにか金をかき集め、家族のいるメンバーにギャラを払い、独身者たちには、自腹を切って支払った。
帰り道には、全団員がバンドは解散せざるを得ないだろうと察し、暗い気持ちで一杯だった。オスカーは、すぐにそんなムードを感じて、大声を出したり笑ってみせたり、皆を元気付けようとした。オスカーにとって、憐れみを受けるのは、耐え難いことだったのだ。
「これからもシェークスピアを演るのかい?」他の団員が家路に着いた後、オスカーは僕と28丁目を歩きながら尋ねた。
「ああ…」僕は応えた。「でも、これからも一緒に出来ればいいなあ。ねえ、僕に何か助けられることはない?例えばパート譜を写譜するとか、どんなことでもいいからさ…」
「“た・す・け・る”?!おい、お前が俺を助けるってかよ?!」オスカーは、まるで金星人の襲撃に遭ったように怒鳴りちらした。「一体何言ってんだ?俺がお前の助けを必要としてるってのか? おい、デイヴ、お前は自分のことだけ助けてりゃいいんだよ!しっかりしろよ。精一杯良いプレイをして、良い曲を書けよ。お前さんなら出来るさ。他人を助けるなんて考えるな!そんなのたわ言だって判ってるだろ。頑張って書き続けろ。誰にも邪魔立てさせるな。俺たちはな、神様に祝福されて音楽の世界に遣わされてるんだ!まあいいさ。俺の家でちょっと何か食べて行け。俺はな、フレンチホルンが大好きだ。次に一緒に演る時は、ミスノートなんか吹いてバンドを滅茶苦茶にすんなよな。俺が気付いてないとでも思ってるのか?全て耳に入ってるんだからな。」
それから、僕達はオスカーのアパートでエール(例えばギネスビールのような飲み物、日本のラガービールよりフルーティだったり苦かったりする。)を飲み始めた。
「人生って素晴らしいよなあ!」オスカーが大声で言う。「俺たちのバンドは世界一だ!なあ、そうさ!だから、おまえ大声出すなよ!」と、オスカーは雄叫びを上げた。「俺の息子が眠ってるんだ、明日学校に行かなくちゃならないんだから。さあ、乾杯だ!!デイブ。」
「乾杯、オスカー」僕は小声で囁いた。
「神様が俺たちをこの世に遣わしたのは、凄いプレイをする為なんだ。お前がこれ以上しょうもないことばかり言うと、俺はフレンチホルンのセクションをしょぼいメロフォーンに変えちまうぞ、判ってるだろうな。だけど今夜はゴキゲンなサウンドを出してたよな!何てすげえバンドなんだ!!」
僕達は結局一晩中盛り上がっていた。やがてオスカーは子供の時に覚えたインディアンの踊りを披露してくれた。彼の息子が学校へ行く支度の為に起きてきたときには、僕達は輪になってインディアンのダンスをしている真っ最中だった。奥さんが作ってくれた朝食をごちそうになってから、僕はやっと家路に着いた。
オスカーは世界一の同志だった。最高に心の広いボスだった。何事にも純粋な気持ちで向かっていく力の凄さを見せてくれた人だった。自らのエネルギーと生命力で、ミュージシャン達や他の人々の苛立ちや悪感情も、喜びに変えてしまえる事を教えてくれた人だった。(了)
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どうですか?天才ミュージシャンというものは、こんな風に音楽の天国と、現実社会の地獄の狭間を駆け抜けていくものなのでしょうか・・・
長いのを読んで下さってありがとうございました!
次回のお題は、『OverSeasの足跡を辿る その1-サラーム・ボンベイ』、今は昔、OverSeasの始まった頃について、書いてみたいと思います。
来週のウィークエンドに更新予定、CU