エラ・フィッツジェラルド礼賛

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若き日のエラ・フィッツジェラルド!
 新年明けましておめでとうございます!本年もJazz Club OverSeasをよろしくお願いします。
 年末年始のラッシュも一段落。K-1や時代劇の間も、これから数ヶ月間、ジャズ講座に登場するエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン・トリオが繰り広げる歌、歌、歌が私の頭の中で鳴っています。
 エラ・フィッツジェラルドは1917年(大正6年)生れ、どんな年かと言いますと、アメリカは第一次大戦に参戦、日本では松下幸之助が改良ソケットを販売し、「味の素」の会社が設立された年であるそうです。エラは子供のときからNYヨンカーズで一番ダンスの上手な女の子と言われており、17歳(一説には16歳)の時、ハーレムはアポロ劇場の名物「アマチュアナイト」つまり「素人名人会」にダンサーとして出場し、賞金を獲得しようとします。ところが、本番間際に、地元で評判のダンスデュオ、エドワーズ・シスターズがエントリーしているのを知り、到底勝ち目がないと判断したエラは、急遽ダンスを断念し歌で勝負することに作戦変更、結果見事優勝!賞金25ドル也を獲得し、歌手への道が大きく開けたのです。
 もし、その夜ダンスの強敵が出場していなければ、エラは、ダンサーとしての人生を歩み、この感動は得られなかったかもしれないんですから、エドワーズ姉妹さんには感謝したい!
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エラはチック・ウェッブ楽団の看板歌手となってから、サインしてもらうため筋向いのクラブに出演していたビリー・ホリディを幕間に訪問したという逸話がある。
 その後はトントン拍子、10代でビリー・ホリディと並ぶ最高のバンドシンガーとなり、エラの後見人であった天才ドラマー、名バンドリーダー、チック・ウエッブの死後彼の楽団を引き継ぎ、僅か22歳でバンドリーダーの看板を張ります。
 やがて第2次大戦が勃発し、ビッグバンド時代が終焉を迎えると、ノーマン・グランツの強力なマネージメントの元、エラはソロ歌手として独立、台頭するBeBopのエレメンツを完璧に吸収し、スキャットだけで歌うFlying Homeや、How High the Moon, Oh, Lady Be Goodなど、その後何十年間に渡ってヴァージョンアップを続けたオハコのレパートリーをどんどん開発し、後年フラナガンとのコラボ時代に再び大輪の花を咲かせます。
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ハリウッドのセレブ御用達の一流クラブ“モカンボ”の人種差別のバリアを破り、初の黒人歌手としてエラを出演させるよう掛け合ったエラの熱烈なサポーター、マリリン・モンローと。
 
 ソロ歌手へ転進したエラ・フィッツジェラルドが、’50-’60年代、Mr.Jazzと言われた最高のマネジャー、プロモーター、ノーマン・グランツと打ち立てた金字塔が一連のソング・ブック・シリーズです。グランツの立ち上げたレコード会社Verveで、入念なアレンジを施したフル・オーケストラをバックに、ガーシュイン、コール・ポーター、ハロルド・アーレンなど、アメリカが生んだポピュラー・ソング芸術を作家別に次々と録音、アルバム・ジャケットにはビュッフェやマティスの趣味の良いアートを惜しみなく使用し、素材も歌もしつらえも超一流のミュージアム・レベルで、好セールスを記録するという偉業を達成しました。その当時のレコーディングは、当然、同時録音で、現在の、歌とオケの別録りでは聴けない、有機的なサウンドは大きな文化遺産です。
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ガーシュイン・ソングブックのジャケットはベルナール・ビュッフェの作品で統一されている。
 ソングブックの連作に対し、トミー・フラナガンが参加しているエラのレコーディングは殆どが録音コストのかからないライブ盤です。一説によれば、トミー・フラナガンは、グランツの様な大物ボスに対しても、自分のほうから揉み手をして、こびへつらうタイプではなかった為に不興を買い、スタジオ録音の機会をなかなか与えられなかったとも言われています。
 とはいえ、トミー&エラのライブ盤を聴きながら、そこで歌われる即興の歌詞を一語一句聴き取り、対訳を作っていると、トミーをバックにしたエラの歌唱には、豪華なソングブックでは聴くことの出来ない「途方もない爆発力」にシビれてしまう。
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 エラは目を悪くする前の最盛期には、年間40週以上(!)仕事を取り、世界中を駆け回りました。ハード・スケジュールはエラ自身の意思であったと言います。長年、そのスケジュールに付き合ったフラナガンは「エラにとって喝采に勝るものなし…」とちょっぴり皮肉を込めて語っています。(Jazz Lives/Michel Ullman著)
 エラ・フィッツジェラルドの歌唱の摩訶不思議なところは、エリントンであろうが、バカラックであろうが、どの歌も、「紛れもなくエラ」でありながら、彼女の私生活の「臭い」というものが、まるで感じられないところです。
 例えばビリー・ホリディを聴くと、「レディ、あんたも男で苦労したものねえ。」と、彼女の私生活に心を馳せてしまいます。トニー・ベネットの力強い声を聴くと彼の描く水彩画を思い出したり、美空ひばりを聴くと家族関係を想ったり、フランク・シナトラの洒落た歌いまわしを聴くと、「この録音の後はどこの店で遊んだんだろう?」とか…マイルス・デイヴィスなら、「この曲は、あのカスれ声で何か指示を出したのかしら?」とか…ファンは余計な事に思いを馳せつつ聴くのが楽しみなものです。
 だけど、エラは違う!エラの歌を聴いていると、歌にしか集中できなくなる。エラの実体はステージの上だけで、それ以外はかげろうのような抜け殻でも、全然不思議じゃないとさえ思う。…だけど、そう思わせるのが、真のスターなのかも知れません。
 
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’64年カンヌでのステージ、エラが登場する前の演奏、トミー、ロイ・エルドリッジ(tp)、ビル・ヤンシー(b)ガス・ジョンソン(ds)客席左端は、女優ソフィア・ローレンらしい。写真をクリックするとちょっとわかります。(写真提供;藤岡靖洋氏)
 
 加えてライブ盤では、エラの中に強力な充電池が存在しているのがはっきりと判る!聴衆の大歓声や熱い“気”を、胎内に取り込み、歌唱のエネルギーに変換して発散する。それにまたお客さんが反応してエネルギーを返す。その作用を繰り返すから、まるで「神が降りてきた」としか言いようのない凄い状況になる。多分、これは、ごく一部のミュージシャンにしか起らない化学反応です。私も、OverSeasでトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツ、サー・ローランド・ハナ、そしてモンティ・アレキサンダーのコンサートで同様の超常現象を目の当たりにしました。
 エラの場合、もう一枚、トミー・フラナガンが加わると、その充電能力がより増幅されて、パチパチと不思議な火花を散らすのを感じるのです。そうダイアナ・フラナガンに言うと、ダイアナは「余り拡大解釈しちゃダメよ。トミーは伴奏の仕事を粛々といしていただけなのよ。エラは叩き上げのバンドシンガーなんだから、トミーでなくたって、ちゃんとショウを作れるの!」とブレーキをかけます。でも、レコードを聴いてごらんよ!フラナガンが絶賛するエリス・ラーキンスや、名手ルー・レヴィー、ポール・スミス、コンビで売ったジョー・パス(g)、どの名演を聴いても、フラナガンがバックに回った時に立ち上る、チカチカとした、あの不思議な火花は見えないのです。そう言い返すと、ダイアナは妙に納得していた。
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 エラはJ.J.ジョンソン(tb)のように「ミスのない」名手ではありません。来週聴くエラのライブ録音の中には、明らかに体調不良と判るものがあります。エラはマドンナのようにコンサートをドタキャンするようなことはしないのだ!
 それどころか、歌詞やアレンジのミスもする!ピンチになるとスキャットの引用フレーズでHere’s That Rainy Day(まさかの事態になっちゃったわ)とか、Misty(私を見てよ、キュー出しするから)と歌いまくり、堂々とブロックサインでバックに状況説明して、土俵際をうっちゃる!これはすごい!歌詞を忘れるというのも、その時期の流行歌をどんどん取り込むためで、バーブラ・ストライザンドがたまにコンサートをする時、プロンプターにかじりついて歌詞を間違えずに済むというのと、土台レベルが違うのです。そんな場合にフラナガンが出す助け舟がまた凄い。007の秘密兵器のように最高の手際でエラを支えて復活させる。
 
 どんなジャズの解説書を見ても、エラ・フィッツジェラルドの最高傑作はソングブック・シリーズであると書かれています。しかしエラの最高にハジけた歌唱が聴けるのは、なんと言ってもトミー・フラナガンとの共演盤にとどめを指すのです。
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エラのおハコで、しかめつらしいクラシック音楽家が登場するユーモラスな歌、『Mr.パガニーニ』で彼女はこう歌ってる。
“パガニーニさん、
もうケチるのはイイ加減にしてよ。
あんたの奥の手は何なのさ?
さあさあ、ハジけてみなさいよ。
ハジけないなら、
せめてスイングしなさいよ!”

新年のジャズ講座は1月12日(土)6pm開講。CU

寺井珠重の対訳ノート(2)

エラ流The Lady Is a Tramp 
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In Budapest

 米公共放送の「Piano Jazz」というラジオ番組にゲスト出演したトミー・フラナガンは、エラ・フィッツジェラルドとのコラボ時代を回想し、「彼女がヴァース(本コーラスに入る前の、歌の前置きの部分)を歌う時が、特に楽しかった。」と語った。(番組のインタビュー全文は講座本Ⅲに載ってます。)

 “The Lady Is a Tramp“は’70年代のおハコの一つだ。この歌のヴァースだけで、エラ&トミーは、なんと6パターン持っていたという。歌伴なのに飽きない仕事、これが根っからのバッパーであるフラナガンをエラの伴奏者の位置に引き止めた最大の理由だと思う。
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 今週のジャズ講座に登場する、《Ella in Budapest》のアルバム中、一番対訳に苦労したのがこの曲。(オリジナル歌詞はこちら。)寺井尚之がエラの講座をやるのは、初めてではないので、今まで何度もこの対訳を作っていますが、その度に少しずつ手直ししています。
 余り対訳が説明的になると、エラの楽しさが表現できない。だけど、意味をなおざりにして、何となくやりすごすと、やっぱり楽しさが出ない。

 この曲はロレンツ・ハート(作詞)&リチャード・ロジャーズ(作曲)の名コンビによる作品、1937年というから昭和12年の作品です。”Babes in Arms”というミュージカルで、当時17歳の子役スター、ミッチ・グリーンが歌いヒットしたといいます。

 ブロードウエイで芝居見物するのに、精一杯着飾り、目立ちたいから、わざと開演時間に遅れて劇場に入ったり、ハーレムで夜遊びし、口先だけの社交辞令ばっかりのNYの上流レイディ達、取り澄まして、いけ好かない気風を皮肉った歌詞は、エラのヴァージョンでなく、オリジナル歌詞を読むだけでも充分楽しめる。

 この歌を書いた夭折の作詞家、ロレンツ・ハートは同時代の大ソングライター、コール・ポーターや、この曲のヴァースにも登場するマルチタレント、ノエル・カワードと同じくゲイであったそうだ。この歌にも、ゲイの人特有の、お洒落で鋭い風刺のセンスが感じられる。それが70年経った現在も、古臭く感じない理由かも知れない。私の対訳サポーター、ダイアナ・フラナガンは、この歌詞の視点から、ずっとポーターの歌と思いこんでいたそうだ。

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 左からリチャード・ロジャーズ、ロレンツ・ハート、コール・ポーター、そしてノエル・カワード、カワードは日本では後の二人に比べて有名じゃないけど、劇作家、作詞作曲家、歌手、役者と様々な肩書きを持つイギリス人で、スパイという説があり、007ジェームズ・ボンドのモデルと言われている興味深い人です。

 
 対訳係りとしては、そのお洒落なところを何とか日本語にしたいのだけど…

だけど、”ザ・レイディ・イズ・ア・トランプ”のトランプは、日本語で何と言ったらよいのだろう? 辞書をひいてみようか…(因みに、ポーカーやババ抜きをするトランプはtrampでなくtrumpです。)
  ● 研究社「カレッジ・ライトハウス英和辞典」で名詞の”tramp”の項には、①【主に英】浮浪者、放浪者、④【主に米】〔軽べつ的〕ふしだらな女 :と書いてある。
  ●Merriam-Webster Dictionaryに書いてあることを日本語にすると、①徒歩で旅行する人 ②浮浪者、放浪者、③不道徳な女性、売春婦…と続く。

ダイアナ・フラナガンは、「a trampとは、a hoboであり、同時にa woman (who) sleeps aroundである。」と教えてくれたから、やはり辞書と一緒だ。でも、「寝まわる」なんて…、英語はオモシロイね。

 何故、浮浪者と不道徳な女が、同じ言葉なんだろう?
 ややこしいやん、どないなってんねん?対訳係の心は千路に乱れる。

 ”a tramp”で、思い出すのは、20世紀米文学を代表するJ.D.サリンジャーの初期(’48)の短編”A Perfect Day for Bananafish(バナナフィッシュにうってつけの日)”だ。ケッタイな題名は、ここでは気にしないでください。
 この短編の主人公は、第二次大戦中、戦地で精神を病み、戦後帰還するものの、「戦争なんてアタシにはカンケーない」と、ノー天気でチャランポランな妻を『1948年度のMiss Spiritual Tramp』と呼び、自分がエラい目に会った戦争に無関心な周囲とのギャップを埋められず、ピストル自殺してしまう。この小説の翻訳者の人たちも、”Tramp”の日本語には手こずっているようで、”1948年度ミス精神的るんぺん”とか”放浪者”とか”あばずれ”とか、本によって色々変わっているようです。

 だいたい、日本には、放浪者と性的にふしだらな女をひとくくりにして、一つの言葉で表す文化がないのです。となると、翻訳者は辛い。”Tramp”はステディな相手を定めず、男から男へと放浪する女を軽蔑する英語なのですね。

 この曲のヴァースの、“メイン州からアルバカーキまでヒッチハイクしてたから、大きな舞踏会に出損ねた”、”Hobohemiaこそが、私の居場所”のくだりの“Tramp”なら「放浪者」でしょ。

 1番の歌詞に入り、”嫌いな連中とは付き合わない”つまり、口先だけの社交生活をしないという“Tramp”は、”あばずれ”であるかも知れないけど、”浮浪者”じゃない。

 2番に入ると、エラ流の歌詞となり本領発揮、上流とは程遠く、男にだらしない、いわゆる「あばずれ」の面を、歌詞を変えてわざと強調し、歌の書かれた時代でなく、”現代”のタッチと、歌の楽しさを前面に出して、圧倒的にスイングして行く。

 シナトラの青い目にシビレて見せた後、オリジナル詞の“I’m all alone when I lower my lamp=ランプを暗くして寝る時、私はひとりぼっち”のラインを、エラは、意図的に、こう変える。
“I’m always happy when I lower my lamp. =私がランプを暗くする時は、いつでもハッピーよ。” わざと男性との情事を匂わせて、「あばずれ度」をアップしてから、そういう手合いは”tramp”って言うの!なんか文句ある?と高らかに「寝まわる女」! こう言う歌詞を歌って、品を失わず、楽しくて、スカっと胸のすく印象を与えるのは、エラのキャラクターと歌唱力とのなせる業。これがアニタ・オデイとか、正真正銘のトランプっぽい姐さんだと、こういう風にはいきません。

 サビになると、バンドと一緒にエラは歌全体のカラーを一層すがすがしくさせる。とりすました世間に”Tramp”と軽蔑される女は、髪を風になびかせたり、顔に雨が降りかかるのが気持いい、なんてホザく。ヘアメイクで自分を作りこまない自然体、風が吹いても、ヘアスタイルは崩れないし、雨が降ってもマスカラが落ちてタヌキのような顔にはならないから、気持ちがいいのです。“Tramp”とは、「周囲や既成概念に左右されず、自分に正直な女のこと。」というオチが一層明確になる。だから、平成の時代に聴いても充分共感できる歌になっている。

 
 エラの歌を聴いていると、日本女性でThe Lady Is a Trampと言えば、「男はつらいよ、フーテンの寅」に登場するマドンナ、日本中を旅回りするクラブ歌手、リリーさんが思い浮かびます。(ちょっとメイクはキツいですが、心根が似てます。)
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  エラ・フィッツジェラルドは、歌っている言葉の意味が判らなくとも、充分楽しめる超一流の大歌手だけど、歌の意味だけでなく、歌詞解釈が判って来るとさらに楽しいものですね。

ジャズ講座:Ella in Budapestは12月8日(土) 6:30開講、寺井尚之の名解説に乞うご期待!CU

寺井珠重の対訳ノート(1)

何故対訳を作るのか?
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ワシントンDCスミソニアン博物館にあるブダペストでのエラ・フィッツジェラルド・コンサートのポスター、この前年に同地で開催されたコンサートの模様は次回講座で!
 ジャズ講座が来週に迫って来ました。いよいよトミー・フラナガンのディスコグラフィーが’70年代に入り、しばらくはエラ・フィッツジェラルドとの共演作が続くので、私はサラ金地獄のように、対訳に追われる毎日が続いてます。’97年第2学期のビリー・ホリディ講座以来、今までのジャズ講座の為に、何曲の対訳を作ってきたのか到底数え切れません。今月だけで約35曲は作る予定です。
 現在は書店にジャズのスタンダード曲の出版物や、ネット上に訳詩サイトも数多くあるのに、何故私はいちいち対訳を作っているのでしょうか? 
 第一の理由として、書物やネット上の訳詩は、スタンダード曲の元の形、ブロードウェイや映画などに公開された際のオリジナル歌詞の「意味」を伝えるニュートラルな「情報」となっています。
  
 ジャズであろうとなかろうと、名歌手なら、その歌で何を表現したいのかという「狙い」をドーンと打ち出してくるのですから、ニュートラルな訳では、表現しきれないところが当然出てきます。私はそこのところを、講座のOHPをみてもらいながら一緒に楽しみたいのです!
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左、フラナガンがこよなく愛した歌手ビリー・ホリディ、右、ホリデイに強い影響を受け独自の境地を作ったカーメン・マクレエ
 例えばビリー・ホリディなら、歌詞の歌いまわし一つで、「可愛さ」や「男の罪を赦す女心」ひいては「自分の罪も聴く者の罪も赦す」観音様のような境地を、歌によって色々と出し方を変え、聴くものの心を揺さぶります。逆にカーメン・マクレエなら、可愛さを隠し、人間の「業」というか、瀬戸際の情感をガチンコでぶつけてくる。歌詞自体を変える場合も変えない場合も同じです。講座の日本語訳では、それを出したい!と思いながら、いつも作っています。
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 さて、来週の講座に登場するエラ・フィッツジェラルドはどうでしょう? 彼女の歌詞解釈は寺井尚之の名解説を聞いていただくのが一番ですが、ジャズ講座で取り上げるフラナガンとのコラボ盤の殆どがライブ盤、故に同じ曲でも彼女の歌う歌詞は、9割以上どこか違っています。ステージの流れや、バックとのやりとりで変わったり、伝説となっている「歌詞を忘れちゃった」現象が、逆に凄いアドリブを生み出したりして、歌詞の聞き取り作業は楽しくて仕方ありません。それに加えて、エラはその時代のヒット曲をどんどん取り上げて、自分の歌のしてしまうところも楽しんで欲しい!
 
 おハコの「マック・ザ・ナイフ」にしても、講座に登場するものは、巷で代表作と言われる『エラ・イン・ベルリン』から10年以上経過し、おまけにトミー・フラナガンがバックなのですから、当然、数段スケールの大きな歌唱になってます。
 また、エラには“メドレー”という伝家の宝刀があります。これはトミー・フラナガンが音楽監督になってから、公演を重ねるたびに、どんどん内容が濃くなっていくのを聴くのがまた楽しい!ボサノバ、コール・ポーターもの、デューク・エリントンものなどメドレーと銘打ったもの以外にも、How High the Moonなど、あれよあれよと言う間に何曲登場するか… 替え歌まで入ってくるエラの歌唱、これも対訳を見ながら楽しんで欲しいところです。
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 対訳を作る場合に一番参考になるのは、ロバート・ゴットリーブとロバート・キンボールが編纂した『Reading Lyrics』という、ポピュラー・ソングの歌詞集。何がよいかと言うと、歌詞にカンマやピリオドの「句読点」が記されているのです!これがなくては、正しい日本語訳は絶対に出来ません。ジャズの訳詩の書物やサイトに、句読点がないのはちょっと不思議です。それでも判らないところは、アメリカ人の友達に聞くのが一番手っ取り早い。持つべきものは友!東京で、企業の翻訳の仕事をしているバリトン奏者、ジョーイ北村氏と、元ジャズ歌手のダイアナ・フラナガンが私の一番のサポーター。それ以外にチャック・レッド(ds)やウォルター・ノリス(p)先生など、私の質問に悩まされた人は世界中に数多い。
 今回の講座に登場する“The Lady Is a Tramp”の対訳では、ダイアナに1時間以上付き合ってもらいました。“Tramp”も、ほんま日本語に逐語訳しにくいですね。アバズレでも浮浪者でも、しっくり来ないのがコマる。ダイアナにTrampの意味をしつこく追求したら「ともかく、私のことだって思っときゃいいのよ。」なんて言ってましたが、対訳にうまく反映できたらおなぐさみ。
 ベニー・グッドマンは、ホイットニー・バリエットのインタビュー集でこう言っていました。「アドリブの行方に迷ったら、歌詞を読めばいい。歌詞は最高のナビゲーターだ。どう行けば良いか、そこに全てが記されている。」
 エラ・フィッツジェラルドがわんさか登場するジャズ講座は、12月8日(土)から数ヶ月間続きます。CU!

本日発売!寺井尚之のジャズ講座:「トミー・フラナガンの足跡を辿る4」

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 トミー・フラナガンの命日、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第4巻発売。
 ジーン・アモンズ『Boss Tenor』、ジミー・ヒース『Really Big』など、私の大好きなテナー奏者達の名盤、カーティス・フラーとズート・シムスの顔合わせで楽しい『South American Cookin’』、ジャズ講座受講の皆さんから圧倒的な支持を受けた、明るく深い音色のクラリネット、サックス奏者ジミー・ハミルトンの一連の作品など、一生楽しめるアルバムが沢山解説されていて、読み進むうちに、今まで気づかなかった楽しい聴きどころが判る仕組みです。
 寺井尚之と共に、足跡編集委員会のG先生、あやめ副会長の努力と技量の賜物でもあります。皆さん、ありがとうございました!
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 加えて、ケニー・バレル(g)の隠れた名ヴォーカルなどの楽しさがじっくり味わえるように、私が作った歌詞対訳も付いています。なんたってジャズヴォーカルは一人一人の歌手の歌詞解釈が判った方が面白いよ!スタンダード曲であろうと、歌詞の解釈は歌手の数だけあるのです。
 限定部数なのでお早めに!
 OverSeasに来店されるか、http://jazzclub-overseas.com/about_lecture_book.htmlからお申し込みください。
CU

Arthur Taylor / アーサー・テイラー(ds) その1

マンハッタンの水戸黄門
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アーサー・テイラー(ds)1929-1995
 ドラムの前でスティックを持つ姿が一番絵になる男、それはA.T.ことアーサー・テイラーだ。
 絵になる姿を作るのに、アルマーニもブルックス・ブラザーズも、ダイヤのピアスも、大量の汗の輝きすら要らない。ごくありふれたワイシャツやクルーネックのセーターで、自然に構えるだけ。そうすれば、時代劇の剣豪みたいに、一部の隙もないシックな姿になった。
 A.T.自身によれば、彼はカジュアルな服装が身上なので、宇宙的なコスチュームで幻惑しながら本格的なジャズを聴かすサン・ラから「あんただけは私服でいいから頼む。」と出演を頼まれたそうだ。
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サン・ラのOrch.は全員がこんないでたちです。ヴィレッジ・ヴァンガードにトミーを聴きに来たサン・ラを見たけど、やはり地味目のこんな服装でした。
 一旦ドラムから離れると、A.T.は自分のオーラを全てしまいこみ、とても目立たない風貌の人になった。その広い額が示すように、頭の中には高度な知性があり、音楽に留まらない膨大な知識が内蔵される脳の中は、ハーレムにある彼のアパートの書棚のように完璧に整理整頓されていた。プレイと同様に、A.T.が教養をひけらかすのを見たことは一度もない。
 A.T.以降、ケニー・ワシントン(ds)とルイス・ナッシュ(ds)がフラナガン3で何度もOverSeasで名演を披露してくれた。A.T.より20歳以上若い二人は、巨匠の縦横無尽なプレイがどこに行くのかを全身全霊で感知し、神に付き添える幸福感を虹の光に変えてぴったり併走する天使のようにプレイしていたのに対して、A.T.の方は、フラナガンの即興演奏の道を見守り、フィル・インの疾風と、ベースドラムの雷鳴で、行く手を照らし、速度無制限に走るフラナガンのアドリブ・ハイウエイにレッドカーペットを敷き詰めて行くような感じがした。ロールス・ロイスのエンジンが内蔵されているようなドラムソロの間も、決して「トミーを喰ってやろう」的な“あざとさ”は微塵にもなかった。
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  A.T.が、若手の無名ミュージシャンばかりを使って、Taylor’s Wailersという、凄いバンドを結成した頃のことだ。ヒサユキが来たからと、ハーレムからミッドタウンまで出て来てくれて、食事をした後、「昔、ジョン・コルトレーンと録音したレコードで、タッド・ダメロンの曲を調べたいので付き合ってくれ。」と言うので、ブロードウエイにあったタワー・レコードに一緒に行った事がある。
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“ジャズタイムズ”のフォーラムに揃う、ソニー・ロリンズ、AT、トミー・フラナガン
 NYの街を歩くA.T.は、全然目立たない細身のおじさんだ。こんな地味な人が、バド・パウエルやチャーリー・パーカーのバッテリー役として、歴史に残る名演を繰り広げているアーティストだとは信じられないほど、雑踏に埋もれながら歩く。
 リンカーン・センターに近いブロードウエイ、タワレコのジャズ・コーナーを三人がかりで探したけれど、Soultrane/ John Coltraneという探し物は見つからない。まだLPが幅を利かせていた頃の話です。カウンターにいる20歳になるかならない白人のお兄ちゃんに、在庫がないかどうか尋ねると、「店頭に並べているもの以外ないッス。」と万国共通のツレない態度。他にダメロン楽団のLPはないかと聴いても、(うるさいおっさんやな…)「そこに出ているだけです。」の一点張り。
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  A.T.ほどのお方にこんな無礼な態度を取るとはけしからん!
真っ先にキレたのは寺井尚之、そのお兄ちゃんに向かって大阪弁でまくしたてた。
こらっ、おまえ、ジャズ売っとってその態度何や!?この方は、Soultraneでドラム叩いてはるアーサー・テイラーさんや!判ってて、そんな事言うとんのか!?」
 大阪弁は特にNYではよく通じるみたいで、通訳する前に、すでにその店員の顔が真っ赤になっていた。
「あなたは、あの有名な“アート・テイラーさん”…ですか?」
「アートと違うっ!アーサー・テーラーさんや」(寺井尚之)
 A.T.は“アート”と呼ばれるのをすごく嫌がっていたけど、この時は笑みを浮かべて静かにヒサユキをさえぎった。まるで黄門様が角さんを押さえるように…
「ス・スンマセンッ!すぐ探してきます!!ちょっとお待ちくださいっ。」フロアで変な顔をしている別のバイト君に小声で何か言って裏へ走っていった。
…10分ほど経つと、その店員さんは汗だくになって、ニコニコしながら件のLPを持ってダッシュして来た。
「テイラーさん、ありました!ほんとにラッキーですよ!あの…僕ジェフと言います。ニュー・スクールで、(ジャッキー)マクリーン先生にアルトサックスを習ってるんです。あなたにお会い出来て良かったです。」
「僕も君みたいな親切な人に会えてよかった。ジャッキーに会ったら君の事、宜しく伝えておくよ、ジェフ」
 A.T.は、彼の名札を確認してから最敬礼するジェフとタワレコを後にした。ラッキーだったのはA.T.でなく、ジェフの方だったみたい。
 A.T.のお母さんはジャマイカからNYにやって来た。今でも親戚がジャマイカにいるから、いつか一緒に行こうよと言っていた。A.T.はハーレム生まれのハーレム育ち、タワレコのおにいちゃんの先生であるジャッキー・マクリーン(as)や、ソニー・ロリンズ(ts)は近所の幼馴染で、10代から一緒にバンドを組んで演奏していた。
 正式なプロ・デビューは19歳位、それ以降、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカー、バド・パウエル、オスカー・ペティフォード達BeBopの創始者と共演を重ねた叩き上げだ。’63年から17年間パリ時代を含め、数え切れないレコーディングに参加、晩年は若手を擁するハードバップ・コンボ“テイラーズ・ウエイラーズ”を率いて活躍した。
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左から:(講座本Ⅰ)All Day Long/Kenny Burrell, Jazz Lab/Donald Byrd&Gigi Grice,(講座本Ⅱ)Jazz Eyes/John Jenkins, Giant Steps/John Coltrane (講座本Ⅲ)Gettin’ with It/Benny Golson,Quiet Kenny/Kenny Dorham,(近日発売:講座本Ⅳ)Boss Tenor/Gene Ammons
 講座本ではATのドラミングの妙味がたっぷり解説されています。

ジャズ講座に登場した名演、名盤も書ききれないほどあるので、ぜひ講座本を読んでみて下さい。11月には第4巻も刊行します。
 仕事柄、英語が役立つ私にとってA.T.は大恩人だ。初めて会った後、自分の著書を送って英語を読めと励ましてくれた。日本語訳がない本に、めちゃくちゃ面白いものがあるのに味をしめた私は、手当たり次第に本を読み、読書の暇がない寺井尚之を捕まえては、無理やり話して聞かせ、ホイホイ喜んでいい気になっていたら、今度は再びA.T.にガツンとやられた。
 湾岸戦争の最中にNYで会った時、「何故、日本は米国に安全保障されているのに、湾岸に派兵しないのか?」とボロカスに毒づかれたのだ。日本憲法第9条には戦争放棄の規定があり、その条項は第二次大戦に負けたとき、米国など戦勝国の肝いりで作られたとどうにかこうにか英語で言っても、そんなことでA.T.は納得しない。「何故日本人は改憲しないのか?」「日本人は何でも金さえ出せば解決できると思ってるのか?」「アメリカ兵に血を流させるだけで、日本人は平気なのか?」と猛然と詰め寄られ、自分の平和ボケと日本人意識の希薄さ、英語力の欠如と議論下手を強烈に自覚させられたのだ。
 叩き上げのプロとしてのわきまえと、多岐に渡る教養を併せ持った絵になるドラマー、A.T.はどんな心の人だったのだろう?
 来週は、A.T.の素顔を探るため、ハーレムの聖ニコラス通りにあるA.T.のアパートに行ってみませんか?当時のハーレムは治安の悪い事で有名だったから、貴重品は持たないようにしてね、一緒に行きましょう!
CU

Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その2)

Bohemia Swings Again with Dick Katz / カッツさんとカフェ・ボヘミアに行こう!
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 J.J.ジョンソン・クインテット時代、トミー・フラナガンがバリバリ弾いていた“カフェ・ボヘミア”を探索する私は、ダイアナの助言どおり、翌晩、“NYの街でふと出会う不思議な紳士”、ディック・カッツ(p)さんに電話をすることにした。
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’89 NY リンカーンセンター・ライブラリーで行われた、NPRのラジオ番組“Piano Jazz”のパーティ、ご機嫌のトミーとカッツさん。トミーがゲスト出演した当番組のインタビューは、講座本Ⅲの付録になってます。ご一読を。
 前回も書いたように、NYの街の至る所でフラナガン夫妻と私達が連れ立って歩いていると、不思議なことにカッツさんと遭遇する。
 一度、リンカーン・センターの前でばったり会った時、トミーが「ダイアナと一緒に来た。」と言うと、カッツさんは眉ひとつ動かさず、トボけたジョークで切り返した。「ふーん、そうかい。私は一人でちゃんと来れたけどな。」その時のトミーの鼻を膨らませたポーカー・フェイスはグルーチョ・マルクスそっくり!カッツさんとトミーはとても仲良しだったのだ。
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古典的コメディー・スター、マルクス兄弟はトミーのお気に入り、グルーチョの物真似も上手だったし、映画音楽をアドリブに引用したりしていた。
 カッツさんは日本のジャズ・メディアにはほとんど登場しないけど、ジャズ界ではかなりすごい人なのです。
’24年生まれ、兵役後、ジュリアード音楽院で、トミーのアイドルでもあるテディ・ウイルソン(p)に師事、パリで活動後、’54年から’55年まで、ジャズ界を風靡したトロンボーン・コンビ“J&カイ”バンドのレギュラー・ピアニストとして活動する傍ら、オスカー・ペティフォード(b)やケニー・ド-ハム(tp)などバップの親分達や、大姉御カーメン・マクレエ(vo)に可愛がられ、キャリアを重ねました。60年代には、オリン・キープニュースとマイルストーン・レコードを設立し、プロデューサーとしても活躍、ライターとしては、深い音楽知識と文章力で、モザイク・レコードなど、名ライナーノートを著しグラミー賞にノミネートされ、ジャズの伝統を伝えるAJO(アメリカン・ジャズOrch.)の編曲などを手がける一方、本業のピアニストとして’96年に、レザヴォアから2枚のCDをリリース、特にピアノトリオの“3 Way Play”はカッツさんのテイストが良く判る名盤です。80歳を超えた今も、講演や執筆、作編曲に忙しいらしい…

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 午前2時、ミッドタウン・イーストにあるカッツさんの仕事場に電話をかけると、すぐに本人が出てきた。
「ごぶさたしています…カッツさん、あの…私、日本の大阪という土地のOverSeasのですね、タマエといいます。以前、テディ・ウイルソンのジャズ講座の時には、ヒサユキに本や資料を沢山送ってくださってありがとうござ…」
「ハーイ!タマエじゃないか!ヒサユキは元気かね?こっちは家内のジョーンも皆元気だよ。」
 カッツさんは、ちゃんと覚えていてくれた。それどころか、驚きもしない。私が電話して来る事をちゃんと知っていたみたいだ…。ダイアナが前もって彼に根回しなんてする筈はない。道でばったり会ったなら別だけど…。
 「カフェ・ボヘミアの事を知りたくて、カッツさんから現場の状況を聞きたい。」と言うと、カッツさんは、「どうかディックと呼んでくれ。」と言ってから、前もって原稿があったみたいに理路整然と、それに、店の匂いまで漂うほど活き活きと、当時の様子を語ってくれた。
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トミーが亡くなった後の寂しいNY、一緒に夕食をしてから埠頭までドライブした寒い夜。
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 トミーは、確か1956年にデトロイトからNYに出て来た、すぐに色んな店でバリバリ仕事をしていたよ。ボヘミアではもっぱらJ.J.ジョンソンと演っていた。あの頃からトミーは実にいいピアノを弾いたね… 彼のピアノ、私は大好きだったなあ…。
 私はカフェ・ボヘミアで、’56年から、ジョー・ジョーンズ(ds)オスカー・ペティフォード(b)とハウス・リズム・セクションを組んでいた。 文字通り、夢のようなリズム・チームだったよ。J.J.ジョンソンは、J&カイのコンビ時代(’54-’55)は私がレギュラーピアニストだったんだが、’55年に二人がコンビ解消をしてから、JJが、私をトミー・フラナガンと入れ替えたんだ。
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J&KAIは一世を風靡したトロンボーン・チーム。左がカイ・ウィンディング(ケヴィン・スペイシーというハリウッドの役者に似てるね。)右:J.J.ジョンソン 
 ボヘミアは多分55年ー58年頃まで営業していたのではないかな… イタリア系のイカツいギャングみたいな連中が経営していた。本物のマフィアかどうかは知らないがね。(マイルス・デイヴィス5がボヘミアから中継したエア・チェック盤で、『ボヘミアの店主、誰からも愛される男、ジミー・ジァロフォーロ』と司会者が紹介している。)ギャラの支払いが悪くてね、オスカーは連中と派手にもめていたよ。あの気性だからな。ハハハ。
 広さ? そんなに広い店ではなかったよ。店の奥に小さなステージがあり、バーが左手、テーブル席が少しあるようなところだった。場所がウエスト・ヴィレッジだし、決してゴージャスなクラブではないが、NYのトップクラスのライブを聴かせていた。雰囲気はアッパー・イーストサイドの“エンバース”と対照的な感じだったな。“エンバース”は客層がリッチで、どちらかと言えば、最高のステーキが音楽より売り物だったが、ボヘミアは飲み物しかなくて音楽主体だった。(トミー・フラナガンはトロンボーンのタイリー・グレンと“エンバース”に頻繁に出演していた。)
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“ボヘミア”があった場所で、現在営業中のバロウ・ストリート・エールハウス:ディックの言うとおり入って左手にバーがある。同じカウンターを使っているのかな?
 
 “バードランド”? あそこは、言わばメジャーリーグみたいなところさ。有名だから世界中、色んなところから客が集まった。一方、ボヘミアは地元NYのジャズファンが聴きに来る渋い店だった。(カッツさんは“バードランド”にはチャーリー・パーカーの対バンで出演していたことがある。)
 
 ピアノはね、開店当時は小さなスピネット(箱型ピアノ)しかなかったが、しばらくして改装しグランドピアノが入ったよ。(’57新年のことだ。)
 (珠)ディック、でもカヴァー・チャージはいくらかはご存知ないでしょ?
 チャージ? ハハハ、ミュージシャンでカバーチャージがいくらか知っている賢い奴なんで絶対にいないさ。アイラ・ギトラーかフィル・シャープ(どちらもジャズ評論家)の電話番号を教えてあげるから、彼らに聞くといいよ。え?個人的に知らないって?そんなの構わんさ。私がちゃんと電話をしておいてあげるから。ヒサユキと君がトミーに心酔し、クラブ経営をしてるって言ったら、喜んで何でも力になってくれるはずさ。彼らはそういう事の専門家だからね。
 だが、一度カーメン・マクレエの伴奏をしている時に彼女の友達が客席にいたので、一緒にテーブルに座ったら、『SAVE $1.50 COVER CHARGE』というカードがあったから、多分それ位かなあ…
 (珠)ディック、J.J.ジョンソンは、どんなリーダーだったの? 
 
 リーダーとしてはね、完璧な人だった。
 ベニー・カーター(as,tp,作編曲家)に会ったことはある? 私はね、ベニーのレギュラーだったことが何度もあるんだ!(ディックはちょっと自慢気に、咳払いしてから、後を続けた。)ベニーは正真正銘の完璧なリーダーだった。威厳があって堂々として、汚い言葉なんか決して使わない。サイドメンへの指示も丁寧で、「こうしてくれますか?:Will you please…?」と必ず敬語だった。絶対に「こうしろ!ああしろ!」なんて命令口調はなかった。
それだけでなく、彼は自分の音楽の隅から隅まで理解していて、自分のすべきこと、メンバーに要求すべきことを、ちゃんと把握し、適切な指示のできる人だった。J.J.ジョンソンは16才くらいの小僧の時にカーターの楽団で修行して、彼の帝王学をつぶさに学んだんだと私は推測している。ジョン・ルイス(p)も同様に、ベニー・カーターからリーダーシップの何たるかを学んだ人間の一人だよ。
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“ザ・キング”ベニー・カーターはクリントン大統領から勲章を授与された。
 そうだね、君の言うようにJJは完璧主義者だったよ。彼の自殺はショックだった。(J.J.ジョンソンは’01に銃で命を絶った。一説に癌の苦しみに耐えられなかったと言われている。)それを彼の完璧主義のせいだと言う人は多いが、私にはわからんな…
 私がボヘミアで仕えたもう一人のリーダー、パパ・ジョー・ジョーンズ(ds)は、JJと正反対、マッドでワイルドなバンドリーダーだった。彼は物凄くクレイジーでマッチョな天才だったよ。え?さぞ一緒に仕事するのが難しかったろうって? NO,N0!ワイルドな人に限って、自分の気に入った相手にはとことん良くしてくれるもんさ。私はあんなにやりやすい人はなかったぞ…
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風が吹くようにようにドラムを叩いた巨匠、パパ・ジョー、背後左はアート・ブレイキー、右はエルヴィン・ジョーンズ
(珠)OPとパパ・ジョーとディックが、毎晩色んなプレイヤーと演奏するなんて、さぞ凄かったでしょうね!私もボヘミアに通って聴いてみたかったなあ!本当にダイアナがうらやましい!!
ああ、まったくだ、私だって出来るならもう一度演りたいよ。…
 … 時計を見ると午前3時をとうに廻っていた。カッツさんは、これ以外にも、ここ数ヶ月のジャズ講座に登場するラッキー・トンプソンの面白い逸話など色々な話をしてくれたけど、それは次回の講座をお楽しみに!
 ダイアナは物凄く寂しがっているから、ぜひ近いうちにヒサユキとNYに来なさい。そう言ってカッツさんは電話を切った。
 あの頃、あの街で、J.J.ジョンソンやオスカー・ペティフォード、キャノンボール、マイルス、キラ星の様なスター達と同じバンドスタンドでプレイしたカッツさんは、瞬く間に、80過ぎのおじいさんから、意気揚々とした若きモダン・ジャズの王子に変身して、真夜中の日本から、50年代のグリニッジ・ヴィレッジへ、紫煙とジンの香りが漂うカフェ・ボヘミアへと、時空を超ええた旅に連れて行ってくれた。
 受話器の前で私は密かに確信する。
カッツさんは魔法でおじいさんに変えられた王子じゃない、魔法使いはカッツさん自身だったんだ。

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さて、来週はバップのサムライ、ATことアーサー・テイラーが主役、ハーレムやグリニッジ・ヴィレッジで、私が垣間見たATの素顔を紹介します。CU
 
 

Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その1)

Bohemia Afterthought : カフェ・ボヘミアを探して
「私が初めてトミーと出会ったのは、“カフェ・ボヘミア”だったのよ。ちょうど’57頃よ、ええ、きっとOVERSEASを録音する前に、J.J.ジョンソンのクインテットでね。あの頃は、JJに言われたことを、ただただきっちりやっただけだってトミーは言ってたわ…
 もちよ!トミーはすごくキュートだったわ!でも、その頃、私は別の人と結婚していたから、何もロマンティックなことは起こらなかったのだけれど…」
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Live at Cafe Bohemia (’57 2/2録音)2種類のジャケット。
 トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンは、寂しくて夜眠れないと電話をかけてくる。だって夜中にNYの友人達は皆寝ているけど、日本に電話すれば丁度午後だから。私が最も頻繁に長電話をする相手は、独り暮らしの母親に次いで、トミーが亡くなった2001年以降はダイアナだ。二人の共通点は昭和一ケタ生まれで、PCや携帯電話はなし、主に読書で暇をつぶしていること、そして二人とも亡き夫について語るのが好きなことだ。
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ダイアナ&トミーが出会うずっと以前の写真:フラナガン家のスタインウエイの横に飾られている。
 ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る:第一巻」で、内容の素晴らしさという点から、受講された方々に一番大きな衝撃を与えたアルバムは、トロンボーンの神様、J.J.ジョンソンの作品群だ。特に実況放送形式になっているドイツの希少盤『ライブ アット カフェ・ボヘミア』は、名盤『ダイアル・J.J.5』の僅か2日後のステージだから、『ダイアル・J.J.5』と同一曲も収録されていて、ライブとスタジオでの演奏ぶりを比較しながら、示唆に富む解説が評判になった。CDを聴きながら、この本を読んでみると、更に色んな音が聴こえてくる。
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名盤!Dial J.J.5 (’57 1/31録音)
 完璧なアンサンブル、ひねりがあって無駄のない構成を土台にした縦横無尽なアドリブ、自由でありながら、水も漏らさぬ整然としたJ.J.のサウンドは、このアルバム名になっている”カフェ・ボヘミア”というクラブで培われたのだろうか?
 手元にあるNYの文芸総合週刊誌”The New Yorker”の完全データベースから、タウン情報”Goings On About Town”のページを繰ると、やはり、『ダイアル・JJ5』録音翌日の1957年2月1日(金)から、ライブ盤を録音した2日(土)を含め翌週の9日(土)まで、そして、OVERSEASを録音したスエーデンツアーの前の5月にもJ.J.ジョンソン5はボヘミアに出演している。
 ”ボヘミア”はJ.J.ジョンソンだけでなく、マイルス・デイヴィス(tp)ケニー・ド-ハム(tp)キャノンボール(sa)とナット(tp)のアダレイ兄弟たちの本拠地としても有名だ。
 “キャノンボール”アダレイ(as)のデビューにまつわる神話もある。
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ジュリアン”キャノンボール”アダレイ(as)
 ’55年、休暇を利用してフロリダからやって来た太めの高校教師がアルト・サックスを携え、”カフェ・ボヘミア”にやって来て一曲吹こうという話になった。その夜のバンドリーダーは、OPことあのオスカー・ペティフォード(b)!人のよさそうな青年に大都会の洗礼を与えてやろうと、I’ll Remember Aprilを、弾丸の様なテンポでを吹かせたのだけど、この田舎もんの兄ちゃん、いくら速いテンポで攻め立てても、いとも気持ちよさそうに、朗々とスイングし、ペティフォードを返り討ちにしたというのです。間もなく、その青年は教師を辞め、”キャノンボール(火の玉)”アダレイとして、名を馳せたという…
 “カフェ・ボヘミア”ってどんなクラブだったんだろう…
 「ボヘミア」というのは’50年代のビートニク世代のキーワード、既成概念を打ち破り、自由で束縛されないアーティスト達の心の故郷だ。そんなトレンディな名前のクラブ、”カフェ・ボヘミア”の住所はNY、ウエスト・ヴィレッジのバロウ・ストリート15番地となっている。
 ここは19世紀の終盤に、まず運送屋の馬車を引く4階建ての厩舎が出来た。禁酒法時代になると、辺鄙な地の利を生かし、近所にスピーク・イージーと言われる、もぐり酒場が出来、密かににぎわった。その後消防署などを経て、’55年にイタリア系のマッチョな連中が”ボヘミア”を開店、オスカー・ペティフォードのトリオがハウス・リズムセクションとなり、JJは勿論のこと、マイルス・デイヴィスや、キャノンボール&ナットのアダレイ兄弟、ドナルド・バード&ジジ・グライスの”ジャズ・ラブ”などNYの最先端のグループで活況を呈し’58年ごろまで営業した比較的短命なクラブだった。
 また、ここ数ヶ月間のジャズ講座で寺井が絶賛し、一番人気の博するラッキー・トンプソン(ts,ss)のホームグラウンドでもあったことも忘れてはいけない。
 現在も建物はそのままで、現在はバロウ・ストリート・エール・ハウスというアイリッシュな雰囲気の居酒屋になっている。
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“ボヘミア”の前で休憩するマイルス・デイヴィス(左)現在の姿(右)馬のマークは19世紀の厩舎の名残。
 一体”カフェ・ボヘミア”ってどんな雰囲気だったんだろう…
 Jazz Clubに生息する私は、夜中にそんな事を考え出すと眠れず、ダイアナに電話をする。だって夜中の3時は夏時間のNYなら午後2時だから全然大丈夫だもん。
 「タマエ、いきなりカフェ・ボヘミアなんてどうしたの? へーっ、ウェブログ? いやだ…携帯電話もないあんたみたいな時代遅れの頑固者(ラダイト)までブログをやってるの?!でも、トミーの周辺の歴史を書くっていうのは、とってもいいことだわ。
 “ボヘミア“はね、綺麗だの、豪華だの、と言うには程遠いけど、とにかく良い音楽を聴かせるクラブだったの。当時のウエスト・ヴィレッジは、おしゃれでも何でもない荒涼とした街だったわ。
 席数? よく覚えてないわ…ヴィレッジ・ヴァンガードよりは広かったんじゃない?もっとテーブルも大きくてゆったりした感じだった。チャージ?あはは…そんなもの知らないわよ…だって払ったことないもん。NY中どこ探しても店の料金を知ってるミュージシャンなんていないわよ。(ダイアナはかつてクロード・ソーンヒルOrch.などで活躍した歌手だった。)
 …料理はなくてドリンクだけの店だった、お客は皆ジャズを聴くためだけに集まってたから、客席はすごく静かだったわ。
 お客の人種?そんなの何でもありよ。純粋なジャズクラブに、人種の区別なんてものはなかったの!うちのあの納戸にそういうことを全部書いてある本があるんだけどねえ…探すのが大変なのはあなたも知ってるでしょ。掃除をして出てきたら必ず知らせるから、私に任せなさい!(ああ…ダイアナが納戸の掃除なんてするわけない…絶対無理やわ。)
 そうだっ、タマエ、いいアイデアがあるわ! ディックは”ボヘミア”に出ていたから、私よりずっと良く知ってるはずよ。ディックに電話なさい! え? 何言ってるの、彼はピンピンしてるわ!ヒサユキとあなたのことを大好きだって言っていたから忘れっこないわよ。おとといも道でばったり会ったのよ。電話番号知ってるでしょ。じゃあね!ヒサユキに私からのキッスを忘れないで!!」
 ディック・カッツ(p)は、寺井尚之と不思議な縁のあるピアニストだ。寺井はJ&カイのアルバムを通じて、学生時代から特別な興味を抱いていた。それは、彼が腕のあるピアニストだっただけでなく、トミー・フラナガンの得意フレーズをそのまま、自分のソロに取り込んでいたからだ。
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2006年NY、YAS竹田(b)の母校でもあるニュー・スクールで。
やがて、私たちがNYを訪れるようになり、フラナガン夫妻と街を歩いていると、まるで天から私達のことを見ていて、ふわっとマンハッタンに舞い降りてきたみたいに、不意に出会う不思議な人なのだ。彼のアイドルもテディ・ウイルソン(p)やアート・テイタム(p)、若き日の共演者はJ.J.ジョンソン(tb)タイリー・グレン(tb)オスカー・ペティフォード(b)ベニー・カーター(as,tp,etc…)ラッキー・トンプソン(ts,ss)であったこと、うお座生まれであることなど、トミーと共通点が多いから、大都会を歩く道すじも自ずと似ているのだろうか…。1924年生れ、スーツ以外の姿が想像できない上品な老紳士で、東海岸の先生然としていて、蝶ネクタイが似合う。声もしわがれているのだけど、一緒に話をしてみると、20歳の青年のように若々しい。聡明でユーモアがあって洞察力が深い。80年以上生きているのに、浮世の垢が全くついていない感じがする。
このおじいさんは、本当は王子様で、悪い魔女に老人の姿に変えられたのじゃないかしら、と思えるほど爽やかな人だ。
 今夜はもう遅い。よし!明日の晩はカッツさんに電話してみよう!(つづく)
 

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オーヴァーシーズ/ トミー・フラナガン・トリオ (2)

名盤と男はジャケットより中身
 トミー・フラナガンは来日中、大阪ステイの機会があると、ブランチから仕事に出る夕方まで、OverSeasでゆっくり寺井尚之と過ごすことがありました。そんな時はレコードを一緒に聴きながら、今ジャズ講座で話している原型のようなことを、演奏していた本人に講釈するので、トミーは、たいそう面白がって聞いていたものです。
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 例えば、フランク・ウエス(ts.fl)と録音した『Moodsville-8』(写真①)のBut Beautufulがかかっていると、こんな具合…
寺井:「このBut Beautifulのこのイントロは、もうジャズ史上最高のイントロですわ!」
師匠:「なんでや?こんなん普通のイントロやないか? ハンク・ジョーンズでも誰でも出来るやろう。」
寺井:「いいえ、出来ません!綺麗なゆったりした流れるようなルバートから、最後の瞬間にさりげなくきちっとイン・テンポにしてフランク・ウエスに渡すでしょう?こんな自然で美しいイントロを、他に誰ができますか?Huh?・・・」
師匠:「…ふーん…そうかな? まあ、そりゃよかった・・ザッツ・グッド」
そして、”あー、こんな奴の話に付き合ってられんなー”みたいに、斜め30゜を見上げ、どこ吹く風の素振りです。でも、この会話の直後、フラナガンはジャズパー賞(デンマークで’90年から始まったジャズのノーベル賞みたいな賞)受賞記念CD、 『Flanagan’s Shenanigans』(“フラナガンズ・シェナニガンズ”写真②)で、この曲を録音し、寺井や私をあっと驚かせました。
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①                     ②
 ある午後、『Overseas』の“Willow Weep for Me”が流れて来ると、トミーは寺井にこう言いました。
「アート・テイタムのこれは、本当に凄かったぞ。お前もアート・テイタムを聴いて勉強せにゃならんな。」
 
 「何言うてはりますのん?このトミーのWillow Weep for Meの方がずっといいじゃないですか!」
 「何言うとんねん、お前、テイタム聴いたことあるんか?」
 「もちろん、レコードは持ってます。でも…」
 「アート・テイタム以上のピアニストはおらん!もっと聴いてみろ! 第一、お前は生のテイタムを聴いたことあんのか? Huh!? (あるわけない…)
わしは若い時はずーっとテイタムを一生懸命聴いて来たんや!
もっとちゃんと勉強せい!
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アート・テイタム(1909-56)はフラナガンだけでなくサー・ローランド・ハナ、ウォルター・ノリスなど、OverSeasゆかりの全てのピアニスト達の崇拝の的。
 最初は柔らかな語調が、最後にはフォルテッシモ、トミーは議論になると、ピアノ同様にダイナミクスが物凄かった。そして、あの大きな瞳の迫力…でもこの一言が、後に、寺井尚之のプレイを大きくしたと言えます。現在、寺井は演奏前には必ずと言ってよいほどアート・テイタムを聴いています。
 
 このレコードは未発表テイクの入ったコンプリート盤だったので、次に、“Dalarna”のtake2が流れて来ると、トミーが眉をひそめました。
「これはなんや?」
「オルタネイトが入ってるコンプリートCDです。」
「どこのレコード会社や? わしには何の断りもなかったぞ。こんなもんくっつけて出して何が面白い?何の意味もないわい!Nonsence!ナーンセンス!
 フラナガンが怒ったのも無理はありません。Overseasは、決してツアー中のバイトとして場当たりに録音したアルバムではなく、入念にレパートリーを選び、キーや構成を考え抜いて丹精込めて作ったものなんですから。
 
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 ジャズ講座では、名コメンテイター、G先生との対話を通して、これまでEP、LP、CDと、様々な形でリリースされて来た様々な『Overseas』を検証しました。その過程で、現在市販されているCDで「別テイク」としておまけについている全トラックが、マスター・テイクと同一であるという、驚愕の事実が明らかになります。今のジャズファンが入手できる唯一の『Overseas』がこれでは困ったものです。
 さらに、現在廃盤のDIW盤の「真正」別テイクを聴き、マスター・テイクとの違いや、そこに潜む深い意味などを勉強できました。講座なら別テイクも有益です。
 当店の常連様でもある、ヨコハマ・ピープル(フラナガン夫妻はこう呼ぶ)「トミー・フラナガン愛好会」のHPに、『OverSeas』の詳細な聴き比べデータが掲載されているので、どうぞご一読を!
 
 OVERSEASは有名盤だけあり、WEB上でも数え切れないほどのサイトやブログで言及されていますね。
 何故か、色々あるジャケットについての論議が多い。現在市販されている、オヤジギャグっぽいC並びのジャケットはおおむね好評みたい。でも上に書いたような、別テイクのエラーは、ジャケットに免じてなのか、殆んど見過ごされている。
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 肝心の内容については、『普段“サイドマン”のトミー・フラナガンが、思わず、エルヴィン・ジョーンズのパワーに煽られて…』とか『主役の器でないフラナガンが、エルヴィンに主役をバトンタッチして成功したアルバム』という意見があるようですが、それは全くあり得ません。先ず第一に、フラナガンは終生、自分を『サイドマン専門』とは思っていなかった。繰り返して言いますが、決して思っていません。それどころか、「私は良い伴奏者じゃなかった。伴奏の専門家には普通のピアニストととは全く違う技術が必要なんだ。良い伴奏者というのは、エリス・ラーキンスやジミー・ジョーンズの事を言う。あるいは、ホーンのバッキングならバド・パウエルが誰よりもすごい。」とよく言ってました。
(寺井が「エラの伴奏をしているトミーの方がずっと上や。」と言い返すと、「お前生でジミー・ジョーンズが伴奏するサラ・ヴォーンを聴いたことあるんか?」と突っ込み返されていました。)
 このあたりは、今後のジャズ講座でどんどん明らかになるでしょう。
 
 ドラムのエルヴィン・ジョーンズとは、二人の高校時代からずっと共演している間柄で、親友同士でもあります。高校時代、ポンティアックのジョーンズ家の自宅では、しょっちゅうジャムセッションをわいわいとやっていて、フラナガンやケニー・バレル達はデトロイトから車を飛ばして参戦していました。フラナガンによれば、その頃から彼のドラムスタイルは全く同じであったそうです。『OVERSEAS』録音以前’57年には、グリニッジ・ヴィレッジのカフェ・ボヘミアだけでも、2月と5月に、J.J.ジョンソン5で、のべ2週間共演しています。ですから、“あのパワー、あのスピード”は、トミーにとって最も耳慣れた演り易いものであったはず。トミー・フラナガンがエルヴィンの迫力に圧倒されるなんて、絶対ありえないことなのです。
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1956年、トミー・フラナガンがNYに出てきて僅か数週間で名店バードランドにバド・パウエルの代役として出演できたのは、一足早くこちらでパウエルの共演者として活躍していたエルヴィンの推薦だった。
 フラナガン弱冠27歳の名演『OVERSEAS』は、確かに当時のトミー・フラナガン音楽の集大成、文句なしの名盤だけど、お楽しみはこれからだよ
 
 

オーヴァーシーズ/トミー・フラナガン・トリオ(1)

わが心のOVERSEAS
前回まで、昔話が続きましたから、今回は皆の知っている名盤<OVERSEAS>の話をしましょうね。
講座の本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では第一巻の最終章に載っています。
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1957年、トミー・フラナガン(p)がウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)と組んだピアノ・トリオ作品。
 私が『OVERSEAS』を買ったのは、関西大学軽音楽部に入学した翌日です。(あら、また昔話になっちゃった…)入部の際、面接とオーディションをした幹部の4回生は、プロのピアニストで、ちょっとカタギでないような感じの人でした。(入学した時に、私の身長目当てに熱心に勧誘して来た社交ダンス部の人たちに、『「軽音」の連中は、僕達とは違って不良ばっかりでクスリをやってるかもしれませんよ。』と脅かされていたのです。)ヒゲをたくわえ、譜面帳の入った大きな皮のトランクを持っており、夜になると、毎晩演奏に行くため、スーツを着てます。昨日まで高校生だった私から見れば、ものすごい大人のオジサンという感じでした。
 
 その先輩に「入部したかったら、これは買わんといかんで!」と言われ、即レコード屋さんに走って行きました。(聴くところによれば、この人は、同様の手口で何百枚ものOVERSEASを販売促進したらしい。)貧乏学生の私にとって、2000円以上するLPはものすごい高級品でした。私の買ったのはテイチク盤で、「第一期スイング・ジャーナル・ゴールドディスク」、チョコレートやクッキーの箱についている○○賞受賞!みたいな金色のリボンが印刷してあります。
 家に帰ってA面の針を降ろすと、部屋の空気が澄み渡るような気分になりました。なんだかよく判らないけど、力強く華やぎのあるイントロから“Relaxin’ at Camarillo”のテーマになだれ込む瞬間に、ジェット機で離陸するような浮揚感を体験した。B面はCamarilloと同じブルースだけど、対照的に重厚なベースのビートから始まる“Little Rock”からスタートし、ビリー・ホリディの歌ですでに知っていた“柳よ泣いておくれ”で針が止まります。Camarilloが難易度最高のパーカー・ブルースと知らなくても、ラストの曲がテイタムの十八番と知らなくても、大学の教室で勉強していたマティスやピカソと互角の、スカっとしたモダンな音楽やなあ…といっぺんで好きになり、以来、毎日日課のように聴きました。
 だから、CD時代も終焉に近いと言われる現在になっても、LPの印象が強いんです。
 
 以来何十年も、毎日聴いていますが、聴くたびに感動します。それを思うと安い買い物ですね。80年代に、人間としてのトミー・フラナガンに出会い、彼が歳とともに円熟を増し、病に苦しんでも、守りの姿勢に入らず進化した様子を生で聴いてきましたから、この27歳の時のアルバムを「フラナガン最高の名演」とは決して思いませんが、寺井尚之の言うように「初期の傑作」であることに間違いはありません。
  私にこのLPを買わせた寺井尚之にとっては、若い時、徹底的にコピーした音楽のルーツ、彼の人生を決定付けた一枚です。 余りに思い入れがあり、却ってジャズ講座で解説するのが、とっても難しかったのではないかと推測します。
 でも講座は文句なしに面白かった!これぞ寺井尚之!という醍醐味を堪能させてくれました。「ひいきの引き倒し」的な解説ではなく、理解を優先させたのは正解でした。なぜOVERSEASが何度聴いても飽きない名盤なのかを、色んな角度から分析して、スパっと教えてくれたからです。
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当時のボス、完璧主義者、J.J.ジョンソン(tb)
 寺井は音楽家の視点から、楽曲と演奏の構成を提示しながら、デトロイト・バップ・スタイルや、当時のこのトリオのボス、J.J.ジョンソン(tb)からの影響など、客観的な所見をわかり易く語ります。
 そして、録音前のフラナガンとビリー・ストレイホーンとの邂逅のエピソード、選曲についてのフラナガンの思い入れ、ストックホルムを襲った水害で水浸しになった直後の録音スタジオの状況など、<OVERSEAS>という名盤を創り上げる過程での様々なファクターが、トランプのカードをめくるように浮き彫りにされて行きます。物事は「それを好き」な人に訊くのが一番良いという見本の様な講座で、とってもわかり易かった。もっと知りたい人はジャズ講座の本第一巻を読んでみてください。
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 “OVERSEAS”(=海外)というのは、このトリオとボビー・ジャスパー(ts.fl)を擁するJ.J.ジョンソン(tb)・クインテットがスエーデンにツアーした際、当地ストックホルムで録音したことから命名されたタイトルです。そう言うとノリのよいジャズメンが、ツアー中の空き時間に、ひょいとスタジオに入り、“Yeah! Man”と場当たりに録音したやっつけ仕事と思われるかも知れませんが、講座の解説を聞くと、実際は全くそうでなかったことが、良く判りました。
 1957年当時、J.J.ジョンソン・クインテットはグリニッジ・ヴィレッジにあったジャズクラブ、<カフェ・ボヘミア>の常連コンボだったことを考えても、フラナガンが、録音レパートリーの構成や意図を共演者に伝える余裕は充分にあったはずです。
  フラナガンは、インタビューで、大昔に録音した『OVERSEAS』を「代表作」と呼ばれることに不快感を示したことがありますが、それは『OVERSEAS』以降のフラナガンの音楽に対する無知に対して怒っているのであって、決してこの作品を嫌っていた訳ではありません。
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 大阪滞在中、トミー・フラナガンがOverSeasでくつろぐ時も、しょっちゅう一緒に聴きました。そんな時、寺井はこの講座で話したようなことを、口角泡を飛ばし、とうとうと解説したものです。フラナガンは、ポーカーフェイスで、時々突っ込みを入れたり、洒落を入れたりしていたけど、鼻先から、嬉しそうに「フンッ」と息を出していたなあ… (つづく)

Detroit New York Junction /サド・ジョーンズ(cor.tp)

デトロイト・ハード・バップ:美の壷
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  “Detroit New York Junction”(’56録音) はジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の記念すべき第1回に登場したアルバムです。前に紹介したオスカー・ペティフォードもNYの後見役側として参加しています。一般的には、名門Blue Noteレーベルの栄えある1500番代の地味な一枚として知られていますが、寺井尚之はそれとは関係なく『デトロイト・ハード・バップの代表作』とし、その内容を高く評価しています。
デトロイト・ハード・バップってなんだろう?
 命名者は寺井尚之ですが、最近はジャズ誌にも、この言葉を見かけるようになりました。デトロイトで発展し、NYで実を結んだハード・バップの一形式、フラナガンや、サド・ジョーンズ(tp.cor)、ビリー・ミッチェル(ts)のスタイルと言うが、どんな特徴があるのでしょう?
 ジャズ講座では、このアルバムを聴きながら、デトロイト・ハード・バップの秘密が、手品の種明かしのように明らかになって楽しかった。
 レコードで親しみ、さらに生で観るにつけ、私には、デトロイト・ハード・バップなる音楽のキーワードが、coolやhip、refinedとかいう英語より、私たちの御先祖様が作った“粋(いき)”という日本語の方が、ずっとぴったり来るように思えてなりません。
  たとえば、落語の高座で、渋い羽織姿の噺家さんが、噺の途中に、さりげなくスルっと羽織を脱ぐと、一瞬目にも鮮やかな裏地が見えて、高座の空気が変わる瞬間があるでしょう?このレコードも、羽織の裏地のように、一瞬の鮮やかな変わり目が楽しくて、不思議で仕方がなかったのです。ところが、講座を聴くとそれが何故なのかが分かり、とてもすっきりとした気分になりました。
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 *左のカヴァーと同様のストライプは、江戸時代延享年間というから18世紀前半、上方歌舞伎の女形、嵐小六が江戸の舞台で着て、町で大流行した「小六染」。
江戸時代の庶民が生んだ“粋”のセンスは『いきの構造』なんて本もあるくらいで、今さらここで理屈をコネる必要もないでしょう。簡単に言うと、『封建社会』の強い制約の中、『色気』というものを『庶民が自由な精神で表現する』為に、わざわざ『意地と心意気で抑制してみせる』という、相反する要素の微妙なバランスから成り立つ文化と、私は捉えています。
 
 色気と自由精神と節度を兼ね備えた頑固者でも、バランスが悪ければ、“粋”にならず、野暮になったり地味に終わるところが難しい。“粋”には修練が必要で、玄人(プロ)でなければ無理。いくら美人でも素人が着飾り厚化粧してもダメ、花柳界で行儀と芸を叩き込まれ、肌を磨き上げたプロの女性でないと“粋な姐さん”にはなれないのです。現代、グローバル・スタンダードになっている「かわいい」の対極にある価値観かもしれません。
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*左はフラナガンのアルバムOverseasのジャケットからC並びのパターン/右は役者文様と言われるパターン。江戸時代の歌舞伎スターが舞台で着た柄が巷で流行し、今に伝わる役者文様と呼ばれる柄、これは市村格子と呼ばれるもの。十二代目 市村羽左衛門(いちむら うざえもん)が流行させた。つまり、一本と六本の縞と「ら」の字で「一六ら」という洒落。
  さて、ここで、視点を変えて、粋の要素である『色気』を『ジャズ』に、『封建社会』を『デトロイトの過酷な人種差別社会』に置き換えると、デトロイト・ハード・バップのイメージとダブってきませんか?
 トミー・フラナガンは’30年生まれ、お父さんは、’20年代の大恐慌時代に南部のジョージア州で失業し、はるばる自動車産業で景気の良いデトロイトにやって来ました。コナント・ガーデンズという黒人の住宅地に住み、郵便配達夫として生計を立てながら、気立ての良いフラナガンのお母さんと温かな所帯を持ち、苦労をして地区の教会を建造した人です。公民権法以前の時代、全米に人種の区別と差別はありましたが、大工業都市デトロイトでは、黒人人口の急激な増加に、自分達の領分が侵されるという白人の恐怖心から摩擦が多かった、人種間のトラブルは、公平を望む黒人からではなく、専ら白人サイドから起こったそうです。住み分けの進む南部や、都会のNYより、ずっと状況が悪かったといいます。第二次大戦中の’43年、全米最大の人種暴動が勃発したのもデトロイトです。
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*デトロイト時代のケニー・バレル(g)とトミー・フラナガン(p)(於:Club666) ’46というからフラナガンはノーザン・ハイスクール時代の16歳!
 フラナガン達が腕を磨いたジャズクラブ“ブルーバード・イン”も、黒人のダウンタウンにありました。白人は気が向けば“ブルーバード・イン”で極上のジャズを楽しむことが出来ても、有色人種は白人専用クラブに客として入ることは出来なかった。それどころか、白人のダウンタウンを歩くだけで襲撃された時代もあった。黒人ミュージシャンはライブやレコーディングの仕事は出来ましたが、デトロイトのラジオ局の演奏者は白人のみと決まっていました。黒人市民は税金は払えど、公営住宅にも入れないし、銀行の融資を受けることも出来なかったのです。
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 そんな中、フラナガン達は、子供のときから音楽に親しみ、楽器の稽古に励みます。加えて、デトロイトの高校や専門学校には、’30年代後半にヒトラーの弾圧を逃れ、ヨーロッパから亡命した優秀な音楽家が、沢山教師として従事し、彼らに音楽の技術と教養を与え、更にチャーリー・パーカー達にBeBopの洗礼を受け、強烈な信念と自尊心を獲得したのです。
 サドにせよ、フラナガンにせよ、バレルにせよ、演奏中、派手に体をゆすったり、芸術家ぶった「無我の境地」の笑みを誇示することなど決してありません。彼らにとっては野暮の骨頂です。カウント・ベイシー楽団のコンサートで、広い肩幅のサド・ジョーンズが、どっしりと姿勢良くステージに立ち、、ほとんど身動きせず、素晴らしい音色と音使いのソロで会場をノックアウトした姿は今も忘れられません。ひけらかさない、弾き過ぎない。プレイや音色にドキっとする色気はあるけれど、出しすぎはなし。どっぷりブルージーでありながら、コテコテにならない。「上品」だけど、「お上品」じゃない。甘さもあるが、酸っぱさや渋さがある。抑えが効いているから垢抜けている。ピリっとした緊張感の中にふと出す遊び心がまた最高です。
 そんな事を思いながら、私が講座で学び、すっきりしたデトロイト・ハード・バップの壺をここにちょっと記しておきましょう。もっと知りたい方は、ぜひジャズ講座の本第一巻を開いてみてください。

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 1)デトロイト・ハード・バップは「テーマのアンサンブルがきれいで完璧」
 テーマの端正さは、デトロイト・ハード・バップの一番わかり易い特徴。ハード・バップらしい複雑なハーモニーと、疾走感を損なわず、高級マニュアル車のようにパチっとギアチェンジしながら、サラリと品良く主題を提示することから始まります。これがモーターシティならでは!このアルバムの、<Blue Room>や<Scratch>を聴いてから、同時期の他のハード・バップ・コンボのテーマ処理と比べると、その辺がよく判るかもしれません。
 
 2)デトロイト・ハード・バップは構成にひねりがある
 本盤のオープニング、<Blue Room>は、戦後ヒットした、マイホームなスタンダード曲で、一般的なAABA形式の32小節の曲。だけど、サド・ジョーンズ5は、ファースト・テーマを半分だけしか提示しない。中途半端と思いますか?実際にアルバムを聴いてみてください。一糸乱れぬアンサンブルで、鮮やかにキマるので、聴く者にテーマの印象を充分に与えます。後半分は、テナーのビリー・ミッチェルがのアドリブソロを取り、リーダー、サド・ジョーンズにバトンタッチ、コルネットを吹くサドの2コーラスのソロが圧巻です。次に来るフラナガンのソロはあくまで爽やか!ところがこのアドリブが24小節とまた変則、残りの8小節だけを鉄壁のアンサンブルでラストテーマにする。それでもなお<Blue Room>の曲想を十二分に出すという仕組み。
 ほらね!デトロイト・ハード・バップは、お皿に山盛りのフライドチキンより、日本の懐石料理に似ているでしょ?イヴニングのデコルテより、和服の女性の襟足の色気に似てるでしょ?
 3)デトロイト・ハード・バップは転調を隠し味にする。
 もう一度、キーを意識しながら<Blue Room>を聴いてみる。すると、前半だけ提示されたテーマはF、その後、ビリー・ミッチェルのテナー・ソロから、A♭に転調する。フラナガン達がNYに去った後、世界を席捲するモータウン・サウンドの、派手でインパクト溢れる転調とは違い、ここでの転調は、和食の味に奥行きを増す砂糖のような隠し味だ。聴く者はキーが変わったことよりも、サウンド・カラーの変幻に、訳もわからずワクワクするのみ。(1)のようにソリッドにソロを回した後に聴かせるたった8小節のラストテーマは、A♭から再び転調して最初のFに戻る。どうです? “粋”でしょう?
 本作では、<Scratch>や<Zec>など、後年、トミー・フラナガンのおハコとなるサド・ジョーンズ作品も聴ける。録音当時、フラナガンとバレルは若干25歳、ジョーンズ32歳、ミッチェル29歳、この落ち着き、この完成度には、ただただひれ伏すのみ。
 トミー・フラナガンが日本で非常に人気があるのも、日本人に共通する“粋”のエッセンスを、無意識に看破していたからではないかしら?
 四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋なねえちゃん… デトロイト・ハード・バップに人生を捧げる寺井尚之が、“粋”を貫く故に面白く、やがて哀しい“フーテンの寅さん”を熱狂的に愛好するのも、私にはあながち偶然とは思えないのです。
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 さて、次回は、初めてフラナガン3を迎える前夜、カリフォルニアからウルトラマンのように飛んで来て、英会話の特訓をしてくれた私の「先生」の話をします。来週末更新予定!
 
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