ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」Vol.5が出来ました。

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「トミー・フラナガンの足跡を辿る」編集委員会のG委員長や、貴重な時間を割いて、毎月、講座の度にテープ起こしに多大な労力を費やしてくれる寺井尚之ジャズピアノ教室のあやめ副会長、そして、講師、寺井尚之、皆の苦労の5番目の結晶が、やっととなりました。
 今回は’61年~’64年の全録音アルバムを網羅しています。読みどころは、何と言ってもコールマン・ホーキンス(ts)の一連のアルバムについての解説だ!
 コールマン・ホーキンス(1904-69)
 ありとあらゆるジャズの巨匠と共演し尽くした感のあるフラナガンが脇に回った歴史的名盤は、数限りなくあるのですが、コールマン・ホーキンスとの共演作は、少し意味合いが違います。
 トミー・フラナガンが、ボスとして、人間として最も敬愛した人は、J.J.ジョンソンでもエラ・フィッツジェラルドでもなく、勿論マイルスやコルトレーンでなく、ホーキンスだったのです。
昨日、ダイアナ・フラナガンと講座本について色々話したのですが、彼女はこう言っていた。「Good Old Broadway, No Strings,…ほんとにいいアルバムよね!トミーは、ホークと録音したブロードウェイの作品集をほんとに気に入っていて、いつもその話をしていたわよ。あんた、早く講座本を英語に訳しなさいよ。忙しいって?何がそんんなに忙しいのよ?」
  『テナーサックスの父』と呼ばれるコールマン・ホーキンス(1904-69)、フラナガンがレギュラー・ピアニストとして共演していた晩年の60年代。実は一般の評論界では、音色も衰えた下降期と言われており、本書に収録しているアルバム群は、全く正当な評価を受けていません。フラナガンは、そういうステレオタイプに対して、真っ向から反対していました。
 「生」ジャズ講座に出席された皆さんの間でも、コールマン・ホーキンスのブームが起こって、今も懸命に原盤を集めている人がいる。

 寺井尚之の解説は、音楽的な楽しみどころを判りやすく教えてくれるし、これらのアルバムが、全く準備なく、スタジオ入りしてから、レコード会社が提示する曲目のメモと市販の譜面だけを元に、ホーキンスがその場でどんどんアレンジして、簡潔にメンバーに意図を伝え、録音した様子を見せてくれます。
 会社の企画に従ってスタジオでプレイするだけ、そして演奏後は何を演ったのかも忘れてしまう。普通なら、コマーシャルな演奏になって当然の「お仕事」です。
 デューク・エリントンは、お客様の顔を見ずにやっつけ仕事をする、心のこもらないスタジオ・ワークを「音楽の売春行為」とさえ呼び糾弾しました。ところが、ホーキンスの、一連のブロードウェイ・ミュージカル集は、手塩にかけたお気に入りの楽曲に対するのと同じ温かみと品格が感じられる。
 何故なんだろう?
寺井尚之の解説からは、コールマン・ホーキンスという巨人の持つ、音楽に対するの余りある愛情というものが浮き彫りになっていく。
常に音楽的に演奏することしかできない。誠意ある演奏しかできない!高潔なミュージシャンの魂が見えて来る。トミー・フラナガンはホークのそういう点を愛し、敬ったのに違いない!
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 寺井尚之がトミー・フラナガンから直接聞いたホーキンスのエピソードに加え、特別付録として、ホーキンス・カルテットの同期生、名ドラマーエディ・ロック(ds)のインタビューの日本語訳が付いています。エディさんに直接インタビューをすることも考えたのですが、締め切りに間に合わなかったのと、ハーレムのジャズ・ミュージアムの講演会で、このインタビュアーのローレン・ショーンバーグさんが、私達が訊きたかったことを殆ど全て質問していました。ショーンバーグさんは名テナー奏者であり優れたジャズ史家です。ですから、エディさんも本音で応えている。ジャズ・ファンでなくとも、とっても面白くて為になる事が沢山見つかりますよ!原文はこちらです!
サー・ローランド・ハナ(p)3のコンサートで意気投合!寺井尚之とエディ・ロックさん(ds)
   Bean & the Boys
左からフラナガン、コールマン・ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)

 コールマン・ホーキンスは、テナーサックスという楽器を、音楽の世界で初めて主役にした偉人だけど、創始者の地位に安住することはなかった。ホーキンスの蒔いた種から育ったビバップ革命に身を投じ、クラシックにも造詣深い真の音楽家だった。そんなホークが晩年、心から愛したのがデトロイトのミュージシャン達で、メジャー・ホリー(b)も、エディ・ロック(ds)もデトロイト出身、トミー以外にホーキンスがよく使ったハンク・ジョーンズもサー・ローランド・ハナも勿論デトロイトの水に洗われたピアニストなんです。ホーキンスは『デトロイトのピアニストの美点は、ピアノを“打楽器”でなくて、ちゃんとピアノとして弾くことだ。』と言っている。
 寺井尚之のジャズピアノ教室も、ピアノをピアノとして弾けるように指導しているから大変です。
 対訳係りの私は、エディさんのインタビュー以外にも、パット・トーマスという女性歌手の希少盤の歌詞を作りました。この作品には、伴奏者のクレジットがないのですが、他の演奏者達の謎解きもお楽しみ!
 アルバムには、 サド・ジョーンズの名盤、Detroit-New York Junctionの<Blue Room>や、当ピアノ教室の課題曲(Ⅰ)<There Will Never Be Another You>などのスタンダード曲の歌詞対訳が掲載されています。パット・トーマスの歌詞解釈はとっても素直なので、音源が聴けなくても参考になると思います。
 
有名盤としては、強烈なインパクトのあるマルチ・リード、ローランド・カーク参加の『Out of the Afternoon/Roy Haynes』の章は、レコードを聴きながら、順番に読んで欲しいです。ローランド・カークが次々繰り出す、各トラックに登場する色んな楽器をちゃんと順番に解説している本も、余りないのではないかしら?
 渋いところでは、’60年代、ハーレムのブラック・ジャズ・シーンで最もお客の入ったテナー奏者、ブラック・ジャズ・ソサエティの“杉さま”と言える、Willis “Gator” Jacksonの『Shuckin’ 』。私的講座ヒット作です。ウィリス・ジャクソンは、私の好きなへヴィー級歌手ルース・ブラウンの夫君でもあり、サラ・ヴォーンとも親交深かった。
 いずれコールマン・ホーキンスのことは、機会を改めてInterludeでゆっくり書きたいと思っています。
 ジャズ講座新刊は、今のところJazz Club OverSeasで販売中。特別価格\3,000です。
 来週には、ジャズの専門店、ミムラさんや、ワルティ堂島さんにも置いていただく予定です。大阪まで買いに来れない方は、OverSeasまでどうぞお気軽に
 明日は、長年皆様にご愛顧頂いたフラナガニアトリオの最後のコンサート! 
 心を込めて皆さんをお迎え申し上げます。
CU

寺井珠重の対訳ノート(9)  <Caravan>

Son_of_Sheilk.jpg  無声映画の大美男スター、ルドルフ・ヴァレンティノで大当たりした「キャラヴァン」映画、“熱砂の舞”
<キャラバン>は、寺井尚之の隠れた18番、ピアノとドラムのスリリングな掛け合いから、あのテーマが始まると、いつもお客様は大喜び!
 今月のジャズ講座では、トミー・フラナガン3の傑作アルバム『トーキョー・リサイタル(A Day in Tokyo)』の<キャラバン>が聴けた。キーター・ベッツ(b)の地響き立てて唸るようなビートと、ギラギラ光ってズバズバ時空を切る、黒澤映画のチャンバラみたいな、ボビー・ダーハム(ds)のスティックさばき、トミー・フラナガンが二人の持ち味を生かし、息を呑むようなトラックだった。
 来月のジャズ講座では、このアルバムから5ヶ月後、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルで同じトリオをバックにエラ・フィッツジェラルドが歌う<キャラバン>が次回のジャズ講座で聴けます。
ella_montreux_75.JPGモントルーはスイス、レマン湖畔の高級リゾート、このジャズ・フェスは当時カジノの中で行われていたのです。
 後で付いた歌詞は、砂漠を行く愛と冒険の旅路、レマン湖でヴァカンスやつかの間のロマンスを楽しむお客様にぴったり!下はエラが歌った1コーラス目です。

Caravan
曲:Juan Tizol,Duke Ellington/詞:Bob Russell
Night
And stars above that shine so bright,
The mystery of their fading light,
That shines upon our caravan.
Sleep
Upon my shoulder as we creep
Across the sand so I may keep
This mistery of our caravan.
You are so exciting,
This is so inviting,
Resting in my arms
As I thrill to the magic charm of you
With me here beneath the blue     
My dream of love is coming true
Within our desert caravan…
 
夜の砂漠、
輝く満天の星、
流れて消える神秘の流星は、
キャラバンに降り落ちる。
私に肩にもたれて、
眠っておいで。
砂漠を進む、キャラバンの
長き旅路に、
愛の魔法から醒めぬよう。
ときめく心、
わが腕に休む君、
君の妖しい魅力に囚われる。
空の下、君と寄り添い、
恋の夢は叶う、
愛の砂漠、二人のキャラバン…
 

   星降る夜空、砂漠の海、静かに進むキャラバン隊…異国の地に繰り広げられる愛と冒険のスペクタクル!歌詞のムードは、第一次大戦後に大流行したルドルフ・ヴァレンチノのサイレント映画(上の写真!)や、後に「アラビアのロレンス」として日本でも有名になった、砂漠の英雄、T.E. ローレンスの実話などの「砂漠ブーム」を強く意識したものです。
  実際の作曲者、フアン・ティゾールは、エリントン楽団のバルブ・トロンボーン奏者です。20歳の時、プエルトリコから第一次大戦後の好景気に沸く本土に渡って来た。それは、はラジオがやっと出来た頃、間違ってもTVなんかない! 当時、庶民の娯楽は、劇場に行って、サイレント映画と“実演”つまりバンド演奏やショーを楽しむことくらい。劇場のピットOrch.の楽員がとにかく足りなかった時代。
 プエルトリコは、本土よりずっとハイレベルの音楽教育で知られ、即戦力で使える音楽家の宝庫だった。だから、大勢のプエルトリカンがスカウトされてやって来た。ティゾールもその一人です。彼も劇場映画館のオーケストラ・ピットで、ヴァレンチノが砂漠の首長(シーク)として活躍する大スペクタクル映画、「血と砂」や「熱砂の舞」に女性達が失神するほどうっとりするのを観ていたに違いない。
juan_tizol.jpgフアン・ティゾール(1900-84)
 ティゾールは、<キャラバン>(’36)の他にも<パーディド>など、楽団の為にたくさん作曲している。エリントンやストレイホーンだけでなく、こういう作品を総括したのがエリントニアなんです。
 ’29年に入団し、15年間在籍した後、ハリー・ジェームズ楽団に破格の報酬で引き抜かれましたが、’51年、ジョニー・ホッジス(as)達、主力メンバーがドドっと退団した楽団の危機に、助っ人として再加入した。
 楽団での彼の役割は、アドリブで魅了するソロイストではなく、しっかりとしたテクニックでエリントン・サウンドを支える縁の下の力持ち。ヴァイオリン、ピアノetc…あらゆる楽器に習熟していたから全体を考えプレイした。
 勿論バルブ・トロンボーンでは、どんなに速く広く音符が飛び回るパッセージでも容易く吹ける名手であったから、エリントンは彼の為に、普通のスライド・トロンボーンでは到底演奏不能なパートを書きまくった。そんなティゾールの複雑なラインとサックス陣のとのコントラストが、随一無比のエリントン・サウンドを生んだのです。
 ティゾールの長所はそれだけではありません。「規律」という楽団にとって最も大切なものを守った。本番でもリハーサルでも、仕事場に、誰よりも早く入ってスタンバイしている人だった。アメリカの一流ジャズメンは、日本よりずっと体育会系で、ファーストネームで呼び合っていても、上下関係が凄いのです。先輩が早く入っていたら、いくら「飲む=打つ=買う」三拍子揃ったバンドマンでも、おいそれ遅刻など出来ません。こういうメンバーがいると、バンマスはどんなに楽でしょうか!
 故に、ティゾールはエリントンの代わりにコンサート・マスターとして、リハーサルを仕切るほど重用されました。ですからずっと後から来て側近となったビリー・ストレイホーンと確執があったのは、むしろ当然のことですよね!
 <キャラバン>のエキゾチックなサウンドは、サハラ砂漠ではなく、西インド諸島で生まれたフアン・ティゾールのものだった! エリントンは『ビバップとは、ジャズの西インド的な解釈である。』と言っている。
 この作品にも、ビバップを予見するように、オルタードと呼ばれるスケールが多用されています。
 それは、ティゾールをエリントンに結びつけた第一次大戦から、社会の変化につれて、ビバップへと連なって行く。
 その道筋もまたInterludeにとっては、愛と冒険の一大スペクタクル!
 
 次回のジャズ講座は6月14日(土)、ジャズ講座の本第5巻も新発売!
CU

寺井珠重の対訳ノート(8) <Something to Live For>

Billy_strayhorn-Duke_ellington.jpeg 左:デューク・エリントン、右:ビリー・ストレイホーン 
 昨日のジャズ講座では、待望の『Tokyo Recital/ Tommy Flanagan3』を皆で聴くことが出来ました!エリントン楽団の名演をピアノトリオで演るには、キーを変え、キーター・ベッツ(b)と、ボビー・ダーハム(ds)の妙技を120%生かす…フラナガンの頭の中が講座で少し覗けた気がしました。
  寺井尚之が歌詞付きの譜面を出して解説した名曲が今も心の中で鳴っている。それは、青春の危うさと、希望の炎が、陽炎(かげろう)の様にきらめく不思議なバラード、<Something to Live For サムシング・トゥ・リブ・フォー>、OHPに出された五線紙上の歌詞が余りに小さくて、もったいなかった。だって、トミー・フラナガンのピアノは、この歌詞をストレートに歌い上げたものだったから。
 寺井の膨大な譜面には、歌詞を書き込んだものや、対訳まで横に付けているものが多い。
 ストレイホーンが二十歳になるかならない青春時代に書いたものです。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの共作とクレジットされているけど、実はストレイホーンが初めてエリントンを訪ねた際、持参した譜面の中で一番気に入られた曲だと言います。早くも翌年には、レコーディング(’39)された。現実のビリーは、ピッツバーグで暖炉も別荘もなく、アル中の父から家庭内暴力すら受けていたと言います。だけど、この作品は現実逃避のファンタジーというには、メロディも歌詞も余りに愛らしい。
 昨夜、歌詞が小さすぎて判りづらかった皆様に、それから、昨日だけよんどころない事情で来れなかった、いつもの仲間に感謝を込めて!
 
Something to Live For/ Billy Strayhorn/Duke Ellington


<Verse>
I have almost everything
 a human could desire,
Cars and houses, bearskin rugs
To lie before my fire,
But there’s something missing,
Something isn’t there,
It seems I’m never kissing
The one whom I could care for,

<Chorus>
I want something to live for,
Someone to make my life an adventurous dream
Oh, what wouldn’t I give for
Someone who’d take my life and make it seem
Gay as they say it ought to be.
Why can’t I have love like that brought to me?

My eye is watching the noon crowds,
Searching the promenade,
Seeking a clue
To the one who will someday be
My something to live for.

<ヴァース>
 人がうらやむ贅沢も、
 殆ど私は手に入れた。
 車や家や別荘も、
 熱い暖炉のその脇の、
 熊の毛皮の敷物も…
 なのに何かが欠けている。
 どうやら、私にないものは、
 本当の恋人、燃える恋。

<コーラス>
 求めるのは生きる喜び、
 冒険の夢を見せてくれる人、
 私の命を輝かせ、
 それが定めと言うのなら、
 その人のために進んで死ねる、
 そんな恋がしたいのに。

 昼間の喧騒の町、
 私は人の行きかう通りを探す。
 運命の糸口が開けるように、
 私の生きがいとなる、
 その人の手掛かりを求め。



下は、エラ・フィッツジェラルドとデューク・エリントン楽団のヴァージョン、ピアノはフラナガンが伴奏者として絶賛するジミー・ジョーンズです。
 
 トミー・フラナガンのTokyo Recital (Pablo)もぜひ聴いてみてください!これはもう、最高です。 
CU

トーキョー・リサイタルとデューク・エリントン



 今週の土曜日のジャズ講座には、(別名 A Day in Tokyo)が登場します。
 ’75年2月録音、フラナガンがエラ・フィッツジェラルドとの日本ツアーのオフ日に東京で録音したアルバム。当時大学3回生の寺井尚之は、その4日後に、最終公演地の京都で、トミー・フラナガンに初めて弟子入りを志願し、「人に教える暇があったら、自分の練習をしたい。」と見事に断られた。もし、フラナガンが調子よく「よっしゃ、今日から君は僕の弟子だよ!」と、言っていたら、寺井尚之の今はなかったかも知れない。
 当時のスイングジャーナルを読むと、このアルバムの実質的な製作者であった日本ポリドールが『スタンダード集』を要望したにも関わらず、フラナガンの強弁な主張に押し切られた形で、『エリントン-ストレイホーン集』に成ったと書いてありました。恐らくトミー・フラナガンは、来日前に「リーダー・アルバムを」とだけの録音オファーを受け、長年温めていたエリントン集の構想を、映画の絵コンテのようなしっかりとしたイメージを準備して、東京で録音に臨んだに違いないのです。
 それが土壇場になって、「トミーさん、エリントン集なんたって、そんなもの売れませんや。何とかスタンダードでお願いしますよ。」とか言われたに違いない。フラナガンという人は、そんな時、ピストルで脅されたって札束を積まれたって、、テコでも動かない人ですからね。No!と言ったはずだ。頭から湯気を出しためちゃくちゃコワイ顔が想像できる。
 <Tokyo Recital>が、どれほどの名作かは、ぜひジャズ講座に来て寺井尚之の話を聴いて楽しんで頂きたいと思います。
 ところが、最近は、ジャズが好きでも、デューク・エリントンという名前も”A列車で行こう”も聴いたことがないと言う、若い方々が増えている。時代が変わるという事は、こう言うことなのでしょうか? Oh, My God, 神様、仏様、こりゃ、困った。
 だから、ちょっとザ・デュークとストレイホーンの話をしてみよう!
とは言え、経歴だけでも、アメリカ音楽史となり、楽団メンバーの変遷だけでも、ジャズ人名辞典になる。楽曲を並べると、アメリカン・ヒットパレード。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの世界は、アマゾンの熱帯雨林より奥深い。だから、本当に少しだけ。
 ellington_1.jpg ピアノとワードローブに囲まれたデューク

撮影ハーマン・レオノール

(その1)デューク・エリントン
<明治のぼんぼん>
  “デューク”こと、エドワード・ケネディ・エリントンは、日本で言えば明治32年生まれ。”アンタッチャブル”でおなじみのギャングのボス、アル・カポネ、日本なら川端康成、笹川良一と同い年だ。当時全米で最大の黒人人口を誇った都市、ワシントンDCに生まれた。 父親は、裕福な医師の邸宅の食事やパーティを仕切る有能な執事だった。エリントン少年は、アメリカに人種差別があることも知らず、お坊ちゃまとして何不自由なく育ち、幼少からピアノを習ったが、発表会では片手を先生に手伝ってもらわなければ満足に弾けない劣等生、野球の方がずっと好きだったと自伝に書いている。
Fats_Waller.jpg エリントンの天才仲間、ファッツ・ウォーラー(p)
 
  ハイスクール入学後のエリントン少年は、“ぼんぼん”の例に漏れず、夜遊びを覚えた。プールバーや、浅草ロック座のように、綺麗なお姉さんがしどけなく踊るバーレスクの劇場に出入りする。そのうち、生演奏するピアニストの脇には、必ず美人がはべるという法則を発見し、初めてピアノへの情熱が生まれたのだった。エリントン少年の非凡な点は、女性を追い掛け回すだけでなく、ハスラー達のいかさまの極意や、お客に喜んでチップを払ってもらう術を、即座に会得したところです。例えばピアノ演奏のエンディングでは、わざと腕をオーバーに上げると喝采とチップが増えると言うような実践的テクニックを次々に身につける。電話帳に「芸能なんでも承り」と、一番大きな枠の広告を張り、自分で演奏するだけでなく、芸能事務所や広告代理店など多角経営を行い、破格の収入を得て、高校中退。そんなエリントンにNY進出を薦めたのはファッツ・ウォーラー(p)だ。’23年、エリントンが故郷を出る時に持っていた有り金は、全て道中で散財し、NYに着いた時は一文無しだったが、蛇の道は蛇、天才的な要領の良さで、酒場からコットン・クラブやブロードウエイへと、天井知らずにどんどん出世して行く。
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<禁酒法に学ぶ>
  エリントンがブレイクしたのは禁酒法時代。第一次大戦後、バブル景気に沸くアメリカで施行されたけったいな法律、禁酒法は、結果的にギャングと娯楽産業を大儲けさせた。だって非合法ビジネスは税金を払わなくていいから儲かります。客席は白人オンリーのハーレムの名店《コットン・クラブ》は、毎夜、富豪やセレブで大繁盛、専属バンドのエリントン楽団は全米にラジオ放送され、海外にも名声が轟いた。ジョニー・ホッジス(as)の官能的な響きやクーティ・ウィリアムス(tp)の野生的なプランジャー・ミュートは、絢爛たるハーレム・ルネサンスの栄華と、エキゾチックな肢体をさらすコーラス・ガールなしには生まれなかったのだ。
  エリントン達は、もぐり酒場(スピーク・イージー)で密造酒の作り方も会得した。
 非合法のもぐり酒場で提供される密造酒は、同じ中身でも、A.Bとランク付けされていた。豪華なカップで供されるAは値段が倍違う。大阪人なら、「Bでええわ」と言うところですが、景気の良いお客さんは、例え中身は同じでも、“A下さいっ”と高い方を注文し、女性達に羽振りのよさを見せ付けたのです。容器が違うから、高価な飲み物とそうでないのはひとめで判るのです。(今ならキャバクラのドンペリか?)エリントンは、それを観て「これだ!」と膝を打ったと言います。
エリザベス女王に謁見するエリントン
<音楽にジャンルなし。良い音楽とそうでないものだけ。>
 中身は同じでも、ステイタスを付けよう。 故にエリントンは、ハーレムの一流で終わることなく、禁酒法でギャングが没落し、ハーレムが廃れても、どんどん出世した。ギャングとの黒いつながりも、エリントンは巧みに避ける処世術を持っていた。 ヨーロッパでは、英国皇太子(後のウィンザー公)が“追っかけ”となり、一晩中バンドの近くから離れない。そしてエリントンが出演するイギリスの晩餐会でダイヤのイヤリングを落とした高貴なレディの名文句は世界に発信されたのだ。
 「ダイヤはいつでも買えるけど、エリントンは今しか聴けないのですよ。皆さん、どうぞ、ダイヤなんてお気になさらないで。」
   ’38年にビリー・ストレイホーンと出会い、二人の非公式な共作活動が始まってからは、組曲やクラシックのエリントン・ヴァージョン、バレーに至るまで、創作スケールは更に拡大を続ける。ビートルズやロックに主役の座を奪われたジャズ界から超越した存在になることで生き残りを図り、ジャズの枠に囚われることを徹底的に避けたのだ。
<エリントンの楽器はオーケストラだった。>
 エリントンの革新的な和声解釈はジャズだけでなく、ジャンルの区別なく20世紀の音楽に大きな影響を与えた。エリントンは、楽団メンバーの持ち味を最高に生かした楽曲を創り、自分のピアノのサウンドを絶妙に生かす楽曲を作った。
 留学時にエリントンへの弟子入りを熱望した武満徹は、こんなことを言っている。「エリントンは常にこの音を誰が弾くのかと常に考えて作曲することが出来た。あれほど作曲家冥利に尽きる贅沢はありません。クラシック界では、夢のまた夢のようなことです。」
 以前、ジャズ界のサギ師としてセロニアス・モンクの事を書きましたが、モンクが一番尊敬したのがデューク・エリントンだった。エリントンの痛快なサギ師ぶりは、またいつか書いてみたいけど、それは決して音楽家の内容のなさを小手先の術で補ったのではないのです! むしろ、自分の音楽の崇高さを、正しく世間に認めさせるために使った、「ちょっとした魔法」ではなかったか?
 Duke-Ellington--at-the-Graystone-Ballroom--1933-.jpegトミー・フラナガンが3つの時の、デトロイトでの公演ポスター
 ビッグバンド時代の終焉後も、エリントンは作曲の印税を、ほとんどバンドの給料に宛てて維持したと言いますが、主要なバンドメンバーが抜けても、エリントンは決して動じず、新しいメンバーで新しいバンドの醍醐味をどんどん創って行った。それほど懐の深いエリントンが、ただ一人、独立を徹底的に阻止したスタッフが、ビリー・ストレイホーンだったのです。
 
 次回はビリー・ストレイホーンの天才について、少し話そう!
その前にジャズ講座は10日です。皆さん、どうぞいらっしゃい!
CU

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(1)

kenny_dorham.jpgKDことケニー・ド-ハム(1924-72)はテキサス男。ビリー・エクスタイン楽団、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、BeBopの名バンドで活躍し、トミー・フラナガンとは名盤『静かなるケニー』を遺した名トランペット奏者、作編曲家。腎臓を患い僅か48歳で死去。
 寺井尚之は、懐石料理の如く、季節に因む旬の曲を聴かすのを得意にしている。先週、フラナガニアトリオはケニー・ド-ハムのハードバップ作品、”Passion Spring”を演った。春野菜には強いアクがあるけれど、それを抜いて上手に料理すると、この季節ならではの力強い味わいになる。”Passion Spring”も丁度そんな曲だった。私はケニー・ド-ハムが大好きなんです。職人というか、昔気質というか、会ったことないけど、非常に親近感を覚える。テナーの聖人、ジミー・ヒースとKDは非常に親しかったらしい。

 『Quiet Kenny』(静かなるケニー)にしても、「この音、このタイムしかない!」と言う位、どこを取っても完璧なのに、ジャズ特有の“カタギじゃない”かっこ良さに溢れていて、窮屈なところがない。だから、毎日聴いても飽きない。
 ケニー・ド-ハムを、ジャズ評論家、ゲイリー・ギディンスは『過小評価の代名詞』と呼んだ。
 ド-ハムは決して世渡りのうまい人でなく、腕の良い大工や板前さんみたいに気難しい名手だったという。大阪弁でいうと、“へんこなおっさん”だったのだ。名盤『Quiet Kenny』が録音された’59年当時、ド-ハムは、NYのマニーズという大きな楽器屋で、音楽インストラクターでなく、トランペット売り場の販売員として働いていた。いわゆるDay Gigで家族を養っていた。その気になればTV局やスタジオ・ミュージシャンの仕事がいくらでもあったろうに、けったいな人です。
 
 ケニー・ド-ハムはトランペットだけでなく、作編曲も一流で、ビッグバンド全盛時代は、ギル・フラーなど色んな編曲家のゴースト・ライターとして働いた。五線紙だけでなく、文才もあった。彼の書いた短い自叙伝は大変面白いので、いずれInterludeに載せたいな。
 さらに’66年には、ダウンビート誌でジャズ評論家としてレコード・レビューを担当している。これがまた、“へんこ”なド-ハムならではの名文です。とにかく、アルバムを真剣に聴いて書いている。ミュージシャンだから、音楽の描写力がダントツに優れていて、愛と厳しさがある。ミュージシャンの視点で、良いものは良い、ダメな物はダメとはっきり言う。
 そんなドーハムがセロニアス・モンク・カルテットのアルバム、『ミステリオーソ』について書いた異色のレコード・レビューを紹介してみましょう。(DownBeatの貴重なバックナンバーはG先生の膨大な蔵書から拝借して、日本語にしてみました。)
 この文章が書かれた’66年のジャズ界の潮流が、コルトレーン、マイルス以降のアヴァンギャルドで、“New Thing”という流行語が使われていた頃であることを心に留めて読むと一層興味深い。
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THELONIOUS MONK / MISTERIOSO(RECORDED ON TOUR)セロニアス・モンク/『ミステリオーソ』 (COLUMBIA)

 評点 ★★★1/2

ダウンビート・マガジン ’66 1/27号より

1. Well, You Needn’t
2. Misterioso
3. Light Blue
4. I’m Gettin’ Sentimental Over You
5. All the Things You Are
6. Honeysuckle Rose
7. Bemsha Swing
8. Evidence
パーソネル: Charlie Rouse(ts) Monk(p) Larry Gales or Butch Warren (b) Ben Riley or Frankie Dunlop (ds)

1. ライブ・レコーディングで、オープニングの1.では、モンクが<ウェル、ユー・ニードント>のメロディをイントロとして8小節を弾き終わる前に拍手が来る。ファーストテーマの後にラウズが先発ソロ、テーマから一貫性のある良いアドリブだ。その後モンクがソロ。続くベースのゲイルズ(b)もきっちり仕事をする。ライリー(ds)はバーラインを越えたハードなドラムソロだ。
再びアンサンブルに戻り、これぞモンクという決め技で終わる。
2.<ミステリオーソ>は風変わりなブルースだ。カット・タイムで進むが、ラウズのソロになると普通のタイムの普通のブルースになるので、全編これミステリアスということもなし。
3.<ライト・ブルー>には殆どコードがない。これは “NEW THING”のコンセプトか?いや違う。実はモンクの“OLD THING”な古いネタなのであった。だが古いと言えどあなどってはいけない。モンクのプレイする音楽の地平は“NEW THING”の、煙幕を張ったようにぼけたサウンドではない。モンクはどこまでもクリアだ。
4.は古いスタンダードだが、コンセプトは非常に斬新。テーマはモンクのストライド入りのソロで聴かせる。ラウズのリラックスした堂々たるソロは爽やかな風を呼び起こす。全く嬉しくなる(Delightな)演奏だ!
5.モンクの8小節のイントロから、グループ全体でスイングしながら<All the Things You Are>のテーマにどっとなだれ込む。部隊の先頭に立つのはラウズ。その激しさをそのまま読み取ったコード、自己主張するモンク、それをバックにするラウズ。テーマからそのままラウズがアドリブ・ソロを取る。ラウズに続くモンクは、大変に美しく、アヴァンギャルドな(というか、風変わりな)なシングルラインのシンコペーションをを弾いて見せる、秀逸なユーモアだ! モンクのソロの後、再びラウズが戻ってくるが、戻ってきても別に大したことは起こらず、モンク流のクライマックスは降下を始める。
6.モンクは自分流のコード解釈で<ハニーサックル・ローズ>を演奏。市販の譜面からはおよそかけ離れている。しかし、それでこそモンクだ。アドリブ・ソロでは、高音の慌ただしい右手の動きに入り込んでいく。本トラックにラウズは不参加。
7.各4小節で成り立つAABA形式の曲、短いフォーマットでアドリブのしやすい素材。まずラウズのソロから、モンクが続き終わる。
8.B面の<エビデンス>はオリジナリティとドラマ性では極めつけだ。-つまりメロデイとタイトルの関係において、である。
 本作品は、全体的に、’40年代のいわゆる「ハード・ジャズ」、つまり各人のソロ主体のフォーマットだが、ハーモニーとラインのコンセプトは非常に新鮮なものだ。しかし、現在流行中の“アヴァンギャルド” を特急列車に例えるなら、特急の線路上を各駅停車のが走っているような感は否めない。故に、まるで昔のレコードのように聴こえてしまう。列車の内容が余りに多いため、却って活気がなく、ハッスルが十分でない。(KD)
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どうですか?非常に具体的な描写で、このアルバムを聴いたことがなくても、楽器を演奏できなくとも、なんとなくイメージ出来る親切な書き方でしょう?一度聴いてみたくなりますね。だけど、当たり障りのない書き方でなく、あくまで鋭くモンク音楽を見据えている。
 
 ゴールデン・ウィークなので、土曜日も休日だから、土曜にでも、更に激辛と甘口のKDの評論2種を紹介します。
 CU

サキソフォン・コロッサスに押された「怒りの刻印」/ソニー・ロリンズ


 『サキソフォン・コロッサス』はモダン・ジャズのバイブル的名盤、どのトラックを聴いても、“モダン・ジャズ”の圧倒的なパワーと魅力に溢れている。“モリタート”“セント・トーマス”は、歌舞伎なら『勧進帳』、クラシック音楽なら『運命』同様、特にそのジャンルが好きでなくたって誰でも知ってるもんや…と思っていたけど、ジャズが、BGMとして“流れる”だけの時代になってからは、あながちそうでもないらしい… とはいえ、“サキコロなんかあんまり当たり前で耳にタコできて、もう聴く気もせんわ。”と言うジャズ通も多いのではないでしょうか?このセリフは、かつて私がミナミの中古レコード店に行くと、必ずハングアウトしていたネクタイ姿の常連さんの言葉です。
 それほどベーシックな名盤なのに、今まで我々はちゃんと聴いていなかった…と思い知らせてくれたのが、ジャズ講座だった。
  スイングジャーナルやダウンビート、どのジャズ雑誌でも星5つ、ガンサー・シュラーや、ラルフ・グリースンなどの大先生は、歴史的名演と口をそろえて誉めちぎる。おまけに『主題的即興演奏に於けるソニー・ロリンズの挑戦』と題するシュラーのエッセイまでが、ジャズ批評を代表する歴史的名文と評価される結果になった。ジャズ・ファンとグルメは、星の数にはめっぽう弱い。しかし、絶賛されるが故に、真実が見逃されるということもある。
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 講座では、このアルバムには、『ずれ』や、テンポの『揺らぎ』、バース・チェンジのミスが潜むことを、実際の音源を聴きながら確認し、その瞬間のソニー・ロリンズを始めとする各メンバーの心象風景まで、実際のプレイを聴きながら解き明かしていく。寺井尚之特製の進行表があれば、耳の肥えたプレイヤーでなくとも、自分達が今、この瞬間、曲のどの位置を聴いているのかが一目瞭然に判る。だから、寺井尚之と同じ目線で、演奏に現れる色んなシーンを一緒に楽しめるのです。
 中でも圧巻は、“ストロード・ロードの謎”と呼ばれるバース・チェンジの謎解き。
 ソニー・ロリンズのオリジナル、Strode Rodeは、ロリンズがシカゴ時代によく出演していたクラブ、ストロード・ラウンジにちなんだ曲で、講座以降、寺井尚之のレパートリーにもなり、ピアノトリオで楽しんでます。
 AABA形式のテーマは12+12+4+12と、少し変則になっている。寺井は、この録音から、ハーモニーが余り明確に伝わってこないことから、「メモ的な譜面をその場で渡して録音したのではないか…」と推測する。
 ここでのロリンズ-ローチのバース・チェンジは、試しに私が何度数えても何コーラスやってるのかさっぱり判らない。寺井尚之は何故、皆が判らないのかを、進行表を出して教えてくれる。実は「演ってるほうも判らなくなっているからだ。」と。結局、一瞬失った流れを、うまくアジャストして元に戻した結果、歴史的名演となったのです。
 
 バース・チェンジを迷子にさせた誘因はフラナガンがヒットさせたテンションのきつい一発のコードが原因だったことが明らかになっていく。サイドマンとして抜群の評価を受けているフラナガンが、確信犯的に「判らなくなるようなタイミング」のバッキング・コードを絶妙に入れたのだ。
 地道に仕事をする脇役フラナガン、メトロノームの様に正確無比なマックス・ローチ…ジャズ評論でお決まりのように出てくるキャッチフレーズが、講座ではどんどん崩されていきます。
 その経緯は、推理小説を読むようで、知的満足度たっぷり!『間違い探し』にありがちなセコいところがない。詳しいことは、講座の本第一巻をぜひとも読んでいただきたいと思います。
 夭折の天才ベーシスト、ダグ・ワトキンスはデトロイトの名門高専カス・テック出身、この学校の当時の音楽カリキュラムは並みの音大よりずっとハイレベル、教師陣はヨーロッパから亡命してきた一級のコンサート・アーティストが多かった。ダグはポール・チェンバースの従兄弟で一年間デトロイトで同居し、非常に仲良しだったと言う。晩年トミーのレギュラーだったピーター・ワシントン(b)にはダグの大きな影響を感じます。
 進行表を見ながら、フラナガンのヒットさせたキツいコードを自分の耳で確かめて、「ほんまや、これはわからんようになるわ。」と納得、あれあれ、ほんとだ。ダグ・ワトキンスの逡巡するビートや、ローチのドラムから送られるサインに戸惑うロリンズ、今度はロリンズをフォローして、カチンと歯車のかみ合うバッキングを送るフラナガン、皆のプレイに、字幕がついたように良く判ったし、このアルバムを一層楽しめることが出来るようになりました。
 
 フラナガンが、現場での「何か」にカッとしてガツンと押した『怒りの刻印』…でも、それは音楽を台無しにするどころか、却って、レイジーな浮揚感と、即興演奏に命を賭ける集中力との激しいせめぎ合いを生み、化学作用を引き起こしたのではないだろうか?
マックス・ローチが牽引した二つの大車輪クリフォード・ブラウン(tp)とソニー・ロリンズ。
ブラウニーは奇しくもこの作品が生まれた4日後に悲劇的な事故死を遂げた。

   
 色々な書物に遺されたトミー・フラナガンの発言を読むと、この名盤の謎解き講座に陰影が付き、一層興味深いのです。
 

NY的なるジャズについて:
  デトロイトから出てきた当時、NYのミュージシャン達は余りにもバド・パウエルとチャーリー・パーカーに、耽溺しすぎているように思えた。勿論、我々だって(デトロイトのピアニスト)パーカーやパウエルは好きだったが、我々にはもっと何か他のものがあると思っていた。例えば、NY派のドライブ感と同時に、我々にはもっとリリカルな要素があると。趣味の良さと、テクニックももう少しあると自負していた。まあ、それは私個人の意見だから間違っているかもしれないがね。
 Jazz Spoken here/ Waine Enstice & Paul Rubin, 1992
 “サクソフォン・コロッサス”参加の経緯について
 偶然!偶然だったんだ。大勢のミュージシャンがプレステッジで録音していて、僕も名簿に載っていただけだったんだ。振り返ってみると、その頃に録ったものが全て今は古典になっている。参加していたのは幸運だった。ソニーとはバンガードで何回か共演したがツアーに同行したりするというようなことはなかった。
Downbeat誌 ’82 7月号
サキソフォン・コロッサスについて
 
 現在のレコード製作では、気にいらないところは編集してしまうが、昔の録音は、ミスも何もかもそのままだ。だが、私はその方が好きだな。…“サキソフォン・コロッサス”の収録曲がエクサイティングだったどうかは知らないが、なによりロリンズと共演することが私にはエクサイティングだった。何故ならコールマン・ホーキンスを別にすれば、ロリンズは私が当時最も好きだったサックス奏者だったから。
Jazz Spoken here/ Waine Enstice & Paul Rubin, 1992
 まあ、ロリンズはあれほど素晴らしいミュージシャンなのだから、<ブルー・セブン>が絶賛されたこと位どうってことはない。 実際の彼はあれよりずっと良いよ。
Jazz Spoken here/ Waine Enstice & Paul Rubin, 1992
ソニー・ロリンズについて
 ロリンズはフラナガンにとって、いつもお気に入りのミュージシャンであり、”優しいスイートな男”だ。ロリンズは、スターであるプレッシャーに打ち勝つために、わざと近寄りがたい人物像を演じているのだとフラナガンは言う。フラナガンがロリンズと初めて出会ったのはデトロイト時代で、かの有名なローチ-ブラウン・クインテットが町に来た時だ。
 “ロリンズは自分自身をどれくらい面白いと知っているのだろう?”という質問に、フラナガンはこう答えた 。
「彼は真剣そのものなんだけど、真剣なところがおかしいんだ。意識的におかしくプレイしようとしてるかどうかは知らない。でも僕にはおかしく聞こえてしまう。例えば“If Ever I Would Leave You” 初めて聴いた時には、もう床にぶっ倒れる程笑いこけたよ。だが、同時に、彼は真剣そのものだとも思えた。彼はあのスタイルでなくとも、色々なやり方でプレイできるんだ。しかし、その時は、彼のルーツである西インド諸島風に演ってるとは、知らなかった。凄く細かいビブラートで、殆ど初心者のような音色だよ。全く音にならないようなところまでホーンをオーバー・ブロウさせてね。でも、あのようなアプローチで、あれほど音楽的に出来る演奏家を私は他に知らない。」
Jazz Lives/Michel Ullman New Republic Books, 1977

“サキソフォン・コロッサス”の緊張感に満ちた名演は、天才音楽家集団を生んだ二つの街、ハーレム・ストリーツとデトロイトとのせめぎあいで実った果実なのかも知れない。
 “サックスの巨人”の初期の代表作、やっぱりBGMとして流すのでなく、こっちも正座して真剣に聴きます!
CU
 

寺井珠重の対訳ノート(7)

所変われば『彼氏』も変わる
The Man I Love (私の彼氏)/エラ・フィッツジェラルド

’98年、AMEXのPRでのエラ・フィッツジェラルドアニー・.リーボヴィッツ撮影 ©2008 artnet
 トリビュートが終わったら、あっという間に桜が咲き、今週の土曜日はもうジャズ講座…年を取ると月日の経つのがどんどん速くなります。
 寺井尚之がトミー・フラナガンのプレイを年代順に解説して行く『足跡』ジャズ講座、今週の登場アルバムはエラ&トミーの唯一のスタジオ録音盤『Fine and Mellow』と、ロンドンっ子達が大いに盛り上がるライブ盤『エラ・イン・ロンドン』、この両方に収録されているのがこの曲、“The Man I Love (私の彼氏)”、エラ・フィッツジェラルドは、長年の間、様々な公演地やスタジオで、たくさんの「彼氏」のことを歌って聴かせてくれた。それぞれ、とっても楽しいのです。
 
  《元カレ from Songbook》
 “The Man I Love”は、エラの金字塔、『ガーシュイン・ソング・ブック』(’58)に収録されています。
このアルバムを聴いたアイラ・ガーシュインは「エラに歌ってもらうまで、自分達の作品がこれほど良いとは思わなかった。」と言ったとか。
後に出てくる2ヴァージョンを、アイラが何と言うか訊いてみたかった。
 まだ見ぬ恋人を夢見る乙女ので歌詞のあらすじはこんな感じ。
☆原詞はこちらに。

<私の彼氏>
原詩(’24作):アイラ・ガーシュイン
いつか、私の恋人が現れる。
きっと強くて逞しい人。
私を愛し続けてもらえるように、
精一杯尽くす。
彼は私と出会ったら、
微笑みかけるはず、
だから運命の人だと判る。
しばらくしたら、彼は私の手を取るわ。
馬鹿な事と思うでしょうけど、
言葉を交わさなくたって、
二人は恋に落ちるの。
巡り会う日は日曜?月曜?
それとも火曜日?
彼は私達の住む、
小さなお家を建ててくれる。
そうしたら、私はもう出歩かない。
愛の巣から離れたい人なんているかしら!
私が一番待ち望むのは
愛する彼氏!

《彼氏 in U.S.A》
☆講座で取り上げる『ファイン&メロウ』は、ズート・シムス(ts)やクラーク・テリー(tp)、エディ・ロックジョウ・デイヴィス(ts)達の個性が聴けるのがお楽しみ。

 ガーシュイン・ブックから25年以上経ち50歳半ばを過ぎても、1コーラス目のエラの清純無垢な歌唱には一層磨きがかかっている。トミー・フラナガンのピアノをバックにルバートで歌い上げるエラは最高に美しい声と完璧なアクセントで、初々しささえ感じさせる!
 恋愛に言葉なんかいらない!汚れを知らぬ乙女は、心眼で愛する男性を見分ける。彼氏に対して、打算的なことなんて考えない。前もって「あのー、私の彼氏さん、年収いくらですか?学歴は?星座は?IQは?」なんて一切審査しないのだ!ロマンチックやわあ・・・
 と、思うのもつかの間、リズムに乗ってスイングする次のコーラスからは、殆ど同じ歌詞なのに、ガラっと変る。魔法のマスクをつけたジム・キャリーのように、ほうれん草を食べたポパイのように、秘薬を飲んだ底抜け大学教授のように、パワフルに大変身して見せます。

『Fine & Mellow』(’74)
<私の彼氏>対訳から編集

とにかく『彼氏』を見つけたら、
愛し続けてもらえるようにベストを尽くそう!
彼氏はマイホームを建ててくれる!
そうなったらシメたもの!
もう、金輪際ほっつき歩くもんか!
レギュラーのポジションを守り抜く!
彼氏をつなぎとめるために
ガンバろう!

最初のコーラスの純情可憐なイメージはどこへ?
しっかり気合を入れて、彼氏をゲットしよう!「ファイトー!一発」 エネルギーが溢れます。だけど、決して下品にならないのがエラのエラたるところ!この辺りがエラのサポーターだったマリリン・モンローの芸風に共通するものがあるなあ。以前話題にした“The Lady Is the Tramp”同様、上品ぶらない魅力が爆発する。こんな歌唱解釈の出来る歌手はいないね!スイングする楽しさ、ジャズの醍醐味がストレートに伝わってきます。
 エンディングでのレイ・ブラウン(b)とのへヴィー級の掛け合いがまた最高なんです。

ヘイ、カモン、マン、
私は彼氏を待っている、
あっ、あそこにいい男がいるじゃない!
きっと彼氏だ!
(レイ・ブラウンのベースに向かって)
ねえ、あの男はどんな奴?
彼氏の話をしてってば。
私は、彼氏を
ずーっと待ってるってのに・・・



  こんな感じで、“強くてたくましい”レイ・ブラウンの音と会話をするエラが最高!レイ・ブラウンとエラがかつて夫婦であったことを知っているファンには、また別の感慨を誘いますね。多分このインタープレイにヒントを得て、さらに発展したものがロンドンのライブ盤で楽しめるんです。
《彼氏 in UK》

 同じ’74年録音のライブ、『In London』のベーシストはレイ・ブラウンの薦めでエラのバックを長年勤めるキーター・ベッツ、エラは良く歌うベースに向かって『彼氏の事を教えてよ』と聴きながら、ミス・マープルのように『彼氏』がどんな人か探っていく。
 彼氏はどこの出身かしら? 北イングランド、シェフィールドの人なのか、はたまた南東のブライトン?身近な地名が出るたびに大喝采が上がります。結局、キーターのベースに、『彼氏はロンドンの男だよ』、と教えてもらうと、もうロンドンっ子たちが、ヤンヤの歓声!そしてその彼氏はダイヤの指輪を持っている大金持ちだと判ると、エラははりきって『ダイヤは淑女の一番の友達♪』と歌いだす。でも、ダイヤをちらつかせる男が誠実とは限らない。”結局、彼氏はとんでもない男だった…Fine and Mellow”や、”My Man”を引用し、男が金持ちだと、女はどんな目に会うかの教訓を示唆しながら更にスイングする。結局、「男は、どこでも皆いっしょ、男は皆おんなじだ。」とオチが来る、ほんま、エラは落語以上に面白い!
えっ?ベースの音とそんな掛け合いできるわけないって?
じゃあ、この映像を見てください。そしてジャズ講座でOHP観ながら聴いてみてください。ほんとに面白いよ、未婚の方には将来の、既婚の方にはまさかの時の参考になります!?

 
《彼氏 in Japan》
  このアルバムを録音した翌年(’75)、エラ&トミー・フラナガン3が来日した。『Ella in London』は来日記念盤です。当時、ラジオで放送された東京、中野サンプラザでの公演を聴くと『私の彼氏』は日本人、江戸っ子だい!なんとホテル・オークラの持ち主で、日本の特産、真珠を一杯持っている。おまけに『あ、そう』とか言うので、ひょっとしたら高貴な血筋かもしれない。
 一方大阪では、『彼氏』は浪花の男になっていた。

 おそらくパリでも、ベルリンでも、ブリュッセルでも、『彼氏』はその土地の男になり、大観衆を沸かしていたのでしょうね!
 トミー・フラナガンが音楽監督を務めた’70代のエラのおハコの代表的なものは『私の彼氏』以外にも、色んなジャンルの音楽をスキャットとバックのトリオが機関銃のように繰り出す『スイングしなくちゃ意味ないよ』、’60年の『エラ・イン・ベルリン』以降、目覚しく進化して、月面着陸までしちゃう『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』、ボサノバやサンバが、玉手箱みたいにどんどん出てくる『ボサノバ・メドレー』など枚挙にいとまがありません。これらのレパートリーを寺井尚之は’75年、京都と大阪で生を見たのです。うらやましいネ。
 私のブログよか、ずっと音楽的で、エラの歌に負けないくらい、おもろしくて為になる寺井尚之のジャズ講座は今週土曜日、Jazz Club OverSeasにて。
CU
 

寺井珠重の対訳ノート(6)

もうひとつの”奇妙な果実”
What’s Going On / エラ・フィッツジェラルド


 今週のジャズ講座には、いよいよエラ・フィッツジェラルドの『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』が登場します。さきほど、やっと、当日にお見せする対訳や構成シートが出来上がりました。寺井尚之に何度もダメ出しされて校正をしたものです。MCまで訳したので、物凄い数のOHPシートになっちゃった…
 日本の評論では、何故かエラのライブ盤は「エラ・イン・ベルリン」と相場が決まっているようです。レコードを素直に聴けば、成熟を極めた’70年代のライブアルバム群に軍配が上がるのが自然なのになあ… 中でも、前作の『Jazz At The Santa Monica Civic ’72』と本作はコンサートのスケール自体が凄い。
 カーネギー・ホールのコンサートには、これまで毎日世界中を飛び回っていたエラが、糖尿病の合併症で視力を損い、不本意ながら取った休養中、じっくりと自分の歌を見つめ、熟成発酵させた後がありあり判る。
 詳細は、ぜひジャス講座で寺井尚之の名解説をお聞き下さるか、後に出る講座本をお待ちください。
 愛のゆくえ 今回、私がブッ飛んだこの歌は、オリジナルの2枚組LPではボツになっていた演目です。ヴェトナム戦争終盤の’71年に、マーヴィン・ゲイが大ヒットさせた反戦歌だけど、リリース時の日本名は「愛のゆくえ」だった。当時の洋楽ディレクターはとてもクレバーですね。この歌の社会性を前面に出さずにプロモートしたかったのでしょう。
 マーヴィン・ゲイやこの歌については、Interlude読者の皆さんの中に、私よりずーっと詳しい方々がおいでになると思います。トミー・フラナガン達がNYに去った後のデトロイトで、黒人が黒人音楽をビジネスにして大成功した稀有な会社、モータウン・レコードの看板スター、マーヴィン・ゲイが、モータウンの総帥、ベリー・ゴーディの反対を押し切り’71年にリリースした反戦歌です。
 ゴーディが反対したのは、売れないからではなく、反戦フォークソングがビッグ・ビジネスになった’70年代でさえ、まだまだ「黒人は政治問題にタッチするべからず。」という不文律があったからこそ、反対したのだ。
 それでもゲイ自らプロデュースし、リリースにこぎつけた<What’s Going On>はモータウン創立以来の大ヒットを記録し、批評家からも絶賛される。でも、マーヴィン・ゲイはアメリカ国税庁にマークされ、一時は破産状態となり、「薬物中毒、情緒不安定」というレッテルを貼られ、45歳の誕生日、「情緒不安定な父親」に銃殺されてしまった。
 その昔には、ジャズの世界でも似たようなことがあった。合衆国で人種の差別や区別が行われていた頃の話、’30年代のNYには、出演者もお客様も、人種の分け隔てをせず、最高のエンタテイメントを提供することで人気を博した<カフェ・ソサエティ>という革新的なナイトクラブがあった。その店のスターだったビリー・ホリディが歌って、大センセーションを巻き起こしたのが、南部でリンチによって木に吊るされる残酷な人種問題の歌「奇妙な果実」だ。これがホリディの歌の真髄かどうかは判らないけれど、彼女のレコードの内で最高のセールスを記録し絶賛された。しかし、その結果どうなったか?<カフェ・ソサエティ>の来店者は、FBIに監視され、名オーナー、バーニー・ジョセフソンは、「共産主義者で、しかも薬物中毒」であると、芸能レポーター達にバッシングされた挙句、店は閉店、ホリディ自身は麻薬所持現行犯で逮捕され、NYクラブ出演のライセンスを剥奪され、マーヴィン・ゲイより一才若く、僅か44才で亡くなった。
 本作で、エラはビリー・ホリディに捧げ、<Good Morning Heartache>の名唱を披露している。これもぜひ聴いて見てください。
カフェソサエティ
カフェ・ソサエティで歌うビリー・ホリディ
○   ○   ○   ○   ○
 ’73年当時、ジャズ・ソングの女王、エラ・フィッツジェラルドにとっても、<What’s Going On>は「取り扱い注意」であったことは明白だ。ビートルズやバカラックのヒット・ソングとは違う社会性の強い演目は、エラのマネージャー、ノーマン・グランツが薦めたとは到底思えない。浮世離れしたスター、エラは、この作品を単にヒット・ソングのうちの一つとして歌ったのだろうか?
 答えはNO! 絶対違います。 歌詞を拾って行くと、泥沼化したヴェトナム戦争終盤の’72年、<サンタモニカ・シヴィック>でのライブと、米軍がベトナム完全撤退した直後の本作では、歌詞をガラリと変え、スキャットに至るまで、真正面から楽曲と向き合って、誠心誠意、歌ってるのがよく判るのです。
 <サンタモニカ・シヴィック>のヴァージョンでは、きちんとフルバンのアレンジが出来ており、歌詞はほとんどマーヴィン・ゲイのオリジナルと同じだ。
『Jazz At The Santa Monica Civic ’72』より抄訳
サンタモニカ・シヴィック
マザー、マザー、
こんなに大勢の母親が泣いている、
ブラザー、ブラザー、
こんなに多くの兄弟達が死んでいく、
何か方法を見つけなくちゃ、
愛ってものを、ここに、
持ってくる方法を、今見つけよう!
母さん、母さん、
髪が長いって、皆はなぜ文句を言うの?
兄弟、兄弟、
なぜ、私達が間違っていると言うの?

 ところが、本作では、トミー・フラナガン3+ジョー・パス(g)をバックに、表面上は終結した戦争について疑問符を投げかける歌に仕立てている。
『Ella Fitzgerald/The Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』より抄訳

マザー、マザー、
余りにも多くの母親が泣いた、
ブラザー、ブラザー、
大勢の兄弟が死んで行った、
何とかよい方法を、見つけなくてはならなかったのに。
愛があればこんなことにはならなかったのに。


だから私は言ったのに。
さあ、兄弟達、
私にちゃんと話してよ、


お父さん、お父さん、
戦争が唯一の解決策でないと
もう判ったでしょ。
愛だけが憎しみに打ち勝つの、
暴力でなく、愛で解決する方法を
考えるべきだったのよ。

 マーヴィン・ゲイの、クールな感情表現と違って、「ヘイ、ダディ、何が起こったのか、ちゃんと話しなさいよ!」としっかり相手の目を覗き込む心でエラは歌いかける。これはCover Versionというより、お砂糖がかかった甘い薄皮を引っ剥がして曲の真髄をそのままドンと聴かすUncover-Version なのだ!
 かつてガーシュインもエラのガーシュイン集を聴いて驚いたといいます。『僕の曲が、あれほど良いものとは知らなかった!」と。楽曲の真髄を見抜き、最大限に表出するのがエラとフラナガンの音楽的な共通点なんですね!
 さらに圧倒的なスキャットで、ジャズの曲を引用しながら、畳み掛けるように歌いかける。”I’m Beginning to See the Light (だんだん真実が見えてきた)”、そして”I Cover the Waterfront(波止場にたたずみ)”を引用する。これは、第二次大戦中に、引き裂かれた恋人や家族のシグネイチャー・ソングだ!ジャズ歌手がコンテンポラリーな歌で聴かすスキャットの内で、これを凌ぐものがあるだろうか? 
 でも、当初リリースされた2枚組LPでは、このトラックは収録されていなかったし、当時のNYの批評は、大変醒めたものでした。エラ・フィッツジェラルドが、こういう社会派の歌唱で売れるのは、筋ではなかったのだ。
 
 だけどエラさん、ちゃんと判ってますからね! この歌に取り組んだあなたは真剣だった! あなたはビューティフル、あなたはアメイジングです!!
 土曜日のジャズ講座は、寺井尚之の強い要請で、MCから大向こうの掛け声に至るまで完全対訳付き。歌詞を拾うたび、エラにぶっ飛び、フラナガン達のプレイに涙して、体が揺れて総力を使い果たす私ってアホやわあ。
 
今は、ひたすら講座の解説を楽しみにするのみ!明日は、おいしいポーク・ビーンズを仕込もう。
土曜日は全員集合!
CU

寺井珠重の対訳ノート(5)

淑女の一分(いちぶん):Miss Otis Regrets (Cole Porter)

 最近のOverSeasのライブは、とっても充実していて、一昨日は、各方面で引っ張りだこ、長年OverSeasで根強い人気を持つベーシスト、鷲見和広さんの41歳のバースデイ・ライブで、大変充実した演奏が聴けました。(彼は20代初めからOverSeasで寺井とプレイして、フラナガンやムラーツにも注目されていたし、ピアノの巨匠ウォルター・ノリスとも共演した。)
 OverSeaでは、3月末に寺井尚之フラナガニアトリオにより、トミー・フラナガンへのトリビュート・コンサートも控えているし、のんびりできない日々です。
 店を開けてお客様をお迎えするまでは、仕込みや掃除に加え、来週、3月8日のジャズ講座のために、エラ・フィッツジェラルド屈指のライブ盤、『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』の対訳作りで、楽しい悲鳴をあげています。
 でも、自分が作った日本語を読みながら、エラの天才を楽しんでもらえるってスゴい!すごく光栄です。
 
 日曜になると、対訳を使う寺井尚之と近所の喫茶店で進捗状況の報告会。「(私)あの歌、エラはなぜチョイスしたんやろ?」「(私)この歌、この間のサンタモニカ・シヴィックのヴァージョンと歌詞全部変わってるねん、よういわんわ…(私)」「(寺井)この曲は、えらい変則小節や… あのナンバーでドジ踏んどる奴がおるねん…(寺井尚之)」などと、詳細なミーティング(?)を行うのが又楽しい。
 
 今回のテーマ、コール・ポーターが作った、ちょっと風変わりな歌、Miss Otis Regrets も、勿論このコンサートの収録曲。かつてElla Fitzgerald Sings The Cole Porter Songbook(’56)でもピアノとデュオで歌っているのだけれど、言うまでもなく17年後のエラの歌作りは、トミー・フラナガンの力も手伝って、何倍もスケールアップしている。
 
 昔から、なんか気になる歌だった。
 ミス・オーティスと昼食を共にするために訪問した貴婦人に、屋敷の執事が”マダム”と何度も呼びかけながら、女主人を襲った悲劇を徐々に伝えるドラマ仕立て。ビリー・ワイルダーの傑作古典映画「サンセット大通り」を想起させるコワさがあります。
porter-cole21.jpg コール・ポーター(1891~1964)
 
 下の歌詞は、講座用に製作中のものを一部出しました。完成版は来週のジャズ講座でゆっくりご覧ください!
Miss Otis Regrets 詞曲 コール・ポーター


Miss Otis regrets,

  she’s unable to lunch today, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.

She is sorry to be delayed,

But last evening down in Lover’s Lane

     she strayed, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When she woke up and found that her dream

 of love was gone, madam,

She ran to the man who had led her so far astray,

And from under her velvet gown,

She drew a gun and shot her lover down, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When the mob came and got her

and dragged her from the jail, madam,

They strung her upon the old willow

across the way, far away

And the moment before she died,

She lifted up her lovely head and cried, madam

"Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today."

残念なことに、ミス・オーティスは、

本日のお昼をご一緒できません、奥様、

お約束を延期にし、申し訳わけないと

申しております、奥様、

実は、あの方は、昨日の夕方、

恋人の小道で道に迷いました、奥様、

残念ですが、ミス・オーティスは、本日、お昼をご一緒できません。



あの方は、うたかたの夢から目覚め、

恋の終わりに気づかれました、奥様、

そして、自分を絶望させた相手に駆け寄り、

ベルヴットのドレスの下に隠した拳銃で、

恋人を撃ったのです。

ミス・オーティスは、残念なことに

本日のお昼をご一緒できなくなりました。



荒れ狂った群集が

あの方を留置場から引きずり出し、

道のずっと向こうの

あの柳の木に吊るしました、

息絶えるその時、あの方は美しいお顔を上げ、

泣きながらおっしゃいました。

「残念ながら、ミス・オーティスは、

今日のお昼をご一緒できない。」と…



 平明な言葉ばかりで、和訳がなくとも、なんとなく判るでしょう? 瀟洒なお屋敷のロビーで、使用人が穏やかな口調でマダムに語りかけます。ラストの断末魔で、昼食が出来ないことを詫びる顛末は、演劇的に過ぎて…色々揶揄する向きもあるけれど、エラが歌うと、ストーリーを損なわずに、全く自然に聴こえてしまう。
 恋に破れた淑女、ミス・オーティスは恋人を撃ち殺す。純潔を汚された淑女の一分(いちぶん)だ。寺井尚之の大好きな曲、Poor Butterflyで、帰らぬ男性を待ち続け最後に自害する蝶々夫人の悲劇が日本の淑女の一分なら、ミス・オーティスは西洋のカウンターパートだ。女性が男性を殺すと、その逆よりも、ずっと大罪だったその昔、それを知った土地の民衆が暴徒と化し、留置場のミス・オーティスを引きずり出し、町外れの柳の木に吊るして処刑しようとする。ミス・オーティスは息絶える前に、凛と顔を上げてこう言う。「残念だけど、今日の昼食は出来ないの。」
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 この歌は「西部」の感じがすると言う書物もあるけれど、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが着るグリーンのベルベット・ガウンや、「奇妙な果実」のリンチの歌で育った私には、どうもウエスタンの『ハイヨー・シルヴァー!」の世界と言うよりは、「南部」の感じがする。
 
『コール・ポーター・ソングブック』のライナー・ノートによれば、ポーターがレストランで食事をしているとき、他のテーブルから聞えて来たウエイターの応対にピンと来て書いた曲だと言われている。
 「恐れ入りますが、ミス○○はランチにお越しになれないそうです、マダム。」の一言から、こんな刃傷沙汰(にんじょうざた)を連想するコール・ポーターは、第一次大戦中に徴兵を逃れ、パリでジャズエイジに享楽の日々を送った。 自分の生活態度は、アメリカの地方に行けば処刑に値するのではないかという、潜在的な自覚があったのだろうか?
 また、この曲は、ポーターのパリ時代に親交深かったエンタテイナー、ダンサー、シンガー、クラブ・ママでパリ社交界の華と呼ばれたアダ・ブリックトップがショウで歌う為に書かれた。
 
 昨年の秋、英国のTVドラマ、<ミス・マープル:アガサ・クリスティー>の「バートラム・ホテルにて」というエピソードの冒頭シーンに、この歌詞が使われて少し話題になった。1960年代のロンドンで、30年代のエドワード朝時代の懐古的な雰囲気で人気のホテルを舞台にした、おなじみのミステリーなのだけど、ホテルのフロント係りが、電話口で「恐れ入りますが、ミス・オーティスは本日、昼食にお越しになれません。」と話すことで、そんな時代がかったムードを表現したのだった。イギリス人らしいウィットですね!
 この曲本来の姿を探し、「最高のコール・ポーターの歌い手」と賞賛されるボビー・ショートのヴァージョンを聴くととても参考になりました。
 カーネギー・ホールでのエラの歌唱は、おそらくコール・ポーター自身も想像しなかったほど高潔だ。
 「ちょっとソフトな歌を…」と前置きしてから”Miss Otis regrets…” と歌い出すと大拍手が沸く。それほど有名スタンダードではないはずなのだけど、通の多いNYの土地柄を表しているのだろうか?
 エラは、高貴で堂々としていて、決して執事にも女中頭のようにも聴こえない。彼女がベルベットのガウン…と歌うとき、そのドレスの色は、「風と共に去りぬ」のグリーンではなく、深いブルー以外にはないと思えてしまう。私にはMiss Otisの悲劇を語るエラ・フィッツジェラルドは、女中の姿に身を変えたミス・オーティス自身の幻のように聴こえてならないのです。
 寺井尚之のジャズ講座:『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』は3月8日、来週土曜日、お近くの方はぜひどうぞ! 遠くの方はジャズ講座の本で!
 
 CU

寺井珠重の対訳ノート(3)

“酒バラ”再発見!
 かつて「映画音楽」や「ポピュラー(軽音楽)」というジャンルがあった頃、「酒とバラの日々」という歌は、テレビやラジオの音楽番組で、国内外の色んな歌手がよく歌っていた。
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The Lady Is a Tramp
 今回のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルドの、ベオグラード(旧ユーゴスラヴィア、現セルビア共和国の首都、)での歌唱を聴くことが出来ます。’71年の録音で、丁度、私がTVでよくこの曲を聴いていたのと同じ時期でした。
 大学に入ると、先輩ミュージシャン達は「あんなもんバイショウ(コマーシャルな音楽のことを指すバンドマン用語。)や。」と、北新地やキャバレーの仕事場での演目と見做し、アーティスティックなランキングは非常に低かった。つまり、ピンからキリまでありとあらゆる演奏家たちの手垢にまみれたスタンダードナンバーという感じ。私も同じようなステレオタイプに囚われ、今回の講座の対訳準備の際も、全くノーマークでした。しかし、実際に訳を作る段になると、このジョニー・マーサーの流れるような歌詞は、非常に手ごわく奥深く、「歌詞」や「歌詞解釈」について色々と考えざるを得なかった。
 それというのもエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン3の演奏に、しっかりと「歌の心」を聴けたからこそ、愚かなる私が、今まで見過ごしていたことを教えてもらったのです。エラってスイングしていて意味があるなあ!
  この「酒とバラの日々」は、前半と後半に分かれているABAB形式という形なのですが、歌詞には、たった二つのセンテンスしかありません。16小節分の言葉が、綺麗な韻を踏みながら一くくりに繋がっているんです。でも、日本語は英語と語順の構造が違う。歌詞を聴きながら読む為の訳は、なるべく後ろから前への「訳し上げ」を避けたいので、その特徴は残念ながら日本語では出せない。どうぞジャズ講座で、対訳OHPを見ながら、寺井尚之の楽しい解説をお楽しみください。

The days of wine and roses
Laugh and run away
Like a child at play
Through the meadow land toward a closing door,
A door marked nevermore that wasnt there before.
The lonely night discloses
Just a passing breeze filled with memories
Of the golden smile that introduced me to
The days of wine and roses and you.

 エラとトミーを聴きながら、私は歌の情景を色々頭に思い描く…

 明るい太陽がさんさんと降り注ぐ青空の下、見渡す限りの大草原を、まるでフェリーニの映画のように、「酒とバラの日々」の化身である愛らしい子供がキャッキャと笑いながら走って行く。その子を必死で追いかけるのだけど、不思議なことにどうしても追いつくことが出来ない。もう少しで捕まえられると思った途端、その子は不思議な扉に滑り込み、自分もそれに続こうとするのだけれど、扉は閉まってしまう。戸口には“nevermore”(ここから先へは行けないよ)と不思議な文字が書いてあり、自分は途方にくれてしまう。

そして後半になると、同じメロディなのに、情景はガラリと暗転する…
 ふと気が付くと、自分は現実の世界に戻り、深夜、寒々とした寝床にひとりぼっちで横たわっている。今見た情景は、追憶の気持ちが一陣の風になって吹き去った幻でしかなかったのだ。
 過ぎ去った酒とバラの日々、あの人との出会い、自分を輝かしい愛の日々に誘ったその微笑が今も心から離れない。どんなに懐かしんでも、決して輝いていた昔には戻れない。

  相似形の2つのメロディに、フルカラーとモノクロの情景が並置されて、より一層陰影のあるドラマチックな世界を作り上げている。
後半の語り口には、松尾芭蕉が最後に詠んだ俳句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を連想してしまいました。
 エラは、前半ではaway, play, またdoor,more,foreと韻を踏み、後半は有声音“z”の脚韻三連発を明快な発音で完璧にサウンドさせて行く。これは英語を母国語としない歌手には、一層至難の業。すっきり音を作らないと、マーサーの詞も生きずにイケテないバイショウの歌となり対訳を作るのが苦痛になります。
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 ジョニー・マーサー(1909-76)はCapitolレコードの創設者の一員。
 作詞はジョニー・マーサー(1909-76)、 彼をアメリカのポピュラー・ソング界最高の作詞家と絶賛する作詞家は多い。エラのソング・ブック・シリーズの内で、作曲家でなく作詞者のソングブックは、随一ジョニー・マーサー集だけだ。
 ジョニー・マーサーはジョージア州サヴァナの富裕な家庭に生まれたが、家業が没落したために、大学進学を辞め、NYに出て芸能界入り、ビング・クロスビーの後釜としてポール・ホワイトマン楽団に参加、先に歌手として名声を得た後、’30年代から、作詞家としても大活躍した。ちゃんと歌うと、丸みのある最高に美しいサウンドが作られる魔法のような歌詞は、彼自身が良い歌手であると同時に、抑揚の大きな言語文化の(大阪弁みたい)南部出身であるためかもしれません。
余談ですが、クリント・イーストウッドがマーサーの故郷サヴァナを舞台にし、彼の名曲をたっぷり使って、「真夜中のサバナ」という趣向を凝らしたミステリー映画を監督している。観ましたか?ケヴィン・スペイシーやジュード・ロウといった個性派がいい味を出してます。
 マーサーは決してマンシーニ専属ではなく、半世紀に渡る作詞活動の間、殆どの一流作曲家と共作している。マーサー自身も作曲をし“Dream”などの名曲をものにした。今回の講座では、That Old Black Magic(ハロルド・アーレン曲)がマーサーの詞です。
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左:Jazz Poetには”I’m Old Fashioned”、右:ハロルド・アーレン集には、“My Shining Hour”収録
 トミー・フラナガンの名演が印象的な“I’m Old Fashined”(ジェローム・カーン)“My Shining Hour”(ハロルド・アーレン)にもマーサーの響きのいい歌詞がついていて、フラナガンのピアノから、独特の丸いゆったりとしたサウンドが聴こえてきます。ホーギー・カーマイケル作曲の“Skylark”も響きが良くて情感が豊かな名作ですよね。講座本に収録されている曲にも、わんさかマーサー作品があります。そうそう、ビリー・ストレイホーンの超有名曲“Satin Doll”のヒップな歌詞も、マーサーがメロディに沿って付けたものだった。
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 「酒とバラの日々」のポスター、キャッチコピーは、“凍りつくような怖さ、でもこれはラブ・ストーリーだ。”
 「酒とバラの日々」は、アルコール依存症で壊れ行く夫婦の姿をテーマにした同名映画の主題歌で、マンシーニ=マーサーのコンビは’62年の「ムーンリヴァー」(ティファニーで朝食を)に続き、2年連続でオスカーを受賞した。映画は高校時代に見たのですが、余りに深刻な内容でガキにはちょっと判りづらかった。今もう一度観たら、映画の良さも判るかもしれません。
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 <ティファニーで朝食を>オードリー・ヘップバーン、この映画は当初マリリン・モンローの主演が予定されていたという。
 寺井尚之と私にとっては、元気な頃のトミー・フラナガンと過ごした日々が、「酒とバラの日々」だったかも知れない。トミーが寺井をNYに呼び寄せ、街中を食べ歩き、呑み歩き、パーティやジャズ・クラブを梯子した日々、そんな時代には決して戻れないけれど、今もそんなに悪くはない。それなりに人生を一定期間過ごせば、誰にでも、そんな戻れない日々に対する追憶は、あるはずですよね。
 毎晩自宅で晩酌をするせいで、なかなか夜中にブログを書ききれない私には、「酒バラ」は、むしろ映画の方が必見かも…
 新年ジャズ講座は1月12日(土)6:30pm開講!CU