Echoes 十八番 ”I Loves You Porgy” aka “I Wants to Stay Here”

echoes1020565.JPG  大阪は昨夜もバケツをひっくり返したような豪雨が降り、傘を指せどびしょ濡れになって来られたお客様も。ありがとうございます!
 おかげで、しばしば”エコーズ”で自然発生するアドリブのお題は『雨』となり、笑いと涙を引き出す”エコーズ”ならではの演奏が聴けました。
 この夜、一番好評だったのは、やはり”エコーズ”十八番“I Loves You Porgy”(I Wants to Stay Here)。二人のプレイを、来日時に立ち寄った名ベーシスト、アール・メイ(2008年没)が聴いて、「ぜひレコーディングしておくべきだ!」と強く薦めてくれなければ、エコーズのCDも生まれていなかったかもしれません。
    繰り返し演奏しても、手垢のつかない情感がある”エコーズ”の“I Loves You Porgy”は凄いな!日曜セミナーのおかげなのか、演奏後に『ポーギー&ベス』やこの曲の由来など、鷲見さんが質問攻めに合っていたので、『ポーギー&ベス』のことを少し書いておきたくなりました。
<フォーク・オペラ『ポーギー&ベス』>
 <ポーギー&ベス>は元来、オール黒人キャストの『フォーク・オペラ』と呼ばれる形式のアメリカ的オペラでした。ご存知のように作曲はジョージ・ガーシュイン、原作、台本はデュボース・へイワード、作詞はへイワードと、ジョージの兄、アイラ・ガーシュインが担当。1935年に初演された時は興行的にはパッとしませんでしたが、’52にミュージカルとしてリバイバルし、ヨーロッパで好評を博したのが幸いし、ブロードウェイでもヒットしています。
 bess_sportin'life.jpg映画『Porgy and Bess』(’59)のスチール写真、中央がドロシー・ダンドリッジ演ずるベス。左はスポーティン・ライフ役のサミー・デイヴィスJr.
 物語の舞台であるサウス・キャロライナ州の漁村チャールストンで綿密な取材を行い、ジャズやブルース、ガーシュインのルーツであるユダヤ音楽の哀愁を取り入れた音楽はガーシュインが自らの最高傑作と呼んでいますが、アメリカがこの作品をオペラとして評価するのは’70年代になってからのことでした。
<あらすじ> 
 舞台は、’30年頃のアメリカ南部、サウス・キャロライナ州の漁師町、季節は夏、船着き場で漁師の妻クララが赤ん坊を抱きながら歌う “Summertime”から物語が始まります。
  町のナマズ横町(Catfish Row)に賭場があり、仕事が終わった住人はサイコロ賭博に夢中。そこにいるのが足の不自由な乞食のポーギーです。賭場に荒くれ者のクラウンが情婦のベスをつれてやって来る。ヤクの売人スポーティン・ライフから麻薬とウィスキーを手に入れてギャンブルを始めますが、負けてカッとしたクラウンは、相手の男を殺し、ベスを置いて逃走。残されたベスはポーギーの家に逃げ込み、危うく追っ手を逃れます。
cab027.jpg 情婦のベスと、乞食のポーギー、不釣合いに見える二人は、いつの間にか愛し合うようになります。ところがヤクの売人、スポーティン・ライフも、美貌のベスを狙っている。でもベスはもうヤクザ者には興味がありません。ブロードウェイの初演では、キャブ・キャロウエィがジャイブなキャラクターでスポーティン・ライフを演じ、当たり役になりました。
 ポーギー&ベスの幸せは長く続きません。住民が近くの小島へピクニックに行くことになり、足の不自由なポーギーは、ベスに一人で楽しんでおいでと優しく送り出します。それが運の尽き、その島でベスは逃げた男のクラウンに再会してしまうのです。クラウンはベスに無理やりキスをして、「お前は俺の女だ!離れられないぞ!」と脅します。
porgy-and-bess.jpg ベスはショックで病気になり、事情を察したポーギーはベスに問いただします。「もうクラウンの所には帰らない。私はポーギーと一緒にいたいの…」その場面でポーギーとベスが歌うのが、あの“I Loves You Porgy”なんです。
 ポーギーは、ベスを取り戻そうとうろつくクラウンと対決して彼を殺します。警察に事情聴取されている間に、悪賢いスポーティン・ライフはベスに麻薬を与えて、ポーギーはもう戻ってこないと、言葉巧みにベスに言い寄り、彼女を連れてNY行きの船に乗って逃げてしまうのです。
 警察から放免されたポーギーはベスにドレスを買って意気揚々と戻ってきますが、家はもぬけのから。ポーギーはベスの逃避行を知ると、ヤギに引かせた小さな台車に乗り、ベスを取り戻すため町を旅立っていくシーンで物語は幕を閉じます。
○ ○ ○ ○ ○
 映画やオペラで多少ストーリーは違っていますが、婀娜(あだ)な男や女ばかりの刃傷沙汰は、どこか江戸時代の歌舞伎と似てる。
 初演当時、貧しい黒人社会を舞台に、単純な嘘が悲劇を招くという、白人が創作したストーリーは『人種差別的』だと、黒人サイドから大きな批判を受けたそうです。
 デューク・エリントンは「顔に炭を塗りつけたようなわざとらしい黒人の姿は、虚偽のものだ!」と猛然とガーシュインを非難しました。また各地の黒人俳優組合も、激しい拒否反応を示したそうです。公民権運動以前の時代、黒人の立場だったら確かに憤懣やるかたない思いがあっても当然かもしれませんね。アパルトヘイト時代の南アフリカでは、抗議運動の一環として「ポーギー&ベス」をオール白人キャストで公演する企画が持ち上がり、ガーシュイン財団から待ったがかかったというゴタゴタもあったそうです。時代が大きく変わり、黒人の大統領がアメリカをリードする現在の方が、素直にこの物語を楽しめるかも…。
porgyandbess.jpg “I Loves You Porgy”は、オペラの中で、”I Wants to Stay Here”とタイトルを替えて2度登場するアリアです。この曲以外にも、『ポーギー&ベス』には、前述の”Summertime”や、”Bess, You Is My Woman, Now”(『白熱』/Tommy Flanagan Trio)”や、”It Ain’t Necessarily So(そうとは限らない)”それに沢山の「物売り」の歌など、忘れがたい曲が一杯。
 ジョージ・ムラーツとサー・ローランド・ハナの『Porgy & Bess』や、サラ・ヴォーンの『ガーシュイン・ライブ!』など色んなポーギーやベスたちを聴いてみれば、さらにエコーズを楽しめるかも。
billieloverman.jpg 私が”I Loves You Porgy”を初めて聴いたのは、高校時代自分のお小遣いで初めて買ったジャズのレコード、ビリー・ホリディのデッカ盤、“Lover Man”でした。その頃は英語もそんなに判りませんでしたが、何ともいえないビリー・ホリディの節回しに、いい女だけどカタギじゃないな・・きっとねんごろになった男に歌ってるんだ!と妙にマセた納得をしたのを覚えてます。

 I Loves You Porgy
Ira and George Gershwin
=Bess=
ずっとここにいたいの、
でも私はそんな値打ちのない女。
まともなあんたにはわからない。
あいつに会ったらもう終わり、
私は丸め込まれちゃう。
あいつはきっと舞い戻り、
私を捕えにやって来る。
そうなりゃ私は死んだも同然、
心の深いところで死んでしまう。
でも、あいつが迎えに来たら、
行かないわけにはいかないの。
=Porgy=
もしクラウンがいなければ、
もしお前と俺しかいなければどうだい?
=Bess=
愛してる、ポーギー、
連れていかれないよう守ってね。
あいつが私を狂わせないようにしてよ。
あんたがしっかり守ってくれりゃ、
ずっと一緒にいれるのに、
それなら嬉しいことだけど
・・・

 エコーズのプレイを聴いていると、寺井のピアノからは、『傷だらけの天使』みたいなベスの表情が、鷲見和広さんのベースからは、『あいつを消して』と囁くファム・ファタルな女の情念が聴こえ、ぞくぞくするような色気を感じますよ。
 エコーズは毎週水曜日!ぜひ一度どうぞ!
 明日は皆が知ってるジャズのスタンダードでお腹一杯楽しめる鉄人デュオ!
私は加茂なすグラタンを仕込んでおきます。
CU

寺井珠重の対訳ノート(16)/ There Will Never Be Another You

 こんにちは!
 先週の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」問題作編:には沢山ご参加いただきありがとうございました!ジャズ講座は来月から新学期、寺井尚之がリアルタイムで聴いたアーティスト達の’79以降の録音群ですから、解説がますます楽しみですね。
 今日は、レッスンや、明日の末宗俊郎(g)3などで日常的に聴くスタンダード曲、“There Will Never Be Another You”について書いてみようと思います。
<歌のお里は北国アイスランド>
Harry_Warren_Mack_Gordon.jpg
ハリー・ウォーレン&マック・ゴードンコンビ&彼らのヒット曲の演奏者達。
右端のバンドリーダー、サミー・ケイは映画Icelandに出演してAnother Youを演奏している。

 『あなたなしでは』という邦題のついている“There Will Never Be Another You”は、日本の国が「欲しがりません勝つまでは」と戦争一色だった頃(’42)の作品です。作曲ハリー・ウォーレン、作詞マック・ゴードン、このコンビは、”You’ll Never Know”やグレン・ミラー楽団のおハコ”Chattanooga Choo-Choo (チャタヌガ・チュー・チュー)”など沢山のヒット曲を作りました。このコンビのヒット曲は殆どが映画畑の作品で、“There Will Never Be Another You”のお里も、『アイスランド』という日本未公開映画の挿入歌、フィギア・スケートで何度も金メダルを取り、銀盤の女王からハリウッド・スターに転進したブロンド美人、ソニア・ヘニー主演の恋愛ミュージカルでした。
iceland.jpg <Iceland>
 映画を観た事はありませんが、いかにも苦労知らずのアメリカ的戦中映画、面白いかどうかわからないけど、一応あらすじを書いておきます。
  大戦中、アメリカ海兵隊が北大西洋の国、アイスランドに上陸。女たらしの大尉、ジェームズは早速ガールハントに精を出す。アイスランドの風習を知らないジェームズは、スケート・チャンピオンのカティナ(ソニア・ヘニー)を気軽に口説いてしまう。だが、厳格な文化を持つアイスランドはアメリカとは違い、ナンパは結婚の申し込みと同じだったのだ。困ったジェームズは何とかして、カティナとその家族が婚約を破棄したくなるように、海兵隊の仲間に頼んで色々画策するのだが、最後には本当にカティナを愛してしまうのだった…
 ほんまにノー天気なストーリーですね!“There Will Never Be Another You”はジェームズがカティナに向かって歌う別れの曲だったり、ナイトクラブのシーンでバンドが演奏したりするようです。
<シンプルで柔軟な歌詞>
 “There Will Never Be Another You”は寺井尚之ジャズピアノ教室で基礎トレーニングを終えることの出来た生徒達が初めて自分のソロを考えながら稽古する曲なのですが、“カシモド”みたいに原作を研究しなくても、色々イメージを作れる題材だということは判ったかも。
 歌詞を日本語にするとこんな感じ。オリジナル判についているヴァースもつけておきました。原歌詞はこちら。

“There Will Never Be Another You”
<あなたなしでは>
曲:Harry Warren 詞:Mack Gordon

=ヴァース=
これが共に踊るラスト・ダンス
今夜のことも、すぐに昔話。
お別れに、
判って欲しいことがあるんだ。
=コーラス=
こんな素敵な夜だって
これから沢山あるだろう。
他の誰かと肩寄せ合って、
ここに来る日もきっとある。
口づさむ唄は、
他にも沢山あるさ。
心地よい春や秋、
季節は必ずめぐり来る。
でも、あなたに代わる恋人を、
決して見つけることはない。
他の誰かとキスしても、
あなたがくれたときめきを、
味わうことは二度とない。
色んな夢を見ることも、
きっとあるかも知れないが、
あなたの代わりがいないなら、
夢など叶いはしないんだ。

 Youtubeを覗いたら、歌詞に沿うダイナミクスや息継ぎが完璧な歌手、ナット・キング・コールや、ビリー・テイラー(p)3にラッセル・マローン(g)がゲストで入る、いい感じの演奏がありました。ビリー・テイラーはトミー・フラナガンとの圧巻のデュオ映像でご存知の方も多いかも…「かぶりもの」 に関係なく巨匠です!マローンのピックアップに親しみを感じるでしょう!!
<告別式でのAnother You>
 “Another You”は、ある特定のミュージシャンの「おハコ」というのがなく、実に沢山の人が演奏している分、自由に解釈できる素材。ヴァースを入れなければ、失恋の歌、求愛の歌どちらにも解釈できるし、その場にいない相手に歌いかけているとも解釈できます。
 トミー・フラナガンの告別式では、ジョージ・ムラーツが「掛け替えのない音楽パートナーを失った悲しみ」を表す曲として演奏しました。「あなたがくれたときめき」は、二人の音楽的高揚感ですね! 歌詞を読むほどに、ムラーツ兄さんの気持ちの深さを感じます。
 個人的には、無知な軽音のガキ部員だった頃、バド・パウエル(p)の『Strictly Powell』でのAnother Youで、「ピアノも歌手と同じ息遣いが出来るんだ!」とすごい衝撃を受けました。
○ ○ ○ ○ ○
 今回は、四季を問わず楽しめるスタンダード曲について書いてみましたが、土曜日は季節の懐石The Mainstem trio! 宮本在浩さんは稽古に勤しみ、菅一平さんは映画のエスメラルダに恋をして、ドラミングのイメージを飛躍的に高めているみたい。ぜひ聴きに来て下さい!
 最後にGood News! 「問題作講座」が講座本として出版される日を楽しみにする摩周湖の寺井ファン、ジャック・フロスト氏が、「皆さんで召し上がってください。」と、隣町の小清水町で取れた日本一のグリーン・アスパラをチルド便で差し入れしてくださいました。甘くてしっかりしていて、つまみ食いを我慢するのが大変です!土曜日のスペシャル、「蒸し豚」のサイドディッシュにいたしますので、ダイナマイトな風味をお楽しみください!Thank you Jack!
CU

作曲者の気持ち:”Tenderly(テンダリー)”

  先週のThe Mainstemライブ、楽しかったですね!
The Mainstemの演奏プログラムは「季節感溢れる懐石料理」と宣言する寺井尚之が、あの夜「先付け」=オープニングに選んだのがTenderlyでした。
 Tenderlyはサラ・ヴォーン(vo)ファンにとっても極めつけの名演目、在りし日のサラのコンサートは、私も毎年必ず見に行っていました。サラはコカインを常用しているという噂で、ものすごい汗かき、バスタオルでも首に巻いとけばいいのに、ピアノの中にクリネックスの箱を置いて「スポットライトが熱すぎる」とかブーブー文句を言いながら、汗をぬぐったティッシュを丸めて、ピアノの中にポイポイ…でも、Tenderlyを歌いだすと、見た目と裏腹に、魔法のそよ風が吹いてきた。
Sarah-Vaughan.jpg  整形して美人歌手として売り出した「ミュージックラフト」時代のサラ・ヴォーン
 作曲ウォルター・グロス、作詞ジャック・ローレンス、いわゆる「歌モノ」と呼ばれるスタンダードの出所は、大部分が映画やミュージカルですが、Tenderlyは最初からポップ・ソング、初演したのが芳紀22歳のサラ・ヴォーン、この歌が彼女の初ヒットとなりました。
 The Mainstemのライブの後、深夜にWebで作詞者ジャック・ローレンスのサイトを発見、そこでTenderlyにまつわる秘話も発見、作詞家自身が書いた逸話から、「曲」が「歌」に変わるとき、作曲家は複雑な心境になるんだと知って面白かった。要約するとこんなことが書いてありました。
th_jack_1950s_1.jpg  ジャック・ローレンス(1912-2001)はロシア系ユダヤ人、長期にわたって活躍した作詞家、”Tenderly”の他、”All or Nothing at All”や、映画のタイトルにもなった“Beyond the Sea“も彼の詞、本業のほかブロードウェイのプロデューサー、劇場主としても手腕を発揮した。
○ ○ ○ ○ ○
 1946年のある日、私(Jack Lawrence)は、NYの音楽出版社でハリウッド時代の旧友、歌手のマーガレット・ホワイティング、マギーと久しぶりに再会した。
 ひとしきり昔話をした後で、マギーは「ウォルター・グロスを知ってる?」と私に尋ねた。個人的には知らないが、優れたピアニストだという噂は聞いていた。彼はミュージクラフト”という小さなレコード会社の音楽監督としても仕事をしていた。
「ウォルターが物凄く良い曲を書いたのだけど、良い歌詞に恵まれなくて困ってるのよ。あなたならきっと書けると思うの。」そう言うなり、彼女はウォルターに電話をして、私を彼のオフィスに同行した。
Margaret_Whiting_48f632ed2cb2d.jpgマーガレット・ホワイティングの父は作曲家のリチャード・ホワイティング、天才歌手としてこどもの時から芸能界で活躍しており、アート・テイタムなど知己多し。
  ”ミュージクラフト”の事務所は歩いて行ける場所だった。マギーはウォルターに、例のメロディをピアノで弾いてと言い、私はたちまちその曲に惚れ込んでしまった。「歌詞を書くから譜面が欲しい」と頼むと、ウォルターは、しぶしぶといった様子で走り書きした五線紙を私にくれた。その時の彼の顔といったら、まるで体の一番大切な部分ををもぎ取られるようだったよ。
 そのメロディは私の頭にこびりついて離れなかった。滅多にそんなことはないのだが、自分の中で歌詞が勝手に出来上がって行くような感じだった。私はたった2-3日で、Tenderlyという題名も歌詞も一気に仕上げた。それで非常に興奮していたが、ウォルター・グロスに報告するのは、しばらく我慢することにした。何故なら、すぐに出来たと言えば、きっと”やっつけ仕事”だと思われ、断られるに決まっているからだ。
Tenderly_Walter_Gross.jpgウォルター・グロス(1909-67)  ピアニストとしても有名、変人作曲家アレック・ワイルダーのお気に入りだ。
 結局、10日間我慢した後、私はおもむろにグロスに電話した。そして今までの興奮をありったけ声に込めて言ったんだ。
「ウォルター、出来たよ!」
しばらく沈黙があり、彼は尋ねた。「題名は?」
「”Tenderly”だよ!」テンダリー♪ 私はあのメロディを受話器で口ずさんだ。
すると、さっきより長い沈黙が流れ、ウォルターは吐き捨てるようにこう言った。
“Tenderly”?!そんなの歌の題名じゃないよ!“Tenderly”なんて、譜面の上のほうに書く注釈じゃないか!”Play tenderly (優しく情感豊かに演奏せよ)”ってな。 」 明らかに、私の歌詞は、その時点でボツにされたのだ。郵送するから、歌詞を読んでもう一度考えて欲しいと頼んで、その時は電話を切った。
 何ヶ月経っても、ウォルター・グロスからは何の連絡もなかった。やがて、あの曲に挑戦した作詞家が大勢いたこと、全ての歌詞がボツにされたこともわかった。
 きっとあの曲は、ウォルターにとって「一番可愛いこども」だったんだ。どんな作詞家とも「こども」を共有したくないんだ…私はそう思った。
 だがその頃、私の書いた”Linda”という曲が大ヒットしていたので、Tenderlyを売り込む機会に恵まれていた。ある大手出版社の社長が、「これはいい!」と気に入ってくれて、すったもんだの末に出版することになったのだ。
 サラ・ヴォーンの初レコーディングをきっかけに、じわじわと曲の人気が上がり、Tenderlyは沢山のミュージシャンが取り上げるジャズ・スタンダードになっていった。
 思い出すのは、ウォルター・グロスがピアノで出演していたイーストサイドのクラブに立ち寄った夜のことだ。店は超満員でウォルターが登場すると、お客が口々に”Tenderlyを演ってくれ!”と声をかけた。ウォルターがリクエストに対して一礼した時、私はバーから手を振った。だが、彼は見ないふりをして、無視したよ。ヒットしても、彼の一番好きなメロディを他人と分け合うのが余程いやだったのだろう。…
○ ○ ○ ○ ○
 結局、ローレンスとグロスにとっては、マイナーレーベルのサラ・ヴォーンのささやかなヒットよりも、大スター、ローズマリー・クルーニー(今では「オーシャンズ12」のジョージ・クルーニーの叔母さんとしての方が有名?)が、メジャー・レーベル、コロンビアレコードから飛ばしたミリオン・セラーの方がずっと大きな意味があったのでしょうが、私にとっては、The Mainstemの軽快な演奏解釈や、まるで和音のように響くサラ・ヴォーンの歌が無比なんです。以前の生徒会講座でも、サー・ローランド・ハナがバックで聴かせるアルバム、『Soft and Sassy』の名唱を聴きましたよね。
 最愛のメロディに渋々歌詞を受け容れたウォルター・グロス、箱入り娘を嫁にやる心境だったのかな? でも、彼の作品のうちで、現在もスタンダード曲として演奏されているのはTenderlyだけ、曲の運命というのはわからないものですね。

Tenderly
Jack Lawrence/ Walter Gross

The evening breeze
Caressed the trees
Tenderly.
The trembling trees
Embraced the breeze
Tenderly.
Then you and I
Came wandering by
And lost in a sigh
Were we.
The shore was kissed
By sea and mist
Tenderly.
I can’t forget
How two hearts met
Breathlessly.
Your arms opened wide
And closed me inside-
You took my lips,
You took my love
So tenderly.
夕暮れのそよ風は、
木々を撫でた、
優しくね。
そよぐ木立は
そよ風にキスをした、
優しくね。
ちょうどそこに、
あなたと私が通りがかり、
ため息の中
夢中で我を忘れたの。
砂浜は
大波小波にキスされた、
優しくね。
二人の心が触れ合って
息が止まりそうだったあのときを、
どうしても忘れられないの。
あなたは腕を大きく開き、
私を包み込んでくれた、
そして私のくちびるも、
私の愛も奪ったの、
とても優しくね。

 明日は色んなスタンダード曲が楽しめる鉄人デュオ!ピアノは寺井尚之、ベースは中嶋明彦(b)でお送りします。
 私は、おいしいチキン・ローストやトマトソースを仕込んで待ってます!
CU

ラジオ・プラハで聞くジョージ・ムラーツ。



 10日ほど前に、ジョージ・ムラーツのアシスタント、しょうたんからムラーツ師匠のインタビューがラジオ・プラハのWEBで聞けますよ、とメールをもらいました。
 私がブックマークしているトニー・エマーソン氏のジャズブログ、“Prague Jazz”と同じ日の知らせだった。しょうたんの調査力恐るべし!
 早速、聞いてみると、故国で語るジョージ・ムラーツは日米のメディアとは違っていて、日本のイチローみたいに、ジャズのメジャー・リーガーとして活躍するチェコ人としての顔が垣間見える興味深いものでした。
 インタビュアーのイアン・ウィロービの英語はヨーロピアン・イングリッシュでなく、アメリカンで凄く上手!一方ムラーツ兄さんは、いつものベランメエ・イングリッシュじゃなく、東欧紳士風でかっこいい!
 ラジオ・プラハの英語テキスト&音源はここにあります。
 日本語にしたので、お楽しみください。
『現代のチェコを代表する名士に、くつろいだ雰囲気で話を聞くインタビュー番組One on One: より:』
<ジョージ・ムラーツ・インタビュー>
インタビュアー:Ian Willoughby イアン・ウィロービ
 ジョージ・ムラーツ(本名イルジ・ムラージュ、南ボヘミア地方、ピーセック生)氏は、少なくとも、彼が共演して来たミュージシャンの顔ぶれから考えれば、ジャズ史上最も成功したチェコ人と言えるだろう。ベースの巨匠、ムラーツの共演者リストは、ディジー・ガレスピー、スタン・ゲッツ、オスカー・ピーターソン、チェット・ベイカー、そしてチャーリー・ミンガスなど、正にジャズ人名辞典の様相を呈している、
   更に氏は千枚以上のアルバムに参加。ニューヨークを本拠に活躍するジョージ・ムラーツが最近プラハに滞在して機会に、ジャズとの出会いなど、色々なお話を伺いました。

<ジャズとの出会い>
ジョージ・ムラーツ(以下GM):「ターボルのハイスクールに通っていた頃、幸運にも学校にジャズバンドがあったんです、当時ジャズバンドがあったなんて不思議だね。プラハ音楽院に入学した頃は、市内にジャズクラブが三軒あり、ほとんど毎晩演奏していました。」
聴き手:イアン・ウィロービ(以下IW):「当時のジャズは、ビッグビット(’60年代にチェコで流行したギター主体のポップ・ミュージック)以前の、かっこいい若者向け音楽だったのでしょうか?
GM:「まあ、そういうことですね。」
IW:「あなたがジャズに魅了されたきっかけは?」
GM:「13歳くらいだったと思うんだけど、日曜になると(ラジオで)オペレッタなどの軽音楽の放送があってね、どういう風の吹き回しか、ある日ルイ・アームストロングの1時間番組があったんだ。勿論、あの独特の歌も放送されました。いつもはクラシックの声楽ばかりなのに、よくこんな声がラジオ放送されたもんだ!と子供心に不思議でね。(笑)
  でも、その日に聴いた音楽のうちで一番気に入ってしまって、それを機にジャズにのめりこんだんです。
IW:「では、ムラーツさんの楽器はアコースティック・ベースですが、ベースを演奏されるようになったのは、どうしてなんですか?」
GM:「それも単なる偶然だったんです。7歳の頃からバイオリンを習っていたんですが、その後は専らクラリネットやサックスを演ってたんです。ところが、バンドのベーシストときたら…名前は言いませんが、良い奴なんだけど、常にミスノートだけを選んで弾くという、ある意味天才だったんだ。偶然でもいいから、一度くらいは、まともな音が弾けるだろう?ってくらい凄まじいものだった。
  それで僕が、練習の合間に彼のベースを拝借して弾いてみたら、意外に難しくなかった。ベースの音色が気に入ってしまって…それでベース奏者になったんです。」
vaclav_havel.jpgハヴェル前大統領(1936-)は、劇作家としても欧米で絶大な人気のある文人政治家
 IW:「何かの本で読んだのですが、カレル橋の脇にあるカフェ・バー・シアター『欄干の上』劇場で、ハヴェル前大統領が舞台監督していた時期、ムラーツさんもそこで演奏されていたそうですね。ハヴェル前大統領とは、個人的にお付き合いされていたんですか?」
GM: 「ええ、ええ、そうです!当時僕はバーの方で演奏していてね、僕達が延々と演奏を続けるもんで、酒場のおばさんがカウンターで仕事するのに疲れきっちゃうと、彼が交代してバーテンをやっていました。
 それ以来、僕は彼に頼まれてよく演奏していたんですが、昨年久しぶりで再会できて、とても嬉しかったです。その時は、彼の著書を頂きました。今でもファースト・ネームで呼び合う仲です。」
Na_zabradli.jpg由緒ある文人カフェ・シアター、「 Divadlo Na zábradlí 欄干の上劇場」
<渡米して>
IW:「では、あなたが渡米されNYにお住まいになったいきさつについてお話を伺いたいのですが。」
GM:「渡米する前はドイツに住み、ミュンヘンにあったジャズクラブ、”ドミシル”で演奏していました。そのうち、ボストンにあるバークリー音楽院から奨学金が出ましてね。丁度あのロシア人達が戦車で侵攻してきた時です。’68年の8月でした。それで、奨学金を使ってあちらに行ったんです。まあ、行った甲斐がありました。」
IW:「当時はアメリカに滞在していただけなんですか?」
GM:「ええ、まあそうです。」
IW: 「アメリカでミュージシャンとして名を成すというのは大変でしょう?私などには音楽の世界、ましてニューヨークでは、よほど激しい競争に勝ち抜かないといけないだろうと思えるのですが。」
GM;「僕の出発点はNYでなくボストンだったんです。幸いにも向こうの人たちは、すでに僕のことを知ってくれていました。というのも、留学前にすでに何枚かレコードを録音していましたから。それに、ウィーンでフリードリヒ・グルダ(訳注:ウィーン生まれのピアニスト、作編曲家、クラシック音楽家ながらジャズにも造詣深かった。)が主催するコンクールにも出場していたし。おかげでキャノンボール・アダレイ、J.J.ジョンソン、ロン・カーター、ジョー・ザヴィヌル、メル・ルイス、アート・ファーマー・・・色んな人たちに出会えました。
 実のところ、渡米後すぐに演奏活動を始めました。’69年にはディジー・ガレスピーのバンドに入り、やがて、オスカー・ピーターソンから誘われ、約二年間、彼のトリオで演奏しました。」
IW:「ムラーツさんの共演者リストを拝見すると、ジャズ人名辞典さながらですね。そのキャリアのうちで、”自分は成功したんだ!これが頂点だ”と思われた瞬間はありますか?」
GM;「いや、そういうのは特にないですよ。これが頂点だ!みたいに思ってしまうと、もうバタンキューで、その先に進めなくなりますから。(笑)達成感なんて持っちゃいけません。」
<膨大なレコーディング>
IW:「これも何かで読んだんですが、ムラーツさんはなんと約900枚のアルバムに参加しておられるそうですね。数十年も経つとご自分のレコーディングについて記憶は曖昧になるものでしょうか?」
GM: 「レコーディングについては、僕自身よりもずっと詳しい人たちがいますからね。僕は今までの録音アルバムを全部所有していませんしね。全く覚えていないアルバムが出てくることはしょっちゅうです。
  多分900枚以上あるのじゃないかな?千枚よりはずっと多いですよ。現時点で1100~1200枚だと思います。WEB上に僕のディスコグラフィーが載っていたんだけど、10年ほど前で、はっきりは覚えていないが確か880か860枚ほど掲載されていたなあ。
  勿論、そのリストから脱落しているアルバムもあったし、それ以降何枚もレコーディングしているから、千枚以上はあると思います。」
IW: 「その内、ムラーツさんにとって特に意義深いアルバムはありますか?」
GM :「幸運なことに、僕は非常に多くの巨匠達と共演することができました。特に楽しかったのは、ジョー・ヘンダーソン(ts)のピアノレス・トリオ、ドラムがアル・フォスターだった時。それにトミー・フラナガンかな…僕は今、断続的にハンク・ジョーンズ(p)と活動していますけどね。勿論、ビッグバンドも思い出に残っています。サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch….いいバンドでした。」
gallery9.jpg  スタン・ゲッツ、チェット・ベイカーと;G.Mraz公式サイトより。
IW: 「本当に多くの人たちと共演されていますよね。各ミュージシャンのスタイルや音楽に順応するというのは難しいですか?」
GM: 「いや、それほどでもありません。ただ、共演者が一つのスタイルに固執している場合は問題です。僕がそれ以外のことを演ると当惑させていまいますからね。色んなことを演ってみるのが好きなたちだから。」
IW:「ムラーツさんはご自分のカルテットも率いておられますね。いわゆるサイドマンと、リーダーで自分の音楽を演るという、二つの仕事のバランスをとるというのは難しいことですか?」
GM: 「ある意味、大変ですね。僕自身は、サイドマンでいる方がずっと気楽ですよ。ビジネスについてあれこれ苦労しなくてもいいですから。サイドマンとしての仕事の依頼は多いですしね。
 しかし、再びリーダーとしての活動も始めるつもりです。いろいろのアイデアもあるし、新曲もいくつか用意しているしね。自分の音楽が出来るうちに、やっておくのがよいと考えています。」
<チェコ名を変えたのは何故?>
IW:「これだけはお伺いしたかったのですが、ムラーツさんがご自分の名前を”ジョージ”にされたのはいつだったんですか?」
GM:「いやあ、この名前も私のアイデアではないんです。英語名の”ジョージ”にしたのは二つの理由があります。第一の理由は、ギャラは大体小切手で受け取るでしょう。その場合、あっちで僕の名前を正しいスペルで書いてくれる人がいないので、何度も小切手を切りなおしてもらわないと、ギャラをもらえないという状況だったんです。
 おまけに、ボストン時代にシティ・バンクに口座を開こうとした時なんか、名義人を記載するのに”Mraz”という苗字だけで15分もかかってしまったんです。ファースト・ネームの”Jiri”(イルジ)に至っては、どうしても正しく書いてもらえず、とうとう諦めました。『Georgeでいいです。』ってね。(笑)」
IW:「アメリカ人には、”Jiri”というのが、そんな難しい名前なんですか?」(訳注:チェコでは”Jiri”は、例えば一郎のように、最もありふれた男性名。)
GM:「難しすぎるね。僕が親しくなった女の子達を別にすれば(笑)、アメリカ人でこの名前を完璧に判ってくれたのは、ウィリス・コノーヴァー(米国の海外向け放送、VOAのジャズ番組のアナウンサー兼プロデューサー)だけだよ。彼だけは正しくJiriと言ってくれたんだけどなあ。」
(了)
○ ○ ○ ○ ○
 ファンの皆さんならご存知のエピソードが多いけど、故郷で語ると少し趣が違っていて、楽しめたのではないでしょうか?
 チェコの盟友ピアニスト、エミル・ヴィクリッキー(p)のHPに、日本のヴィーナス・レコードプロデゥースで、ジョージ・ムラーツ、ルイス・ナッシュ(ds)とトリオのアルバムをNY録音したニュースが出ていたと後藤誠氏よりお知らせいただきました。ジョージ・ムラーツ兄さんのプレイはチェコ訛りかNY訛りかどっちやろ?興味津々です。
 明日はThe Mainstem!
 ブログを読んでくださっている寺井ファン、ジャック・フロスト氏よりの差し入れ=北の大地のアスパラガスや、箕面マチルダ農園の豆類をパスタにして待ってます。
お楽しみに~!
CU

GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (最終回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (4)
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<晩年> 
  ヤングは晩年の大部分をノーマン・グランツのJATP一座で過ごした。彼はアル中となり、演奏はぼうっとした不確かなものになった。変わらずスーツとポークパイハット姿であったが、演奏中は座っていることが多くなった。
 1957年にTV番組『ザ・サウンド・オブ・ジャズ』に出演した時の彼は「心ここにあらず」という風情だ。スタジオではビッグバンド・ナンバー2曲のパート譜を読む事を拒んだ。(代役は、かつてヤングの父に師事したベン・ウエブスターだった。)ビリー・ホリデイのブルース、<ファイン&メロウ>で1コーラス吹いているが、音色は完璧だがソロには生気がない。(訳註;番組制作に関わったナット・ヘントフによれば、この日のヤングの体調は最悪でスタジオで立っている事すら出来ない状態だったという。)
 ソロに耳を傾けるビリー・ホリデイの愛に満ちた微笑みを見ると、彼女に聴こえているのは、今そこに座るレスターのソロではなく、彼女の脳裏に刻まれた昔の彼のソロではなかったのかという気がする。
 

 テナー奏者バディ・テイトは番組の翌年、ニューポートジャズフェスティバルに出演したヤングを車で送って帰った。
buddy_tate.jpg  「私がレスターと初めて会ったのはテキサス州シャーマンで、当時の彼はまだアルトを吹いていた。しばらくして、彼がフレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍した時、ベイシー楽団に後釜として入ったのが私だ。その当時レスターは酒も煙草もやらなかった。とても粋でナイーブな人だったな。1939―1940の第2期ベイシー楽団では同僚だった。演奏中に小さなベルを持っていてね、バンドの誰かがドジを踏むとそれをチンと鳴らすんだよ。
 1958年のニューポートフェスティバルの帰り道、NY迄乗せて帰った。彼はとても落ち込んでいたよ。ギャラが少なくてがっかりしていたし「自分の演奏も良くなかった」ってね。「いいや、あんたのプレイはすごく良かったよ!例えば…」と私が言うと、彼は答えた。
「レイディ・テイト、もしも本当に僕が良かったらさ、僕を真似している他のテナー連中が、一体なぜ僕より儲けてるんだい?」

 アレンジャ―、ギル・エヴァンスは40年代に西海岸でヤングと知り合い、彼の晩年はNYでも親交があった。
gil_evans.jpg   「レスター・ヤングの様に孤独な人は、往々にして自分に目隠しをしてしまうものだ。善いにつけ悪いにつけ、全ての根源は過去にあるとして、昔のことをずうっと引きずっているんだ。亡くなった年、彼がアルヴィン・ホテルに引越した頃でもまだ、「十代に譜面を読む勉強をしなかったので、父に嫌われた」と言うような話を持ち出してくる。だけど本当は、他のものに対する現在の怒りをはっきり表現できないので、昔の出来事とすり替えていたのではないだろうか? 何に怒っているのかをはっきり言えずに、時々彼は泣いていた。
 ずっと昔、たまたまカリフォルニアに行った折に、ジミー・ロウルズ(p)と連れ立ってプレズに会いに行ったことがある。彼はお父さんの所有する3階建ての建物に住んでいてね、その家を訪ねたら、丁度、親子喧嘩の真っ最中だった。プレズはすすり泣いていた。これから家を出てウエスト・ロサンジェルスの母親のバンガローに引っ越すから手伝ってくれないかと言うんだ。僕達は借り物のクーペに乗ってきていたので、言われるとおり、僕らで荷造りから引越しまで何もかもやったよ。レスターのあの涙はずっと忘れられない。
  50年代にNYの52丁目近くのレストランで、彼と一緒に食事をしていたら、トルコ帽に聖衣を着た妙な男が入ってきてキリストについて説教を始め、彼を「預言者(PROPHET)」と呼んだんだ。するとプレズはその男がイエスと「恩恵(PROFIT)」について何か言ったのだと勘違いし、プイと店を飛び出してしまった。僕が追いついた時彼は泣いていた。なぜ彼がイエスにそんな強い感情を持つようになったのか判らない。子供の頃教会に通っていたからか、或いは彼は不平等や不正に強く悩んでいたからか… 例えどういう種類の不平等や不正にしても、彼にとっては絶対に耐えがたいものだった。
  彼は晩年、アルヴィン・ホテル(訳注:NY、ブロードウェイの52丁目にあった。)に大きな部屋を借りていた。部屋を訪ねると、食べ物の皿が所狭しと置かれていた。友達の差し入ればかりだったが、彼はもう食べる事が出来なくて、ただワインを飲むだけだった。彼の飲酒が手におえなくなった理由の一つに歯の問題があった。歯がボロボロで常に歯痛に悩まされていたんだ。
 それでも彼は、ヘアスタイルとかそういう事にはすごくこだわっていた。長く伸ばしていたんだけど、とうとう私の妻(散髪がうまいんだ!)が彼の髪をカットする事になった。すると妻がハサミを一度入れるたびに、鏡を見せろって言うんだ。まだ髪の毛も床に落ちていないのね。すごいことだよ!大なり小なり意識的に自分を死に追いやっている人間が、なお自分のヘアスタイルにこだわるというのは。」

   テナー奏者ズート・シムズは、40年代にヤングを崇拝し徹底的に聴きこんだ。彼もまたレスターの無邪気なナルシズムの目撃者だ。
Zoot_Sims_at_Birdland__Marcel_Fleiss.jpg  「1957年にバードランド・オールスターズでツアーした時、レスターと相部屋だった。ある日、彼が着替えで裸同然にになったんだけど、真っ赤なショーツでね。力こぶを作ってポーズをとってゆっくりとターンしながら言うんだ。
 『おじんにしては悪くないなあ…』って。
 ほんとにその通り、いい体格でね。あの人は心も綺麗だったなあ…。それにとても知的な人だったよ。」

 ヤングはパリ公演から帰国した翌日、アルヴィン・ホテルで亡くなった。死の直前、フランスでフランソワ・ポスティフが行ったロング・インタヴューは沈鬱なものだ。多分彼は死を予感し、そこに自分の墓碑銘を残したのかもしれない。
 『社会は全ての黒人がアンクル・トムやアンクル・レミュス、アンクル・サムというようなものに成るように望んでいる。私にはそんなことは出来ない。ずっと同じことの繰り返しだ。
 生きる為には戦わなければならない。―死が戦いから解放してくれる日まで。それが勝利の時だ。』


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 トミー・フラナガンは、レスター・ヤングとの録音はありませんが、ヤングの晩年にレギュラーで共演していました。レスターが大好きだったので、友達のサックス奏者がアルヴィン・ホテルに訪ねて行くと言うと、必ずくっついて行ったそうです。
 レスター・ヤングの不思議な言葉使いが、浮揚感あるサウンドにつながっているというのも、ジャズ講座に来ていらっしゃる皆さんには、わかりやすかったのではないでしょうか?
 音楽だけに限らないと思いますが、巨匠の最盛期を知る人ほど、晩年の衰えを見るのは辛い。人間は皆そうなるもんなんだ。でもジョン・ルイスやジミー・ロウルズ、ズートといった人たちは、(多分知っているんだろうけど)一言も惨めったらしい姿については話していません。
 トミー・フラナガンという人は、こういう行儀についてとてもうるさい人だったので、(フラナガンの教えてくれたルールを、私はインディアンの掟と呼んでる。)インタビューされる人たちの「見識」についても色々興味深く読みました。
 初めて掲載してしまったホイットニー・バリエットのポートレートはどうでしたか?バリエットは巧者そろいのNew Yorkerのコラムニストのうちでも「英語の達人」と呼ばれ、原文はもっとリズムと格調があります。私のような若輩者では、どうにも日本語にしきれなくてゴメンネ。
原書もペーパーバックで入手可能、辞書をひくのがイヤでなければ楽しめます。
CU

GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (第三回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (3)
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<独立独歩> 
 ヤングの才能はカウント・ベイシーの元で開花した。比類なき軽やかさと陰影のある歴史的名演を数え切れぬほど録音し、ビリー・ホリデイの伴奏で名盤を作った。ビリー・ホリディとレスター・ヤングのサウンドは、一つの声から派生した双子だ。コールマン・ホーキンスが独立してから数年経った1940年代後半、ヤングも自己グループで活動を決意、NY52丁目で短期間スモールグループで活動した後、西海岸で弟のリー・ヤング(ds)とバンドを結成した。
52ndSt1948Gottlieb.jpg  ティーン・エイジャーの頃、52丁目でヤングと交友のあったシルビア・シムズ(vo)は語る。
 シルビア・シムズ:「ヤングはとても快活な人で、髪が素敵だった。40~50年代に皆がつけていたポマードは絶対使わなかった。服の着こなしも素晴らしくて、頭の後ろにちょんとかぶったポークパイハットが、彼のファッションのアクセントだった。いつもコロンのいい匂いをさせていた。一度、お客が騒いでちっとも演奏を聴かないと彼にグチをこぼすと、彼はこう言ったわ。
 『レディ・シムズ、店の中で誰かたった一人だけでも聴いてくれる人がいるとしたらどうする? その人はトイレに行ってるかもしれないが、それでも君にはお客さんがいるってことだろう?』 
 彼の話は’レスター語’だらけで理解するのが大変だったけれど、音楽は判りやすかった!レスター独特のあの言葉でフレージングしていたんだわ。私の歌は彼に大きな影響を受けている。私だけじゃなくて多くの歌手がずっと彼の演奏から学んでいるんだもの。」

 ジミー・ロウルズ(p)はヤングの西海岸時代に共演した。
p_rowles.jpg    「ビリー・ホリデイが一体いつ頃、”大統領(プレジデント)”を略したプレズというあだ名を付けたのが知らないが、彼と最初に知り合いになった頃、楽団の連中は彼のことを”アンクル・バッバ(Bubbaはブラザーの意)”と呼んでいたよ。
 私もこの業界で色んな人間に会ったが、レスターは極めてユニークだ。一人ぼっちで物静かな人でね。本当に腰が低くて、怒るという事がまずなかった。もし気を悪くしたら、ジャケットの一番上のポケットにいつも入ってる洋服ブラシを取り出し、左の肩をサッと一掃きしたもんさ。
 あの人と知り合いになりたけりゃ、一緒に仕事をするしかない。それ以外は、カードをやるか、チビチビ酒を飲むだけだ。万一何かしゃべったりしたら、皆びっくり仰天して交通がストップする位珍しいことだったよ。
 スーツ以外の姿を見た事がない。お気に入りはダブルのピン・ストライプだった。かっちりしたタブカラーのワイシャツで、ズボンの折り返しは小さく、つま先が尖り細い踵のキューバンヒールを履いていた。
 1941年頃、まだまだ年上のうるさ型たちは、彼の真価を認めていなかった。自分たちより格下と思っていたんだよ。ちゃんとキャリアを積んでいたのに、新参者と思われていたんだ。彼のプレイには変な特徴があった。彼のお父さんもサックスを上下に揺すって吹いたんだよ。一種ヴォードヴィル的な演り方だな、多分レスターのあの構えはそんなところから来たのかも知れない。いずれにせよ、レスターがノッて来るれば来るほどサックスの構えは上になり、殆ど水平になっちゃうのさ。」

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<兵役の闇> 
cafesociety.jpg1942年、ヤングは弟のリー・ヤングと共にNYの有名なクラブ<カフェソサエティ・ダウンタウン>に出演、その後ディジー・ガレスピー(tp)やテナー奏者のアル・シアーズと共演後、ベイシー楽団に再加入した。

   1944年の徴兵は、彼が生涯決して克服できなかった第二の苦難となった。
 いったい軍隊で彼に何が起こったのか?真相は諸説あるが、重要なことは、彼は生まれて初めて現実と衝突し、現実が彼を打ちのめしたという事実だ。彼は軍隊で過ごしたのは15ヶ月間だが、兵役期間中の大部分、営倉に拘留されていた。罪状はマリファナと睡眠薬の所持、言い換えれば不当な扱いに対し無垢な黒人が、たまたま不適当な時と場所に居合わせたという罪だ。極めて不名誉な除隊を強いられてからというもの、彼の演奏と生活は、ゆっくりとすさんで行ったのである。
 ジョン・ルイス(p)は1951年にヤングの下で演奏した。
john__Lewis.jpg    「バンドは大体ジョー・ジョーンズがドラム、ジョー・シュルマンがベース、トニー・フルセラかジェシー・ドレイクスがトランペットだった。私達はNYの<バップ・シティ>の様なクラブで演奏してから、シカゴへ巡業した。
 レスターは各セット同じ曲を演奏するという日が時にあった。そして次の週も同じ曲を繰り返す。先週の火曜に<Sometimes I’m Happy >を演奏し、今週の火曜も演るんだが、今週は一曲目にを演ってみる。そして前の週に彼が演ったソロの変奏を吹き、次の週はそのまた変奏を吹くというようなことが続き、彼のソロは巨大な有機体に変わっていくんだ、
 その頃から彼の演奏が荒れたと世間じゃ言うが、私が彼と一緒の時、劣悪な演奏など聴いた事がない。彼の演奏が変わったと感じたのは最後の数年間だけだ。その変化について明確な証拠や、いやな体験などしていない。ただね、そこはかとない絶望感が漂っていた。
  彼は私の目の前に実在する本物の詩人だったよ。物凄く無口だったから、一旦彼が口を開くと、一つ一つの言葉が、小さな爆発物のように強く感じた。私は彼が意識的に特別な言葉を発明したとは思わない。アルバカーキに居た従兄弟の話し方と少し似た所があったし、20年代後半から30年代前半には、オクラホマシティ、カンザスシティやシカゴで彼の言葉に似たようなものがあった。その地方の人々もやっぱりお洒落で、レスターのようにポークパイハットなんかをかぶっていた。だから彼の話し方や服装は自然と身に付いたのじゃないかな。扮装とか、本当の姿を隠す術ではなかったと思う。ただ彼はヒップであろうとしただけさ、何もかもがスイングしているという意識の表現だろうね。
 勿論、彼は役立たずの連中の為にわざわざかっこよさを浪費したり、下手くそと共演し、せっかくの良い演奏を台無しするような愚かな事はしなかったさ。もしも彼が不当な扱いを受けたとすれば、心の傷は決して癒ることはなかったろうな。
 昔、52丁目の<バップ・シティ>に出演した時のことだ。レスターは、彼の音がか細いと世間に非難され、どれほど深く悩み続けているか話してくれたんだ。
 楽屋で話の途中に、レスターはサックスを取り上げ、素晴らしく大きな音でソロを吹いて見せてくれたよ。コールマン・ホーキンスとはまた違い、分厚く滑らかで濃密な音色で、最高に美しいサウンドだった。」

(明日につづく)

GW にバリエットはいかが? 連載”PRES” (第ニ回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (2)
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<キング・オリヴァーとの出会い>
armstrong_oliver.jpg  (右)Joe “King” Oliver (1885-1938) コルネット&バンドリーダー。深いブルース・フィーリングを持ち、ニューオリンズからシカゴで花開いた。キング・オリヴァーはルイ・アームストロング(左)以前のKing of Jazzだ。写真は’28年、Frank Driggs Cllectionより
 ヤングが家族の楽団、ヤング・ファミリーを辞めたのは18歳の時で、それ以降6~7年の間に、しばらくファミリーに戻った後”アート・ブロンソンのボストニアンズ”に参加、ミネアポリスの『ネストクラブ』でフランク・ハインズやエディ・ベアフィールド(saxes)と共演した。また「オリジナル・ブルーデビルズ」、ベニー・モートン(p)、クラレンス・ラブ、キング・オリヴァー(cor)と活動、そして1934年、カウント・べイシーの最初の楽団に入団した。
 ヤングは、ジャズ評論家ナット・ヘントフのインタビューで、50代でなお意気盛んだったキング・オリヴァーとの共演やオリヴァーの晩年について語っている。
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「ボストニアンズの後、キング・オリヴァーと一緒に演った。すごく良い楽団だったよ。僕はレギュラーとして、主にカンザスやミズーリ方面で1~2年共演した。
 キング・オリヴァーの楽団は金管3本、木管3本とリズム隊4人の編成だった。彼のプレイに衰えはなかったが、なにしろ年だから一晩中出ずっぱりではなかった。だが一旦吹けば、非常に豊かな音色だったよ。オリヴァーはショウのスターとして各セットに1曲か2曲だけ吹いた。
 ブルース?無論ごきげんなブルースを吹いたとも!人柄も良くて、明るいおっちゃんだった。若いメンバー全員を凄く可愛がってくれたよ。一緒に演って退屈なんてことは全くなかった。」

<第一のトラウマ:フレッチャー・ヘンダーソン楽団>
fletcher_henderson_hawk.jpgLヤング入団前のFヘンダーソン楽団、前列の囲みが若き日のホーキンス、右端:ヘンダーソン
 ベイシー楽団入団後間もなく、ヤングはコールマン・ホーキンスの後釜としてフレッチャー・ヘンダーソン楽団への移籍を要請された。気のすすまない事ではあったが、結局承諾する。それはレスター・ヤングの人生で、克服しがたい最初の苦難であった。ホーキンスはヘンダーソン楽団に10年在籍し、大海を思わせるようなホークの芳醇なトーンと、分厚い和声のアドリブが楽団の核となっていたのだ。通常ジャズ・ミュージシャンというものは、注意深く寛容な聴き手だが、テナーに転向したばかりで、まだアルト臭かったヤングの音色やふわふわした水平方向のソロは、同僚の楽団員達にとっては異端と受け止められた。やがて彼等はレスターの陰口を叩く様になり、フレッチャー・ヘンダーソンの妻は「こういう風に吹いてくれたら」と、彼にホーキンスのレコードを聴かせた。それでもヤングは3~4ヶ月持ちこたえたが、遂に 「自分は解雇されたのではない」という旨の手紙を書いてくれるようリーダーのヘンダーソンに頼んで退団。カンザスシティへと向かう。2年後にベイシー楽団に再加入、彼のキャリアはそこから始まった。
<カウント・ベイシー楽団>
 ピアニスト、ジョン・ルイスは当時のヤングを知っている。
john__Lewis.jpg  John Lewis(1920-2001) ニューメキシコ州アルバカーキ育ち、40年代NYでBeBop時代の頭角を表す。
 ジョン・ルイス:「私がまだアルバカーキに居て、まだ非常に若かった時、ヤング・ファミリーが町に逗留していると噂に聞いた。
 野外のテント・ショウで巡業に来たものの、金がもらえず立ち往生していたらしい。地元にセント・セシリアズ”という名のなかなか良い楽団があり、レスターはそこで演奏していた。街にはチェリーと言うスペイン人がいてね、ペンキ屋だったが、素晴らしいテナー奏者で、レスターは彼ととサックスで勝負したりした。当時のレスターのプレイ自体は殆ど覚えていないが、軽めの良い音色だったよ。しばらくしてヤング・ファミリーは街を離れミネアポリスに移った。
 次に会ったのは1934年頃で、彼が西海岸へ楽旅中にベイシー楽団のコーフィー・ロバーツというアルト奏者を迎えに町に戻ってきた時だ。その時代の彼はすでに1936年の初レコーデイングと同じサウンドだったよ。この地方は真鍮製のベッドが多くてね、レスターはいつもベッドの足元にテナーを吊るして寝ていた。夜中に何かアイデアが浮かぶと、サックスを手に取りすぐ音を確かめられるからだ。」

basie_lester.jpg      ヤングの初レコーデイングは、ベイシー楽団選抜のスモールグループだ。メロディの浮揚感は、フランキー・トランバウワーやジミー・ドーシーを想起させる。
 ヤングが以後15年間使用する上向きのグリスや急上昇するフレージングはコルネット奏者ビックス・バイダーベックの影響を暗示している。ヤングには深いブルース・フィーリングがあった。それはキング・オリヴァーのセンスを自分の一部として取り込んだのに違いない。淡い音色と最小限に抑制するヴィブラート、「間」のセンス、息の長いフレージング、そして容易くリズムを操る柔軟性を併せ持っていた。
 彼の登場まで、大部分のソロイスト達はオン・ビートでリズムに乗り、垂直的で短いフレージングに終始するため、リズムの波は途切れがちになった。ヤングはこのようなバウンスするアタックを滑らかにして、バーラインを越える長いフレーズとレガートを駆使した。(フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代、同僚だったトランペット奏者レッド・アレンと同じ手法である。)さらに彼は、しばしばコードからアウトする音を使った。奇妙な音符こそが、彼のソロで耳を惹きつけるものであり、沈黙は強調の為に使われた。
カウント・ベイシー楽団のベーシスト、ジーン・ラミーはこう回想する。
gene_ramey.jpg  「ヤングは33年の終わりには、非常に間のあるサウンドを手中にしていた。あるフレーズから次の新しいフレーズを始めるのに最低三拍の間を置いた。」
 真正面から胸倉をわし掴みにするようなコールマン・ホーキンスと反対に、ヤングのソロはわざとそっぽを向いて人をはぐらかすようにさえ聴こえる。ヤングのアドリブは非常に論理的に動き、滑らかで耳に優しい。彼は装飾音符の達人であり完璧な即興演奏家であった。
 “Willow Weep for Me”や”The Man I Love”といったおなじみの曲を、一瞬そうと判らないほど鮮烈に仕立てた。頭の中に原曲のメロディをしっかり持ちながら繰り出すサウンドは、曲に対して抱く「夢」であり、彼の紡ぐソロは「幻想」だ。-叙情性がありソフトで滑らか―それは演奏だけでなく、恐らくは彼の人生もそうだったのではないだろうか?
 ハミングにさえ思える気楽なソロ、だがそれは見せかけだ。音の動きは急速で、不意にホールドしたと思えばガクっとビートを落とす。リズムのギアチェンジで大胆に変化を付け、ソロは絶え間なく変化を続ける。繰り出すメロディは時に非常に美しい。スロウな演奏は優しい子守唄のようだが、テンポが速まるにつれ、彼のトーンは荒々しくなった。同時にヤングは随一無比のクラリネット奏者でもあった。30年代後半に、メタル・クラリネットを吹き、心に訴えかけるような澄み切った音色を手中にしていた。(しかし、クラリネットが盗まれたので、ヤングはいとも簡単に楽器を諦めてしまった。)
(明日につづく)
 

GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (第一回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
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《プレズ PRES》 (1)
lester-young.jpg サックス奏者レスター・ヤングが独創性に欠ける点はほぼ皆無だ。腫れぼったい瞼と飛び出し気味の目、少し東洋的で角ばった顔、飛び切り小さな口髭、歯の隙間が見える笑顔。彼は内股で軽やかに歩き、話し声はソフト、何かしらダンディなところがあった。スーツとニット・タイにカラー・ピン、踝(くるぶし)丈のレインコート、それにトレードマークのポークパイ・ハットを、若い時には後頭部に軽くのせ、年を取ると目深にかぶった。性格は内気、話し掛けられた場合に限り、しばしば自分も話す。演奏中は前方斜め45°にサックスを構え、まるで水中に櫂(かい)を漕ぎ入れるカヌー乗りの様に見えた。その音色は空気の様に軽くしなやか、それまで耳にした事もないようなフレーズは、何とも言えず抒情的で捉えどころのないものだった。
  サックス奏者がこぞってコールマン・ホーキンスに追従した時代、ヤングは二人の白人奏者を模範とした:Cメロディのサックス奏者フランキー・トランバウアーとアルトサックスのジミー・ドーシー、両者とも一流ジャズ・プレイヤーではない。だが1959年にレスター・ヤングが没した時、彼は白人黒人両方の無数のサックス奏者の模範となっていた。優しく親切な男で、人をけなした事はない。

ftrumbouer.jpgjimmy_dorsey.jpg  左から:Frankie Trumbauer(1901-56), Jimmy Dorsey (1904-57)
 そして彼は暗号のような言葉を使った。
<レスター・ヤング的言語について>
 レスター・ヤングの暗号化された言語についてジミー・ロウルズ(p)はこう語る。
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 「彼の言う事を理解するためには、暗号の解読が必要だった。それは辞書を暗記するようなもので、私の場合は判るようになるまで約3ヶ月はかかったと思う。」
 ヤングの言語は大部分が消滅してしまったが以下はその一例である。

  • ビング(クロスビー)とボブ(ホープ)= 警察 
  • 帽子(Hat)= 女性 中折れ帽 orソンブレロ= 女性のタイプを表す。
         

  • パウンドケーキ = 若く魅力的な女性 
  • グレーの男の子 = 白人男性 
  • オクスフォードグレイ= 肌の白い黒人、つまりレスター自身も意味する。
         

  • 「目玉が飛び出る」=「賛成する。」
  • カタリナの目orワッツの目 =どちらも非常に感嘆した時の表現
  • 「左の人たち」 =ピアニストの左手の指
  • 「召集令状が来る気分だ。」= 人種偏見を持った奴が間近にいる。
         

  • 「お代わりを召し上がれ。」=(バンドスタンドでメンバーに対して)「もう1コーラス演れ。」
  • One long, Two long = 1コーラス、2コーラス
  • 「耳元がざわざわする」=人が彼の陰口を言っている。
  • 「ちょいパチをもらう。」= 喝采を受ける。
  • ブンブンちゃん = たかり屋
         

  • ニードル・ダンサー = へロイン中毒者
  • アザを作る =失敗する。
  • 種族=楽団
         

  • トロリー・バス =リハーサル
  • マダムは燃やせるかい? =お前の奥さんは料理が上手か?
  • あの人たちは12月に来る。=2人目の子供が12月に出来る。(因みに彼は3回結婚し2人の子供を持った。)
  • あっと驚くメスが2時。 =美女が客席右手”2時”の方角に座っている。

<旅芸人>
LesterYoungonaltoJoJones.jpg 奇人変人は往々にして、混雑しつつ秩序ある場所に棲息する。ヤングが人生の大半を過ごしたのは、バスや鉄道の中、ホテル、楽屋、車の中やバンドスタンドであった。
  彼は1909年ミシシッピー州ウッドヴィルに生まれ、生後すぐに家族でニュ―オリンズの川向こうの街、アルジャーズに移った。10歳の時に両親が離別、レスターは、弟のリー、妹のイルマと共に父に引き取られ、メンフィスからミネアポリスへと移り住む。父親はどんな楽器でも演奏することが出来、家族で楽団を結成し、中西部や南西部をテント・ショウの一座として巡業した。ヤングは最初ドラムを演奏し、後にアルトサックスに転向した。初期の写真を見ると、彼のサックスの構えは後年と同様非常にヴォードヴィル的なものだ。
 「自分は譜面を読める様になるのが人より遅かった。…」かつて彼は語った。
 
レスター・ヤング : 「ある日、父がバンドのメンバー全員に各自のパートを吹くよう言った。父は僕が出来ない事を百も承知で、わざとそう言ったんだ。僕の小さなハートは張り裂け、オイオイ泣きながら思った。家出して腕を磨こう!あいつらを追い抜かして帰ってきてやる…帰って欲しけりゃな。覚えてろ!そして僕は家を出て、たった一人で音楽を学んだ。」
(明日につづく)

GWはホイットニー・バリエットでも読もうか・・・

American_Musicians.jpg  数年前の春、私はガラにもなく病気で療養していました。私が休むことで沢山の人に迷惑をかけて辛かったけど、あれほどゆっくり読書できた時期はありません。その時出会ったのが、ホイットニー・バリエットというNYのジャズ評論家が書いた “American Musicians Ⅱ”で、”71人のミュージシャンのポートレート集”という副題が付いています。
 ホイットニー・バリエットのこなれた文章には、月並みな形容詞や、決まりきったフレーズは皆無、「ジャズ評論家」と呼ぶには余りに詩的で文学的、とはいえ決して感性だけで書くのでなく、NYの街の地の利を生かし、過去の偉人や現在の巨匠本人だけでなく、親戚縁者に至るまでしっかりした取材の裏づけがあり、色んな角度からミュージシャンを眺め、文字通り一枚の肖像画に描き上げる独特なスタイルにすっかり魅了されました。
 バリエットの奥さんはナンシー・バリエットという画家で、それがバリエットのスタイルに影響したのかも知れません。バリエット夫妻とフラナガン夫妻は親しい間柄で、フラナガン家には、ナンシーがペンで描いたトミーの肖像が飾ってあります。
Balliett.jpg  バリエットは生粋のニューヨーカー、名門コーネル大出身、学生時代はデキシーランド・ジャズのドラマーとして活動し、’54から’01の長期に渡りThe New Yorkerでジャズや書評のコラムを持っていました。ネット時代以前には、紀伊国屋で立ち読みするThe New Yorkerのタウン情報にWBの署名を見つけると嬉しかったものです。
 フラナガンが亡くなってからも、ダイアナはバリエットと仲良しで、一緒に色んなジャズクラブに行っていました。2007年に癌で死去しましたが、その後も日本では紹介されないのがとっても残念です。
Jazz_Poet.JPG トミー・フラナガン・ファンにとって、ホイットニー・バリエットは「珠玉のピアニスト」(’57 The New Yorker サクソフォン・コロッサスのレコード評)や、「ジャズポエット」(’86 The New Yorker トミー・フラナガンについてのコラムのタイトル)の名付け親としても有名ですね!
 トミー・フラナガンのポートレート”Poet”は、以前ジャズ講座で配布したので、フラナガン・ファンが先入観を持たずに読めるポートレートをひとつ選んで来週の休日に連載しようと思ってます。
 では明日の鉄人デュオでHush-A-Bye を楽しみにしましょう!CU

光と影のスプリング・ソング:Spring Can Really Hang You Up the Most

寺井珠重の対訳ノート(15)
 皆さん、ゴールデン・ウィークのプランは立てましたか?OverSeasは4/29(水)と、5/5(火),6(水)はお休み、それ以外は通常営業です。大阪にいらっしゃるなら、ぜひお立ち寄りくださいませ!
 実を言うと、私の連休はゴールドじゃなくてブルーです。講座本の次号に掲載する対訳の整理など、今まで先送りにして来たタスクが山積み… そんな私には、先週、The Mainstemが聴かせてくれたバラード、『Spring Can Really Hang You Up the Most』が胸に沁みました。
 講座と違いライブでは殆ど何もおしゃべりしない寺井尚之がボソボソ紹介した”スプリング・キャン・リアリー・ハング・ユー・アップ・ザ・モスト”というタイトルは、よく聞こえなかったかも…逆に演奏はボソボソどころか、三人の音色がクリアで気持ちがよかった!
 日本人の私には長たらしく意味不明のタイトルが憂鬱!“Hang ~ up”というのは、「いやな気持ちにさせる」とか「気を滅入らせる」と言う時のインフォーマルな表現なんです。
   そこで、日本語で説明を試みるが、やっぱり長たらしくなっちゃう…
「(一般的に楽しい季節とされている)春は、状況次第で、最も滅入り、打ちのめされた気分になる場合もある。」 ほらねっ。
<ビートニク系作詞家 フラン・ランズマン>
franhag.jpgピアノの前に座っているのがTウルフ、ピアノの上に座っているのがFランズマン
 作曲はトミー・ウルフ(’25~’79)、作詞はフラン・ランズマン(’27~)、ジャズ講座対訳係りにとっては、むしろこの歌詞の方が「気が滅入り打ちのめされる」悩ましいものです。ランズマンはNYのアッパー・ウエスト・サイドの都会育ち、結婚後移り住んだ街セント・ルイスで、NYのセンスを生かし、夫の一族とキャバレー経営をして成功しました。作曲者のウルフは、ランズマンのキャバレー”クリスタル・パレス”でピアニストとして演奏する傍ら、せっせと曲を共作し、店の演目にして人気を博したそうです。”クリスタル・パレス”には、ウディ・アレンやバーブラ・ストライザンドなどNYの一流エンタテイナーが出演し、客席にはジャック・ケルロアックやアレン・ギンズバーグといった、ビートニク詩人達や映画スターなどセレブが集う、ポップ・カルチャー最前線のナイトスポットでした。
Fran_landesman.jpgランズマンはその後、英国に渡り作詞家、詩人、歌手、タレントとして長年活躍。アルコールやドラッグに浸るビート的私生活を暴露した息子の本も話題に。
<それはシアリングのクチコミから始まった>
george_shearing.jpeg  この曲をNYのジャズ・シーンに広めたのは、寺井尚之のセカンド・アイドル、ジョージ・シアリング(p)でした。彼が”クリスタル・パレス”に出演した際、この曲をすっかり気に入ってテープに録り持ち帰り、「ヒップなネタがある」と、NYの仲間にせっせと聴かせた結果、都会派の”ジャッキー&ロイ”やボブ・ドローといった白人アーティストたちがこぞってレパートリーに加えました。’59年にはブロードウェイの『ザ・ナーバス・セット』というショウに、この曲がフィーチュアされました。その時演奏に参加していたギタリストがなんとケニー・バレルです。ショウはあっという間にコケましたが、この曲はスタンダードとして残り、ケニー・バレルのコンサートで聴いたことを覚えています。
<T.S.エリオット、ビートニク風味?>
 ランズマンが語るところによれば、”Spring Can~”は大詩人、T.S.エリオットの代表作「荒地」に出てくる極めて有名なフレーズ「四月は最も残酷な月(April is the cruelest month)」のヒップな解釈とあります。確かに、「冬」を「死」のメタファーとして使ったりするところは、そうなのかもしれませんが、同じポップ畑のリチャード・ロジャーズ+ロレンツ・ハートの名曲、”Spring Is Here”(これも先週The Mainstemが演りました。)を引き合いにするよりも、セントルイスから英国に渡り、文豪となったT.S.エリオットの方が、ずっと「付加価値」が付くと計算したのかも…

<サムライ、ビート詞を斬る>
 ランズマンの歌詞は、ヴァースの後にたっぷり2コーラス、たしかに都会的だしウィットもあるけど、歌詞だけだと、ヴィレッジ・ヴォイスに載ってるエッセーみたいに「喋りすぎ」の感じがします。でもそこにトミー・ウルフのメロディとハーモニーが加わると、春の陽光と影がうつろう極上のバラードになるのが、「詩」でなく「詞」のいいところですよね。
 The Mainstemはヴァースからテーマを1コーラス、聴く者の心をわし掴みにしたままアドリブに入ってサビの途中からエンディングまで2コーラス!ほんとに息を呑む仕上がりでした。
 その基になっているのが『サンタモニカ・シヴィック』の名演。ここでエラ&トミーは、上等の鮨屋さんが天然鯛をさばくように、歌詞の無駄をバッサリ切り捨て、エラのサウンドがさらに良くなるよう、言葉を大幅にデフォルメしています。最初私は、ライブ音源なので、「エラはまた歌詞を忘れちゃった!」と思ったのですが、Youtubeにあったオランダのコンサート(’74)でも全く同じ歌詞で歌っているので確信犯だった。その結果、春の陽光と心の影の対比が一層はっきり浮き彫りになる。
  エラ流の斬新な歌詞は講座本次号に掲載するとして、ここはオリジナル詞に四苦八苦しながら訳をつけてみました。原詞はだいたいこんな感じ

『Spring Can Really Hang You Up the Most』
ヴァース
どこにもいるような多感な女の子だった頃、
春は恋の季節で、
私も心を燃やしたもの。
でも今年は違う、
春のロマンスなんてありえない。
実らぬ相手と契りを結んだその挙句、
すぐに壊れた恋の破片が心にささり、
春の季節が巡って来たの…
コーラス①
今年の春の気分は、
出走できない競走馬みたい!
私は寝転がり、
ぼうーっと天井を眺めるだけ、
春って最悪な季節!
そよ吹く風は、
新緑や花のつぼみに、
お目覚めのキスを送る。
そんな自然に乾杯!
私は公園を散歩して、
独りぼっちの時間をつぶす。
春が一番辛い人もいるの!
午後はずっと、
小鳥がさえずるラブ・ソング、
この歌は知っている:
「これぞ真実の愛!」と歌っているのよ。
私も聴いたことがある。
だけどこの歌には裏がある!
だから私は春がつくづくいやなのよ!
一月は恋が実ると信じていた。
四月の今、恋はユーレイ同然。
春はちゃんと巡ってきたけれど、
これほど辛い季節もない!
コーラス②
間違いなく春が来た!
至る所でコマドリが愛の巣作り、
私の心も春を謳歌しようと努力する、
歌えば心の傷も悟られまいと。
春は本当に居心地悪い。
学生達は「甘い情熱」にかられ
一心不乱に詩の創作、
それが春というものね。
だけど私は去年のイースター帽と一緒、
埃だらけの放ったらかし。
春っていやな季節なの。
あの時私は恋をした、
「いつまでもこのままで」と願いながら、
あの人と最高の時を過ごした…
もう昔話だけど…
そして春がやってきた。
春な甘い約束の歌で溢れる、
でも私の場合は、
何か違う!
お医者様は元気がつくように、、
「サルファ剤と黒蜜」を処方してくれた。
何の効き目もなかったわ。
きっと慢性的な病気よね。
こんな私にとって
春はほんとにいやな季節!

 恋の痛手を負った人だけでなく、花粉症や黄砂アレルギーに悩む寺井尚之にとっても、この季節は、Really Hang You Up the Most!
   それでは、楽しいゴールデン・ウィークを!
CU