若き日のエラ・フィッツジェラルド!
新年明けましておめでとうございます!本年もJazz Club OverSeasをよろしくお願いします。
年末年始のラッシュも一段落。K-1や時代劇の間も、これから数ヶ月間、ジャズ講座に登場するエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン・トリオが繰り広げる歌、歌、歌が私の頭の中で鳴っています。
エラ・フィッツジェラルドは1917年(大正6年)生れ、どんな年かと言いますと、アメリカは第一次大戦に参戦、日本では松下幸之助が改良ソケットを販売し、「味の素」の会社が設立された年であるそうです。エラは子供のときからNYヨンカーズで一番ダンスの上手な女の子と言われており、17歳(一説には16歳)の時、ハーレムはアポロ劇場の名物「アマチュアナイト」つまり「素人名人会」にダンサーとして出場し、賞金を獲得しようとします。ところが、本番間際に、地元で評判のダンスデュオ、エドワーズ・シスターズがエントリーしているのを知り、到底勝ち目がないと判断したエラは、急遽ダンスを断念し歌で勝負することに作戦変更、結果見事優勝!賞金25ドル也を獲得し、歌手への道が大きく開けたのです。
もし、その夜ダンスの強敵が出場していなければ、エラは、ダンサーとしての人生を歩み、この感動は得られなかったかもしれないんですから、エドワーズ姉妹さんには感謝したい!
エラはチック・ウェッブ楽団の看板歌手となってから、サインしてもらうため筋向いのクラブに出演していたビリー・ホリディを幕間に訪問したという逸話がある。
その後はトントン拍子、10代でビリー・ホリディと並ぶ最高のバンドシンガーとなり、エラの後見人であった天才ドラマー、名バンドリーダー、チック・ウエッブの死後彼の楽団を引き継ぎ、僅か22歳でバンドリーダーの看板を張ります。
やがて第2次大戦が勃発し、ビッグバンド時代が終焉を迎えると、ノーマン・グランツの強力なマネージメントの元、エラはソロ歌手として独立、台頭するBeBopのエレメンツを完璧に吸収し、スキャットだけで歌うFlying Homeや、How High the Moon, Oh, Lady Be Goodなど、その後何十年間に渡ってヴァージョンアップを続けたオハコのレパートリーをどんどん開発し、後年フラナガンとのコラボ時代に再び大輪の花を咲かせます。
ハリウッドのセレブ御用達の一流クラブ“モカンボ”の人種差別のバリアを破り、初の黒人歌手としてエラを出演させるよう掛け合ったエラの熱烈なサポーター、マリリン・モンローと。
ソロ歌手へ転進したエラ・フィッツジェラルドが、’50-’60年代、Mr.Jazzと言われた最高のマネジャー、プロモーター、ノーマン・グランツと打ち立てた金字塔が一連のソング・ブック・シリーズです。グランツの立ち上げたレコード会社Verveで、入念なアレンジを施したフル・オーケストラをバックに、ガーシュイン、コール・ポーター、ハロルド・アーレンなど、アメリカが生んだポピュラー・ソング芸術を作家別に次々と録音、アルバム・ジャケットにはビュッフェやマティスの趣味の良いアートを惜しみなく使用し、素材も歌もしつらえも超一流のミュージアム・レベルで、好セールスを記録するという偉業を達成しました。その当時のレコーディングは、当然、同時録音で、現在の、歌とオケの別録りでは聴けない、有機的なサウンドは大きな文化遺産です。
ガーシュイン・ソングブックのジャケットはベルナール・ビュッフェの作品で統一されている。
ソングブックの連作に対し、トミー・フラナガンが参加しているエラのレコーディングは殆どが録音コストのかからないライブ盤です。一説によれば、トミー・フラナガンは、グランツの様な大物ボスに対しても、自分のほうから揉み手をして、こびへつらうタイプではなかった為に不興を買い、スタジオ録音の機会をなかなか与えられなかったとも言われています。
とはいえ、トミー&エラのライブ盤を聴きながら、そこで歌われる即興の歌詞を一語一句聴き取り、対訳を作っていると、トミーをバックにしたエラの歌唱には、豪華なソングブックでは聴くことの出来ない「途方もない爆発力」にシビれてしまう。
エラは目を悪くする前の最盛期には、年間40週以上(!)仕事を取り、世界中を駆け回りました。ハード・スケジュールはエラ自身の意思であったと言います。長年、そのスケジュールに付き合ったフラナガンは「エラにとって喝采に勝るものなし…」とちょっぴり皮肉を込めて語っています。(Jazz Lives/Michel Ullman著)
エラ・フィッツジェラルドの歌唱の摩訶不思議なところは、エリントンであろうが、バカラックであろうが、どの歌も、「紛れもなくエラ」でありながら、彼女の私生活の「臭い」というものが、まるで感じられないところです。
例えばビリー・ホリディを聴くと、「レディ、あんたも男で苦労したものねえ。」と、彼女の私生活に心を馳せてしまいます。トニー・ベネットの力強い声を聴くと彼の描く水彩画を思い出したり、美空ひばりを聴くと家族関係を想ったり、フランク・シナトラの洒落た歌いまわしを聴くと、「この録音の後はどこの店で遊んだんだろう?」とか…マイルス・デイヴィスなら、「この曲は、あのカスれ声で何か指示を出したのかしら?」とか…ファンは余計な事に思いを馳せつつ聴くのが楽しみなものです。
だけど、エラは違う!エラの歌を聴いていると、歌にしか集中できなくなる。エラの実体はステージの上だけで、それ以外はかげろうのような抜け殻でも、全然不思議じゃないとさえ思う。…だけど、そう思わせるのが、真のスターなのかも知れません。
’64年カンヌでのステージ、エラが登場する前の演奏、トミー、ロイ・エルドリッジ(tp)、ビル・ヤンシー(b)ガス・ジョンソン(ds)客席左端は、女優ソフィア・ローレンらしい。写真をクリックするとちょっとわかります。(写真提供;藤岡靖洋氏)
加えてライブ盤では、エラの中に強力な充電池が存在しているのがはっきりと判る!聴衆の大歓声や熱い“気”を、胎内に取り込み、歌唱のエネルギーに変換して発散する。それにまたお客さんが反応してエネルギーを返す。その作用を繰り返すから、まるで「神が降りてきた」としか言いようのない凄い状況になる。多分、これは、ごく一部のミュージシャンにしか起らない化学反応です。私も、OverSeasでトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツ、サー・ローランド・ハナ、そしてモンティ・アレキサンダーのコンサートで同様の超常現象を目の当たりにしました。
エラの場合、もう一枚、トミー・フラナガンが加わると、その充電能力がより増幅されて、パチパチと不思議な火花を散らすのを感じるのです。そうダイアナ・フラナガンに言うと、ダイアナは「余り拡大解釈しちゃダメよ。トミーは伴奏の仕事を粛々といしていただけなのよ。エラは叩き上げのバンドシンガーなんだから、トミーでなくたって、ちゃんとショウを作れるの!」とブレーキをかけます。でも、レコードを聴いてごらんよ!フラナガンが絶賛するエリス・ラーキンスや、名手ルー・レヴィー、ポール・スミス、コンビで売ったジョー・パス(g)、どの名演を聴いても、フラナガンがバックに回った時に立ち上る、チカチカとした、あの不思議な火花は見えないのです。そう言い返すと、ダイアナは妙に納得していた。
エラはJ.J.ジョンソン(tb)のように「ミスのない」名手ではありません。来週聴くエラのライブ録音の中には、明らかに体調不良と判るものがあります。エラはマドンナのようにコンサートをドタキャンするようなことはしないのだ!
それどころか、歌詞やアレンジのミスもする!ピンチになるとスキャットの引用フレーズでHere’s That Rainy Day(まさかの事態になっちゃったわ)とか、Misty(私を見てよ、キュー出しするから)と歌いまくり、堂々とブロックサインでバックに状況説明して、土俵際をうっちゃる!これはすごい!歌詞を忘れるというのも、その時期の流行歌をどんどん取り込むためで、バーブラ・ストライザンドがたまにコンサートをする時、プロンプターにかじりついて歌詞を間違えずに済むというのと、土台レベルが違うのです。そんな場合にフラナガンが出す助け舟がまた凄い。007の秘密兵器のように最高の手際でエラを支えて復活させる。
どんなジャズの解説書を見ても、エラ・フィッツジェラルドの最高傑作はソングブック・シリーズであると書かれています。しかしエラの最高にハジけた歌唱が聴けるのは、なんと言ってもトミー・フラナガンとの共演盤にとどめを指すのです。
エラのおハコで、しかめつらしいクラシック音楽家が登場するユーモラスな歌、『Mr.パガニーニ』で彼女はこう歌ってる。
“パガニーニさん、
もうケチるのはイイ加減にしてよ。
あんたの奥の手は何なのさ?
さあさあ、ハジけてみなさいよ。
ハジけないなら、
せめてスイングしなさいよ!”
新年のジャズ講座は1月12日(土)6pm開講。CU
カテゴリー: ジャズのサムライ達、聖人達
ショーン・スミスという真面目なベーシストのこと。
ショーン・スミスはN.Yを地盤にコツコツという感じでキャリアを重ねる実力派ベーシストだ。自己リーダー作や、ビル・シャーラップ(p)の初期の録音、アニタ・オデイ(vo)のラスト・レコーディングなどに参加。人柄は、喰うか喰われるかのNYシーンでやっているミュージシャンにしては、控えめでガツガツしたところがありません。それが、何度も来日しているのに、日本でも知名度がない一因かも知れない…彼の曲がグラミー賞の候補になった事すら、今回の記事を書くに当たって初めて知りました。
ショーン・スミスは1965年生まれ、’87~’90マンハッタン・スクール・オブ・ミュージックでベースを学び、NYを本拠に、今やトップ・ピアニスト、ビル・シャーラップや、実力派ドン・フリードマン(p)、巨匠ジェリー・マリガン(bs)達と共演を重ね、’94年から自己カルテットで活動する傍ら、完璧な音程と、安定したビート、アレンジの才能で、ペギー・リー、ローズマリー・クルーニー、ヘレン・メリル等、スター歌手達に重宝されます。1997年に、ショーンのオリジナル曲がマーク・マーフィーのアルバムのタイトル曲になり、グラミー賞にノミネートされました。
ショーンのプレイは、彼の尊敬するジョージ・ムラーツ、レッド・ミッチェル、マイケル・ムーアのエッセンスをうまくミックスした感じで、ランニングの音使いのうまさには、いつも舌を巻きます。
<それは一枚の譜面から始まった。>
寺井尚之とショーンの出会いは、一枚の譜面から始まりました。話は’90年代に遡ります。ジェド・レヴィーというテナーサックス奏者が、NYから大阪の重鎮、西山満(b)氏の招聘で、寺井尚之と一緒にコンサートをしました。
トミー・フラナガンはジェドのアイドルですが、フラナガンの演奏曲は譜面のないものが殆どで、寺井尚之の譜面帳は、ジェドには宝の山でした。その中あった“Elusive イルーシヴ”を見つけた時のジェドの嬉しそうだったこと!
“イルーシヴ”はサド・ジョーンズが作った難曲、どれほど難しいかと言うと、数学に例えれば“ポワンカレ予想”に近い。前回ブログで紹介したペッパー・アダムスの『Encounter!』にも収録されています。その当時、脂の乗り切ったトミー・フラナガン3がNYのジャズシーンで、バリバリ演奏をしていました。elusiveとは「雲を掴むような、捉えどころのない」という意味で、その通り、何がなんだか全く判らないけど、滅茶苦茶かっこいいのです。サドの曲名は、悪魔的な茶目っ気に溢れている。例えば、Bitty Ditty(ちょっとした小唄)とかCompulsory(規定演技)とか…これも、サド・ジョーンズらしいネーミングですね。
フラナガンのサド・ジョーンズ集、『Let’s』のリリースは、それからまだ3年後のことでした。共演者へのみやげとして、寺井はその譜面を気前良くプレゼントしたのです。
Jed Levy
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それから約5年後、丁度ジャズ講座を開講し、寺井尚之がその準備であたふたし始めた頃です。講座が近づくと、寺井尚之は午後は調理場から出てきて、毎日、譜面や原稿書きに夕方まで没頭していました。
ある日の午後、細身の白人青年が、入り口のレジのところで佇んでいます。道に迷ったのかと思うと、オーナーと話がしたいと言います。
(セールスにしては内気そうな人やなあ…)
寺井尚之は「あかーん!今忙しいねん。タマちゃん、適当に相手して追い返してくれ。」とにべもない。私が、「今忙しくて手が離せないんです。私が代わって話を聞きます。」と言っても「どうしても直接話したい。」と言って引き下がりません。
(内気そうな割には、押しの強い人やわ…)
押し問答になり、結局「5分だけ」と言って、10番テーブルに案内しましたが、寺井尚之は最高の仏頂面です。
青年は、真面目な顔つきで小さな声で話しかけました。
「OverSeasのオーナーですね。私はあなたにお礼を言いにやって来ました。
僕は、ベースを弾いてるショーン・スミスと言う者です。昨日へレン・メリルと大阪に来ました。トミー・フラナガンとジョージ・ムラーツを尊敬しています。“Elusive”を弾きたいと思っても譜面を持っている者はいないし、あの曲をコピーするのは絶対無理でした。
ところが、あるバンド仲間を通じて譜面を手に入れたんです。その譜面を書いたのが、日本のピアニストだと聞いていました。おかげで僕たちも、今はこの曲をプレイしています。日本に行くことがあったら、ぜひあなたに会いたいと思っていたんです。やっとOverSeasを探して来ました。ミスター・テライ、どうもありがとう!」
寺井の仏頂面はどこかに消え、二人は夕方まで楽しく話をしていました。
それ以来、ショーンは日本に来たらOverSeasに寄って、時間があれば、寺井とセッションをして行きます。未だに、ヒサユキと言わずにミスター・テライと呼ぶ生真面目なミュージシャンです。
別にメル友でもないけれど、彼からライブ告知があれば出来るだけOverSeasの掲示板に載せてます。
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トミー・フラナガンが亡くなった翌年の初春、アイルランド系の人々のお祭り、セント・パトリック・デイの直後にNYを訪れた時のこと。
出不精のダイアナが、アイリッシュ・レストランでジャズを演っているところがあるから行こうと言うので、ヴィレッジの南の方にある“Walker’s”に行ったら、バンドスタンドで、こっちを見て目をまん丸にしていたのがショーンだった。とかく不思議な縁のある人です。
“Walker’s”はNY最古のバーと言われている。ここはミュージック・ルームで静かですが、表はジュークボックスやTVがあって、相当ザワザワしてます。当夜のギタリストはピーター・リーチ、二人はこの夜、ダイアナの為に“エクリプソ”を弾いてくれた。
そんなショーン・スミスと寺井尚之のコンサート、どんな音楽が聴けるのだろう? 演奏の上では、敬称略の、「腹を割った」音楽の会話を聴かせてくれるはず! 真剣勝負の聴き応えある一夜になると思います!
2月8日(金)演奏時間は通常のライブと同じ7pm-/8pm-/9pm 前売りチケットは¥5,500(座席指定:税込¥5,775)です。チケットはOverSeasでのみ販売中。
席に限りがありますので、どうぞお早めに!詳しくはこちら。 CU
OverSeasで演るのは実に楽しかった!:ジョージ・ムラーツ
「OverSeasでプレイできて凄く楽しかった!」
さっきジョージ・ムラーツから無事に帰国したよとメールがありました。現在は、晩秋のNYでゆっくり休養しているそうです。
ジョージ・ムラーツ3のコンサート直後に、ダイアナ・フラナガンが、「どうだった?」と電話をかけてきて、こんなことを言います。
「ヒサユキは凄くニホンジンだけど、トミーとジョージも同じようにニホンジンなの。あなた、私の言う意味が判るでしょう?」
勿論、姿かたちの問題ではなく心の話です。トミー・フラナガンもジョージ・ムラーツも、“渋さ”や“粋”という日本語にぴったりの趣がある。プロとしての“一分(いちぶん)”をわきまえ、その誇りはサムライのように高い。私達の父親の世代、第二次大戦以前の日本人みたいに「男は黙って…」みたいなところがあるし、お世辞が下手。決して誰にでも愛想のよい応対は出来ないけど、一旦胸襟を開くと、とことん面倒を見てくれる。苦労は口には出さない。・・・なるほど、ダイアナの言うとおりかも知れないな。
私達が2003年に表通りから、この路地裏に引っ越して僅か2ヵ月後に、来日したジョージ・ムラーツはすぐに訪ねて来てくれました。「ヒサユキ、良い店じゃないか!どんな小さい店でも構わない、君達が元気で幸せなら、それで俺は嬉しいんだから!」と力づけてくれました。私が、ベースの神様、ジョージ・ムラーツを、ついアニキと呼んでしまうのは、こういうところです。
’89 ヴィレッジ・ヴァンガードの楽屋にて。
トミー・フラナガンと連れ添った約15年の間、ムラーツはただの一度も「譜面」と名の付くものを渡された事がなかったそうです。トム・マッキントッシュやサド・ジョーンズ、皆が知らない隠れた名曲を、まるで、ずっと以前に聴き馴染んだメロディのように懐かしく思わせる魔法のデュオは、即興演奏の究極のレベルで実現されていたのだった。だからこそ、フリー・ジャズよりもずっとずっと「自由」な演奏になったのだ。
トミー・フラナガン・トリオに加入したケニー・ワシントンやルイス・ナッシュ達、若手ドラマーが最初、バンドスタンドで途方にくれた時に、ナビゲーターとして彼らを導いたのも、ムラーツだ。フラナガンはムラーツの資質を最初から見通していたのに違いない。共演者のアドリブの行方を、本人より先読みして、ドンピシャのRight Notesを繰り出すムラーツのテレパシーは、譜面を渡さないフラナガンとの共演で一層培われたのではないだろうか?
先週のコンサートで各セットのアンコールとして、お客様を狂気させた<Denzil’s Best>は、ジャズ史上最高のセールスを記録したと言うトミー・フラナガン3のアルバム、『Eclypso』での有名なナンバーです。私たちには信じられないことですが、この曲もレコーディング当日に、トミーの指示で急に演らされた曲だったそうです。なのに、あれほどこなれた演奏やってのけるというのは、神業としか言い様がありません。でも、先週の<Denzil’s Best>には、極上のシングルモルトのように、天才の中で熟成したえもいわれぬ芳香が味わえました。
先週のコンサートで。
先週のコンサートの幕間、ごったがえすなかで私はムラーツにお礼を言いました。「ジョージ、どうもありがとう!最高よ!<Denzil’s Best>に、お客さんたち、すっごく喜んでた!」すると、ムラーツはにっこりして、尋ねました。
「タマエ、次のアンコールも<Denzil’s Best>を演って欲しいかい?」
「Umm…<Denzil’s Best>も大好きだけど、ジョージのファンたちはきっと<Passion Flower>も聴きたいんじゃないかしら・・・」
ジョージは、してやったりとウィンクします。「タマエ、残念だけど、<Passion Flower>はもうプログラムの中に入ってるんだよ!」まるでいたずらが成功した少年のような顔つきでした。
テナーの巨匠ジミー・ヒースの奥さん、モナがこう言ったことがあります。「偉大なジャズミュージシャンはね、皆子供の顔を持っているの。」
<FONT size="-1"’02 ブロードウエィの日本料理店で。
ジョージ・ムラーツという芸術家が「若手」と呼ばれた時代から、現存するジャズベーシストの最高峰と言われる現在に至るまで、幸運にも、レコードだけでなく、殆ど毎年生の演奏を聴き、その人柄にも触れることが出来ました。30年余りの間に世界もジャズ界も大きく変貌し、ムラーツ自身の社会的立場も、西側で活動する自由芸術家から、チェコの至宝へと、大きく変化を遂げました。その反面、スタン・ゲッツやトミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナと言った最良のパートナー達を次々と亡くし、彼と同じレベルの土俵で、立ち会えるミュージシャンも少なくなっています。これからのジョージ・ムラーツは、どのように天才ぶりを発揮して行くのでしょう? 彼がトミー・フラナガンに音楽人生の大きな部分を捧げたように、彼の天才をしっかりと受け止める献身的な天才が、これから現れるのでしょうか?
偉大な芸術家が熟成していく歳月を、この目で眺めることが出来るとは、何と幸せなことでしょう!
<FONT size="-1"フィッシャーマン・スタイルのジョージ・ムラーツ&寺井尚之in NY
コンサート・レポートは近日HPにUP
なお、お客様からたびたびお問い合わせのある、ジョージとイーヴァ・ビットーヴァの新譜Moravian Gemsの日本購入サイトはこちら!
また、ジョージ・ムラーツのサイトはこちら!
CU
ジョージ・ムラーツ・トリオ!コンサート速報
<今夜のジョージ・ムラーツ・トリオ!>
2007年 10月25日
沢山のジョージ・ムラーツを想うファンの方々、ジョージ・ムラーツが、”Old Friends”と呼ぶ懐かしいお客様や、ジョージ・ムラーツが大好きな新しいお客様が集まる中で、短いツアー中、最高にまとめて聴かせてくれた素晴らしいコンサートになりました!
終演後は皆ゴッキゲンで、アート・テイタムを聴きながらシャブシャブを楽しむ男声合唱団に変貌… これも、霊感を与えてくれた客席の皆さんのおかげです。
やったぜ、アニキ!
ああ、楽しかった!!今夜来て下さった皆様、どうもありがとうございました!!
George Mraz Trio :David Hazeltine-piano, Jason Brown-drums
1. Imagination(Johnny Burke/Jimmy Van Heusen)
2. In Your Own Sweet Way (Dave Brubeck)
3.Wisteria (George Mraz)
4. Too Sweet to Bear (David Hazetine)
5. Waltzing At Suite One (David Hazeltine)
6. My Ideal(Leo Robin/Richard A. Whiting, Newell Chase)
7. For Bill:[Evans](David Hazetine)
Encore: Denzil’s Best(Denzil Best)
1. I Should Care(Sammy Cahn/Axel Stordahl and Paul Weston)
2. Show Type Tune (Bill Evans)
3. Passion Flower (Billy Strayhorn)
4.Soft Winds (Fletcher Henderson)
5. Everytime We Say Goodbye (Cole Porter)
6. Wonder Why (Sammy Cahn / Nikolaus Brodszky)
Encore: Denzil’s Best (Another Version)
最近ムラーツが愛奏するチェコ製の名器、最高級のワインのように芳醇な音色。スミ&サイコウというベーシストたちがきっちり見守っているので、名器は信じられないほど、無造作に置かれている。
ジョージ・ムラーツ・トリオのコンサートが終わってから、私のメール受信箱は「素晴らしいコンサートをありがとう!」というお客様たちのメッセージで一杯になっています。
多くのお客様がジョージ・ムラーツの超絶技巧よりも、まず「生の音」を体で感じることが出来て幸せになったということを言っておられました。狭いOverSeasならではの感想です。高いお金を頂いて、逆にお礼まで言っていただけるとは、ジャズクラブ冥利に尽きます。苦労してもやって良かった!!後日、アニキにも報告します。
まだ、全部の皆さんにお返事できなくてごめんなさいね!
演奏中、ヘッポコカメラマンの私が撮った写真は昨年のG先生のものと比べて、月とすっぽんのヒドいものでした。でも写真を整理していて驚くのは、ムラーツの手元は兆速の動きでブレていても、頭部が全然ブレていないこと。「ベースだけが勝手に直立して、ムラーツはベースにもたれて弾いているように見える」秘密はここにあります。
これから、コンサート・レポートを書きます。OverSeasに来れなかった人にも、この皆の幸せを伝えたい!
故に、今週のウィークエンドブログはここまで。
ちょっと待ってね! CU
ジョージ・ムラーツがやって来た!
ジョージ・ムラーツが来るまえに(1)
<アニキの肖像>
ジョージ・ムラーツが初めてトミー・フラナガンと共演したのは、彼がチェコから渡米した直後の’68で、エラ・フィッツジェラルドのバックであったそうだ。’78年にフラナガンがエラの許から独立後、’92年までコンビを組み世界中を回った。ムラーツはバークリーの卒業生だけど、入学直後から、一流どころから仕事に引っ張りだこだったから、果たして、教室でゆっくりと学ぶ時間があったのか、学ぶべきことがあったのかは判らない。
これは懐かしい!初めてOverSeasに二人が来たときのプレス用写真です。
ジョージ・ムラーツとトミー・フラナガン、この二人の天才は、育った土地も環境も全く違うのに、よく似たところがある。私が近くで眺めていて「芸術家」だなあ…とつくづく思い知るのがこの二人の天才だ。大阪弁なら「けったいな人々」というのがぴったりだ。「けったい」というのは単に“変な”とか“strange”というのとは全然違うよ!もっともっとスケールが大きくて、圧倒的な個性の人、英語で言えば、“Exstraordinary Genius”か…やることなすこと全てドラマチック!
誤解を恐れずに言えば、芸術家というものは、ある種の超能力者だ。オスカー・ペティフォード(b)が自分を「神に選ばれた者」と言ったのも当然だ。人の心を読み取ったり、言葉を使わなくても、心にダイレクトにメッセージを訴える力がある。芸術家の心の内には、途方もなく熱いマグマのようなものがある。余りに大きく熱いので、噴出を押さえるのに凡人には計り知れない苦労をしているのかなと思う。一旦それが溢れ出すと、誰にも止めることは出来ないからだ。それが芸術家のインスピレーションと呼ばれているものなのかもしれない。
嬉しい時には太陽がさんさんと輝きそこら中に花が咲く、そうでない時には、部屋の中まで黒い雲で覆われ、嵐が吹き荒れる。まるで古代ギリシャの神々みたいな人たちなのだ。
だからあれほど世界中の人達を感動させる音を創り出せるのに違いない。そんな時は、私はただ口をあんぐり開けて言葉もなく見とれているだけだ。
天才音楽家同士が15年間も一緒にやってきたのは正に奇跡だ。お互いに、特別の深い共感がなければ絶対に不可能な年月だったのではないだろうか。
’89の暮れに大阪のキリンプラザで一週間フラナガン3が来たとき、一行はOverSeasをリビングルームにしていた。
寺井尚之はジョージ・ムラーツと一緒にプレイする時のエクスタシーについてこう言う。「演る前に言葉で説明しなくても、わしがどんな風に弾きたいのか、どこでコードを変えるのか、同時に同じところに来るんや。ジョージにはテレパシーがある。一緒に演ると、倍音がいっぱいサウンドして、ピアノごとフワっと浮き上がったような気持ちになるねん。」
ひとりっこの寺井尚之にとって、ジョージ・ムラーツは一番大切なアニキだ。彼がOverSeasにやって来るずっと前から、理想のベーシストであり初恋の人。だからこそ、今まで非公式に何度も共演しているのに、尊敬の思いが強すぎて、未だ一緒にレコーディングをしようとはしない。私はもうそろそろやってもいいのではないかなと思うのだけど。
最近、ジョージ・ムラーツのHPがやっと出来た。
スケジュールの頁もあり、「おにいちゃん、今頃どこでどうしているのかしらねえ…」なんて、柴又の『とらや』の人々みたいに心配しなくて良くなったのが助かります。
フラナガンとの懐かしい写真が楽しいフォトギャラリーや、詳細な経歴、日本で新譜を買えるサイトへのリンクもあるのだけど、残念ながらサイトは英文。
バイオグラフィーの頁は、字が小さくて物凄く長いのですが、ムラーツ自身のコメントや、エピソードも挿入されて、非常に良くまとまっています。そう言えば、これほど詳しく書かれたジョージ・ムラーツ伝は今までになかったのではないかしら…
敬遠するには余りに勿体無い内容なので、次の項にバイオグラフィーの全訳を載せることにしました。コンサート直前の参考文献としてどうぞ!
ジョージ・ムラーツが来るまえに(2)
George Mraz 公式HPより
<バイオグラフィー>
《チェコ時代》
1944年、チェコ共和国生まれ、7歳でヴァイオリンを始め、高校時代にアルトサックスでジャズを始める。61年プラハ音楽院入学、66年卒業。
恐らく、彼が若いうちにヴァイオリンやサックスなどのメロディ楽器に親しんだことは、後にベーシストとして叙情的な資質を成熟に関連しているのであろう。
ムラーツは回想する。「高校の頃、僕は週末になるとビッグバンドの仕事をしていた。このバンドのベーシストが今ひとつうまくなかった。下手なのか天才なのかどちらかだった。」彼はそう言って笑った。「だって、彼はいつでも間違った音ばかり弾いているように聴こえたからだ。まぐれでもいいからたまには「正しい音」を弾いてくれよって感じだった。でもまぐれ当たりもなかったんだ。それで僕は休憩時間に彼のベースをちょっと借りて、正しい音を弾いてみることにした。そうしたら、『そんなに難しくないじゃないか。』と思ったんだ。それで、ベースを少しやり始めたんだ。気が付けば、プラハ音楽院に入学していた。」
学生時代から、ムラーツはプラハの一流ジャズグループで活動、卒業後ミュンヘンに移り、ベニー・ベイリー、カーメル・ジョーンズ、レオ・ライト、マル・ウォルドロン、ハンプトン・ホーズ、ヤン・ハマー達とドイツ全土のクラブやコンサートで共演、中央ヨーロッパにツアーをする。
当時、アメリカ合衆国の国際放送、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が世界中に発信するウィリス・コノーバーのジャズ番組に大きな影響を受ける。それは彼に、海の向こうの新世界への大きな可能性を示唆するものだった。
「僕が初めて聴いたジャズはルイ・アームストロングだった。地元プラハの軽いオペレッタ放送の間にアームストロングの特別番組が一時間放送されたんだ。僕は、サッチモのへんてこな声に大きなショックを受けた。最初は、なんでこんな変な声でうまく歌えるんだろう?と不思議だったけど、一時間番組が終了する頃には、この日僕が聴いた音楽のうちで、これが一番好きだという結論に達したんだ!それでジャズに興味を持ち始めた。
ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:ズート・シムス(ts)と
「VOAは深夜一時間ほど放送されていたんだけど、僕のラジオは上等じゃなかったから、ベースの音を判別するのは一苦労だった。仕方なく、ベースばかり聴くのでなく、全部の楽器を聴き、サウンド全体がどういう様に関連しているのか耳を傾けた。だから楽器の種類にかかわらず、色んな楽器から影響を受けた。もちろん、レイ・ブラウン、スコット・ラファロ、ポール・チェンバース、ロン・カーターは、必死になって聴いたよ。」
このように、ムラーツは、自然に音楽の世界に引き寄せられ、彼の想像力を毎晩出し尽くすクラブで、味のあるベテランに成長して行く。
「音楽院を卒業できたのは、ある種の奇跡と言えるけど、その後、ミュンヘンでベニー・ベイリーやマル・ウォルドロンと仕事を始めた。しばらくして、バークリー音楽院から奨学金をもらえることになった。丁度、ソ連の戦車がプラハに侵攻したのと同時期のことだ。奨学金を利用する絶好のタイミングだと思った。」
《新世界アメリカへ》
1968年、ジョージ・ムラーツはバークリー音楽院の奨学生となるや否や即、当地の有名クラブ、レニーズや、ジャズ・ワークショップでクラーク・テリー、ハービー・ハンコック、ジョー・ウィリアムズ、カーメン・マクレエなど一流どころと共演した。
翌’69年冬、ムラーツはディジー・ガレスピーからNYに来て彼のバンドに加入するよう要請され、ディジーと共演して僅か数週間後、オスカー・ピーターソンと約2年間ツアーをすることになる。その後、サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch.のレギュラー・ベーシストとして6年間活動、70年代後半には、スタン・ゲッツ、サー・ローランド・ハナとのニューヨーク・ジャズ・カルテット、ズート・シムス、ビル・エヴァンス、ジョン・アバクロンビー達と、その後、いよいよトミー・フラナガンとの10年間の共演期を送る。
ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:トミー・フラナガンと
ジョージ・ムラーツはアコースティック・ベースへの完璧な資質を持って生まれたアーティストだ。故郷チェコスロヴァキアから、米国に上陸した瞬間から、ミュージシャンの間で大きな評価を得て、確固たる存在感を確立した。それに比べて一般的には過小評価されている気味がある。恐らく、ステージ上でも私生活でも物静かな彼の性格を反映して、バンドスタンドでも、自分の実力をひけらかそうとしないせいかもしれない。
この無欲な性格ゆえに、ムラーツは素直に、今まで自分が決してリーダーとして活動することを恥ずかしがって避けていたわけではないと認める。
「ただ、その暇がなかったんだ。」つまり、この30年間、ジャズ界の人名辞典に載る一流ミュージシャン達(サドーメルOrch.、ディジー・ガレスピー、カーメン・マクレエ、クラーク・テリー、スタン・ゲッツ、スライド・ハンプトン、エルヴィン・ジョーンズ、ジョー・ヘンダーソン、ジョー・ロヴァーノetc…)がこぞって、ずっと彼をファースト・コールのベーシストにしていることが、リーダー活動を阻止した主たる原因であることは驚きに値しない。「’92年にトミー・フラナガンのトリオを退団してからは、かなり時間の余裕が出来たよ。」ジョージは微笑みながら付け加えた。「もっと色々なことをやって行っても大丈夫だよ。」
フラナガンの許を去った後、ジョージは、ジョー・ヘンダースン、ハンク・ジョーンズ、グランドスラム(ジム・ホール、ジョー・ロヴァーノ、ルイス・ナッシュ、DIM(ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴ)、マッコイ・タイナー、ジョー・ロヴァーノ+ハンク・ジョーンズ4、マンハッタン・トリニティなど、多岐に渡るフォーマットで活動。
加えて、リッチー・バイラーク、ビリー・ハート、リリカルなテナー、リッチ・ペリーを擁する自己カルテットを率いている。(このカルテットは、マイルストーン・レコードの一連のアルバムで聴くことが出来る:当レーベルでの第一作“ジャズ”、1997年に、ムラーツが自己作品や、ベーシスト仲間(ジャコ・パストリアス、ロン・カーター、マーカス・ミラー、チャーリー・ミンガス、バスター・ウィリアムス、スティーブ・スワロウ)ばかりを取り上げたアルバム“ボトムライン”で、また、バイラークとハートとのトリオは、“マイ・フーリッシュ・ハート”で堪能することが出来る。
「ジョージはいつも、正にこっちが欲しいと思う音をドンピシャリと弾いてくれるんだ。」 リッチー・バイラーク(p)はムラーツについてこう語る。「それに、まるで彼自身がベースっていう楽器を発明したんじゃないかという位、楽器を知り尽くしたプレイだ。」だが、ムラーツはそれをわざとひけらかすようなことはしない。縁の下の力持ちとして、何をすべきかしっかりと感知しながら、わざと自らの存在を透明なものにしてしまう。「例え、四分音符のランニングしかしなくとも、彼の音の選択は完璧だ。まるで、ソロイストの後ろで、素敵な物語を語っているかのようだ。」彼のプロデューサー、トッド・バルカンは熱っぽく語る。
ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:フィリップ・モリス・オールスターズで世界ツアーをした時、モンティ・アレキサンダーが若い!(ジョージの左手前)
《レコーディング歴》
ジョージ・ムラーツのレコーディングの共演者は膨大だ。:オスカー・ピーターソン、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、ハンク・ジョーンズ、チャーリー・ミンガス、サド-メルOrch.、NYJQ、ライオネル・ハンプトン、ウッディ・ハーマン、秋吉敏子、ケニー・ドリュー、バリー・ハリス、テテ・モントリュー、ジミー・ロウルズ、ラリー・ウィリス、リッチー・バイラーク、マッコイ・タイナー、アダム・マコーウィッツ、ジミー・スミス、スタン・ゲッツ、ズート・シムス、ペッパー・アダムス、アート・ペッパー、ウォーン・マーシュ、フィル・ウッズ、グローヴァー・ワシントンJr.、アーチー・シェップ、デイブ・リーブマン、ジョー・ロヴァーノ、ジム・ホール、ジョン・アバクロンビー、ケニー・バレル、ラリー・コリエル、ディジー・ガレスピー、チェット・ベイカー、アート・ファーマー、ジョン・ファディス、ジミー・ネッパー、ボブ・ブルックマイヤー、ジョン・ヘンドリクス、カーメン・マクレエ、ヘレン・メリル、エルヴィン・ジョーンズ他書ききれない。
リーダー作としては、アルタ・レコードから“キャッチング・アップ”、マイルストーン・レコードから、“ジャズ”“ボトムラインズ”“デュークス・プレイス”などがある。
《チェコへの回帰:最新作 Moravian Gems》
ジョージ・ムラーツの最新作は「モラヴィアン・ジェムズ(モラビアの至宝たち)」だ。モラヴァ民謡を題材とし、鋭いリズム、面白いハーモニー、様々なメロディが、ジャズのスイング感、洗練さ、即興演奏の独創性と合体し新しい世界を構築している。ムラーツは成長期を父の生地で過ごした、西欧では『モラヴィア』と呼ばれる地方だ。彼の心に残る「モラヴァ」の思い出は、緑生い茂る草原、そして陽気で心温かい人々、メリハリの効いた方言で歌われる民謡の数々だ。その思い出が本作でのムラーツのプレイの中に生きている。
ピアニスト、エミール・ ヴィクリツキーは、本作で一曲以外の全ての作編曲を担当している。もう一人のパートナー、ラツォ・トロップは、ヴィクリツキー・トリオの長年のドラマー、ここに驚異的な才能を誇るシンガー、イヴァ・ビトヴァが加わる。
ムラーツとヴィクリツキーは、1976年、ユーゴスラビアのジャズフェスティバルで知り合った。ムラーツがNYに移り、世界で最も多忙なベーシストとして、スタン・ゲッツ・カルテットなどで共演をし、一方ヴィクリツキーはボストン、バークリー音楽院卒業後、チェコに帰国しカレル・ヴェレブニー(vib)のSHQアンサンブルに参加して、ピアニストとしての評価を確立していた頃だ。ムラーツ自身は、それに遡り、プラハ音楽院の学生時代にヴェレブニーのバンドで活躍していた。初顔合わせから20年後の1997年、再び二人の大きな出会いが始まった。プラハを訪問した時、ムラーツがエミールに、モラヴィア民謡とジャズを融合した音楽を創るというプロジェクトを提案したのだ。本CDはこの二人のコラボレーションの産物だ。
二人は、モラヴィア音楽特有のリリシズムと深いエモーションの伝え方や、ジャズのアドリブのポテンシャルなど、モラヴィア音楽の持つ広範な可能性について深く考えていった。
本アルバムのプロデューサー、ポール・ヴルセックは、モラヴィア民謡、特に南モラヴィア地方の音楽のモーダルな特性を指摘する。地理的に孤立していた為だけでなく、その音楽が土地の人に愛され、歌い継がれてきたために、時代や流行の変遷に影響されず、何世紀の年月を経ても、音楽の美質が損なわれずに守られてきたのだ。本能的にモーダルな和声進行を感知する鋭敏な耳を持つモラヴィア人達にとっては、これらの民謡を歌い奏でたり、ちょっと風変わりなものであっても、自然に音楽を作るのはいとも容易いことなのだ。モラヴィア人でない者にとっては、それらの音楽は予想もつかない斬新なものだ。
ジョージ・ムラーツHPより:イヴァ・ビトーヴァはヨーロッパでは凄いスターらしい。クラシックからアヴァンギャルドまでボーダレスな凄い音楽家だそうだ。
本作のヴォーカルとして、エミールはチェコのみならずヨーロッパ全土で活躍するスター、イヴァ・ビトヴァ を推薦、並外れて清らかな声と、あらゆるフォーマットに対応する柔軟さを持つ大歌手であり、ヴァイオリニストとしても一流、しかも映画界では主役を何本も勤める名女優でもある。ビトヴァは1958年北モラヴィアの街ブルンタル生まれ、母、リュドミラ・ビトヴァは教師で歌手、父、コロマン・ビトヴァは、多数の楽器を演奏し、中でもダブル・ベースの名手である。
ビトヴァは語る、「私は今回のマテリアルが大好きです。録音前、エミールやラコと一緒にリハーサルをした時は、気楽だったんだけど、ジョージとは初めてだったし、ジャズバンドとレコーディングするのも全く初めてだったの。でもジョージのベースからは、同じ楽器を演奏した私の父コロマンの心臓の鼓動が聞こえてくるようでした。父は素晴らしい音楽家だったんですが、’84年に54歳の若さで亡くなりました。ジョージの演奏には心の底から感動しました。それで、レコーディングではヘッドフォンやモニターは一切使わず、その瞬間の波動を直接感じながら歌うことにしたんです。この方法は私に凄い刺激を与えてくれました。」
ジョージとイヴァ・ビトヴァは、今後、本アルバム『モラヴィアン・ジェムズ』からのレパートリーやオリジナル曲を、デュオで演奏する予定。演奏スケジュールはイヴァ・ビトヴァのHPを参照されたい。
水曜日コンサートなので、Interludeで速報をお届けする予定です。CU
Arthur Taylor / アーサー・テイラー(ds) その2
Baby Baby All The Time
A.T.ことアーサー・テイラー(ds)1929-1995
アーサー・テイラーが初めてハーレムの自宅に招待してくれたのは1988年、まだNYが犯罪都市と呼ばれ、ハーレムにビル・クリントンの事務所もスターバックスもなかった頃だ。
だが、ハーレムは、デューク・エリントンを大スターに育て、BeBop革命を生んだ街、そう、ハーレムは世界遺産だ。恐がってなどいられるもんか!ハーレムに行かなくちゃ!
(でも、ジャズメンやその奥さん達は口をそろえて「絶対にAトレインに乗らないでタクシーを使いなさいよ。地下道が危ないんだからね。」と口を揃えて言うのだった。)
まあハーレムでもクイーンズでも、とにかくA.T.の自宅に招待されるのは、もの凄く名誉なことなのだ。私たちよりずっと先輩の一流ミュージシャンでも、おいそれと口などきけない人らしい。故に、寺井尚之はスーツとネクタイの正装でA.T.のアパートを訪問することにした。
48丁目の安ホテルからタクシーで30分足らず、ブロードウエイからリヴァーサイド・ドライブを北上すると、そこはもうブラック・ハーレムのど真ん中。道幅は広く、大きな古めかしいビルが並ぶ。午後のハーレムはひっそりして、東洋人の姿は私達以外なかった。A.T.の住むアパートは古めかしい6階建てのビルだった。
ここはセント・ニコラス・アヴェニュー940番地、後で知った事だが、このアパートはハーレム・ルネサンスのランドマーク的な建築で、当時を象徴する詩人、カウンティ・カレンも同じアパートに住んでいたのだった。
ブザーを鳴らし、ロビーに入るとバニラの匂いが漂う。高い天井と大理石の床には’20年代の栄華が、ロビーのコーナーにあるテーブルの上に積まれた、近所のスーパーのチラシには、現在の生活感が漂っている。
大きなエレベーターの扉が開き、私達は2頭の大きなドーベルマンを連れたおばさん達と同乗した。それでも中は広々している。黒光りする大きな犬は行儀が良く、琥珀色のマダム達は、スーツとネクタイで正装したヒサユキと私に、“Enjoy!”と、にこやかに声をかけてくれた。
5階に上がると、Eの扉のところに笑顔のA.T.が出迎えてくれた。「そこはマックス・ローチ(ds)、向こうはアビー・リンカーン(vo)の住居だよ。」と、隣近所のドアを指差した。
私たちは、玄関から居間に通じる廊下の壁一面を飾る、畳半分位の綺麗に額装されたモノクロ写真に目も心も奪われてしまった。それは、チャーリー・パーカー(as)を擁するビリー・エクスタイン楽団の演奏写真だ。ドラムはA.T.が尊敬するアート・ブレイキー、BeBopの絶頂期の一瞬を捉えたこの写真に「絵になる男;A.T.」のルーツがあった。写真から発散する強烈なBeBopの芳香、白く輝くチャーリー・パーカー(as)のマウスピースが、不思議な光を放ち、画面の中のミュージシャン達も、この写真の前に立つ者も、パーカーの元に引き寄せられてしまう。まるで至福に満ちたルネサンスの宗教画だ。
「どうだい!いい写真だろう!」A.T.は写真に吸い込まれそうになっている私達を現実に引き戻すように、ニコニコしながら声をかけた。
この写真はATの家のものではないですが、チャーリー・パーカーはこんな人です。セロニアス・モンク(p)、チャーリー・ミンガス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
最初の部屋は音楽室で、スピネット・ピアノの傍らにソナーのドラムセットがすぐ演奏できるようセットしてある。楽器類は手入れが行き届き、スティック・ケースの中も整然としている。その奥が書斎兼居間になっていて、タイプライターを置いた机と、各国のジャズ雑誌の他に、詩集や哲学書などが並ぶ書棚。バスルームの大きな浴槽には書見台が渡してあった。
A.T.の自宅です。
A.T.はこの広々としたアパートに一人で住んでいた。薬剤師として病院勤めをしている自慢の娘さんは、ここにはいないようだ。白い壁と高い天井、どの部屋も清潔で、家族の写真や、巨匠ぶりを誇示するような賞状類など、俗世間への愛着を示す品々が不思議と見当たらない。孤独を味方に出来るよう、居住まいが整えられていた。
晴れ渡るハーレムを一望する大きな窓からA.T.が指差す方角を見る。「そっちはセロニアス・モンク、あっちはジャッキー・マクリーン、そこがソニー・ロリンズの家だったんだよ。ベイビー、うまいこと言うね、確かにここはハーレムのオリンポス山だな。」A.T.はトミーと演奏する時も、こんな風に高いところからアドリブの行く手を俯瞰していたのだろうか?
蔵書のハーマン・レオナールの初版写真集を見ながら…
A.Tが作ってくれたブランデー・アレキザンダーをすすり、フランス仕込みのクロークムッシュを頬張りながら、彼が参加するデューク・エリントン楽団の貴重なヴィデオを観るのは、夢のようなひとときだった。
チャーリー・パーカーは映画(’88作品;クリント・イーストウッド監督の伝記映画“バード”)のような汚い言葉使いは決してしなかったこと、バド・パウエルは脳の病気だったので、(あんな名盤で数多く共演しながら)一度も口をきいた事がなかったこと。セロニアス・モンクの家を訪ねても、彼はピアノから片時も離れないので、奥さんのネリーとばかりおしゃべりしていたから、今でも大の仲良しである事など、色々楽しい話を聴いているうちに、気が付けば日没が近くなっていた。私たちは竜宮城を後にするように、大慌てでミッドタウンに戻ったのを覚えている。
A.T.の歴史的名演が聴ける。左はリーダー作“A.T.’sデライト”右はバド・パウエルの名盤“シーン・チェンジズ”
A.T.は、寺井を、きちんとヒサユキと呼んだけど、私はいつも“ベイビー”だった。多分、世界中の女性を沢山知りすぎて、名前が覚えきれなかったからかも知れない。ベイビーと呼ばれても、A.T.なら不思議にちっとも蹴飛ばしたくならない。
数日後、深夜のブラッドリーズで、私はA.T.に不躾な質問をした。「ねえ、A.T.モナが心配してたわよ。あなたのガールフレンドはもう一緒にいないのかしらって。」 (サックスの大巨匠、ジミー・ヒース(ts)夫人のモナさんはハードバップ界きっての良妻賢母、美しく優しい女性で、夫妻はA.T.と親戚付き合いだったのだ。)
A.T.は眉を少し上げてこう答えた。「ああ、この間彼女はスイスに帰った。ベイビー、人生は短いんだ。千日の恋なんて、僕には長すぎるんだよ。」こんなセリフもA.T.なら、とてもよく似合った。
それから数年後、再びNYを訪れた時、A.T.の“テイラーズ・ウエイラーズ”はNYのライブシーンで最も注目を集めるハードバップ・コンボとなっていた。<コンドンズ>というクラブに今週出ているからぜひおいでとヒサユキと私を誘ってくれたけれど、別のクラブ、スイート・ベイジルにはトミー・フラナガン3が出演しているので、どうしても行くことが出来ない。泣く泣く謝りの電話をかけた。「A.T.せっかく誘ってくれたのに、本当にごめんなさい。ヒサユキも私も行きたいのだけど、予定があってどうしても行けないの。」
A.T.は、きっと私達の事情を察していて、優しくこう言ってくれた。
「ベイビー、気にするなよ。またこの次に来ればいいじゃないか。人生は長いんだから。」
「人生は長い」皮肉にもその言葉が、A.T.との最後の会話になってしまった。
「50歳で引退したかった。」と言っていたA.T. 物事をちょっと離れて冷静に見つめていたA.T. タイトなハイハット、トップシンバルの完璧なレガート、無限の色彩を持つリムの技…レコードを聴くと、あの絵になる姿が蘇る。
私はジャズ講座にA.T.が登場すると、OHPで映写する構成表の余白に、彼の写真を出来るだけ入れておく。
「A.T.は絵になるねえ」 そう皆に言って欲しいから。
(’84 OverSeasにて)
(この章了)
Arthur Taylor / アーサー・テイラー(ds) その1
マンハッタンの水戸黄門
アーサー・テイラー(ds)1929-1995
ドラムの前でスティックを持つ姿が一番絵になる男、それはA.T.ことアーサー・テイラーだ。
絵になる姿を作るのに、アルマーニもブルックス・ブラザーズも、ダイヤのピアスも、大量の汗の輝きすら要らない。ごくありふれたワイシャツやクルーネックのセーターで、自然に構えるだけ。そうすれば、時代劇の剣豪みたいに、一部の隙もないシックな姿になった。
A.T.自身によれば、彼はカジュアルな服装が身上なので、宇宙的なコスチュームで幻惑しながら本格的なジャズを聴かすサン・ラから「あんただけは私服でいいから頼む。」と出演を頼まれたそうだ。
サン・ラのOrch.は全員がこんないでたちです。ヴィレッジ・ヴァンガードにトミーを聴きに来たサン・ラを見たけど、やはり地味目のこんな服装でした。
一旦ドラムから離れると、A.T.は自分のオーラを全てしまいこみ、とても目立たない風貌の人になった。その広い額が示すように、頭の中には高度な知性があり、音楽に留まらない膨大な知識が内蔵される脳の中は、ハーレムにある彼のアパートの書棚のように完璧に整理整頓されていた。プレイと同様に、A.T.が教養をひけらかすのを見たことは一度もない。
A.T.以降、ケニー・ワシントン(ds)とルイス・ナッシュ(ds)がフラナガン3で何度もOverSeasで名演を披露してくれた。A.T.より20歳以上若い二人は、巨匠の縦横無尽なプレイがどこに行くのかを全身全霊で感知し、神に付き添える幸福感を虹の光に変えてぴったり併走する天使のようにプレイしていたのに対して、A.T.の方は、フラナガンの即興演奏の道を見守り、フィル・インの疾風と、ベースドラムの雷鳴で、行く手を照らし、速度無制限に走るフラナガンのアドリブ・ハイウエイにレッドカーペットを敷き詰めて行くような感じがした。ロールス・ロイスのエンジンが内蔵されているようなドラムソロの間も、決して「トミーを喰ってやろう」的な“あざとさ”は微塵にもなかった。
A.T.が、若手の無名ミュージシャンばかりを使って、Taylor’s Wailersという、凄いバンドを結成した頃のことだ。ヒサユキが来たからと、ハーレムからミッドタウンまで出て来てくれて、食事をした後、「昔、ジョン・コルトレーンと録音したレコードで、タッド・ダメロンの曲を調べたいので付き合ってくれ。」と言うので、ブロードウエイにあったタワー・レコードに一緒に行った事がある。
“ジャズタイムズ”のフォーラムに揃う、ソニー・ロリンズ、AT、トミー・フラナガン
NYの街を歩くA.T.は、全然目立たない細身のおじさんだ。こんな地味な人が、バド・パウエルやチャーリー・パーカーのバッテリー役として、歴史に残る名演を繰り広げているアーティストだとは信じられないほど、雑踏に埋もれながら歩く。
リンカーン・センターに近いブロードウエイ、タワレコのジャズ・コーナーを三人がかりで探したけれど、Soultrane/ John Coltraneという探し物は見つからない。まだLPが幅を利かせていた頃の話です。カウンターにいる20歳になるかならない白人のお兄ちゃんに、在庫がないかどうか尋ねると、「店頭に並べているもの以外ないッス。」と万国共通のツレない態度。他にダメロン楽団のLPはないかと聴いても、(うるさいおっさんやな…)「そこに出ているだけです。」の一点張り。
A.T.ほどのお方にこんな無礼な態度を取るとはけしからん!
真っ先にキレたのは寺井尚之、そのお兄ちゃんに向かって大阪弁でまくしたてた。
「こらっ、おまえ、ジャズ売っとってその態度何や!?この方は、Soultraneでドラム叩いてはるアーサー・テイラーさんや!判ってて、そんな事言うとんのか!?」
大阪弁は特にNYではよく通じるみたいで、通訳する前に、すでにその店員の顔が真っ赤になっていた。
「あなたは、あの有名な“アート・テイラーさん”…ですか?」
「アートと違うっ!アーサー・テーラーさんや」(寺井尚之)
A.T.は“アート”と呼ばれるのをすごく嫌がっていたけど、この時は笑みを浮かべて静かにヒサユキをさえぎった。まるで黄門様が角さんを押さえるように…
「ス・スンマセンッ!すぐ探してきます!!ちょっとお待ちくださいっ。」フロアで変な顔をしている別のバイト君に小声で何か言って裏へ走っていった。
…10分ほど経つと、その店員さんは汗だくになって、ニコニコしながら件のLPを持ってダッシュして来た。
「テイラーさん、ありました!ほんとにラッキーですよ!あの…僕ジェフと言います。ニュー・スクールで、(ジャッキー)マクリーン先生にアルトサックスを習ってるんです。あなたにお会い出来て良かったです。」
「僕も君みたいな親切な人に会えてよかった。ジャッキーに会ったら君の事、宜しく伝えておくよ、ジェフ」
A.T.は、彼の名札を確認してから最敬礼するジェフとタワレコを後にした。ラッキーだったのはA.T.でなく、ジェフの方だったみたい。
A.T.のお母さんはジャマイカからNYにやって来た。今でも親戚がジャマイカにいるから、いつか一緒に行こうよと言っていた。A.T.はハーレム生まれのハーレム育ち、タワレコのおにいちゃんの先生であるジャッキー・マクリーン(as)や、ソニー・ロリンズ(ts)は近所の幼馴染で、10代から一緒にバンドを組んで演奏していた。
正式なプロ・デビューは19歳位、それ以降、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカー、バド・パウエル、オスカー・ペティフォード達BeBopの創始者と共演を重ねた叩き上げだ。’63年から17年間パリ時代を含め、数え切れないレコーディングに参加、晩年は若手を擁するハードバップ・コンボ“テイラーズ・ウエイラーズ”を率いて活躍した。
左から:(講座本Ⅰ)All Day Long/Kenny Burrell, Jazz Lab/Donald Byrd&Gigi Grice,(講座本Ⅱ)Jazz Eyes/John Jenkins, Giant Steps/John Coltrane (講座本Ⅲ)Gettin’ with It/Benny Golson,Quiet Kenny/Kenny Dorham,(近日発売:講座本Ⅳ)Boss Tenor/Gene Ammons
講座本ではATのドラミングの妙味がたっぷり解説されています。
ジャズ講座に登場した名演、名盤も書ききれないほどあるので、ぜひ講座本を読んでみて下さい。11月には第4巻も刊行します。
仕事柄、英語が役立つ私にとってA.T.は大恩人だ。初めて会った後、自分の著書を送って英語を読めと励ましてくれた。日本語訳がない本に、めちゃくちゃ面白いものがあるのに味をしめた私は、手当たり次第に本を読み、読書の暇がない寺井尚之を捕まえては、無理やり話して聞かせ、ホイホイ喜んでいい気になっていたら、今度は再びA.T.にガツンとやられた。
湾岸戦争の最中にNYで会った時、「何故、日本は米国に安全保障されているのに、湾岸に派兵しないのか?」とボロカスに毒づかれたのだ。日本憲法第9条には戦争放棄の規定があり、その条項は第二次大戦に負けたとき、米国など戦勝国の肝いりで作られたとどうにかこうにか英語で言っても、そんなことでA.T.は納得しない。「何故日本人は改憲しないのか?」「日本人は何でも金さえ出せば解決できると思ってるのか?」「アメリカ兵に血を流させるだけで、日本人は平気なのか?」と猛然と詰め寄られ、自分の平和ボケと日本人意識の希薄さ、英語力の欠如と議論下手を強烈に自覚させられたのだ。
叩き上げのプロとしてのわきまえと、多岐に渡る教養を併せ持った絵になるドラマー、A.T.はどんな心の人だったのだろう?
来週は、A.T.の素顔を探るため、ハーレムの聖ニコラス通りにあるA.T.のアパートに行ってみませんか?当時のハーレムは治安の悪い事で有名だったから、貴重品は持たないようにしてね、一緒に行きましょう!
CU
Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その2)
Bohemia Swings Again with Dick Katz / カッツさんとカフェ・ボヘミアに行こう!
J.J.ジョンソン・クインテット時代、トミー・フラナガンがバリバリ弾いていた“カフェ・ボヘミア”を探索する私は、ダイアナの助言どおり、翌晩、“NYの街でふと出会う不思議な紳士”、ディック・カッツ(p)さんに電話をすることにした。
’89 NY リンカーンセンター・ライブラリーで行われた、NPRのラジオ番組“Piano Jazz”のパーティ、ご機嫌のトミーとカッツさん。トミーがゲスト出演した当番組のインタビューは、講座本Ⅲの付録になってます。ご一読を。
前回も書いたように、NYの街の至る所でフラナガン夫妻と私達が連れ立って歩いていると、不思議なことにカッツさんと遭遇する。
一度、リンカーン・センターの前でばったり会った時、トミーが「ダイアナと一緒に来た。」と言うと、カッツさんは眉ひとつ動かさず、トボけたジョークで切り返した。「ふーん、そうかい。私は一人でちゃんと来れたけどな。」その時のトミーの鼻を膨らませたポーカー・フェイスはグルーチョ・マルクスそっくり!カッツさんとトミーはとても仲良しだったのだ。
古典的コメディー・スター、マルクス兄弟はトミーのお気に入り、グルーチョの物真似も上手だったし、映画音楽をアドリブに引用したりしていた。
カッツさんは日本のジャズ・メディアにはほとんど登場しないけど、ジャズ界ではかなりすごい人なのです。
’24年生まれ、兵役後、ジュリアード音楽院で、トミーのアイドルでもあるテディ・ウイルソン(p)に師事、パリで活動後、’54年から’55年まで、ジャズ界を風靡したトロンボーン・コンビ“J&カイ”バンドのレギュラー・ピアニストとして活動する傍ら、オスカー・ペティフォード(b)やケニー・ド-ハム(tp)などバップの親分達や、大姉御カーメン・マクレエ(vo)に可愛がられ、キャリアを重ねました。60年代には、オリン・キープニュースとマイルストーン・レコードを設立し、プロデューサーとしても活躍、ライターとしては、深い音楽知識と文章力で、モザイク・レコードなど、名ライナーノートを著しグラミー賞にノミネートされ、ジャズの伝統を伝えるAJO(アメリカン・ジャズOrch.)の編曲などを手がける一方、本業のピアニストとして’96年に、レザヴォアから2枚のCDをリリース、特にピアノトリオの“3 Way Play”はカッツさんのテイストが良く判る名盤です。80歳を超えた今も、講演や執筆、作編曲に忙しいらしい…
午前2時、ミッドタウン・イーストにあるカッツさんの仕事場に電話をかけると、すぐに本人が出てきた。
「ごぶさたしています…カッツさん、あの…私、日本の大阪という土地のOverSeasのですね、タマエといいます。以前、テディ・ウイルソンのジャズ講座の時には、ヒサユキに本や資料を沢山送ってくださってありがとうござ…」
「ハーイ!タマエじゃないか!ヒサユキは元気かね?こっちは家内のジョーンも皆元気だよ。」
カッツさんは、ちゃんと覚えていてくれた。それどころか、驚きもしない。私が電話して来る事をちゃんと知っていたみたいだ…。ダイアナが前もって彼に根回しなんてする筈はない。道でばったり会ったなら別だけど…。
「カフェ・ボヘミアの事を知りたくて、カッツさんから現場の状況を聞きたい。」と言うと、カッツさんは、「どうかディックと呼んでくれ。」と言ってから、前もって原稿があったみたいに理路整然と、それに、店の匂いまで漂うほど活き活きと、当時の様子を語ってくれた。
トミーが亡くなった後の寂しいNY、一緒に夕食をしてから埠頭までドライブした寒い夜。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
トミーは、確か1956年にデトロイトからNYに出て来た、すぐに色んな店でバリバリ仕事をしていたよ。ボヘミアではもっぱらJ.J.ジョンソンと演っていた。あの頃からトミーは実にいいピアノを弾いたね… 彼のピアノ、私は大好きだったなあ…。
私はカフェ・ボヘミアで、’56年から、ジョー・ジョーンズ(ds)オスカー・ペティフォード(b)とハウス・リズム・セクションを組んでいた。 文字通り、夢のようなリズム・チームだったよ。J.J.ジョンソンは、J&カイのコンビ時代(’54-’55)は私がレギュラーピアニストだったんだが、’55年に二人がコンビ解消をしてから、JJが、私をトミー・フラナガンと入れ替えたんだ。
J&KAIは一世を風靡したトロンボーン・チーム。左がカイ・ウィンディング(ケヴィン・スペイシーというハリウッドの役者に似てるね。)右:J.J.ジョンソン
ボヘミアは多分55年ー58年頃まで営業していたのではないかな… イタリア系のイカツいギャングみたいな連中が経営していた。本物のマフィアかどうかは知らないがね。(マイルス・デイヴィス5がボヘミアから中継したエア・チェック盤で、『ボヘミアの店主、誰からも愛される男、ジミー・ジァロフォーロ』と司会者が紹介している。)ギャラの支払いが悪くてね、オスカーは連中と派手にもめていたよ。あの気性だからな。ハハハ。
広さ? そんなに広い店ではなかったよ。店の奥に小さなステージがあり、バーが左手、テーブル席が少しあるようなところだった。場所がウエスト・ヴィレッジだし、決してゴージャスなクラブではないが、NYのトップクラスのライブを聴かせていた。雰囲気はアッパー・イーストサイドの“エンバース”と対照的な感じだったな。“エンバース”は客層がリッチで、どちらかと言えば、最高のステーキが音楽より売り物だったが、ボヘミアは飲み物しかなくて音楽主体だった。(トミー・フラナガンはトロンボーンのタイリー・グレンと“エンバース”に頻繁に出演していた。)
“ボヘミア”があった場所で、現在営業中のバロウ・ストリート・エールハウス:ディックの言うとおり入って左手にバーがある。同じカウンターを使っているのかな?
“バードランド”? あそこは、言わばメジャーリーグみたいなところさ。有名だから世界中、色んなところから客が集まった。一方、ボヘミアは地元NYのジャズファンが聴きに来る渋い店だった。(カッツさんは“バードランド”にはチャーリー・パーカーの対バンで出演していたことがある。)
ピアノはね、開店当時は小さなスピネット(箱型ピアノ)しかなかったが、しばらくして改装しグランドピアノが入ったよ。(’57新年のことだ。)
(珠)ディック、でもカヴァー・チャージはいくらかはご存知ないでしょ?
チャージ? ハハハ、ミュージシャンでカバーチャージがいくらか知っている賢い奴なんで絶対にいないさ。アイラ・ギトラーかフィル・シャープ(どちらもジャズ評論家)の電話番号を教えてあげるから、彼らに聞くといいよ。え?個人的に知らないって?そんなの構わんさ。私がちゃんと電話をしておいてあげるから。ヒサユキと君がトミーに心酔し、クラブ経営をしてるって言ったら、喜んで何でも力になってくれるはずさ。彼らはそういう事の専門家だからね。
だが、一度カーメン・マクレエの伴奏をしている時に彼女の友達が客席にいたので、一緒にテーブルに座ったら、『SAVE $1.50 COVER CHARGE』というカードがあったから、多分それ位かなあ…
(珠)ディック、J.J.ジョンソンは、どんなリーダーだったの?
リーダーとしてはね、完璧な人だった。
ベニー・カーター(as,tp,作編曲家)に会ったことはある? 私はね、ベニーのレギュラーだったことが何度もあるんだ!(ディックはちょっと自慢気に、咳払いしてから、後を続けた。)ベニーは正真正銘の完璧なリーダーだった。威厳があって堂々として、汚い言葉なんか決して使わない。サイドメンへの指示も丁寧で、「こうしてくれますか?:Will you please…?」と必ず敬語だった。絶対に「こうしろ!ああしろ!」なんて命令口調はなかった。
それだけでなく、彼は自分の音楽の隅から隅まで理解していて、自分のすべきこと、メンバーに要求すべきことを、ちゃんと把握し、適切な指示のできる人だった。J.J.ジョンソンは16才くらいの小僧の時にカーターの楽団で修行して、彼の帝王学をつぶさに学んだんだと私は推測している。ジョン・ルイス(p)も同様に、ベニー・カーターからリーダーシップの何たるかを学んだ人間の一人だよ。
“ザ・キング”ベニー・カーターはクリントン大統領から勲章を授与された。
そうだね、君の言うようにJJは完璧主義者だったよ。彼の自殺はショックだった。(J.J.ジョンソンは’01に銃で命を絶った。一説に癌の苦しみに耐えられなかったと言われている。)それを彼の完璧主義のせいだと言う人は多いが、私にはわからんな…
私がボヘミアで仕えたもう一人のリーダー、パパ・ジョー・ジョーンズ(ds)は、JJと正反対、マッドでワイルドなバンドリーダーだった。彼は物凄くクレイジーでマッチョな天才だったよ。え?さぞ一緒に仕事するのが難しかったろうって? NO,N0!ワイルドな人に限って、自分の気に入った相手にはとことん良くしてくれるもんさ。私はあんなにやりやすい人はなかったぞ…
風が吹くようにようにドラムを叩いた巨匠、パパ・ジョー、背後左はアート・ブレイキー、右はエルヴィン・ジョーンズ
(珠)OPとパパ・ジョーとディックが、毎晩色んなプレイヤーと演奏するなんて、さぞ凄かったでしょうね!私もボヘミアに通って聴いてみたかったなあ!本当にダイアナがうらやましい!!
ああ、まったくだ、私だって出来るならもう一度演りたいよ。…
… 時計を見ると午前3時をとうに廻っていた。カッツさんは、これ以外にも、ここ数ヶ月のジャズ講座に登場するラッキー・トンプソンの面白い逸話など色々な話をしてくれたけど、それは次回の講座をお楽しみに!
ダイアナは物凄く寂しがっているから、ぜひ近いうちにヒサユキとNYに来なさい。そう言ってカッツさんは電話を切った。
あの頃、あの街で、J.J.ジョンソンやオスカー・ペティフォード、キャノンボール、マイルス、キラ星の様なスター達と同じバンドスタンドでプレイしたカッツさんは、瞬く間に、80過ぎのおじいさんから、意気揚々とした若きモダン・ジャズの王子に変身して、真夜中の日本から、50年代のグリニッジ・ヴィレッジへ、紫煙とジンの香りが漂うカフェ・ボヘミアへと、時空を超ええた旅に連れて行ってくれた。
受話器の前で私は密かに確信する。
カッツさんは魔法でおじいさんに変えられた王子じゃない、魔法使いはカッツさん自身だったんだ。
さて、来週はバップのサムライ、ATことアーサー・テイラーが主役、ハーレムやグリニッジ・ヴィレッジで、私が垣間見たATの素顔を紹介します。CU