J.J.ジョンソンのアドリブ学:「論理性と明瞭さ」

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  3月9日(土)、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に永遠の名盤 『Dial J.J.5』が登場!

 もしも、J.J.ジョンソンが科学者であったら、ノーベル賞をもらったかも・・・ 怖いほど冷静沈着でありながら悠々とスイングし、緻密な構成でも息苦しくならない。生前のフラナガンは、J.Jのコンボについて「言われる通り、粛々と演奏していただけ。」と言ったけど、メンバーたちは清流の鮎の如く、フリーにプレイしているように感じます。何度聴いても飽きない演奏!

 講座で配布用の資料として、講座の為にJ.J.ジョンソンの、インタビュー(1995年)の日本語訳を作ってみました。そこで何度も登場する言葉は、「論理的で明瞭であること」〔with logic and with clarity ]  『Dial J.J.5』でも「論理性」と「明瞭性」が、そのまま音符になってスイングしてますよね!ディジー・ガレスピーの依頼で作編曲した大作『Perceptions』にせよ、スモール・コンボにせよ、曖昧さを徹底的に排除する「論理性」&「明瞭性」は終始一貫しています。

 足跡講座で映写する、寺井尚之特製「構成表」を見ても、J.J.ジョンソンの音楽が、とても複雑でありながら、実にすっきりした幾何学的な美しさを持っていることが判ります。

 J.Jの発言は、先月の足跡講座で配布したソニー・ロリンズ・インタビューでの、トランス状態至上主義と対照的で、とても興味深く読みました。

 J.Jは、自分の目指すのは、決して「超絶技巧」などではない!と言い切ります。トロンボーンを始めてから、アドリブのアプローチで、最も影響を受けたのがレスター・ヤングであるというのが鍵のようです。

 J.J.が最も忌み嫌うのが「あいまいさ」。エルヴィン・ジョーンズ(ds)を、「リズム・キープができない(!?)」と解雇したのも、ボビー・ジャスパーをレギュラーに起用したのも、なんとなく納得。

 彼が何度もジャズjjimages.jpegサヨナラし、転業したのも、そしてライフル自殺をしたのも、理に合わないことには我慢が出来ない完全主義のせいだったのかも・・・私のようなチャランポラン人間は軽蔑されたろうな・・・

 これほどクリアでクリーンな天才、それにもかかわらず、というべきか、それゆえ、なのか、チャーリー・パーカー、ソニー・スティット、ロリンズ、ジミー・ヒース、マイルズ・・・彼の仲間と同様に、J.J.ジョンソンもジャンキーだった。

 そのため、当局からキャバレー・カードを剥奪され、NYのクラブ出演は極端に制限されていた。『Dial J.J.5』でフラナガンが共演していた頃は、NYではマフィア経営の”カフェ・ボヘミア”に土壇場のライブ予告という形で、不定期出演するのみ、通常はNYの川向う、ニュージャージーの『Red Hill Inn』を本拠にしていました。

 まっとうに仕事をこなし家族をきちんと養っていたJ.J.ジョンソン、ジャンキーとはいえ、スタン・ゲッツのように窃盗をしたわけでもない、キャバレーカードを取り上げるのは論理に合わない!とばかりにNY地方裁判所に告訴!1959年には、首尾よくカードを取り戻します。この裁判が契機となり、警官汚職の温床でもあったキャバレー法が改正。この徹底的な姿勢が、彼のプレイにも作品にも反映されているように感じます。

 寺井尚之が音楽とその構成、プレイと人間性を徹底解説する「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、Dial J.J.5は3月9日(土)に!

 CU

 

「奇妙な果実」:カフェ・ソサエティにようこそ

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 昨年末から、バタバタしていると、あっという間に日付が替る毎日に喘いでいましたが、先週の「楽しいジャズ講座」でビリー・ホリディの名唱を聴くと、かなり疲れが癒えました。
 講座のオープニングに聴いたのがコモドア盤「奇妙な果実」、レディ・ディの本当の良さはこれなのか?この疑問符から講座が始まり、30曲以上の音源も飽きることなく一気に聴くと、不思議に気持ちが楽になっていました。
 
CafeSocietyPoster.jpg  様々な名唱を聴き進めると、「奇妙な果実」はビリー・ホリディのスタイルの内でも極めて異質なことが判ります。この歌が生まれたのは1939年、場所は『カフェ・ソサエティ』というNYの有名クラブでした。TV以前の時代、大都会の夜の愉しみは、演劇や演芸を楽しんだりダンスを愉しみに街に繰り出すことでした。当時はわが町大阪にも、寄席や芝居小屋が数々あって、大阪は天満に住んでいた私の母も、毎晩のように芝居や寄席で楽しんだというから、古き良き時代だったんですね。

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  『カフェ・ソサエティ・ダウンタウン』は1938年、グリニッジ・ヴィレッジのシェリダン・スクエアに開店。地下のL字型のスペースは収容人員210名、ミニマム・チャージ1~2$、ライブチャージ無料(!)で、バーカウンターならビール一杯で9pm- 12pm- 2pm-3回の充実したショウが観れ、幕間はテディ・ウイルソンのバンドを聴くもよし、ダンスするもよしで大盛況!2年後には山の手高級住宅街、アッパー・イーストサイドに『カフェソサエティ・アップタウン』も開店。こちらは、ダウンタウンよりも料理が充実し、両店舗共に大繁盛を誇りました。

  店のポリシーは「人種混合」、若者も後期高齢者も、いかなる肌色のお客様も平等なサービスを謳う一流店は当時、異例中の異例、大統領夫人、エレノア・ルーズベルトのように、この店以外のクラブには行かないというのが、『カフェ・ソサエティ』の主な客層でした。

Albert-Ammons_Cafe-Society1.jpg オーナーのバーニー・ジョセフソン(1902-88)は、バルト海のユダヤ系ラトヴィア移民二世、靴屋のせがれで6人兄弟の末っ子、幼い頃に父を亡くし、貧乏の辛酸を舐めた苦労人、最初は父と同じ靴屋でしたが、「飲食業は現金商売で手堅い」という理由で転業したといいます。中学時代の親友が黒人で、ジャズが好きで、ハーレムのコットン・クラブなどに足繁く通いますが、「出演するのは黒人なのに、黒人客は入れない」業態に大いに疑問を感じた社会派でもありました。つねにお客に受けるアクトを心がけ、出演者に細かいステージングを指導、ビリー・ホリディの出演時に、その美しい顔にピン・スポットを当てて、男性ファンの心臓をバクバクさせる作戦など、演出家としての才能もあったのです。

 社会派のポリシーで意気投合したのが、英国出身の大プロデューサー、ジョン・ハモンド、出演者のブッキングを担当し、傘下のビリー・ホリディやレスター・ヤング、テディ・ウイルソン、ブギウギ・ピアノの名手アルバート・アモンズやミード・ラクス・ルイス、そしてジョセフソンと切っても切れない女性ピアニスト、メアリー・ルー・ウィリアムズなど、人気者が多数出演しました。

 リベラルな気風を守るため、出演者には「店内でのクスリは厳禁」という業務規程を課して、できるだけヤクザとの関わりを避けたそうです。その反面、繁盛店ですから、いつも客席が静かにショウを鑑賞するわけではなかったようで、ビリー・ホリディはステージで客席に向かって、Kiss my Assとばかりに、ドレスの裾を繰り上げお尻を見せたこともあったそうです。イブニング・ドレスには下着をつけないのが普通なので、えらい騒ぎになったとか・・・

<高校教師が作った「奇妙な果実」>
 

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 「奇妙な果実」はルイス・アレンというペンネームで詩作をしていたブロンクスの高校教師、アベル・メアプールが南部で樹木に吊るされた凄惨なリンチ写真を見て創作したもの。「奇妙な果実」の作者は、意外にも、黒人のジャズ&ブルース歌手を妻に娶ったユダヤ系白人人だった。「奇妙な果実」を最初に気に入ったのはホリデイではなくハモンドで、リベラルな「カフェ・ソサエティ」のイメージにぴったりだと、ビリー・ホリディに歌わせて大評判になり、店のテーマソングになりました。

CafeSocUptown.gif ヴィレッジのモダン・アートの旗手たちが描いた壁画や、ジャズ、ブルース、フォークソングやスタンダップ・コメディ、ダンスや手品、当時の先鋭的なパフォーマンスが繰り広げられる『カフェ・ソサエティ』は、話題のスポットとして第二次大戦中も連日満員御礼の大盛況!

 .ところが、そのリベラルな気風が、やがてクラブの経営に影を落とします。

 1947年、店の法律業務を担当していた兄のレオンが非米活動委員会に召喚され、証言を拒否して有罪の判決を受けたんです。

 「NYの一流ナイトクラブ・オーナー、バーニー・ジョセフソンの兄、反米活動で逮捕!」そんな見出しが連日新聞の見出しを飾り、それまでチヤホヤしていたマスコミが一斉にバッシングをはじめると、客足は遠のき、隆盛を誇った『カフェ・ソサエティ』は、事件の翌年に閉店の憂き目に会いました。水商売につきもののマフィアを排除するために、出演者に「店内でのドラッグ禁止」という厳しい規則を定めていたにも拘らず、逆に正義を守るはずの政府とマスコミにつぶされてしまったのは、皮肉なことですね。

 レオナルド・デカプリオが、FBI長官、エドガー・フーバーに扮したのクリント・イーストウッド監督作品「エドガー」を観ると、FBIは公民権運動家や共産主義者と目される有名人の私生活を盗聴監視していたと描かれていますから、左翼的なナイトクラブが10年間盛業できただけでも快挙だったのかも知れません。

 ジョセフソンはその後、60年代の終わりに『ザ・クッカリー』というレストランを開業し、アルバータ・ハンター(vo)やメアリー・ルー・ウィリアムズ(p)に再びスポットライトを当てました。

 もしもビリー・ホリディが「奇妙な果実」に出会わなければ、もう少し長く生きていられたのでしょうか?そうなったら、「Lady in Satin」の名唱は生まれなかったのでしょうか?

 愛らしくいじらしい、ホリデイのナンバーを聴いていると、そんな「もしも」の疑問が生まれてきます。

 

ソニー・ロリンズのアドリブ哲学

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 2月9日(土)開催の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、巨匠ソニー・ロリンズの名声を決定的にし、トミー・フラナガンを「名盤請負人」と言わしめるきっっかけとなった初期の最高傑作『Saxophone Colossus』から始まります。

 

Saxophone20Colossus.jpg  “Blue Seven”のテーマから一貫するアドリブの素晴らしさが発表当初から絶賛されたアルバム、『サクソフォン・コロッサス』。プレスティッジ・レーベルのセールスポイントだったブロウイング・セッション、つまりアルバム企画より、即興演奏を重視(?)する低予算のジャムセッション形式で、少々ミスがあっても1テイクぽっきり、編集なしのレコーディングで制作されました。とはいえ、ぶっつけ本番のアクシデントが予想外の効果を生んで行くプロセスが鮮やか謎解きしてみせた寺井尚之の解説は、演奏の迫力とともに、手に汗握るスリルと楽しさを味あわせてくれます。

 私の方は、講座の資料として、ソニー・ロリンズの数々のインタビューをチェック中。

 後進のミュージシャンたちのために、どんな質問にも誠実に答えようとするロリンズの言葉は、「現存する最高の即興演奏芸術家」に相応しいものばかりですが、現在のロリンズに、26才で録音した『サクソフォン・コロッサス』を最高傑作であるかのよう言うインタビュアーには、さすがに、辟易した印象が感じられます。

 

  今回、講座で配布するのは、エラ・フィッツジェラルドの伝記作家としても有名なスチュワート・ニコルソンによるソニー・ロリンズ・インタビュー、後進のミュージシャンたちのために、自分のアドリブ哲学について語っています。

 

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 ロリンズの目指すジャズの即興演奏感は「禅」ともいえる精神性重視のものでした。

 ロリンズによれば、アドリブとは絵を描くのと同じで、「潜在意識とのコミュニュケーション」と言います。楽曲のメロディやハーモニーを徹頭徹尾学習した挙句、一旦すべての情報を意識から追い払った無我の境地、トランス状態で、潜在意識から出てくるサウンドに従って表現するというのです。ロリンズが麻薬に耽溺した時代があったのは、他の理由があったにせよ、ドラッグはやはり彼の音楽哲学に影響を与えているように感じました。

  「より高度な即興演奏」を突き詰める姿勢は、明らかに、彼が師と仰ぐチャーリー・パーカーを見習ったものでしょう。

 

 チャーリー・パーカー達が創造したビバップという音楽の形は、絵画でいうなら、ピカソやブラック達が展開したキュビズムと少し似ているように思えます。キュビズムは、描く対象を完璧に理解した上で、一旦解体し、再構築することによって絵画的真実を追求するというものですから、楽曲の骨組みだけ残して、鮮やかに疾走する音楽を作り上げたバッパー達の手法と似ていると常々感じていたのですが、ロリンズのインタビューを読んで、一層納得しました。一方、キュビズムのアーティストたちが、アフリカ芸術や楽器に霊感を得たというもの、偶然なのか、必然なのか、興味がつきません。

 

 音楽は自然界を見習って想像する芸術ではありませんが、芸術家の視点は似ているんだと改めて感じました。キュビズムのさきがけとなったのはセザンヌの不自然な静物画だということになっていますが、ジャズのセザンヌは誰だったのでしょうか? 

 ”St.トーマス”に見られる、ロリンズのルーツであるカリブ海の要素も、ロリンズ自身は、潜在意識に備わっていると信じていたのかもしれません。豪快な演奏の裏には、自分自身を追及する哲学のまなざしがあるんだな・・・インタビューを読むと、ロリンズの真摯な気持ちが伝わってきます。

 

 新足跡講座は2月9日(土)に!ぜひご参加ください!

 

CU

 

 

オスカー・ペティフォード(1922-60):アメリカ先住民とジャズ

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 今週の新「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、『Oscar Pettiford in Hi-Fi』から、フィル・ウッズ(as)『Pairing Off』、超人気盤、ソニー・ロリンズ『Saxophone Colossus』(前篇)まで。3枚とも、主役、脇役、双方が強烈な輝きを発散し合う名盤ばかり!

 『Oscar Pettiford in Hi-Fi』は、ハープやフレンチ・ホルンを完璧にジャズに取り込むジジ・グライス(as)達編曲陣のスゴ技も聴き所!ペティフォードは自らが主催するジャムセッションに参加したNY進出直後のトミー・フラナガンの実力に、いち早く着目し起用したのでした。そのころペティフォード34才、フラナガン26才!

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<チェロキー!>


AI03.jpg オスカー・ペティフォードはアメリカ先住民が多く住むオクラホマ州、オクマルギー群に生まれた。母はチョクトー族、父はチェロキー族とアフリカ系アメリカ人の混血、そんな彼の血脈は親しい仲間しか知らなかった。昔は「先住民の血筋は隠すべき事柄」だったとか・・・とはいえ、『In Hi-Fi』に収録されているジジ・グライスの颯爽とした作品”Smoke Signal”は先住民のコミュニケーション手段、「のろし」です。
 
 イリノイ・ジャケー、ミルドレッド・ベイリー、チャーリー・パーカーなど、先住民の血を引くと言われるジャズメンは多い。トミー・フラナガンの祖母も先住民との混血だったそうです。フラナガンによれば、黒人と先住民の結婚はごく一般的なことだった。だとすれば、ジャズという音楽は、アフリカ大陸のDNAとヨーロッパ音楽の融合と言われているけれど、アメリカ先住民の音楽的要素も含まれているのではないでしょうか?
 どうやらペティフォードは、同じ4/4拍子でも、ヨーロッパ音楽、アフロアメリカン、インディアンのタイム
はそれぞれに違うということを深く理解して音楽を作ったらしい。
 何百曲というペティフォードのオリジナル曲にも、ネイティブ・アメリカン的ば要素があるのだろうか?その辺りのことを研究している人はまだまだ少ないようですね。ペティフォードのチェロやベースのサウンドは、どれほど凄い技巧を駆使しても、木の持つ温かみの奥に熱い鼓動が脈打つ独特の手触りを感じます。あれはペティフォード個人の魅力なんでしょうか?それともネイティブ・アメリカンのDNAなんでしょうか?
  

 

 ペティフォードは10人兄弟の大家族、幼少から高校卒業する頃まで、父親をリーダーとするファミリー・バンド”ドク・ペティフォード楽団”一員としてミネアポリスを本拠に演奏活動をしていました。幼い時は歌と踊り、12才でピアノ、14才でベースを始めた。兄弟全員が複数の楽器に習熟する凄い家族。例えば、姉、レオンタインはピアノや編曲もこなす才女で、あのレイ・ブラウン(b)を教えたこともあった!兄のアロンツォは後にトランペット奏者としてライオネル・ハンプトン楽団に入団。他にもコールマン・ホーキンスばりのテナーを吹く兄や、美形の姉妹がドラムを担当していた。

 40年代初め、キャブ・キャロウエイ楽団がミネアポリスを訪れた際、ベーシストのミルト・ヒントンが地元のクラブで”ドク・ペティフォード楽団”を発見し、オスカーの余りのうまさにびっくり仰天、バンマスのキャブ・キャロウエイまでオスカーをたいそう気に入ってヒントンはあやうくクビになりかけた。以来、ヒントンとペティフォードの交流は続き、一時オスカーがベースを辞めようと真剣に考えた時に、続けるよう励ましたのもヒントンでした。ミネアポリスの雄、ペティフォードの噂は広まり、チャーリー・バーネット楽団に入団、チャビー・ジャクソンとダブル・ベース・コンビでブレイクするものの、闘志むき出しのアグレッシブな性格が軋轢を生み退団。’43年からNYに定住し、ビバップ・ムーヴメント最前線のベーシストとして活躍、デューク・エリントンやウディ・ハーマンなどの一流楽団で人気を博しました。

 

 <破天荒なカリスマ>

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 ウディ・ハーマン楽団時代は、野球の試合で腕を骨折、ほぼ一年の静養中にチェロに習熟したそうです。ギブスをはめて平然のすごいプレイしていたとか・・・酔うと、お金がないのに、いいかっこしてタクシーで遠距離ドライブ、そのたびにハーマンがタクシー代を払いに行ってたとか。

  喧嘩はめっぽう強くて、バイオレントなことでは負けないチャーリー・ミンガスを一発でKOしたとか・・・今なら大スキャンダルになる逸話には事欠かない天才でした。
 

  「神から与えられたお役目」として音楽にひたすら打ち込むひたむきな姿に、「この人の為ならギャラなんて要らない!」という子分が多かった人。

 『In Hi-Fi』を聴いていると、緻密でクールな音楽性の中に、あふれ出る音楽への情の深さが感じられて、心が洗われるように感じます。でも、天才ペティフォードにとっても経済的に楽団を維持するのは並大抵のことではなかった。バンドが経済的に破たんした後渡欧し、38才を目前にコペンハーゲンで客死しています。

 以前、NY在住のYAS竹田君が、地下鉄の72丁目駅でベースを抱えて降りていくと、駅員さんがオスカー・ペティフォードの甥っこだったそうです。奇遇ですね!

 

 土曜日はペティフォードのカリスマ性を感じながら、ハードバップのサムライたちに一緒に乾杯しましょう!

 

 お勧め料理はハーレム風、ポーク・ビーンズを炊いておきます。

 

CU

1/14(月、祝)「楽しいジャズ入門講座」開催します。 

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 あけましておめでとうございます!皆様のお正月はいかがでしたか?

 寺井尚之は、正月も練習&講座の準備、夜は時代劇で過ごしています。The Mainstemの宮本在浩(b)&菅一平(ds)はスキー三昧のお正月、新年は雪の結晶のようにクリア・クリスタルなプレイが聴けそうですね!昨日は一日オフラインでゆっくりさせていただきました。
 
 ライブは1月5日(土)の寺井尚之(p)+坂田慶治(b)デュオ(Live Charge ¥1,575)から平常通りお楽しみいただきます。ぜひお待ちしています!

<新春特別企画>

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 ネット上でも、「ジャズが大好き!」という気持ちが伝わる楽しいブログを見つけてうれしい気持ちになることがあります。私たちをこんなに惹きつける「ジャズ」はどんな風にして生まれたのでしょうか?アフリカからアメリカに奴隷として連れてこられた黒人たちが創造した音楽ということは、みなさんどなたもご存じですが、何故アフリカにジャズは生まれなかったのでしょう?

 そんな素朴な疑問から、さまざまなジャズ・スタイルの変遷までを、わかりやすく簡潔に!新年14日祝日の正午より、寺井尚之が面白く楽しく解説するイベントを開催いたします。

 ジャズ発展の背景にある激動の現代史と共に聴くジャズは、また違った印象になるかもしれません。

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 特別価格でどなたでもご参加になれます.。特に学生証をご提示くださると受講料はたったの¥525!ぜひこの機会に覗いてみてください!

「楽しいジャズ入門講座」

it_music.gif2013年 1/14(月、祝) 正午~2pm

講師:巨匠トミー・フラナガンの随一の弟子 寺井尚之(てらい ひさゆき)

受講料:(特別価格) ¥1,000 (税別:学割チャージ半額)

申し込みの締め切りは 2013年 1月10日までとさせていただきます。

週末はジャズ鑑賞で!

 先週はエコーズ最終回、最後の鷲見和広(b)さんを楽しもうと、たくさんのお客様が来てくださいました。中には、東京在住のお客様や、NYから帰国中の石川翔太くんも!

 People Come and Go…

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そして、先週末はアマチュアのトップ・ドラマー、林宏樹(ds)ライブ!寺井尚之とは学生時代から、いろんな演奏場所でブリブリ演っていたオールド・フォークス!懐かしいジャズの仲間、というか、私にとって大先輩たちがたくさん応援に来てくださって、音楽のツボをしっかり押さえて大応援!
 
trio5IMG_2194.jpg その応援ぶりを見ながら、エルヴィン・ジョーンズ(ds)がデトロイトの”ブルーバード・イン”という名クラブについて、こんなことを書いていたのを思い出しました。「”ブルーバード・イン”のお客さんは音楽をわかっている人ばかりだった。あんな店はほかにない。ひょっとしたら、全員がなにがしかの演奏をする人ばかりだったのかも・・・」

  怒涛の一週間が終わり、今週は金、土と連日講座です!

 ahmad_jamal.jpg 12/7金はピアノの魔術師、アーマッド・ジャマルがDVD講座に登場!80歳を超えても、まだ現役バリバリ、古くはマイルス・デイヴィスやオスカー・ピーターソンたちに影響を与え、現在はヒップホップのアーティストたちにこぞってサンプリングされる、そんなジャマルのボーダーレスなピアノ・マジックについて、寺井尚之が徹底解説!

 モンティ・アレキサンダー同様、欧米ではビッグ・スターなのに、なぜか日本では低評価。だから来日回数も多くありません。映像で観てこその面白さのあるジャマル!ぜひご覧あれ!

 burrell.jpg(土)は新「トミー・フラナガンの足跡を辿る」その2!トミー・フラナガンがデトロイトからNYに進出した直後の録音群を再検証していきます。

 『Jazzmen Detroit』『Introducing Kenny Burrell』そして、NYに出てきたフラナガンに注目したオスカー・ペティフォードのビッグバンド名盤『Pettiford in Hi-Fi』 どれも 寺井尚之の新しい発見いっぱいの新ラウンドになりそうです。

私は資料として、スミソニアン博物館歴史資料、ケニー・バレルのインタビューの日本語版を作ってみました。

 

Kenny Burrell

Kenny Burrell (Photo credit: Wikipedia)

デトロイトから多くの名手が輩出した土壌や、NY進出後、多数のリーダー作を出しながらも、スタジオ・ミュージシャンとして才能をすり減らした苦労話や出世話など、見かけによらず苦労人だったバレルの栄光や挫折、意外な素顔を観ることが出来ます。

 バレルの発言を逐一記録した、アーカイブ文書は、その行間や、「語られていないこと」に、より興味を惹かれて、取材を続けたい気持ちにさせられます。

 週末講座2本立て、どうぞお楽しみに!

12/7(金) 7pm- 映像で観るジャズの巨人:アーマッド・ジャマル

12/8(土) 6:30pm-  新トミー・フラナガンの足跡を辿る

いずれも受講料は2,625yen (学割チャージ半額)


 

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「トミー・フラナガンの足跡を辿る」千秋楽

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 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、寺井尚之が、毎月第二土曜日、師匠フラナガンのディスコグラフィーを年代順に聴きながら解説してきました。2003年秋、ケニー・バレル(g)との”Get Happy”(Kenny Burrell Vol.2)から始まった講座も、9月8日(土)、第107回を持って、グラミー賞 最優秀インストルメンタル・ソロイスト賞にノミネートされた”Sunset and the Mockingbird”(ライブ盤 A Great Night in Harlem)、亡くなる約2か月前の録音をもって千秋楽となります。
 大学の授業ならいざ知らず、寺井尚之が、315セットのアルバム内容を、徹底的に解析し、定説を覆すびっくりの真実、レパートリーの組み合わせの妙や、アルバムの聴きどころなど、毎月お伝えし続けることができたのは、何と言ってもご出席のお客様、そして、様々な資料を提供してくださったジャズ批評家、後藤誠氏をはじめ、音源その他の資料、映写機器など、ソフト、ハードの両面でご協力いただいた方々のおかげ!心より感謝しています。
<晩年のトミー・フラナガン>
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 フラナガンは、心臓に大動脈瘤という爆弾を、長い間抱え、亡くなる前の数年間は、今は日本でも流行しているマクロビオティックという食事療法を心がけ、ワンナイターのハードな楽旅は避けていました。飛行機での旅行は禁じられていましたが、仕事柄、そういう訳にもいかず、演奏中にペースメーカーが止まって、大騒ぎになるというようなこともありました。生活のためというよりも、やはり生涯現役として、命を縮めても弾き続けたかったのではないかと思います。
 最後の来日は、2000年の春の”ブルーノート”での公演(bass ピーター・ワシントン、drums ケニー・ワシントン)でした。その時OverSeasにやって来たときのことは、HPに寺井尚之が書いています。
 “ブルーノート”大阪で、すっかり痩せてしまったフラナガンがハードな曲を演奏すると、首の後ろの静脈が浮き上がって見えて、晩年のレスター・ヤングの演奏を観に行ったズート・シムズのように、オイオイ泣きそうになりましたが、演奏自体はじつに美しく、素晴らしいものでした。
 後日、電子版の朝日新聞を読むと、アンコールに応えなかったフラナガンを傲慢と批判する記事が掲載されていました。本当は、アンコールしたくともできないほど体調が悪かったのです。
<千秋楽は多彩なアルバムで>
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 さて、土曜日の講座は、特別ゲスト待遇で、スポット的に参加したアルバム群と、ヤマハの自動演奏ピアノのための音源として収録された素晴らしいソロピアノなど、全6枚の多才なレコーディングで、賑やかにお送りする予定です。
 なお、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、11月から内容をリニューアルして、より充実したジャズ講座として新たに開講予定。
 最近、日本文学と日本文化研究の第一人者であるドナルド・キーン先生の自伝で、とても興味深い話を読みました。NYブルックリン生まれの彼は(ジャズには見向きもせず)、日本の文化を追求、コロンビア大、ケンブリッジ、ハーバード大を「編参」し、日本学の第一人者と言われている様々な教授の講義に、感動と失望を繰り返しながら、自分の講義のポリシーを確立した。それは、「(図書館などで調べれば判るような無味乾燥なデータを教えるのでなく)私自身の日本文学に対する情熱を伝えたい。」ということでした。
 「日本文学」というのところを、「トミー・フラナガン」に置き換えれば、寺井尚之のジャズ講座と同じです。キーン先生の英訳した「曽根崎心中」に匹敵するような、ジャズ歌詞の対訳を作ることは、この脳みそが100個あっても不可能ですが、私も資料の翻訳をがんばります!
 これからも、トミー・フラナガンの楽しさ、ジャズの楽しさを講座で伝えて行けるよう、寺井尚之とJazz Club OverSeasを応援していただけますよう、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
「トミー・フラナガンの足跡を辿る」<その107>
9月8日(土)6:30pm-
受講料 2,625yen

 おすすめ料理は「黒毛和牛の赤ワイン煮込」にします。
CU!

足跡講座で映画イングリッシュ (The Blues Brothers)

 お盆休みも今日までという方が多いようですね!今年は、夏休みを利用してOverSeasに来られるお客様が多かったです。懐かしい再会♪ 新しいお客様♪ お客様のおかげで、毎日楽しく仕事をすることができました。
 一方、本ブログ、「寺井珠重のInterlude」開設以来早5年!!貯金は貯まらないのに、コンテンツが貯まり過ぎ、ここ数か月間、個々のエントリーをアーカイブできなくなってしまいました。検索しても見つからないとお叱りを頂き申し訳ありません。
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 さて、今回はジャズでなく英語のお話を。先日「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で番外鑑賞した『Blues Brothers』のアレサ・フランクリンやキャブ・キャロウエイの名シーン、文句なしに楽しかったですね!監督のジョン・ランディスはマイケル・ジャクソンのPV「スリラー」も監督していて「音楽を見せる」達人!映画の舞台になったシカゴの出身だから、荒唐無稽なストーリーにリアルな街のムードが出ています。
 私が印象に残ったのは、ソウルフード食堂のおかみさん(Mrs.マーフィー)役のアレサが、お客を装い亭主をバンドに勧誘して、自分たちを育ててくれた孤児院を救済するためにやって来たジェイク&エルウッド(ブルース・ブラザーズ)の注文を取る短いシーン、”Think”の名唱直前のとても短い会話です。私自身ウエイトレスですから、レストランの会話はいつも興味津々。『Blues Brothers』って、ゴキゲンな音楽の聴けるドタバタ喜劇のように思われているけど、人種のるつぼであるアメリカとその文化を理解するのにうってつけの教材なんですよ。
blues_brothers_aretha.jpg 前半のエルウッドのご注文はこんな感じ。
Mrs.マーフィー: May I help you boys? (お二人さん、ご注文は?)
エルウッド: You got any white bread? (白パンあります?)
Mrs.マーフィー: Yes.
エルウッド: I’ll have some toasted white bread please. (じゃあ、白パンをトーストで)
Mrs.マーフィー: You want butter or jam on that toast, honey? (お兄さん、バター?それともジャム・トースト?)
エルウッド: No ma’am, dry. (いいえ、何もつけずドライでお願いします。)

 和訳も不要な簡単イングリッシュ。アメリカのベーカリーで注文する時に役立ちそうです。でも、ここには寓意があります。「白パン (White Bread)」は、中流階級の普通の白人やWASPを表現する隠語なんです。そしてジャムもバターもない「ドライ」は「退屈」っていう意味。ヒップな黒人の経営するソウル・フード食堂にやってきた無骨な白人、エルウッドを食べ物に象徴しているんですね。
 一方、兄貴分のジェイクはムショ帰り、言葉は汚いわ、ムサクルシイ肥満体、でもダンスがめちゃくちゃ上手!ヒップなジェイクは、黒人の家庭料理の代名詞、フライド・チキンを注文するんですが、これは日本人の私たちに、「数詞」の面白さを教えてくれる英語教材です。
ジェイク: Got any fried chicken? (フライドチキンある?)
Mrs.マーフィー: Best damn chicken in the state. (うちのチキンは、この州じゃあ一番よ。)
ジェイク: Bring me four fried chickens and a Coke. (それじゃフライトチキンを4つとコークをくれ。)
Mrs.マーフィー: You want chicken wings or chicken legs? (4つって…ウイング?モモ?どの部位にしましょうか?)
ジェイク: Four fried chickens and a Coke. (丸ごと4羽分のフライとコーク。)
エルウッド: And some dry white toast please. (それと白パンのドライ・トーストね。)
・・・
Mrs.マーフィー: Be up in a minute.(すぐにご用意します。)

 日本語には、名詞に冠詞も付かないし、単複形もないし、不加算名詞、可算名詞の区別もありません。それは、日本語と英語の「数」に対する意識が根本的に違うせいで、思わぬドツボにはまることも。たとえば、犬が好き、猫ちゃんが好きと言うつもりで、”I like dog!””I like cat!”と冠詞なしの単数形を使うと「犬の肉」「猫の肉」を意味してしまい、思わぬゲテモノ好きと思われるのでご注意ください。
 フライド・チキンは、KFCでも1ピース、2ピースと書いてあるでしょう。冠詞のないchikenは、もちろん鶏肉の意味です。なのに”four fried chickens”と複数形で注文するところがオモシロイんです。ジェイクにそう注文されたアレサ、最初は、”four fried chicken wings”や”four fried chicken legs”のつもりだと思うんですが、実は「ニワトリ4羽分丸ごと揚げろ」というとんでもない注文!このやりとり、英語を母国語とする人たちには、最高に笑える会話で、この映画の中でも、最も有名な名台詞で、”Four fried chickens and a Coke”というロックン・ロールバンドもあるらしいです。 映画のシーンを観てない方はこちらをdouzo

 ジャズ歌詞の対訳を作る時も、冠詞や数詞をはっきり解釈して、正しいニュアンスを出す訳文を作ることが肝要です。逆に英訳をする場合は、単複のない日本語の単語を、原文作者に確認しないと、とんでもない英訳になる危険も・・・
 というわけで、夏休みの英語講座でした。
 夏休みが終わっても、OverSeasのライブ、引き続き宜しくお願い申し上げます。
CU

アレサ・フランクリン礼賛

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 土曜日の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に”クイーン・オブ・ソウル”ことアレサ・フランクリン登場!イェーイ!
何で?と不思議に思われる皆さん、トミー・フラナガンとアレサ・フランクリンは、’60年代、コロンビア時代と’90年代に映画音楽で2度も共演しているんです。
まだ信じられないの?そんなら、土曜の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に来てみてください。
 でも気品溢れる珠玉のピアノがお好きな方は、ひょっとしたら、アレサのことをあまりご存じないかも…というわけでちょっと紹介。
<デトロイト私立ノーザン高校 2年B組>
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 フラナガンとフランクリンの共通キーワードはデトロイト。フラナガン(1930-2001)はデトロイトに生まれのデトロイト育ち、アレサ(1942-)はメンフィス生まれですが5歳でデトロイトに移り住み、現在もデトロイト市民です。フラナガンと年齢一回り違いますが、二人とも市立ノーザン・ハイスクールの卒業生です。ご存じのように、サー・ローランド・ハナ(p)やシーラ・ジョーダン、モータウンの重鎮、スモーキー・ロビンソンも同じノーザン高卒業生でした。
aretha-franklin-c-l-franklin-1040kc032111.jpg アレサの父親は米国では歴史に残るバプティスト教の宣教師、C.L.フランクリンで、デトロイトの人種差別撤廃に貢献し、キング牧師と共に公民権運動を推進した偉人でで、講話の達人としても有名です。ダイナミックに呼びかける強烈な説法は、英語が判らなくても感動できる音楽的な魅力に溢れており、何と75枚もの講和のレコードを遺しました。最初の一音から瞬時に聴く者の心を掴むアレサの歌声は、この父から受け継がれたものに違いありません。
 幼いころ両親は別居、子供たちは父のフランクリン師に育てられました。小学校のときから、師がデトロイトに建立したベセル・バプティスト教会で讃美歌を歌い、あの圧倒的な歌声が育まれていきました。黒人社会を代表する名士を持つアレサの環境は、貧しい家庭で、幼いころから売春宿の使い走りをしたビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルドとは少し違います。ただしフランクリン師はキリスト者でありながら、娘たちが世俗的な音楽を楽しむことには寛容で、街で聴こえてくる流行歌を、自宅のピアノで弾き語りしても怒られるどころか、内外からやって来る客人たちの耳を楽しませる役割を務めていました。その中には、マーティン・ルーサー・キング牧師や、ゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソン、サム・クックなど著名人が沢山おり、やがてデトロイトのフランクリン師の歌の上手い娘さんの評判が広まって、コロンビア・レコードの大プロデューサー、ジョン・ハモンドに目に留まり、コロンビアの初期の一連のアルバムで一挙スターダムに乗ります。マネージメントは父のフランクリン師でした。
<シビれる歌声>
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 その時代の代表作が『The Electrifying Aretha Franklin』 (1962) で、フラナガンは、マンデル・ロウ(g)やジョー・ワイルダー(tp)とともにスタジオ・ミュージシャンとして参加しています。 Electrifyingとは、感電したみたいにシビレルことです。まだ18才の若さでどこまでもワープするパワフルな歌声と、清らかな歌詞解釈が素晴らしく、無限の伸びしろを感じさせてくれます。
 ちょうど、このレコーディングの頃、アレサは父の反対を押し切って最初の結婚をし、夫がマネージャーとなります。ところが私生活では、彼女に暴力をふるい、女遊びを繰り返す典型的なひどい夫であったようす。そのことを売り物にせず隠し続けていたアレサはエライね。でも、この試練が彼女の歌唱に深みを与えたと言う人も多い。事実、その夫の勧めで移籍したアトランティック・レコードで、アレサは本格的な”クイーン・オブ・ソウル”として大きく開花します。
 公民権法を勝ち取った黒人のパワーを代弁するかのようなオーティス・レディングの作品”Respect”(’68)から、バート・バカラックの”小さな祈り”(’68)、南アフリカでアパルトヘイトに苦しむ人々にとって文字通りゴスペルとなった”明日に架ける橋”(’70)まで、アレサ・フランクリンでしか表現できない音楽世界、ヒットソングが山のように生まれました。ちょうど、私がアレサを好きになったのもこの頃です。まず歌声にシビれ、簡単な単語だけ聞き取れれば、アレサの全てが理解できたように感じられる歌唱は、まさに、お父さんの説教と同じような説得力があるのかも知れません。
<映画二本立て>
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 やがて時代はディスコ・ミュージックへと移り変わり、アレサに新たな試練が訪れます。父のフランクリン師は’79年に強盗に銃撃され、5年間も続くこん睡状態に、アレサは父を見守るためにデトロイトに定住しますが、どっこい、1980年の映画『ブルース・ブラザーズ』にカメオ出演し、”Think”の名唱で、新しいファン層をわしづかみ!アメリカ白人の黒人文化への憧憬一杯の名作映画、名場面の数々は土曜日にしっかりお見せしますよ!
 米国ブラック・ミュージックを代表するアレサの歌声の魅力は、その色合いの多様さです!勿論、エラ、サラ、ビリー・ホリディと言う我らがジャズ界の大歌手も、ヴォイスのカラーパレットは負けずに大きいのですが、色合いが違っていて、ソウル系の明確な転調したときの色彩変化が強烈です。
White_men_cant_jump.jpg 土曜日もう一つ登場するのは、1992年の映画『ハードプレイ』(原題White Men Can’t Jump)の挿入歌、”If I Lose”、これがまた素晴らしい!『サヨナラゲーム』や『タイカップ』など、ひねりの効いたスポーツ映画を得意とする監督、ロン・シェルトン作品、音楽担当がテナー奏者ベニー・ウォレスという面白い映画です。
 テーマになるのはストリート・バスケットボール、1対1あるいは2対2でやる賭けバスケット・ボールのプレイヤーの話で、黒人達が「白人にはまともなバスケはできない(White Men Can’t Jump)という逆人種的偏見を逆手にとって、稼ぐ白人と黒人の二人のプレイヤーたちの泣き笑い物語。そのストーリーにぴったりの歌詞とメロディ、ウォレス作曲、監督のシェルトン作詞、もちろん映画のための書き下ろしで、アレサのふくよかなヴォイスとフレージングが堪能できます。
 というわけで、土曜日はアレサの名唱や、映画の名場面集、それに、クラーク・テリー(tp, flg)の『One on One』では、フラナガンと共に、サー・ローランド・ハナ、モンティ・アレキサンダーとの名演奏も紹介します!

 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」
 日時:8/11 (土) 6:30pm-
 受講料:¥2,625

 おすすめ料理は、ソウルフルな名唱に相応しく、グレービー一杯のビーフ・カツレツをお作りします。
CU

トミー・フラナガンとベニー・ウォレス

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  毎月第二土曜日に開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」も、いよいよ終盤、5月と6月に登場したテナーサックス奏者、ベニー・ウォレスのワン・ホーン・アルバム、『Bennie Wallace』(’98)がとても印象に残りました。フラナガン68才、この時期、トミー・フラナガンをゲストに迎えて録音したアルバムには、どれも「尊敬するトミーと共演できて良かった。」というリーダーのコメントが出るのですが、それが、どのくらいの「尊敬」なのかは千差万別。「ジャイアント馬場を尊敬してる。」と言っても、私と寺井尚之では、言葉の深さも、必殺技の理解も雲泥の差。でも『Bennie Wallace』を聴いていると、「この人、フラナガンのことが好きなんだ…」ということがヒシヒシと伝わって来て、気持ちが洗われます。
  ベニー・ウォレスは、この作品の18年前にも、『Free Will』でも、フラナガンと共演していますが、その時は、ソニー・ロリンズとジョン・コルトレーンとアーチ―・シェップを足して三で割ったような印象だし、山下洋輔(p)さんとの共演盤など、アヴァンギャルドなイメージが強いですね。でも、フラナガン夫妻が口をそろえて「あの子は良い子だ。」と誉めていたし、興味をそそられて、フラナガンへの想いを直接質問してみました。
artists_bennie_wallace_9720.jpg ベニー・ウォレスは1946年生まれ、南部のテネシー州出身、中学時代からジャズが大好き、白人には危険区域と言われる黒人地区のクラブに入り浸り、セッションを重ね、黒人のミュージシャンたちに可愛がられたというのは、ペッパー・アダムスと似ています。大学入学前にすでにプロとして活動。テネシー州立大卒業後はNYでモンティ・アレキサンダーなどと共演。エリック・ドルフィーやオーネット・コールマン以来の逸材と絶賛されました。
 80年代から、映画音楽に携わり、ポール・ニューマン主演の『Blaze』、『ハード・プレイ』、その他多くのTVドラマなど、数々の音楽を担当。『ハード・プレイ』では、トミー・フラナガンとアレサ・フランクリンのコラボを実現し、短編作品、『Little Surprize』ではオスカーにノミネートされるなど非凡なキャリアを築きます。
 ウォレスさんは、映画音楽とジャズの仕事の二足のわらじがディレンマどころか、相乗効果をもたらすという幸運な人。昔懐かしいアニメ、ベティさんこと“Betty Boop”のリメイクで一緒に仕事をしたジミー・ロウルズ(p)から、多くを学んだそうです。それ以来演奏解釈が一変。ひたすら歌詞を覚え、歌う作業を繰り返してからテナーで演奏するようになったと言います。フラナガンの真価を掴んだきっかけは、ロウルズだったのかもしれません。
 フラナガンのどんな所が好きなのか? それは、ピアノのタッチ、そしてハーモニーのセンスだと彼は言います。このアルバムではフラナガンが愛して止まなかったエリントン―ストレイホーン作品が何曲か収録されていますが、それについて大変興味深い意見をメールしてくれました。
「トミーは私のヒーローであり師であり、大好きなピアニストです。多くを学び、ライブに感動し、今もレコードを愛聴しています。
 彼は完璧な伴奏者ですが、勿論、それ以上の人です。例えばトミーの”Sunset And The Mockingbird”と、エリントン楽団の演奏を聴き比べてみてください。エリントンですら創造し得なかったハーモニーを実現していますよね。」
「録音前に、”Prelude To A Kiss”(エリントン作) のコード進行を打ち合わせるためにトミーのアパートに行ったときのことです。彼は、むかし自分がエリントン楽団でこの曲を聴いたという話をしてくれました。サビのメロディの各音に、それぞれ違うクロマチック・コードが付いて演奏されていたのだそうです。トミーは感動して、家に帰ると、すぐさまピアノに向かって、そのサウンドを思い出しながら、辿って行ったんだと言うんです。その話をしながら、実際にハーモニーの変化を弾いてみせてくれました!
  音楽的記憶を再生するプロセスは、単なるレコードのコピーより、はるかにクリエイティブな行為なんだと、僕は感動しました。
 トミーはエリントンのアイデアに、自分自身の創意工夫を重ね、更にすごい音楽を構築した。僕はその姿を目の当たりにしたのです。
  それから、ダイアナが現れ一曲トミーの伴奏で歌ってくれました。彼女はすごく上手だった!」

 何食わぬ顔でピアノを弾いているトミーと、奇跡を観た少年のように、目をまん丸にして、茫然とするウォレスさん、NYアッパー・ウエストサイドのピアノ・ルームの情景が目に浮かびます。寺井尚之も私も、同じように、フラナガンのアンビリーバブルな創造行為を何度か目のあたりにしていますから、とても共感が持てました。
White_men_cant_jump.jpg 映画音楽家としてのウォレスさんは、トミー・フラナガンとソウルの女王、アレサ・フランクリンの共演を実現させた功労者です。彼を映画界に引っ張ったロン・シェルトン監督作品、『ハードプレイ(White Men Can’t Jump) 』は、、ストリートバスケットを通じて、人種の軋轢や男のロマンを描く快作です。その劇中歌として、”If I Lose (もしも私が負けたなら)”というきれいなバラードを作詞作曲、編曲、この1曲のためだけに、フラナガンをラガーディアから飛行機に乗せ、デトロイトのスタジオで録音、グラディ・テイト(ds)やウォレス自身もテナーで参加し、何時間もかけて録音したそうです。
aretha-franklin.jpgアレサ・フランクリンはデトロイト出身、なんと高校までフラナガンと同じノーザン・ハイスクール出身で、この後、NYのカフェ・カーライルで共演したそうです。聴きたかった!
 なお、このコラボは、8月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場する予定。
 他にも色々と、フラナガンへの想いを何通かのメールに分けて教えてくださったウォレスさん、現在はコネチカット在住、現地の非営利ジャズ組織の音楽監督としてジャズフェスティバルや教育プログラムなどに関っているようです。My同志、Mr. Wallace、来日することがあれば、ぜひOverSeasで寺井尚之と一緒に演奏してくださいね!
CU