アキラ・タナ- ロング・インタビュー(前編)

 我らがヒーロー、興味の尽きないアーティストであり一人の人間、アキラ・タナが、今月後半から単身来日。5月3日にはOverSeasに待望の来演を果たします。

 ”Interlude”ブログ復帰初投稿は、英国のメジャー・ジャズ雑誌“ジャズ・ジャーナル”誌の1月号に掲載されたアキラ・タナのカバー・インタビューの日本語訳です。

 世界のどこに行ってもアキラさんは尊敬され好かれるんだ!という印象を新たにした読み応えのある内容でした。

 来日前にアキラさんのジャズ・ライフを覗いた後は、ぜひOverSeasにも聴きにきてください!

 長文なので、まず前編から:

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akira_tana_2016.jpg好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana 

1970-80s-ズート・シムス、ソニー・スティット、ジェームズ・ムーディはじめ、スイングからバップの激動期を生き抜いたベテランの巨匠と幅広く活躍したドラマー、アキラ・タナの素顔にランディ・スミスが迫る。

 

ソニー・ロリンズとの共演について:
「この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ…だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるんだから・・・

「アキラ・タナはとてつもない才能のミュージシャンだ。私を含め、仲間たちから尊敬されている。…礼儀正しく素晴らしい人物で、長年、家族ぐるみで親しく付き合っている。」-この賛辞の言葉は、当時89才のジミー・ヒースが、”ヒース・ブラザース”時代のアキラ・タナについて、E-mailで寄せてくれたコメントの抜粋だ。

 また、ベテラン・ピアニスト、ジュニア・マンス(87才)も、同様の質問に対して、以下のように明言する。「アキラは滅茶苦茶すごいドラマーだ。彼自身も最高だし、どんな最高のミュージシャンたちと一緒に演っても、しっかりタイム・キープができる名手だ。」

 

 これらの発言から、多くのミュージシャンたちが、ライヴやレコーディング・セッションにアキラを好んで使う理由が、お分かりになるだろう。彼と共演した大物ミュージシャンのごく一部を挙げても、アート・ファーマー、アル・コーン、ズート・シムス、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピー、ジム・ホール、ジョニー・ハートマン、ジミー・ロウルズ、ケニー・バレル、ジャッキー・バイアード、クラウディオ・ロディッティ、レギュラーとしては、前述のザ・ヒース・ブラザーズ、パキート・デリヴェラ、アート・ファーマー+ベニー・ゴルソン・ジャズテット、ジェームズ・ムーディなどが続く。また、ベーシスト、ルーファス・リードとは”タナリード”を結成し、’90年代に、ほぼ9年間に渡りツアーやレコーディングを行なった。 

otonowafrontcover_227.jpg 近年のアキラ・タナの活動として“音の輪(Otonowa)”というグループがある。”Otonowa”は日本語で “sound circle”という意味だ。グループ結成のきっかけは、2011年に起こった東日本大震災だ。アキラと志を同じくするバンド・メンバーは、アート・ヒラハラ(p)、マサル・コガ(reeds)、ノリユキ・ケン・オカダ(b)である。”音の輪”は、同名タイトルのアルバムをリリース、日本ゆかりのメロディーを新鮮なジャズ・ヴァージョンに甦らせ、震災の被害にあった東北地方の慈善ツアーを何度も行なっている。

 だが、アキラ・タナは、このような活動に至るまでに、どんな経緯があったのだろう?それを解明すべく、筆者はスカイプ・インタビューを敢行。以下は、好感を抱かずにはいられない魅力あふれるジャズ・アーティスト、アキラ・タナとの楽しい邂逅のハイライトである。

 インタビューを始めるにあたって、私は彼が1952年3月15日、カリフォルニア州サンホセ生まれであることを確認し、日本人移民である両親の影響について尋ねてみた。

 

アキラ・タナ「僕の母親は歌人で琴とピアノを弾いていました。だから、”芸術”という意味では、多分母の影響があったのだろう。」

 

アキラにとって、生まれて初めての打楽器体験は、この母がレンタルしてくれたスネア・ドラムだった。また、彼はピアノのレッスンを受け、トランペットも少々演奏する。早くからロック・バンドでドラムの演奏を始めて、『Miles Smiles/マイルス・デイヴィス』のLPを手に入れたのがきっかけで、ジャズへの興味がわいた。

 

「多分8年生か9年生の頃(日本の教育制度では中2か中3)、ロック・バンドをやっていたんだ。バンド仲間は皆2-3才年上でね、メンバーの一人が、このレコードを好きじゃないからと言って、僕に1ドルで売ってくれた。マイルス・デイヴィスは聞いたことがあったので興味が湧いた。何をやってるのかさっぱり理解できなかったから。でも、そのレコードのサウンドに圧倒されてしまったんだ!」

 

’70年代初め、ボストンのハーヴァード大在学中、ドラマー、ビリー・ハートと親交を持ったことから、タナのジャズ・パーカッションへの興味が生まれた。ハートは、バークリー音楽院で教えるベテラン・ドラマー、アラン・ドウソンに師事するように勧め、アキラは彼の言葉に従い、1年半の間、ドーソンの元でしっかりと研鑽を積んだ。彼から叩き込まれたテクニックと練習方法は、現在に至るまで、後進の指導と自分自身が演奏に活用し続けている。

1974年、ハーヴァード大学を卒業したタナは、ニューイングランド音楽大学に入学、クラシック音楽の打楽器に関する基礎知識をしっかりと見に付けた。それと同時に、出来る限りギグに勤しんだ。

combatzone1.jpg「僕は、管弦楽の打楽器の学習に時間の大部分を費やし、その傍ら、生活費を稼ぐためにありとあらゆるギグをこなした。ボストンの”コンバット・ゾーン”(ボストンの赤線地帯)と呼ばれる赤線地帯でストリップの伴奏もやったよ。ストリップ小屋ではオルガン・トリオを使っていたからね。」

 

  ’70年代半ばから終わりにかけてのボストン時代、アキラはドラマーのキース・コープランドと親交を結んだことがきっかけで、単発で、ジャズの名手たちとの共演が始まる。共演者の中には、名歌手、ヘレン・ヒュームズが居た。

タナは当時を回想する。-「彼(コープランド)が(引き受けていたのに)都合の悪くなったギグは、それがどんな仕事であっても、僕に代役を回してくれた。その中の一本がヘレン・ヒュームズ(vo)で、バックがメジャー・ホリー(b)、ジェラルド・ウィギンズ(p)というメンバーだった。」

 他にも、ソニー・スティット(ts.as)やミルト・ジャクソン(vib)といった大物達にリズムを提供する仕事があった。その中でもスティットとの1週間に渡るギグは特に思い出が深い。

sonnystitt.jpg 「ソニー・スティット!いつも彼はかなり酔っ払っていた。ベーシスト のジョン・ネヴスは、ソニーと同世代だが、ピアノのジェームズ・ウィリアムズと僕は、ずっと若造だった。そのせいかもしれないが、ソニーは演奏中に、何度か僕とジェームズの方へ振り返って、どなりつけたんだ。当然だけど、震え上がったよ。まず彼の才能のすごさ、そして彼の振る舞いにね。でも、ジョン・ネヴスはさすがに、そういう時はどうすればいいかを知っていた。『つけ込まれたら、やり返せ!』だね。それでソニーにこう言ってくれた。『ギャーギャー言わずに、プレイしろ!』するとソニーは彼の言う通り怒鳴るのをやめて、前を向いてひたすらプレイしたんだ。」

 

アキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。(続く)

39thlogo.jpg39周年記念ライヴ5/3-5/5開催

ご無沙汰です!ブログ復活

39thlogo.jpg ご無沙汰しています。

 家業と家事と翻訳、3月のトミー・フラナガン・トリビュート…仕事の合間に、ちょっとゆっくりしていたら、あっという間に半年が経過していました。

休載している間も、既刊の記事にコメントいただき、本当にありがとうございました。

 体調と相談しながらぼちぼちとリスタートしていきますので、宜しくお願い申し上げます。

Jazz Club OverSeasも、今年で開店39周年、5月の連休5/2-5/5に記念ライヴを開催します。

初日は、巨匠ドラマー、アキラ・タナ、そして寺井尚之の爆笑スタンダード集、最終日は、OverSeasが誇る中井幸一クインテットによるJ.J.ジョンソン特集という、超おすすめの3日間です。

 旅行で大阪に立ち寄られる皆様、旅行に行かない大阪の皆様、ぜひこの機会にご来店宜しくお願い申し上げます。

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 詳細はhttp://jazzclub-overseas.com/GW_jazz__events_2018.html

トリビュート・コンサートの前に:「トミー・フラナガン語録」

 土曜日はTribute to Tommy Flanagan=トミー・フラナガン追悼コンサート開催!

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 2001年11月16日にトミー・フラナガンが亡くなって以来、誕生月3月と逝去月11月に行なってきたトリビュート・コンサート、早いもので31回目となりました!

 トミー・フラナガンを一途に敬愛する寺井尚之(p)と宮本在浩(b)、菅一平(ds)のメインステム・トリオが精魂込めて演奏する名演目の数々。

 トミー・フラナガンがお好きな皆様も、まだ聴いたことのない皆様も、ぜひ一度トリビュート・コンサートに来てみてくださいね。

  OverSeasでは、毎月第二土曜に、トミー・フラナガンのディスコグラフィーを年代順に解説する講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」を続けています。  今回は、講座の下調べに使った様々な書物から、トミー・フラナガンの名言をピックアップ。数々の名盤に参加し、名伴奏者の誉れ高いトミー・フラナガン。歴史的レコーディングの一翼を担ったフラナガンの深い言葉の数々、トリビュート・コンサートのウエルカム・ドリンク代わりにどうぞ!

「サイドマン稼業:’50sを回想して」

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 「サイドマンのほうがずっと気楽に録音の仕事が出来る。…だが’50年代にやった多くのレコーディングはそれ程簡単ではなかったがね、何故なら頭の中で全部アレンジしなければならない。イントロもエンディングも考えて、自分のソロの心配までしなくちゃならない。だが演奏に没頭できて、自分にとっては良い時代だった。トップミュージシャン達の共演が目白押しで、凄い量の演奏をこなした。それで毛がごっそり抜けちゃったんだよ。(笑い)

   リハーサルなんて殆どないさ。録音の場で全てが行われ、大抵が1セッションだった。今と大違いだ。ミュージシャンのアドリブ重視のポリシー(フラナガンがSロリンズの『サクソフォン・コロッサス始め多くの歴史的名盤に参加したレーベル、Prestigeの謳い文句)なんて関係ない!予算の問題だ。潤沢な予算のある録音の見込みなどないとわかっていたしね。(笑)

  製作側も、完璧なサウンドを要求することは、あまりなかったんだ。例えば、「どこまで完璧にソロを録音するか」といった目標はなかった。今じゃ気にいらないところは編集でカットできるが、その頃の録音は、ミスも何もかも全部聞こえてしまう。だが当時はその方が好きだった。

=若いときから頑固者=
Collector’s Items / Miles Davis (Prestige ’56)

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  『コレクター・アイテムズ』は、マイルス・デイビスとの共演だ。<ノー・ライン>と<ヴィアード・ ブルース>というブルースを2曲と、デイブ・ブルーベックのバラード<イン・ユア・オウン・スウィート・ウエイ>を録音した

 トミー・フラナガン:「録音は私の誕生日だった。26才の誕生日、3月16日だ。マイルスはコルトレーンやフィリー・ジョー・ジョーンズとクインテットを結成する以前、デトロイトに数年間住んでいたんだ。(麻薬中毒治療のため)

  その時期、デトロイトにあるクラブ《ブルーバード・イン》で彼と共演していた。私は、ビリー・ミッチェル(ts)がリーダーのハウス・バンドの一員で、マイルスは、そこにゲストとしてで数ケ月入っていた。

  それは、マイルスは自分を立て直そうとしていた時期で、当時はチャーリー・パーカーの共演者として有名だった。… 

  そういうことがあって、私にお呼びがかかったんだ。録音セッションでは、終始いい感じで演奏した。ブルーベックの1曲(In Your Own Sweet Way)以外はね。その曲は変なきっかけで録音することになったんだ。マイルスの尻のポケットにその曲の簡単なコードのメモが入っていた。イントロのボイシングをマイルスが僕に指示したのを覚えているよ。彼は、自分が求めるものを常に正確に把握していたから、僕にこんな感じで囁いた。  (マイルスのしゃがれ声を真似て・・)「’ブロックコードを弾いてくれ。ミルト・バックナー風ではなくて、アーマッド・ジャマールみたいにな。」… でも、私はそういう弾き方が余り好きになれなかったんだ。一方、レッド・ガーランドがその奏法に飛びついた。アーマッドのプレイは大好きだけど、自分は彼のように弾きたいとは思わなかったんだ。」

=Saxophone Colossus / Sonny Rollins (Prestige ’56)=
ホーキンスの次に好きなサックス奏者

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 質問:歴史的名盤『サクソフォンコロッサス』でソニー・ロリンズと共演された時、スタジオ内にエクサイティングな雰囲気はありましたか?

 トミー・フラナガン:「演奏曲がエクサイティングだったかどうかは覚えていない。ただ、ソニー・ロリンズとレコーディングで共演することで私は興奮していた。コールマン・ホーキンスを別にすれば、ロリンズは私が当時最も好きなサックス奏者だったから。

質問:<ブルー・セブン>が絶賛を受け、その後のロリンズは一時引退しましたが、それについて、あなたは困惑されましたか?

 トミー・フラナガン:「全然!ソニーはほとんどシャイといっていい人間だったからね。だから音楽からも、バンドスタンドからも離れた。彼をインタビューに引っ張り出そうとしても凄く難しいと思うよ。彼はステージでも、イナイナイバーみたいに顔を隠して上がるくらいシャイな人だった。聴衆に余り近付きたがらなかった。

 まあ、あれほど素晴らしいミュージシャンなのだから、例え<ブルー・セブン>が絶賛されても、どうってことはないさ。(笑) 実際の彼はあの演奏よりもっとすごいのだから。

=The Incredible Jazz Guitar / Wes Montgomery (’60)=
西洋音楽の教義に縛られないミュージシャン

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  トミー・フラナガン:「ウエスの噂はよく聞いていた。レコーディングする前から伝説的存在だった。ピックを使わずに親指だけでプレイするギター弾きとして、噂は良く聞いていた。コーラス毎に次々とコードを付けをして、同じ事は二度と繰り返さないとね。このセッションでも、彼は正にその通りだった。それほどインクレディブルだったんだ。

  録音でのウエスは、噂に聞いていたことは全て実際にやってのけた。それにもかかわらず、ウエスは自分の腕前についてとてもシャイなところがあった。

 『Wow! 凄いや!もう一度聞いてみようよ!』『Wow! 本当に君が弾いてるのかい!信じられない!』…そんな風に誉められるのを嫌がった。自分の超絶技巧やプレイについて話をしたがらなかった。

   おかしな奴だった。「譜面が読めない」という理由だけで、自分を良いミュージシャンだと思っていなかった。読めないミュージシャンには良くあることなんだ。素晴らしいミュージシャンなのに、読めないからといって、自分を卑下してしまう。エロール・ガーナーもその一人だ。彼等は言わばその分野の第一人者なのに!だって殆どのミュージシャン達は西洋音楽を勉強し、理論に束縛される。アカデミックな教義に縛られていないというのは、素晴らしい事なのに。

=Giant Steps / John Coltrane (Atlantic ’60)=
ジャイアント・ステップスは録音用の曲だった。

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 トミー・フラナガン  「コルトレーンは、”自分の創ったシステムを用いてレコーディングし、成果を挙げたい。”と私に録音コンセプトを説明してくれた。その言葉どおり、彼は“ジャイアント・ステップス”と同種の進行を用い、何曲も録音した。だがその内の何曲かは収録すらされなかった。我々が全く出来なかったからだ。曲のテンポがどれもこれも速過ぎて、到底1セッションで様になるものではなかった。」

 「何故、レコード会社はたった1回のセッションでアルバム一枚全部作ってしまおうとするのかね?理解できないよ。あのようなハードな音楽を1日8時間もぶっ続けに演るのは、死ぬほど大変なんだ。それに自分のやっていることをきちんと把握していなければ命取りだ。勿論、トレーンはちゃんとわかっていたがね 。」

 「私はコルトレーンが“ジャイアント・ステップス”をライブで演ったのを聴いたことがない。“ジャイアント・ステップス”は録音のための曲だったのだ。彼はそのシステムを他の曲にも応用した。それは少し変則的なもので、おおむねマイナー7th~メジャー7th~メジャーとつながる。つまりメジャー~メジャー~メジャーという音楽をやろうとしたのだろう。

 「そういう音楽は演奏者の考え方を変えてくれる。考えを変えないと演奏できないからだ。もし自分に用意ができていなかったり、テンポが早すぎれば考えることすらできない。”ジャイアント・ステップス”とはそういう音楽なんだ。演奏者をエキサイトさせてくれる。そしてトレーンに“OK,おまえもなかなかやるな!“と言ってもらえれば、なおさらだ!」

 トミー・フラナガンは無口な人でしたが、時たま、外交辞令以上のドキっとするような発言が様々な文献に残っています。今回のエントリーは、”Jazz Spoken Here”(Wayne Enstice, Paul Rubin共著)と ”Jazz Lives”(Michel Ullman著)を参考にしました。どちらも、ジャズ講座準備の際、ジャズ評論家、後藤誠先生にお借りしたもの。後藤先生、ありがとうございます!

 ウエス・モンゴメリーを「アカデミックな教義に縛られない」アーティストという発言が出てきます。ヨーロッパ西洋音楽に対するフラナガンの複雑な思いは、トリビュートで聴くデューク・エリントン音楽や、トミー・フラナガンのブラック・ミュージックへの憧憬とリンクしていきます。

 では土曜日のトリビュート・コンサート、寺井尚之メインステムの演奏をお楽しみに!

CU

祝ジミー・ヒース91才-録音の思い出

  Jimmy-Heath-e1373743674277-684x384.jpg 私たちが敬愛するテナーの巨匠、ジミー・ヒースは1926年生まれ。若き日は、チャーリー・パーカーの再来という意味で「リトル・バード」と呼ばれ、ディジー・ガレスピー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス達と関わりを持ちながら、ジャズの歴史を大きく動かしました。最高にヒップでスマートな巨匠も今年の10月25日に91才。
 OverSeasで行なったヒース・ブラザースのコンサートの素晴らしさは一生忘れることはありません!
寺井尚之のいかなる音楽的質問にも速攻で答えてくれる超ハイIQ、威張らず気取らず、それでいてオーラ溢れる天才音楽家です!

 「ジャズタイムス」電子版7月号に、リーダーとして、サイドマンとして参加した様々な名盤にまつわる非常に興味深いエピソードが掲載されていました。ジミーの奥さん、モナ・ヒースさんが「天才ミュージシャンは、何故か子供みたいなところがあるものなのよね。」と、私にこっそり話してくれたことがあります。それは決して自分の旦那さまの自慢話として語った言葉ではないのですが、このインタビューの端々に、モナさんの言葉が思い出されました。

☆日本語訳にあたり、ジミー・ヒースの優秀な生徒であったベーシスト、Yas Takedaに助言をいただいたことを感謝します。

=リトル・バードは語る=
聞き手:By Mac Randall 原文サイト:  https://jazztimes.com/features/a-little-bird-told-me/ 

1.Howard McGhee/Milt Jackson

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Howard McGhee and Milt Jackson
 (recorded 1948, released 1955 on Savoy)

McGhee, trumpet; Jackson, vibraphone; Heath, alto and baritone saxophones; Will Davis, piano; Percy Heath, bass; Joe Harris, drums

 

 バグス(ミルト・ジャクソン)とは多くのアルバムで共演していて、これが最初のアルバムだ。私が21才当時、一緒に仕事をした内で一番の大物がハワード(マギー)だった。彼のほど名前の知れた名プレイヤーと共演したのは初めてだった。彼はカリフォルニアのビバッパーだ。この録音の前に、シカゴの《アーガイル・ショウ・ラウンジ》で何度か共演したが、店のオーナーがギャラとして支払った小切手は未だに換金できていない。文句を言う為に店に戻ったら、そいつはコートのボタンを外して、拳銃をちらつかせた。それがハワード・マギーとの共演で一番の思い出かな…

私のことを”リトル・バード”と呼び始めたのがハワード(マギー)とバグス(ミルト・ジャクソン)だ。その当時、私はまだアルトを吹いていて、何とか師と仰ぐチャーリー・パーカーのようにプレイしたいと必死だった。まあ、その頃は私だけでなく、誰でも、そう思って頑張っていたのさ。バードは皆を夢中にさせたからね。だから、ハワードとバグスは、”リトル・バード”というニックネームを私に付けることによって、リスペクトを示してくれたわけだが、おこがましい名前だったと自分では思っている。確かにバードならではのフレーズやお決まりのプレイを身に着けてはいたけれど、まだまだビバップ・スタイルを目指すスタート地点に立っていただけさ。他に、このバンドで覚えていることは余りないね。バンドが長続きしなかったことだけは覚えている。このセッションは’48の2月に行われたもので、同じ年の5月に、ハワードと一緒にパリへツアーしたが、ミルトは同行しなかった。

2.Kenny Dorham Quintet

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Kenny Dorham Quintet (Debut, 1954) 


Dorham, trumpet and vocal; Heath, tenor and baritone saxophones; Walter Bishop, piano; Percy Heath, bass; Kenny Clarke, drums

   ケニーは僕の大好きなトランペット奏者であり、大好きな共演者でもあった。私は彼のアレンジするオーケストレーションやオリジナル作品も非常に気に入っていた。ケニー・ド-ハムとタッド・ダメロンは、ビバップ世代に於ける偉大なるロマン派作曲家だと思う。

 最初の’48年のハワード・マギーのセッションでは何曲かバリトンを吹いている。それが私のバリトン・サックスでの初録音だ。ケニーとの本作も、バリトンを演奏している数少ない作品だね。 “Be My Love”で、ケニーにバリトンを吹いてほしいと頼まれてね、なにしろ身長が160㌢しかないものだから、(大型の)バリトン・サックスの演奏依頼はしょっちゅうあるわけじゃなかった。楽器が大きすぎるんだよ!バリトンを吹いたセッションは確か3回だけだよ。スリー・ストライクでアウト!ってところだ。

3.The Jimmy Heath Orchestra

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Really Big! (Riverside, 1960)

Heath, tenor saxophone; Nat Adderley, cornet; Clark Terry, flugelhorn and trumpet; Tom McIntosh, trombone; Dick Berg, French horn; Cannonball Adderley, alto saxophone; Pat Patrick, baritone saxophone; Tommy Flanagan and Cedar Walton, piano; Percy Heath, bass; Albert Heath, drums

 これは「初リーダー作」というわけではないが、大編成のバンドを率いた初めてのレコーディングだった、十人編成だから殆どビッグ・バンドと言える。

 私は、自分が惚れ込んだ楽器、つまりフレンチ・ホルンと一緒にレコーディングをしたいと思った。フレンチ・ホルンがアンサンブルにしっくりと溶け込む感じが好きでね、これ以来何枚かのアルバムでこの楽器を使った。フレンチ・ホルン奏者のディック・バーグを入れてブラス四管、リード三管の編成にし、クラーク・テリー(tp.flg.)にリードを取ってもらった。クラークはこう言ってくれた。「お前さんのレコードなら、いつだって、どんな録音でも、ユニオンの最低賃金で出演させてくれ!」彼は当時すでに、相当なビッグ・ネームだったから、この言葉は私にとって非常にありがたく恩義に感じた。彼のような大物が、私の音楽を気に入ったというだけで、最低のギャラでいいと言ってくれたのだから。彼のプレイは本当に素晴らしくて、私はすっかりノックアウトされてしまったよ。

 このアルバムでは、編曲の段階で少し行き詰まってしまってね、ボビー・ティモンズの曲-”Dat Dere”はトム・マッキントッシュにアレンジしてもらった。彼はトロンボーンの名手だが、作編曲の腕前も同じくらい素晴らしい。バリトンを担当したのはパット・パトリック、元マサチューセッツ州知事、デヴァル・パトリックの親父だよ。録音セッションで、彼が私にこう言った。「この世に長いこと居れば、年月を経た重み(long gravityが備わるものさ。」 そして、後に私は、この言葉を自作曲のタイトルにした。-”Long Gravity”はヒース・ブラザースのテーマソングになったよ。

4. Jimmy Heath Quintet

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On the Trail (Riverside, 1964)

Heath, tenor saxophone; Kenny Burrell, guitar; Wynton Kelly, piano; Paul Chambers, bass; Albert Heath, drums

 

 

 私は、コルトレーンの後釜として、1,2ヶ月間、マイルスと共演していたことがある。バンドはキャノンボール(アダレイ)、ウィントン(ケリー)、ポール(チェンバース)、フィリー・ジョー・ジョーンズというすごい顔ぶれで、たまげたよ。ほどなく、この連中がオリン・キープニュース(Riversideレコードのプロデューサー)を説得して、私に専属契約を結ばせた。「コルトレーンがBlue Noteの専属になったからには、Riversideはジミー・ヒースを獲得しておくべきだ!」と言ってね。だから、Riversideでリーダー作の録音が始まると、彼らに参加してもらって恩返しをしようと思った。特にウィントン(ケリー)ならではの三連符が欲しかった。いみじくも、フィラデルフィアの友達は、彼のソロのことを「涙の粒で出来ている。」と評したが、私も全く同感だ。まさにピアノから涙がポロポロこぼれているようなんだ。

On the Trail 』には、〈Vanity〉というバラードを収録している。これはサラ・ヴォーンのヒット曲でね、コルトレーンも私も、彼女のバラードを聴くのが大好きだった。後になって、この曲を作曲したバーニー・ビアーマンに会った。百歳以上長生きした人なんだが、私の録音した〈Vanity〉にノックアウトされた!と言ってもらえた。

〈On the Trail〉を愛奏するようになったきっかけは、ドナルド・バードとの共演だ。彼が編曲したものを、アルフレッド・ライオンのプロデュースでBlue Noteに録音する予定だったんだが、ドナルドとアルフレッドの間にいざこざがあり、ドナルドが録音をやめてしまったんだ。それなら、私がこのアレンジでレコーディングしよう、ということになった。皆は私の編曲だと思っているが、ガブリエル・フォーレ作〈パヴァーヌ〉のラインを取り入れたこのアレンジは、ドナルドのものなんだ。そのラインは元々ギターのパートではなかったんだが、私のレコーディングではケニー・バレルが弾いているので、そこは私のアイデアのようだな。

5. Ray Brown/Milt Jackson

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Ray Brown/Milt Jackson (Verve, 1965)


Big-band session including Brown, bass; Jackson, vibraphone; Heath, tenor saxophone; Clark Terry, trumpet and flugelhorn; Jimmy Cleveland, trombone; Ray Alonge, French horn; Phil Woods, alto saxophone; Hank Jones, piano; Grady Tate, drums; arranged and conducted by Heath and Oliver Nelson

 このアルバムは私とオリヴァー・ネルソンが半分ずつ編曲を担当している。何故か、オリヴァーがフル・バンドの編曲を担当しているのに、私は10人編成のスモール・バンドでアレンジ依頼されていたのだとは知らなかった。気づいた時は「くそっ!騙された!」と思ったよ。そして、オリヴァーは自分のオーケストレーションに、常に半音をぶつけるハーモニーを使うことを主張した。そうすると耳触りの良いハーモニーになる。しかし、それがミルト・ジャクソンを大いにイラつかせた。バグス(ミルト・ジャクソン)は絶対音感の持ち主だから、二度マイナーに撹乱される。「EなのかFなのか?一体どっちなんだ?はっきりしやがれ!」って感じだ。後になって彼は言ったよ。「なあ、バミューダ(彼は私をこう呼んでいた。)俺はオリヴァーより、お前がアレンジした譜面の方がずっと好きだ。」ってね。

 ここには、〈Dew and Mud〉というオリジナルが収録されている。マイルス(デューイ-)デイヴィスとマディ・ウォーターズに捧げて書いた曲で、マイルスがよくトランペットで吹いてたマディ・ウォーターズのフレーズで始まってる。このアルバムではクラークがソロを取っていて…Oh, Yeah! もう最高だよ。いいレコードだな!

 ミスター・レイ・ブラウンは大好きだよ。最初に会ったのは1945年だ。ネブラスカ州のリンカーンで、私はナット・キング・コールと一緒に仕事をしていた。そこで我々は彼の引き抜きを画策したが、ディジー(ガレスピー)の楽団で仕事をしていることが判り、断念したんだ。このアルバムにはグラディ・テイト(ds)も参加している。私は彼のことを”Gravy Taker(おいしいところを取ってしまう奴)”と呼んでいた。彼は全くありとあらゆるギグで演っていたからね。

6.Art Farmer Quintet

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The Time and the Place (Columbia, 1967)


Farmer, flugelhorn and trumpet; Heath, tenor saxophone; Cedar Walton, piano; Walter Booker, bass; Mickey Roker, drums

 

 このアルバムでは、スタジオ録音と、残りはNYの近代美術館(MoMA)での演奏だ。〈いそしぎ〉をプレイした事を覚えているよ。母親が好きな曲だったので、よく演奏していたんだ。それに、私のオリジナル〈One for Juan〉も収録されている。コロンビア・コーヒーのコマーシャルに登場する農夫、フアン・ヴァルデスから名付けたんだ。「最高のコーヒーは南米だ!」って言うんだけど、私が最高だと思うのは、コーヒー豆とは違うものなんだがね(笑)

 アート・ファーマーの話をしようか。彼は、例えギグで赤字になったとしても、サイドメンにはきっちりとギャラを払う男だった。「クラブが君を雇ったわけじゃない。僕が君を雇ったんだから。」と言ってね。そういう人間だったよ。彼がヨーロッパ各地の様々な仕事場の住所を教えてくれたおかげで、私はその住所宛に手紙を書きさえすれば、仕事が取れた。そこに飛んで行って、3、4週間、行く先々で、現地のリズムセクションと共に、良い演奏ができた。いい奴だったな!アートのために曲を書き送れば、すぐさま録音してくれたよ。コード・チェンジを深く読みこなし、ほとんど完璧なソロを取った!私の経験から言えば、大抵のミュージシャンは、自分の気に入ったソロを取れるようになるまで、何度か練習するものだが、アートの場合は、音譜を読むように、コードを読みこなすことができた。全くずば抜けた才能だった。

7. Jimmy Heath

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Picture of Heath (Xanadu, 1975)

Heath, tenor and soprano saxophones; Barry Harris, piano; Sam Jones, bass; Billy Higgins, drums

 

 これはヒース・ブラザース結成直前に作ったアルバムだ。私は兄パーシー(ヒース)のプレイが大好きなんだが、モダン・ジャズ・カルテットでジョン・ルイスと共演しているし、クラシック志向が強いんだよ。だから何小節かベース・ランニングさせると、もう、うんざりしてしまう。一方、このサム・ジョーンズは、私がこれまで共演したうちで最もスイングする素晴らしいランニングのできるベーシストだ。彼のランニングは天国まで登っていく!それがこのアルバムにはある。我々は彼を”ホームズ”と呼んでいる。

『ピクチャー・オブ・ヒース』は自分のレギュラー・カルテットでレコーディングした数少ない一枚だ。ただし、ギターの代わりにピアノを入れているんだがね。このようなワン・ホーンでの録音は余りやっていない。何故なら、私は、あらゆる楽器が大好きなんだ。別にテナーだけが好きというわけではない。毎回、テナーが先発ソロで、次にピアノのソロ…そういうのは、私にとっては退屈極まりないことだ。私はフレンチ・ホルンが好きだし、チェロも好き、サックス・セクションもブラス・アンサンブルも、みんな大好きなんだ。なぜテナーだけに固執しなけりゃいけないんだね?まあ、デクスター(ゴードン)、ソニー(ロリンズ)、(ジョン)コルトレーンといった多くのミュージシャンは、確かにテナー・サックス一筋で名声を築いたんだが。トレーンが私のビッグ・バンドに在籍中に編曲した”Lover Man”が素晴らしい出来だった。「このアレンジは最高だ!とても気に入ったよ。こんな感じであと何曲か書いてくれないかい?」と頼んだら、彼はこう答えた。「いやあ…ジム、そんな暇はない。楽器の練習だけで精一杯だから。」やっぱり、私とは考え方が違っていたんだなあ。

8. The Heath Brothers

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Marchin’ On (Strata-East, 1975)


Heath, tenor and soprano saxophones, flute; Stanley Cowell, piano and mbira; Percy Heath, bass and “baby bass”; Albert Heath, drums, flute and African double-reed instrument

 

 これは、ヒース・ブラザースのデビュー・アルバムだ。ちょうどスタンリー・カウエルがチャールズ・トリヴァーと一緒に”ストラータ・イースト”というレコード・レーベルを創設し、我々にレコーディングを依頼してきた。ヒース・ブラザースは家族のバンドなんだが、そこにスタンリーを義兄弟として招き入れた。だってスタンリーは凄いと感服していたからね。まあ、私たちにとって、少し毛色の変わったレコードだ。ノルウェイ、オスロでのツアー中の録音だ。この時代は、列車でヨーロッパ中をツアーしたものでね、兄のパーシーはボディがチェロと同じ形状のベース(ベビー・ベース)を、ツアーに持参していた。これはレイ・ブラウンが考案した楽器だ。列車の中で、パーシーがベビー・ベース、弟のトゥティ(アルバート・ヒース)と私がフルート、スタンリーがカリンバ(手のひら大の小箱にオルゴールのように並んだ金属棒を弾いて演奏するアフリカ生まれの楽器)を手にして演奏すると、乗客達がやってきて耳を傾ける。そうやって、次の国へと移動した。車中の私たちの演奏は、室内楽のグループのようで、たいそう喜ばれた。だから、そういうサウンドをこのアルバムに収録しようと決めたのさ。

〈Smilin’ Billy Suite〉は、この『Marchin’ On』のために書いた曲で、ビリー・ヒギンズに捧げたんだ。彼はいつも笑顔で、周囲をみんなも笑顔にしてしまう。ビリーのタイム感はまさに完璧だ。決して大きな音で叩かずに、聴くもの心に響くドラミングをした。後になって、ラッパーのナズが(1994年のアルバム『イルマティック』に中の〈One Love〉というトラックに)この組曲の一部をサンプリングして使っている。おかげで、私達のグループが新しい世代に注目されるようになったのはいいことだった。

Marchin’ On』の録音後、私たちはCBSに移籍した。それは重要な節目の時期だった。初めてオーバーダビング技法を使ったのもこの頃だ。私の息子、ムトゥーメをバンドに入れて共演したし、グラミー賞にもノミネートされた。新譜を発表する毎に、前作より好セールスを記録した。『Then Expressions of Life』(’80)は4万枚売れて、このバンドの最高記録だ。そして、会社は我々をクビにした!・・・仕方ない。私たちがいくら売れたと言っても、ビリー・ジョエルやマイケル・ジャクソンは数百万枚売るのだから相手にならないさ。

9. Jimmy Heath

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Little Man, Big Band (Verve, 1992)


Big-band session including Heath, tenor and soprano saxophones; Lew Soloff, trumpet; Jerome Richardson, alto saxophone; Billy Mitchell, tenor saxophone; Tony Purrone, guitar; Roland Hanna, piano; Ben Brown, bass; Lewis Nash, drums

 

 ’47,’48年当時は、ビッグ・バンドのサウンドが大好きでね、これはその時代への回帰であると同時に、ビッグ・バンドでの初リーダー作だ。サックス・セクションが凄い!リード・アルトがジェローム(リチャードソン)だし、長年の盟友、ビリー・ミッチェルも入っている。それにトニー・(ピュロン)がギターだ。ヒース・ブラザースに在籍していたときから、私は彼にぞっこんなんだ。彼はバグス(ミルト・ジャクソン)のように絶対音感があり、望むままに、どんなキーでも演奏できる。これは私がとても誇りに感じているアルバムだ。

 私は自分の好きな人達に捧げて作曲するのが大好きで、この『Little Man, Big Band』にもそういう曲をたくさん収録した-ジョン・コルトレーンに捧げた〈Trane Connections〉、ソニー・ロリンズへの〈Forever Sonny〉、私の師であるディジー・ガレスピーへの〈Without You, No Me〉、そしてコールマン・ホーキンスへの〈The Voice of the Saxophone〉、ホーキンスは私がハワード・マギーとパリにツアーした時の看板スターだった。

10.The Jimmy Heath Big Band

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Turn Up the Heath (Planet Arts, 2006)

Big-band session including Heath, tenor saxophone; Terell Stafford, trumpet; Slide Hampton, trombone; Lew Tabackin, flute; Antonio Hart, alto and soprano saxophones, flute; Charles Davis, tenor saxophone; Gary Smulyan, baritone saxophone; Jeb Patton, piano; Peter Washington, bass; Lewis Nash, drums

 

 ジェブ・パットン(p)はクイーンズ・カレッジの教え子で、ここ16年間ヒース・ブラザースのレギュラー・ピアニストだ。私たちは彼が本当に大好きなんだ。アントニオ・ハートも私の生徒だよ。そしてチャールズ・デイヴィスとは実に長い付き合いだ。彼にこう言ったことがある。「お前がソロを取っている最中に、バンドが入ってくる、それが最終コーラスの合図だから、そこでソロを終わってくれ。」しかし、チャールズはソロを止めなかった・・・私は彼にLPCDというあだ名を付けてやった。つまり「ロング・プレイング・チャールズ・デイヴィス」の略だ!それから、ずっと昔に作ったオリジナル〈Gemini〉では、ルー・タバキンがフルートでソロを取っている。彼のことは「噛みタバキン(Chew Tobacco)」と呼んでいる。だって、彼がテナーをプレイするときに、まるでリードを噛み噛みしているように見えるからさ。こんなふうに、私は誰彼なしに、皆にあだ名を付けてやるんだよ。(笑)

 

本国メディアで絶賛されたアキラ・タナの『音の輪』

   OverSeaが大好きなドラマー、アキラ・タナが、今年も日系人スーパー・バンド『音の輪』を率いて今年も来日ツアーを行います。ツアー・スケジュールはこちら

  アキラさんの”日系米人によるジャズ・ユニット”というコンセプトは、今から25年前、ケイ赤城(p)と、アキラさんの音楽的パートナーであるルーファス・リード(b)と組んだ『アジアン・アメリカン・ジャズ・トリオ』(1992)のアルバム〈サウンド・サークル〉に芽生えていました。そこから約20年後、東北大震災が起こり、被災地復興のために努力したいという気持ちから、特別編成のバンドを組み、地元サンフランシスコで開催したチャリティ・コンサートが大好評を博したのを機に、アキラさんが抱いていた音楽コンセプトは大いに発展を見ることになりました。

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 『音の輪』(左から)マサル・コガ(reeds), アート・ヒラハラ(p), アキラ・タナ(ds), ケン・オカダ(b)

  サンフランシスコの日系人コミュニティの後押しで、『音の輪』を率いて2013年から始めた『東北応援ツアー』と銘打った被災地でのチャリティ・コンサートやクリニックは、現地の方々に毎年親しまれ、今年も9月末から福島県いわき市を皮切りに福島、岩手、宮城の被災地だけでなく関西での一般公演も各地で予定されています。 

 継続は力なり!アキラ・タナのリーダーシップの元、マルチ・リード奏者、マサル・コガ、ピアニスト、アート・ヒラハラ、ベーシスト、ケン・オカダという名手を擁し、レギュラー・バンドでしか叶わない、ソリッドで心のこもった『音の輪』ならではのプレイは、ジャンルを越えて聴く者の胸を打つ力があります。 

 これまで『音の輪』は2枚のアルバムを発表していますが、昨年リリースされた〈Stars Across the Ocean〉は、ダウンビート誌で大きな評価を受けました。選者は、NPRのジャズ番組のプロデューサー、NY大学で教鞭をとるジャズ評論の大家、ハワード・マンデル氏!アメリカ人評論家が感動したジャパニーズ・アメリカンな『音の輪』の世界。日本語に訳したので、ぜひご一読ください。

 

otonowa_stars_across_the_ocean.jpgダウンビート誌

2017年4月号より(原文はインターネットでも読めます。

AkiraTana and Otonowa
Stars Across The Ocean
SONS OF SOUND037 
★★★★

 

Stars Across The Ocean』は、日系ベテラン・ドラマー、アキラ・タナ率いるカルテット”音の輪”による、東日本大震災(2011)被災地復興支援を目的とした第二作目のチャリティー・アルバムだ。

 洗練された表現で魅せるポスト・バップから、日本の民謡、歌謡曲、そして仏教由来の旋律を、心を込めて様々にアレンジしたヴァージョンまで、幅広い内容となっている。それぞれの曲は、バンドの強力な一体感によって、津波の悲劇に対する献辞とも感じるが、そのような経緯を知らないリスナーでも、充分に楽しめる作品だ。アルバム全体にはメランコリーなムードが漂うものの、”音の輪”の音楽的な主眼は、モダンジャズの伝統をしっかり踏まえつつ、しなやかさと明瞭さを持って、いかなる素材も秀逸にこなす点に置かれているようだ。

強靭で熱く、それでいてカラフルな光彩を放つタナのドラミングに推進されたピアノのヒラハラは、ソロを取っても、バックに回っても、十二分に実力を発揮し、気合の籠ったプレイを繰り広げる。マルチ・リードのマサル・コガは、どの楽器を取っても名手の域に達する逸材、特にソプラノ、アルト、テナーの三管が素晴らしい。ジョン・コルトレーンの影響がみられるが、端正なフレージングとほとばしる情熱は、彼ならではしっかりした個性がある。ベーシスト、ケン岡田も、タナと息の合った手堅いプレイを聴かせている。

また、本作ではジャズにお馴染みの趣向もしっかり堪能できる。例えば〈どんぐりころころ〉の進行は”リズムチェンジ”だし、〈テムジン〉の導入部には〈フリーダム・ジャズ・ダンス〉の片鱗を感じる。そしてタナのオリジナル曲、〈ホープ・フォー・ナウ〉ではアート・ブレイキーを彷彿とさせる強力なドラミングが聴ける。だが、傑出したトラックには、やはり日本のマテリアルが多い。ピアノレスで演奏される童謡〈とうりゃんせ〉とコガの尺八をフィーチャーした〈黒田節〉が出色。そして、古典的TVアニメのテーマソング〈鉄腕アトム〉では、非常に深く掘り下げた演奏解釈が思いがけない収穫だ。

評:ハワード・マンデル

 akira_tana_2016.jpgさて、アキラさんの毎回の来演を心待ちにしているOverSeasでは、10月31日(火)に、おなじみの愉快な仲間、寺井尚之(p)と宮本在浩(b)のトリオで、スペシャル・ライヴを開催します。

Akira TANA Live at OverSeas(前売りチケット制)

【日時】10月31日(火) 開場:18:00~
MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:00- /3rd set 21:00- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3500(税抜)
当日 ¥4000(税抜)

 店が狭いので、早めにチケットをお求めください。

翻訳ノート:ビル・エヴァンス「Another Time : The Hilversum Concert」

お久しぶりです。

長らくブログ更新お休みしている間、OverSeasでの仕事と翻訳をしていました。

 8月末にリリースされてから、大きな話題を巻き起こしているビル・エヴァンスの未発表音源「Another Time: The Hilversum Concert」(Resonance Records / キングインターナショナル)日本語ブックレットも、とてもやり甲斐のある仕事でした。

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「世界の発掘男」から、今や世界中のジャズ・ファンがその動向を注目する大物プロデューサーとなった ゼヴ・フェルドマンが放つビル・エヴァンス・トリオ(エディ・ゴメス-bass、ジャック・ディジョネット-drums)の歴史的音源、ジャズ雑誌の巻頭記事や、大手新聞の音楽欄にも紹介されています。(キングインターナショナルのアルバム紹介ページはこちらです。)

 NYタイムズに「コレクターの理想とする”芸術作品としてのアルバム”制作を追求するレーベル」と評されたResonanceが誇る充実のブックレット、今まで何度か翻訳のチャンスをいただいたのですが、関係者やミュージシャンの特別寄稿文やインタビューなど、読み応えのある内容に作り手の熱意がひしひし伝わってきて、翻訳作業もやり甲斐のあるものですが、同時に、原文の素晴らしさ、楽しさを、読んで頂く方にしっかり伝えなければと、身の引き締まる思いです。

 ブックレット翻訳は私だけではなく、いつもキングインターナショナルの関口A&Rディレクターとの共同作業です。今回は特に、ビル・エヴァンスのインタビューが引用されていて、大きな読みどころになっています。英文を日本語にする際には、“I”という一人称でも、「私」にするか「僕」にするかで、大変印象が変わってしまいますから、エヴァンスの話しぶりを、日本語でどのように伝えるべきか、貴重な過去の資料を基に細かい打ち合わせがありました。また本作の録音場所がヒルフェルスムというオランダの都市で、前例のない人名や地名のカタカナ表記は、関口ディレクター自らオランダ王国大使館とタッグを組み、最も言語に近い表記で、さらにわかりやすくエヴァンスが愛したヨーロッパの演奏地の臨場感が出ました。

 そんなわけで、今回は最も学ぶところの多かった翻訳となりました。日本語盤の児山紀芳氏によるライナーノートももエヴァンスの音楽史に於けるこのアルバムの意義が一目瞭然にわかる素晴らしい内容!日本語版ブックレット、名演奏のお供に楽しんでいただければとても嬉しいです!

 

寺井珠重の対訳ノート(50)酒とバラの日々:再考-その2

<酒とバラの日々の源流は>

Paul-Gauguin - Nevermore - 1897.jpg  『Nevermore』ゴーギャン作(1897) ロンドン、コートールド・ギャラリー所蔵 

 〈酒とバラの日々〉ーヘンリー・マンシーニの美しいメロディーにジョニー・マーサーがつけた歌詞は、私にとっては謎、謎、謎だらけ、昔対訳を作った後に見つけた上のヌードのタイトル’Nevermore’は、まさしく〈酒とバラの日々〉の詩の中、唐突に登場する草原の中のドアに記された謎の文字だったのだ。

 エドガー・アラン・ポーの《大鴉》と〈酒とバラの日々〉のキーワードは、ゴーギャンのアートのキーワードにもなっていた!調べてみると、アメリカ人、アラン・ポーの文学は、米国よりも、ヨーロッパでずっと大きな評価を受け、フランスや英国の世紀末芸術、特に象徴主義(Symbolisme)と呼ばれる芸術運動に大きな影響を与えていたのだった。《大鴉》は、最初ボードレールによって仏訳され、マネや「ふしぎの国のアリス」でおなじみの絵本画家、テニエルが挿絵を担当し、何度も出版され、カルト的人気を博したらしい。

 象徴主義(Symbolisme)は、「芸術の本質は”観念”をかたちにして表現するもの」と主張する芸術運動で、先に述べたボードレールや、音楽の世界ではドビュッシーといった人たちが、代表的アーティストと言われています。加えて、〈酒とバラの日々Days of Wine and Roses〉という言葉を創ったアーネスト・ドウソンも、ゴーギャンも、芸術史では、象徴主義のカテゴリーに入るとされている。ゴーギャンはこの作品と《大鴉》の直接の関係を、ゴーギャンは否定しているけれど、パリで開催されたアラン・ポー自身による《大鴉》の朗読会に出席した後、タヒチに渡り、この絵を描いたことは事実として証明されているらしい。

345px-Ernest_Dowson.jpg <デカダン詩人に乾杯>

 前回書いたジョニー・マーサーの作詞の状況を整理してみよう。

〈酒とバラの日々〉は、同名映画のテーマソングとして、まずヘンリー・マンシーニが曲を書き、ジョニー・マーサーが詞をつけた。

 マーサーは、作詞の依頼を受けた時、映画の内容を全く聞かされていなかった。でも、マーサーが、このタイトルの出処を知っていたとしても、 不思議じゃない。〈酒とバラの日々〉という言葉は、アーネスト・ドーソン(Ernest Dowson 1867-1900)という英国の詩人の詩から引用されたものだ。

 ドーソンは英国の世紀末=デカダン文化を代表する詩人。ジャズと縁の深いラクロの背徳小説「危険な関係」やヴェルレーヌの詩集を英訳して初めて英語圏に紹介した翻訳者でもあり、ロリータ・コンプレックスの人でもあった。彼自身、アルコール中毒で、結核を患い、鎮静剤の過剰摂取のために三十代半ばで亡くなっています。

 じゃあ〈酒とバラの日々〉の先祖となるドーソンの詩を訳してみることによう!詩のタイトルはラテン語で、紀元前1世紀(!)に活躍した古代ローマの詩人、ホラティウスの詩句からの引用だった。詩の世界はジャズよりもずっと長い間、引用が繰り返されるんだなあ…

Vitae summa brevis spem nos vetat incohare longam

儚い人生は、我らに希望を持ち続けることを許さない

 

They are not long,
 the weeping and the laughter,

Love and desire and hate;

I think they have no  portion in us after

We pass the gate.

長続きはしない、
 涙も笑いも、 
 恋も欲望も憎しみも;

我は思う、
一旦、門を通り過ぎれば
それらは心から消えるものだと

 

 

 

They are not long, 
 the days of wine and roses,

Out of a misty dream

Our path emerges for a while,
 then closes

Within a dream.

長続きはしない、
 酒とバラの日々、

もやのかかった夢の中から、

暫らくの間、我らが共に歩む道は現れ、
 そして閉ざされる
夢の中に。

 

 〈酒とバラの日々〉の中で’Nevermore’と記された「扉=Door」の原型は、ドーソンの詩の中に登場する「門=Gate」だったんだ!

酒とバラの日々は、

鬼ごっこする子供のように、

草原を走り、

閉じ行く扉に向かって逃げ去る―

“もう二度と…”と記された扉は・・・

 

 さらに調べてみると、マーガレット・ミッチェルの小説から映画化された「風と共に去りぬ/ Gone with the Wind」もドーソンの詩句の引用だし、それ以外にもコール・ポーターも彼の詩を元に曲を創っている。さらに、ドーソンが最も愛した詩人は、エドガー・アラン・ポーだった。

 ジョニー・マーサーは、ドーソンや彼の詩をよく知っていたからこそ、この素晴らしい歌詞を創作したのだとしか思えないのです。例えば〈How High the Moon〉の進行を元に、チャーリー・パーカーが〈Ornithology〉を、ジョン・コルトレーンが〈Satellite〉を創ったように…19世紀のデカダン詩人の作品を元に、全く新しい歌詞の世界を創ったマーサー恐るべし。

 <ゴーギャンからダリへ>

Dali-face-door-hall-IMG_5726_Fotor_Fotor.jpg ’Nevermore’の扉に悩みながら、ジョニー・マーサーの伝記を読んでいると面白いことが書いてありました。
〈酒バラ〉を大ヒットさせたアンディ・ウィリアムズも私と同じように、’Nevermore’の意味が判らないと打ち明けて、マーサーに教えを請うたのだそうです。すると、マーサーはこんな風に説明してくれた。

 「比喩的なものなんだ。草原を歩いていると、突如としてドアが出現する。そして文字が書いてある。ドアの向こうは見えるけれど、そこに入ることはできないんだ。」

 マーサーは、ドーソンの時代の象徴主義を、もっとモダンなかたちで表現してみせたのだった。

 Youtubeで見つけた〈酒とバラの日々〉のアカデミー賞授賞式、ジョニー・マーサーのいたずらっぽい、短いスピーチが、そっと種明かしをしてくれているみたいです。

「ミスター・ドーソンよ、美しいタイトルをありがとう、

ミスター・マンシーニよ、美しいメロディーをありがとう。

とにかく感謝します。」

 

 

寺井珠重の対訳ノート(50)酒とバラの日々:再考

 OverSeasの月例講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」が再びエラ・フィッツジェラルドとの名演時代に入り、また色々な「歌」と再会中。 

 皆さんご存知のように、〈The Days of Wine and Roses (邦題:酒とバラの日々)〉は、ヘンリー・マンシーニ作曲、ジョニー・マーサー作詞、半世紀以上前、1962年の映画の主題歌。子供の頃【アンディ・ウィリアムズ・ショウ】というTV番組があって、アンディ・ウィリアムズが、ソフトな声でこの曲を歌ってた。昔は、誰でもが知っているポピュラー・ソングだったけど、今はどうなのかな?

<たった二つのセンテンス>

dayswineroses.jpg 映画〈Days of Wine and Roses〉は、巨匠ブレイク・エドワーズ監督作品。タイトルは19世紀末のデカダン詩人、アーネスト・ソウソンの詩の一節で、原案はTVの90分ドラマだった。

 映画の内容は、幸せなはずの夫婦が、アルコールに溺れ、破綻していく社会派悲劇。’60年代のアメリカは、ビジネス・ランチにマティーニ三杯が当たり前のお国柄、アルコール中毒は、現在のドラッグ同様、あるいはそれ以上に、深刻な社会問題だったのです。

 ブレイク・エドワーズ+マンシーニ+マーサーのコラボは、その前年、オードリー・ヘップバーンの代表作となった『ティファニーで朝食を』で大成功!主題歌〈ムーン・リヴァー〉は映画と共に、今でも愛されるポピュラー・ソングになっている。そしてこの歌も…と、まあ、足跡講座のために歌詞対訳を作ったことがきっかけで、ブログに書いたのは、十年近く前のことだった。 

 エラ&トミー・フラナガン・トリオのライヴ盤『The Lady Is a Tramp』(於:ベオグラード、’71)での〈酒とバラの日々〉は、ヴァンプで盛り上げていくヴァージョン、歌詞をじっくり聴いて、まず面白いと思ったのは、一般的な32小節、A1-B1-A2-B2形式の淡々としたメロディーに沿う歌詞が、16小節ずつ、たった二つのセンテンスで成り立っている、ということでした。

 自然の風が吹くような美しく大らかな響きはジョニー・マーサーの真骨頂、淀みない大河のような言葉の流れや、わざとらしさを感じさせない脚韻、これらをすっきり日本語に置き換えるのはやっぱり無理だ~!

 

The Days of Wine and Roses /酒とバラの日々

Henry Mancini 曲 /Johnny Mercer 詞

The days of wine and roses

Laugh and run away

Like a child at play

Through the meadowland

Towards a closing door,

A door marked “Nevermore,

That wasn’t there before.

酒とバラの日々は、

鬼ごっこする子供のように、

草原を走り、

閉じ行く扉に向かって逃げ去る―

“もう二度と…”と記された扉は、

今までなかったのに。

 

 

 

The lonely night discloses

Just a passing breeze

Filled with memories

And the golden smile

That introduced me to

The days of wine and roses and you.

それは孤独な夜に、

思い出をを連れてくる

一陣の風のいたずら、

あの輝く微笑みが僕にもたらした、

酒とバラ、そして君との愛の日々。

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(アカデミー賞授賞式にて:右‐ジョニー・マーサー、左‐ヘンリー・マンシーニ)

 作詞家、ジョニー・マーサーは、アイラ・ガーシュインはじめ、多くの先輩作詞家たちの尊敬を一身に集めた大巨匠だ。ジャズ・ミュージシャンにとってスタンダード曲の教科書ともいうべき、エラ・フィッツジェラルドの『ソングブック・シリーズ』全8作の中で、作曲家ではなく、作詞家を特集したソングブックはジョニー・マーサー集だけ。それほどマーサーの歌詞は特別だった!

 それは、マーサー自身が、歌詞とメロディーの融合をじっさいに表現でできる素晴らしい歌手だった、ということも「特別」な要素ではあるけれど、それ以上に他の作詞家と一線を画するバックグラウンドがあったから。何故なら、ポピュラーソングの黄金時代を牽引した作詞家の大部分はユダヤ系移民で、目から鼻に抜ける感じのシャープな味わいを身上としていました。トレンディな造語や、シャープなウィット、いかにも大都会NYの香りがする恋愛などなど…一方、マーサーの生まれはジョージア州サヴァナの旧家、先祖はスコットランドまで辿ることができ、彼の系譜には南北戦争の南軍の勇者から、パットン将軍まで、米国の名将がゴロゴロ登場します。そんなマーサーの幼年時代は、豊かな大自然と、彼の世話をしてくれる黒人のメイドの子守歌が満ちていた。夢のような幼年時代から一転、祖父が事業に失敗し、実家は破産、マーサーは大学進学を諦めて故郷を離れるという辛酸を舐めた。後年、名声と財産を得たマーサーは、当時のお金で30万ドルという大金を、祖父の債権者に返済し借金を清算した、といいます。幼年時代の人生の浮き沈みが、こころに滲みる歌の情景を創り出すのかも知れません。なるほど〈スカイラーク〉には胸がキュンとするような、いつまでも見ていたい空の情景が、〈ブルース・イン・ザ・ナイト〉には、ディープ・ブルーな南部の香りがありますよね。

<映画の内容を知らずに…>

JohnnyMererPencilCROP.jpgJohnny Mercer (1909-1976)

 さて〈酒バラ〉に戻りましょう。ジョニー・マーサーは作詞にあたって、マンシーニの曲と、歌と題名をもらっただけ。映画が、どんな内容なのかは、全く説明も受けていなかったと語っている。彼自身がそうだったアルコール依存症がテーマとは思いもつかなかったらしい。「ワインとバラの日々」というお題から、てっきり「バラ戦争」を描く時代劇だと思い込んだんだと語っているけど、はてさて…真実なのかジョークなのか?

 マーサーは、マンシーニ邸で〈The Days of Wine and Roses〉を何度も弾いてもらい、当時、登場したばかりのカセット・レコーダーに録音して家に戻った。帰りの車中、どんな歌詞にしようか、色々と考えてはみたものの、タイトルが長すぎて、全くアイデアが浮かばない。ところが、家に戻り、ピアノのある部屋で壁にもたれて一杯やっていると、ふと最初の16小節のセンテンスが浮かび、残りの16小節も、書き留めるのが間に合わないほど歌詞が溢れてきた!まるで神が僕に代わって作ってくれたようものだ。作詞のクレジットは僕ではなくて”神”としておいてほうがよさそうなほどだった…

 2日後、マンシーニとマーサーは出来上がった主題歌を持って監督に聴かせるために、ワーナー・ブラザーズの撮影所に赴いた。この当時は、スタジオで音源を録音したりぜすに、作者が実際に聴かせていたんですよね。オーディションの場は、撮影現場に近い古ぼけた木造の音楽スタジオで、だだっ広いお化け屋敷か納屋のような気味の悪い場所だった。百戦錬磨の作曲家でありながら、マンシーニは、「ダメ出しされるのではないか?」と不安になるタイプだったようですが、マーサーは、元々一流バンド・シンガーでしたから、堂々たる歌唱を聴かせたそうです。オーディションには、監督のブレイク・エドワーズに加え、主役のジャック・レモンが同席したと、マンシーニは回想しています。―「ジョニー・マーサーは彼の作品だけでなく、誰の作品でも、最高のパフォーマーだ。彼は人を魅了する術をもっていたのだ。私は広大なスタジオでピアノを弾き、ジョニーが、彼の一番良い低音で〈The Days of Wine and Roses〉を歌った。少しかすれ気味の、ジャズ的な抑揚がある声だ。 」

 「プロデューサー達の前で、自作曲を演奏するとき、私は決して彼らの顔を見ないようにしている。少々被害妄想の気味があるのでね。彼らが目に入らないように、肩を向けて演奏した。もちろんジョニーは、彼らの方を向いて歌を聴かせた。エンディングの後、長く重苦しい沈黙が流れた。10秒ほどの沈黙が、私には10分に感じた。その間、私は、ひたすら鍵盤を見つめていたが、とうとう我慢できなくなり、ブレイクとジャックの方を見た。するとジャックの頬に涙が流れているが見えた。ブレイクの目も潤んでいた。もう、彼らに、この歌を気に入ったかどうか、尋ねる必要はなかった…」

<ゴーギャンとダリを結ぶ点と線>

Paul-Gauguin - Nevermore - 1897.jpg

 対訳の上で、私がもうひとつ、気になってしかたなかったのが、最初のセンテンスにる”Nevemore”という言葉でした。英語の詩を読むのが趣味の方なら、エドガー・アラン・ポーの物語詩〈大鴉=The Raven〉をご存知でしょう?恋人を失い、悲嘆にくれる青年の部屋に、一羽の大きなカラスが飛んできて、繰り返し彼にこの言葉を発して、最後には、カラスの言葉によって青年の魂は崩壊してしまう、というミステリアスな詩です。

 前回、対訳したときも、この”Nevemore”をどないして日本語にしようか?”決してない””二度とない””もう終わった”…どないしょう?と色々悩み、今回も悩みました。これからも悩むでしょう。

 それから数年、洋書屋でゴーギャンの画集を立ち読みしていたとき、Nevemore”とカラスをあしらった上の絵に遭遇したのでした。(続く) 

翻訳ノート〈スモーキン・イン・シアトル – ライヴ・アット・ザ・ペントハウス 1966〉

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  4月29日発売以来、ウェス・モンゴメリー&ウィントン・ケリー・トリオが遺した歴史的未発表音源、〈Smokin’ in Seattle Live at the Penthouse〉(Resonance/ キングインターナショナル)が、米国のみならず、各方面で大きな話題を呼んでいます。

 ジャズギターの金字塔アルバム〈Smokin’ at the Half Note〉の僅か7ヶ月後のライヴ録音、ウィントン・ケリーは体調不良で降板したポール・チェンバースに代り、ロン・マクルーアをレギュラー・ベーシストに起用し、ウェス・モンゴメリーと共に9週間のツアーに出ました。この録音はツアー開始後まもなく、シアトルにあった人気ジャズ・クラブ《ペントハウス》から生中継されたラジオ音源を、世界の発掘男と呼ばれる名プロデューサー、ゼヴ・フェルドマンが熱血手腕によってアルバム化したものです。ウィントン・ケリー・トリオ、ウェス・モンゴメリー共に絶好調、理屈抜きにジャズの楽しさとが伝わってきて、’66年の西海岸にタイムトリップしてラジオを聴いているような気持ちになります。

 日本盤に付いている、原田和典さん書き下ろしの、とても判りやすくて興味深いライナーノートは必読! 
 そして《Resonance》の専売特許である貴重写真と豊富な資料の付録ブックレットの日本語訳は、CDに付いている応募ハガキを送るともれなく返送されるという楽しい趣向になっています。日本語版のスペシャル・ブックレットは同時リリースされて、これまた大ヒットを記録しているジャコ・パストリアスのNYでの歴史的コンサートのライヴ盤〈Truth, Liberty & Soul〉の付録資料とペアになっています。

 〈Smokin’ in Seattle Live at the Penthouse〉のブックレット資料翻訳は、不肖私が担当しました。現存する参加ミュージシャン、ジミー・コブ(ds)とロン・マクルーア(b)の証言、ケニー・バロン(p)によるウィントン・ケリー論、パット・メセニーのウェス・モンゴメリー礼賛文などなど、ジャズ史に興味ある者なら、あっと驚く秘話の宝庫。そして、メセニーのまっしぐらなウェス愛にすごく共感しました!翻訳中、マクルーアさんから、色々なお話を伺うこともでき、私にとって一層光栄な仕事になりました。公民権法が制定されたとはいえ、この当時、黒人であるウィントン・ケリーが白人ベーシストであるロンさんを起用すること自体が、大英断であったそうです。

511FHBodjqL._SY355_.jpg〈Truth, Liberty & Soul〉の翻訳は『ジョン・コルトレーン「至上の愛」の真実』や『マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術』などのアシュリー・カーンの著作を初め錚々たるジャズ・ブックのベストセラーを手がけてこられたプロ中のプロ、川嶋文丸さんが担当されました。充実した内容もさることながら、翻訳のペエペエにとって、すごく勉強になりました!

 現在のジャズの世界で、異例ともいえる日本語版スペシャル・ブックレットの実現は、キングインターナショナルの敏腕A&Rディレクター、関口滋子さんの熱意によるものでした。関口さんの盟友である《Resonance》の名物プロデューサー、ゼヴ・フェルドマン氏が集めたジャズの貴重な歴史証言の数々を、「一人でも多くの日本のリスナーと共有したい!」という思いに駆られ、編集、制作をやってのけたのだそうです。「インターネットで気軽に何でも調べられるように思える時代でも、知り得ることのできなかった真実、関係者が語ったからこそ伝わる浮かび上がるドラマ。それらを一つの作品として、ポリシーを以って伝えようとするゼヴ・フェルドマン氏の仕事は、多少の困難があってでも、きっちり伝えて行きたい!」とおっしゃっています。 

  ゼヴさんがその仕事ぶりを絶賛してやまない関口ディレクターは、おっちょこちょいの私とはまるっきり対照的な女性といえるでしょう。普段は知的で物静かですが、仕事モードになると強力なパワーを発揮します。少女のように華奢で小柄な彼女のどこにこれほどのエナジーが秘められているかは不明ですが、面白い小冊子が出来あがりました。〈Smokin’ in Seattle Live at the Penthouse〉〈Truth, Liberty & Soul〉-2017年出荷分のどちらのアルバムにも梱包されている応募ハガキを送るともれなくもらえるそうです。発売後1ヶ月あまり、予想を遥かに越える応募ハガキが毎日どっさり届き、嬉しい悲鳴を挙げておられるようです。

 ジャズの現場に立ち会った人々の生々しい証言は、音楽の感動に新たな彩りを添えてくれます。興味の尽きないジャズ史の断片が垣間見えるブックレット、ぜひ読んでみてくださいね!(了)

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GW38周年記念ライヴ日記

 0503IMG_6778.JPG OverSeasは今月で開店38周年を迎えることが出来ました。これも一重に、今までご愛顧くださったお客様のおかげ、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございました。

 38周年を記念して、大型連休中に4夜連続の特別ライヴを開催しました。

a0107397_434629.jpg 初日、5月3日中井幸一(tb)セクステット!トミー・フラナガン参加のJ.J.ジョンソンのグループが遺した名演目の数々、そしてカーティス・フラー&ベニー・ゴルソン・クインテットの名盤『Blues-Ette』に収録された名曲を、中井さん(左写真、左)とテナーの中務敦彦さん(左写真、右)の名コンビに、浪速のケニー・バレル=末宗俊郎さん(上写真、右端)のギターが一枚加わり、寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)ががっちりとリズムセクションを固めるという豪華なメンバーで演奏する趣向。トロンボーン奏者だけでなく、編曲家としても定評のある中井幸一書き下ろしアレンジの魅力と6名のプレイヤー達のアドリブ力が十二分に発揮された演奏になりました。

 この日聴きに来てくださったジャズ評論家、後藤誠氏の論評も素晴らしいものでした。

「50年代を代表する2大バンド、すなわちJ.J.Johnson-Bobby Jasper-Tommy FlanaganのクインテットとCurtis Fuller-Benny Golson-Tommy Flanaganのクインテットがレコードに残した名曲・名演を、絶妙のアンサンブルと切り詰めた構成で見事に再現した。」:後藤誠のジャズ研究室より

0504DSCN0017.JPG 5月4日  はベテラン・テナー奏者、荒崎英一郎さん(左写真)が、寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)をバックに、ワンホーンでハードにブロウするセッション。「38周年記念」ということで、普段とは全く違うプログラム、チャールズ・ミンガスの〈Boogie Stop Shuffle〉や〈Goodbye Porkpie Hat〉それに寺井尚之がまず演らないウェイン・ショーターの曲〈Night Dreamer〉!荒崎さんのプログラムを、しっかりとリハーサルして、カルテットで聴き応えのあるプレイを繰り広げました。

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 5月5日は、アルト奏者、岩田江さんとメインステムとの一大ビバップ・セッション、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのバップ・チューンが次から次へ、メインステムの好サポートで岩田江の伸びのある美しい音色が、一層輝きを増しました。

 寺井尚之も愛奏するディジーの〈Con Alma〉や〈エンブレいさブル・ユー〉も、岩田さんのヴァージョンになると、また違い色合いになり、常連様たちは、聴き比べがとても楽しかったようです。

 初めて岩田さんのサウンドを生で聴いたお客様は、その美しさに驚いたようです。

0506DSCN0063.JPG 最終日5月6日は、寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)のスタンダード集、日頃はデトロイト・ハードバップ一筋の硬派ピアノ・トリオが、連休中だけ披露する〈セント・ルイス・ブルース〉や〈スターダスト〉など鉄板スタンダードのオンパレード!

 寺井尚之が定番曲の手垢を落とし、長年演奏され続けるスタンダード曲へのリスペクト溢れる、豪快なアレンジが揃いました。中でも聴きものは、寺井尚之がトニー・ベネットやナットキング・コールなどの名シンガーの歌唱をピアノでモノマネする〈As Time Goes By〉、キーやリズムがどんどん変わって、”なるほど~!”という決まりの節回しやビブラートがピアノで再現されるピアノ声帯模写、お客様のみならず、トリオのメンバーたちまでニンマリ!最後はエラ・フィッツジェラルド+トミー・フラナガン・コラボのパンチの聴いた転調で、楽しいGWライヴの幕が閉じました。

 私にとってもこの四日間の特別ライブは、リハーサルも含めて、本当に色々と学ぶところが多かった。 料理も音楽も、良い素材と丁寧な下ごしらえがあってこそ、技量が光る!と勝手に納得。特別なライヴに相応しい、特別なプログラムを持ち寄って、バンドとしてまとまりのあるライヴにしてくださった中井幸一、荒崎英一郎、岩田江のリーダー達には、惜しみない拍手と心からの感謝を捧げます。

 そしてメインステムのメンバー達、今回の出演者の平均年齢を下げていた、宮本在浩(b)、菅一平(ds)のリズムチ―ムは、ベテランたちに精気を吸い取られることなく、毎夜パワー炸裂で素晴らしかった!
 
 最後に、ご来店いただき、演奏を楽しみ、応援して下さった皆様に感謝、感謝。

 これからも皆で頑張って、次のアニバーサリーを一緒にお祝いできますように! 

 本当にありがとうございました!