コールマン・ホーキンス達の”ルート66″

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 月例講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、フラナガン自身が最も敬愛し、影響を受けたたボス、コールマン・ホーキンスとの共演アルバム群を聴いています。

eddie_terai.jpg ホーク晩年の最高傑作と言われる『ジェリコの戦い』は、本当に”最高”の出来なのか?T.フラナガン、メジャー・ホリー、エディ・ロックという若手を擁するレギュラー・カルテットの醍醐味はどのにあるのかを、寺井尚之の解説でじっくり堪能中。生前のエディ・ロックが寺井と、このカルテットの話で盛り上がっていたとき、その「白眉」として寺井に推したのは、ドラム・ソロなし、全編ルバート、4人の息を1テイクでビシっと合わせた”Love Song from Apache“という渋いバラード(Impulse盤『Today and Now』)だったという話が、彼らがどれほどチームワークを尊んでいたかを象徴していて、しみじみとした感動を呼び起こしました。

 コールマン・ホーキンス芸術の最後期の成熟を助けたトミー・フラナガン達、彼らの結束はホーキンスが第一線から退いた後も、生活の援助というかたちで最後まで継続したと言われています。


 『ジェリコの闘い』を始めとする一連の《ヴィレッジ・ゲイト》でのライブ録音がなされたのは’62年8月、同時期、NYでは他にどんなライブが行われていたのだろう? 当時の”The New Yorker”誌のデータベースで調べてみると、アップタウンからダウンタウンまで、NYの街はジャズ博物館の様相を呈していました。《バードランド》ではディジー・ガレスピーのコンボが、《ヴィレッジ・ヴァンガード》はシェリー・マンを擁する新人ピアニスト、ビル・エヴァンス・トリオが、《ファイブ・スポット》ではチャーリー・ミンガスのバンドが、《ハーフ・ノート》にはズ―ト&アル・コーンのテナー・コンビが!ヴィレッジ地区を離れ、イーストサイドに向けば現在のキタノ・ホテルの近くにあった《リヴィングルーム》というサパークラブには、マット・デニスがトリオを率いて弾き語りを聴かせていた!すでにTVが夜の娯楽の主流になっていたとはいえ、クラブシーンは花盛り!ああ・・どこに行くか迷いますよね。

 TVといえば、この時期のホーキンスの足跡を調べていくうちに、彼が、パパ・ジョー・ジョーンズ、ロイ・エルドリッジと共に、超人気TVドラマ・シリーズ、『ルート66』にミュージシャン役で出演していたことを発見!ほぼ1時間のエピソード“Goodnight Sweet Blues”が全編Youtubeにアップされていました。

 さわりだけ・・・と思ってたのに、結構面白くて最後まで観てしまった。おかげで時間がなくなって、ドラマとミュージシャン達の面白いエピソードは次回に続く・・・

写真展の中の写真 from スウェーデン

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  公私共に忙しく、ブログで大変ご無沙汰しています!お知らせしたいこと、書きたいこと沢山あるのですが、なかなか時間のやりくりが下手くそで、落ち着いたらどっさり書きたいと思っています。

 上の写真は”スイート・ジャズ・トリオ”の一員として知られるスウェーデンのベーシスト、トミー・フラナガン同志であるハンス・バッケンロスさんが送ってきてくれたものです。

 左端はスウェーデンの名ドラマーでハンスさんの大先輩でもあるルネ・カールソン、何故かドラムの向かって右側にいるのがレッド・ミッチェル(b)、そしてトミー・フラナガン(p)、フロントがディジー・ガレスピー(tp)で、奥に見えるサックスはジェームス・ムーディ! 

 ディジーを含めジャズの巨匠の写真が飾られた不思議なロケーション、なんとも不思議なセッティング、これは1983年頃、ストックホルムから車で1時間ほどの都市Västerås(ヴェステロース)の美術館で開催されたGunnar Holmberg(グンナー・ホルベルグ)という当地の名ジャズ写真家の展覧会の情景で、オープニング・イベントの演奏をホルベルグ自身が撮影したものだそうです。

  普通と逆のバンドのセッティングは、「常にハイハット側に立つ」というミッチェルのこだわりの結果なんだそうです。

 ディジー・ガレスピーは、この演奏の前、ペットを抱えウォーミングアップ代わりに、展示写真を鑑賞しながら、その演奏者の曲を吹くということを繰り返していたそうです。

 この逸話を教えてくれたハンスさんは当時まだ高校生、後にルネ・カールソンや ニッセ・サンドストーム、モニカ・ゼッタールンドといった地元の名手に可愛がられ、北欧のトップ・ベーシストとなりました。

you_are_me.jpg Red Mitchell-Tommy Flanaganコンビも大好き!二人はジョージ・ムラーツがレギュラーになるまでは、頻繁に共演していました。

 ということで、しばし二人の『You’re Me』を聴きながら休憩したいと思います。

CU

ライブ・レポート:アキラ・タナ at OverSeas

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 4月4日、寺井尚之の盟友、アキラ・タナのライブ開催しました。アキラさんの今回の滞在は約三週間、その間、様々なフォーマットで、関西、関東、北陸と、ほとんど休みなし、各地で大喝采を受けたようです。ツアー中は、ファンや熱烈なサポーターの皆さんが日々アップロードされる沢山の写真やコメントから、巨匠の演奏を生で観た感動だけでなく、皆に幸せを運ぶアキラさん独特の不思議な力も伝わってきました。この力は、ひょっとしたら、かつての日系社会を、僧侶として束ねた父、田名大正師と、短歌運動を通じて大きな人々の輪を作った母、田名ともゑさんから受け継いだものかもしれません。

 文字通り引っ張りだこの日程を繰り合わせて出演してくださったOverSeasでのコンサートには、なにかと行事の多い新年度4月の第一月曜にも拘らず、新旧のお客様で一杯、加えて、アキラさんの息子さんや、米国から観光を兼ねて日本にやってきた奥さんのマージさん達も!アキラさんがNYに住んでいた頃、お家でマージさんの手料理をご馳走になって以来、20数年ぶりの再会で、私も大感激!寺井尚之は、歳月を経てもちっとも衰えないマージさんの清楚な美貌に、もっと嬉しそう!

 とにかく開演前すでに、会場のムードが、一流アーティストを聴きに来た、というよりも、はるばるアメリカから来てくれた親戚に会いに来たよ、というような感じになるのは、アキラさんのライブならでは!共演する寺井尚之も、アキラさんとの共演のために、「さくら さくら」のアレンジを書き下ろし、宮本在浩(b)と共に、ダイナミックでユーモア溢れるプレイを繰り広げました。

12961216_1159891337367934_5407839327404241921_o.jpg 今回のプログラムは、これまでの4回のコンサートのうちで一番デトロイト・ハードバップ色が濃いものだった。日頃アキラさんが演ることのないフラナガンの愛奏曲は、仕掛けが一杯の難曲揃い。普通ならみっちりとリハーサルをしても、なかなかうまく行かないのですが、却ってアキラさんの集中力と底力を際立たせる結果となって大満足。加えて、アキラさんにゆかりの深いジミー・ヒースやJ.J.ジョンソンの曲、そして春に因んだスプリング・ソングと、彩り一杯のプログラム、スリル溢れるプレイの中に、ユーモア溢れる和気あいあいのインタープレイがポンポン飛び出すと、最高のタイミングで客席から掛け声が入ります。

 アンコールは、日本のうたで魅了する<アキラ・タナ&音の輪>に倣い、日本古来のスプリングソング「さくら さくら」、これが本当に素晴らしく、今も語り草の名演になりました。寺井尚之がアキラさんのために書き下ろしたスペシャル・アレンジは、寺井ならではのふくよかなピアノの響きと、ベースの弓をフィーチャーした、耽美的なルバートで、満開の桜の園を音楽で描いて見せた後は、一転、強烈なバップになだれ込む鮮烈な展開、寺井の研ぎ澄まされたピアノと、ザイコウの妙技、そしてアキラさんの緩急自在のビートで、桜吹雪が舞い散る夢のような世界になりました。素晴らしい演奏の源は、「桜の女王」だったアキラ夫人が来てくれたせいかも…

 手に汗握るスリルとユーモアが共存したプレイに、お客さん達は大笑いの連続。会場に家族的で温かい空気を満ち溢れてました。こういう空気を創り出すのも、アキラさんの稀有な才能の一つかもしれません。コンサートの後、これほど沢山の方に「次も絶対聴きに来ます!」と言ってもらうのも、アキラさんらしい!

otonowa01-720x405.jpg アキラさんが次回来日するのは10月、在米邦人、日系人の腕利きを率いる<アキラ・タナ&音の輪>で東日本大震災支援ツアーを行う予定。またOverSeasでアキラさんのプレイを聴くことができますように!

 音楽とは別に、アキラさんのご両親、田名大正、ともゑさんの軌跡と、日系米人の歴史を、これからもじっくり調べて、みなさんにお伝えしていこうと思っています。どうぞよろしく!

12901192_979036528850340_7937487507875822472_o.jpg写真:左から:寺井尚之、アキラ・タナ、宮本在浩、アキラ夫人Marjorieさん、アキラさんの親友、ギタリスト、樫本優さん/前列:アキラさんの愛息、Ryanさん、お母さまを連れて来てくれてありかとう!!

2016年4月4日 Hisayuki Terai piano trio featuring Akira Tana on drums, Zaiko Miyamoto on bass,

=曲目= 

<1st>
1. Eclypso (Tommy Flanagan)
2. Beyond the Blue Bird (Tommy Flanagan)
3. Mean What You Say (Thad Jones)
4. Sunset and the Mocking Bird (Duke Ellington, Billy Strayhorn)
5. For Minors Only (Jimmy Heath)

<2nd>
1. Yours Is My Heart Alone (Franz Lehár)
2. They Say It’s Spring (Bob Haymes)
3. Bro’ Slim (Jimmy Heath)
4. Lament (J.J.Johnson)
5. Commutation (J.J.Johnson)

<3rd>
1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)
2. A Sleepin’ Bee (Harold Arlen)
3. Elora (J.J.Johnson)
4. Passion Flower (Billy Strayhorn)
5. A Sassy Samba (Jimmy Heath)

Encore: さくら さくら /Sakura: Cherry Blossoms (Traditional)

翻訳ノート:ビル・エヴァンス『サム・アザー・タイム:ザ・ロスト・セッション・フロム・ザ・ブラック・フォレスト』

 bill1006950053.jpg 1968年、ビル・エヴァンス・トリオ(エディ・ゴメス-bass, ジャック・ディジョネット-ds)が、モントルー・フェスティヴァル出演の5日後、ドイツ南部の小さな村、通称<ブラック・フォレスト>にあるMPSスタジオで録音していたことは、これまで知られていませんでした。その幻の音源は、森の中で半世紀近い眠りにつき、やっと日の目を見ることに!

 『Some Other Time : The Lost Session from the Black Forest』のリリースを実現させたのは、ジョン・コルトレーン、ウエス・モンゴメリーの歴史的音源を世に出した実績のある<Resonance Records>で、日本盤が<キング・インターナショナル>から先行発売されたところです。

 エヴァンスは、もとよりライブ盤が多く、スタジオ録音自体が希少、ディジョネットがエヴァンス・トリオに在籍したのは僅か6ヶ月、このメンバーでの唯一のスタジオ録音であり、それも最高に趣味の良い音質に定評のあるMPSのレコーディングですから、ファンの興味は尽きません。

 日本盤もオリジナル盤も、音楽内容に相応しい豪華パッケージで、貴重な演奏写真やポートレートも一杯!日本盤には、岡崎正通氏が書き下ろされた明瞭で奥深い日本語ライナー・ノートが加わり、光栄な事に、それに続く英文ブックレットの翻訳を、A&Rディレクター、関口滋子氏の監修の下で担当させていただきました。

 「世界の発掘男」の異名を取るゼヴ・フェルドマンの熱血プロデューサー・ノート、共演者、エディ・ゴメス(b)とジャック・ディジョネット(ds)のロング・インタビュー、元MPSのスタジオ・マネージャーであったフリードヘルム・シュルツのMPS物語、人気ジャズ・ブロガー、マーク・マイヤーズによるビル・エヴァンス論など、充実した内容は、さすがです。

 私も、翻訳の過程で、これまで知らなかった欧米のジャズの歴史を色々学ぶことができました。ぜひご一聴、ご一読を! 

 ビル・エヴァンス・トリオ:『サムアザータイム:ロストセッション・フロム・ザ・ブラック・フォレスト』

日本盤好評発売中:キング・インターナショナルHP http://www.kinginternational.co.jp/jazz/KKJ-1016/ 

 

トミー・フラナガンの名演目(4) Sunset and the Mocking Bird

albumcoverTommyFlanagan-SunsetAndTheMockingbird-TheBirthdayConcert.jpg<Sunset and the Mocking Bird>は トミー・フラナガンの『バースデー・コンサート』(’98)のタイトル曲もなった名演目。もうすぐトリビュート・コンサートで演奏する予定の寺井尚之によれば、この曲こそが、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンの「神コラボ」の白眉!

 トミー・フラナガンは’70年代、NYのジャズ系FMの番組のテーマ・ソングに、エリントン楽団のオリジナル・ヴァージョンが使われていたので、自然と聴き覚えてレパートリーになったと言っていて、確か’82年、フラナガンが来日した時( Rufus Reid-bass、Billy Higgins-drums)でも、メドレーとして演奏していましたから、長年の愛奏曲です。

<女王組曲>

mockingbird0661.jpg この曲の霊感は、フロリダ半島で聴いた不思議な鳥の鳴き声だったそうです。エリントンは、一番の側近である名バリトン奏者、ハリー・カーネイの運転する車に同乗し、次の公演地に向かっていた時、夕暮れの山合いに聞いたその鳴き声の主が、モッキンバード(モノマネドリ)だと聞き、車中で一気に描き上げた、デューク・エリントンの自伝的エッセイ『Music Is My Mistress』には、そのように書かれていますが、真実はエリントンとストレイホーンのみぞ知る…

 夕暮れの壮大な大自然の美が、AABA形式の中にすっくり収められた、山水画のような名曲、この作品は、1958年、英国のエリザベス女王に献上した『女王組曲』の冒頭に収められました。

<たった一枚のLP>

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 1958年、エリントン楽団は、イングランド、ウエストヨークシャーのリーズ音楽祭に出演、リーズ市長が主催するレセプションに招待され、ロイヤルファミリーに謁見することになりました。エリントンは幸運にも、謁見の列の最後尾に居たために、エリザベス女王とフィリップ殿下夫妻と、一番長いおしゃべりを楽しむことになります。

「英国は初めてですか?」と女王に尋ねられたエリントンはすごく緊張したそうですが、「いえ、初めてお邪魔したのは1933年ですから、女王陛下のお生まれになるずっと前です。」と答えたんだそうです。

 すると女王陛下は、父君の英国王、ジョージ6世がエリントン楽団の膨大なコレクションを持っていることや、フィリップ殿下も大のエリントン・ファンであることを、とても打ち解けた様子で語ってくれた。感激したエリントンは「それでは、ぜひ陛下の為に音楽をお作りします。」と約束したんだとか。

41MSZTY333L.jpg 早速ストレイホーンと共に6つのムーヴメントを作り、ジョニー・ホッジス(as)、ハリー・カーネイ(bs)、ジミー・ハミルトン(cl)、キャット・アンダーソンという錚々たる楽団メンバーを招集し、自費で録音、たった一枚だけその場でプレスし、バッキンガム宮殿の女王陛下に献上して、約束を守ったというのです。そして、その事実は、PRの種に使われることもなく、エリントンが亡くなるまで、全く外部に公表されなかった。

 ビリー・ストレイホーンが亡くなって6年、デューク・エリントンが亡くなって2年後、エリントンの子息、マーサー・エリントンが、このテープを売却、他のいくつかの組曲と共に、『Ellington Suites』というアルバム名でリリースされ、私達に聴くことが許されたといういわくつきの組曲です。

  トミー・フラナガンは、エリントン+ストレイホーンの神コラボの真髄を本当に上手に捉えて、モッキンバードの鳴き声が、ピアノの神タッチで鮮やかな夕焼けの中に浮かび上がります。大自然を描いたエリントン―ストレイホーンによるビッグバンド作品を、そのままピアノ・トリオのフォーマットで表現してみせたフラナガン円熟期の美学は、大自然を、そのまま庭園として表現したり、小宇宙的な盆栽を作ったりする、私達の芸術感と共通するものを感じずに入られません。

 トリビュート・コンサートでは、フラナガン譲りのピアノの色合いも聴きどころ!どうぞご期待ください!

 

 

神コラボ:デューク・エリントン&ビリー・ストレイホーン

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 左:デューク・エリントン(1899-1974) 右:ビリー・ストレイホーン(1915-1967)

 3月26日は28回目のトミー・フラナガン・トリビュート、ここ何週間もの間、寺井尚之以下The Mainstem Trio(宮本在浩 bass 菅一平 drums)一丸となって、フラナガン三昧のプログラムを順調に仕上げているところです。

 公私共に、色んな行事と用事が舞い込んで、それなりに充実した毎日でしたが、気が付くと、もう3月後半!ご無沙汰で~す。書きたいことは山程あるのに、長らく時間が作れませんでした。

 さて、今回は、トリビュート前のお楽しみ、トミー・フラナガンが子供の頃から心酔し、生涯愛奏した名曲群を生み出した二人の天才、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンの関係と、途方も無くアンビリーバブルな「共同作業」について語られる神話の数々を。トリビュート・コンサートでも、二人の名曲が一杯聴けます。

 <二人の出会い:神のプレゼン>

 デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン、この二大天才の共同作業ほぼ30年に渡って続きました。かつてエリントンは、ストレイホーンの存在について、こんな風に説明しています。

「彼は私の右腕であり、左腕、私が見えないものを見通してくれる目だ。私の頭脳には彼の脳波が流れ、彼の頭脳には私の脳波が流れている。」

 ベターハーフ・・・そう言えば、ギリシャ哲学の授業で習ったなあ、古代の哲学者プラトンは、対話集「饗宴」で愛とエロスとは、原生時代に神によって切り離された、自分の半身を求める行為で、その方割れは異性に限らないと。

 二人の年齢差は16才、エリントンが、19世紀末の黒人社会の中では、比較的裕福なお坊ちゃん育ちであったのに対し、ストレイホーンは、当時どんな家にもあったとされるピアノすらない貧しい家庭に生まれ、アルバイトに明け暮れながら音楽の勉強をした苦労人だった。

 ハイスクール時代から、仲間内では”天才くん“として有名だったストレイホーンがエリントンの音楽に出会ったのは18才のとき、映画館で観たスリラー映画『 Murder at the Vanities/ 邦題:絢爛たる殺人』のワン・シーンだった。リストのハンガリー狂詩曲第二番を堅苦しく演奏するクラシックの舞台に、突如エリントン楽団が登場、リストのこの曲で強烈にスイングし、喝采をかっさらうという派手なレビューの場面。

 ストレイホーン少年は、その華やかさにうっとりしながら、エリントン楽団が発するコードの構成音が判別できずに悩んだ。そこが天才!いつの日かエリントンに会ってみたい!あのコードが何か訊いてみたい!そんな夢を持った。3年後の或る冬の日、その夢は思いがけないかたちで叶うことになります。ストレイホーンの才能を認め、世に出ることを応援してくれたバンド仲間の父親が、エリントンの興行の面倒を見ていたガス・グリーンリーというピッツバーグの黒人社会の大親分で、掛け合ってくれたのです

「愚息の友達に、ちょっと出来る子が居てね、いい曲を書くんだ。実際モノになるかどうか、わしには判らんので、ちょっと見てやってくれないかね。」 

 きっとエリントンに、こんなセリフは耳にタコだったはず、当代随一のエリントン楽団に入団したいミュージシャンは、有名無名、自薦他薦に関わらず、ワンサといて、行く先々で、ありとあらゆるコネに頼って、オーディションを請われていたはずですから。

 ともかく、ピッツバーグの劇場に招待されたストレイホーンは、精一杯の一張羅を着こみ、書きためた自作の楽譜を抱え、幕間にエリントンの楽屋を訪問した。

 折しもエリントンは、付き人達にかしずかれ、仰向けになって、縮れっ毛を伸ばす”コンク”と呼ばれるストレートパーマ中、液が目に染みるので、胸ときめかせて挨拶する青年の姿を見ようともせず、目を閉じたまま、こう言った。

「そこのピアノで何か弾いてよ。」

 ストレイホーンは、ピアノで自作を弾き語りし、たった今エリントン楽団が演奏したばかりのアレンジと、その曲に対する自分なりのアレンジの弾き比べをして聴かせると、エリントンはベタベタの頭のまま、ガバッと起き上がって、あの大きな目を見開いて、まじまじと、この青年を上から下まで見つめ、側近中の側近、ハリー・カーネイに立ち会うよう、付き人を走らせた、といいます。

 「うちの楽団にピアニストはいらないが、NYに帰ったら、何とか君が入団できるよう、ポジションを考えてみよう。」エリントンは取り合えず、20ドルという大金でストレイホーンに作詞を依頼してくれたものの、それ以後はなしのつぶて、もうこうなったらNYに自分から行くしかない!数カ月後、トレイホーンはエリントンを訪ねて、NYに赴きます。“A列車で行こう”は、エリントンからの連絡を待ちながら、まだ見ぬハーレムへの思いを綴った作品だったのです。

<エデンの園で>

315_convent.jpg左:315 Convent Ave.:ストレイホーンが住んだハーレムのアパート 

 エリントンは単身やってきたストレイホーンを住み込みの弟子(トミー・フラナガンは「書生」と読んでました。)として迎え、息子のマーサー・エリントンや娘のルースと家族同然、ハーレムの自分のアパートに住まわせ、演奏現場に付き人として同行し、エリントン・サウンドがどのようにして作られていくのか?各楽団員達の個性の活かし方や、音楽の組み立てかたを、自分の背中から学ばせたのです。

 1930年代終盤、ペンシルバニアの田舎町からNYにやってきた20代後半の青年、ストレイホーンは、黒人文化のメッカであるハーレムのど真ん中で、超ド級のエリントン芸術を、空気のように吸い込んで、自分の中に取り込んでいきます。折しも、ハーレムではビバップが産声を上げていた。ストレイホーンはエリントンのスコアを吸収すると同時に、《ミントンズ・プレイハウス》でディジー・ガレスピーやセロニアス・モンク達が繰り広げる音楽の実験にも足蹴く通い、ジャムセッションに参加しています。そして、その当時は「罪」であった彼の同性愛嗜好を受け容れてくれる知的で富裕なソサエティも、大都会NYにはあったのです。

 エリントンの庇護の元、彼の陰で、自分の名前を表に出さないことと引き換えに、ストレイホーンはゲイであることを隠さずすんだのかもしれません。彼の匿名性と自由は、皮肉にも表裏一体のものになっていた。20代の若さで、芸術の花を開花させていくストレイホーンにとって、これ以上の幸せはない。ハーレムは彼にとってまさに「エデンの園」だった。彼が自作品のクレジットをエリントンに譲らなければ、莫大な「著作料」が自分の手元に入ることを知ったとき、そこはエデンの園ではなくなってしまうのですが・・・

<神々の共同作業>

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 さて、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン、二人の天才の共同作業とは、一体どんなものだったのでしょう?エリントニアを隅々まで知りつくすトミー・フラナガンは、かつて私達にこう語ってくれました。

「どれほど巧妙に作っても、ストレイホーンがペンが入れた場所には自分の<スタンプ>がちゃーんと押してあるんだよ。」その言葉の後で、すごく得意そうに、子供みたいな笑顔を見せたのが忘れられません。

 楽団で実際に彼らのスコアを長年演奏してきたジミー・ハミルトン達も、同じような事を証言しています。でも、彼らのように飛び入り優れたミュージシャンでなく、資料に頼る研究家には、正確に言い当てるのは不可能らしい。何故ならこの二人、手書き譜面の筆跡も、区別がつかないほど似ているのです。

 また、この二人の共同作業は、同じ机で同時に行われる、というようなものではありませんでした。エリントンが年中バンドと一緒に世界中を飛び回り、遠隔地からストレイホーンでに簡単に指示のみで創作させた。ドラフトをファックスやメールで送るなんてありえない時代、またこの二人にはそんなことは必要じゃなかった。たまに同じホテルの部屋にいたとしても、エリントンが書きだしたスコアを、彼が仮眠したり食事している間にストレイホーンが書き続ける、そしてストレイホーンが寝ている間にエリントンがまた書く・・・そんな風にして行われました。

―初期の共同作業

 ストレイホーンが新入りの頃は、楽団ではなく、小編成コンボの編曲や、歌手達のアレンジといった作業が主で、エリントンは煩雑な雑用をストレイホーンに任せて浮いた時間を、オリジナル曲の創作に当てることができたのです。その時期の、ストレイホーンのアレンジで最もヒットしたのが、美男の歌手ハーブ・ジェフリーズが歌って大ヒットした”Flamingo”(1940)、やはりストレイホーンらしい印象派的な香りが漂います。同年、エリントンがヨーロッパ・ツアー中に書き起こした作品でボツにしたものを、ストレイホーンが手を入れたのが”Jack the Bear”、モダン・ベースの開祖としてジャズ史に残るジミー・ブラントンの十八番として人気を博しました。

―円熟期

 二人のコラボが成熟期を迎えるのは、ストレイホーンが一旦エリントンの元を離れ、再び戻ってきた1950年R-4418944-1364376976-8073.jpeg.jpg代です。この当時、エリントンは「組曲」の創作期を迎え、さまざまな音楽祭で書き下ろしの「組曲」を演奏することで、他のジャズ・バンドと一線を画しました。それもまたストレイホーンという頼もしい共作者が居てこそ、できたにに違いありません。この時期のコラボは枚挙にいとまがありません。一例を挙げると<The New Port Jazz Festival Suite(1956) >、シャークスピア音楽祭のための組曲<Such Sweet Thunder(1957) >、初めてストレイホーンがジャケットに登場した<くるみ割り人形(1960)>、ポール・ニューマン主演、エリントンも出演したジャズ映画、<パリ・ブルース(1960)>、<極東組曲(1964-66)>と、大作がズラリと並びます。

 遠隔地で二人の神コラボはどのようにして行われたのでしょう?1962年の”ダウンビート“誌に、ストレイホーン自身による、貴重な証言が遺されています。

 「僕たちが電話によって、そのように仕事をするのか、お話しましょうか。3年ほど前、NYの<グレート・サウスベイ音楽祭>で演奏の予定がありました。そこで、デュークは主催者に新曲を作る約束をしていましてね、ツアー先から長距離電話が来ます。『いくつかのパートを書いたから』ってね。音楽祭は数日後、本番まで2,3日しかないんです。彼が電話口で思いついたパートをざっと説明してくれて、キーとか、各パートの関わりなど、いろいろ話し合います。そして、彼が僕にこうしろ、ああしろと指示するんです。で、言われたとおり、当日僕が言われたパートの譜面を仕上げて、会場に持っていきます。リハーサルの時間?そんなものありません。デュークには、読みやすい簡単な譜面だし、演奏したことがなくても、すぐ判るよと言っておきます。

 そうこうするうちに本番が始まります。そのとき、僕の書いたのは、真ん中のパートです。実際の音も、もちろん、デュークの書いたパートも知らないし。聴いていないんです。とにかく、その経緯を知る関係者と一緒に客席に座って演奏を聴きました。僕の書いたパートに続いてエリントンの書いたパートが演奏されると、僕たち関係者は大爆笑してしまった。全く聴いていないのに、僕の書いたパートが、エリントンのパートの発展形になってたんです!!舞台を見上げると、エリントンも同じように大笑いしてました!まるで二人が一緒に並んで書いたみたいだった、というよりむしろ、一人の作曲家の作品になっていたんです。 知らないうちに人の心の中を覗き見ているようで、妙な気持ちになりました。まるで魔法みたいだった。」

 エリントンはストレイホーンを「高尚(Sophisticated)」と評し、それに対して自らを「粗野(Primitive)」と評しました。でも、その役どころは変幻自在に入れ替わり、陰陽合わさって完璧な美の世界を創り上げました。

 ストレイホーンはエリントンの天才に埋もれて、その翼の下で自分の才を思う存分伸ばしていった。やがて、その関係が悲劇を招き、そのことによって、二人の芸術は一層円熟したようにも見えます。

 今回のトリビュート・コンサートでは、ストレイホーンが終生愛奏した名曲宮本在浩の弓の妙技をフィーチュアした“Passion Flower”、そして二人の共作の白眉、”Sunset and the Mocking Bird”がお楽しみになれますよ!

参考:A Biography of Billy Strayhorn / David Hadju

        Me and You / Andrew Homzy 

      全米人文科学基金HP In Ellignton’s Shadow/ Scott Ethier 

  The Billy Strayhorn Suites / Village Voice 1982 ジャズ特集より

  

3月26日(土)第28回春のトリビュート・コンサート開催します。

tommy_flanagan28thred4.jpg 毎年トミー・フラナガンの誕生した3月と逝去した11月に開催する、フラナガンへの追悼コンサート、”Tribute to Tommy Flanagan”、今年の春のトリビュートは3月26日(土)に開催します。

 フラナガンの弟子、寺井尚之が、自己トリオ、メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)を率いて、生前の愛奏曲の数々をフラナガンならではのアレンジでお聴かせします。生前、春になるとフラナガンがSpring Songsと読んで好んで演奏した「春の曲」もお聴かせする予定です。

 珠玉のフラナガン・ミュージック、トミー・フラナガンの音楽への溢れる想い、ぜひ聴いてみてください!

tribute _28.jpg 日時:2016年 3月26 日(土) 演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
 会場:Jazz Club OverSeas  〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
 TEL 06-6262-3940 

 出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)

前売りチケット3000yen(税別、座席指定)/ 当日 3500yen(税別、座席指定)
  チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

2/16(火)田井中福司Live

0217taiP1100227.jpg ルー・ドナルドソン(as)が全幅の信頼を寄せるレギュラー・ドラマー、NYで大活躍する田井中福司(ds)さんをお招きしたライブは、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、末宗俊郎(g)のハウス・ミュージシャン3人が、がっちり一枚岩となって送る熱いリスペクトに応えるドラミング、ハイパワー、ハイボルテージの演奏になりました。

 強烈にスイングする田井中さんのシャキッと切れの良いビート、ブルージーに泣く末宗俊郎のギター、持ち前の美しいタッチのバップ・フレーズで切り込む寺井尚之のピアノ、縦横無尽なボトムラインでエナジー・チャージする宮本在浩、4人のバランスは最高。

  「僕が渡米して36年、OverSeasが開店して37年です。」と田井中さんのMCに感慨ひとしお!

 お客様の声援にも愛が一杯で、ジャズクラブ冥利のライブに。

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 遠くからも近くからもご来店、誠にありがとうございました!!

 

=曲目=

<1st>

1. Sonnymoon for Two (Sonny Rollins)
2. Just Friends ( John Klenner )
3. Polkadots and Moonbeams (Jimmy Van Heusen)
4. I’ll Remember April ( Gene de Paul)

<2nd>

1. Unit 7 (Sam Jones)
2. Don’t Get Around Much Anymore (Duke Ellington)
3. Body and Soul (Johnny Green )
4. Yardbird Suite (Charlie Parker)

<3rd>

1. What Is This Thing Called Love? (Cole Porter)
2. I’m Just a Lucky So and So (Duke Ellington)
3. Portrait of Jenny (J.Russel Robinson)
4. Anthlopology (Charlie Parker)

Encore: Billie’s Bounce (Charlie Parker)

 

対訳ノート(47) 俳句歳時記 ”ヴァーモントの月”

taniuchi1949.jpg 先月末、”寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)”がアンコールに演奏したのは、スタンダード曲 “ヴァーモントの月”、ピアノ・タッチの変幻が、舞い落ちる雪の結晶のようで、本当に美しかった!ピアニストも、愛器も、今が絶頂期かもしれません。雪とあまり縁のない大阪育ちの私、様々に色合いを変えるサウンドに、忘れていた谷内六郎の童心溢れる絵や、雪が積もると大喜びした大昔の子供時代の思い出が次々と甦り、音楽の持つ不思議な力に圧倒されました。

 寺井はジョージ・ムラーツ(b)から、彼がヴァーモントと縁の深いギタリスト、アッティラ・ゾラーと一緒に、ヴァーモントでスキーを楽しんだという話を聞いていたから、雪の情景を描いたのでしょう。メインステムのジャズは雪月花。改めて、この歌を調べてみたくなりました。

 <歌のお里>

whiting_blackburn.jpg

 ”Moonlight in Vermont (ヴァーモントの月)”は1944年の作品、ジョン・ブラックバーン(上の写真、左)、カール・スースドルフの共作。白人女性歌手ファンに人気の高いマーガレット・ホワイティング(上の写真、右)がビリー・バターフィールド楽団と初演し、ミリオン・セラーになった。

 作者も歌手も、ヴァーモント州に特別な思いがあった、というわけではないらしい。それどころか、雪のないLA育ちのホワイティングにとっては、歌詞中の情景が全くイメージできずに四苦八苦、「これじゃ私うまく歌えない!」と泣きを入れ、よくわからない歌詞の単語”ski tow (スキーヤーを牽引するリフトのようなもの)”を”ski trail (シュプールのこと)”に変更してもらって、やっと録音したほどです。主に作詞を担当したブラックバーンだけがヴァーモントを知る人で、当地の大学でしばらく教鞭をとっていた、或いは人形劇一座に居た時に滞在していた、というようなことが様々な書物に書かれていました。

 結局のところ、東海岸から近い人気リゾート地、ヴァーモントのご当地ソングを作って、もしもヒットすれば、きっと長い間愛されるだろう、そんな思いで作った歌、その意図は見事に的中し、70年以上経った現在もスタンダードであり続けています。

 ヒットの仕掛け人は、ジョニー・マーサーと、彼の主宰するキャピトル・レコード、’40年代前半、アメリカの音楽産業を長期間悩ませた「レコーディング禁止令」が一段落したので、なんとか低コストでヒット曲を作ろうと、無名のソングライターと歌手の発掘に腐心した産物ともいえます。なんたってマーサー自身がアメリカン・ポピュラーソング史の金字塔的ソングライター、有名無名に関わらず、歌と歌手のポテンシャルを見分ける目が肥えていた。この洒落たご当地ソングはマーサーの目に止まり、共作仲間の作曲家リチャード・ホワイティングのお嬢さんで、当時新人だったマーガレットを一躍スターダムへ送りました。

 この歌には、他のポップ・ソングと少し違うユニークなところがいくつかあって、それがヴァーモントと縁もゆかりもない私達をも魅了する要素になっているのかもしれません。

<三句の俳句>Three Japanese Haikus

 mini_101030_1105.jpg  曲の形式は、ごく一般的なA1AB A3形式なのですが、A1A2 6小節、 B(サビ)と A3が各8小節( A3は6小節と、ターンバックに向かうための2小節のタグの組み合わせ)で、ありそうで滅多に見かけないサイズになっています。Bのメロディーは同じ音が並んでいて、一つ間違えば単調な「ねぶか節」になりかねないところを、美しいコードの変化で聴かせる仕掛け。この変則型のため、「一般人には歌いにくい。」とされ、ヴァーモント州の公式州歌に選定されなかったと言われていますが、今も、ヴァーモント州のソシアル・パーティで、このバラードが演奏されないことは決してないらしい…

Fall-Colors-at-Rocky-Mountain-National-Park-Colorado14.jpg さて、改めて歌詞を読んでみると、これがまた変わってる。多くの解説者が指摘する歌詞の特徴は、当時の歌詞には絶対不可欠な「押韻(rhyme)」がないこと。句の始めや終わりに、同じ響きの音を使って、詞にリズムを持たせるのが「韻」で、今のラッパーも、韻」を踏んでリズム感を出すということをよくやっている。’40代当時に「無押韻」の歌は極めて珍しいのですが、ブラックバーンとスースドルフは、意図的に「無押韻」で行っちゃおう!と、敢えて歌手泣かせの、覚えにくいことば選びをしたのだそうです。

 ホワイティングは、歌詞に命を与えるために、メロディを付けて歌う前に、必ず「歌詞を何度も朗読する」ということをやっていたそうです。私も、彼女に倣って、下掲の英語詞を音読してみました。すると、驚いたことに、サビ(B)以外は季語の入った3節の詩!まるで英語の俳句=Haikuだった!WOW!

 ためしにHaikuのサイトに載っていないか調べてみると、あった、あった!米国の「現代俳句」の掲示板サイトに、私が感じたのimgrc0061192330.jpgと全く同じことが書かれていました。

 A1は秋の句、水面に漂う落ち葉を、沢山の銅貨に例えて、秋を愛でている。 A2は冬、雪山の中腹に見えるスキーのシュプールを、真っ白に凍えた長い指のようだと謳ってる。そしてA3は、夏の宵の風の心地よさや、鳥のさえずりを風流に思う夏の一句になっていた。サビのBには俳句らしいところも、季語もありません。一見詩的でない電信線に音楽的な楽しさを見出す歌詞に、またまた谷内六郎さんの絵を思い出しました。

 だけど何故「春」の句がないの?

 私の素朴な疑問に対する、面白い答えがネット上にありました。ヴァーモント州の北隣、カナダに生まれ、東隣のニューハンプシャー州に住む保守系ジャーナリスト、マーク・スタインが、自分のHPに俳句とこの歌について論評しています。

 「北国の人間なら判ることだが、北の土地には所謂「春」というものはない。ただただ長い冬があり、雪解けの時期は「春」ではなく「泥」の季節だ。道路はぬかるみだらけで、汚いだけ、だから、「泥」を賛美する8小節を書く気にはなれず、その代わりにモールス信号みたいに一本調子な電信線を賛美するブリッジにしたのさ・・・ 

 へえ~ ほんとかな? 

=Moonlight in Vermont=
by John Blackburn and Karl Suessdorf (1944)

<A1>

Pennies in a stream,
Falling leaves, a sycamore,
Moonlight in Vermont.
 

 

せせらぎの中
漂う銅貨は、
落ち葉、
鈴懸の木に
ヴァーモントの月。

 

<A2>
Icy finger waves,

Ski trails on a mountain side,
Snowlight in Vermont.


白く凍えた指はうねる、
それは山肌のシュプール、
ヴァーモントの雪あかり。

<B>
Telegraph cables
They sing down the highway
And travel each bend in the road.

電信ケーブルも、
鼻歌で、
曲がり道の電信柱に突っ走る。

People who meet
In this romantic setting
Are so hypnotized
By the lovely


こんなロマンチックな場所、

出会えば
すっかり夢心地。
心地良く

 

<A3>
Evening summer breeze.
Warbling of a meadowlark,
Moonlight in Vermont,

You and I and moonlight in Vermont. 

夏の宵に吹く風、
牧場の小鳥のさえずり、
そしてヴァーモントの月に。

君と僕、
そしてヴァーモントの月。

 

<参考文献、サイト> 

Reading Lyrics: by Robert Gottlieb  and Robert Kimball :Pantheon books
Jazz Wax by Marc Meyers 8/12, 2008,
現代俳句:Pennies in a stream..他
.
And Special Thanks to Joey Steel 

2月16日(火):田井中福司(ds)リターンズ!

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田井中福司さん近影 (撮影:Antonio Porcar Cano)

 日本が誇るバップ・ドラマー田井中福司さん、NYジャズシーンでは「日本人」のタグ付けはなく、第一級のバップ・ドラマーとしてリーダーとして、またルー・ドナルドソン(as)とのレギュラー活動を始め、多くの巨匠達から引っ張りだこの存在です。昨年夏に、ヴォーカリストの野村ちひろさんと結婚し、ジャズ界羨望の的でもあります。

 NYに本拠を移して早36年目、人生の6割以上をNYで送っているのですから完璧なニューヨーカー!「Fukushi Tainakaーこの名前を聞けば、皆さんも彼がアラバマ出身ということが判るでしょう。”You can tell by his name he’s from Alabama.” 」―ルー・ドナルドソンNYでこんな風に田井中さんを紹介するそうです。

 30年間、田井中さんをレギュラーとして離さないルー・ドナルドソンは 「フュージョン(fusion)もアヴァンギャルド(con-fusion)もなし、俺はストレートアヘッド一筋だあ!」と公言してはばからないサムライ、このエピソードはネット上で発見したのですが、そのレポートには、「どの演奏曲もおおむね同構成で変化に乏しくなる中、唯一、田井中さんの長尺のドラムソロが例外の面白さで、ダイナミックなリズムとメロディーで魅せるバンドの醍醐味を味わうことができた。このドラムが、サウンドの厚みをふくらませている・・・」と絶賛しています。

 そんな田井中福司さんが、2月に来日し全国各地で里帰り公演を行います。

 Jazz Club OverSeasではルー・ドナルドソン4、ハーマン・フォスター(p)3から数えて4度目のライブ、田井中さんとの共演が待ち遠しい共演者はストレートアヘッド一筋の寺井尚之(p)、田井中さんが認めた我らが宮本在浩(b)、そして今回は、ブルージーなバップギタリスト、末宗俊郎(g)が一枚加わってカルテットの布陣。本場NYが痺れる田井中福司のドラムソロを大いに盛り上げます! 

 チケット制ですので、お早めにお求めください。

  【寺井尚之(p) Quartet featuring 田井中福司(ds) Live at OverSeas】

with 宮本在浩(b)、末宗俊郎(g)

日時:2016 2/16 (火) 開場6pm Music 7pm-/ 8pm-/ 9pm (入替なし)

チケット制:前売り ¥3500(税抜)
当日 ¥4000(税抜) 

(当店は、入場料以外にチャージはありません。ご飲食料のみ頂戴します。)