ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(後編)

hank_dizzy.jpgビバップ時代のハンクさんたち―左から:ディジー・ガレスピー(tp)、タッド・ダメロン(p)、ハンク・ジョーンズ、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)、ミルト・オレント(b.、NBCスタッフ・ミュージシャン)’47 William P. Gottlieb撮影

  

  前編で紹介したケニー・ワシントン・インタビューの聴き手は、ニック・ルフィーニというドラマー、現存するバップ・ドラムの第一人者で、自他ともに認めるジャズのうるさ型であるケニーは、ドラム教本のことは知っているけど、ジャズのことは素人同然の彼のために、ハンク・ジョーンズがどんなピアニストかを、ちょっとガラの悪い池上彰みたいに、忍耐強く簡潔に説明してあげていた。ケニーもヤルモンダ、じゃなくて、丸くなったもんだ!

 

hank-jones_bluenote.jpg ケニー・ワシントン:「ハンク・ジョーンズは歴史上最高のピアニストの一人だ。彼は膨大なレコードに参加している。’50年代、彼は引っ張りだこのスタジオ・ミュージシャンだった。名ベーシスト、ミルト・ヒントン、名ドラマー、オシー・ジョンソン(OCジョンソンちゃう!オシー・ジョンソンや!)と一緒にリズム・セクションを組み、時にはギターのバリー・ガルブレイズを入れ、何百枚というレコードに参加した。毎日、色んな相手と、2~4枚ものレコーディング・セッションをこなしたんだ。そして夜になるとライブをしていた。なのに彼らの録音には一枚の凡作もないっ!!ただの一つもだ!マジだぜ!」

 ハンクさんは、関西に強力なパトロンが居て、歯の治療をするためだけでも、関西にやって来た。NYの一流ミュージシャンと強力な信頼関係を持っていた故西山満さんも、盛んにハンクさんを招聘して地元のミュージシャンを加えたコンサートを企画していたから、関西のミュージシャンはハンクさんに接することが多く、ケニーと同じように襟を正した人も少なくないはずです。「(小型電子ピアノのない時代)来日時には必ず、特製の鍵盤を持参し、ホテルの部屋で練習してはった。」「コンサートが終わると、ステージの撤収を、自ら進んで手伝った。」とか、色んな伝説が伝わってきた。 

<若者たちへの言葉>

  ハンクさんは、亡くなる前の年に、ダウンビート誌の批評家投票で「名声の殿堂」入りを果たしました。御年91才!遅きに失した殿堂入りではあったけど、記念インタビューで若い人達へのアドヴァイスを求められ、自分が行ってきた節制と精進について淡々と語った。タバコも酒もギャンブルもしないというハンクさん。もっと若い時なら、愛奏よく微笑んで、沈黙を守ったかもしれない。71歳で亡くなったトミー・フラナガンは「自分の背中を見て覚えろ」の姿勢を貫き、練習してないふりを通した。

 ハンクさんの謙虚な言葉は、自分の選んだ生業と人生に対するこの上ない敬意と誇りが満ちた宝の山です。

0809.jpgダウンビート・マガジン2009年8月号より抜粋(聴き手ハワード・マンデル) 

<父を手本に>

 何をするにも、100%集中しろと言いたいね。全身全霊で努力しろ。私はこの年になっても、そうするべきだと思っている。私はこういうことを父親から学んだ。父は私の知るうちで、最も公明正大で筋の通った人間でね、人生の最高の手本を身をもって示してくれたんだ。清い生き方をした人だった。酒もタバコもやらなかった。そして敬虔なキリスト教徒だった。父のように生きようと努力してきたが、かなりうまくいったのではないかな。

(訳注:ハンクさんのお父さんはミュージシャンではなく、バプティスト教の助祭で、木材検査官として生計を立てていた。)

 

<集中するということ>

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 「集中力」には何が必要か?「興味を持つ」ことが第一!とにかく自分のしている事に興味を持たなくてはいけない。そこに完璧に焦点を絞り込んで没頭せよ。そして、知識、能力、知覚神経、創造力といった関連要素をありったけ注ぎ込め。

 自分の眼前の題材について考えろ。自分が集中している対象物が一体どんなものなのかをしっかり考えるのだ。何故そうするのか、どうしているのか、そんなことをごちゃごちゃ考えるな。私の言うように集中すれば、結果が出る。集中力というのは、物凄いパワーがある。どういう仕組みかは知らないが、「集中力」さえあれば、「聴く」力がつく。もし聴こえないのなら、集中が足りないんだ。 

<センスを磨きたいなら沢山聴け!> 

 (エレガントで趣味の良い)演奏スタイルをどのように確立したかだって(驚)!?

 誰だってそうだと思うが、沢山のものを聴き、多様なスタイルを吸収しそれを消化すれば、遅かれ早かれ、いずれ各人、自分なりのアイデアが出来上がってくるものじゃないかね?自分流に演奏したくなるのは当たり前だ。出来上がった自分のスタイルが、ほかの誰かに似ていたという結果になるかもしれないし、そうではないかもしれない。運が良ければ、誰にも似ていないスタイルが出来上がる。独自のスタイルや演奏解釈を会得すること、同じ曲でも、余人と異なる自分の流儀で演奏できるというのは、道半ばの学習者全ての目標だ。

 もうひとつの目標は、喜んで聴いてもらえるような演奏をすることだ。それはスタイルとはまた別で、センスの良し悪しが関わってくる。センスとは、ものの捉え方だ。それもまた、多彩な人たちの演奏を聴くことによって生まれるのだ。自分が聴いた音楽が、受け容れられるものなのか、聴きたくないものか、取捨選択を繰り返して、やっと身に付くものだ。多種多様なものを聴いた末に、自らの中に残っているもの、それこそが、「この楽曲はこういうサウンドであるべきだ」という意識をかたちづくる。それを人は「センス」とか「趣味の良さ」と呼ぶのだ。

 

 <即興演奏>

 私は自分のイマジネーションをうまく使おうとする。それに関わる要素について思いを巡らす。和声だけではなく元のメロディーについても思考を働かせ、そこから何かを作り出そうと試みるわけだ。その行為は家を建てるのと似ている。まず基本設計からスタートし、それに従って実際に建築してみる、その作業が進むうちに、装飾も加える、というようなことだ。

<ピアノ上達に近道はない!>

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 まず言っておきたいのは、ピアノが上手になる魔法なんてどこにもないということだ。ピアノに関わらずいかなる技量も、稽古するかしないか。毎日の練習は絶対に必要だ。毎日稽古すれば、どんなレベルであろうと現状を維持することができる、そして、ひょっとすると、そこからさらに上に行けるかもしれない。

 私の場合、ピアノはクラシックの練習から始めた。おかげで、どんなピアニストにも必須の基礎を身につけることが出来た。まともなピアニストになるための指針を教えてくれと言うのなら、私の答えはこうだ。

-まず勉強しろ。ピアノという楽器について熟知せよ。初心者の段階では、(可能な限り)最良のピアノ教師を見つけ、その人に習え。なぜならば、まず最初に正しい演奏法を学ぶことができなければ、後から誤った演奏方法を変えるには、大変な努力を要するから。間違ったテクニックを身に着けてしまうと、悪い癖を取り去るのは至難の業だから。これが若い人達への私からのアドバイスだ。(了)

  DBインタビューはアメリカ人の翻訳者ジョーイ・スティールさんが「読め」って送ってくれたものです。最後の「ピアノ習得」のくだりに、私は爆笑してしまいました。だって、毎日稽古を欠かさない寺井尚之が、常日頃自分の生徒たちに口を酸っぱくして言っていることだったから。

 ともあれ、ハンクさんが亡くなって、さらに世の中は便利になり、次期大統領でさえ、ツイートばっかりやってる世の中になった。ハンクさんの言葉は、ミュージシャンのみならず、私たち全員がちゃんと生きていく上での忘備録のように思えます。 

ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(前編)

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Hank Jones (1918-2010)

’70年代以降、トミー・フラナガンとハンク・ジョーンズは、双方ともに謙虚で控えめな物腰の裏で、互いに最大のライバルとして、闘志の火花を激しく燃やしていた。

だから、この二人を(しばしばバリー・ハリスも含め)同じカテゴリーで議論されると、寺井尚之の癇癪がときどき爆発します。言うまでもなく、寺井はハンク・ジョーンズの凄さをいやというほど良く知っているからなのですが…

そんな中、今年初めて寺井が「楽しいジャズ講座:映像でたどるジャズの巨人たち」のテーマに選んだのがハンク・ジョーンズ・トリオがフランク・ウエスはじめ4人のテナー奏者と共演するという日本のコンサート映像なので、楽しみで仕方がありません。

 

<ハンク・ジョーンズ略歴>

 JATP 1950 multi signed with clipped coupon Hank Jones.jpg  ハンクさんは1918年(大正7年)ミシシッピ州生まれ、奇しくもハンクさんがCM出演していたパナソニックの前身である「松下電気器具製作所」のできた年です。幼少期が米国の工業化に伴う労働人口の南部から北東部への大移動時代と重なり、家族でミシガン州ポンティアック(フラナガンの出身地デトロイトとすぐ近くです。)に移り住みました。父が聖職と木材関係の仕事に就くジョーンズ家の子供は七人、姉二人はピアニスト、ハンク、サド、エルヴィンのジョーンズ・ブラザーズはジャズ史に輝く天才兄弟ですが、ヒース・ブラザーズ(パーシー、ジミー、アルバート)のように兄弟で共演することは稀でした。

 

 プロデビューは13歳で、フラナガンはまだピアノの鍵盤の上に上るのがやっとのよちよち歩き。すでにミシガン一やオハイオで、そこそこ名の知れた楽団に入り巡業に明け暮れた。成人すると、地元のメジャー・ミュージシャン、ラッキー・トンプソンの誘いを受け、故郷を出てNYに進出、当時のジャズのメッカ、52丁目の有名クラブ《オニキス》でホット・リップス・(tp)と共演、たちまちエラ・フィッツジェラルドやビリー・エクスタインといったスター達から引っ張りだこの超売れっ子となった。 

 だからデトロイト時代のフラナガン少年にとってハンクさんは、親友(エルヴィン)の兄さんであったけれど、ラジオやレコードを通じてしか知らない名手、神と崇めるチャーリー・パーカーと共演する天上人で、実際にフラナガンがハンクさんに会ったのはずっと後、NYに出てきてからのことだった。 

 1959年、ハンクさんは、全国ネットワークCBSのスタッフ・ミュージシャンとなった。以来17年間、エド・サリヴァン・ショウなど、TV界屈指のスタジオ・ミュージシャンとして活動しながら、空き時間はNYのレコーディング・スタジオに入り録音に勤しむ毎日が続く。参加アルバムには、ビリー・ホリディ晩年の不朽の名作<Lady In Satin>、ウエス・モンゴメリー<So Much Guitar>、ローランド・カークの<We Free Kings>といったものから、ジョニー・マティスなどのポップ・スター達のアルバムまで数百枚に上る。

 HCD-2023-l.jpg1968年には、弟サド・ジョーンズとメル・ルイスの双頭ビッグバンドの創設メンバーとして兄弟共演を果たしています。毎日色んな場所でいくつもの仕事を掛け持ちするハンクさんについたあだ名は「キャンセル魔」-昼間に街で会って、「ほんじゃ今夜のレコーディング、よろしく頼むわ。」「よっしゃ!」と挨拶しても、現場に現れるのはハンクさんに頼まれた別のピアニスト、というのが日常茶飯事。それでも、ハンクさんの仕事が減らなかったのは、その腕前に対する絶大な信頼であったから。

 ’70年代中盤にはブロードウェイ・レビュー《Ain’t Misbehavin》で音楽監督とピアノを担当、流れるようなシングルトーンが身上のハンクさんの演奏スタイルとは異なるファッツ・ウォーラー・スタイルを見事に再現し、ジャズピアノ通の度肝を抜いた。一方では、日本企画の《グレイト・ジャズ・トリオ》が大当たり、パナソニックのTVコマーシャル「ヤルモンダ!」でお茶の間にも親しまれ、新旧の名手と様々なフォーマットで、世界各地を公演、92才まで現役レジェンドの道をひた走った。

 ジャズ・ミュージシャンの旬は案外短く、かつての名手も、70を越えたライブに行くとがっかりすることも。でもハンクさんのピシっと伸びた背筋と、タッチ・コントロールの完璧さは、80才を超えても不変だった。

その秘密はどこにあったのだろう?

 

<端整なプレイの陰で>

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 昨年、寺井のドラマー、菅一平さんから、彼が尊敬するバップ・ドラマー、ケニー・ワシントン・インタビューの日本語訳を頼まれました。ドラマー向けのインターネット・ラジオ番組”Drummer’s Resource“のものだったのですが、そこでケニーが大変面白い話をしていた。彼を「練習魔」にした人が、ハンクさんだったというのです。

ケニーの話を要約すると…

 僕が20代そこそこの駆け出しの頃、光栄なことにハンクさんからギグに誘われた。ベースはジョージ・ムラーツ!ピアノ・トリオのコンサートだ。演奏会場がハンクさんの家から遠く、音出しが早いので、「家内の手料理をご馳走するし、君が寝る部屋もある。前日から自宅に泊まりなさい。翌朝一緒に出発しよう。」と言ってもらった。

泊めてもらった翌朝6:30amに目覚めると、スケール練習をするピアノの音が聞こえてきた。Cメジャー、Dメジャー…順番に、全音と4ビートで稽古している。あの名人がこんな基礎練習をしている!!若いドラマーはぶっ飛んだ。

 

 やがて、ハンクさんが朝食を食べに食堂にやってきた。

「おはようございます。ジョーンズさん」

「おはよう、ワシントンくん、昨日は良く寝られたかな?」

「あのう…ジョーンズさん、さっきの練習は毎日やっておられるのですか?」

彼は私を真顔でじ~っと見つめた。

「そうだよ。あれは絶対にやらなくてはいけない。」

そのとき、僕の中でディンドン、ディンドンと鐘が打ち鳴らされた。当時ハンク・ジョーンズ70代だったが、物凄い名手だった。彼のタッチが完璧なのは、この練習を続けているからだんだ!

僕も今から同じことを始めれば、彼の年齢になってもプレイできるに違いない!!それから、僕は毎日早朝練習をするようになった。(つづく)

 

寺井珠重の対訳ノート(49)God Bless the Child

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 今年のライブも無事修了、<OverSeas>では寺井尚之が『メインステム』というトリオ(宮本在浩-bass、菅一平-drums)で毎月2回出演、毎回レパートリー入れ替えているから、メインステム・トリオの年間演奏曲はのべ350曲以上、その中で今一番印象深いのが、ビリー・ホリディの十八番”ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド”でした。ホリディの持つ「優しさ」と「哀しみ」のエッセンスがピアノ・トリオから立ち上り、なんとも愛らしいサウンドになっていたように思います。

 

<カフェ・ソサエティ>

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 “God Bless The Child”は、ビリー・ホリディとアーサー・ハーツォグJr.の共作とされていて、1941年にヒットした。1941年12月、日本は真珠湾攻撃によって、太平洋戦争へとなだれ込んだ。因みにボブ・ディランはこの年に生まれている。意外なことにホリディ自身のシングル盤で、ビルボードのトップ25にランクインしたのは、この曲だけらしい。ハーツォグは”Don’t Explain””Some Other Spring”といった名歌にもクレジットされているけれど、ソングライターとしての実績はビリー・ホリディ絡みの曲がほとんどだ。

 

billie_holiday-god_bless_the_child_s.jpg  この曲が作られた頃、ホリディは20代半ば、人種隔離をしないという、NYで最先端のナイトスポット、《カフェ・ソサエティ》で、毎夜喝采を浴びていた。この当時のナイトクラブは、黒人アーティストが出演していても、白人しか入場できないのが普通。ダウンタウンの高級店では、まずあり得ないことだったのだ。そんな《カフェ・ソサエティ》で歌う彼女のラスト・ナンバーは必ず”奇妙な果実”、それは「リベラル」を謳うこの店の要望でもあった。南部の凄惨な黒人リンチの情景を歌った”奇妙な果実”は、ポピュラー音楽初の名プロテスト・ソングとしてインテリ左派層から熱烈な支持を集め、ホリディの歌唱力は、その美貌と相まって、一躍カルト的な人気を得ることになります。それが却って、ホリディに過酷な運命をもたらすことになるだけど、ザッツ・アナザー・ストーリー。

 

<藪の中>

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 この歌は、ビリー・ホリディとアーサー・ハーツォグJr.の共作とクレジットされているのに、二人とも「本当は自分が作った!」と言い張って譲らない。

 ビリー・ホリディの証言:

ビリー・ホリディは自伝「Lady Sings the Blues」(ウィリアム・デュフティ編)で、”God Bless the Child”は「母子喧嘩の産物」だったと説明しています。 

 ―シングル・マザーのセイディ・フェイガンは「一卵性親子」と言えるほど、娘にべったり、かのレスター・ヤングは、ホリディを”レディ(貴婦人)”セイディを”侯爵夫人”と呼んだ。”侯爵夫人”は”レディ”にとって、心強いおかんであった反面、何かにつけて口出しするウザい存在でもあった。やがて娘が人気歌手となった頃に、母は「得意な料理の腕を生かしてソウルフードの店を持ちたい」と言い出した。渡りに船!

 「お母さんが仕事を始めたら、私も少し自由になれる!」

レディはセントラル・パーク・ウエスト99丁目に店を借りてやり、《ホリディの母さんの店》としてオープンしたものの、仲間のミュージシャンのたまり場となり、母さんは大盤振る舞い、おかげで店は赤字続きで、娘が自分の稼ぎで穴埋めしていた。でもある日、ホリディが金欠状態になっちゃった。そこで、現金商売の母の店に行き「お金を融通して。」と頼むと、なんと母親は断固拒否!それで大喧嘩になったというのです。

 私がこれまでどれだけお金を融通してきたか…なんて恩知らずな母親なんだろう!

 激怒したホリディは家を飛び出して三週間帰らなかった。家出しても腹の虫が収まらないレディ、そんなときにふと思いついたのがこの歌で、慌ててハーツォグJrのところに行き、曲を譜面に起してもらった、というのです。

 

アーサー・ハーツォグJr.の証言

  一方、ハーツォグJr.は、上のホリディの証言に怒り心頭、’90年代に出たビリー・ホリディ伝「Wishing on the Moon」(Donald Clarke著)で、このように語っています。

- “奇妙な果実”で人気をとったホリディのために新曲を書く必要があったハーツォグは白人だし、柳の下のドジョウを狙いたいけど、到底思い浮かばない。そこで彼は南部ボルティモア育ちのホリディに尋ねてみた。

「南部らしい新曲のアイデアはないかな?その土地の言い回しとか、何でもいいからヒントになる言葉があったら教えてくれないか。」

 それを受けて彼女がつぶやいた言葉が「God Bless the Child」だったというのです。ハーツォグが、言葉の意味を尋ねるとホリディはこう答えた。

 「母さんや父さん、兄さんや姉さんたち、身内が持っていてもだめ、神様は自分で持っている子しか祝福しないよ、という教訓なの。」

  それを聞いてビビッときたハーツォグが作ったのがこの曲。歌詞とメロディーを全て自分で創作し、音楽パートナーのダニー・メンデルソーンが譜面に仕立てた。それにもかかわらず、ホリディは自分の名前を作者として入れるよう要求した、というのです。ハーツォグは「ビリー・ホリディに創作の力はない」とまで言い切っていて、憤懣やるかたない様子です。

 

<聖書の教えは…>

 「持つ者は富み栄え、持たざるものは失うのみ、聖書の言葉は今も新しい・・・」この歌の最初のスタンザは確かに聖書の言葉で、「マタイによる福音書-25章29節」を言い換えたものです。これは「タラントンのたとえ」といわれている寓話の一部で、その意味するところは、諸説あるのですが、この二行だけ見ていると、民主主義が機能不全になってしまった今の格差社会を言い表しているようにも思えます。なるほど、聖書の教えは今も新しい!

            God Bless The Child (1941)

ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド

 

Them that’s got shall get,

Them that’s not shall lose,

So that’s Bible said, and it still is news.

Mama may have,

Papa may have,

But God bless the child that’s got his own!

That’s got his own.

 

Yes, the strong gets more

While the weak ones fade.

Empty pockets don’t ever make the grade.

Mama may have,

Papa may have,

But God bless the child that got his own!

That’s got his own.

 

Money, you got lots o’friends

Crowdin’ round the door.

When you’re gone and spendin’ ends,

They don’t come no more,

 

Rich relations give, crust bread and such,

You can help yourself, but don’t take too much!

Mama may have,

Papa may have,

But God bless the child that’s got his own!

That’s got his own.

 

持つ者は富み栄え、

持たざる者は失う。

それは聖書の言葉、

今も変わらぬ教訓だ。

たとえママやパパが持っていても、

神は、自分で持つ子に祝福をお与えになる!

自分で稼ぐ者だけに。

 

そう、弱者が滅びる傍らで、

強者は富み栄える、

空の財布じゃ成功できない。

たとえママやパパが持っていても、

神は、自分で持つ子に祝福をお与えになる!

自分で稼ぐ者だけに。

 

金さえあれば友達が沢山できて、

玄関先に群がってる、

だけど使い果たして、

一文無しになってごらん、

もうだれも寄り付かない。

 

裕福な親類が、パンの耳くらいくれるだろう、

さあ、もらいなよ、でも取りすぎは禁物!

たとえママやパパが持っていても、

神は、自分で持つ子に祝福をお与えになる!

自分で稼ぐ者だけに。

20150727163936_70.jpg 母子喧嘩か、南部ネタなのか・・・

 いずれにせよ、今年ライブで聴いた<ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド>は、ジャズクラブの片隅でドタバタ悪戦苦闘する私の中に、するっとほ入ってきて、ほろ苦い味わいとともに、涙をぬぐってくれました。

 今年もなんとかOverSeasもやってこれました。今年一年、応援してくださった全ての皆さまに心からの感謝を!皆さま、どうぞ良いお年を!

CU

 

 

クリスマスの情景

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 家の宗派は臨済宗(ゆるく)、そのくせ通ってた幼稚園は日本キリスト教団、だから、大昔の私のクリスマスはキャンドル・サービスと讃美歌です。
 その頃、クリスマスに父が買ってきたシングル盤がこれ、Bing Crosbyの<White Christmas>、裏面が<Jingle Bell>。
 それを両親が座敷に出現した新品のモジュラー・ステレオで鳴らして、畳の上で手を取り合ってダンスしてた。それが何とも楽しそうで、私もよちよち歩きの弟と、見様見真似でダンスしたのが楽しくて楽しくて・・・
 ずっと後になって、父と母は進駐軍占領時代、ダンスホールとして使われていた海辺の浜寺の大きなお屋敷で出会い、大恋愛の末結ばれたと、「あんたのお父ちゃんは、お母ちゃん一筋や。何千人に一人おるか、おらんかのええ亭主やで。」と親戚のおばあちゃんから聞きました。
 だから私にとって「ホワイト・クリスマス」は楽しかった子供時代、一家団欒のシンボル。
 
 OverSeasで聴いていただく寺井トリオの<White Christmas>も、そんな幸せなひとときを皆さんにプレゼントできますように。
 
May your days be merry and bright, 
And may all your Christmases be white!
 
メリー・クリスマス!

発掘男ゼヴ・フェルドマン in NY Times

  ご無沙汰でした!

 秋に病気をして退院してから、てんこもりの雑用をこなしていたら、もうクリスマスが・・・

 ここ数年間、翻訳でお世話になっている《レゾナンス・レコード》のゼヴ・フェルドマンさん、別名「世界の発掘男」が、今月初めにNYタイムズにデカデカと載っていたので、リハビリを兼ねて和訳しました。今年リリースされたジャズ・アルバムの傾向と共に、ゼヴさんのユニークな点が余すところなく語られています。

 原文はNYタイムス電子版でお読みになれます。


Jazz Recordings With a Sense of History and Discovery

-歴史発見感覚のジャズ・レコーディング-

ニューヨーク・タイムズ電子版 2016 12/5 付 (執筆者 ネイト・チネンデック)

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“レゾナンス・レコード”はサラ・ヴォーンによる1978年のライブ盤を発売している。

写真:サラ・ヴォーン(於サンフランシスコ、1970、 撮影Tom Copi)

 今年リリースされたジャズの必聴アルバム中の一枚は、半世紀も前の録音、もう一枚は1968年録音、これ以外にも同時期に録音されたアルバムが何枚も出ている。これらは全て、今年の主要トレンドを反映した作品だ。ジャズのレコード業界は、かねてから過去の音源発掘を常としてきたが、今年は従来の規範を超えた歴史的アルバムの大豊作で、多くが大発見の興奮を伴うものだった。

 その中には、全曲未発表のエロール・ガーナー演奏集<Ready Take One >、最近発見されたチャーリー・パーカーの録音セッション<Unheard Bird >がある。その一方、ハーレムの《ナショナル・ジャズ・ミュージアム》は、所蔵の歴史的レコーディングから選りすぐりの音源をデジタル・アルバム化してリリースを開始した。<The Savory Collection, Volume 2 — Jumpin’ at the Woodside: The Count Basie Orchestra Featuring Lester Young >はApple MusicとiTunesより金曜日に発売される。

 この潮流の中で、最も注目に値するアルバムを数多くリリースしたのは”レゾナンス・レコード”だ。”レゾナンス”は、発掘の使命感に燃える新規レーベルだ。ポストバップの先駆者となったオルガン奏者、ラリー・ヤングの絶頂期である’60年代に焦点を当てた< Larry Young in Paris: The ORTF Recordings >, ピアニスト、ビル・エヴァンスによる1968年の知られざるスタジオ録音盤、また、こじんまりした会場で、リラックスした独壇場のパフォーマンスが楽しめるサラ・ヴォーン(’78)、シャーリー・ホーン(’88)それぞれのライブ盤などをリリースしている。

 加えて、”レゾナンス”は、テナー・サックス奏者、スタン・ゲッツのアルバムを2作リリースした。サンフランシスコのクラブ《キーストン・コーナー》でのライブ盤< Moments in Time >は秀逸なカルテットのプレイ、そして、もう一枚はボサノヴァの巨匠、ジョアン・ジルベルトとのリユニオン・セッション<Getz/Gilberto ’76>でジルベルトの気取らないサウンドが輝きを放っている。さらに、このレーベルの年頭を飾ったアルバムは、サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch.創立時のドキュメント< All My Yesterdays: The Debut 1966 Recordings At the Village Vanguard >であった。

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“レゾナンス”・レコード総支配人、ゼヴ・フェルドマン:多くの成功作は彼の功績だ。

 これらのアルバムには、それぞれ多くの資料が梱包されている。それは、新たに発見された歴史的写真、特別寄稿文、音源に参加した現存ミュージシャンのインタビューといったもので、例えば< Larry Young in Paris >の付録は68ページの豪華ブックレットだ。

 ”レゾナンス”は、音源の修復からパッケージ・デザインに至るまで、コレクターの理想とする「芸術作品としてのアルバム」制作のために、多額の資金をつぎ込んでいる。このような徹底ぶりは、アルバム関連のオンライン・ヴィデオ・ドキュメンタリー・シリーズの制作にまで至る。しかし、”レゾナンス”のこだわりこそが、一介の悪ノリ新興レーベルから、この分野を牽引するトップ・レーベルの座へと飛躍する原動力となった。

 ”レゾナンス”の創設者、ジョージ・クラビンはロスアンジェルスのオフィスから、電話インタビューで次のように語った。

クラビン:「うちのアルバムは、それぞれが小さな展覧会のようなものなんです。美術館の回顧展に行けば、展示室にそのアーティストの作品が所狭しと並んでいますよね。我々は、同じことをレコーディングで行っているんですよ。」

 現在のクラビン氏の立場には、ちょっとした偶然が絡んでいる。彼は長らくレコーディング・エンジニアの仕事に従事していた。コロンビア大学在学中には、サド・メルOrch.を録音していて、新人アーティストを支援し、彼らの作品を市場で流通させてやりたいという思いから、非営利団体”Rising Jazz Stars Foundation”を創設した。つまり”レゾナンス”は、この団体の一部門として、新人支援の規範の下に発足したのだ。

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1968年のビル・エヴァンス:”レゾナンス”は、同年のスタジオ録音をアルバム・リリースしている。撮影:German Hasenfratz,(via Andreas Brunner-Schwer)

  しかし、ベテラン・レコード・プロデューサーであり、モザイク・レコードの総帥として、ジャズ復刻盤の金字塔を打ち立てたマイケル・カスクーナが持ち込んだ、巨匠ギタリスト、ウエス・モンゴメリーの初期のテープにより、状況は一変する。このテープを2012年にアルバム<Echoes of Indiana Avenue>として発表したことを契機に、< Bill Evans — Live at Art D’Lugoff’s Top of the Gate >や、サックス、フルート奏者、チャールズ・ロイドの初期の音源を2枚のアルバムとして相次いでリリースすることになる。

 組織内の音源修復とマスタリング部門を統括するクラビン氏と並ぶ “レゾナンス”成功の仕掛け人が、総支配人ゼヴ・フェルドマンだ。根っからのジャズ・マニアであり、ポリグラムやコンコードといった大手レコード会社の営業部門に勤務してきた彼は、クラビン氏に要請されるまで、よもや自分がアルバムのプロデュースを担当するとは思わなかった。

 今年の夏、フェルドマン氏はグリニッジ・ヴィレッジでコーヒーを飲みながら、以下のように語った。

 「往々にして、私の情熱は、自分のキャリアの妨げとなってきました。昇進ができなかったり、就職を断られたこともあります。私のエネルギーと熱弁に、相手が怖気づいてドン引きしちゃうんですよ。」

逆に “レゾナンス”では、この性癖が功を奏した。彼に課せられた重要任務は、権利関係や使用許諾といった「交渉」であったからだ。

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左から:スティーブン・ウィリアムス、シャーリー・ホーン、チャールズ・エイブルズ:ホーン、このメンバーによる1988年のライブ盤も今年の新譜。
写真:米国議会図書館蔵

 

 マイケル・カスクーナは感嘆をこめて彼を語る。
「ゼヴは闘犬みたいな奴だ。これまで、我々の多くが骨折り損だと思い手を付けなかった案件を、持ち前のエネルギーのせいか、非常に合理的な根拠のせいか、とにかく彼は、どんどん話をまとめて、次から次へと奇跡を起こしてみせるんだよ。」

レーベルの新作には、ピアニスト、ジーン・ハリス率いるソウル系ジャズ・トリオ、”スリー・サウンズ”、”ファンク・ブラザーズ”のギタリストとして有名な、デニス・コフィーのライブ盤もある。(両作品は”ブラック・フライデー”にLP限定で発売され、来年1月13日にはCDとして幅広く販売される。)

“レゾナンス”の新年発売予定ラインナップ中、最大の注目作は、エレクトリック・ベースの巨匠、ジャコ・パストリアス率いるビッグバンドのアルバム< Truth, Liberty & Soul — Live in NYC: The Complete 1982 NPR Jazz Alive! Recording >で、4月の「レコード・ストア・デイ」にリリースが予定されている。これらを含め全新譜のアルバム作りがレーベルのポリシーに沿ったものであることは言うまでもない。

クラビン氏は「毎回、ここまで手間暇かけて制作するのは本当に難しい。」と、自らの経営モデルを語るが、笑いながら次のように付け加えた。
 「誰かが同じような事をやりたいと思っても、やめといた方がいいと説得された挙句、尻尾を巻いて退散するのがオチだろうね。」

氏はさらに語る。「私たちの仕事は、まさに社会奉仕なんだ。これらの素晴らしいレコーディングを、このようなかたちで発表して、天から贈られた音楽の贈り物をこの世に復活させている。皆さんに楽しんでほしいという願いを込めてね。」 

訳:寺井珠重

 

アキラ・タナ LiveReport=祝ジミー・ヒース90才!

noda_sara_hisauki_n.jpg  お久しぶりです!楽しみにしていたアキラ・タナ(ds)さんをお迎えしたコンサートを10月25日に開催しました。

ここ2年間、春と秋にサンフランシスコから来演していただくアキラさん、圧倒的なドラミングと温かい笑顔、その人柄に、すっかり魅了される仲間が増える一方。寺井尚之とのプログラムは、毎回アキラさんゆかりのジャズ・ジャイアンツへのオマージュが溢れていて、還暦を過ぎたベテラン達が青年時代から持つジャズへの愛情が少しも損なわれていないことが伝わってきます。ユーモアと先人への礼節が溢れるセッションは、そこ抜けに楽しくて、アキラさんの出演には、万難を排して集合してくれる仲間が増えて嬉しい限りです。

jimmyheath.jpg コンサートの10月25日は、ちょうどジミー・ヒース90才の誕生日!米国では、この前後に、NYとワシントンDCで盛大なバースデー・コンサートが開催されています。’70年代終盤、若きアキラさんは、ジミー・ヒースの”ヒース・ブラザーズ”に抜擢され、一躍注目を浴びました。寺井尚之にディジー・ガレスピー直伝のビバップ理論を懇切丁寧に教えてくれた恩師でもあります。二人は、ジミー・ヒースの作品を一杯演奏して、日本からのお祝いにしよう!と固く心に誓っていました。

 そのため、寺井尚之(p)は虎視眈々とプログラムを練りに練り、宮本在浩(b)とじっくり準備を整えていました。コンサートは、アキラさんが繰り出す自由自在のグルーヴで、寺井尚之の豊かな音色のバップの大技を一層スイングさせます。宮本在浩(b)は安定したボトムラインで、ベテラン二人の自由なプレイを支える見事なトリオのコンサートになりました。

 会場には、長年のジミー・ヒースやヒース愛好家も数多く、ジミーの曲がコールされると大拍手、アドリブにGingernread Boyが入ると歓声が!

 終演後は皆で記念写真を撮ってジミー・ヒースご本人に送付。大喜びしてもらいました。折しも来日中だった、巨匠フランク・ウエス(ts,as,fl)の未亡人、サラ・ツツミさん(一番上の写真で寺井尚之の左側の金髪のレディ)がコンサートに来てくださったのも光栄でした。アキラさんと知己のサラさん、この日の演奏を大変喜んで、ジミーさんに電話で報告されたそうです。お客様達もフランク・ウエスの奥さんに会えて大興奮!

=曲目=

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<1st>

1. Hi-Fly (Randy Weston)
2. Out of the Past (Benny Golson)
3. Mean What You Say (Thad Jones)
4. Lament (J.J.Johnson)
5. Commutation (J.J.Johnson)

<2nd>

1. Bro Slim (Jimmy Heath)
2. New Picture (Jimmy Heath)
3. For Minors Only (Jimmy Heath)
4. The Voice of the Saxophone (Jimmy Heath)
5. Project ‘S’ (Jimmy Heath)

<3rd>

1. What Is This Thing Called Love (Cole Porter)
2. Quietude (Thad Jones)
3. It Don’t Mean a Thing (Duke Ellington)
4. Ellington’s Strayhorn (Jimmy Heath)
5. A Sassy Samba (Jimmy Heath)

Encore: どんぐりころころ

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 ジミー・ヒースの録音がある曲には、アルバムにリンクを貼っています。3rd セットのジミーの作品は二曲ともアキラさんがレコーディングに参加しています。ぜひ聴いてみて下さいね。

 アンコールの「どんぐりころころ(リズム・チェンジ)」は、東日本大震災復興支援のために、アキラさんが立ち上げた日本人+日系人バンド音の輪””のレパートリーです。こちらも収録CDがありますのでぜひ!

 

 =家族のドラマ=

akira cousins.JPG 左から:アキラ・タナ、田名尚文牧師、尚文さんのお嬢さん

 そして、客席にはもう一つのドラマがありました。Interludeの読者の皆さんはご存知のように、アキラさんの両親、田名大正師、ともゑさん夫妻は、米国に移民した日本人コミュニティのために、1930年代終盤に北海道から米国に渡り、現在も、たくさんのご親戚が日本に居られます。この日は、まだ会ったことのないアキラさんを訪ねて従兄にあたる方が、SNSではるばるOverSeasにご来店!その方は田名尚文(たな ひさふみ)さん、やはり札幌出身で、退職後、三重県にある日本キリスト教団鳥羽教会の牧師様として活動されています。アキラさんも風光明媚な海街からやって来た従兄に出会えて感無量!温かく穏やかな笑顔はDNAのなせる業なのか、談笑する田名ファミリーの姿に、私もまた感無量でした。 

 初対面のアキラさんの印象はどうだったのでしょう?終始にこやかにコンサートを楽しんでくださった尚文さんに伺いました。
 「地位も名声もあるのに飾らない。山田洋次監督の主人公「とらさん」のように、周りを包み込む温かさを感じました。
米国で育って居るのに日本で育った日本人以上に日本人らしさを感じます。脇役に徹していつも主役を支える役目に喜んで参加する。そんな『ほっこり』型のおじさんに見えました。
 演奏は凄いとしか言い様がありませんが、見ている人を楽しませる術をも自然に表現しているように感じました。」

 尚文さんの印象は、私たちのアキラさんへのイメージを端的に代弁するものですね!

 世界トップクラスの実力と、東北復興支援に努力を惜しまない優しさ、その活動を継続する力と、人間力、巨匠ドラマー、アキラ・タナ!来年4月に再び来日する予定、また一緒に楽しみましょうね!

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ジャズとは無関係なトランプ候補のことを子供に説明したアメリカのお父さん

   trump8b.jpg日本でも、ときには国会より扱いの大きな米国の大統領選挙戦。ドナルド・トランプ候補が、過去に隠し録いされた女性蔑視発言と、それを擁護したトランプのブレーンで元NY市長、Rジュリアーニの発言も、ワイドショーでガンガン報道されてました。
 

 一方、10月9日、ミシガン州に住む一般男性が、FB上でこの話題について、(未来の)幼い息子たちにきっちりと説明したメッセージを発信したら大反響!

 ちょうど子供の頃に、ラジオで流れてた「全国子供電話相談室」と、フランク・キャプラ監督の映画を足して二で割った感じ。しっかりしていて力強いメッセージだったのです。「感動した!」という賛同のコメントにまじって、「何が悪い?クリントンはどないやねん?!」というような非難ごうごうのコメントも一杯で、やれやれという感じ。

 とにかく読んでいてじーんときたので訳してしまいました。


「男なら、そんな事を言うときもある。」

 ドナルド・トランプ大統領候補の女性蔑視発言について、元NY市長ルドルフ・ジュリアーニ

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 カレブとイーサンへ:

 幸運にも、今の君たちは、政治的な話題を見聞きしたり、興味を持つには若すぎる。

それに、まだFBアカウントを持つ年頃でもない。でも、君たちが私とFB友になる日も近いんじゃないかな。
そしていつか、退屈しのぎや興味本位から、昔、親父はどんな投稿をしていたのかと、覗いたりするかも知れない。
面白いエピソードや、ちょっとした教訓がないかと思ってね。そんなときのために、書き留めておくことにする。

 「男」ならいかなるときも、あんなことは言わないものだ。
 確かに、君たちと同じXとYの染色体を持つ人間の中に、そんなことを言う者は居る。だが、そういう連中を「男」とは呼ばない。
 そういう人間は「色情狂」「悪人」「強姦魔」と呼ぶのだ。本当の「男」はそんなことは言わないし、言おうと思いもしないんだぞ。

 これから君たちは、「男」はいかに振る舞うべきか、「男」になるにはどうすればいいか、散々耳にするだろう。
だが、その大部分はまったく役に立たないゴミ屑だ。本当の「男」になりたければ、見せかけの男らしさや男性優位主義は忘れなさい。 
 それは、君たちの周りに居る弱い人、無防備な人―いじめられっ子や、君たち自身の子どもを守る、ということにつながる。男だって、赤ん坊はのときは、親たちが一晩中寝ずに哺乳瓶を温め、おむつや、おねしょで濡れたベッドのシーツを替えてやり、自分たちは、そこで吐いたり、ウンチしたり、血を流したり、泣きわめいているんだ。弱者と責任を持つ者は、互いに心を通わせなければいけないということにつながる。自分たちの中にある醜さのために犯しった間違いや過ちを、素直に認め、許してもらえるまで謝るということにつながる。

 本当の「男」なら、子どもたちの楽しい笑い声を聞くためなら、コスプレだってするし、自分からすすんで笑い者にだってなれる。本物の男は、場合によっては絶叫するし、しくしく泣くものだ。本物の男は、女性たちに尊敬を持ち、礼を尽くし、大切にする。なぜなら、私達は皆、神がご自分の姿に似せてお創りになった同じ人間なのだから。

 「男」でいるのは楽じゃない。これから君たちも大変だよ。だからね、誰かが汚らわしい言葉や振る舞いを正当化して、君たちの「男」としての尊厳を傷つけたときには、怒りなさい。そして声を上げなさい。そんな連中の物差しで物事を判断させてはならない。要するに「男になれ!」ってことだ。

父よりー

関連記事:A dad explained Trump’s words to his sons and made a powerful point about masculinity. Derek Steele said it perfectly.

秋のトミー・フラナガン・トリビュート11/19(土)開催!

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  暑かった夏がやっと過ぎ、肌寒い季節になりました。皆様いかがお過ごしですか?

 OverSeasの年中行事、トミー・フラナガンを偲ぶ秋のトリビュート・コンサート“Tribute to Tommy Flanagan”、今年は11月19日(土)に開催します。

 名曲Dalarnaを始めとするオリジナル曲、フラナガンがこよなく愛したサド・ジョーンズやエリントンの楽曲、ビリー・ホリディのヒット曲、そして深いメドレーなどなど、レコードで、そしてライブやコンサートで感動を与えてくれた名演目の数々を、トミー・フラナガンの弟子として今もなお研鑽を重ねる寺井尚之率いる名トリオ、The Mainstem (宮本在浩-bass 菅一平-drums)の演奏でお聴かせします。

 長年のフラナガン・ファンから、日頃ジャズに馴染みのない方々も、来てよかった!と思って頂けるコンサートにいたします。

“Tribute to Tommy Flanagan”ぜひお越しください!

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 ”Tribute to Tommy Flanagan” トミー・フラナガン追悼コンサート

    演奏:寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)

 11/19(土) 7pm- / 8:30pm- (入れ替えなし)

 前売りチケット(3000円)は当店にて発売中。お早めにお求めください。

 

 

闘病中のGeorge Mraz を援助する寄付サイト

george14276579_1473211274.1474_funddescription.jpg  我らが兄貴、ベーシストのジョージ・ムラーツは、去る7月8日に膵臓嚢腫の除去手術を受けました。

 幸いに嚢腫は良性でしたが、術後に心臓発作を併発、その他の合併症のために現在も闘病中です。ジョージの妻、カミラさんが、ムラーツの快癒を祈念して、寄付サイトを立ち上げています。寄付の方法は簡単な英語ができて、クレジットカードをお持ちでしたら、比較的安易に、また安全に出来ます。

 これまでに、旧友のジョン・アバクロンビー、ジョン・スコフィールド達、これまでの共演者、アーマッド・ジャマル(p)、ケニー・バロン(p)、エミール・ヴィクリッキー(p)、ベニー・ウォレス(ts)ジョーイ・バロン(ds) etc…バスター・ウィリアムス、北欧のハンス・バッケンロスを始めとする先輩後輩のベーシスト、そしてクインシー・ジョーンズまでが、彼の才能を讃え寄付を行い、寺井尚之と私も些少ですが、このサイトを通じて御見舞いしました。現在3万ドル近い金額が集まっていますが、治療費、生活費を考えると、決して安心できる金額ではないと思います。

 ジョージ・ムラーツに御見舞しようという皆さまは、一度、このサイトをご覧になってみてください。

 

 

対訳生活アゲイン

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写真:エラ・フィッツジェラルド&ノーマン・グランツ 於 南仏アンティーブ’64

 寺井尚之が、トミー・フラナガンのディスコグラフィーを時系列に辿りながら解説する月例講座、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」が始まって早13年。解説の内容も、爆笑度もますますヴァージョン・アップして第二期に突入中。

 9月から第一期エラ・フィッツジェラルド共演時代が始まります。トミー・フラナガンとエラ・フィッツジェラルドのレギュラー共演は、2つの時代に大別され、第一期は1963年~65年、第二期は1968~78年、エラの元から独立した後、フラナガンの演奏は円熟期に入ります。

 チック・ウェッブ楽団で磨かれた天才バンド・シンガー、エラ・フィッツジェラルドの即興演奏芸術は、一般的な「歌手」の範疇を大きく超越したもので、「引用」フレーズを散りばめるアドリブ技法や、「転調」で3D的歌唱世界を作り上げる様子は、まるでピカソのキュビズム絵画のようです。

Ella_at_Juan_les_pins_1.jpg というわけで、今後しばらくは毎月エラのアルバムが解説されることになるので、私の「対訳生活」がまた始まります。まずは『Ella at Juan-Les-Pan』(’64)から。

 南仏のリゾート地の野外コンサートに併せて、歌詞はどんどんオリジナルから離れて、ほぼ原型をとどめない歌もあるほどです。だからといって、終始行き当たりばったりに変えているわけではなく、ジャズ・ミュージシャンと同じような思考回路で、無限にある音楽の引き出しから、「スイングしていて意味のある」言葉を選んでいるようにも思えます。

 その証拠に、現代のブルース研究の第一人者、メンフィス大学教授のデヴィッド・エヴァンスが編纂したブルースの研究所『Ramblin’ on My Mind/ New Perspectives on the Blues』では、エラの歌った”セント・ルイス・ブルース”について、彼女の歌詞やメロディーのどのフレーズが、どの時代の誰のブルースから引用されているかを研究した章があるくらいなのですから。

 尤も、歌詞というものは、歌唱要素の一部にすぎません。寺井尚之が私の対訳を使って、様々な角度からエラとフラナガンの芸術を浮き彫りにしてくれるのは、ほんとうに面白い!

 また色々こぼれ話を書いていこうと思っています。ご興味があれば、講座にも足を運んでみてくださいね。

 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」毎月第二土曜日 18:30- 開講
    参加料2500(学割チャージ半額)

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