エディ・ロック(1930-2009)告別式のお知らせ

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2008年6月の雄姿 撮影:John Herr
ドラマー、エディ・ロック(ds)告別式のお知らせ
日時: 11月22日(日)7pm-
場所:聖ピーターズ教会
St. Peter’s Church: 619 Lexington Avenue at 54th Street, NY.NEW YORK
tel : 212-935-2200

 エディ・ロックさんの告別式の詳細が決まりましたので、Interludeに告知させていただきます。場所は、昨年4月のジャズ講座で楽しんだライブ盤『Eddie Locke(ds)&Friends Live at St. Peter’s Church』の舞台となった聖ピーターズ教会。この教会で盛んに演奏されていたエディさんにとって文字通り「ゆかりの地」でのお別れになりました。演奏者は先日OverSeasに出演してくれたショーン・スミス(b)、ショーンと同じようにエディさんに師事したビル・シャーラップ(p)、ジョン・ゴードン(as)その他の予定です。残念ながら私たちは行くことができませんが、NYにいらっしゃる方は、ぜひ参加して、エディ・ロックというドラマーが、NYのジャズ・コミュニティでどれほど敬愛されたかを偲んでいただきたいと思います。

 レコードが少ないため、確かに日本で知名度が低く、正しい評価を頂けなかったかも知れませんが、エディ・ロックのCaravanを知らずに、NYジャズ・ミュージシャンのはしくれとは言えないでしょう。
 評論家ナット・ヘントフは、エディ・ロックについて『”活力溢れるジャズライフ”そのままの生き様だった。』と語っています。
 これを機会に、トミー・フラナガン(p)、エディ・ロック(ds)、メジャー・ホリー(b)の黄金カルテットによる一連のコールマン・ホーキンスを聴いてみて欲しいものです。

 息子代わりのショーン・スミス(b)は、先日のコンサートの後、このカルテットについて、こう言っていました。「レギュラー・バンドで、しかもプライベートでも家族同然に付き合う関係は、本当に稀なものだし、一連の共演盤には、そういうコミュニケーションがすごくよく表れているよなあ・・・。」
 ドラマー、エディ・ロックを、まだご存じない皆さんのために、ここに彼の経歴を簡単に書いておきますね。
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 エディ・ロック Edward “Eddie” Lockeは 1930年8月2日デトロイト生まれ、デトロイト育ち。子供時代の経験については、ジャズ講座の本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第5巻の附録に肉声が載っていますので読んでみてください。
 6才頃からドラムを始め、殆ど独学で腕を磨き、オリバー・ジャクソン(ds)とヴォードビル・チーム「Bop & Locke」を結成して人気を博した。’54年、巨匠、コージー・コール(ds)の薦めでNYに進出し、アポロシアターにデビュー以後NYに留まる。当初は、パパ・ジョー・ジョーンズの住み込み”弟子”として楽器運びをしながら、舞台の袖から師匠を観て学びました。

   ロックは師匠パパ・ジョーについてナット・ヘントフにこのように語っています。
「ジョー・ジョーンズは、今まで観た全ドラマーのうち、最もクリエイティブだった。他の誰もがしていない技を次々と創り出した。彼のようなブラシュ・ワークは、他に観たことがない。」
 その他にロックが影響を受けたドラマーにはソニー・グリアー、ジミー・クロフォード、ジーン・クルーパがいる。NYでのブレイクは、’50年代、NYジャズ・クラブのメジャー・リーグとも言えるメトロポール・ジャズ・クラブだった。’58年にロイ・エルドリッジにレギュラーとして雇われ、長年に渡り共演、”Eldridge’s Swingin’ on the Town”( Verve’60録音)を始めとして数多くのレコーディングや「ジミー・ライアンズ」で共演。同時にコールマン・ホーキンス(ts)ともレギュラー活動し、’69年、ホーキンスの死去まで公私ともに親しく付き合った。 Good Old Broadway, The Jazz Version Of No Strings ( Prestige )Hawkins! Alive! At The Village Gate(Verve) Today And Now (Impulse)など数多くの共演盤を残す。 
 ロックは最高のサイドマンでしたが、’80年代にはサー・ローランド・ハナ(p)を擁した自己バンドを率いて活動し、晩年もたびたびリーダーとして演奏を続けていました。  NYのファースト・コール・ドラマーとして、ホークやエルドリッジ以外にもテディ・ウイルソン(p)ケニー・バレル(g)アール・ハインズ(p)など共演者は書ききれません。またTonight Showなど多くのTV番組のピット・オーケストラでも演奏していました。
 ジャズ評論家、故スタンリー・ダンスはスイング時代についての著作で、エディ・ロックについて次のように述べています。「ロイ・エルドリッジとコールマン・ホーキンスという2人の大巨匠の音楽を理解し、それぞれの高度な音楽的要求に応える逸材である。」

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 ロックはまた、ジャズ史上極めて有名なエスクワイヤ誌に掲載された写真、「グレイト・デイ・イン・ハーレム(1958 アート・ケイン撮影)」に映る著名ジャズメンの数少ない生き残りでした。当時28歳で、最も最年少のジャズメンのひとりとして、歴史的瞬間に参加しています。きっと師匠のジョー・ジョーンズが弟子のエディをひっぱって一緒に映ったのでしょうね。もうあの写真の中で現存するミュージシャンはソニー・ロリンズ、マリアン・マクパートランド、ハンク・ジョーンズ、ベニー・ゴルソン、そしてホレス・シルバーの5人しか残っていません。
 また、ロックさんは、コールマン・ホーキンスなど巨匠たち(たぶん、トミー・フラナガンも!)の膨大な写真のコレクションを所有していましたが、現在はコロンビア大学の図書館が買いあげ所蔵しているそうなので、チャンスがあれば、ぜひ閲覧してみたいものです。
 多忙な演奏活動の合間を縫って、ロックは、音楽教師としても活動し敬愛されました。その中には現在プロで活躍している人も多く、先日OverSeasに出演したショーン・スミスやビル・シャーラップ(p)もロック門下です。
 ロックさんの遺族は、二人の息子さんと二人のお孫さんで全員ハワイ在住。昨年初めに心臓発作で救急治療を受け、ペースメーカーを装着していたものの、病院での治療を頑なに拒否し2009年 9月7日、NJの知人宅で亡くなられたということです。
左からフラナガン、コールマン・ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)
エディ・ロック:「教師としての私の役目は、若い人たちを正しく成長させること。今流の音楽を演る場合も、偉大な先人やジャズの歴史を踏まえた上で演るのと、演らないのでは、全く違った出来になる。若い人に、そういう基本を伝えたい。」

合掌

レッド・ミッチェル(その2):私がチューニングを変えた理由

 お元気ですか?今日ショーン・スミス(b)夫人の安紀子さんから丁寧なお礼状をいただきました。コンサートの後、掲示板にいだだいた皆さんの感想を読んで感激して泣いてしまったそうです。「心に触れた音楽の感想が、今度は自分の心に触れた。」とメールに書かれていました。
 ショーン・スミスは自己グループで10月5日(月)にNYブルーノートに出演します。銀太くんやNYにいらっしゃる皆さんはCheck It
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 さて今日は、ショーン・スミスもオリジナル曲を献上しているレッド・ミッチェル(b)伝の続きです。10日(土)のジャズ講座にはトミー・フラナガンとのデュオ・アルバム、『You’re Me』が登場することですので、今回はミッチェルの「あの」サウンドを生む革新的な調弦方法“五度チューニング”について探ってみたいと思います。
 ジャズ批評家であり作詞家のジーン・リースによるインタビュー集"Cats of Any Color “の中の”The Return of Red Mitchell”を読むと、音楽ファンであり音響工学の専門家であった父にはぐくまれ、科学と芸術の両方を突き詰めるルネサンス時代のレオナルド・ダ・ビンチのようなアーティスト像が見えてきます。
<音階とは?>
  父は、「自然は必ずしもバラの花園を意味しない。」という事実を、幼い私にも、ちゃんと説明することが出来る人だった。つまり、我々が「音階 (the scale)」と呼ぶものは、「こんな音を聴きたい。」という願いの産物で、自然界のどこにも「音階 」など見つからない。「音階 (the scale)」は人間の世界にしかないものなんだ。
 弦楽器の場合、4度チューニングと5度チューニングの2種類にするとき、「音階」とは二種類の調弦の軋轢(あつれき)の妥協点だ。4度チューニングにするなら、トップノートのピッチは低く、ボトムは高くなり、物理的にスケールの音程幅は短くなる。逆に5度チューニングにすると、スケールの幅は大きくなり、トップノートは高く、ボトムは低くなる。
<コントラバス調弦史と四度チューニングの功罪>
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  いつか私はこのテーマについて本を書こうと思っている。その中で、何故ベーシストやチェリストで相性の良い演奏家達がいるのかを説明するつもりだ。要するに、異なったチューニングさえしなければ、皆うまくサウンドするということなんだけどね。ベース以外の弦楽器は全て五度チューニングだし、実際ベースという楽器も、最初はそうだった。
  現在のベース・チューニングの基本である四度チューニング(上からG-D-A-E)は、全ての交響楽団に於いて、ベースVS他の弦楽器の間に「戦争」を起こす元凶で、四度チューニングは、最悪の間違いだ。ベースの四度チューニングは18世紀から徐々に普及し始めたと僕は思っている。元々ベースは現在の4弦でなく3弦で、僕と同じように上からA-D-Gと五度チューニングをしていたんだ。
  当時は、ガット弦(羊の腸で出来ている弦)しかなく、それでC弦を作ろうとすると人間の親指より太くなってしまうので、C弦を作ることが出来なかった。巻線というものがなかったからね。それでベースの最低音はG(ピアノの最低音のAより7度上)、その五度ずつ上がってD、Aと、三弦をチューニングするところからベースの歴史は始まった。
   実際のところ、他にもいろいろチューニング法はあったんだが、オーケストラの音楽家たちも、まだその辺りをきっちり分析できていない。
 ロンドンのロイヤル・フィルハーモニック交響楽団がNY公演中、僕はブラッドリーズに出演中で、楽団のベース奏者が8人連れ立って三晩聴きに来た。彼らはジャズファンで、それに、僕の五度チューニングに興味を持っていた。彼らはリンカーン・センターのコンサートに僕を招待してくれた。とても良いオーケストラで良いコンサートだったよ。
 8人のベース奏者は、4種類のチューニング法を使って演奏していた。主席と副主席の奏者は、ほとんどのジャズ・ベーシストと同様、下からE-AーD-Gの順にチューニングし、次の二人は五弦ベースで、最低音の弦をCではなくBにしていた。確か、ブラームスの交響曲第一番を演奏するので、低音のBが必要だったからだったと記憶している。下のBは二人しか出さないが、いい感じだった。つまりこの二人は、B,E,A,D,Gとチューニングしていたわけだ。そして後列のベーシスト4人のうち、二人は指板の上方に、糸巻きを部分的にカットして黒壇のエクステンションを装着していて、二種類のエクステンションを二人ずつ装着していた。
<ジャズ・ベースとエクステンションについて>
rufusr.jpg    RonCarter2_300rgb.jpgエクステンションを使用するルーファス・リードとロン・カーター
 ロイヤル・フィルのベース奏者が装着したエクステンションのうち、二人はメタル・フィンガーのないもので、通常のE弦の場所に留め金がついている。エクステンションを使う時は、留め金を開ける。すると「カチン!」と大きな音がして、糸巻きを調整する。例えばロン・カーターやルーファス・リードように大きな手のベーシストなら、それを使うと、限定的ではあるが独特のパッセージを弾くことができる。だがあまり実用的とはいえない。せいぜい、ランニングで使う程度だ。エクステンションを使っても、ズート・シムスのような低音のソロは弾けない。ズート・シムズのあの低音のソロを覚えているかい?普通の音域に戻っても、それが不自然なくらい低い音だったなんて気がつかないような自然のソロだ。ズートは、そういうことをいともた易くやってのけた。だから彼は僕の永遠のアイドルなんだよ。
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  残りの二人はメタル・フィンガー付きのエクステンションを使っていた。それは最初のものより更に使いにくい。金属製のフィンガーが弦を固定し、細いチューブを通って、ネック上部にある4個の金属ノブに弦を固定してある。この装置はクラシック音楽にしか向いていない。ジャズの場合、このエクステンションで出来ることは皆無だ。まあ、しかし、クラシック作品に書かれてある無理難題を演奏する場合は使ってみればいい。
  僕がMGMのスタジオで主席ベース奏者をやっていたのは、何も僕がそこで最も優れたベーシストだったからではなく、エレキベースでロックも出来るし、クラシックも出来る器用なところを買われただけなんだけど、そのスタジオでエクステンションを必要とする超低音の指示があると、必ず「クッソー・・・」というつぶやきが聴こえて来る。つぶやきの大きさはベーシストの人数に比例する。エクステンションを装着すると面倒なことだらけなのさ。
<倍音と音階の矛盾の問題>
  弦楽器で完全五度を鳴らすと、クレッシェンドするという現象が起こる。二本の弦を鳴らすとデクレッシェンドする代わりにクレッシェンドする。僕の場合は、トップのA弦とD弦を鳴らした場合に、約10秒間、徐々に音量が増すんだ。
  僕は子供の時、本当にラッキーだったと思う。父が子供にそういうことを判り易く説明できる数少ない人間だったからね。ピアノの最低音のAの周波数は、約27.5Hz(ヘルツ)だ。その倍は55Hzでオクターブ上のAだ。110Hz、220Hz、440Hz・・・周波数が倍になるとオクターブ上になる。
 今度は最低音のAの周波数を1.5倍(1/2×3)すると、五度上の音になる。そしてGの開放弦を鳴らすと、周波数に拘わらず倍音(ハーモニクス)のDを伴う。それは、その弦が三分の一に分割されている結果だ。その倍音のDは、元の開放弦のG音からオクターブと五度上の音だ。つまり、1/2×3というところから音程間隔が決定づけられるということだ。
 父が教えてくれたことなんだが、最低音のAから倍音を辿って次のAを鳴らすと、周波数を単純に2倍に掛け算した結果得たA音とは、周波数が異なる高い音が生まれる。音痴でなければ耳でその違いは瞬時に判別できるよ。
 私がベースを始めた頃、色んな人にチューニングの方法を尋ねたが、皆、最低音のEから4度ずつ上にチューニングすると、同じ答えが返って来た。だからベースはチェロと(五度チューニング)全く違う音階の世界になってしまうのだ。とにかく私も19年間、四度チューニングで演奏を続け、様々な問題に遭遇した。しかし、チューニングを変えてからは、ほとんどの問題点が解決されたよ。私のチューニングはチェロを1オクターブ低くしたもので、最低音は通常のE音より三度下だ。
<試行錯誤の日々>
 レッド・ミッチェルが五度チューニングに転向したのは、すでにベース奏者として名前を成していた’66年のことです。早熟なジャズ・ミュージシャンなら「守り」の態勢になっても不思議でない39歳という年齢を考えるとアメイジング!ですね。
 五度チューニングに最適な弦を探して、’66 年から’77年までの間、世界中のありとあらゆる弦で、私は実験を繰り返した。一番の被害者は当時レギュラーで仕事をしていたハンプトン・ホーズ(p)だな。LAの「ドンテ」や「ミッチェルズ」に出演するときは、ベース弦の束をドサっとピアノの上に置いて、各セット違う弦で弾いていた。5年間の実験を重ねたが、「これだ!」という弦にはまだ出会えなかった。それで、ベース弦の一流メーカー『トマスティック社』に電話した。1971年のことだ。そしてトマスティックの若い社長と話をすることができた。彼はまだ29歳の恐ろしく万能な若者で、おまけにジャズファンで、僕のことを知っていたんだ。すぐに五度チューニングに最適な弦を作ることを約束してくれて、そのとおりに最高の弦を作ってくれた。今じゃ五度チューニング用の4種類のベース弦が製品化されている。
<9日間で新奏法に移行する方法>
 ’66年、チューニングを変えて演奏活動をするため、二度目の妻と連れ子を伴い、サンディエゴ近郊の浜辺のモーテルで9日間波の音を聴きながら昼夜なく練習し続けた。
 レッドの弟、ゴードン・"ホワイティ"・ミッチェルの証言: 兄は、仕事先をなだめすかし、嘘八百並べ、皆を何とか丸め込んで10日間のオフをひねり出し、あのモーテルに籠ったんだよ。そして今までの弦をはずし、自分の演奏システムをリセットし、五度チューニングに順応する演奏法を発明し稽古に没頭した。10日後、スタジオに何食わぬ顔で戻り、新しい奏法で仕事した。すごいね!!そりゃまったく週末にオーボエをマスターしちまう位すごいことだよ。
*ゴードン・ミッチェルは兄同様、ベーシストとして’60年代まで、"ホワイティ"・ミッチェルという名前でジャズ界で活躍しました。その後、ダウンビートに、ジャズマンの悲哀をユーモアたっぷりに綴る記事を寄稿したのがきっかけとなりTV界に入り、コメディ畑の脚本家やプロデューサーとして大活躍。爆笑スパイシリーズ「それいけスマート」や、ホームコメディー「パートリッジ・ファミリー」は日本でも人気があったので、覚えている人も多いかも。寺井尚之も「それいけスマート」の「盗聴防止装置」の大ファンでした。
 レッド・ミッチェル:「演奏法改造後すぐLAに戻り、五度チューニングの初仕事は、MGMのスタジオでアンドレ・プレヴィンが指揮する65人編成オーケストラだった。私は第一ベースだ。
私は思った。『初仕事はアンドレ・プレヴィンと大交響楽団か・・・まあ、いいさ。象みたいなデカ耳でなんでも聴こえるアンドレが気づかなければ、誰だって気付きっこないさ。』
 私はアンドレにチューニングを替えたことは言わなかった。セッションが始って20分ほどしてから、一瞬、以前のチューニングと間違え、全音上のミス・ノートを出しちまった。普通アンドレはそんなことをしないんだが、演奏を止めて、僕にこう言った。
『レッド、ほんとかい!もし君じゃなかったら、アウトしてるぞって言うところだったじゃないか!』
a_previn.jpgアンドレ・プレヴィン(1929-)指揮者、作曲家、クラシック&ジャズ・ピアニスト、ウィットに富むトークも最高!
 休憩中、私が事情を打ち明けると、アンドレはこう言った。
 『つまり、君はベースをチェロと同じようにしちまったってことかい?丸1オクターブ低いというわけ?』
 Yes,
 『チェロと同じように弦が渡ってるわけ?』
 Yes,
 『同じフラジオレット!?』(フラジオレット(Flageolets)とは、弦楽器のハーモニクスのこと。)
 Yes,
 『弓使いも同じなの!?』
 Yes,
 アンドレは自分の額を叩いてから、その後何人もの作曲家たちが言ったのと同じ言葉を発した。
 『ちきしょう!ベーシスト全員がそうすりゃいいのになあ・・・何でやらないんだろう!』
 ディジー・ガレスピーも即座に五度チューニングの意味を理解して同じことを言ったよ。
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 8月のジャズ講座で、宮本在浩(b)さんがベースを抱えて、実地に色々教えてくださったことを、レッド・ミッチェルのインタビューで再確認することができました。
 ミッチェルは、それからチェロ奏者の技や、チャーリー・クリスチャン(g)がギターで行ったような「禁じ手」をベースに応用して、五度チューニングに適切なフィンガリングを開発して、あんなに深くニュアンスに富むプレイを自分のものにしていったのです。
 次回はレッド・ミッチェルのアイドルたちやスエーデン移住のいきさつなどについて書きたいと思います。
CU

レッド・ミッチェル:発明家かジャズ・マンか?

  シルバー・ウイークは楽しく過ごされましたか?寺井尚之は、土曜日のショーン・スミス(b)とのコンサートのレパートリーをプラクティス、プラクティス、ショーンの東京ライブ(守屋純子3)の模様はG先生のブログに載っていましたが、こちら大阪のライブは、一味違ったものになりそうです。 どうぞご期待ください!
 なお、当日は通常通りお食事も召し上がっていただけますのでご安心ください。お勧め料理は寺井尚之特製:「牛肉の赤ワイン煮込」です!
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  ところで、8月からジャズ講座で注目されているベーシスト、レッド・ミッチェル、チェロやヴァイオリンと同じ5度チューニングを使って、ホーン奏者やボーカリストのように歌うサウンドが心の中で響いています。来月10月10日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェルのデュオ名盤、“You’re Me”が登場しますので、ぜひ来てくださいね!
  レッド・ミッチェルさんには生前何度もお目にかかったことはあるのですが、タートル・ネック姿のにこやかな瞳の奥に一体何が隠れているのか、仙人のようで正体がさっぱり掴めません。ずーっと興味津津だったのですが、最近ネット上に、インタビュー記事を発見、直後にG先生の蔵書から、インタビューの元本("Cats of Any Color / The Return of Red Mitchell” Gene Lees 著)のコピーもちゃっかりゲットして、思いがけず連休中に、空気のきれいな屋外でゆっくりと読むことが出来ました。
 少年時代は発明家を志し、名門コーネル大に入学したものの、兵役後、ベーシストへと人生航路を舵取りし、ジュリアードで破門されてもへこたれず、独自の5度チューニングを開発したレッド・ミッチェルは結婚歴4回、スエーデンに移住し、米国に戻り没しました。ジーン・リースが晩年のミッチェルに訊いたインタビュー、「レッド・ミッチェルの帰還」から、類まれな巨匠、論客の足跡を少し辿ってみましょうか。
<レッド・ミッチェル、そのキャリア>
 レッド・ミッチェルこと、キース・ムーア・ミッチェルは1927年9月20日NY市に生まれ、川向うのニュージャージー州に新興住宅地として作られた町で育ちました。ミッチェルをあまりご存じない方の為に、初期の共演者をメモしておきます。
red_mitchell.jpg  ’48年、ジャッキー・パリス(vo)、マンデル・ロウ(g)と共演、’49年、チャビー・ジャクソン(b)楽団にピアノ兼ベース奏者として加入、’49-’51ウディ・ハーマン楽団に加入しレコーディングする。’52-’54人気ヴァイブ奏者レッド・ノーボのトリオに加入し、ビリー・ホリディ(vo)や、ジミー・レイニー(g)とレコーディングの後、ジェリー・マリガン(bs)4で活動、’57、ハンプトン・ホーズ(p)3で活動した後、自己カルテットを結成する。’59にはオーネット・コールマン(as,tp,vln)と共演。ジャズだけで生活するのが困難になった’50年代終盤からはハリウッドMGMのスタジオOrch.で主席ベース奏者として10年間勤務する傍ら、名指揮者、ピアニストであるアンドレ・プレヴィンのジャズ・トリオなど、西海岸で活動した後スエーデンに移住し、帰米前にはスエーデン王立アカデミーから勲章を授与。
<父の肖像>
 「貧富に関係なく、ジャズ・ミュージシャンの殆どは、大なり小なり、両親の応援のおかげで今の地位がある。」:レッド・ミッチェル
 こう語るレッド・ミッチェルの音楽性には、お父さんの影響が色濃く出ています。
Redbaby_father.jpg  そkっくりなお父さんに抱かれたBaby Red Mitchellhttp://www.redmitchell.com/より。
 ミッチェルの父、ウイリアム・ダグラス・ミッチェルは米国の大手電話会社、AT&T社の重役でした。技術畑の人でしたが、三度のごはんより好きだったのがクラシック音楽でリンカーン・センターのオペラハウスの特等席を50年近くの間、年間予約し、自らクワイヤーを設立し声楽をたしなみました。あらゆるオペラを正しく歌うために6ヶ国語を習得していたといいます。ステレオ以前の時代からオーディオ・マニアで、幼いレッド・ミッチェルにクラシック音楽を盛んに聴かせ、ピアノを習わせました。
 このお父さんが、一般的な音楽マニアと一線を画している点は、音響工学についての科学的な知識が豊富で、それを幼い息子に判り易く伝授したところです。レッドの証言によれば、自宅にパイプオルガンまで手作りして設置したほど凝り症で、その際にしたためた、「パイプオルガンのチューニング」に関する論文は、精度と詳細さで、音響工学の決定版とされ広く紹介されたそうです。ハンパじゃないですね。
 また、レッド・ミッチェルが後の五度チューニング奏法に向かう下地となるような父親とのエピソードが本に紹介されています。
heifetz.jpg ハイフェッツは20世紀を代表するヴァイオリニスト(1901- 87)
 レッド・ミッチェル:「私が、まだほんの子供の頃のことだ。ある日、父親がラジオでヤッシャ・ハイフェッツ(vln) の演奏を聴かせた。父は「ハイファイ」という言葉が出来る前から、高性能のオーディオ装置を持っていた。まだ’30年代初めで、モノラルだったけど、とても良い音質だった。ハイフェッツを聴きながら、父は言った。「これこそ最高だ。彼は巨匠だよ。」
「確かにいいとは思うよ、パパ、だけど、こう言っちゃなんだけど、この人ちょっと音程がはずれてところがあったよ。そこと、あそこと・・・」
父:「なるほど、それが判るとは嬉しいね。お前は平均律を基準にしてるいるからアウトして聴こえたんだよ。ハイフェッツは自然音階を使っているからね。」
「父さん、自然音階って何?」
  またもや僕はラッキーだった。だって父は自然音階と平均率の違いを説明することが出来たんだから。ハイフェッツの三度の音程は、その時、少し「いやらしい」ものに聴こえてしょうがなかったんだけどね。
<発明狂時代>
&nbsp子供の頃から、レッドは発明家を目指し様々な製品を発明しました。最大のヒット商品は、洋服のハンガーの針金で作ったゴム仕掛けの6連発拳銃で、1丁10¢払って近所の子供たちは全員購入したそうです。するとお父さんは、このゴム拳銃で特許を取得するための方法を色々伝授してくれて、レッドに製品化する為の材料やマーケティングを勉強させました。その煩雑さのおかげで、レッドは発明で一攫千金することの難しさを自覚したと告白しています。つまりお父さんは息子に「発明家」という職業の困難さを上手に教えたわけですが、やがてレッドはジャズの即興演奏を通じて、新たな「発明」の喜びを味わうことになります。
<ジャズとの出会い>
 幼い頃から9年間クラシック・ピアノの稽古を続けたレッドでしたが、ピアノの恩師が突然亡くなります。そんな時に出会ったのがジャズ!レッドは大きな衝撃を受けます。
 レッド・ミッチェル:「ラジオで偶然カウント・ベイシー楽団を聴いて、すっかりジャズの虜になってしまった。楽団全体から愛のメッセージが発信されているような音楽だったよ!ダンスなんて今でも出来ないけど、とにかく踊りだしちゃってね、居間で踊りまくった。そして「こういう音楽を演らなくちゃ!」とひそかに誓ったんだ。そして、テナー・ソロが聴こえて来た。その時は、それがテナーサックスかどうかも知らなかったんだけど、すぐにこれこそが世界最高の演奏者だと思った・・・レスター・ヤングだよ。人生の決定的瞬間だ、12才か14才かその辺りだ。
 ベースを演るようになったのは19才の時で、それまではクラリネットやアルトなど、色んな楽器をかじった。」
 その頃のレッドは、まだ発明と音楽の志が相半ばしていて、ホーボーケン(NJ)の工業高校から奨学金を取得し名門コーネル大学へと進学し、学業の傍らピアニストやクラリネット奏者としてジャズの仕事もしていました。
<兵役そして破門>
Red_Armywbass.jpghttp://www.redmitchell.com/より。
 コーネル大では、宿題はサボるものの、結構優秀な生徒であったミッチェルですが、2回生で徴兵されドイツに駐留、その間ピアノ兼ベースでアーミーバンドとはいえ、ジャズ専門の楽団で活動します。そのバンドはトニー・ベネットなどが在籍した名バンドで、レッド・ミッチェルの人生は急速にジャズ・ベーシストとして転換していくのですが、思わぬ難関に遭遇します。
レッド・ミッチェル: 「任期満了で帰国した1947年、私は両親にジャズ・ミュージシャンになるつもりだと話した。それは確かに風変わりな決意だったね。コーネル大に復学すれば奨学金とGI特典によって無料で卒業できることは判っていたのだが、復学するつもりはなかった。当然、家族、友人はこぞって忠告した。
 "もしも音楽家になりたいのなら、少なくともジュリアード音楽院に通って学位を取得しなさい。万一演奏家として成功しなくとも、教師として生活していけるように。"
 それでジュリアードには3ヶ月間通った。私は音楽鑑賞とベース演奏の二つのコースを選択した。私のすぐ後にフィル・ウッズ(as)が入学している。私の成績は音楽鑑賞で最高点のA、ベースでは最低のCだった。3ヶ月間師事したのはあいつだよ。NYでベースを勉強するならあいつしかない。誰かって?フレデリック・ジマーマンだ。ジマーマンはNYフィルの次席奏者で、彼はそのポジションを非常に不服に思っていた。巨匠コントラバス奏者、ヘルマン・ラインスハーゲンのスター格の弟子で、最初は首席奏者だったのに降格されたんだ。ヘルマンは文字通りNY中のベース奏者のボスで、NYフィルのトップ・プレイヤーだった。良い学生も、良い仕事も、全てが彼のものだったんだ。引退時、ヘルマンは自分が持つ全ての権力をジマーマンに譲ったんだ。ところがそれもつかの間で、上層部がフレデリック・ジマーマンを降格した。何故なら、彼にはセクションのリーダーシップがなかった。もちろん優れたベース奏者だったんだがね。私は彼のアパートで演奏を聴いた事がある。私なら彼が私にくれたのと同じCの点をやるよ。
1941_zimmerman-3rd_from_left.jpgミッチェルを破門したジマーマン先生は左から3人目です。
 ここで言っておかなければならないのは、当時私はジュリアード入学前、たった三ヶ月しかベースを練習していない初心者だったということだ。色んな楽器にトライしてみたけど、どれもうまく行かず、だんだんベースが一番向いていることが判ってきた程度だったんだ。単細胞で、常に事物の根底を掘り下げるタイプだからね。月並みに聴こえるかもしれないが、そういう事はとても深い関係があるんだよ。とにかく3ヶ月フレデリック・ジマーマンに師事し、挙句の果てに彼はこう言ったよ。
 「坊や、もう止めとけよ。世の中にベーシストは掃いて捨てるほどいるんだよ。この世界は厳しいぞ。ベースの他にやりたいことは何かね?」
 『発明家です。』私は答えた。
 「Yeah、そいつはいい!ベーシストより儲かるぞ。」
 名門音楽院のベース教師から破門されてから5年後、レッド・ミッチェルはプロのベーシストとして、人気ヴァイブ奏者レッド・ノーヴォ3で活動していました。
その事件はロサンジェルスのクラブで起こります。
<真のベース教師と出会う>
レッド・ミッチェル: 「私がノーヴォやタル・ファーロウと演奏していると、ロマンスグレーの年配の夫婦が現れた。1セット目が終わると、私は彼らに紹介された。なんとそれがベースの巨匠ヘルマン・ラインスハーゲンと奥さんのミュリエルだったのさ!二人は私の評判を聞いて、わざわざ聴きに来てくれたんだ。奥さんがとてもいい人で、僕の車の中でこんな風に耳打ちしてくれた。
 「ハーマンは引退していて、お弟子さんはもう取っていないの。でもね、あなたが頼めば、きっと教えてくれると思うわよ。」僕は、奥さんに礼を言って、そのとおりにした。そして、僕は6ヶ月間に師事することになったんだ。全く素晴らしい先生だった。」
 ジュリアード音楽院でジマーマンに冷たく破門を宣告されたレッド・ミッチェルの才能を一瞬に看破し、弟子に迎えたのは、そのジマーマンの師匠だったんです。人生ってほんとに不思議ですね!
続きは次回!CU

Autumn Kisses:George Mraz 叙勲!

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 秋深し、ショーン・スミス&寺井尚之デュオも近づき、スミス夫妻が楽しみにしている「たこやき」を、余りにたこやき屋さんが多くすぎて、どこで調達しようかと思い悩む今日この頃です。
 そういえば、ショーンが「モンスター」と畏敬をこめて呼ぶ巨匠、ジョージ・ムラーツ兄さん、今年はどうしているのでしょう?以前なら、フーテンの寅さんの妹のように心配したものですが、今は公式HPにスケジュールが出ているし、東海岸のギグには必ず付き人のしょうたんがお世話してくれているので、とても安心です。
<しょうたんのムラーツ情報>
 しょうたんによれば、先月はNYのジャズクラブ、「バードランド」で、リッチー・バイラーク(p)5とハンク・ジョーンズ(p)・グレート・ジャズ・トリオに立て続けに出演し、相変わらずの凄腕を発揮、会場をどよめかせたらしい。
 ドイツ在住の旧友、バイラークとのリユニオン・ギグでは、長年のファンの皆さんにはお馴染みの、イタリア製の楽器を久々に弾いたそうです。”カナリア”と呼ばれる、あの明るく饒舌なサウンドは健在だったらしい。ドラムはビリー・ハート、旧店舗のOverSeasでやった時と同じメンバー、あのコンサートも凄かったですね。聴きたかった~!

maestro_george_mraz_shota_ishikawa.jpgNYジャズ業界で、ムラーツの公認アシスタントとして名を馳せるしょうたん、冬休みの年末には、OverSeasに帰って来る予定。土産話と師匠直伝のプレイを楽しみにしよう!
 次のハンク・ジョーンズ、グレイト・ジャズ・トリオのギグには、フランク・ウエス(ts)、ジミー・ヒース(ts)、バリー・ハリス(p)など著名ミュージシャンが多数駆けつけ、会場は超豪華ジャムセッションなったらしい。でも、そういうのが余り好きじゃないアニキは、しょうたん坊やに、ベースを渡そうとして、あわや、《しょうたん、NYデビュー!》の歴史的事件になりそうだったのですが、「ムラーツをはずしてなるものか!」と間髪入れずウイントン・マルサリスが吹き始めたので、タイミングを逃しちゃったらしい・・・でも、しょうたん、またチャンスはきっと巡ってくるからね!
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 永遠の不良少年だったアニキも、9月9日で65歳(!)。愛娘サルカちゃんも結婚したそうで、ムラーツ兄さんがムラーツじいちゃんになる日も近いのか・・・
 そんな中、アニキからビッグ・ニュースが来ました。チェコ共和国のクラウス大統領から直々に、65歳になったジョージ・ムラーツに勲章を贈呈するという知らせが届いたそうです。この賞は、チェコ語で”Zlatou plaketu prezidenta republiky“日本語にすると「大統領黄金名誉賞」というところでしょうか。
 色々調べてみたら、日本なら芸術部門の文化勲章に匹敵する賞で、チェコ共和国の芸術に貢献したパフォーマンス・アーティストに、大統領権限で叙勲するもののようです。
 今回の受賞者は、僅か三名、ムラーツ兄さん以外の受賞者は、ドヴォルザークの曾孫にあたる、「ボヘミアの森の音色」で名高いヴァイオリンの巨匠、ヨセフ・スーク(80歳)と、チェコ演劇界を代表する女優(75歳)ということで、ムラーツは快挙!最年少受賞者でした。
 ムラーツのオリジナルに「Autumn Kisses」というのがあるけれど、今年は大統領からのビッグなキスをもらえるようで、私も誇りに思います。
 OverSeasで商店街のコロッケを頬張るアニキは仮の姿、本国では民主化されたチェコ文化を代表する大文化人であることを、しっかり肝に銘じることにしよう・・・
 ジョージ・ムラーツは10月2日はマサチューセッツ州アムハーストにて、イヴァ・ビットヴァ(vo,vln)とデュオ・コンサート、その後、ハンク・ジョーンズ3で渡欧し、フランス、トルコ、ドイツ、ポルトガルなどをツアーする模様です。
 アニキ、おめでとう!むさくるしいところですが、またいつかOverSeasで演奏してください。
CU
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さよなら EDDIE LOCKE (1930-2009)


 私たちが心から愛するドラマー、エディ・ロックさんが昨日逝去されたそうです。
 18歳の時からエディさんを尊敬し親交深かったショーン・スミス(b)(26日にOverSeasで演奏します。)から訃報が来ました。数日前にショーンがエディさんをお見舞いに行った時には、もうほとんど口がきけない状態であったとメールには書いてありました。
 寺井尚之を始めとしてOverSeasのミュージシャン達がエディさんから身をもって教えてもらったことはどれほどあるでしょう。デトロイト出身、パパ・ジョー・ジョーンズの弟子として叩き上げたあのドラミングが今も熱く鳴っています。
 頑固一徹で音楽に対する愛情が溢れていた巨匠、エディさんが初めてOverSeasに来た日のことは一生忘れません。コールマン・ホーキンスのことを熱く語ってくれたエディさん、心からありがとう!もしもジャズ講座の本第5巻をお持ちなら、巻末に彼のインタビューが載っています。

 エディさん、さようなら。そしてありがとう。心からご冥福を祈ります。

J.J.ジョンソン(後編):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

 皆さん、お元気ですか?梅雨はいずこ?激しい雷や日蝕は1Q84を読んだ者に軽いシステム障害をもたらすことがあるのかな?・・・あっという間に一週間が経ってしまいました。
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 さて、私がオフ・ステージのJ.J.ジョンソンにお目にかかったのは一度だけ、J.J.は緊急事態だった。あれは1988年秋、コンコード・ジャズフェスティバルの大阪公演の当日のことです。中之島のANAホテルのコーヒー・ラウンジで一緒にお茶していたスタンリー・カウエル(p)を探して部屋から降りて来られたんです。櫛のとおっていない髪、皺の寄ったシャツ、鋭い眼光はそのままでしたが白目がどんより充血していて、私の知ってる一分の隙もないダンディな「トロンボーンの神様」の姿とは余りに違っていました。
 「神様」は私たちのテーブルに座ることなく、スタンリーに静かな口調で連絡しました。
「東京に残っている私の妻ヴィヴィアンが脳溢血で倒れた。私はすぐに東京に発つから、これからのバンドは君が仕切れ。」
 たったこれだけ・・・後を任されたスタンリーは敬礼こそしなかったけど、「Yes Sir!」と即答、するとJ.J.ジョンソンは、戦争映画の司令官みたいに踵を返して足早に去って行きました。プロとはこういうものかと、思ったものです。
<トミー・フラナガン共演時代>
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’56年、BeBopのイディオムを駆使するクールなJJと、熱血プレイのカイ・ウィンディングのJ & Kaiのコンビ解消後、J.J.ジョンソンは新たに自己クインテットを結成します。J&Kaiのように商業的な成功はないにせよ、音楽的な成果は余りあるものでした。Dial J.J5、In Peson Live at Cafe Bohemia…私たちの愛聴盤がこの時期にどっさり録音されています。自己グループの活動と並行しながら、作曲家として、ディジー・ガレスピーに依頼された組曲Perceptionsや、Poem for Brass, El Camino Realなど意欲的な大作をどんどん発表して絶賛され、後の映画音楽家としての布石を打ちました。天才J.J.ジョンソンといえども、ツアー主体の演奏活動と、孤独と集中力が必要な作曲活動を両立させるのは並大抵なことではなかったはずです。でも当時の名盤に聴ける「論理的」で「明瞭」な構成や、J.J.ジョンソンの至高のプレイは、充実した作曲活動との相乗効果があったのかもしれません。
JJ_5.jpg左からJ.J、トミー、ボビー・ジャスパー、エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトル
 この時期のJ.J.ジョンソンのコンボは、大まかに分けて三種類あります。ベルギー出身の名手ボビー・ジャスパー(ts,fl)との二管クインテットが最初の布陣、リズムセクションはご存じトミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ウィルバー・リトル(b)、続いて、兄キャノンボール(as)がマイルス・デイヴィスのバンドに参加したために、フリーになったナット・アダレイ(cor)と、アルバート”トゥティ”ヒース(ds)に、既存メンバーのフラナガン、リトルを組み合わせた第二のクインテット、それらは今までのジャズ講座で、それぞれの個性を生かしたJ.J的アプローチを堪能することができました。最初のクインテットは、上等なシャツのボタンを上まできっちり留めたような隙のないサウンドがジャズの「品格」を教えてくれます。次のクインテットは、3つ目のボタンまで開けたシックさが最高、青い炎のようなボビー・ジャスパーや、レッド・ホットなナット・アダレイ・・・コンボのアプローチはメンバーに合わせて変化して、あの頃の講座で構成表をOHP用に作るのはすごく楽しかった。
 最初のクインテットが’57年にスェーデンに楽旅した際、ピアノトリオで録音したのが『Overseas』であったことも、勿論ご存じですよね!このツアーは熱狂的な歓迎を受け、ストックホルムの王立公園で開催されたコンサートには2万人の大聴衆が集まったそうです。
JJ_BJ_bandstand.jpgBobby Jaspar (1926-63) ブロッサム・ディアリー(vo)との結婚を期にNYに住んだジャスパーはヘロインの過剰摂取で手術中に亡くなった。
 この後、J.J.のコンボは、ピアノがトミー・フラナガンからシダー・ウォルトンに替り、ジャスパーとアダレイ両方を従えた三管に増員しますが、’60に「家族との時間を大切にしたい」と、突然自己グループを解散してしまいます。その後はマイルス・デイヴィス(tp)、ソニー・スティット(as.ts)、ジミー・ヒース(ts.ss.fl)と断続的に演奏活動を続けますが、活動の重点は徐々に作曲の方にシフトして、’70年にジャズ業界に見切りをつけ、昔のボス、ベニー・カーターや、BeBop時代の仲間、クインシー・ジョーンズ、ラロ・シフリンの勧めで映画TVのフィルム・ミュージックの世界で17年間仕事をします。それは、都市部の黒人層をターゲットにしたブラック・ムービー(Blaxploitation)の世界的な流行が、J.J.の才能を必要としていたと言えるかもしれません。
<映画音楽での成功とジレンマ>
shaft.jpg 映画界に入ったJ.J.ジョンソンが手がけた映画は、『黒いジャガー(Shaft)』『クレオパトラ危機一髪』などブラック・ムービーをはじめとして、アル・パチーノのギャング映画『スカーフェイス』その他娯楽映画色々・・・TVでは私が子供の時に人気番組だった刑事シリーズ『スタスキー&ハッチ』など、リアルタイムで観たものが沢山あります。ジャズ業界に幻滅して飛び込んだ映画の世界での仕事をJ.J.ジョンソンはどんな風に感じていたのでしょう?
 彼のインタビューを読むと、彼のフラストレーションは意外にも、芸術的なものではなく、業界の持つ人種差別やジャズへの偏見にあったようです。
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 J.J.ジョンソン:映画音楽の世界は凄い競争社会だ。良いエージェントを持ち、的確に仕事をしなければ業界で成功することはできない。
 それに映画界は非常に人種差別的だ。「スター・ウオーズ」「E.T」や「ジュラシック・パーク」のような大作映画の音楽の仕事が黒人に回ってくることは絶対にない。
 業界の人間は、人種差別的であるだけでなく、偏見に凝り固まっていて、視野が狭い。「J.J.ジョンソンはジャズ・ミュージシャンだろう。この映画にジャズは要らない」そんな風だ。
 私はそうでない業界人と知り合えたのはラッキーだった。そしてTV界では、私の『Poem for Brass』を高く評価してくれている人間と出会ったので、仕事を得ることができた。別にTV業界が映画界より開放的な業界というわけではない。
 私が映画界で書いた音楽はジャズとは全く違うものだ。しかし、芸術的には満足のいくものだった。私はジャズ界にいた時から、ストラヴィンスキーやラヴェル、パウル・ヒンデミットの大ファンだった。映画界ではクラシック音楽の要素を使った仕事が出来た。

<トロンボーンへの回帰>
 J.J.ジョンソンがクラシック音楽に目覚めたのは友人のミュージシャンがストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴かせてくれたのがきっかけであったといいます。チャーリー・パーカーもストラヴィンスキーやヒンデミットが好きだったそうです。だからと言ってJ.J.はクラシックに変なコンプレックスを抱いている風情も全くありません。J.J.ジョンソンはインタビューで、モーツアルト、ベートーベン、シューマンは好きではないと答えています。トミー・フラナガンも昔「サド・ジョーンズはモーツアルトよりずっと偉い」と言ってたなあ・・・
 J.J.ジョンソンは映画音楽家時代も、トロンボーンの技量を維持するためにギャラの安いTVショウのバンドで演奏を続け、自宅でも基礎練習は欠かしませんでした。
 TV番組がお手軽なホーム・コメディー全盛になり、もう本格的なフィルム・ミュージックが必要とされなくなった時、再びジャズ界にカムバックします。
 先週皆で聴いた『Pinnacles』は、選りすぐりのミュージシャンを集め、オーバーダビングや、エフェクター、キーボードのセレクションに至るまで、「映画時代に培った知識と、昔から変わらないアレンジの技法を集大成したもの」だと、J.J.ジョンソンの音楽解説書“The Musical World of J.J.Johnson”にはあります。この本はジャズ評論家のアイラ・ギトラーさんが勧めてくれたけど、高くて手が出なかったのですが、最近ペーパーバックになって安価に入手できます。同書には録音技師のノートが記載されていて、”Deak”でフラナガンが弾いているのはヤマハ・エレクトリック・グランド、”Cannonball Junction”では録音時にピアノを演奏し、後でクラヴィネットというJ.J.がTV音楽で使用したキーボードを重ねているそうです。その他にもテイク数や、オーバーダブの詳細が書かれていて興味深かった。この本が届いたのが今朝だったので、講座に使えず残念!講座本になった時に、加筆してもらいたいものです。
<晩年>
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 正式に映画界から引退したJ.J.ジョンソンは、故郷インディアナポリスに居を構え、80年代に多数の若手スターを輩出した敏腕ジャズ・エージェント、メアリー・アン・トッパーのプロダクション、Jazz Treeと契約、演奏やレコーディングを重ね、全世界のあらゆるフィールドのトロンボーン奏者の「神様」であり続けました。アヴァンギャルド系のトロンボーン奏者スティーブ・トゥーレは「自分のレコーディングはすべてJJに送って聴いてもらっている。」と告白しています。
 1997年、前立腺癌と診断されたJ.J.ジョンソンは正式に引退。それでも自宅のスタジオは、カムバックの日に備えて最新の装備が施されていたそうです。
 それにも拘らず2001年2月4日、インディアナポリスの自宅での拳銃自殺は全てのジャズ・ミュージシャンにとって大ショックでした。
 葬儀で棺を担いだのは、ポストJ.J.ジョンソン最右翼のスライド・ハンプトン、スティーブ・トゥーレ、ロビン・ユーバンクスなど世代を超えた9人のトロンボーン奏者でした。
 完全無欠の神様、J.J.ジョンソンの人生を調べていくにつれ、「神様」ですら深いジレンマを感じ、一度ならず麻薬に耽溺した時代もあったことなど、意外な事実が次から次に見つかって、私の疑問は増えるばかり・・・
 今朝届いた”The Musical World of J.J.Johnson”は、残念ながらトミー・フラナガンのクインテット時代について余り触れていませんが、譜例を含めた詳細なデータが沢山あるので、色々参考になりそうです。またいつか続編を書きたいな。
 明日のThe MainstemでもJ.J.ジョンソンのおハコが聴けるかも・・・私はリクエストのあった賀茂ナスグラタンを作って待ってます!
CU

J.J.ジョンソン(前篇):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

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 先週のジャズ講座も皆さんどうもありがとうございました。
 ジャズの真冬が終わり、バンドスタンドに戻ってきたスター達・・・講座に登場したアルバムの味わいは、すっきりしたものから、涙の味のしょっぱいものまで色々・・・秘蔵音源で、懐かしい「波止場」の風を浴びてハッピーエンドになれました!
 あの夜、皆で聴いたJ.J.ジョンソンのカムバック作品『ピナクルズ』、表面的な音楽スタイルは当時隆盛のクロスオーバー志向だけど、隙のない緻密な構成は、以前の講座で聴いたJ.J.ジョンソンの姿と少しもブレていなかった。あのアルバムを制作した”マイルストーン”というレコード・レーベルが、かつて.J.J.のバンドの一員で、フラナガンの親友だったディック・カッツ(p)さんがオリン・キープニュースと創設したレーベルであることも、感慨深いです。
<トロンボーンの神>
 J.J.ジョンソンは存命中から「トロンボーンの神様」と呼ばれる生き神さまだった。
 カフェ・ボヘミア時代から晩年までJ.J.ジョンソンを公私ともによく知るダイアナ・フラナガンは、私にJ.J.のことを色々話してくれたけど、残念ながらここで書けることは、以下の言葉以外ほとんどない。
 「トミーはステージで、しょっちゅうミスをしてたでしょ、リスクのあるプレイをするタイプだからね。でもJ.J.ジョンソンはパーフェクト!誰もJ.J.ジョンソンのミスノートなんて聴いたことないと思う。生まれてから一度もミスなんてしたことないんじゃないかしら?」

 トミーがJ.J.について饒舌に語ってくれた記憶はないけど、寺井とトロンボーンについて議論していて、寺井がJ.J.ジョンソンを持ち出したら、こう言ったのが印象にあります。
 「J.J.ジョンソン?あれはもうトロンボーンじゃない!」
 つまり、J.J.は例外なので、トロンボーンを語る時に持ち出さない方がいいという意味でこう言ったんです。カーティス・フラー、タイリー・グレンやアル・グレイ、スライド・ハンプトン・・・多くの名トロンボニストと共演して来たトミーにとって、J.J.ジョンソンのトロンボーンは既成の概念を遥かに超越したものだったんですね。
<Why Indianapolice-Why Not Indianapolice?>
 インディアナポリスに生まれ育ち、BeBop以降の全トロンボーン奏者に影響を与えた”The Trombonist”は、インディアナポリスで拳銃の引き金を引いて自ら人生の幕を引いた。
 ネット上に遺る晩年のインタビューを読むと、“Logic(論理)””Clarity(明瞭)”という二つの言葉をJ.Jは繰り返し口にしている。『論理的で明瞭』であることが、全てに優先するというのが彼の哲学だったことは、『ピナクルズ』を聴いても明らかだった。だからこそ、パーカー+ガレスピーにBeBopの洗礼を受けたとき、スライドを疾走させるためなら躊躇なくトロンボーンらしい(と思われていた)音色と決別することが出来たのかもしれない。
 J.J.ジョンソンがあっさりジャズ界を離れ、青写真技師や映画音楽家に転職したのも、評判の愛妻が亡くなって後、すぐに再婚して新しい妻をマネージャーにして、周囲を驚かせたことも、『論理的且つ明瞭』な決断だったのだろうか?
 寺井尚之は前から「J.J.ジョンソンは自殺すると思う。」と言っていたけど、彼にとっては自殺ですら「理にかなった明瞭な決断」だったのだろうか?或いは、癌に犯された時から、J.J.の内側で「論理性」と「明瞭さ」は崩壊していったのだろうか?
 ミュージシャン達が畏敬を込めて『トロンボーンの神様』と呼ぶJ.J.ジョンソンの人生を、JJ自身の証言を読みながら、駆け足で辿ってみようかな。
jj-studyingmusic.jpg<最初のアイドルはレスター・ヤング>
 J.J.ジョンソンこと、ジェームズ・ルイス・ジョンソンは’24年1月4日、中西部の大都市インディアナ州インディアナポリス生まれ。幼い頃は教会でピアノを学び、10代の初めにジャズが好きになってからサックスを志したそうです。J.J.ジョンソンの最初のアイドルはレスター・ヤング(ts)でした。でもJ.Jの楽器はバリトン・サックスで、レスターの音色を自分のものにすることはできなかった。ハイスクール・バンドで、たまたま人数が足らなかったという理由からトロンボーンに転向してからも、ずっとレスターへの想いは不変だと語っています。
art_lesteryoung.jpgJ.J.ジョンソン:最初のヒーローはレスター・ヤング(ts)だ。その頃の私は完全な”レスターおたく”だったよ。レスターは音楽を志す仲間たち全員の「神」だった。皆で何時間もレスターのソロを聴き続け、「ああでもない、こうでもない」と色々分析していたものだよ。
 トロンボーンに転向してからはレスターのソロを丸コピーして吹こうと思ったことはない。私の敬意はそういう種類のものではない。レスターの凄いところは、規制のテナーの即興演奏の枠に全く囚われない斬新なアプローチにある。たった2つか3つの音だけで『あっ!レスターだ!!』と判る強烈な個性だ。同じようなペルソナは、トロンボーン奏者のトラミー・ヤングやディッキー・ウエルズにもあり、私は大きな影響を受けた。

 J.J.ジョンソンは殆ど独学でトロンボーンに習熟、レッスンを受けた経験は数回だけだったそうです。1941年に高校を卒業するまでに、高度な音楽理論を身に付け、地元バンドに楽曲を提供していました。卒業後すぐ、スヌーカム・ラッセル楽団に加入、バンドメイトだったファッツ・ナヴァロ(tp)のBeBop的アプローチに大きく影響を受けたといわれています。J.J.ジョンソンの卓越した技量は仲間内で評判になり、翌年ベニー・カーター楽団に移籍。’44年のJ.J.ジョンソンは、すでに往年の疾走感溢れるスタイルを確立していました。
 ディック・カッツさんによれば、J.J.ジョンソンの紳士的なマナーはベニー・カーターから学んだもので、J.J.に作曲活動を強く勧めたのもやはりカーターだったそうです。“ザ・キング”の大きく聡明な瞳は、音楽家の資質をすぐに見抜いたわけですね。
 大戦後、J.J.ジョンソンはカウント・ベイシーやJATPなど様々なフォーマットでキャリアを積みます。当時J.Jが参加するイリノイ・ジャケーのバンドがシカゴで公演した時には、町中のミュージシャンが噂に聞くJ.J.ジョンソンの驚異的なプレイを一目見ようと押し寄せたと言います。
<ありえないBeBopトロンボーン>
JJJohnson_MRoach_et_OPettiford_BNote_Marcel_Fleiss_AG400.jpg  マックス・ローチ(ds)オスカー・ペティフォード(b)と。
 ’46年になると、J.J.ジョンソンはNYに腰を落ち着け、BeBopムーブメントの中心として活躍。チャーリー・パーカーのオリジナル・カルテットが迎えた唯一のゲスト・プレイヤーとして全米に名を馳せます。リーダー作だけでなく、バド・パウエル、ソニー・スティット、ディジー・ガレスピー達と歴史的録音を重ね、次のトレンドを予見するマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』にも参加しています。
 複雑なハーモニーやマシンガンのような急テンポの革命的音楽BeBopに、トロンボーンというスライド楽器を順応させるための苦労について質問されたJ.J.ジョンソンは、インタビューで、このように答えています。
J.J.ジョンソン:もちろんBeBopを演奏する上で課題はあった。だがそれは、「速く吹く」とか「高音を吹く」というテクニック的な問題でなく、即興演奏上のアプローチの問題だ。
 世間は私を超絶技巧派と思っているようだが、決してそうではない。私が演奏家として、過去も現在も一貫して目指すのは、明瞭さ(clarity)と論理性く(logic)、そして聴く者に感動を与える表現力だけだ。この三点を達成すれば、私のトロンボーンにペルソナが宿り、(レスター・ヤングのような)強烈な個性を持つことができる。そうなればいいと常に望んでいる。
 『あいつは一体何をやりたいんだ?』と思われない演奏をしたい。

<転職その1>
 チャーリー・パーカーがキャバレー・カードをはく奪され、BeBop時代の終焉が近づいた1952年、J.J.ジョンソンは突如ジャズ界を離れ、元々興味があった電子関係の企業に青写真技師として就職しました。
 最大の理由は無論経済的なものでしょうが、ジャズの行く末に幻滅を感じたこと、しばらくジャズ界を離れて、外側からジャズを眺めたかったとJ.J.自身は語っています。ロジックを最優先するJ.J.ジョンソンなら、周到な準備の上何の躊躇もなく転職したのだろうか?
 でもジャズ界はJ.J.ジョンソンを放っておかず、2年間後の1954年、デンマーク生まれのトロンボーン奏者、カイ・ウィンディングと双頭コンボを組んでジャズ界に復帰。洗練され聴きやすいサウンドの”Jay & Kai”は大人気を博し、商業的に大成功します。その時期のレギュラー・ピアニストがディック・カッツさんです。
 “J&Kai”は音楽的方向の相違から1956年にコンビを解消しますが、その後も繰り返しリユニオンしていて、私もAurex Jazz Festival(’82)で、J&Kaiの生演奏を楽しむことができました。下のYoutube動画は当時TV放映されたものです。
 コンサートでは私たちの予想に反して、J.J.ジョンソンよりもロマンス・グレーのカイ・ウィンディングの方が溌剌として沢山拍手をもらっていました。よもやその翌年にカイ・ウィンディングが亡くなるとは思ってもいませんでした。

*曲はおハコの”It’s Alright With Me “トミー・フラナガン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
 え?トミーのソロを半コーラス聴いただけで満足だから、もう先を読むのがしんどいって?
そりゃそうですね!
 じゃあ続きは数日後に!
 今週末は明日17日(金)が末宗俊郎(g)3、そして18日(土)がThe Mainstem!
お勧め料理は定番”牛肉の赤ワイン煮込み” です。
Enjoy!

ラジオ・プラハで聞くジョージ・ムラーツ。



 10日ほど前に、ジョージ・ムラーツのアシスタント、しょうたんからムラーツ師匠のインタビューがラジオ・プラハのWEBで聞けますよ、とメールをもらいました。
 私がブックマークしているトニー・エマーソン氏のジャズブログ、“Prague Jazz”と同じ日の知らせだった。しょうたんの調査力恐るべし!
 早速、聞いてみると、故国で語るジョージ・ムラーツは日米のメディアとは違っていて、日本のイチローみたいに、ジャズのメジャー・リーガーとして活躍するチェコ人としての顔が垣間見える興味深いものでした。
 インタビュアーのイアン・ウィロービの英語はヨーロピアン・イングリッシュでなく、アメリカンで凄く上手!一方ムラーツ兄さんは、いつものベランメエ・イングリッシュじゃなく、東欧紳士風でかっこいい!
 ラジオ・プラハの英語テキスト&音源はここにあります。
 日本語にしたので、お楽しみください。
『現代のチェコを代表する名士に、くつろいだ雰囲気で話を聞くインタビュー番組One on One: より:』
<ジョージ・ムラーツ・インタビュー>
インタビュアー:Ian Willoughby イアン・ウィロービ
 ジョージ・ムラーツ(本名イルジ・ムラージュ、南ボヘミア地方、ピーセック生)氏は、少なくとも、彼が共演して来たミュージシャンの顔ぶれから考えれば、ジャズ史上最も成功したチェコ人と言えるだろう。ベースの巨匠、ムラーツの共演者リストは、ディジー・ガレスピー、スタン・ゲッツ、オスカー・ピーターソン、チェット・ベイカー、そしてチャーリー・ミンガスなど、正にジャズ人名辞典の様相を呈している、
   更に氏は千枚以上のアルバムに参加。ニューヨークを本拠に活躍するジョージ・ムラーツが最近プラハに滞在して機会に、ジャズとの出会いなど、色々なお話を伺いました。

<ジャズとの出会い>
ジョージ・ムラーツ(以下GM):「ターボルのハイスクールに通っていた頃、幸運にも学校にジャズバンドがあったんです、当時ジャズバンドがあったなんて不思議だね。プラハ音楽院に入学した頃は、市内にジャズクラブが三軒あり、ほとんど毎晩演奏していました。」
聴き手:イアン・ウィロービ(以下IW):「当時のジャズは、ビッグビット(’60年代にチェコで流行したギター主体のポップ・ミュージック)以前の、かっこいい若者向け音楽だったのでしょうか?
GM:「まあ、そういうことですね。」
IW:「あなたがジャズに魅了されたきっかけは?」
GM:「13歳くらいだったと思うんだけど、日曜になると(ラジオで)オペレッタなどの軽音楽の放送があってね、どういう風の吹き回しか、ある日ルイ・アームストロングの1時間番組があったんだ。勿論、あの独特の歌も放送されました。いつもはクラシックの声楽ばかりなのに、よくこんな声がラジオ放送されたもんだ!と子供心に不思議でね。(笑)
  でも、その日に聴いた音楽のうちで一番気に入ってしまって、それを機にジャズにのめりこんだんです。
IW:「では、ムラーツさんの楽器はアコースティック・ベースですが、ベースを演奏されるようになったのは、どうしてなんですか?」
GM:「それも単なる偶然だったんです。7歳の頃からバイオリンを習っていたんですが、その後は専らクラリネットやサックスを演ってたんです。ところが、バンドのベーシストときたら…名前は言いませんが、良い奴なんだけど、常にミスノートだけを選んで弾くという、ある意味天才だったんだ。偶然でもいいから、一度くらいは、まともな音が弾けるだろう?ってくらい凄まじいものだった。
  それで僕が、練習の合間に彼のベースを拝借して弾いてみたら、意外に難しくなかった。ベースの音色が気に入ってしまって…それでベース奏者になったんです。」
vaclav_havel.jpgハヴェル前大統領(1936-)は、劇作家としても欧米で絶大な人気のある文人政治家
 IW:「何かの本で読んだのですが、カレル橋の脇にあるカフェ・バー・シアター『欄干の上』劇場で、ハヴェル前大統領が舞台監督していた時期、ムラーツさんもそこで演奏されていたそうですね。ハヴェル前大統領とは、個人的にお付き合いされていたんですか?」
GM: 「ええ、ええ、そうです!当時僕はバーの方で演奏していてね、僕達が延々と演奏を続けるもんで、酒場のおばさんがカウンターで仕事するのに疲れきっちゃうと、彼が交代してバーテンをやっていました。
 それ以来、僕は彼に頼まれてよく演奏していたんですが、昨年久しぶりで再会できて、とても嬉しかったです。その時は、彼の著書を頂きました。今でもファースト・ネームで呼び合う仲です。」
Na_zabradli.jpg由緒ある文人カフェ・シアター、「 Divadlo Na zábradlí 欄干の上劇場」
<渡米して>
IW:「では、あなたが渡米されNYにお住まいになったいきさつについてお話を伺いたいのですが。」
GM:「渡米する前はドイツに住み、ミュンヘンにあったジャズクラブ、”ドミシル”で演奏していました。そのうち、ボストンにあるバークリー音楽院から奨学金が出ましてね。丁度あのロシア人達が戦車で侵攻してきた時です。’68年の8月でした。それで、奨学金を使ってあちらに行ったんです。まあ、行った甲斐がありました。」
IW:「当時はアメリカに滞在していただけなんですか?」
GM:「ええ、まあそうです。」
IW: 「アメリカでミュージシャンとして名を成すというのは大変でしょう?私などには音楽の世界、ましてニューヨークでは、よほど激しい競争に勝ち抜かないといけないだろうと思えるのですが。」
GM;「僕の出発点はNYでなくボストンだったんです。幸いにも向こうの人たちは、すでに僕のことを知ってくれていました。というのも、留学前にすでに何枚かレコードを録音していましたから。それに、ウィーンでフリードリヒ・グルダ(訳注:ウィーン生まれのピアニスト、作編曲家、クラシック音楽家ながらジャズにも造詣深かった。)が主催するコンクールにも出場していたし。おかげでキャノンボール・アダレイ、J.J.ジョンソン、ロン・カーター、ジョー・ザヴィヌル、メル・ルイス、アート・ファーマー・・・色んな人たちに出会えました。
 実のところ、渡米後すぐに演奏活動を始めました。’69年にはディジー・ガレスピーのバンドに入り、やがて、オスカー・ピーターソンから誘われ、約二年間、彼のトリオで演奏しました。」
IW:「ムラーツさんの共演者リストを拝見すると、ジャズ人名辞典さながらですね。そのキャリアのうちで、”自分は成功したんだ!これが頂点だ”と思われた瞬間はありますか?」
GM;「いや、そういうのは特にないですよ。これが頂点だ!みたいに思ってしまうと、もうバタンキューで、その先に進めなくなりますから。(笑)達成感なんて持っちゃいけません。」
<膨大なレコーディング>
IW:「これも何かで読んだんですが、ムラーツさんはなんと約900枚のアルバムに参加しておられるそうですね。数十年も経つとご自分のレコーディングについて記憶は曖昧になるものでしょうか?」
GM: 「レコーディングについては、僕自身よりもずっと詳しい人たちがいますからね。僕は今までの録音アルバムを全部所有していませんしね。全く覚えていないアルバムが出てくることはしょっちゅうです。
  多分900枚以上あるのじゃないかな?千枚よりはずっと多いですよ。現時点で1100~1200枚だと思います。WEB上に僕のディスコグラフィーが載っていたんだけど、10年ほど前で、はっきりは覚えていないが確か880か860枚ほど掲載されていたなあ。
  勿論、そのリストから脱落しているアルバムもあったし、それ以降何枚もレコーディングしているから、千枚以上はあると思います。」
IW: 「その内、ムラーツさんにとって特に意義深いアルバムはありますか?」
GM :「幸運なことに、僕は非常に多くの巨匠達と共演することができました。特に楽しかったのは、ジョー・ヘンダーソン(ts)のピアノレス・トリオ、ドラムがアル・フォスターだった時。それにトミー・フラナガンかな…僕は今、断続的にハンク・ジョーンズ(p)と活動していますけどね。勿論、ビッグバンドも思い出に残っています。サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch….いいバンドでした。」
gallery9.jpg  スタン・ゲッツ、チェット・ベイカーと;G.Mraz公式サイトより。
IW: 「本当に多くの人たちと共演されていますよね。各ミュージシャンのスタイルや音楽に順応するというのは難しいですか?」
GM: 「いや、それほどでもありません。ただ、共演者が一つのスタイルに固執している場合は問題です。僕がそれ以外のことを演ると当惑させていまいますからね。色んなことを演ってみるのが好きなたちだから。」
IW:「ムラーツさんはご自分のカルテットも率いておられますね。いわゆるサイドマンと、リーダーで自分の音楽を演るという、二つの仕事のバランスをとるというのは難しいことですか?」
GM: 「ある意味、大変ですね。僕自身は、サイドマンでいる方がずっと気楽ですよ。ビジネスについてあれこれ苦労しなくてもいいですから。サイドマンとしての仕事の依頼は多いですしね。
 しかし、再びリーダーとしての活動も始めるつもりです。いろいろのアイデアもあるし、新曲もいくつか用意しているしね。自分の音楽が出来るうちに、やっておくのがよいと考えています。」
<チェコ名を変えたのは何故?>
IW:「これだけはお伺いしたかったのですが、ムラーツさんがご自分の名前を”ジョージ”にされたのはいつだったんですか?」
GM:「いやあ、この名前も私のアイデアではないんです。英語名の”ジョージ”にしたのは二つの理由があります。第一の理由は、ギャラは大体小切手で受け取るでしょう。その場合、あっちで僕の名前を正しいスペルで書いてくれる人がいないので、何度も小切手を切りなおしてもらわないと、ギャラをもらえないという状況だったんです。
 おまけに、ボストン時代にシティ・バンクに口座を開こうとした時なんか、名義人を記載するのに”Mraz”という苗字だけで15分もかかってしまったんです。ファースト・ネームの”Jiri”(イルジ)に至っては、どうしても正しく書いてもらえず、とうとう諦めました。『Georgeでいいです。』ってね。(笑)」
IW:「アメリカ人には、”Jiri”というのが、そんな難しい名前なんですか?」(訳注:チェコでは”Jiri”は、例えば一郎のように、最もありふれた男性名。)
GM:「難しすぎるね。僕が親しくなった女の子達を別にすれば(笑)、アメリカ人でこの名前を完璧に判ってくれたのは、ウィリス・コノーヴァー(米国の海外向け放送、VOAのジャズ番組のアナウンサー兼プロデューサー)だけだよ。彼だけは正しくJiriと言ってくれたんだけどなあ。」
(了)
○ ○ ○ ○ ○
 ファンの皆さんならご存知のエピソードが多いけど、故郷で語ると少し趣が違っていて、楽しめたのではないでしょうか?
 チェコの盟友ピアニスト、エミル・ヴィクリッキー(p)のHPに、日本のヴィーナス・レコードプロデゥースで、ジョージ・ムラーツ、ルイス・ナッシュ(ds)とトリオのアルバムをNY録音したニュースが出ていたと後藤誠氏よりお知らせいただきました。ジョージ・ムラーツ兄さんのプレイはチェコ訛りかNY訛りかどっちやろ?興味津々です。
 明日はThe Mainstem!
 ブログを読んでくださっている寺井ファン、ジャック・フロスト氏よりの差し入れ=北の大地のアスパラガスや、箕面マチルダ農園の豆類をパスタにして待ってます。
お楽しみに~!
CU

GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (最終回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (4)
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<晩年> 
  ヤングは晩年の大部分をノーマン・グランツのJATP一座で過ごした。彼はアル中となり、演奏はぼうっとした不確かなものになった。変わらずスーツとポークパイハット姿であったが、演奏中は座っていることが多くなった。
 1957年にTV番組『ザ・サウンド・オブ・ジャズ』に出演した時の彼は「心ここにあらず」という風情だ。スタジオではビッグバンド・ナンバー2曲のパート譜を読む事を拒んだ。(代役は、かつてヤングの父に師事したベン・ウエブスターだった。)ビリー・ホリデイのブルース、<ファイン&メロウ>で1コーラス吹いているが、音色は完璧だがソロには生気がない。(訳註;番組制作に関わったナット・ヘントフによれば、この日のヤングの体調は最悪でスタジオで立っている事すら出来ない状態だったという。)
 ソロに耳を傾けるビリー・ホリデイの愛に満ちた微笑みを見ると、彼女に聴こえているのは、今そこに座るレスターのソロではなく、彼女の脳裏に刻まれた昔の彼のソロではなかったのかという気がする。
 

 テナー奏者バディ・テイトは番組の翌年、ニューポートジャズフェスティバルに出演したヤングを車で送って帰った。
buddy_tate.jpg  「私がレスターと初めて会ったのはテキサス州シャーマンで、当時の彼はまだアルトを吹いていた。しばらくして、彼がフレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍した時、ベイシー楽団に後釜として入ったのが私だ。その当時レスターは酒も煙草もやらなかった。とても粋でナイーブな人だったな。1939―1940の第2期ベイシー楽団では同僚だった。演奏中に小さなベルを持っていてね、バンドの誰かがドジを踏むとそれをチンと鳴らすんだよ。
 1958年のニューポートフェスティバルの帰り道、NY迄乗せて帰った。彼はとても落ち込んでいたよ。ギャラが少なくてがっかりしていたし「自分の演奏も良くなかった」ってね。「いいや、あんたのプレイはすごく良かったよ!例えば…」と私が言うと、彼は答えた。
「レイディ・テイト、もしも本当に僕が良かったらさ、僕を真似している他のテナー連中が、一体なぜ僕より儲けてるんだい?」

 アレンジャ―、ギル・エヴァンスは40年代に西海岸でヤングと知り合い、彼の晩年はNYでも親交があった。
gil_evans.jpg   「レスター・ヤングの様に孤独な人は、往々にして自分に目隠しをしてしまうものだ。善いにつけ悪いにつけ、全ての根源は過去にあるとして、昔のことをずうっと引きずっているんだ。亡くなった年、彼がアルヴィン・ホテルに引越した頃でもまだ、「十代に譜面を読む勉強をしなかったので、父に嫌われた」と言うような話を持ち出してくる。だけど本当は、他のものに対する現在の怒りをはっきり表現できないので、昔の出来事とすり替えていたのではないだろうか? 何に怒っているのかをはっきり言えずに、時々彼は泣いていた。
 ずっと昔、たまたまカリフォルニアに行った折に、ジミー・ロウルズ(p)と連れ立ってプレズに会いに行ったことがある。彼はお父さんの所有する3階建ての建物に住んでいてね、その家を訪ねたら、丁度、親子喧嘩の真っ最中だった。プレズはすすり泣いていた。これから家を出てウエスト・ロサンジェルスの母親のバンガローに引っ越すから手伝ってくれないかと言うんだ。僕達は借り物のクーペに乗ってきていたので、言われるとおり、僕らで荷造りから引越しまで何もかもやったよ。レスターのあの涙はずっと忘れられない。
  50年代にNYの52丁目近くのレストランで、彼と一緒に食事をしていたら、トルコ帽に聖衣を着た妙な男が入ってきてキリストについて説教を始め、彼を「預言者(PROPHET)」と呼んだんだ。するとプレズはその男がイエスと「恩恵(PROFIT)」について何か言ったのだと勘違いし、プイと店を飛び出してしまった。僕が追いついた時彼は泣いていた。なぜ彼がイエスにそんな強い感情を持つようになったのか判らない。子供の頃教会に通っていたからか、或いは彼は不平等や不正に強く悩んでいたからか… 例えどういう種類の不平等や不正にしても、彼にとっては絶対に耐えがたいものだった。
  彼は晩年、アルヴィン・ホテル(訳注:NY、ブロードウェイの52丁目にあった。)に大きな部屋を借りていた。部屋を訪ねると、食べ物の皿が所狭しと置かれていた。友達の差し入ればかりだったが、彼はもう食べる事が出来なくて、ただワインを飲むだけだった。彼の飲酒が手におえなくなった理由の一つに歯の問題があった。歯がボロボロで常に歯痛に悩まされていたんだ。
 それでも彼は、ヘアスタイルとかそういう事にはすごくこだわっていた。長く伸ばしていたんだけど、とうとう私の妻(散髪がうまいんだ!)が彼の髪をカットする事になった。すると妻がハサミを一度入れるたびに、鏡を見せろって言うんだ。まだ髪の毛も床に落ちていないのね。すごいことだよ!大なり小なり意識的に自分を死に追いやっている人間が、なお自分のヘアスタイルにこだわるというのは。」

   テナー奏者ズート・シムズは、40年代にヤングを崇拝し徹底的に聴きこんだ。彼もまたレスターの無邪気なナルシズムの目撃者だ。
Zoot_Sims_at_Birdland__Marcel_Fleiss.jpg  「1957年にバードランド・オールスターズでツアーした時、レスターと相部屋だった。ある日、彼が着替えで裸同然にになったんだけど、真っ赤なショーツでね。力こぶを作ってポーズをとってゆっくりとターンしながら言うんだ。
 『おじんにしては悪くないなあ…』って。
 ほんとにその通り、いい体格でね。あの人は心も綺麗だったなあ…。それにとても知的な人だったよ。」

 ヤングはパリ公演から帰国した翌日、アルヴィン・ホテルで亡くなった。死の直前、フランスでフランソワ・ポスティフが行ったロング・インタヴューは沈鬱なものだ。多分彼は死を予感し、そこに自分の墓碑銘を残したのかもしれない。
 『社会は全ての黒人がアンクル・トムやアンクル・レミュス、アンクル・サムというようなものに成るように望んでいる。私にはそんなことは出来ない。ずっと同じことの繰り返しだ。
 生きる為には戦わなければならない。―死が戦いから解放してくれる日まで。それが勝利の時だ。』


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 トミー・フラナガンは、レスター・ヤングとの録音はありませんが、ヤングの晩年にレギュラーで共演していました。レスターが大好きだったので、友達のサックス奏者がアルヴィン・ホテルに訪ねて行くと言うと、必ずくっついて行ったそうです。
 レスター・ヤングの不思議な言葉使いが、浮揚感あるサウンドにつながっているというのも、ジャズ講座に来ていらっしゃる皆さんには、わかりやすかったのではないでしょうか?
 音楽だけに限らないと思いますが、巨匠の最盛期を知る人ほど、晩年の衰えを見るのは辛い。人間は皆そうなるもんなんだ。でもジョン・ルイスやジミー・ロウルズ、ズートといった人たちは、(多分知っているんだろうけど)一言も惨めったらしい姿については話していません。
 トミー・フラナガンという人は、こういう行儀についてとてもうるさい人だったので、(フラナガンの教えてくれたルールを、私はインディアンの掟と呼んでる。)インタビューされる人たちの「見識」についても色々興味深く読みました。
 初めて掲載してしまったホイットニー・バリエットのポートレートはどうでしたか?バリエットは巧者そろいのNew Yorkerのコラムニストのうちでも「英語の達人」と呼ばれ、原文はもっとリズムと格調があります。私のような若輩者では、どうにも日本語にしきれなくてゴメンネ。
原書もペーパーバックで入手可能、辞書をひくのがイヤでなければ楽しめます。
CU

GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (第三回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (3)
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<独立独歩> 
 ヤングの才能はカウント・ベイシーの元で開花した。比類なき軽やかさと陰影のある歴史的名演を数え切れぬほど録音し、ビリー・ホリデイの伴奏で名盤を作った。ビリー・ホリディとレスター・ヤングのサウンドは、一つの声から派生した双子だ。コールマン・ホーキンスが独立してから数年経った1940年代後半、ヤングも自己グループで活動を決意、NY52丁目で短期間スモールグループで活動した後、西海岸で弟のリー・ヤング(ds)とバンドを結成した。
52ndSt1948Gottlieb.jpg  ティーン・エイジャーの頃、52丁目でヤングと交友のあったシルビア・シムズ(vo)は語る。
 シルビア・シムズ:「ヤングはとても快活な人で、髪が素敵だった。40~50年代に皆がつけていたポマードは絶対使わなかった。服の着こなしも素晴らしくて、頭の後ろにちょんとかぶったポークパイハットが、彼のファッションのアクセントだった。いつもコロンのいい匂いをさせていた。一度、お客が騒いでちっとも演奏を聴かないと彼にグチをこぼすと、彼はこう言ったわ。
 『レディ・シムズ、店の中で誰かたった一人だけでも聴いてくれる人がいるとしたらどうする? その人はトイレに行ってるかもしれないが、それでも君にはお客さんがいるってことだろう?』 
 彼の話は’レスター語’だらけで理解するのが大変だったけれど、音楽は判りやすかった!レスター独特のあの言葉でフレージングしていたんだわ。私の歌は彼に大きな影響を受けている。私だけじゃなくて多くの歌手がずっと彼の演奏から学んでいるんだもの。」

 ジミー・ロウルズ(p)はヤングの西海岸時代に共演した。
p_rowles.jpg    「ビリー・ホリデイが一体いつ頃、”大統領(プレジデント)”を略したプレズというあだ名を付けたのが知らないが、彼と最初に知り合いになった頃、楽団の連中は彼のことを”アンクル・バッバ(Bubbaはブラザーの意)”と呼んでいたよ。
 私もこの業界で色んな人間に会ったが、レスターは極めてユニークだ。一人ぼっちで物静かな人でね。本当に腰が低くて、怒るという事がまずなかった。もし気を悪くしたら、ジャケットの一番上のポケットにいつも入ってる洋服ブラシを取り出し、左の肩をサッと一掃きしたもんさ。
 あの人と知り合いになりたけりゃ、一緒に仕事をするしかない。それ以外は、カードをやるか、チビチビ酒を飲むだけだ。万一何かしゃべったりしたら、皆びっくり仰天して交通がストップする位珍しいことだったよ。
 スーツ以外の姿を見た事がない。お気に入りはダブルのピン・ストライプだった。かっちりしたタブカラーのワイシャツで、ズボンの折り返しは小さく、つま先が尖り細い踵のキューバンヒールを履いていた。
 1941年頃、まだまだ年上のうるさ型たちは、彼の真価を認めていなかった。自分たちより格下と思っていたんだよ。ちゃんとキャリアを積んでいたのに、新参者と思われていたんだ。彼のプレイには変な特徴があった。彼のお父さんもサックスを上下に揺すって吹いたんだよ。一種ヴォードヴィル的な演り方だな、多分レスターのあの構えはそんなところから来たのかも知れない。いずれにせよ、レスターがノッて来るれば来るほどサックスの構えは上になり、殆ど水平になっちゃうのさ。」

art_lesteryoung.jpg
<兵役の闇> 
cafesociety.jpg1942年、ヤングは弟のリー・ヤングと共にNYの有名なクラブ<カフェソサエティ・ダウンタウン>に出演、その後ディジー・ガレスピー(tp)やテナー奏者のアル・シアーズと共演後、ベイシー楽団に再加入した。

   1944年の徴兵は、彼が生涯決して克服できなかった第二の苦難となった。
 いったい軍隊で彼に何が起こったのか?真相は諸説あるが、重要なことは、彼は生まれて初めて現実と衝突し、現実が彼を打ちのめしたという事実だ。彼は軍隊で過ごしたのは15ヶ月間だが、兵役期間中の大部分、営倉に拘留されていた。罪状はマリファナと睡眠薬の所持、言い換えれば不当な扱いに対し無垢な黒人が、たまたま不適当な時と場所に居合わせたという罪だ。極めて不名誉な除隊を強いられてからというもの、彼の演奏と生活は、ゆっくりとすさんで行ったのである。
 ジョン・ルイス(p)は1951年にヤングの下で演奏した。
john__Lewis.jpg    「バンドは大体ジョー・ジョーンズがドラム、ジョー・シュルマンがベース、トニー・フルセラかジェシー・ドレイクスがトランペットだった。私達はNYの<バップ・シティ>の様なクラブで演奏してから、シカゴへ巡業した。
 レスターは各セット同じ曲を演奏するという日が時にあった。そして次の週も同じ曲を繰り返す。先週の火曜に<Sometimes I’m Happy >を演奏し、今週の火曜も演るんだが、今週は一曲目にを演ってみる。そして前の週に彼が演ったソロの変奏を吹き、次の週はそのまた変奏を吹くというようなことが続き、彼のソロは巨大な有機体に変わっていくんだ、
 その頃から彼の演奏が荒れたと世間じゃ言うが、私が彼と一緒の時、劣悪な演奏など聴いた事がない。彼の演奏が変わったと感じたのは最後の数年間だけだ。その変化について明確な証拠や、いやな体験などしていない。ただね、そこはかとない絶望感が漂っていた。
  彼は私の目の前に実在する本物の詩人だったよ。物凄く無口だったから、一旦彼が口を開くと、一つ一つの言葉が、小さな爆発物のように強く感じた。私は彼が意識的に特別な言葉を発明したとは思わない。アルバカーキに居た従兄弟の話し方と少し似た所があったし、20年代後半から30年代前半には、オクラホマシティ、カンザスシティやシカゴで彼の言葉に似たようなものがあった。その地方の人々もやっぱりお洒落で、レスターのようにポークパイハットなんかをかぶっていた。だから彼の話し方や服装は自然と身に付いたのじゃないかな。扮装とか、本当の姿を隠す術ではなかったと思う。ただ彼はヒップであろうとしただけさ、何もかもがスイングしているという意識の表現だろうね。
 勿論、彼は役立たずの連中の為にわざわざかっこよさを浪費したり、下手くそと共演し、せっかくの良い演奏を台無しするような愚かな事はしなかったさ。もしも彼が不当な扱いを受けたとすれば、心の傷は決して癒ることはなかったろうな。
 昔、52丁目の<バップ・シティ>に出演した時のことだ。レスターは、彼の音がか細いと世間に非難され、どれほど深く悩み続けているか話してくれたんだ。
 楽屋で話の途中に、レスターはサックスを取り上げ、素晴らしく大きな音でソロを吹いて見せてくれたよ。コールマン・ホーキンスとはまた違い、分厚く滑らかで濃密な音色で、最高に美しいサウンドだった。」

(明日につづく)