寺井尚之のピアノ教室の発表会が25日に迫り、生徒達は稽古に明け暮れています。教室のピアニスト達の心意気をよしとして、発表会に激励の花束を届けて下さる長年の常連様がいらっしゃいます。私が二十代の頃からご贔屓に頂いていて、当店が世界に誇る常連様!美術、スポーツ、芸能全般に造詣深く、その夜のプレイの好不調関係なく受け容れて、若手ミュージシャンの成長を見守ってくれる度量の深さと、滲み出る上品さに、いつの頃からか、「パノニカ・マダム」とニックネームがついていました。パノニカ男爵夫人って知っていますか? ジャズ史上最も有名なパトロンとして圧倒的な異彩を放つ女性で、彼女に献上された曲はジャズ・スタンダード多数、トミー・フラナガンの名曲セロニカは、セロニアス・モンクとパノニカの友情に捧げられた曲です。
豹柄は大阪のおばちゃんのトレードマークだけどニカはちょっと違うね。セロニアス・モンクと。
私が昔ヴィレッジ・ヴァンガードで見かけたパノニカ夫人は多分70歳位だったはずですが、老婦人とは程遠いあでやかさ、満員の店の隅にいた彼女はまるでスポットライトが当たっているように目立っていた。「美貌」とか「センスの良さ」を超越する不思議なパワーを放っていた。その源は何なのか?路地裏インタールードの想像力は掻き立てられるばかり。パノニカが遺した大人の絵本、「Three Wishes :三つの願い」を片手に、パノニカ夫人を読み解いていこう。
<パノニカ的品格とは>
ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンの回想録にはパノニカ夫人の章があります。そこでゴードンはパノニカを「イギリス生まれの彼女は余りに上品で、彼女と会話をすると、思わず自分の言葉遣いに気をつけようという気になる。」と書いていますが、その後に引用される彼女の言葉はジャズ・ミュージシャン並のべらんめえ調、決してエリザベス女王や、NYの山の手イングリッシュみたいな言葉使いでは決してありません。
ギタリストのジョシュア・ブレイクストーンから、彼女の言葉に関する武勇伝を聴いた事があります。
NYの”ブラッドリーズ”というクラブにトミー・フラナガンが出演していた時、例によってニカ夫人が聴きに来ていた。不幸にも、演奏中に、酔っぱらいのおじさんが大声でしゃべるので雰囲気は最低…すると休憩中にニカ夫人が、その酔っ払いに近づいてにこやかに話しかけた。
「わたくしね、あなたの為に、ただ今詩を書きましたのよ。」
酔っ払いは嬉しそうに「ほう!どんな詩を?」と聞き返した。
するとパノニカは詩を吟唱し始めた。
『空は青く、花は香る…』
おっさんは懸命に耳を傾ける。すると彼女は、
『お前なんかクソくらえ!
Fu○k You, Fu○k You, Fu○k You!』と結んだそうです。ジャズ・ファンのお客さんはヤンヤの喝采で、酔っ払いはすっかり酔いが醒め、スゴスゴ帰っていったとか…
このウルトラ技は私には無理やわ!ダイアナ・フラナガンでも絶対できないだろう!
三島由紀夫の小説を引き合いに出すまでもなく、本当に高貴な人は庶民の物差しを超越したエレガンスがあるんだろうな…
漆黒の髪に引き立つ色白の顔、真っ赤なルージュとシガレットホルダー、鮮やかなドレスとパノニカ夫人の興味深い生い立ちは、「三つの願い」の序文として、ナディーヌが、孫娘の視線を通して書いている。
彼女の自宅キャット・ハウスにて。バド・パウエルと。
<ニカの生い立ち>
ニカは1913年というから、徳川慶喜が亡くなった大正2年、ロンドンで、キャスリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド:Kathleen Annie Pannonica Rothschildとして、ユダヤ系財閥ロスチャイルド家に生まれた。
父は英国貴族、大銀行の頭取のチャールズ・ロスチャイルド男爵。どれほど華麗なる一族かは庶民には知る由もありませんが、日露戦争に日本が勝てたのは、この父上が昆虫採集(!)で来日経験があり、それがきっかけで日本政府が彼の銀行から莫大な資金供与を受けたからだと聞けば、なんとなく想像は出来る… ところが、この父上は投資の仕事や華やかな社交界には興味がなく、昆虫学が好きな趣味人で、新種の蝶を求めて世界行脚。(ニカの姉、長女のミリアム・ロスチャイルドも、世界的な動物学者です。)妻の故郷ハンガリーで彼が発見した新種の美しい蝶の名前、「パノニカ」をそのまま末っ子に与えたんです。
チャールズ・ロスチャイルド卿、イギリスの色んな場所に彼の名を冠したコテージがある
パノニカの母君ロジツカ・ワルトハイムシュタインは、世界史上最初のユダヤ貴族の血筋で黒髪と不思議な色の瞳で社交界の名花と謳われた正真正銘のお姫さま!つまりパノニカはおとぎ話に出てくるような両親から生まれた四人兄弟の末娘なんです。
幼い頃から美術の才を発揮し、18歳でパウル・クレーやカンディンスキーを輩出したドイツ、ミュンヘン美術学校に留学、生涯、趣味として抽象画を書き続けました。彼女の一族に音楽家は見当たりませんが、トミー・フラナガンのアルバム”セロニカや、”ビヨンド・ザ・ブルーバード”のカヴァー・デザインを担当した娘のベリットや、序文の著者ナディーヌも美術系のDNAを持っている。
<富豪の光と影:父の死とホロコーストのはざまで>
お姫様パノニカが最初に出会った悲劇は父の死だ。それはまだニカが10歳の時に起こった。父、チャールズ卿は脳炎に苦しんだ結果うつ病となり、46歳の若さで自殺したのだ。莫大な財産と、知性や教養を備えた父の病と自殺がニカに教えたものは何だったのだろう?
ニカは美術学校卒業後、ヨーロッパを旅行してからロンドン社交界の花として上流生活に戻るが、上流サロンやリゾート地だけでなく、飛行機を自分で操縦しようとする活動的な女性だった。’35年に飛行術の習得で訪れたフランスの空港でユダヤ系フランス貴族、ジュール・ケーニグスウォーター男爵と運命的な出会いをし結婚、フランスに家庭を持ち五人の子供の母となった。彼女が家庭を守る間、大戦の足音が近づく。
第二次大戦が勃発し、ナチのフランス侵攻が近づくと、ユダヤ人であるジュールとニカは、フランスを離れ、シャルル・ドゴール将軍率いるレジスタンス運動に身を投じる。夫がドゴール将軍が統括するアフリカに派遣されると、ニカは夫の後を追い、暗号官としてコンゴやガーナのネットワークを保持ししただけでなく、運動員たちを運ぶ女性運転手として命を賭けたのだ。この辺りが、ただのお姫様とは違うところだ。
「ニカのアフリカ系文化、すなわちジャズへの嗜好は、このアフリカでの活動が元になったのでは?」とナディーヌは序文で語っている。
夫妻がアフリカでレジスタンスとして活動中、上流のユダヤ人たちの殆どがヒトラーの挫折を確信し、「自分たちにあれほど良くしてくれたドイツ人やフランス人が私達を迫害することは決してない。」と疑わなかった。そして、フランスからの避難を息子に強く勧められていた夫の母親や、ニカの親戚達の大部分が自分の親しんだ場所から動かず、結果的にアウシュビッツで亡くなったのだ。
使い切れないほどの富も、知性も、高貴な血筋も・・・人間が欲する全てのものが、戦争の前には全く無力だった。ダイヤもドレスも取り上げられ丸坊主にされてガス室に送られた親戚の女性達・・・それらの不条理とアフリカでの体験が、その後、ニカの人生を決定したのだろうか?
ジャズ芸術の中に彼女のそれまでの悲劇を浄化してくれる何かがあったのだろうか?ジャズ音楽家の宿命に決定的な同志愛を感じたのだろうか?愛する芸術家達を守る為、世間の非難を省みず行った様々な行動は、彼女のそれまでの体験と、絡み合っているように思えてしかたがありません。
次回はアメリカに渡ったパノニカのジャズライフや、ミュージシャンたちが告白した「3つの願い」は何だったのか眺めてみよう。
17日のメインステムでCU!
カテゴリー: ジャズのサムライ達、聖人達
ルーファス・リード(b)がやってくる!
ルーファス・リード 撮影:John Abbott
ルーファス・リード(b)さんは、いつ知り合ったのか判らないほど長年のおつきあい。寺井尚之と初めて会ったのは、’82年にトミー・フラナガン3で来日した時でした。以来、J.J.ジョンソン、ジョー・ヘンダーソン、アキラ・タナとのタナリードなど、色んな人たちと来日するたびにOverSeasに遊びに来てくれたし、ケニー・バロン(p)トリオでコンサートもしてくれました。元フラナガニアトリオ、宗竹正浩(b)さんのアイドルでもあります。
でも、ウィリアム・パタースン大学ジャズ科の主任教授に就任してからは、なかなか日本に来ることがありませんでした。彼の尽力のおかげで、現在ウィリアム・パタースン大は現在ジャズの名門校になっています。退官後は、ニュージャージー州から芸術基金を受けて作曲活動を行っていましたが、1月にチャールズ・トリヴァー・ビッグバンドでスタンリー・カウエルと共に久々の来日予定!
いつも年末になると新聞形式のファミリー・ニュースを送ってきてくれるのですが、今年は一足早く、「日本に行くぞー!大阪に行くぞ!」とメールが来ました。
お人形みたいな女の子は、孫娘のアゼリーンちゃんです。
トランペット奏者であったルーファスが、初めてベースのレッスンを受けたのはなんと日本!高校卒業後、空軍バンドの一員として、岩国基地に駐屯していた時で、最初の先生は東京交響楽団のコントラバス奏者だったといいます。
彼のスローガンは、Keep Swinging! 洗練されたベース・ラインと柔軟なビートで、バンドにスイングの波動を送り込むルーファスのプレイは、その人柄そのままに温かみがあって最高です!
クリスマス・デイに思うのは・・・
今年も12月23日に寺井尚之ジャズピアノ教室生徒会の『クリスマスではないParty』開催。
皆のおいしい顔や楽しい顔を見ると、疲れも吹っ飛びます。
Hello, Young Lovers! 昨夜のクリスマス・イブ、いつもは男同士でライブを聴きに来てくれる青年が、とびきり素敵な女性をエスコートして来てくれたりすると、わけもなく嬉しくなりました!大昔の子供時代のイヴの夜に、買ったばかりのモジュラー・ステレオでビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』をかけ、座敷でファミリー・ダンスパーティ。私はよちよち歩きの弟と前衛ダンス、ふと見上げると両親が飛び切り幸せそうな顔でダンス!意外に上手で、なんだか嬉しかった・・・そんな記憶があるからかも知れません。
<クリスマス・キャロルズ>
クリスマスといえば、もうひとつ思い出があります。それは’86年の12月25日、クリスマス・デイに、Jazz Club OverSeasでスタンリー・カウエル(p)のソロ・コンサートを開催した時のこと。
ラトガーズ大学の大先生になる前のスタンリー・カウエルは、その頃新主流派の先鋭ピアニストとして頻繁に来日していました。OverSeasに初お目見えしたのは’83年夏のヒース・ブラザーズ(ジミー・ヒースts、パーシー・ヒースb、アルバート・“トゥティ”・ヒースds)との伝説的名コンボ、それ以来寺井尚之も常連様たちも、すっかりカウエル・ファンになった。確かそれが初めてスタンリー・カウエルをメインにしたコンサートだった。
ノン・クリスチャンでも、クリスマスは家族と過ごすのがアメリカの習慣だから、ミュージシャンといえど、クリスマスの日本ソロ・ツアーは、スタンリーにとってかなりキビシイものらしかった。
詳しいことは判らないけど、コンサート前にロードマネージャーさんが言うには、季節柄、どこに行っても、「クリスマス・コンサート」としてブッキングされていて、スタンリー・カウエルがどれほど凄い名手かを理解していない公演地ばかりだったそうです。行ってみたら、ピアノがアップライトだったり、演奏中にスパゲティを炒める音がジュージュー響いていたり、挙句の果てにはクリスマス・ソングや、ビートルズの『イエスタディ』(ジェローム・カーンのイエスタデイズじゃなくて)までリクエストされる惨状に、カウエルさんは心身ともに疲れきっている。」ということだった。
それを聴いた寺井尚之は即座にカウエルに言った。
「うちでは、あんたがどんな人なのか、お客さんも皆よーく判ってる!Listen, Stanley, OverSeasでクリスマス・ソングなんか絶対演らんでええ!スタンダード曲も演らんでええねん!どうぞ、あんたが好きな曲を演奏してください。それが皆の聴きたい曲です!」
OverSeasでのコンサートは、以前のヒース・ブラザーズですっかりカウエルに心酔したお客様が沢山詰め掛け、クリスマス・ソングを期待して来たような人は見当たらない。指の動きが左右対称のミラー奏法を駆使したオリジナル、『エクイポイズ』を初めとしてオリジナル曲や、父の友人で子供の頃自宅で聴いたアート・テイタムを彷彿とさせる兆速のJust One of Those Thingsに会場は大歓声!聴衆の中には、今もOverSeasを応援してくれるパノニカマダムの姿もありました。その時からJust One of Those Thingsはマダムのお気に入りになったのだ。
 大きな体躯のスタンリーが弾くとOverSeasの小さなグランドは余計に小さく見えたけど、店の隅々まで倍音が鳴り、88鍵上を大きな足長クモが目にも留まらぬ速度で縦横無尽に動き回るかのような超絶技巧に会場から感嘆のため息、これまでのモヤモヤを洗い流すカタルシス・・・クリスマスのかけらもないハードなソロピアノに、アンコールの拍手は鳴り止まない!今から思っても凄いプレイだったなあ。
アンコールに応えてスタンリーが演り始めたのはあれほど嫌がっていたはずのクリスマス・ソング!、それも賛美歌のメドレーだった!「諸人こぞりて Joy to the World」 「聖しこの夜 Silent Night! Holy Night」「神の御子は今宵しも O come, all ye faithful」・・・ 心の赴くままに、ピアノで綴るクリスマスキャロルの清々しいこと・・・ジャズの店が教会になったみたいな魔法が起きた。
あのクリスマスの夜に大事なことを教わった。芸術家の心を開く鍵は、いつもお客様たちの手の中にあるんですね。
1月に来日するカウエルとチャールズ・トリヴァー、そして、スタンリー同様長年の友で大先生のベーシスト、ルーファス・リード。OverSeasのキッチンではタメゴロウさんと呼ばれていた。写真はallaboutjazz.comより
スタンリー・カウエルと寺井尚之はそれからすっかり仲良しになって、何度もコンサートをしたり、家に泊りに来たこともあったけど、ここ15年以上は大学に専念していて、休暇以外はツアーすることがなかった。でも来年1月にチャールズ・トリヴァーのビッグ・バンドで日本ツアーを久々にやります。
スタンリーだけでなく、ビリー・ハーパー(ts)やルーファス・リード(b)も一緒!皆に早く会いたいなあ・・・
今年のライブも後2日、楽しい演奏で年末を飾りたい!!
CU
NYベーシスト、YAS竹田のこと:
摩天楼からダウンタウンまで。
Yas Takeda (1960-)
NYで活躍する日本人ミュージシャンは星の数ほど多い!中でも、OverSeasで一番人気はYas竹田! その昔、OverSeasがボンベイビルにあった頃、Yasは下駄履きのバンカラ大学生、寺井尚之の元で、“イエスタデイズ”のポール・チェンバース・ヴァージョン(Bass On Top)や、オスカー・ペティフォードの“トリクロティズム”などを繰り返し稽古していた。余り何度も聴かされるので、お店のコックさんはすっかり、ジャズ・ベーシストのオリジナル曲の権威になっちゃった。現在東京で活躍するテナーの三木俊雄さんが、その頃、後輩として竹田君をしょっちゅう聴きに来ていたのを覚えています。
卒業後は迷わずプロの道に進み、寺井の推薦で、日本を代表するハードバップ・ピアニスト、故田村翼(たむらよく)さんのレギュラーに抜擢されて一躍注目されました。だって、二十歳そこそこの駆け出しのベーシストが、「厳しい」ことで評判の田村さんと演らせてもらえるだけでも凄いことでした。田村さんのバンドでは「3日でクビ」になるのは、珍しいことではなく、3ヶ月レギュラーとして一緒に出来たのは快挙だったのです。田村さんはOverSeasでも何度もプレイして下さったので、私も、瞬間湯沸かし器のように共演者に激怒される様子を何度か目にしました。自分に厳しい人だったから、人にも厳しかったのだろうと思います。日常の田村さんは、寺井の良き先輩で、私のような者にも丁寧に接してくださった。業界人っぽい調子よさのないシャイな方だった。
Rifftideに連載中の、Yasが語る田村翼さんの思い出は、正直な語り口で読み応えがあります。
「考えてみれば田村さんとお付き合いできたのはわずかの間でしたが、僕の音楽生活には大きな影響を与えたのは間違いありません。 田村さんに少しでも恩返したいと思って、かなり時間をかけて思い出して、あの文章を書きました。」:Yas竹田談
デューク・ジョーダンと…左から4人目が若き日のYAS(’82)
Yasは田村さんの所を離れてからも、関西一円で活躍、’88年に、NYニュー・スクールの特待生として渡米してからは、ジョージ・ムラーツ(b)、セシル・マクビー(b)、ジミー・ヒース(ts)、サー・ローランド・ハナ(p)など錚々たる巨匠に師事。卒業後、ブルックリンで家庭を持ち、20年間プロ活動を続けています。共演者は、同窓のブラッド・メルドー(p)や大西順子(p)をはじめ、巨匠ルイス・ヘイズ(ds)や、ジャッキー・バイアード(p)etc… NYにしっかり根を下ろすジャズマンです。息子さんが幼い時は里帰りを兼ね、ほぼ毎年OverSeasで帰国ライブを催し、人気を博していました。
彼のベースは、メロディやオブリガートで聴かせるOverSeasで主流のムラーツ・スタイルとは違い、バキバキした骨太のランニングで音楽にパルスを送り込む、堅牢なベース・スタイル。帰国ライブのたびに、いかにもNYらしい洗練されたベース・ラインに魅了されました。
演奏の傍らOverSeasNY駐在員としては、貴重な現地ライブレポートを送ってくれたり、ジャズクラブ案内も!トミー・フラナガン愛好会初め、マンハッタンで彼にお世話になった常連さん&スタッフ多数!ところが、ここ2年ほどすっかりご無沙汰で、全国から「竹田さんはどないしてはりますか?」と各方面からお問い合わせを頂いてました。
ファンの皆さん、彼は40肩ではありますが、NYで沢山ギグを抱えて、元気にベースを弾いてますのでご安心ください!
<摩天楼のYAS竹田>
11月15日付けのNEW YORK POST(スポニチや東スポ的強力見出しを誇るタブロイド誌:スポーツ、ゴシップ欄だけでなく、文化欄も結構充実。)にミッドタウンの名所、ロックフェラー・プラザのGEビルの65階にある高級レストラン、「レインボー・ルーム」の特集記事が組まれています。
タイトルは『星とダンスを:伝説のスター達、レインボー・ルーム:虹の彼方に…』素敵ですね!「レインボー・ルーム」の創業が、75年前の大恐慌の真っ只中ということで記事になったようです。
歴代大統領、マフィアの大ボス、大富豪やスター達が集う豪華なお店、Yas竹田は、ここにレギュラー出演している。
記事にはYASの所属するJoe Battaglia楽団のリーダー、ジョー・バッタグリアさんのインタビューも掲載。
「一曲1000$という破格のチップも珍しくなかったが、現在はチップは頂かない方針」だとか…惜しかったね、YASちゃん!
マフィアの大ボスが「注文する前から、100$のチップをポンと置いた。」とか、「20$そこそこのカクテル一杯にチップが$250」とか、さすが高級レストランに相応しい景気の良い話が満載! 私も、お金持ちになることが万が一あれば、和服を着てこんなボールルームに行ってみたい!そして、チップじゃなくて、ポチ袋に入れたご祝儀を、藤山寛美さんのように皆に配ろう!
記事のバンド写真は凄く小さいけど、ベースを弾くYasの姿が映っている。
<ダウンタウンのYAS竹田>
ミッドタウンからずーっとミナミに下って、グリニッジ・ヴィレッジにも、Yasの活動場所があります。クリストファー・ストリートにある「ガラージ」というカジュアルなジャズ・レストランのサイトにも、上のようにYasの写真が!このお店ではLou Caputoというサックス奏者のグループに所属。(Not So BigBandとか書いてあるのがおもしろい!) 何でも、「ジャズ・アネクドーツ」や「さよならバードランド」の著者として有名なベーシスト、ビル・クロウのトラとして、ずっと演奏しているそうです。
他にも、NYの街の色々な場所で「手堅い中堅ベーシスト」として活躍しているYas竹田、円高のご利益を満喫しに、年末NYに行かれる方は、ぜひともCheck it!
私の弟と同い年のYas竹田、弟とと同じように、昔は憎たらしい生意気な奴と思っていたけど、今はとにかく、家族皆で達者で暮らしてしていて欲しい。いつか再びOverSeasの帰国ライブで円熟したプレイが聴きたいものです。
CU
ベルリン発 ジョージ・ムラーツ情報、大人のジャズファンの為の絵本情報など…
<トリビュート前、ピアノも絶好調>
トリビュート・コンサートが来週に近づき、路地裏は何となく慌しい雰囲気,
でもピアノは、いつもに増して高らかにサウンドしています。トリビュートに備えて寺井尚之が寸暇を惜しんで稽古しているせいで、ヒット・ポイントと呼ばれる鍵盤のツボをずーっと刺激しているから、ピアノのアドレナリンが増幅されているのだろうか?? 不思議な現象です。
遠方でトリビュート・コンサートにお越しになれないフラナガン・ファンの皆さん、沢山激励メッセージなど頂戴し、ありがとうございます! お店のフラナガンの写真に向いながら逐一報告していますよ!コンサートは、まだ少しだけ席がありますので、お早めにどうぞ!
摩周湖から贈られた極上ポテトのお供えは、特別メニューに変身!
ジャック・フロストさま、ありがとうございました。
<ジョージ・ムラーツ情報>
ベルリンジャズ祭HPより
我らのアニキ、ジョージ・ムラーツはヨーロッパ楽旅もとうとう終盤、ベルリンから’70年代にムラーツと盛んに共演したウォルター・ノリス(p)先生から、ムラーツ情報が届きました。
「…君たちが教えてくれたとおり、ムラーツは、リシャール・ガリアーノ・カルテットで演奏しました。ゴンザロ・ルバルカバ(p)、クラレンス・ペン(ds) ベルリン・ジャズ祭で、彼らの奏でる一音一音全てがビューティフルだった。
コンサートが終わってから、妻のクリステンと一緒にホテルでムラーツとゆっくり会ってOverSeasの君たちの噂で盛り上がったよ。そして、1973年の共演時代の思い出、私たちが共有した、沢山の音楽的瞬間のことを語り合いました。
ああ、人生は一度じゃあ足りないね!・・・OverSeasの皆によろしく伝えてください!」
ノリス-ムラーツ・コンビのDrifting(’73 Enja)や、Hues of Blues (Concord ’95)は研ぎ澄まされたナイフのようなインタープレイが「妖艶」とでも言えばいいのか…しっぽり魅了されてしまいます。
<パノニカ夫人に夢中!>
不景気なのに物価高、まるでエラ・フィッツジェラルドの『ノーバディズ・ビジネス』のような昨今ですが、円高をいいことに、この秋、やっと英語版で出版されたパノニカ夫人の写真集、『Three Wishes: An Intimate Look at Jazz Greats』を買いました。オリジナルは昨年出た仏語版、でも当時はユーロ高、おまけに仏語はムズカシイと躊躇していたけど、今回はペーパーバックス、紀伊国屋のサイトで1,900円弱とお買い得!届くのに数週間かかりましたが、買ってよかった!楽しくて切なくて、大人のジャズ・ファンのための、数少ない良書です。
この本は、ニカ夫人が遺した多数のスナップ写真と、親しいミュージシャンに投げかけた問いかけ:『あなたの3つの願いは?』に対する沢山の『答え』の草稿を、上手にデザインして仕上げた極上の「大人の絵本」。
ジャズメンたちをこよなく愛したパノニカだからこそ撮れた、様々なジャズメンの屈託のない表情が最高!「奇人」として知られるセロニアス・モンクが、尊敬するコールマン・ホーキンスの傍らで見せる検挙な表情や、トミー・フラナガンがニカの飼い猫に見せる笑顔など、商業写真では絶対に拝めない「素顔」のショットばかりです。
「3つの願い」を告白したジャズメンの顔ぶれは、ジャズの聖人、サムライたちがずらり!冒頭のセロニアス・モンクから、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、AT、ジミー・ヒース、ディック・カッツ、スティット、ロリンス、Aブレイキーetc…勿論トミー・フラナガンも!!ジャズの巨人達の『お答え』には、その人の人生が見え隠れして、楽しかったり切なかったり。
本文に負けないほど感銘を受けたのは「序文」! それは、アーティストであるナディーヌ・ケーニグスウォーターが、大叔母さんへの愛情をこめ、近親者のみ知る事実を交えながら書いた簡潔なパノニカの伝記。私たちも生前のパノニカ夫人を観たことがあるし、色んなミュージシャンから彼女の噂を聞いたことがあります。そこから感じるパノニカのイメージは、「タニマチ」とか「男爵夫人」とかいう枠を越えた人だった。だから、モンクの代理妻とか、上品な男爵夫人とか、メディアが伝えるパノニカ像に、どうも釈然としないものを感じていたんです。
ところが、今回の序文からは、20世紀のユダヤ上流階級の文化、汎ヨーロッパ的精神、父の悲劇的な死、ホロコースト、レジスタンス運動、アフリカ文化などなど…修羅場をくぐってきた高貴な女性の生き様を象徴するキーワードに満ちていて、リアリティ・ギャップが一気に解消された爽快さを味わいました。
「エラ・フィッツジェラルドMontreux’77」の対訳の合間に作った抄訳は、近日掲載予定。
明日は荒崎英一郎トリオ、新人ベーシストのプレイを聴くのが楽しみです。
CU!
トリビュート・コンサートの前に:トミー&ダイアナ・フラナガンのレア映像
民主党オバマさんが第44代合衆国大統領に! 日本のTVなのに開票速報が順次報道され「ここはどこの国?」と思うくらいアメリカの選挙一色、直後に届いたNYタイムス速報メールの見出しが印象的でした。
Obama Elected President as Racial Barrier Falls
「人種の壁崩壊、オバマ、大統領に!」
トミー・フラナガン未亡人ダイアナは、根っからのリベラル、民主党支持者…米国のジャズ界で共和党支持の人を私は知らない。さぞ浮かれているだろうと思って電話してみたら、意外にも風邪をひいて大人しくしていた。
ところで、ジャズ講座の資料準備で、Youtube検索していたら、思いがけずトミーとダイアナ・フラナガン夫妻、1972年の貴重な映像に遭遇!必要は発見の母? それともトミーの思し召しか??
映画のタイトルは「Born to Swing:The Movie About the Alumni of the Count Basie Band of 1943」。
Born to Swingは、日本語なら『生まれながらのスイング野郎たち』という感じでしょうか? 『1943年のカウント・ベイシー楽団員の現在』という副題がついている。’73年作品、英国のTV用ドキュメンタリー映画で、ヴィデオでも販売されていたようなのですが、現在は入手不可。
ダイアナに聞いたら、「そうそう!エキストラでセッションに行ったけど、出来たフィルムは全く観たことがない。」らしい。撮影は、二人が結婚したしばらく後の’72年、トミーはNY滞在中で番組に参加したそうで、ダイアナが映っている唯一の動画だと言っていた。
ラッキーなことにYoutubeに、番組を11のパーツに分割しアップロードしてくれた親切な人がいた!ありがとう!!
勿論、番組には字幕がないし、残念なことには、ストーリーと直接無関係なトミー・フラナガンのソロがカットされている。だけど、ジョー・ジョーンズを初めとする巨匠達の神業がアンビリーバブル!それだけでなく、’70年代の文化に興味があれば、とっても面白いのでお暇なときに見てみてください。下の映像は、11に分けられたパーツのうちの<Part10>です。
詳しいパーソネル&サウンドトラックのデータは、imdbでなくアメリカ国会図書館にありました。
どんな内容かというと、スイングジャズの黄金期に活躍したカウント・ベイシーのメンバー達の’70年代の姿にスポットを当てた『あの人は今』風の番組。人間国宝級のアーティストにアメリカは優しくなかったということがよーく判ります。故にこの番組もUK製作でUSAじゃない。
トランペット教室の講師が黒鉄ヒロシそっくりなジョー・ニューマン(tp)で、授業参観がバック・クレイトン(tp)だったり、ジョー・ジョーンズ(ds)の神業が拝めたり、テキサス・テナーの大御所、バディ・テイトの「ハーレム・ノクターン」が聴けたり、ジャズ講座や講座本に登場する偉人が沢山拝める。私は、深夜、一気に見てしまいました。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
★勿体無いので各パートをごく簡単に説明しておこう。
Part1 プロローグ、黄金期、1943年当時のベイシー楽団の映像。
Part2 カンザスシティ の巻き:ベイシー楽団のルーツ、カンザス・シティやダンス・ホールと結びついたスイング・ジャズについて、当時のもう一人の名バンマス、アンディ・カーク達が、ダンス音楽として発祥したスイング・ジャズの歴史を、当時の貴重映像と共に語る。
Part3: スイング時代の白人スタードラマー、ジーン・クルーパ(ds)と、ベイシー・サウンドに魅了され、彼らをスターダムにのし上げたプロデューサー、ジョン・ハモンドが、当時の状況をベイシー・サウンドに乗せて語る。最後のダンスシーンの関取みたいな人は、かの有名なブルース歌手、ジミー・ラッシングです。
Part4: 引き続き、ジョン・ハモンドが当時のベイシー楽団のメンバーが非常に読譜力があり、同時にアドリブの能力があったかを語り、’72年現在のメンバー達のリハーサルへとシーン・チェンジズ!最初のテナーが、バディ・テイト!左に座るアルトが、来月の講座に登場するアール・ウォーレン! メインストリーム誌(英ジャズ誌)の編集長、アルバート・マッカーシーは、スイング時代の名手が現在では、必ずしもアメリカで厚遇されていないと語る。凄いインパクトの赤シャツのベーシストはジーン・ラミー(b)。2:35あたりに、トミー・フラナガンのアップが!
Part 5 ディッキー・ウエルズ(tb)の巻 :英国では高い評価のミュート・トロンボーンの名手、ウエルズも今は、現在はハーレムの小さなアパート暮らし、なんとウォール街のメッセンジャー・ボーイとして生計を立てていた。なんちゅうこっちゃ…現在の日本の不景気な状況下では、配達の封筒にスタンプを押すウエルズの姿が一層身につまされる。
Part 6 バディ・テイトの巻: ’72現在、現役として活動するテイトが、自分の一部のようなブルースや、奥さんとのなれそめなどを語る。ソロで吹くハーレム・ノクターンやトミー・フラナガン参加のリハーサル・シーンが最高、Bテイトの後ろでスイングしているのがダイアナ・フラナガンです。
Part7: トランペッター:バック・クレイトン&ジョー・ニューマンの巻 スイング時代に最高の美男とビリー・ホリディが絶賛した大スター、バック・クレイトン(tp)は体調を崩し引退を余儀なくされた。演奏できない辛さを酒で紛らわせたと語るクレイトン、そして、ジャズモービル(NYの夏のジャズ風物詩でした)のトランペット・セミナーで、演奏技術を後進に伝えるジョー・ニューマン先生の姿が!勉強になります。傍らで見守るクレイトンの表情は何とも言えないほど深い。
Part8 :圧巻!ジョー・ジョーンズ(ds)の巻き!!全モダン・ドラマーの祖父と呼ばれる、ジョー・ジョーンズ(ds)も現役だが、現在ドラムショップの共同経営者で、お客さんにインストラクターをしている。
指導シーンも、Jニューマン、トミー・フラナガンとトリオでのLizaのプレイも、全てが圧倒的!!メインステムのドラマー、菅一平さんは、実家が経営していたすし屋の花板さんのイメージが重なったそうです。にこやかに接客しながら、注文を間違わずに、さっさとすしを握る仕事ぶりと似ていると、言っておられました。
Part9:コンマス アール・ウォーレン(as)の巻 43年当時楽団のスターアルト奏者、アール・ウォーレンは、家族が病気になり収入を確保するため、現在はブロードウェイなど商業音楽の世界で暮らしているが、音楽への情熱は失ってはいない。リハ・シーンでコンサート・マスターの腕をいかんなく発揮。一流ビッグバンドのリハを観るチャンスはなかなかないので勉強になる!
Part10:リユニオン・バンドの巻 レコーディング・セッションで往年のメンバー達が、今の自分たちのサウンドでスイングする。もちろんピアノはトミー・フラナガン!「Blues for J.Jones」 最高!壁際に座ってたダイアナに聞いたところでは、「あれは完全な即興よ、その場のヘッドアレンジだけでささっと演っちゃったの!」と言ってました。
<Part11>エピローグ
このヴィデオは、龍谷大学の図書館にあるようなので、心ある龍大の方、どなたかコピーしてくださったらダイアナに送ってあげられるのですが・・・OverSeasは学割チャージ半額ですよ!
とにかく今の私より若いダイアナやトミーの姿、叩き上げの名手達の姿を観て、とっても元気が出ました。
土曜日はジャズ講座で、トミー・フラナガン3 at Montreux ’77を皆で聴こう!北海道のジャック・フロスト・フラナガン氏が届けてくださった、おいしいジャガイモと地鶏で、おいしい料理を作ります。皆来てね!
CU
タッド・ダメロンについて話そう!(3)
<ドラッグ刑務所にて>
1958年4月、有罪判決を受けたタッド・ダメロンはケンタッキー州レキシントンにある連邦麻薬患者更正病院(The Federal Narcotics Hospital:通称 Narco)に入院した。
ナルコは、ドラッグ犯罪者の刑務所であると同時に、施設には牧場もあった。
一般市民にも門戸を開放し、入院者が労働や娯楽活動を通じて、麻薬で失った自尊心や自信を回復できるプログラムを持つユニークなリハビリ施設だったが、治癒率は7パーセントと低く、隠密に麻薬の人体実験を行うなどの「影の仕事」が、閉院後にTVドキュメンタリーや左記の書物で明らかになっている。
’40年代、「レキシントンに行く」と言えば、この病院を指すほど麻薬中毒は多かった。アメリカでは、当時ドラッグはアスピリンと同じくらい簡単に入手できたからだ。おまけに、教育を受けられない有色人種の子供は、売人にとって格好の潜在的マーケットとして、ただで薬を配られ、麻薬に親しまされた、という経緯がある。チャーリー・パーカーは、芸術的恍惚感を得る為だけにドラッグ中毒になったのではないのです。
ここにお世話になったジャズの巨人達は枚挙に暇がない、思いつくだけで、ロリンズ、エルヴィン、キャノンボール、チェット・ベイカー…加えてスティット、アモンズ、デクスター・ゴードンは、「所持」でなく麻薬売買の罪で服役した。当然、刑務所内にはジャズバンドがあり、ダメロンは入所後、すぐに指揮者となるのですが、すぐに辞めてしまう。理由は、一般入院患者がすぐに退院してしまうので、固定メンバーが少なく、バンドがまとまらないからだったそうです。そしてダメロンは一般労働につく。レキシントンでは麻薬所持だけで犯罪歴のない者は、病院外で就労することもできたんです。
<クロフォード家のコックは幸せ者>
ダメロンが選んだのは意外にもコックの仕事(!) なんでも養父の経営するレストランの調理場で7歳の時から働いたというキャリアがあったらしい。施設の近所にあるクロフォードさんというお宅に通い、毎日料理を作った。地獄で仏、クロフォードさん一家は、タッドを音楽家と認め、家族のように親切にしてくれた。このお宅にはピアノがあり、ご飯の支度以外、タッドはピアノにずっと向かっていてよかった。彼がピアノを弾いたり作曲する様子を見ているのが、クロフォード家の人達は大好きだったのだそうです。
「あのお宅で、生まれて初めて他人の親切というものを知った。」と、タッドは述懐している。出所後も、レコードを送ったり文通し、この一家と交際を続けた。普通ならシャバに戻れば、牢屋の記憶は消し去りたいはずでしょうから、ダメロンとこの家族の間には、よほど特別なつながりがあったのではないだろうか?
<レキシントンから吹く風は…>
もう少しで刑期が終わる頃、NYからダメロンに一通の手紙が届いた。それは、リヴァーサイド・レコードの重役、オリン・キープニュースからの仕事の依頼だった。
ブルー・ミッチェル(tp)とストリングス、ブラスアンサンブルを組み合わせたアルバムの制作にあたり、ダメロンに編曲を依頼することに決定したのだ。NYからはるか彼方で服役中のダメロンに白羽の矢を立てた裏には、キープニュースと懇意であったダメロンの親友、フィリー・ジョー・ジョーンズの尽力があったのことは、容易に想像できます。
ダメロンは、レキシントンから、アルバム中、2曲の書き下ろしオリジナルと5曲の編曲を提供。
心にすがすがしさと平穏をもたらしてくれる名曲“Smooth As the Wind”は、服役中に書かれたものだったのだ。クロフォード一家の優しさに触れなければ、OverSeasで皆が大好きな、Smooth As the Windも、この間ジャズ講座で楽しんだA Blue Timeも生まれていなかったかも知れない。
アルバムの出来について、自分が現場にいればもっと良いものになったろうと悔やんでいる。
<浦島太郎>
’61年 6月末、タッド・ダメロンは刑期を終えNYに帰還。しかし3年間の空白の後に観たNYのジャズシーンは「アヴァン・ギャルド」へと向かい、ダメロンには到底受け容れ難いものだった。
タッド・ダメロンは出所後のジャズクラブの感想をこのように語っている。
「何のフォーマットもないプレイに、僕はびっくり仰天した。…お客さんたちは、何に対する拍手なのかも判らず、やたらに拍手しているだけ、ミュージシャンたちは、ブロウするだけで「かたち」というものがまるでなかった…。」
「僕は、人を煙に巻くために音楽を演っているんじゃない。自分の演っていることを、鑑賞してほしい。演奏の帰り道、僕の書いた音楽を口笛で吹いてくれればそれでいい。」
<癌と戦った晩年>
カヴァー写真は、床の上で譜面を書くダメロン:彼はフィリー・ジョー・ジョーンズと同居中、いつもこんな姿勢で楽譜を書き、ピアノに向かうのはサウンドを確認する時だけだったという。
『Smooth As the Wind』に続きダメロンは、やっと自己名義の『The Magic Touch』を録音、3日間の録音を与えられ、スイングの風を送り込むドラムには最高の理解者フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)を据え、ダメロン・サウンドの切り札、トランペットにはブルー・ミッチェルやクラーク・テリーのトランペットを擁して、ソロ・オーダーまで、きめ細かく陣頭指揮した録音は、ダメロンにとって最も満足の行く仕上がりとなる。これがダメロン自身のラスト・レコーディングとなった。
最後のライブ出演は1964年11月8日(日)の午後、場所はイーストヴィレッジのジャズクラブ、「ファイブ・スポット」で、ビバップ時代の仲間、バブズ・ゴンザレス(vo)主催:“ダメロン音楽の集い”と書物(Jazz Masters of the Forties/ Ira Gitler)に記載されているが、週刊誌NewYorkerのタウン情報を見ても、日曜は休業日となっていて、どこにも記載がない。 Ira Gitlerの本では、ダメロンは入院先から外出許可を取っての出演であったと書かれている。そうすれば、末期がんのダメロンを励まし、治療費をカンパを募るような内輪のイベントであったのかも知れない。
翌65年、3月8日タッド・ダメロンは、イギリス人のミア夫人に看取られ、アップタウンのルーズベルト病院にて没。3日後の葬儀には、兄シーザーや母ルースがクリーブランドから駆けつけ、ビリー・テイラー(p)ロイ・ヘインズ(ds)など多くのジャズメンが参列した。牧師の説教はごく短時間で、葬儀の殆どが演奏で占められた。「ベニー・ゴルソン(ts)が、ダメロン作“The Squirrel”を演奏した。」とNYタイムズには記載されている。享年48歳だった。
’08 1月ASCAPの受賞式に出席したミア・ダメロン未亡人、右はジョン・クレイトン(b)
<ミュージシャンが魅了され続ける『美・バップ』>
タッド・ダメロンは、ビバップの高度な理論を駆使し、独自の美的世界を完成させ、多くの音楽家に影響を与えた。
作編曲だけでなく、ミュージシャン、特にトランペットの「使いどころ」を熟知していて、最高のソロオーダーを指示できた音楽監督であったと言います。また、「聴かせるツボ」を抑える為に、ソロイストに演奏表現を事細かく指導することで、ファッツ・ナバロ、クリフォード・ブラウン(tp)やサラ・ヴォーン(vo)の天才を開花させたのだと、フィリー・ジョー・ジョーンズやデクスター・ゴードン達、ミュージシャン達は語る。
批評界には、「ビバップ期の作編曲家」としか格付けされなかったダメロン音楽を、再評価して再生させたのは、業界でなくミュージシャン達だ。
’81年、フィリー・ジョー・ジョーンズは、エロイーズ夫人の尽力で、米国芸術基金を取得、ドン・シックラー(tp)の協力を得て、伝説的なバンド“ダメロニア”を結成、ダメロン音楽を蘇らせた。2枚のアルバムを発表後、各地で公演を行い、特にNYで大きな評価を得た。
’88年に、リンカーン・センターで伝説的なコンサートが開催される。“The Music of Tadd Dameron”と銘打ったコンサートが、前半がトミー・フラナガン3+チャーリー・ラウズ(ts)後半がダメロニアで、全編タッド・ダメロンの名曲を聴かせ、スタンディング・オベーションの嵐となったのは今も語り草です。。
寺井尚之にとっては、フラナガンにコンサートの最前列を取ってもらいながら渡米の日程が合わず、泣く泣く聴き逃した逸話がありますが、後にラジオで放送されました。
それ以外にも、’80年代はジミー・ヒース(ts)、アーサー・テイラー(ds)達のバンド、“コンティニアム”もダメロン集をリリースしています。
と、いうわけで、2回続けてタッド・ダメロンの人生がどんなだったのか、少し書いてみました。スイングしていて美しい!ビバップというより“美・バップ”と呼びたいダメロンの名曲は、OverSeasの日常には欠かせない。11月22日のトリビュート・コンサートにも演奏されます。ぜひお楽しみください。
「この世は醜いものだらけ。私が惹かれるのは“美”だ。」
「ホーンや歌手が“歌う”のに最も重要なのは“息遣い”だ。多くのミュージシャンがそれを忘れている。」
「まずはスイングすること。そして美しくあること。」
タッド・ダメロン
タッド・ダメロンについて話そう!(2)
Tadd Dameron 1917-1965
このところ不景気なのに物価高、金融スパイラルで異様な円高…そうだ!今まで手の出なかった洋書の買い時だ!…しかし、先立つものが…
ともあれ、今夜は、今までに貯め込んだビバップ資料から、タッド・ダメロンの紆余曲折の人生をちょっと眺めてみよう。今夜はその前編です。
<ミスキャスト?タッド・ダメロン>
1962年、麻薬更正施設からNYにカムバックしたタッド・ダメロンは、ダウンビート誌のインタビューの冒頭に、「私は音楽界で、最もミスキャストの、合わない役柄ばかりこなしてきたミュージシャンだ。」と発言した。私はそれがダメロンのB級なイメージを増幅したのではないかと危惧します。天才に対するリスペクトも情もないビル・コスのまとめ方に、記事を読んだダメロンはきっと「こんなはずじゃなかった」と思ったに違いない。
<独学の天才>
タッド・ダメロンは、タドリー・ユーイング・ピーク(Tadley Ewing Peake)として、1917年(大正6年)に、アメリカ中西部の大都市、オハイオ州クリーブランドのピーク夫妻の次男として生まれた。今でもお元気なハンク・ジョーンズ(p)さんよりたった一つだけ年上です。
真ん中の眼鏡紳士がハンク・ジョーンズ、その左がタッド・ダメロン(’40s)
シーザー&タッド兄弟が幼い時、両親が離婚し、母親がアドルファス・ダメロンというクリーブランドのレストラン経営者と再婚したので、兄弟も養父のダメロン姓になりました。兄シーザー・ダメロンは、タッド同様、ピアニスト、編曲家、バンドリーダーに加え、サックス奏者として地元やシカゴで活躍、タッドがジャズの道に進んだのも、この兄さんの影響でした。
ダメロン夫妻は、兄を音楽家、弟を医者にしようと考え、シーザーにはピアノを習わせサックスを買い与えましたが、タッドには「勉強しなさい」と自宅でピアノを弾くのを禁じたそうです。
「だめ」と言われると、子供は絶対したくなる…タッドは、母が留守をするとピアノの独習に励み、兄さんからはジャズの手ほどきを受けながら、音楽理論の書物を読み漁った。同時に映画が大好き!お好みは、ガーシュインが流れるフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズの「美しい」ミュージカル映画、タッドは映画館に行くと鉄砲玉みたいで、母親が迎えに行くまで帰ってこない子供であった。
タッド・ダメロンは、作編曲、ピアノ、ぜーんぶ独学だった。 そのため、ハイスクールの音楽理論の授業があまりにも「あほくさく」、サボリまくった結果「落第」するという皮肉な結果を招く。
親の希望をよそに、兄と共にプロ活動、僅か16歳で、プロのバンドにアレンジを提供していたというのですから、音楽の授業に出ている暇がなかったのかも知れません。
<もう一人の天才、フレディ・ウエブスター>
ダメロンは初期のサラ・ヴォーンのSP盤“If You Could See Me Now”にフィーチュアされているけれど…
高校時代から共演していたのが、伝説のトランペッター、フレディ・ウエブスターで、ダメロンは彼のバンドで歌手(!)とピアノを担当していた。ウエブスターはトランペット発明以来、最高といわれる大きなトーンとヴィブラートを持つ名手で31歳の若さで亡くなり、彼の往時のプレイを偲ばせる録音は殆ど残っていないんです。初期のマイルス・デイヴィスが、本番でフレディのソロの完コピーを吹いたという有名な逸話もあり、多くのトランペット奏者に影響を与えた。後年、タッド・ダメロンは、彼を規範にしてクリフォード・ブラウンやファッツ・ナバロを育て上げたそうです。生で聴いてみたかったものですね。
<ミスキャストな医学生>
高校卒業後、オハイオ州一の名門大、オバーリン・カレッジに入学、ここは音楽部門が特に有名で、今OverSeasで話題沸騰のスタンリー・カウエル(p)も卒業生です。
しかし、タッドは両親の希望で、医学部の予備コースへ。2回生の時、人体解剖で切除されかかった腕がブランブランしているのを見て、吐き気を催し、「無理や」と諦めたタッドは、バンドに入り巡業の日々を送ったそうです。
ところが、最近、研究者がオバーリン大の名簿を調査しても、ダメロンの名前はなかったそうです。ひょっとしたら、親から学費をもらいながら、バンドでビータ(旅)をしていたのか?とにかく、家族は「こんなはずじゃなかった!」とびっくり仰天!
学生だったタッドをスカウトして巡業に連れて行ったブランチ・キャロウエイはキャブの姉だった。
<カンザス・シティ>
様々な楽団で演奏と作編曲をしながら各地を渡り歩くダメロンは、30年代のジャズのメッカ、カンザス・シティにしばし落ち着き、NYから帰ってきたチャーリー・パーカーと初めて出会います。しかし、Good Baitや Stay on Itと言ったビバップらしいダメロンの代表作は、パーカーと出会うずっと前、すでにクリーブランドで書いていた作品だったのです。
独学でビバップの和声とリズムを開発した天才も、第二次大戦勃発後、2年間、軍需工場で労働し、音楽とは全く無縁の労働に従事しなければなりませんでした。丁度、エリントン楽団の「A列車で行こう」が全米のラジオで鳴っていた頃のことです。
ランスフォード楽団もラジオを通じコットンクラブから一流になった楽団でベニー・グッドマン楽団はこのバンドのアレンジで人気を博した。
軍需奉仕から解放されると、ダメロンは即ジミー・ランスフォード楽団で、編曲、リハーサル指導として活動、やがてベニー・カーターやカウント・ベイシーなど様々な楽団に自作やアレンジを提供するのだけれど、何故かレコーディングの機会は回ってこないアンラッキーな下積み生活が続く。
<52番街からビバップの寵児に…>
当時の52丁目、左にはオニキス、右にスリー・デューシスと名店が軒を連ねる。
ダメロンがNYに進出するのは、終戦前の1944年になってからで、NYジャズの中心地がハーレムから52丁目に南下した後のことです。ほどなく、ディジー・ガレスピー・クインテットに代役としてピアノで出演したのをきっかけにブレイク、コール・ポーターの「恋とはどんなものでしょう」の枠組を基に、スモール・コンボ用に作ったHot Houseが大ヒット、’46年には、サラ・ヴォーンのおハコとなる、“If You Could See Me Now”を作詞作曲編曲、ビリー・エクスタインのビバップ・ビッグ・バンドの編曲を担当し、花形アレンジャーとなるのです。
当時のダメロンは、セロニアス・モンク(p)と連れ立って、「ビバップ虎の穴」、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)のアパートを訪ねては、お互いのプレイに触発されながら、モダン・ミュージックのアイデアを練り合った。
マリー・ルーのアパートはビバップ虎の穴だった。
<作曲家のはずなのに…>
ビバップ・ブームの影の立役者、モンテ・ケイの主催する大手芸能事務所に所属し、事務所に言われるまま、バンドを率い、元々チキン料理店だった『ロイヤル・ルースト』に出演、するとオープニングに口コミだけで500人のお客がごった返すほどの人気を博し、ラジオ放送されてからは、更にピアニストとして有名にる。
1947年には、ジャズに力を入れていた男性誌、「エスカイヤ」の人気投票で、「アレンジャーの新星」部門第一位、翌年には、ピアノの腕にはからきし自信がないのに、ラジオ番組で人気投票、ピアノ部門一位を獲得してしまいます。タッド・ダメロン自身は、「自分の天職は作曲だけど、誰も編曲してくれないから仕方なくやっただけ」にも関わらず、ミスマッチな役柄で有名になっちゃった。
ビッグバンドのフィクサー的存在だったバド・ジョンソン(ts,arr)は「ダメロンの編曲は、実際にはディジー・ガレスピーに言われたことをそのまま書いただけでだ。」と批判的ですが、整然として明るく気品のあるオーケストレーションは、全てのパートが主旋律のように美しく、吹くと楽しい、アドリブもしやすい(ただし、腕があるなら)と、デクスター・ゴードン(ts)を初め、演奏者である楽団員達に熱烈な指示を受けます。
タッド・ダメロンの本性はメロディ・メイカーであったのか?
トミー・フラナガンの考えはそうではない。
「タッド・ダメロンの曲はオーケストラによる演奏を予定して書かれているから、ソロ・ピアノで演りやすい。」と語っている。(講座本Ⅲ:特別付録参照)
つまり、ダメロンは頭の中で楽団をサウンドさせながら、間口の広いきれいなメロディを書くことで、新たな編曲のアイデアを、他人にも提示してほしかったのではないだろうか?
<耽美か耽溺か>
1949年、パーカーやガレスピーに象徴される、ベレー帽や派手なストライプのスーツでてんとう虫(Lady Bird)の様に着飾るバッパー達に替わり、ブルックス・ブラザースのトラッドファッションに身を固めたマイルス・デイヴィスがスポットライトを浴びる時代が到来します。NYのトレンドはビバップからハード・バップ、クール・ジャズへと風向きを変えたのです。
NYでの活動が頭打ちになったダメロンはマイルスとヨーロッパに楽旅し、そのまま英国に2年間留まり音楽活動をしますが、NYのように刺激的なものではなかったのかもしれません。
’51年に帰国、ダメロンが参加したのは、R&B系のブルムース・ジャクソン楽団、タッド・ダメロンの弟子格のベニー・ゴルソン(ts)、最高の理解者、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)などハード・バップの名手が在籍していたのですが、どう見たってR&Bはミスキャストだった。そこで、フィリー・ジョーやゴルソンを連れ、新人だったクリフォード・ブラウンを引き受け、自己楽団を結成する。しかし、取れた仕事は、たった一ヶ月のジャズと無関係なダンスの仕事。一ヶ月で解散の憂き目に合います。この頃から、ダメロンは、だんだんとヘロインに依存して行く。
1953年に、ブラウン・ローチ・クインテットが録音した名作The Scene Is Cleanは、ダメロンの麻薬根絶宣言の曲であったのですが、実際はそうは行かなかった。不本意なことが次々と重なるのです。
1956年に、自作の組曲、『フォンテンブロー』を録音するのですが、トレンディでないとリリースが見送られます。『メイティング・コール』は発売されましたが、アルバムの名義は、ジョン・コルトレーンと並列になっていました。タッド・ダメロンは音楽ビジネスでは「過去の人」になっていたんです。
八方ふさがりとなったタッド・ダメロンは、1958年1月、麻薬所持容疑で逮捕されてしまいます。
続きは次回へ…
野球シーズンも終盤で気分はしっぽりインディゴ・ブルー、明日は寺井尚之メインステムの爽快なプレイで心を癒そう…。
CU
タッド・ダメロンについて話そう!(1)
Tadd Dameron (1917-’65)
OverSeasで拍手を沢山いただけるスタンダード曲、そしてトミー・フラナガンの名演目の作曲者の一人にタッド・ダメロンがいます。ダメロンはビバップ時代を代表する作編曲家…とは言うものの、ダメロンに関する情報はネット上では凄く少ない。「ああ、Hot House 作った人か、ジョン・コルトレーンと共演してたバッパーや。麻薬中毒やろ、ピアノは下手やな。」と、なんかBクラスの格付けが多いような気がする。
トリビュート・コンサートまでに、少しタッド・ダメロンとその作品の話をしておこう!今夜はまずプロローグ。
タッド・ダメロンといえば、デトロイト出身ということで、フラナガン、ハンク・ジョーンズと共に一くくりにされがちなピアニスト、バリー・ハリス(p)がタッド・ダメロン集、『Barry Harris Plays Tadd Dameron』(Xanadu ’75)を録っていて、リリース時には私も愛聴しました。ここでバリー・ハリスが表現したタッド・ダメロンは、絵画で言えばモディリアーニ、女性の肢体に、彫刻刀でゴリゴリ削ったような陰影と質感を付け、カンバスに命を吹き込むのと同じような手法のプレイには、洗練された楽曲とビバップ的な硬質さの渋いコントラストを感じていました。
一方、トミー・フラナガンが描き出すダメロンは、同じ「デトロイト」のカテゴリーに関わらず、バリー・ハリスとはかなり違う。
最近、ジャズ講座で聴いた、<A Blue Time>、や、<Smooth As the Wind>、極めつけの<Our Delight>…どれもこれもすっきり垢抜け、金箔輝く尾形光琳の屏風のように華やかなれどケバくなく、ビバップならではの手に汗握るスリルがある。
きっちりと襟を正しているんだけど、どこかにゆるみのある、芸者さんの着物の着方みたい!色気があって粋なんです。…とかなんとか言ったって、百聞は一見にしかず!
下のYoutube動画は、寺井の生徒達が何百回も観ているヒット画像、トミー・フラナガンが<Smooth As the Wind>をソロで演っています。ホストは、これまた巨匠ビリー・テイラー(p)、<アクターズ・スタジオ・インタビュー>など、ユニークな教育番組で知られるCATV、『Bravo TV』のジャズ番組からの映像。これを観るとタッド・ダメロン作品の良さが判ってもらえるはず!
ねっ!はじめはシンプルなメロディ、ひとつひとつの音が、扇のように次々とハーモニーの花を開いて、思いがけなく大きく分厚い模様になる。スイング感も倍増し、沢山の扇が大輪の花になったと思うと、最後に全ての扇があっと言う間に畳まれて元通りになる。まるで手品みたい!なんと華麗で優美な曲でしょう!
この映像の冒頭で、ホスト役のビリー・テイラーはこう言っています。
「エラやコルトレーンとの共演も有名ですが、トミーはなんと言っても、立派なソロイストです。今日はぜひともソロ・ピアノを弾いてもらって、トミーならではのコード・ヴォイシングの素晴らしさを見せて欲しいのですが…」
それに対してフラナガンはこう答える。
「子供のときから、バンド・ミュージックを聴きながら育つと、楽団の演奏が、そのままピアノで弾けてしまうものでね… そうすると今度はちょっとピアノ向きに変えてみたりするんです。これから演るタッド・ダメロンのSmooth As The Windは、バンドのアレンジをそのままソロ・ピアノに使いました。…まずはフレンチホルンのイントロから…」
フラナガンより10歳近く上の大先輩、ビリー・テイラーに対するフラナガンの話し方はとっても謙虚!「私は腕があるから、何人ものバンド演奏をピアノ一台でやってしまえる」という一人称でなく、「子供のときから楽団を聴いていれば、どんなピアニストだってそれ位のことは出来ますよ。」と、二人称を使っているところが、英語の勉強にもなります。
Smooth As The Windを日本語にするのは、簡単なようで難しい。「風のように、肌触り良く、淀みなく疾走する」という感じかな?快適なヨット・セイリングや、新車のステアリングなどにぴったりなことばです。
<嵐の中の『そよ風』>
Smooth As the Windは、寺井尚之にとっても、大変思い出深い曲です。フラナガンが丁度『Jazz Poet』を録音した’89年、8月末にジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオでOverSeasに出演した後、フラナガン夫妻が郊外の香里園という住宅地にあった自宅に泊りに来たことがありました。丁度台風が大阪に接近していて、外は土砂降り、翌日の飛行機が飛ぶかどうか判らないような状況でしたが、コンサートは大盛況。大雨の中、第二部の当日券が出るのを期待して、漏れてくるフラナガン3のプレイを聴きながら、ジーン・ケリーみたいに傘をさして踊っているファンの方々がおられました。今でもお元気でしょうか?
その頃のトミーは、渾身のプレイの後でも元気溌剌!夜食にそうめんを食べてから、ダイアナがお風呂に入ったり、荷解きしている隙に、深夜の地下のピアノ室で「ヒサユキ、何か教えてやろう!」と、急に稽古を付け始めました。
「何を教えたろかなあ…よし!今日はタイフーンだから(!?)、Smooth As the Windにしよう!」そう言うと、こんな風にソロ・ピアノを弾き始めたんです。
トミー・フラナガンらしいウィットだなあ!
沢山開いた扇が次々と畳まれて行くようなこの鮮やかなエンディングも、その夜から寺井が完全に身に付けて覚えたものです。
私以外には誰も外野の居ないピアノ室で、師匠の一言一句、一挙一動にかじりつかんばかりにしていた寺井尚之の姿に思わずシャッターを押したのがこの写真です。この師弟の緊張感は、長年の師弟の歳月の間にも、緩んだり色褪せたりすることはなかった。だから、今でもトリビュート・コンサートの為に骨身を削って稽古できるのかな?
さて、タッド・ダメロンの作品がどんなのか、ほんの少し聴いたので、来週はタッド・ダメロン自身のことを少し書いてみようと思います。
ダメロンの名曲はOverSeasにお越しになればいつでも聴いていただけるんですけど…
CU
トミー・フラナガンの音楽観:Blindfold Test
オリンピックも終わりました…鶴橋や桃谷商店街で買い物しながら、ラジオから流れる星野ジャパンの試合に、街の人達と一喜一憂、二憂三憂…でも楽しかったなあ…
さて、月末には恒例寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会があり、OverSeasはヒートアップ!
発表会と同じ日に、いつもご一家で関東からトリビュート・コンサートにきてくださる常連KD氏が、現地スタッフに信望厚い名オーガナイザーとして、北京へ単身赴任されます。発表会には、「生徒の皆さんが「いま(一期一会)を大切にして素晴らしい演奏ができますよう」と熱いエールを頂戴しました。KDさま、再見!
寺井尚之ジャズピアノ教室は、演奏の質もさることながら、寺井尚之が一音も聴き漏らさず、真摯に講評をするのが出色。
これは、かつて寺井自身の演奏を、フラナガンやハナさんが、怖いほど真剣に聴いてくれた経験が下地になっているようです。
今日は「寺井尚之ジャズピアノ教室」のルーツであるトミー・フラナガンの音楽観を覗き見てみよう!
アメリカ人は、概ねリップサービスが上手な人、誉め上手な人が多いですが、フラナガンはそういう意味では、全くアメリカ人らしくなかった。「ええかげん」なことは決して言わない人でした。だからインタビュー嫌いだったのかも知れないし、無口を装うことが多かった。本当は議論好きで、一旦火がつくと、徹底的に相手をやりこめるシーンを何度か目にした事があります。
公の場では「温厚な人」だったフラナガンの厳しさが垣間見えるインタビュー記事は数少なく、ブログで紹介するには長すぎるので、米ダウンビート誌の、「ブラインド・フォールド・テスト」を紹介しようと思います。
「ブラインド・フォールド(目かくし)テスト」は、ゲストに、何の情報もなく、いくつかのレコードを聴いてもらった感想から、ゲストの人となりや音楽観を浮き彫りにするという趣向、レナード・フェザーという評論家の先生が始めた人気企画で、以前、スイングジャーナルでも同様の連載がありましたよね。
フラナガンは、今回紹介する’89年と’96年の2回だけゲストになっています。ちょっと読んでみましょうね。星5つが最高点です。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
ダウンビート誌 1989 3月号より : 聞き手: Fred Bouchard (ジャズ評論家 本業は航空工学など技術系のライターのようです。)
ビバップの温和な巨匠、トミー・フラナガンは、長年の名伴奏、エラ・フィッツジェラルド、ジョン・コルトレーンなどの最高の演奏を引き出してきた。
今回が初のブラインドフォールド・テスト、“カジモド”など彼のトリオでのレガッタバーでのレパートリーに因んだレコードを主体に聴いてもらったが、事前にフラナガンには何の情報も提供されていない。
1. 演奏者:Sonny Clark Memorial Quartet Wayne Horvitz(p), John Zorn(as)…
曲名 “Nicely” ソニー・クラークのオリジナル
アルバム名:Voodoo/ Black Saint
TF:誰の演奏なのかわからない。曲はソニー・ロリンズの“ポールズ・パル”を思い出させる。テーマはいいと思うが、私が気に入ったのはテーマだけだ。演奏はテーマに見合ったレベルではない。彼らのプレイを以前聴いたことがあるようにも思うが、プレイの抑揚が訛っているので、誰なのか判断することが出来ない。ひょっとしたら、ジャッキー・マクリーンかな? テーマには★★★★。
2. 演奏者:ハービー・ハンコック(p)
曲名:”Round Midnight”
アルバム名:The Other Side of Round Midnight/ BlueNote
数ヶ月前にフィニアス・ニューボーンJr.を聴いたのだが、この演奏は、フィニアスがじっくり考えてから演奏したような感じだ。
フレーズや解釈はフィニアスを思い出させて、僕は大好きだね。もしも、本当のフィニアスなら★★★★★。しかし、もしフィニアス以外の誰かなら、5つ星の値打ちはない!
3.演奏者:ナット・キング・コール(p)3:
曲名: “Bop Kick”
アルバム名:Instrumental Classics/Capitol
パーソネルは推察どおり。
多分、ナット・キング・コール・トリオだね。ボンゴはジャック・コンスタンツォだろう。ピアノのサウンドも、このオスカー・ムーアのギターも明らかにそうだ。この曲はいいねえ!進行がいいなあ…
だが、ひょっとしたら、ナットの影響を受けた他のピアニストかもしれない。例えば初期のオスカー・ピーターソンとか…でも、ピーターソンはボンゴを使っていないはずだから。
4.演奏者:シーラ・ジョーダン(vo)+ハーヴィー・シュワルツ(b)
曲名:“Tribute”(“Quasimodo”)
アルバム名:Old Time Feeling
パーソネルは推察どおり。
これはかなり確信がある!シーラだよ!となればベースは、ハーヴィー・シュワルツ(b)に決まってる。シーラと僕はデトロイト、ノーザン高校時代の同窓だ。彼女は高校時代から歌詞を書いていた。同じ授業をサボって、街のジュークボックスでチャーリー・パーカーの“Now’s The Time”を聴いていた間柄だもの。あれは、’40年代中ごろだったかなあ。(おっと…年齢をバラしちゃった、シーラ、ごめんよ!)僕が初めて聴いた、歌詞付きのラウンド・ミッドナイトは、シーラの作詞だった。
でも、チャーリー・パーカーの“カジモド”に歌詞を付けていたとはね…彼女はすごく音楽的だ!高得点!!★★★★1/2!
5. 演奏者 デイブ・マッケンナ(p)ソロ
曲名“Moon Country”
アルバム名:A Celebration of Hoagy Carmichael/ Concord
デイブ・マッケンナだ!まるでリズムセクションがいるようなプレイ…これこそデイブのスタイルだ。ハハハ…彼はリズム・セクション内蔵型ピアニストだよ!タイトルは“The Old Country”じゃなかったかな?ホーギー・カーマイケルかウィラード・ロビンソンだったっけ?僕は昔の歌が好きだ。デイブの弾き方も大好きだよ。★★★★1/2!
満点じゃないのは、デイブにが常に、より以上のプレイをする余力を持っているからだ。
6.チャーリー・パーカー(as)
曲名:“Thriving on a Riff:(アルバム記載によれば)
アルバム名:Original Bird/ Savoy”
パーソネル: チャーリー・パーカー(as),マイルス・デイヴィス(tp),ディジー・ガレスピー(p):(アルバム記載よれば)
色々聴かせてくれたけど、初の五つ星だね。ピアニストはサディック・ハキムだ。(フラナガンはピアノソロを滑らかにハミングしながら聴く。)曲は“アンソロポロジー”、僕は、まさにこの曲から、ビバップに親しんだんだ。多分トランペットはディジー・ガレスピー、ドラムはマックス・ローチかケニー・クラークだな。プレイからあふれ出るグルーヴが最高だ!
【聴き終わってパーソネルを知らせると、フラナガンはこう言った。】
アルバム・ジャケットに書いてあるデータなんぞ、気にしなさんな!演奏者名なんて、契約の問題でコロコロ変わるんだから。ディズ(ガレスピー)には、ミュージシャン・ユニオンの組合員証があり、サディック(本名:アーゴン・ソーントン)にはなかった、それだけのことだよ。
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どうですか? 2の寸評は、明らかに誰が演っているのか知っていながら知らんプリで、手厳しいことを言っていますね。6のチャーリー・パーカーには、特に深い知識と愛情を持つフラナガンならではのコメントが聴けました。レコードのクレジットには未だに、史実が反映されないところも、気をつけなければ…
トミーは本当に「音楽的」な人だったから、普段でもよく流れてくる音楽を聴きながら歌ってました。それどころか、フル・オーケストラを聴くと、頭の中に何十ピースものスコアがダウンロード→保存されてしまう天才です。どんな歌の歌詞もよく知っていたし、知識の宝庫。嫌いな音楽を聴くと、大きな苦痛を感じ、それを隠す為に、聴こえないフリをしてた。
また次回続きをご紹介します!今度はハナさんやセロニアス・モンクのアルバムからフラナガンの名コメントが引き出されます。
CU