女の言い分:リー・モーガン事件(最終回)

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 リー・モーガンに近いミュージシャンは、ヘレン&リーについてこんな風に語っている。

lee-morgan-quintet-left-bank-copy.jpg 事件現場に居た L.モーガン・クインテットのテナー奏者、ビリー・ハーパー:「リーといえば、必ずヘレンを連想する。それほど強く結ばれた夫婦だ。とにかくヘレンはリーをドラッグから救済しようと必死だった。ヘレンも裏社会の人間だから似た者同士だ。彼女は人生のほとんどを彼に捧げ、その一大プロジェクトに、僕達も乗っかったわけだ。リーはリーで、全てを変えたいと切望し、彼女の生き方をも変えたいと望んだ・・・」

hartmages.jpg   ドラマー、ビリー・ハート:「ヘレンは大した女だよ。頭は切れるし、仕事ができた。リーだって負けず劣らず頭が良かった。クスリをやっていても、毎日NYタイムズには目を通すような人間だ。リーは、ヘレンと若い恋人の両方を愛し苦悩していた。愛の種類は違うとしてもね…」

 姉さん女房の理想の夫婦も沢山いるけれど、ヘレンの場合は、モーガンを救うため、敢えて「妻」や「恋人」でいるより、厳しい「母」になろうとした。例え、彼に裏切られようとも…

 コカインをやりだすと、ハイでない時には、強烈にイラついたり、被害妄想になったり、エキセントリックになるといいます。ヘレンが人前でズケズケ言い、モーガンが逆ギレするようになったのは、二人がコカインを吸うようになってからなのかもしれない・・・

「誰のお陰で、ここまで立ち直れたと思ってんの!」これがヘレンの口癖だった。

 「あれほどのスターが、奥さんにがんじがらめにされるなんてミジメだよね。」と陰口が聞こえてくると、家に帰らず、若いガールフレンドとの将来を夢みても、ちっとも不思議じゃない。きっとモーガンは若い彼女と一緒に居るときには「妻と別れて一緒になる。」と決意し、彼女に約束していたのかも知れない。

 ヘレンがモーガンに別れを告げたのは1972年2月13日の日曜日のことだ。ところが、ヘレンを思いとどまらせると、3日と経たぬうちに、再び若いガールフレンドと同棲を始め、家に寄りつかなくなった。ちょうどその時期、モーガン・クインテットで一週間のクラブ出演が始まろうとしていた。

<SLUGS’>

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  《スラッグス SLUGS’》は、当時、非常に物騒で荒涼としたイースト・ヴィレッジにあり、モーガンがNYの本拠地として、ここに定期的に出演出来たのも、ヘレンの尽力の賜物だった。当時の『The New Yorker』のタウン情報には、「うら寂しい地区でひときわ賑わう人気スポット」というような紹介文がある。とにかくタクシーを店の前に停めて降りるなり、ナイフを突きつけられるかも、とまで言われるほどのうら寂しい場所だった。《スラッグス》はうなぎの寝床のような長細い店で、奥にバンドスタンドがあり、75席ほどだったけれど、当時のスタッフによれば、時にはその倍ものお客で賑わう繁盛店だった。

 モーガンはここで2月15日(火)から2月20日(日)の出演を予定していた。悲劇の起こったのは週末、2月19日(土)、日中の気温が零度を越えない寒い日であった。

<悲劇の予兆>

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  その日、日中のモーガンはゴキゲンだった。ガールフレンドと連れ立って “ジャズモービル”の冬期ジャズワークショップで授業をしている友人のジミー・ヒース(ts)の教室を訪問している。

designCanvasAngelaDavis.jpgジミー・ヒース: 「あの日、リー・モーガンは、大きなアフロヘアで、とても綺麗な若い女の子とフラっとやって来た。その子は、黒人運動のヒロイン、アンジェラ・ディヴィスに似た美人だった。リーは授業を遮ってこう言った。

『よう、チビ公、俺の彼女はどうだい?』

 彼が、もっと年上のヘレンと一緒だという事はよく知っていた。ヘレンのおかげでドラッグから立ち直り、まっとうな人間にしてもらって、ギグやツアーも出来て、うまく行ってる事もね。仕方なくこう言ったよ。

『リー、いま授業中なんだ。ああ、確かに彼女はイケてる。おめでとうさん、よかったな。』…」

 この後、二人は最初の災難に見舞われた。乗っていた彼女のフォルクスワーゲンが、凍結した道路でスリップしカーブを曲がりきれず大破。レッカー車が来るのを待つ余裕もなく、モーガンはほうほうの体で、トランペットのケースだけを抱え、ガールフレンドと震えながら《スラッグス》にやって来た。一番先に店に入っていたビリー・ハーパーは、その様子を見て、かつてモーガンが師と仰いだクリフォード・ブラウンの事故を思い出したと言っている。

  一方、長らくモーガンの出演場所に顔を出すことのなかったヘレンは、この夜、自宅に訪ねてきたゲイの友人に夫婦の悩みを聞いてもらっていた。やがて、彼女は《スラッグス》にモーガンの様子を見に行くから同行して欲しいと言い出した。その友達は「私はいや。あんたも絶対行かないほうがいい!」と説得したけれど、一旦決めたら引かない女だ。「大丈夫!ちょっと挨拶に寄るだけ。それから《ヴィレッジ・ヴァンガード》に行ってフレディ(ハバード)を聴くんだから。」

 そして彼女は拳銃をバッグに入れた。それは、モーガンは「留守中に一人ぼっちだと、心配だから」と、護身用にくれたものだった。その夜は、彼女がモーガンのコートを取り戻してやった、あの冬の夜よりも、ずっと冷え込んでいた。彼女が《スラッグス》についたのは真夜中頃だ。その後の出来事を彼女はインタビューで克明に語っている。

<その夜の出来事>

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 ヘレン・モーガン: 私はブロンクスの自宅からタクシーに乗り、イースト・ヴィレッジの《スラッグス》に行った。店に入るとモーガンが私のところにやって来た。話をしていると、例の女の子が、彼に詰め寄ったの。「ちょっと!この人とは別れたって言ったじゃん!」

「そうさ、別れたよ。だから、もうつきまとうなって言ってるところなんだよ!」

 私はカッとして彼を平手打ちした。彼も逆上し、夜中の寒空に、私を放り出した。私はコートなしで、バッグしか持っていなかったのに。そのはずみで、バッグから拳銃がこぼれ落ちた。私はコートを取りに、もう一度店に戻ろうとしたが、店のドアマンに閉めだされた。

  「あの、ミス・モーガン、言いにくいんですが、リーからあなたを入れるなと言われているんです。」

 でも、ドアマンは銃を見て、私を中に入れた。するとモーガンが私をめがけて凄い形相で走ってきたの。その目は途方も無い怒りでギラギラと燃えていた…

 その瞬間、彼女は発砲し、銃弾はモーガンの胸元に命中した。

 ハーパーはこう証言する。「僕らはまだバーで雑談していた。突然、銃声が聞こえた。大きい音ではなかったがパンッという音がした。現実とは思えなかった。振り返ると、リーは立ったままで、ああ、大丈夫だと思った瞬間、彼は崩れ落ちた。」

 ヘレンは泣き叫び、完全に取り乱していた。

 もう夢なのか、現実なのかもわからなくなっていた。私は倒れた彼に駆け寄って謝った。

Sorrry, こんなつもりじゃなかったの!Sorry…」 

すると、彼はこう言ってくれたの。

「ヘレン、わかってる。そんなつもりじゃなかったんだろ。僕も悪かったんだ。ごめんよ・・・」

  警察と救急車がやって来たのは20分以上経ってからで、モーガンは病院に搬送される前に出血多量で死亡した。もしもこの事件が病院に近い《ヴィレッジ・ヴァンガード》で起こっていたら助かっていたのにと、ビリー・ハート(ds)は言う。

  若いガールフレンドは、次の標的になることを恐れ、いち早くその場から姿を消した。彼女は、二度と関係者の前に現れることはなかった。彼女が何者なのか?その名前すら、関係者全員が固く口を閉ざしている。

  《スラッグス》は、この事件から数週間で閉店を余儀なくされ、ショックを受けたベーシストのジミー・メリットは、事件後、NYを去り故郷フィラデルフィアに帰った。

 ヘレンは第二級殺人罪に問われたが、公判記録は残っていない。「刑務所で3ヶ月服役した後保釈された」、或いは、「一定期間を精神病棟で過ごした」と、様々に推測されていいます。

  彼女はその後、親族の居るノースキャロライナ州、ウィルミントンに戻り、教会に通いながら1996年に亡くなるまで、モーガン姓を通した。彼女の証言は、死の2ヶ月前、彼女が通った大学講座の史学の教官であり、ラジオ・パーソナリティであるラリー・レニ・トーマスに遺したインタビューによるものです。

 MI0001341650.jpg「(亡くなった)クリフォード(ブラウン)を聴くと、そして今トレーンを聴くと、医者から、こんなふうに忠告されているような気持ちになる。『今日、持っているもの全てを演奏に出せ。明日になると、そのチャンスは来ないもしれないのだから。』:リー・モーガン

 

参考資料:The Lady Who Shot Lee Morgan by Larry Reni Thomas

Death of a Sidewinder by W.M.Akers http://narrative.ly/stories/death-of-a-sidewinder/

I Walked with Giants :Jimmy Heath自伝 

Benny Maupin Interview : Live at the Lighthouse ライナーノート 

NEA Jazz Master interview: Benny Golson” Smithsonian National Museum of American History

The Murder of Lee Morgan from “Keep Swinging” blog

Podcast Episode: The Day Lee Morgan Died by Billy Hart

The New Yorker Magazine 1972 Feb.12 & 19 issues

愛しき呑んだくれ:Pee Wee Russell

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 トミー・フラナガンが、最も緊張し、最も面白かったというピーウィー・ラッセルのアルバム『The Pee Wee Russell Memorial Album』(オリジナルタイトル『Swingin’ with Pee Wee』)が今週の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。

 リーダーのピーウィー・ラッセルは録音にあたって、ディキシーランドのリズム・セクションには飽々しているから、もっと活きの良い連中を集めてくれとプレスティッジ側に注文を付けたそうです。フラナガンのプレイは、ハーレム・ストライドの巨匠達からジェス・ステイシーまで数多の名ピアニストと共演してきたラッセルに、「これまでに共演したうちで最高のピアニスト!」と言わしめた。

 pee_wee_russell.jpg 日本式に言うと明治の男、ピーウィー・ラッセル(1906-1969)は、ビックス・バイダーベックの盟友として、またデキシーランド・ジャズの花形奏者として、後には「中間派」の代表的クラリネット奏者として知られています。それでも実際の彼のプレイは従来のカテゴリーに属さない型破りなもので、ホイットニー・バリエットは「あれほど飾り気がなく、大胆不敵で閃きに満ちた演奏者はない。」と断言し、現在のトップ・クラリネット奏者ケン・ペプロウスキは、ファースト・ノートだけで判る独特のサウンドと、有り余るテクニックや音楽的知識を敢えて取っ払う、従来のクラリネットの枠からはみ出したラッセルを「クラリネットのセロニアス・モンク」と評した。

 鉄腕アトムのタワシ警部を思わせる飄々とした風貌と、しみじみ聴かせる味のあるプレイ、ピーウィー・ラッセルの人生も音楽に負けない型破りなものでした。

<甘やかされっ子>

young_peewee50386397.jpg  一説にはジャック・ティーガーデンやリー・ワイリーと同じようにチェロキー・インディアンの血が混じっていると言われるピーウィーはミズーリ州セントルイス生まれ、本名はチャールズ・エルズワース・ラッセル、プロ活動を始めた十代の頃、華奢な体つきからPeewee(チビスケ)という芸名がついた。

  父親は高級ホテルの給仕長、母親は新聞社勤務のインテリ女性、共働きの裕福な家庭で、母が40才の時、やっと授かった巻き毛の可愛い一人っ子がラッセル、とにかく猫かわいがりされ、大の甘ったれに育った。よその親なら叱りつけるようなおねだりも、両親ははいはいと買い与えた。ヴァイオリンでもドラムスでもクラリネットでも、欲しいものは何でも買ってもらえる羨ましい幼年時代。それでもラッセル自身は、自分が二人のお荷物で、愛されていないように感じていたようです。 幼い時に、父が友人と組んでガス田を掘り当てたため、オクラホマ州マスコギーという町に移住、再びセントルイスに戻るという子供時代でした。 

 幼い時は、お坊っちゃまらしく、ヴァイオリンのレッスンを受けていた。10才の時、ヴァイオリンの発表会で演奏したラッセルは、迎えの車の助手席に座り、楽器を後部座席に置くなり、お母さんが乗り込んで楽器の上にドカっと座った。 ラッセルの前途洋々なるヴァイオリンのキャリアはあえなく挫折、ラッセル坊やは「ありがたい、もう練習しなくていいんだ!」と密かに快哉を叫んだ。そんなお坊っちゃまが、クラリネットを始めたのは12才の頃で、町唯一の劇場の楽団のクラリネット奏者に個人レッスンを受けました。当時のオクラホマは禁酒州(ドライステイト)でしたが、酒好きの先生は密造酒をこっそり飲みながらレッスンを行った。その姿が後年のラッセルに悪影響を及ぼしたのかもしれません。早くも14才でプロデビュー、学校に行くと言っては父親の車を乗り回して遊ぶという陽気な登校拒否児であったそうですが、音楽の勉強だけはしたくてオクラホマ州立大に進学を希望していた。そころが同居していた叔母さんが、彼の甘ったれぶりに呆れ果て「あの子の根性は曲がっているから、士官学校に入れて今のうちに真人間にしておかなくちゃ!」と両親に進言したおかげで、イリノイ州の名門私立士官学校に入学させられるはめになります。甘ったれに規律正しい生活が出来るわけはなく僅か1年で中退。同校の最も著名な中退者として記憶に残る存在になりました。ラッセルは、その叔母さんと一生口をきくことはありませんでした。

<武勇伝> 

nina-leen-aug-1944-pwr.jpg 再びセントルイスに戻ってから、ラッセルは本格的にプロ活動を始めます。両親は彼のために当時400ドル近いアルト・サックスを買ってくれた!まもなく異国の地で演奏するバンマスから電報が届きます。「メキシコデ演奏サレタシ」

 流血のメキシコ革命が終わって間もない時代でしたが、両親は、未成年のラッセルを、快く送り出してくれました。男たちはみんな銃を携帯し、日常的に銃撃戦が行われるマカロニ・ウエスタンさながらの土地、結構なギャラをもらったラッセルは異国の地で放蕩三昧、酔っ払って気がついたら牢屋に入っていた。

 帰国後、はミシシッピ川の遊覧船で演奏し、暇があれば黒人ジャズ・ミュージシャンの演奏に聴き入りました。1920年代中盤、ジャック・ティーガーデンや伝説のコルネット奏者、永遠の親友となったビックス・バイダーベックと出会い、甘えん坊ラッセルの音楽家魂が開花します。無二の親友バイダーベックがジーン・ゴールドケット楽団に入団し町を去ると、ラッセルは「5つの銅貨」でお馴染みのスター・コルネット奏者、レッド・ニコルスに呼ばれてNYに進出。町に着いた翌日からブランズウィックの録音スタジオに入り、当時の白人ジャズのスター達とレコーディングを重ねながら、夜になるとハーレムを歩きまわりフレッチャー・ヘンダーソンやデューク・エリントン、エルマー・スノウデンといった黒人一流ビッグバンドの演奏を聴き漁った。或る夜、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板テナー、コールマン・ホーキンスが病欠し、たまたま居合わせたラッセルが1セット飛び入りで入ることに。

「譜面を観ると、なんてこった!あんな楽譜見たことない!♭だらけでね、♭が6つとか8つ(!?)とかついてやがる…かんべんしてくれ!僕は遊びに来ただけなのに…」

 ラッセルのインタビューは、どれもこれも自虐的ギャグのオンパレード、話がポンポン飛ぶのは彼のフレーズと一緒です!

<ラッキー・ルチアーノ親分、助けてください!>

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 「或る町で、友達が連れてきた女の子に見とれていただけなのに、ドサクサにまぎれて人を撃ち殺したことがある。」と豪語するラッセルの話はどこからどこまでが本当なのかよく分からない。ともかく’30年代中盤のジャズのメッカであった「52丁目」のスターであり、’40年代にはグリニッジ・ヴィレッジのNick’sを拠点に大いに人気を博したことは間違いありません。

’30年代、彼がルイ・プリマ楽団と52丁目の人気クラブ”フェイマス・ドア”に出演中、2,3人のヤクザな連中がプリマとラッセルに因縁をつけてきた。出演中のみかじめ料として、プリマに毎週50ドル、ラッセルに25ドルの大金を支払えというのす。「それが嫌なら、一生演奏できねえ体にしてやるぜ。」

 そこでラッセルはNYマフィアのドン、ラッキー・ルチアーノに電話をした。ルチアーノが主催する宴会で何度も演奏していたから顔見知りだったんです。弱い民衆の味方であるドン・ルイチアーノは早速ボディガードを派遣してくれました。それが、マフィア史上、最も凶暴な殺し屋と言われたユダヤ系ヒットマン、プリティ・アンバーグ、顔が余りにも怖いので「プリティ」とあだ名が着いたギャングです。彼が毎晩、大きな黒塗りの車でホテルと仕事場を送り迎えしてくれたおかげで、いつの間にか、因縁を付けたヤクザはいなくなった。ひょっとしたらハドソン川に浮いていたのかもしれません。

 一匹狼の殺し屋、プリティ・アンバーグはゴルゴ13と同じように無駄口は叩かない。だから毎晩一緒に過ごしても、話す言葉はHelloとGoodbyeだけ!いずれにせよ、ラッキー・ルチアーノがプッチーニではなく、スイング・ジャズのファンでよかったですね!

 

<奇跡のカムバック>

 

 「麻薬をやらなくても繊細でいられた」稀有なアーティスト、ラッセルの悪癖は、盟友ビックス・バイダーベック同様、過度の飲酒。起き抜けにコップ一杯のウィスキーを呑まないと、ベッドから出られないというほどのアル中で、中年になるとだんだん食べ物が喉を通らなくなってきた。医者に行くと、胃には異常なしと言われるのに食べられない。だんだん被害妄想の症状が現れ、1948年、妻から逃げるようにシカゴに行ってしまいます。そこから3年間、彼の記憶は途絶え、気が付くと1951年、サンフランシスコの病院に入院していた。病名は膵臓炎、肝硬変、栄養失調で、余命いくばくもないという診断でした。彼は文無し、手術費用と入院費は当時のお金で$4500というとてつもない金額でしたが、多くの仲間達が立ち上がり、チャリティ・ライブを行って賄ってくれたというからありがたい!ラッセルはよほど仲間内で好かれていたんでしょうね。

 彼を援助したミュージシャンの中にはルイ・アームストロングやジャック・ティーガーデンという大スターもいました。二人が見舞いに来て「心配すんな!お前を助けるためにコンサートやるから元気になってくれ!」と励ますと、ラッセルは声にならない声でこう言ったそうです。

「ありがとよ。それじゃ、新聞に何でもいいから俺の哀れな話を言いふらしてくれよな。」

 パリではシドニー・ベシェが手際よく”ピーウィー・ラッセル追悼コンサート”を行ったにも関わらず、ラッセルは奇跡的に一命をとりとめ回復します。

<おもろい夫婦>

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 ラッセルの妻、メアリーはロシア系ユダヤ人でベニー・グッドマンやエディ・コンドンと親しい間柄でした。彼女の両親が下宿屋をやっていて、そこに滞在していたラッセルと親しくなり1943年に結婚。(本人談:結婚指輪も花束もないサイテーの結婚式だったわ。)彼女が会社勤めをしてラッセルの生活を支えていたのに、3年間蒸発され、それでも面倒を見続けた糟糠の妻ですが「ベニー・グッドマン以外のクラリネットなんて大嫌い。」「彼が優しそうなんて見かけだけよ。あれほどジコチューな人間はいないわ!」と、インタビューでもボロカスに夫をこき下ろすなかなか痛快な女性です。
 インテリという点ではラッセルのお母さんと似ているし、ラッセルはうんと悪いことをして、妻に「叱ってくれるお母さん」の役割を求めていたのかも知れませんね。

 ラッセルの奇跡的な回復の後、また彼女は再びグリニッジ・ヴィレッジのアパートで夫と暮らし、彼がまともな食生活を送り、このフラナガンとのアルバムを始め、オリヴァー・ネルソンとの共演作などなど、新しい活動を大いに助けました。

 ラッセルの絵画の才能をいち早く看破したのもこの奥さん、1965年の或る日、メアリーは突然メイシーズ百貨店のバーゲンセールで画材用具一式を買ってきてラッセルに「描きなさい!」と渡しました。それ以来、メアリーが急死するまでラッセルは音楽より油絵に熱を入れ、50点余の作品はどれも500ドル以上で売れたそうです。その内の一点がこれ、ラトガーズ大学のダン・モーガンスターン(最高のジャズ評論家)さんの研究所にもラッセルの作品が二点飾られているそうです。

 ラッセルが絵を描き始めてから2年後、メアリーは58才の若さでラッセルを残して亡くなりました。体調が悪いと自覚したときには、末期のすい臓がんだった。膵炎を患う夫の面倒をさんざん看ながら、自分の病気には気づかなかったんですね。

 ラッセルは妻が亡くなってから二度と絵筆を取ることはなく、瞬く間に元のアル中に戻り、彼女の死の翌年に亡くなりました。

 ラッセルの妻、メアリーはロシア系ユダヤ人でベニー・グッドマンやエディ・コンドンと親しい間柄でした。彼女の両親が下宿屋をやっていて、そこに滞在していたラッセルと親しくなり1943年に結婚。(本人談:結婚指輪も花束もないサイテーの結婚式だったわ。)彼女が会社勤めをしてラッセルの生活を支えていたのに、3年間蒸発され、それでも面倒を見続けた糟糠の妻ですが「ベニー・グッドマン以外のクラリネットなんて大嫌い。」「彼が優しそうなんて見かけだけよ。あれほどジコチューな人間はいないわ!」と、インタビューでもボロカスにこき下ろすなかなか痛快な女性です。

 ラッセルの奇跡的な回復の後、また彼女は再びグリニッジ・ヴィレッジのアパートで夫と暮らし、彼がまともな食生活を送り、このフラナガンとのアルバムを始め、オリヴァー・ネルソンとの共演作などなど、新しい活動を大いに助けました。

 ラッセルの絵画の才能をいち早く看破したのもこの奥さん、1965年の或る日、メアリーは突然メイシーズ百貨店のバーゲンセールで画材用具一式を買ってきてラッセルに「描きなさい!」と渡しました。それ以来、メアリーが急死するまでラッセルは音楽より油絵に熱を入れ、50点余の作品はどれも500ドル以上で売れたそうです。その内の一点がこれ、ラトガーズ大学のダン・モーガンスターン(最高のジャズ評論家)さんの研究所にもラッセルの作品が二点飾られているそうです。

 ラッセルが絵を描き始めてから2年後、メアリーは58才の若さでラッセルを残して亡くなりました。体調が悪いと自覚したときには、末期のすい臓がんだった。膵炎を患う夫の面倒をさんざん看ながら、自分の病気には気づかなかった・・・

 ラッセルは妻が亡くなってから二度と絵筆を取ることはなかった。ラッセルは瞬く間に元のアル中に戻り体調を崩し、彼女の死の翌年に亡くなりました。

PeeWeeRussellST.jpg「音楽を演る」ことの90%は「聴く」ということで、実際に演奏するのは10%に過ぎない。常に共演者の出す音に耳を傾けて、自分もそこに飛び込むんだ。

 何でも怖がらずにやってみること。最悪でも、面目が丸つぶれになるくらいのもんだ。

実際、僕は何度もそんな目にあってるがね。

Pee Wee Russell 

 

ジャズ大使の夏(1) Akira Tana

akira.jpgtomoP1080324 (2).jpg 今年の夏も、初めての出会いや再会が沢山ありました。その中には「HPやブログを観てます。やっと寺井さんを聴きに来れました!」という方々も!夏季休暇を利用して、東京から来てくださったスワさん、タナカさん、それに名古屋や甲府からお越しくださったお客様、皆さん、お元気ですか?

 7月末には田井中福司(ds)さんをお招きして寺井尚之、宮本在浩と手に汗握るセッションが楽しめました。それに、かつてスーパー・フレッシュ・トリオの「銀太」としておなじみのベーシスト、現NY在住の田中裕太(b)君が一時帰国、大きな成長ぶりを、嬉しく確かめることもできました。

familyP1080293.JPG 常連様達も、この季節は日焼けしてちょっと違った雰囲気です。 夏休みのない当店も、皆さんに楽しい気分を分けてもらいました!

 一番上の写真は、7月末の猛暑日に、久々にOverSeasを訪問してくれた巨匠ドラマー、アキラ・タナさん。

 アキラさんとのお付き合いはもう30年以上!OverSeasでの初演奏は、確か’80年代中盤、ウォルター・ビショップJr.(p)のトリオでしたが、すでに私達は”Heath Brothers”の一連のアルバムでの、カラフルで歯切れのいいプレイを聴いて、すっかり大ファンになっていました。

 アキラさんはカリフォルニア生まれの日系2世、お父さんは、北海道からカリフォルニアに渡り、の日系人のために仏教寺院を建立した偉いお坊さん、お母さんは、皇室の歌会始に招かれたほどの歌人です。

 米国人として英語で育ったアキラさんは、ハーバード大学と、ニューイングランド音大打楽器科で学位を修め、流暢な日本語は大人になってから習得したという秀才です。在学中からボストンのクラブで、ソニー・スティットを始めとする一流ミュージシャンと活躍!寺井の盟友で、同じ頃ニューイングランドでジョージ・ラッセルに指示していた布施明仁さん(g)から噂は聞いていました。

 The-Heath-Brothers-Brotherly-Love-532355.jpg卒業後、アキラさんはNYに進出、その才能をいち早く見抜いたのがテナーの巨匠ジミー・ヒースでした。“Heath Brothers”のレギュラー・ドラマーに抜擢されてからは、J.J.ジョンソンを始め多くの一流ジャズメンと共演、その後、ルーファス・リード(b)との双頭コンボ、TanaReidを結成、ドラマーとして、またプロデューサーとして大活躍。日本のFM局のパーソナリティとしても人気を博しました。

 ジミー・ヒースやジュニア・マンス達が好んで日系、アジア系のプレイヤーを起用するようになったきっかけは、アキラさんの実力と共に「和を尊ぶ」人間性に惹かれたのではないでしょうか?

MI0001983223.jpg  ここ最近は西海岸のアジア系音楽シーンのリーダーとして、古巣のサンフランシスコを拠点に国際的な演奏活動と後進の指導を続けています。

音の輪=Sound Circle>

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 今年の夏、アキラさんは、東日本大震災被災地支援の為に日系人の名手達を集めたバンド「Otonowa=音の輪」を率いて東北の被災地を中心に全国ツアーを敢行。ジャズに無縁な全ての方々に喜んでもらうために「ふるさと」など日本のメロディーをアレンジしたプログラムを用意して、岩手県陸前高田や大槌町など被災地を周り、公演したり学生達とワークショップを開催。最終日には海外特派員協会でも公演し、アキラ・タナとして単独公演もこなすというハードな日程でした。

 OverSeasにやって来たアキラさんは、野外の仮設会場での演奏が多かったせいか、日焼けして一層逞しく、かっこよく見えました。

 「僕達が日本の歌を演奏したらね!地元のお年寄り達が涙を流して聴いてくれたんだよ!!それから一緒に歌ってくれたの!本当に感動した!だから僕のほうが一杯涙を流しちゃった!」と、様々な場所での演奏風景や、地元の皆さんに歓待してもらった沢山の写真と、アキラさんの非日常的な演奏体験に私も感動、涙が出そうになりました。

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 バンドスタンドのアキラさんには近寄りがたい巨匠の風格がありますが、その素顔は本当に気さくで、威張らない人、大切な長年のお友達です。

 

 アキラさん、久々に来てくれてありがとうございました!次回はコンサート・アーティストとしてOverSeasで演奏してくださいね!

 Hi, Akira-san, we are so happy you were here! We are all waiting for you coming back to Japan!

ブッチ・ウォーレン:漂泊のベーシスト(後編)

butch-warren.jpgPHO-10Apr08-216628.jpg 1960年代、ケニー・ド-ハム・クインテットでNYデビューを果たし、その後、無二の親友となったソニー・クラークの推薦でブルーノートのハウス・ベーシストとして数々の名盤に参加したブッチ・ウォーレンはヘロインの過剰摂取によるクラークの死にパニックとなり、自らのドラッグ癖と相乗し、精神に破綻を来たしました。時代の寵児として脚光を浴びたセロニアス・モンク・カルテットを退団後、ブッチの父親が彼をワシントンD.Cに連れ帰り、聖エリザベス病院に入院。ピアニストとして地元で有名でありながら、家族のために正業を優先させた父、エディ・ウォーレンは手塩にかけた一人息子の世界的な活躍を、どれほど誇らしく思ったことでしょう。それが僅か数年で「妄想型統合失調症」になってしまった・・・両親の辛さは想像に余りあります。

 ブッチは電気ショックや投薬など、様々な治療で約一年間入院、仲間のミュージシャン達に励まされ、退院後は投薬治療で精神状態を保ちながら演奏活動を再開、アダムスモーガン地区の《カフェ・ロートレック》など、地元のレストランやバーで活動、地元TV番組に演奏者として出演する順調な仕事ぶりで、2度目の結婚もしました。ところが浮き沈みの激しい音楽の世界で精神疾患を抱えるブッチは投薬を嫌い、時として精神に変調をきたします。1970年が近づくと、夜中に一人徘徊する彼の姿がたびたび目撃されるようになります。バンドスタンドでうずくまって涎をたらすというようなトラブルをたびたび起こします。彼を支援するミュージシャン達の忍耐も限界となり仕事を減らしていきました。一旦演奏を始めると、プレイはちっとも錆びついてはいなかったと言うものの、 ジャズを置き去りにする時代の流れの中、ラジオやテレビの修理や掃除夫をしながら、ジャズシーンから彼の姿は再び消えていきました。

 この頃、ブッチのために懸命に仕事を回していた地元のピアニスト、ピーター・エデルマンはこんな風に証言しています。

「私が薬をきちんと飲むか、仕事をやめるかだ。」とブッチに詰問すると、逆に「俺には気が狂う権利すらないのか!」と激高した。

「ブッチは自分の身の周りのことも満足にできないが、しかしプレイは常に確かだった。」

<ホームレスから再び病院へ>

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 2004年頃、ブッチはホームレスになります。シルヴァー・スプリングの低所得高齢者住宅で、夜中に友人と大騒ぎするために、近隣住人から苦情を申し立てられて退去させられた。ベースやジーンズ姿のミュージシャンの中でオーラを放つシックなスーツも失って路上生活、真冬に近隣の商店に忍び込んだとして不法侵入の罪で逮捕。それからは、ホームレスのシェルターや、メリーランド州の更生施設などを転々とし、再び流れ着いた場所は古巣から80キロ以上離れたメリーランド州のスプリングフィールド総合病院の精神病棟だった。一般人の近づきたくない場所であっても、ブッチにとっては屋根もあるしベッドもあり鍵までかかった静寂な安全地帯。それまでの人生で一番安心できる棲家だったそうです。彼は病院で皆に”エド”と呼ばれていた。歯が抜け落ち、ところかまわずひどい咳を撒き散らす、実年齢(65才)よりずっと老けて見える老いぼれ爺さんの正体を知る者は誰もいない。来る日も来る日も虚ろな目つき、楽しみは次の食事と、誰彼なしにせびって、たまにもらえる一服の煙草だけ。エドが他の患者と違うのは、遊戯室のピアノを弾かせて欲しいとしつこく頼むことだけだった。

 或る日、病院のスタッフが面白半分に彼の本名をGoogleしてみた。するとびっくり仰天!ブルーノート・レコードのサイトを始め、数千件がヒット、画像を観るとどうやら間違いないらしい…

「あの歯抜け爺さん、ブッチ・ウォーレンという有名なジャズマンなんだってさ!」

 精神病棟のエドの話は病院中に知れ渡り、彼が遊戯室のピアノを弾くとなると、見物人で一杯になっちゃった!往年の名ベーシストが精神病院にいるという噂はたちまち広がって、スタッフがグーグルしてから僅か数週間、2006年5月21日付けのワシントン・ポストに「ある男と音楽の間に流れる数十年間の不協和音」と題する記事まで掲載された。

<義を見てせざるは…>

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 ワシントンDC在住の一人のドラマーが、この記事を読んで大いに感銘を受けます。DCのロックやブルーズの世界で活躍するアントワーヌ・サフエンテスなる紳士。スクエアな見かけと裏腹に、CD録音経験も豊富で、大のジャズファンでもあったこのセミプロ・ドラマーの本業は、三大ネットワークの一つNBC報道局のワシントンDC支局長、エミー賞まで受賞した敏腕ジャーナリストでした。サフエンテスは一時的美談として取り上げるだけのマスコミとしてでなく、同胞ミュージシャンとして彼に支援の手を差し伸べます。ブッチがカムバックして独り立ちできるように、痒いところに手の届くような活動を展開します。支援を募りベースを調達、ブッチを退院に導きました。同時に過去の印税が支払われるように法的な手続きをし、自局で彼の数奇な人生を紹介した。さらにライブやCDをプロデュース、ニュース番組をやってる著名ジャーナリストが後ろ盾なら、出演を断る店があるわけない。さらにはイラク戦争報道時に身につけたカメラの腕でブッチを撮影、味わいのあるポートレートを販売、 全てが義援金として彼に支払われるようにしてあげた。その活動の一部はHPツイッターFBで確認出来ます。

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 ブッチ・ウォーレンは、思いがけない劇的カムバックの時期に肺ガンの宣告を受けながらも、最晩年まで現役で演奏を続け、2013年10月5日、74才で波瀾万丈の一生を終えました。

 ブッチ・ウォーレンを支援したのは、サフエンテスを始め、往年の彼のプレイに感銘を受けた人々ばかり、彼らの動機の源は、何と言ってもブルーノートのアルバム群で、それがなければブッチ・ウォーレンは人知れず無縁の墓地に埋葬されていたかもしれません。 ブッチが心身を病み、流転の人生を送ったきっかけが親友ソニー・クラークの死であり、ブッチを救済することになったブルーノート作品群へのきっかけもやはりソニー・クラークであったとは…人間の運命とはほんとうに不思議なものです。

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 晩年のブッチ・ウォーレンのミニ・ドキュメンタリーは今もネットで観ることが出来て、セロニアス・モンク4への参加がサム・ジョーンズ(b)によってもたらされたことや、ドラッグのこと、今の楽器も自分のプレイにも不満なこと、NY時代のことなどを独白している。なによりも、彼のベースが、私達に沢山のことを語りかけてくれています。

 サフエンテス氏が制作したブッチの遺作も、HP上で自由に聴くことができます。

「うまくなるには練習だ、練習しなけりゃ。そしてすべての音符が聴けるようにせにゃならん。俺はエリントン楽団のベーシスト、ビリー・テイラーに教わったんだ。全てはメロディーに尽きる。メロディーを聴け!そしてベース音をはめて行けってな・・・」ブッチ・ウォーレン(1939-2013)

参考サイト:

ブッチ・ウォーレン:漂泊のベーシスト(前編)

 「我々の生活は非常に厳しい。バーやクラブを仕事場としているから、常にアルコールやドラッグの危険にさらされる。アーティストとして音楽や人間の本質の探求に熱中すると、一時的に意識を変えてくれる酒やドラッグに溺れて、思わぬ落とし穴にはまる。」ソニー・ロリンズ

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 先週のジャズ講座:「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は歴代のレクチャーの内でもベスト10に入るものでした。フラナガンが激烈な敬愛の情をプレイの中に刻印した『Coleman Hawkins All Stars (Swingville)』に続いて鑑賞したケニー・ド-ハムの名盤、『The Kenny Dorham Memorial Album (Xanadu 125)』はレギュラー・バンド中、ピアノのみスティーブ・キューンに変わってフラナガンが補強に起用されたセッション。作編曲家としても優れた才能を持つKDの「ひねりの効いた構成」を「ごく自然に心地良く」聴かせるレギュラー・バンドのならでは息!例えば”Stage West”はブルースですが、テーマとインタールードを併せ6つのブルース・パターンが万華鏡のように有機的に広がる構成。山あり谷ありの枠組みに縛らるどころか、各人のプレイはその枠があるから、一層自由闊達に流れを変える!これぞハードバップの醍醐味!構成表を見れるから、プレイの面白さのツボをしっかり実感できて楽しかった!
 このクインテットのベーシストが若干20才のブッチ・ウォーレン、ドラムのアーノルド”バディ”エンロウと一糸乱れぬ歩調、ピチカートから弓へ、弓からピチカートへ、間髪入れず移行するテクニックとビートが凄かった!講座で寺井尚之はつぶやいた。「このまま行ったらポール・チェンバースを越えてたんちゃうか…」
 ところが、この4年後、ウォーレンの柔軟なビートはNYジャズ・シーンから完全に消滅していた。

 
<早熟のベーシスト>

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Edward “Butch” Warren (1939-2013)

 エドワード”ブッチ”ウォーレンはワシントンD.C生まれ。母親はタイピスト、父親は電気技師で比較的裕福な黒人家庭の一人っ子だった。父は仕事の傍ら、夜はピアニストとして活動し、自宅にミュージシャン達を快く招いた。幼いブッチはそんな家庭でミュージシャン仲間のセッションを聴きながら育った。家に出入りしていたのはジミー・スミス(org)、スタッフ・スミス(vln)、少年時代のビリー・ハート(ds)、定期的に楽旅でやって来る一流バンドの面々も居た。ある時、デューク・エリントン楽団のビリー・テイラーというベーシストが事情があって自分の楽器をウォーレン家に置いて行っちゃった。その大きな楽器の松脂の香りや魅力的な曲線が大好きになったブッチはナショナル・シンフォニーのコントラバス奏者についてクラシックのレッスンを始めます。最初のアイドルはもう一人のエリントニアン、ジミー・ブラントンで弓とピチカートの大きな美しい音の虜になりました。彼の通う学校は荒れていて喧嘩ばかり、ゆっくり勉強なんかしていられない。音楽の才能に恵まれた子どもにとって「ジャズはサバイバル・ツールだった。」と後年彼は語っている。

 14才で父親のバンドでプロ・デビューして以来、未成年ながら地元ワシントンDCのジャズ・シーンで活躍します。

<ケニー・ド-ハムに誘われて>

4129332634_afbe74bf1a_z.jpg ブッチ・ウォーレンが19才になったとき、早くもチャンスが巡ってきました。メリーランド州に近いワシントンD.C.の北西部で現在も盛業中のジャズ・クラブ《Bohemian Caverns》にケニー・ド-ハムのバンドが来演した時のことです。ベーシストが楽器を置いたまま蒸発し、本番の時刻になっても姿を見せません。その場に居たブッチが急遽代役を買って出ることになりました。演奏が終わってからKDはブッチにこう言った。
「自分でやって行けると思うならNYに出てこいよ。自信がなければ来ない方がいい。」
 まあ、NYでやっていくのは楽じゃないぞ、自己責任だぞ、ということをKDは言いたかったのかもしれません。
 それからしばらくして、正式にKDからNYで共演したいという手紙が届き、ブッチはすぐさまNYへ。ブルックリンの《Turbo Village》というクラブに6ヶ月間出演しました。『The Kenny Dorham Memorial Album 』は丁度この時期に録音されたものですから、レギュラー・バンドとしての旬な演奏内容になっているんですね!出演クラブに因んだ”Turbo”という曲がアルバムのラスト・チューンになっています。
 ブッチは後年のインタビューでこの当時を回想していますが、レギュラーの仕事があったにもかかわらず、その日暮らしの生活で、「イタリア人街に住んでいたけどピッツァを買う金もなかった。」と語っている。金欠だったということは、この頃すでにドラッグに染まっていたのかもしれません。

<ハロウィン・パーティはたくさんだ!>

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 NYの暮らしは楽じゃなかったけど結婚をして家庭を持ち、友達は出来た。一番の親友はピアニストのソニー・クラーク。KDと共演した翌年、クラークが『Leapin’ and Lopin’』(’61)の録音に彼を推薦したのがきっかけで、アルフレッド・ライオンはBLUENOTEのハウス・ベーシストにブッチ・ウォーレンを起用、以来、KDとのリユニオンとなる『Page One』(’63)、デクスター・ゴードン(ts)の『GO!』(’62)など、ハードバップ期を代表する多くの名盤に少しソウルフルになったブッチのクリアで柔軟なビートが光っています。『Leapin’ and Lopin’』では、よちよち歩きできるようになった幼い息子への愛が溢れた”Eric Walks”を収録するほどの優しい父親でしたが、その陰に抱え込んだドラッグの悩みは、どんどん深刻になっていきました。少年時代、「サバイバル・ツール」として強い味方であったはずのジャズが今では家庭や自分自身までを破滅させようとしていました。

 Leapin'_and_Lopin'.jpeg彼が恐れる死神の刃は、まず親友を奪った。’63年1月、無二の親友ソニー・クラークがヘロインの過剰摂取で死亡。場末の”シューティング・ギャラリー”と呼ばれるジャンキーの巣窟での哀れな最後でした。アルフレッド・ライオンに事件を知らされたブッチは妻子を車に待たせて、NYベルヴュー病院の死体安置所に並ぶクラークを確認します。31才のハードバッパーの死に顔は、そのまま自分の未来でもありました。葬式代もないクラークの末路を不憫に思ったパノニカ男爵夫人が葬儀の費用を肩代わりしてくれましたが、そこに送られてきたのはブッチが確認した遺体とは似ても似つかぬ別人のものだった。黒人ジャンキーの死体に、当局が敬意を払うはずもなかったんです。・・・ブッチはこの事件にひどいショックを受け、薬物依存症と相まって、精神は徐々に壊れて行きます。

thelonious-monk-its-monks-time-1964-front-cover-47351.jpg この春、ブッチは時代の寵児、セロニアス・モンクのカルテットに入団、チャーリー・ラウズ(ts)、フランキー・ダンロップと共に世界でひっぱりだこになります。パリ公演や日本公演、ニューポート・ジャズフェスティバル!意気揚々の若手ベーシストであるはずが、日々多忙な楽旅がクスリなしでは耐え難いものだったのか、彼の精神はボロボロになり被害妄想を思わせる状態に陥っていました。

同年の夏、「 こんなバンド、クスリなしでやってられるかい!もうハロウィン・パーティはまっぴらだ!」と捨て台詞を吐き退団。”ハロウィン・パーティ”というのはジャンキーのたまり場を指す隠語で、辞めた後に、ハロウィンのお菓子をモンクに送りつけるという念の入れ方でした。

 
 退団後ブッチはNYを去り、故郷のワシントンDCに舞い戻りました。初冬のワシントンで彼が観たものは、暗殺されたケネディ大統領の葬列でした。

「僕の周りの人間は皆死んでいく、僕もいつか同じ目に遭うんだ!」絶望と混乱に耐え切れず、ブッチは自ら精神病院の扉を叩き、要塞のように堅牢な聖エリザベス精神病院に入院、病名は「妄想型統合失調症」でした。この精神病棟で約一年間、ショック療法や投薬治療などを施されます。

 ブッチ・ウォーレンの残された人生は「カッコーの巣の上で」のような生きる屍だったのでしょうか?(次号に続く)

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バップ・ドラマー田井中福司 礼賛 :Live at OverSeas

fukushi_tainaka_solo.JPG 海外のジャズ・シーンでは”Fuku”というニックネームで知られる田井中福司さん、NYを本拠に”The Master!” “Amazing!” “Brilliant!” と最大級の賛辞で形容されるバップ・ドラムの巨匠です。バップ語法を自由自在に操る強烈なドラム・ソロにはフィリー・ジョー・ジョーンズから受け継いだヒップで危険な魅力が一杯!ライブで感動した人たちの口コミでファンがネズミ算のように増え、お里帰りには日本全国各地のジャズ・クラブから引っ張りだこ、そんな超過密スケジュールの合間を縫って、OverSeasで寺井尚之(p)とのピアノ・トリオが実現しました。ベテラン2人の間に入るベーシストはお馴染み宮本在浩、今回のライブをお膳立てしてくれたのは、田井中さんのプレイと人柄に心酔するザイコウさんでした。

 ジャズ界の人間国宝、ルー・ドナルドソン(as)のレギュラーを努めてほぼ30年、NYの第一線で34年といいますから、もう完璧なNew Yorker!とはいえ、久々にお目にかかった田井中さんは、熱い湯の風呂から上がったばかりの粋な江戸っ子みたいな颯爽とした出で立ち、折り目正しくて、調子よく喋らない。黙っていても発散されるプロ中のプロのオーラに身が引き締まります。

 寺井尚之は田井中さんより2才上、今日の共演をとても楽しみにしていました。あっという間にドラムをセッティングして、簡単な打ち合わせの後、じゃあちょっとだけサウンドチェック、ということでOverSeasではおなじみの、”Mean What You Say”を。日頃からドラムのフィル・インをフィーアチュアするサド・ジョーンズのナンバーで、田井中さんがこの曲を演るのは初めてだったそうですが、そのブラシの切れとコントロールの良さ、フィル・インの華やかさ、集中力の凄さに鳥肌がたちました。 

 平日にも関わらず、客席はミュージシャン、常連様、田井中ファンで満員、「田井中さんと演ると、いつもと違う寺井さんが聴けるのかな?」「ガチで演ったらどないなるんやろ?」色々な声が聞こえてきます。数日前に熊本で共演した古荘昇龍(b)さんや、NYで薫陶を受けるベーシスト、田中裕太君の姿も!

 キレのある田井中さんのドラムスの音量は、想像していたよりずっと小さく、しかも超明瞭、ドラムと同じようにソフトタッチを身上とする寺井尚之のピアノの美しさを際立たせてくれます。故にダイナミクスが大きくて、クライマックスは夏の夜空の大輪の花火が上がったように華やかで、聴く者を酔わせます。ベースソロでは、田井中さんの掛け声が絶妙に入り、宮本在浩のプレイが冴え渡りました。ザイコウがあんなに陶然とした表情をしたことあったかしら?

tainaka_sanP1080254.JPG 店の奥では、ギターの末宗俊郎さんが冷蔵庫の前で、喜んで踊りっぱなしです。おしぼりの小さなかごを両手で握りしめて必死で聴いてるお客さまもいましたよ。伝説のドラムソロが聴ける”Cherokee”では、冒頭のインディアンの雄叫びが客席に飛び火して場内騒然!

 お客様の熱気と対照的に、丁々発止のベテラン2人は音楽でジョークを飛ばし合いながら、汗ひとつかかず涼しい顔。これが田井中福司、寺井尚之という2人のバッパーの似ているところです。

 田井中福司さんのドラミングはOne and Onlyの田井中さんならではのアート!真正バップの磨きぬかれた技量は勿論ですが、その技量の見せ方は、”Cool”と英語で言うよりも、「美」「技」「心」が一皿に盛られた一流割烹の和食のような清々しさを感じました。本場NYで長年愛されている秘訣は、案外、ドラミングの中に光る「日本の美」にあるのかも知れません。

 田井中さんは8月24日まで日本全国で演奏予定です。まだ聴いたことのない人は、ぜひ足をお運んでみてくださいね。

田井中福司2014夏季日本ツアー予定表はこちら

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=セットリスト=

<1>
1. Crazy Rhythm
2. Out of the Past
3. Mean What You Say 
4. If You Could See Me Now
5. Scrapple from the Apple

<2>
1. What is This Thing Called Love?
2. All the Things You Are
3. Lament
4. Just One of Those Things

<3>
1. Lady bird
2. It Don’t Mean a Thing
3. In a Sentimental Mood
4. Cherokee 

Encore: A Night in Tunisia 
      Dry Soul

 

ピアニスト、Horace ParlanのThen & Now

 その昔、貧乏大学生時代、『見学』『部活』と称し、親からお金を巻き上げて、ありとあらゆるジャズのコンサートに行きました。その中でも強烈な印象があるのは、1976年のJohnny Griffin(ts)カルテット、Horace Parlan-piano, Mads Vinding-bass, Arthur Taylor-drumsの布陣で、初めて生で観るATが楽しみで仕方なかった。

 その時期は、3日に開けずハードバップの巨匠によるコンサートが目白押し、3日ほど前であったデクスター・ゴードン(ts)4の煽りを食って、厚生年金大ホールはガラガラでした。司会者のイソのてるオさんが、いつもどおりプロ野球の途中経過を報告して雰囲気を和ませた。

「後ろの方に座っている皆さん、せっかくですから前の方に詰めましょう。どうぞどうぞ!」

 お客さんがゾロゾロ前に集まっても、最前列から数えてせいぜい3列ほど、出演者はやる気が失せるだろう、と思ったらそんなことなかった!湯気の立つような熱いプレイが繰り広げられて、ミュージシャンシップに感動!ハードバップってかっこいいなあ!この夜ここに集まった私達は一生、彼らのファンでいることでしょう。この夜の感動を、まさかグリフィンに直に伝える日が来るとは夢にも思わなかったけど。

 超速の”All the Things You Are”や”Wee”!  横に居た寺井尚之先輩はプロで演ってるし、音楽をずっとよく判ってるから、私以上に感動してた。右手と右足が不自由なピアニスト、ホレス・パーランの強烈なスイング感と歌心!「ほとんど左手だけで弾いてるのに、音だけ聴いてたら、普通に両手で弾いてるとしか思われへん。信じられん!」今でも、若い人たちに、この話をしています。

 <ホレス・パーランのTHEN:それはホロウィッツから始まった。>

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 ホレス・パーランはトミー・フラナガンより1つ年下の1931年、アート・ブレイキーやビリー・エクスタインなど数多くの巨匠を輩出したペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれました。幼いころポリオに感染し、右手に麻痺が残った。私が観たコンサートでも、中指と薬指は反り返っているように見えました。両親は息子を案じ、心身共に良いセラピーになるだろうと、8つの時にピアノを習わせましたが、先生の頭が四角四面で、この指ではピアノは無理だと言い、一旦はピアノを諦めます。数年後、ホレスは、ウラジミール・ホロウィッツのコンサートを観て大感動、「やっぱりピアノをやりたい!」と再チャレンジ!11才の彼を指導してくれた先生は柔軟な頭の人で、彼の左手の能力を伸ばすことに専心してくれた。

 やがてデューク・エリントンやチャーリー・パーカーの音楽に強く惹かれ、ピッツバーグ大学法学部に在籍しながら、アーマッド・ジャマールやソニー・クラークがしのぎをけずる地元ピッツバーグの音楽界に身を投じました。

MI0001793117.jpg パーランはこう語っています。

 「尊敬するピアニストはアート・テイタムやオスカー・ピーターソンだけれど、身体的に私には無理だった。私に適した演奏方法、自分のグルーヴを見つけなくてはならなかった。そして、自分には、シンプルなことが一番適していると思った。それは、アーマッド・ジャマールから学んだ。もっと複雑で凄いことができるのに、彼は敢えてシンプルなプレイを選択していたからだ。」

 パーランは大きなハンディキャップにも関わらず、実力者がひしめくピッツバーグでスタンレー・タレンタイン(ts)と共演、ソウルフルでありながら、バップの品格を失わない独自のスタイルを確立していきます。

 1957年にNYに進出、チャーリー・ミンガス(b)やルー・ドナルドソン(as)に可愛がられ、ブルーノート・レーベルに多くのレコーディングを残しました。ピッツバーグより更に激しい競争社会NYで、パーランは”バードランド”のマンディ・ナイト・ジャムセッションや”スモールズ・パラダイス”などのハーレムのクラブを拠点に活躍、フラナガンはじめ当時のジャズメンが崇拝したコールマン・ホーキンスのギグに何度も呼ばれたことを誇りにしています。

<ホレス・パーランのTHEN:デンマークに行こう!>

 ’60年代の後半からはジャズ界に冬の時代が到来し、パーランは仲間達がクスリなどの問題を抱えながら命を縮めて行く姿に苦慮するようになりました。’70年に南アフリカの歌手、ミリアム・マケバと初めて北欧にツアーしたパーランは、マケバが喉の不調を訴えデンマーク公演をキャンセルしたために、5日間、フリータイムでコペンハーゲンの町を散策することになります。 

MI0002297300.jpg 「当時のカフェ・モンマルトルが大盛況で、町には色々な催しがあり、ここに移住してきたデクスター・ゴードン、ベン・ウェブスター 、ケニー・ドリュー、サヒブ・シハブたちの米国人ミュージシャン村もあった。友人が沢山いて、その時、住むならここ!と思ったんだ。」

 パーランはデンマークに移住すると、ヨーロッパのジャズ興行の関わりの深い人物、アレンジャー、アーニー・ウィルキンスの未亡人、ジェニー・アームストロングの世話で、ソニー・ロリンズとヨーロッパのジャズフェスティバルで共演、それを皮切りにアル・コーン&ズート・シムスの双頭コンボなど、様々のミュージシャンとの仕事が舞い込んできました。やがてデンマーク人女性、ノーマと結婚し、ここを安住の地と定め、トップ・ピアニストとして長年活動、アーチー・シェップとの共演作がヒットし、様々なメンバーで何度も来日を果たしました。

 ハンディキャップがあるからではなく、本格的なピアノの巨匠として愛され続けています。

 <ホレス・パーランのNOW>

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home_cooking026.jpg 数日前、トミー・フラナガン・ファンの同志として寺井尚之と交流のあるスゥエーデンのトップ・ベーシスト、Hans Backenroth(ハンス・バッケンロス)さんが、上の写真を送ってきてくれました。ハンスさんは、フラナガンが『Home Cookin’』 で共演したスゥエーデンのテナー奏者、ニセ・サンドストームの教え子で、ペデルセン直系のテクニックと風格を持つ名手。日本のミュージシャンとも沢山レコーディングしているから、ご存知の方も多いでしょう。今月はハリー・アレン(ts)、ヤン・ラングレン(p)たちと一緒に、スタン・ゲッツへのトリビュート・コンサートで演奏し、ヨーロッパで大きな話題になっています。

 彼の親友で、フラナガンが可愛がっていたデンマークの名手、イェスパー・ルンゴー(”ジェスパー・ルンドガード”とフラナガンは英語読みしていました。)がアレックス・リール(ds)、ダド・モロニ(p)と、コペンハーゲンの老舗クラブ、”カフェ・モンマルトル””に出演したので聴きに行ったら、「ホレス・パーランに会ったよ!」と、メールには、こんなことが書いてありました。

jazzhus-montmartre-copenhagen-(by-massimo-fiorentino).jpg「モンマルトルで僕の席のすぐ近くに伝説の巨匠、ホレス・パーランがいたんだよ!再会できてすごく嬉しかったです。

 僕がストックホルムの音楽アカデミーに在学中、ニセ・サンドストローム(ts)がホレス・パーランを招いて、一緒に演らせてもらったんだ!

 ホレスはもう演奏活動をしていない。現在は視力を失い、車椅子で来ていた。でも、彼は本当に幸せそうで、頭も心もすごくはっきりしていた。アレックス達がトリオで、ホレスのオリジナル曲”Arrival”を演奏して彼に捧げた。時の流れが止まったみたいだった。」

 この後、ハンスさんが同じ写真を自分のフェイスブックにアップしたら、北欧のミュージシャンやファン達が、「素晴らしい!」「ホレスのプレイが大好きです!」と沢山コメントを入れていた。「現在もたくさんのミュージシャンが彼の面倒を見ている」と書いている人もいた。

 不遇の米国からヨーロッパに移住したジャズメンを「ジャズ・エグザイル」と呼ぶ向きもあるけれど、ホレス・パーランは、もはや亡命者ではなく、引退した現在も、同胞として愛されています!

 上の写真の笑顔!パーランのプレイみたいにピュアで明るい笑顔!昔のコンサートの思い出とともに、なんだかとても感動しました。

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(3)

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 ケニー・ド-ハム(KD)は、チャーリー・パーカーが彼を選んだ理由として「僕が彼のほぼ全演目について構成からアンサンブルに至るまで、完璧に知っていたからじゃないかな。」と語っている。ひょっとしたら前任者のマイルズから「僕が独立したら、次は君の番だから、ネタを頭に入れておいてくれ。」と言われていたのかもしれないけれど、この頃のジャズメンの掟は「譜面は門外不出」、隠し録りする機材もないし、それがどれほど難しいかは想像を絶します。とにかくKDは準備万端整えてネキスト・バッターズ・サークルに入っていた。
 そういえば、生前のトミー・フラナガンがトリオでNYのクラブに出ると、色んなミュージシャンが壁際に佇み、必死の形相で、食い入るように見つめてた。私の隣にで五線紙と鉛筆持って集中する寺井尚之もご同様、「楽しい」なんて生易しいものではありません。休憩時間になると、そんな壁際の仲間が寺井の席に来て「さっきのあれ、なんや?」と情報収集。KDもそんな表情でバードのライブを見つめていたのかな?

KDandMomRoyalRoost1948.bmp1948年《Royal Roost》 にて。右端がケニー・ド-ハム夫妻、マックス・ローチ、一人置いてチャーリー・パーカー、一人置いてアル・ヘイグ、左端がミルト・ジャクソン:KDの娘さんEvette Dorhamのサイトより。

 

 マイルズからKDへのレギュラー変更は、チャーリー・パーカー・クインテット初の人事異動でした。KDは体調の波が大きいバードのために、彼が不調なとき、遅刻したときも、バンドをまとめて”チャーリー・パーカー・ライブ”のかたちを作る片腕になりました。リズム・セクションは、マックス・ローチ(ds)、トミー・ポッター(b)、アル・ヘイグ(p)、バードの天才が閃くと、その輝きを真近で享受した。入団2日目、クリスマスの夜、《ロイヤル・ルースト》で彼らが演奏した”White Christmas”のビバップ・ヴァージョンは、後にトミー・フラナガンがピアノ・トリオのヴァージョンに変換して、今では寺井尚之の演目になっています。

<ジャズでは家族を養えない>50af8aff713e2.jpg

 1950年、KDは「ジャズでは家族を養えない。」とNYを退出し西海岸に引っ越した。叩き上げの一流トランペット奏者の決断は、同年、理想の音楽家であるディジー・ガレスピーの楽団が破産の憂き目に会ったことと大いに関係があるように見えます。KDはパジェロの海軍弾薬庫や航空会社などで粛々と勤務して給料をもらった。そんな生活は、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの創設メンバーとなり、ブレイキーに「ええ加減にデイ・ギグ(昼の仕事)辞めてNYに落ち着いたらどや。」と言われるまで続きます。
 ジャズ・メッセンジャーズでは、6月18日に亡くなったホレス・シルヴァー(p)、ハンク・モブレー(ts)たちと活動、1956年に独立し、J.R.モンテロース(ts)を擁する自己バンド”ジャズ・プロフェッツ”を結成しますが、その直後にクリフォード・ブラウンが事故死、急遽マックス・ローチ(ds)に呼ばれ、ブラウン-ローチ5の後釜に入ったため、”ジャズ・プロフェッツ”はあっというまに解散。ディジー・ガレスピー楽団の崩壊とクリフォード・ブラウンの死、’50年代、ジャズの業界より、ミュージシャンを心底震撼させた2つの出来事がKDの人生に大きな影響を及ぼしています。
 

 

  ’50年代以降、フリーランス、つまり無頼派を貫いたKDは、ある時は工場で、ある時は音楽学校の教師やジャズ・モービル、ハーレムの貧困層支援プロジェクトHARYOUのコンサルタントなど、様々な活動をしています。”Quiet Kenny”というのは、ハイノートや超絶技巧を見せつけるのではなく、無駄のない抑制の効いたスタイルから、ケニー・ド-ハムについたニックネームです。名盤『静かなるケニー』を録音した’59年には渡欧し、バルネ・ウィラン(ts)やデューク・ジョーダン(p)達とリノ・ヴァンチュラ主演のフィルム・ノワール『彼奴を殺せ( Un temoin dans la ville)』の映画音楽の作曲や出演もしています。『静かなるケニー』の”Blue Spring”が映画冒頭に流れるテーマ・ソングなんですよ。

Joe_Henderson_Page_One.jpg ’62-’63年にはジョー・ヘンダーソン(ts)とコンビを組み、『ページ・ワン』を発表、”Blue Bossa”は永遠のジャズ・スタンダードとなりました。

 ’60年代の後半から腎臓病と高血圧に悩まされたKDは、だんだんトランペットを吹くことが難しくなり、ダウンビート誌で評論を書きながら、将来は教えることに専念する計画を持ち、NY大学の大学院で学び、’72年に亡くなるまで教壇に立ちました。

 KDの死後10数年経ってから、寺井尚之とNYに行くと、ジミー・ヒース(ts)は「やっとKDの譜面集が出たから、必ず手に入れて帰りなさい。」と言い、出版したドン・シックラー(tp)にその場で電話をかけてくれました。次の日シックラーのスタジオに行くと「君たちがここに来た最初の日本人だ。」と歓迎してくれました。それから数えきれない日本人ミュージシャンが、レコーディングのお世話になっています。

 <ロータス・ブロッサム>

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 KDは48年間の短い人生の中で、何度も音楽活動を休止して、音楽とは無関係な仕事に就きました。すべては妻と三人の娘さん達のためです。そんな生き方を不器用だとかB級だとか言うのはいけないと思います。彼は工場で働くことで、音楽の魂を売り飛ばさずに、信念を貫いたのではないのかな?だから、他の仕事に就いても、彼のマウスピースは錆びつかなかった。沢山の名曲も生まれた。理想を脇に置いて、コマーシャルな音楽をやり、お金と引き換えに品格を失う天才もいるし、逆に、音楽が「生活苦」という垢にまみれてしまうミュージシャンは沢山います。一方、KDは、家族への責任も、音楽に対する信念も、どちらも失わなかった。苦労を重ねるほど、作品と演奏が垢抜けするアーティストが他に何人いるでしょうか?それは、幼いころテキサスの田舎の農場で一人前に働いた体験が元になっているのかも知れません。

 KDの子供の頃は、家に新聞もなかったし、よほど大きなニュース以外全く知らなかった。5才の頃、西部で銀行強盗を繰り返し壮絶な死を遂げたカップル「ボニー&クライド」の事件が、数少ないビッグニュースで、ボニーが死に際に自分の血で書いたという詩を、自伝に引用していました。生死の間にありながら、不思議なほど静謐なこの詩は、KDの音楽と何故かとても似ている。

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 地方紙に、ボニーがありのままの人生を詠った詩を、死に際に作ったという記事が載っていた。血で書かれていたということだ。こういう詩だよ-

ジェシー・ジェームスの一生はもう読んだでしょ。
彼の生き様と死に様を
もし、他にも何か読みたいのなら
ボニー&クライドのおはなしを。

 彼の代表作”Lotus Blossom”は、泥の中から汚れのない美しい花弁を開く蓮の花、KDという人そのままです。『静かなるケニー』を聴く度に、私もがんばろう!と思います。

【参考文献】

  • Fragments of an Autobiography by Kenny Dorham (Down Beat, MUSIC ’70s 資料提供:後藤誠氏)
  • Notes and Tones : Musician To Musician Interviews / Arthur Taylor (Perigee Books刊)
  • To Be or not …To Bop / Dizzy Gillespie, Al Fraser (Doubleday and Company 刊)

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(2)

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ケニー・ド-ハム(1924-1972)

 

 1944年7月、20才を目前に、ケニー・ド-ハム(KD)はNYに辿り着いた。ビッグバンドでのツアー暮らしを辞めNYに落ち着いた理由は、理想の音楽=ビバップを極めるためだったとKDは語っている。同時に、戦時下のビッグバンド興行に対して、”キャバレー・タックス”と呼ばれる非常時特別税が新たに施行され、ダンスホール受難の時代が始まったこととも関係があるかもしれない。  

<ポスト・ファッツ・ナヴァロ>

 KDは、手始めにハーレムの”ミントンズ・プレイハウス”を訪れた。マンデイ・ナイトのジャム・セッションは新mintons_playhouse.jpg旧のミュージシャンが火花を散らしてしのぎを削る道場だ。そこにチャーリー・パーカーが現れると、バンドスタンドにひしめくホーン奏者達は敬意を表して退き、一心に聴く側に回った。バードとセッションができるホーンはディジー・ガレスピーかファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスくらいのものだった。やがてKDはプレイはそんなトップ・ミュージシャンに注目されるようになる。

 NYに来た翌年、ディジー・ガレスピー・ビッグバンドのオーディションに見事合格、ガレスピーの弟子という扱いでヴォーカルを兼任しながら修行した。ガレスピーはKDを第二のファッツ・ナヴァロしようと厳しく育て、KDもディジーに選ばれた弟子であることを誇りに精進した。『静かなるケニー』の悠然として隙のないプレイの源だ。

 当時のジャズ界には、徒弟制度が歴然と存在し、「バンド」という集団の中で、伝統や技量の継承が行われていたのは興味深いですね。

 翌年、KDは文字通りナヴァロの後任として、伝説のオールスター・ビバップ・ビッグバンド、ビリー・エクスタイン楽団に入団することになります。

 <ゴーストライター> 

DIZZY GLLESPIE GIL FULLER AND DICK BOCK.jpg左から:ディジー・ガレスピー、ギル・フラー、西海岸のレコード・プロデューサー、リチャード・ボック

  「ビバップでは食えない。」これは(私共を含め)古今東西のジレンマで、例えビバップの神様、ディジー・ガレスピーの弟子であっても、例外ではなかった。まして娯楽産業は肩身の狭い戦時中、歴史的ビッグバンドに在籍していても、ピッツバーグに妻子を持つKDは、実に色々なアルバイトで稼いだ。軍需産業や砂糖工場、ギグが空っぽの時期は、NYを離れて数ヶ月出稼ぎに行った。

 1970年に書いた自伝で彼はこう付け加えてる。 こんなこと言ったって、今の若い奴らは信じないだろうがね。」

 同時にKDは内職もやった。それはバンドの編曲、ディジー・ガレスピー楽団の番頭格、ギル・フラーは他の楽団のレパートリーもごっそり請負って数人のミュージシャンをゴーストライターとして抱えていたんです。KDが手がけたのは、ハリー・ジェームズ、ジミー・ドーシー、ジーン・クルーパー…錚々たる楽団の編曲でした。

 ギル・フラーはウォルター・フラーともクレジットされ、ビバップ時代のフィクサーとされる謎の多い人物。ジミー・ヒースもフラーから編曲のABCを習ったそうですが、とにかく沢山のクライアントを抱えて、時代の先端を行くモダンな編曲を提供するディレクターのような存在。昨今話題のゴースト・ライターも、ジャズ界では別に珍しいことではなかったんです。

 <栄光のビリー・エクスタイン楽団> 

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  ビリー・エクスタイン楽団は、パーカー、ガレスピー、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、ファッツ・ナヴァロ、アート・ブレイキーなどなど…キラ星のようなメンバーを揃えたビバップ・ビッグバンド!余りに時代の先を行ったモダンさゆえに短命に終わり、真の姿を捉えた録音も少ない伝説のバンドですが、このバンドのメンバーになることは黒人ミュージシャンの誇りだった。KDはお呼びがかかるとすぐさまNYから南部(!)の公演地まで長時間汽車に揺られて駆けつけます。

 ビリー・エクスタインやオスカー・ペティフォード、ディジー・ガレスピー、革新的なミュージシャンが組織した夢の楽団は、それに見合ったブッキングが叶わず解散の憂き目にあったんですね。

 KDは意気揚々とスーツを新調し、ベレー坊にサングラス、それにワニ皮のコンビの靴というバッパーの出で立ちで汽車に乗り込みます。目的地はルイジアナ州モンローという街、セントルイスを過ぎると車両に農夫たちが続々乗り込んできて、彼らの抱えた麻袋の中から、生きたニワトリや豚、リスやフクロネズミの鳴き声や臭いが旅のお供だった。どうにか目的地に到着したものの迎えが来ません。KDは入団初日の情景をこんな風に書いている。

artboo.jpg  本番ギリギリになってやっと迎えが来た。最初に挨拶したのがアート・ブレイキーだ。『おーい、ここだ!』と彼が叫び、初対面・・・というか、初めて間近で見るMr.B(ビリ-・エクスタイン)に紹介され、彼の楽屋に同行した。Mr.Bが着替えを始めると38口径のコルトが露わになった。楽屋を見回すと、武器が沢山あったが、テキサス出身の僕はそんなに気にはならなかった。

 舞台に上がると、僕の座席はブレイキーの隣だ。初日のこの夜、彼のドラムで僕の鼓膜は破れそうになった。だが、その晩まで、こんなに素晴らしいコントロールとドライブ感のあるドラムは聴いたことがない!それは生涯の思い出になる夜だった。”ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー”では、4小節のブレイクが僕に回ってきた。ファースト・トランペットのレイモンド・オールから送られた合図で、僕の人生は物凄く大きな一歩を踏み出したんだ。その4小節を難なく吹き切った途端、メンバー達の歓声が湧き上がり、ブレイキ-得意のあのプレスロールが炸裂した。それはみんなが僕を仲間として受け入れてくれたしるしだった。殆ど23年経った今も耳に焼きついている。」

 エクスタインはKDを弟のように可愛がってくれました。ピッツバーグの自宅でごちそうしてくれたり、クリスマスには上等のレザーのジャケットをプレゼントしてくれた。ところがKDはその恩に背くことをやらかした。日米限らずバンドマンは「呑む、打つ、買う」、KDもギャンブル三昧で生活が荒れ、Mr.Bにもらった大切なジャケットも手放した。挙句の果てに、楽屋でバンドのメンバーと拳銃がらみの暴力沙汰を起こし解雇された。在籍期間丸一年。やれやれ…

<チャーリー・パーカーとパリへ>

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 ビリー・エクスタイン楽団の経歴でハクが付いたKDは、様々なバンドを渡り歩くようになります。そんななか、1948年12月、”ロイヤル・ルースト”でチャーリー・パーカーと共演していたハリー・ベラフォンテがやって来て「バードが君に会いたがってる。」と言付けをもらった。

 「マイルズが自己バンドを率いて独立することになった。もしよかったらうちで演らないか?」

 KDは次の日からチャーリー・パーカー5のレギュラーとして”ロイヤル・ルースト”に出演。1948年のクリスマス・イヴでした。KDは翌年の春、バードとフランスの国際ジャズ・フェスティヴァルに出演。一旦、レッド・ロドニーと交代するものの、断続的に共演を続け、バードの死の一週間前、最後の演奏でもバンドスタンドを分け合いました。

 ツアーを共にし、毎夜共演していてもバードはミステリアスな存在でありつづけました。とにかく性格的に暗いところは微塵にも見せない天才音楽家だったけれど、在籍中たった一度のリハーサルを除き、本番以外に顔を合わせたことがなかったというのです。プラベートな時間はどこで何をしているのか全くわからなかった・・・

(つづく)

 

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(1)

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6月「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ハードバップの味わいがぎゅっと詰まった永遠の愛聴盤『静かなるケニー』登場!濃密なのに、こんなに誰にも愛されるアルバムも珍しい。「完璧」ではありながら、やりすぎない「程のよさ」!粋だ!しかもレーベルは”New Jazz”=つまりプレスティッジですから、このきめ細かく行き届いた名盤はほとんどぶっつけ本番のワン・テイク録りで生まれたということになります。 Kenny Dorham 2.jpg 大都会の「粋」と「憂愁」が漂うKDのトランペットですが、意外にも彼が生まれたのは、NYから遠く離れた西部の大平原でした。彼の幼少時代に聴いた音が、彼のプレイに大きく反映しているといいます。  KDは音楽だけでなく、並外れた文才があり、ミュージシャンの視点から鋭いツッコミを入れるレコード評やエッセイもとてもおもしろい。彼が晩年、晩年(’70)にダウンビート誌に寄稿した自伝的エッセイ”Fragments of Autobiography in Music”には、ビバップやハードバップの中には、彼が幼いころに聴いた大自然の音が取り込まれていると書いてあります。 KDことケニー・ド-ハムの生い立ちをちょっと調べてみることにしました。 この自伝は、現在ではなかなか入手困難、ジャズ評論家の後藤誠氏にコピーを頂いて読むことができました。後藤氏に感謝!

 

<大いなる西部>

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  ケニー・ド-ハムが生まれたのは大正13年=1924年、テキサス州のポスト・オークという土地。街でも村でもなく、土地だった。そこには大きな樫の木が群生し、オールトマンという一家の農場があったので便宜上そう呼ばれていただけ、地図にない地名だった。 『名前の無い場所に住むっていうのがどんなものか想像してみてくれ。』と彼は書いています。20kmほどいくとやっとフェアフィールド市という人里がありますが、その街ですら現在も人口2000人足らずという大西部!両親は農場の小作人で、KDも幼い頃から、白人の農場主の息子たちと一緒に仔馬を乗り回し、家畜の世話や農作業をして育った。そんな彼が最初に親しんだ音楽が自然の音、つまり鳥や動物の声だった。モッキンバード(!)を始め、カラスやキツツキ、夜鷹、ウグイスなどの鳥の声や虫の声、それにコヨーテやガラガラヘビ…それらの生き物の声と、テキサス東部を横断する鉄道の汽笛のハーモニーを楽しんだ。夜汽車の汽笛の哀愁はドーハムの記憶に大きく残っているといいます。そういえば「静かなるケニー」の”Alone Together”にも、そんな静けさと哀愁が漂っていますよね。

<ビバップとヨーデルの不思議な関係> 

 blackcowboys.jpgジャズと出会う前、KDが憧れた音楽家は、夜汽車やヒッチハイクで放浪し、民家に食べ物や一夜の寝床を恵んでもらってはブルーズを歌って聴かせる流れ者(Hobo)、それに農作業をしながら巧みなヨーデルを聴かせるカウボーイ達。 

ケニー・ド-ハムはヨーデルの歌声とビバップのフレーズの関係を、こんな風に語っています。

  「 ヨーデルというのは、カウボーイや農夫が、初期の西部のフォークソング・スタイルで即興演奏をする道具だった。これぞ西部の上流生活!綿摘み農夫がその日の最後の綿を袋に詰め終わったとき、彼がヨーデルを歌うのが聞こえるよ。後になって、チャーリー・パーカーやキャノンボール・アダレイが、ホーンでそんなヨーデルと同じメロディを吹くのを聴いたことがある。 

   カウボーイがひとりぼっちで牧場で作業していると、一日の終わりに歌うヨーデルが聞こえる。仕事を終えて、囲い檻で馬の鞍を外す間、カウボーイはヨーデルを歌うんだ。カウボーイっていうのは、見せたり聞かせたりする芸当を色々持っていて、それらはしっかり仕事と結びついていた。芸はどうやら彼らの生活の一部になっているようだった。」

  KDもそんなカウボーイに倣って、いろんな芸を身につけ、5才の頃には見よう見まねで、ピアノを両手で弾いてみせることが出来たそうです。

<ルイ・アームストロングは大天使に違いない> 

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  人里離れた農場で育ったKDがジャズと出会ったのは12才と遅い。ジャズは、ポストオークから車で一時間ほどの街に住んでいた姉から伝わった。年の離れた姉さんは、やはり音楽の才能があり、ピアノと歌で学費を稼ぎ、結婚してパレスタインという街に住んでいた。その姉が実家に帰ってくると、街で流行する「ジャズ」という音楽のこと、そしてルイ・アームストロングの話をしてくれた。

 姉さんによると、ルイ・アームストロングは本当に素晴らしくて、聖書に出てくる「大天使ガブリエルに違いない。」というので興味が湧いた。 

archangel_gabriel_blowing_trumpet_relief_color_lg.jpg ガブリエルは、神の使いとしてマリアさまに受胎告知した天使で、ラッパを持っていて、神のお告げを伝えるのです。ラジオから流れるルイ・アームストロングのペットも歌も、ガブリエルそのままに神々しいものだと、街で評判だと言うのです。そして姉さんは、まだヨーデルとウエスタンと讃美歌以外に音楽を聴いたことのない弟の将来について予言した。 

 「この子が音楽を聴いて飛んだり跳ねたりするのを見たでしょう!この子は、きっと音楽家になるわ。ルイ・アームストロングみたいな偉大なミュージシャンにね!」 

 同年KDは、ハイスクールで教育を受けるため、親元を離れテキサス、オースティンの親戚の家に下宿し、姉さんが両親を説得してKDにトランペットを買い与え、正式なレッスンを受けることになります。

Clark_Terry_copy1.jpg テキサスはフットボールが盛んな州、アメフトの応援に欠かせないのがチアリーダーとブラスバンド!だからトランペット奏者の層は厚くレベルがとても高かった。全米各地のハイスクール・ブラスバンドの交流も盛んでした。才能のある学生トランペッターがいると、プロのスカウトマンやミュージシャンがゲームにやってきて、青田刈りするということが、フットボール選手だけでなく、応援するブラスバンドの団員にも行われていたのです。なかでも遠く離れたセント・ルイスに、恐ろしくうまい神童が2人いるという噂が鳴り響いてた。それがクラーク・テリーとマイルズ・デイヴィス!

 

  一方、KDのブラバン活動は神童と言えるほどのものではなかった。耳の良いKDは、ラジオで聴いたジャズのメロディーをすぐに吹けてしまうものだから、練習の合間に、ついつい聞き覚えのフレーズを吹いてみる。それが体育会系のバンマスの逆鱗に触れてあえなく登録抹消。KDはさっさとボクシング部に転向し、そこでもなかなかの成績を上げ、同時にジャズに対する興味は衰えず下宿先の納屋で一人練習、化学専攻でウィレイ・カレッジに進学しますが、大学では音楽理論の授業ばかり受け、その頃にはピアノもトランペットも相当な腕前になっていた。

 <ビバップ開拓時代の夜明け> 

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 KDは1942年に徴兵され、陸軍のボクシング・チームに入った。マイルズといい、KDといい、トランペットとボクシングにはなにか密接な関係があるのかもしれません。ボクシングの合間には、同じ隊にいたデューク・エリントン楽団のトロンボーン奏者、ブリット・ウッドマンとジャズ三昧!そんなときに出会ったの音楽がビバップで、KDはこの新しい音楽に夢中になりました。 

 1944年に除隊した後は、ジャズ修行に各地を転々とし、カリフォルニアまで行きますが、自分の求める音楽は西海岸にはなかった。そこで東に進路を変えNYに、翌年、ディジー・ガレスピーの弟子としてガレスピー楽団に入団。ここからKDのハードバップ開拓時代が始まります。(つづく)