リー・モーガンに近いミュージシャンは、ヘレン&リーについてこんな風に語っている。
事件現場に居た L.モーガン・クインテットのテナー奏者、ビリー・ハーパー:「リーといえば、必ずヘレンを連想する。それほど強く結ばれた夫婦だ。とにかくヘレンはリーをドラッグから救済しようと必死だった。ヘレンも裏社会の人間だから似た者同士だ。彼女は人生のほとんどを彼に捧げ、その一大プロジェクトに、僕達も乗っかったわけだ。リーはリーで、全てを変えたいと切望し、彼女の生き方をも変えたいと望んだ・・・」
ドラマー、ビリー・ハート:「ヘレンは大した女だよ。頭は切れるし、仕事ができた。リーだって負けず劣らず頭が良かった。クスリをやっていても、毎日NYタイムズには目を通すような人間だ。リーは、ヘレンと若い恋人の両方を愛し苦悩していた。愛の種類は違うとしてもね…」
姉さん女房の理想の夫婦も沢山いるけれど、ヘレンの場合は、モーガンを救うため、敢えて「妻」や「恋人」でいるより、厳しい「母」になろうとした。例え、彼に裏切られようとも…
コカインをやりだすと、ハイでない時には、強烈にイラついたり、被害妄想になったり、エキセントリックになるといいます。ヘレンが人前でズケズケ言い、モーガンが逆ギレするようになったのは、二人がコカインを吸うようになってからなのかもしれない・・・
「誰のお陰で、ここまで立ち直れたと思ってんの!」これがヘレンの口癖だった。
「あれほどのスターが、奥さんにがんじがらめにされるなんてミジメだよね。」と陰口が聞こえてくると、家に帰らず、若いガールフレンドとの将来を夢みても、ちっとも不思議じゃない。きっとモーガンは若い彼女と一緒に居るときには「妻と別れて一緒になる。」と決意し、彼女に約束していたのかも知れない。
ヘレンがモーガンに別れを告げたのは1972年2月13日の日曜日のことだ。ところが、ヘレンを思いとどまらせると、3日と経たぬうちに、再び若いガールフレンドと同棲を始め、家に寄りつかなくなった。ちょうどその時期、モーガン・クインテットで一週間のクラブ出演が始まろうとしていた。
<SLUGS’>
《スラッグス SLUGS’》は、当時、非常に物騒で荒涼としたイースト・ヴィレッジにあり、モーガンがNYの本拠地として、ここに定期的に出演出来たのも、ヘレンの尽力の賜物だった。当時の『The New Yorker』のタウン情報には、「うら寂しい地区でひときわ賑わう人気スポット」というような紹介文がある。とにかくタクシーを店の前に停めて降りるなり、ナイフを突きつけられるかも、とまで言われるほどのうら寂しい場所だった。《スラッグス》はうなぎの寝床のような長細い店で、奥にバンドスタンドがあり、75席ほどだったけれど、当時のスタッフによれば、時にはその倍ものお客で賑わう繁盛店だった。
モーガンはここで2月15日(火)から2月20日(日)の出演を予定していた。悲劇の起こったのは週末、2月19日(土)、日中の気温が零度を越えない寒い日であった。
<悲劇の予兆>
その日、日中のモーガンはゴキゲンだった。ガールフレンドと連れ立って “ジャズモービル”の冬期ジャズワークショップで授業をしている友人のジミー・ヒース(ts)の教室を訪問している。
ジミー・ヒース: 「あの日、リー・モーガンは、大きなアフロヘアで、とても綺麗な若い女の子とフラっとやって来た。その子は、黒人運動のヒロイン、アンジェラ・ディヴィスに似た美人だった。リーは授業を遮ってこう言った。
『よう、チビ公、俺の彼女はどうだい?』
彼が、もっと年上のヘレンと一緒だという事はよく知っていた。ヘレンのおかげでドラッグから立ち直り、まっとうな人間にしてもらって、ギグやツアーも出来て、うまく行ってる事もね。仕方なくこう言ったよ。
『リー、いま授業中なんだ。ああ、確かに彼女はイケてる。おめでとうさん、よかったな。』…」
この後、二人は最初の災難に見舞われた。乗っていた彼女のフォルクスワーゲンが、凍結した道路でスリップしカーブを曲がりきれず大破。レッカー車が来るのを待つ余裕もなく、モーガンはほうほうの体で、トランペットのケースだけを抱え、ガールフレンドと震えながら《スラッグス》にやって来た。一番先に店に入っていたビリー・ハーパーは、その様子を見て、かつてモーガンが師と仰いだクリフォード・ブラウンの事故を思い出したと言っている。
一方、長らくモーガンの出演場所に顔を出すことのなかったヘレンは、この夜、自宅に訪ねてきたゲイの友人に夫婦の悩みを聞いてもらっていた。やがて、彼女は《スラッグス》にモーガンの様子を見に行くから同行して欲しいと言い出した。その友達は「私はいや。あんたも絶対行かないほうがいい!」と説得したけれど、一旦決めたら引かない女だ。「大丈夫!ちょっと挨拶に寄るだけ。それから《ヴィレッジ・ヴァンガード》に行ってフレディ(ハバード)を聴くんだから。」
そして彼女は拳銃をバッグに入れた。それは、モーガンは「留守中に一人ぼっちだと、心配だから」と、護身用にくれたものだった。その夜は、彼女がモーガンのコートを取り戻してやった、あの冬の夜よりも、ずっと冷え込んでいた。彼女が《スラッグス》についたのは真夜中頃だ。その後の出来事を彼女はインタビューで克明に語っている。
<その夜の出来事>
ヘレン・モーガン: 私はブロンクスの自宅からタクシーに乗り、イースト・ヴィレッジの《スラッグス》に行った。店に入るとモーガンが私のところにやって来た。話をしていると、例の女の子が、彼に詰め寄ったの。「ちょっと!この人とは別れたって言ったじゃん!」
「そうさ、別れたよ。だから、もうつきまとうなって言ってるところなんだよ!」
私はカッとして彼を平手打ちした。彼も逆上し、夜中の寒空に、私を放り出した。私はコートなしで、バッグしか持っていなかったのに。そのはずみで、バッグから拳銃がこぼれ落ちた。私はコートを取りに、もう一度店に戻ろうとしたが、店のドアマンに閉めだされた。
「あの、ミス・モーガン、言いにくいんですが、リーからあなたを入れるなと言われているんです。」
でも、ドアマンは銃を見て、私を中に入れた。するとモーガンが私をめがけて凄い形相で走ってきたの。その目は途方も無い怒りでギラギラと燃えていた…
その瞬間、彼女は発砲し、銃弾はモーガンの胸元に命中した。
ハーパーはこう証言する。「僕らはまだバーで雑談していた。突然、銃声が聞こえた。大きい音ではなかったがパンッという音がした。現実とは思えなかった。振り返ると、リーは立ったままで、ああ、大丈夫だと思った瞬間、彼は崩れ落ちた。」
ヘレンは泣き叫び、完全に取り乱していた。
もう夢なのか、現実なのかもわからなくなっていた。私は倒れた彼に駆け寄って謝った。
「Sorrry, こんなつもりじゃなかったの!Sorry…」
すると、彼はこう言ってくれたの。
「ヘレン、わかってる。そんなつもりじゃなかったんだろ。僕も悪かったんだ。ごめんよ・・・」
警察と救急車がやって来たのは20分以上経ってからで、モーガンは病院に搬送される前に出血多量で死亡した。もしもこの事件が病院に近い《ヴィレッジ・ヴァンガード》で起こっていたら助かっていたのにと、ビリー・ハート(ds)は言う。
若いガールフレンドは、次の標的になることを恐れ、いち早くその場から姿を消した。彼女は、二度と関係者の前に現れることはなかった。彼女が何者なのか?その名前すら、関係者全員が固く口を閉ざしている。
《スラッグス》は、この事件から数週間で閉店を余儀なくされ、ショックを受けたベーシストのジミー・メリットは、事件後、NYを去り故郷フィラデルフィアに帰った。
ヘレンは第二級殺人罪に問われたが、公判記録は残っていない。「刑務所で3ヶ月服役した後保釈された」、或いは、「一定期間を精神病棟で過ごした」と、様々に推測されていいます。
彼女はその後、親族の居るノースキャロライナ州、ウィルミントンに戻り、教会に通いながら1996年に亡くなるまで、モーガン姓を通した。彼女の証言は、死の2ヶ月前、彼女が通った大学講座の史学の教官であり、ラジオ・パーソナリティであるラリー・レニ・トーマスに遺したインタビューによるものです。
「(亡くなった)クリフォード(ブラウン)を聴くと、そして今トレーンを聴くと、医者から、こんなふうに忠告されているような気持ちになる。『今日、持っているもの全てを演奏に出せ。明日になると、そのチャンスは来ないもしれないのだから。』:リー・モーガン
参考資料:The Lady Who Shot Lee Morgan by Larry Reni Thomas
Death of a Sidewinder by W.M.Akers http://narrative.ly/stories/death-of-a-sidewinder/
I Walked with Giants :Jimmy Heath自伝
Benny Maupin Interview : Live at the Lighthouse ライナーノート
“NEA Jazz Master interview: Benny Golson” Smithsonian National Museum of American History
The Murder of Lee Morgan from “Keep Swinging” blog
Podcast Episode: The Day Lee Morgan Died by Billy Hart
The New Yorker Magazine 1972 Feb.12 & 19 issues