タッド・ダメロンについて話そう!(1)

   Tadd Dameron (1917-’65)
 
  OverSeasで拍手を沢山いただけるスタンダード曲、そしてトミー・フラナガンの名演目の作曲者の一人にタッド・ダメロンがいます。ダメロンはビバップ時代を代表する作編曲家…とは言うものの、ダメロンに関する情報はネット上では凄く少ない。「ああ、Hot House 作った人か、ジョン・コルトレーンと共演してたバッパーや。麻薬中毒やろ、ピアノは下手やな。」と、なんかBクラスの格付けが多いような気がする。
  トリビュート・コンサートまでに、少しタッド・ダメロンとその作品の話をしておこう!今夜はまずプロローグ。
 タッド・ダメロンといえば、デトロイト出身ということで、フラナガン、ハンク・ジョーンズと共に一くくりにされがちなピアニスト、バリー・ハリス(p)がタッド・ダメロン集、『Barry Harris Plays Tadd Dameron』(Xanadu ’75)を録っていて、リリース時には私も愛聴しました。ここでバリー・ハリスが表現したタッド・ダメロンは、絵画で言えばモディリアーニ、女性の肢体に、彫刻刀でゴリゴリ削ったような陰影と質感を付け、カンバスに命を吹き込むのと同じような手法のプレイには、洗練された楽曲とビバップ的な硬質さの渋いコントラストを感じていました。
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 一方、トミー・フラナガンが描き出すダメロンは、同じ「デトロイト」のカテゴリーに関わらず、バリー・ハリスとはかなり違う。
 最近、ジャズ講座で聴いた、<A Blue Time>、や、<Smooth As the Wind>、極めつけの<Our Delight>…どれもこれもすっきり垢抜け、金箔輝く尾形光琳の屏風のように華やかなれどケバくなく、ビバップならではの手に汗握るスリルがある。
 きっちりと襟を正しているんだけど、どこかにゆるみのある、芸者さんの着物の着方みたい!色気があって粋なんです。…とかなんとか言ったって、百聞は一見にしかず!
 下のYoutube動画は、寺井の生徒達が何百回も観ているヒット画像、トミー・フラナガンが<Smooth As the Wind>をソロで演っています。ホストは、これまた巨匠ビリー・テイラー(p)、<アクターズ・スタジオ・インタビュー>など、ユニークな教育番組で知られるCATV、『Bravo TV』のジャズ番組からの映像。これを観るとタッド・ダメロン作品の良さが判ってもらえるはず!

 ねっ!はじめはシンプルなメロディ、ひとつひとつの音が、扇のように次々とハーモニーの花を開いて、思いがけなく大きく分厚い模様になる。スイング感も倍増し、沢山の扇が大輪の花になったと思うと、最後に全ての扇があっと言う間に畳まれて元通りになる。まるで手品みたい!なんと華麗で優美な曲でしょう!
   この映像の冒頭で、ホスト役のビリー・テイラーはこう言っています。
「エラやコルトレーンとの共演も有名ですが、トミーはなんと言っても、立派なソロイストです。今日はぜひともソロ・ピアノを弾いてもらって、トミーならではのコード・ヴォイシングの素晴らしさを見せて欲しいのですが…」
それに対してフラナガンはこう答える。
「子供のときから、バンド・ミュージックを聴きながら育つと、楽団の演奏が、そのままピアノで弾けてしまうものでね… そうすると今度はちょっとピアノ向きに変えてみたりするんです。これから演るタッド・ダメロンのSmooth As The Windは、バンドのアレンジをそのままソロ・ピアノに使いました。…まずはフレンチホルンのイントロから…」
 フラナガンより10歳近く上の大先輩、ビリー・テイラーに対するフラナガンの話し方はとっても謙虚!「私は腕があるから、何人ものバンド演奏をピアノ一台でやってしまえる」という一人称でなく、「子供のときから楽団を聴いていれば、どんなピアニストだってそれ位のことは出来ますよ。」と、二人称を使っているところが、英語の勉強にもなります。
Smooth As The Windを日本語にするのは、簡単なようで難しい。「風のように、肌触り良く、淀みなく疾走する」という感じかな?快適なヨット・セイリングや、新車のステアリングなどにぴったりなことばです。
 <嵐の中の『そよ風』>
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  Smooth As the Windは、寺井尚之にとっても、大変思い出深い曲です。フラナガンが丁度『Jazz Poet』を録音した’89年、8月末にジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオでOverSeasに出演した後、フラナガン夫妻が郊外の香里園という住宅地にあった自宅に泊りに来たことがありました。丁度台風が大阪に接近していて、外は土砂降り、翌日の飛行機が飛ぶかどうか判らないような状況でしたが、コンサートは大盛況。大雨の中、第二部の当日券が出るのを期待して、漏れてくるフラナガン3のプレイを聴きながら、ジーン・ケリーみたいに傘をさして踊っているファンの方々がおられました。今でもお元気でしょうか?
   その頃のトミーは、渾身のプレイの後でも元気溌剌!夜食にそうめんを食べてから、ダイアナがお風呂に入ったり、荷解きしている隙に、深夜の地下のピアノ室で「ヒサユキ、何か教えてやろう!」と、急に稽古を付け始めました。
「何を教えたろかなあ…よし!今日はタイフーンだから(!?)、Smooth As the Windにしよう!」そう言うと、こんな風にソロ・ピアノを弾き始めたんです。
 トミー・フラナガンらしいウィットだなあ!
 沢山開いた扇が次々と畳まれて行くようなこの鮮やかなエンディングも、その夜から寺井が完全に身に付けて覚えたものです。
 私以外には誰も外野の居ないピアノ室で、師匠の一言一句、一挙一動にかじりつかんばかりにしていた寺井尚之の姿に思わずシャッターを押したのがこの写真です。この師弟の緊張感は、長年の師弟の歳月の間にも、緩んだり色褪せたりすることはなかった。だから、今でもトリビュート・コンサートの為に骨身を削って稽古できるのかな?
 さて、タッド・ダメロンの作品がどんなのか、ほんの少し聴いたので、来週はタッド・ダメロン自身のことを少し書いてみようと思います。
 ダメロンの名曲はOverSeasにお越しになればいつでも聴いていただけるんですけど…
CU

「Eclypso」 ジャズ講座:片隅感想文


一昨日は『Eclypso』ジャズ講座!お越し下さった皆さん、本当にありがとうございました。
 
 録音スタジオに煙るパイプ煙草の香りが伝わるような解説に、大笑いしたり頷いたり…、楽しい気分がOverSeasの中に溢れると、パイプをくわえたトミーの大きな瞳がギョロっと動いた。あれは幻覚だったのか?
 
 勤務先の北京からは常連KD氏から、ボストンからは鷲見和広(b)さんの一番弟子しょうたんちゃんから、「僕も参加したかった…」とメールを頂戴しました。いずれ講座本シリーズに収録されますので、どうぞお楽しみに!
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講座の当日はパ・リーグ・クライマックス初戦と重なって、オリックス応援と講座ダブルヘッダーのツワモノも!
 OverSeasのBBSには、若きピアニスト達から詳細な感想が数多く書き込まれているし、今さら片隅から私が書くのも何ですが、ちょっと一筆書いておこう。
 『Eclypso』が録音された1977年当時、トミー・フラナガンは、まだエラ・フィッツジェラルドの音楽監督時代で、録音直前にトミーがジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと組んでギグをした記録もない。恐らくリハーサルも当日スタジオ入りしてからやったのではないだろうか? 
 リリース時に、ジャズ・ベーシスト達がこぞってコピーした歴史的名演、“Denzil’s Best”は、なんと当日トミーから渡された譜面を初見で演ったのだと、ムラーツ兄さん本人から聞きました。初見であれほど輝きのあるプレイをするムラーツ(当時32歳)の凄さは当然ですが、共演者の資質を看破し初見の曲でフィーチュアしたフラナガンの「眼力」の凄さ!アルバム・カヴァーのパイプをくゆらすポートレートそのままですね。
ジョージ・ムラーツ公式HPギャラリーより
   ところで、最近、TVで黒澤明の『七人の侍』を数十年ぶりで観ました。日本人であることを幸せに思わせてくれる映画史上に残る傑作だから、皆さんもご存知でしょうが、島田勘兵衛という初老の浪人が、自分を含めてたった七人のチームを急ごしらえし、綿密な作戦を立てて、農民を脅かす野武士集団を退治する時代劇です。
 20世紀を代表する名優、志村喬演じる島田勘兵衛の、温厚さと厳しさを併せ持つ奥の深い人格や、まなざしの輝き、ふと見せる雄弁な表情が、トミー・フラナガンの思い出と重なりました。レギュラー・トリオでなく、限定された条件で録音した『エクリプソ』の仕上がりを鑑賞していると、何度も『七人の侍』の名シーンを思い出してしまいました。
 G先生によれば、プロデュース側のアイデアは、「トミー・フラナガンとエルヴィン・ジョーンズのリユニオン」であったそうですから、“Relaxin’ at Camarillo”は、プロデューサーのリクエストであったのかも知れません。それに対して、ジャズ・スタンダードと言うには知名度の低い“Cup Beares”(トム・マッキントッシュ)、“A Blue Time”(タッド・ダメロン)といったあたりは、明らかにトミー・フラナガン自身の選曲に違いない。
 次回、11月8日(土)のジャズ講座には、キーター・ベッツ(b)、ボビー・ダーハム(ds)からなる当時のレギュラー・トリオのライブ録音、『Montreux ’77』で『Eclypso』と好対照を成します。
 トム・マッキントッシュ、タッド・ダメロン、サド・ジョーンズ、デューク・エリントン、トミー・フラナガンのレパートリーの源流(mainstem)を作った作曲家たちのことは、トリビュート・コンサートまでに、少しでも書きたいなと思っています。
 CU

中秋の名月に吠える Blues for Dracula

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 13日(土)のジャズ講座の冒頭、寺井尚之が、日本映画の巨匠、マキノ雅弘監督晩年の名言:
 「ご覧になった映画が、少しでも面白いと思って下さったら、一人でも二人でもええから、どうかそのことをお友達に話してください。そして、映画を見に行くように伝えてください。」
 マキノ監督が車椅子から皆に頭を下げ語ったこの言葉を引用しながら、ジャズを取り巻く危機的な状況について訴え、じーんとなりました。講座の帰り道に観たお月さんはとっても明るく輝いていた。
  満月には、犯罪や交通事故が増える…元警視庁の人が言っていました。ヴァンパイヤと同じで、潜在的な獣性が騒ぐのでしょうか?満月を観ると、私は“ブルース・フォー・ドラキュラ”に登場する狼の遠吠えを真似しながら、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)の絶妙の語りと、破天荒な人生、ジャズとお笑いの深い関係に思いを馳せる…
  寺井尚之も落語好き、昔の漫才好き、鷲見和広(b)さんは月亭可長のファンですね。
 Philly%20Joe%20Jones%20-%20reading%20music.jpg  “ブルース・フォー・ドラキュラ”は、「色物」と扱われることが多いらしい。あのジャケットや、冒頭の長い語りが冗長で「ストレイト・アヘッドな作品じゃない」という意見がある。それが、全くの誤解であることは、ジャズ講座の本 Vol.Ⅱを読んでいただければよく判ります。本には、トークの対訳もばっちり掲載してありますので、レコードを聴きながら、本を読むとめちゃ笑えます。笑えても「色物」じゃないよ、トークとプレイが一体化する名演です!
  何故、“ドラキュラ”がタイトル・チューンになったのかと言いますと、この録音の直前まで在籍していたマイルス・デイヴィス六重奏団のライブで、フィリーは盛んに、このベラ・ルゴシの物真似を演って人気を博していたからだったんです。
  あのトークのルーツを調べると、レニー・ブルース (1925-1966)という一人のお笑い芸人にたどり着きます。 ジョージ・ムラーツ(b)もコンサートのMCで言っていましたが、昔のジャズクラブは、ジャズ演奏とお笑い芸を抱き合わせにしていたんです。レニー・ブルースのスタンダップ・コメディと、ビル・エバンス(p)3(無論ドラムはフィリー・ジョー・ジョーンズ)の組み合わせでクラブ出演したこともありました。
lenny.gif  レニー・ブルースは、従来タブーだった人種ネタ、宗教ネタで、世の中を痛烈に風刺したスタンダップ・コメディアン、ビートニクやボヘミア志向の若者達にカルト的な人気を博した。
   四文字言葉、差別用語もおかまいなし!話の枕に「今夜は客席に何人“ニガー”がいるのかな?」と言ってのけた。
  私服刑事がレニーのステージを内偵している時は、わざと、警官に多いカトリック教徒ネタ、アイルランド系をコケにするネタを使って挑発した。店が摘発されたら、どないすんねん!?ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンが青くなると、「だってお客にウケるんだから」と平然としていたらしい。
 民族ネタがイジメにならず、イジられる側にもウケたのは、ユダヤ人である自分自身を笑い飛ばす自虐性が根底にあったからです。当然ながら当局に睨まれ(ビリー・ホリディやバド・パウエルたちと同じですね。)、猥褻語の使用や、麻薬所持で逮捕歴数度、徐々に活動の場を失い、40歳の若さで薬物中毒で(ということになっている)亡くなった人です。彼の信奉者は、ロビン・ウィリアムスやウッディ・アレン、リチャード・プライヤーなど後輩コメディアンから、フランク・ザッパ、ボブ。ディランに至るまで音楽界にも多く、フィリー・ジョー・ジョーンズもその一人だったんです。
 現在残されているレニー・ブルースのトークを聴くと、卑猥な言葉を絶叫し、お客をいじって笑いを取る「漫談」というよりはずっと「落語」に近い。ストーリーの完成度が高くて、細かく計算された印象を受ける。「過激」と言われているけど、近年のエディ・マーフィーやクリス・ロックより余程上品です。
 
 一方、ジャズのドラムの概念を変えたフィリー・ジョー・ジョーンズも、太く短く生きたハチャメチャ破滅型、仕事きっちりの天才同志、レニーとフィリーの絆は深かった。
  このアルバムのプロデューサー、オリン・キープニュースの著作集、『The View from Within』によれば、レニー・ブルースがクラブ出演すると、フィリー・ジョー・ジョーンズは、頻繁に団体を引き連れて応援に行ったそうです。
   “ブルース・フォー・ドラキュラ”のトーク部分も恐らくは、レニーが書いたものかも知れません。当初レニー自身が、トーキング・サイドマンとしてこの録音に参加したがっていたのですが、契約の問題で実現しなかった。
 “ブルース・フォー・ドラキュラ”の独特な話し方は、ドラキュラ役者ベラ・ルゴシの声帯模写、ルゴシはハンガリー出身の役者、Rを巻き舌に、VをWに、WをVにして話すのが、誰にでも出来る東欧弁です。
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「我輩はビバップ・ヴァンパイヤ。」と、まずは自己紹介。
  音楽に対する愛を仰々しい東欧弁で語ってから、自分の子供たちにネスカフェならぬインスタント血液を飲ませ、「お休みのキス」ならぬ、「お休みの噛み噛み」をママの頚動脈にさせて、就寝させる優しい吸血鬼のお父さん、しかし血液の禁断症状に襲われ、次第にヴァンパイヤの本性を表わしていきます。すると、子分の吸血コウモリが「だんな様、あの奇妙な鳴き声は?」とネタを振る。この辺の芸が細かいね。
 応えるドラキュラ伯爵は、「夜の子供たちが、麗しき調べを奏でておるのじゃ」と自分のお抱え楽団を紹介し、ドラムの強烈なビートから息もつかせぬソリッドなプレイが展開し、ラストで再びビバップ・ヴァンパイヤが登場します。
 「夜の子供たち」が、他の吸血鬼たちに襲われそうになっているの助けようと、親切に避難させる伯爵が、別れ際に言う、貴族らしくないクダケた台詞がオチ。
「ギャラは貸しといてくれや!」 …おやおや、伯爵はギャラを一文も払わず、にミュージシャンを追い払っちゃった!
 これをジャズ・クラブで演ったら、お客さんにどれほどウケたろうと容易に想像できます。日本のジャズ界ならEchoesしか太刀打ちできないかもしれない。
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 本家、レニー・ブルースのドラキュラ噺はベラ・ルゴシだけでなく、フランケンシュタイン映画でお馴染みの役者、ボリス・カーロフの声帯模写も出て来る。
 アメリカに移民したドラキュラが、芸人になりドサ回りしたり、奥さんに、「オールバックのコテコテ頭は、枕カバーが汚れるからやめなさいよ!」と文句を言われたり、NYの安酒場でトマトジュースを飲んでいると、酔っ払いに絡まれたり…とっても面白いんです。そういえばウディ・アレンも、ドラキュラネタの戯曲を書いてます。
   ヴァンパイヤは陽の当たる世界では生きていけない日陰者、芸人やジャズ・ミュージシャンと同じです。クラブ・オーナーやレコード会社は、そんな彼らの生き血を吸って搾取する。
 そして、血が吸いたくなると本性をさらけ出す姿は、麻薬中毒の禁断症状を思わせます。“ドラキュラのブルース”は強烈なブラック・ユーモアだったんですね!
  ヘロイン常習者として、神戸でも逮捕歴(’51)があるというフィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)は、横山やすしも真っ青の破滅型人生を送りました。
  マイルス・デイヴィスとのバンドも、ドラッグが災いし、一旦、ジョン・コルトレーンと一緒にクビを言い渡されるものの、他のドラマーではかっこが付かずに、呼び戻されている。マイルス六重奏団では思い切りハードなドラミングをしているけど、フィリー・ジョーが一番得意としたのはブラッシュワークだった。
 マイルスは音楽的意図から、フィリーにブラッシュ禁止令を言い渡した。フィリーはきっちり言いつけを守り、うるさく叩きまくるプロだった。
  ディック・カッツ(p)さんは、若い時に、「エラい目に会うでー」と周囲の止めるのを振り切って、フィリー・ジョー(ds)のバンドでツアーし、音楽的には最高の経験をした。でも皆が言ったとおり、ギャラはもらえなかった。フィリーはギャラを前金で受け取っていて、仕事がするときにはすでにオケラだったんです。
 それでも、フィリー・ジョー・ジョーンズを悪し様に言う人はいない。私はビル・エヴァンス(p)3で来日した時に見ましたが、他のバンドが出演している間、舞台の袖に腰掛けて、足をブラブラさせながら、缶ビールを飲んではった姿が印象的です。
philly-joe-jones.jpg Philly Joe Jones (1923 – 1985)
 片手には「正統派のテクニック」もう一方の手には「ストリートで培ったヤクザなセンス」を持つと言われた稀有なドラマー、フィリーの一生は、ザッツ・アナザー・ストーリー…後の機会に一杯書きたいと思います。
 OverSeasには、アーサー・テイラー(ds)によるフィリー・ジョー・ジョーンズのインタビューの邦訳を置いているので、ご希望の方はどうぞ!
 CU
 

続トミー・フラナガンの音楽観:Blindfold Test


  今週のジャズ講座では、’75年のトミー・フラナガンのリーダー作、『白熱』(Positive Intensity)が登場します!
 7月登場したロイ・ヘインズ名義の『Suger Roy』と同じメンバー(ベース:ロン・カーター)ですが、味わいはかなり違う。
 フラナガンのおハコ、“Verdandi”“Smooth As the Wind”“Dalarna”が収録されていて、エラの許を離れ、フラナガンが独立してからの軌跡を暗示する内容!まるでダ・ヴィンチの習作を鑑賞するような趣もあり、芸術の秋にぴったり!
 ぜひお越しください。

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 さて、お待たせしました。
 トミー・フラナガンがダウンビート誌に遺した、ブラインドフォールド・テストの続きです。
  皆さんに余り馴染みのないと思えるレコードは割愛しましたが、「ダメロニア」の論評は入れました。フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)がタッド・ダメロン作品中心に演奏した名バンド!ビバップの心溢れるヒップなバンドが、’80’sにあったことをぜひ知っておいて欲しかった。レコードはUptownというNYのマイナーレーベルで現在廃盤ですが、再発された時には、ぜひ聴いてみてほしい。
 フラナガンは、テストに聴かされるレコードが何か、全く知らされないまま、論評しなければなりません。星5つが最高点です。
=1989 3月号続き=
dameronia_look_stop_listen.JPG 8. Dameronia/ フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)
“Them of No Repeat”
アルバム名:Look Stop Listen (Uptown)
パーソネルは推察どおり。
 
フィリー・ジョーの “ダメロニア”だ。Yeah! セシル・ペイン(bs)だ!彼は現在のジャズ界でバリトン・サックスで、最も独特な音色を持っている!彼の引用はいいねえ!(スキャットする。)何ていう曲だったかな…
 評点:作曲者タッド・ダメロンに★★★★★!
    ドラマー、リーダー、フィリー・ジョー・ジョーンズに★★★★★!
    セシル・ペインに★★★★★!
    ピアニスト、ウォルター・デイヴィスJr.(p)に★★★★★!
 合計星20個!!
dameronia_look_stop_listen_2.JPG本作はジョニー・グリフィンの豪快なテナーをフィーチュアして、華やかさ一杯。セシル・ペイン(bs)は左端、ウォルター・デイヴィスJr.は左から三番目です。
9.Sir Roland Hanna(p) 
曲名:“My Secret Wish”作曲サー・ローランド・ハナ
アルバム名:Gift of the Magi (West54 )
ピアノソロ

   長年の友、ローランド・ハナ。彼も私も同じデトロイト、ノーザン高校卒業だ。サー・ローランド…彼のようにテーマを処理することの出来るピアニストは他にいない。ワンダフル!!ちょっとフォークソング的だな。誰かの作ったフォークソングかな。良い演奏だ。
   これも★★★★1/2!星が半分だけ足らないのは、この録音より、ずっといいローランドを、生で沢山聴いているからだ。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
 ダウンビート誌 1996 8月号より : 聞き手: Dave Helland
All%20for%20you.jpg3. 演奏者:ダイアナ・クラール(p,vo)
曲名:”I’m an Errand Girl for Rhythm”
アルバム名:All for You (Impulse)
Personell: Ryssell Malone(g), Paul Keller (b)

 ダイアナ・クラールだね。彼女はとっても上手に自分自身を伴奏する良いピアニストだと思うよ。この録音はとってもいい感じだ。★★★★1/2!
  私は何度か生で彼女を聴いたことがある。IAJE(国際ジャズ教育者協会:今年破産した。)の大会が、一番最近だ。
聞き手:歌手の伴奏で一番大切な点は何でしょうか?

  たった今、君もそれを聴いたのに!(訳注:You just heard it.はトミーの口癖。)自分の歌唱がどこへ行くのかを知っていて、その為には、バックにどんな音が必要なのかをちゃんと判っているということだよ。弾き語りにせよ、他人の伴奏にせよ、良い伴奏は、それに尽きる。援護するのみ。ダイアナ・クラールは、正にそのとおりのことを演っていた。そういうことがうまかったのは、他にナット・キング・コールくらいしか思い当たらないな。
Benny_Goodman_Carnegie_hall.jpg2. 演奏者:ジェス・ステイシー(p)
曲名:”Sing, Sing, Sing”
アルバム名:Live at Carnegie Hall/ Columbia

 これはよく知っている。歴史的録音、聴き慣れたレコードだ。“シング、シング、シング”この夜のコンサートには3人のピアニストが出演していた。これはジェス・ステイシー。テディ・ウイルソンはスモール・コンボで出演した。’40年代の初め、子供のときに聴いたんだ。ジェス・ステイシーも好きだけど、テディ・ウイルソンの方がずっと好きだよ。彼のスタイルの方がとっつき易かったし、私にとって魅力があった。私はテディ・ウイルソンのように弾きたいと思った。ジェス・ステイシーは、こんなこと言ってはいけないのかも知れないが、いかにも元気一杯、自信満々という感じだ。ステイシーもスタイリストだが、他の二人ほど心を捉えるスタイルではなかった。勿論、後ひとりはカウント・ベイシーだよ… でも、高得点にしておこう!:★★★★1/2 あるいは★★★★★。
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左:Jステイシー、右:Tウィルソン

Genius_of_Modern_Music_.jpg5. 演奏者:セロニアス・モンク(p)
曲名:”In Walked Bud”
アルバム名:Genius of Modern Music, Vol.Ⅰ( Blue Note )
Personel: Monk(p), George Taitt(tp), Sahib Shihab(as), Bob Paige(b), Art Blakey(ds)

 “イン・ウォークト・バド”、作曲したセロニアス自身が演奏した唯一の録音だ。
聞き手:この曲のどこが、バド・パウエル的なエッセンスなんでしょうか?

 バドのピアノの腕前はモンクよりも、ずっと上だ。だが、実はモンクにはモンクならではの腕がある。それはモンクだけに当てはまる、モンクだけの技量なんだ。彼の生を観たことがあるなら判ると思うが、非常に個性的だし、音楽に対するアプローチ、つまりサウンドの出し方は彼だけのものだ。
 一方バドのピアノの技量は、従来の伝統的な奏法を踏まえたもので、そこに彼独自の力強さとダイナミクス、それにバドならではのアイデアやコンセプトが加味されている。
 例えば、誰かがモンクが演奏しているクラブに行ったとしよう。もし、ピアノの音が聴こえなかったとしても、そのリズムを聴いただけで、「ああ、モンクだ!」と判るはずだ。
聞き手: 今おっしゃったようなモンク的リズムで、モンクの音楽を正しく演奏するのは難しいことですか?
 いや、そこはまだ簡単だ。彼の選ぶ音の方が、ずっと厄介なものだ。モンクのような音の選び方は非常に難しい。彼の創るメロディ自体がリズムを示唆しているんだ。 つまりメロディの感覚に、リズムが内包されているのだ。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
 どうですか?
  トミー・フラナガンは、ダイアナ・クラールのピアノではなく、歌伴の腕をかなり高く買っていました。「今売り出しのDクラール、お前どない思う?」と少なくとも3回訊かれました。意外かも知れないけど、彼女のグラマーっぽい歌い方も好きだったみたい。
  トミーの深遠なものの言い方は、偉大なるデューク・エリントンを見習ったのかもしれません。ハナさんへのコメントを寺井尚之調のざっくばらんな言い方に翻訳すれば「ローランドやったら、もっとええレコードあるやろう!何でこれを選ぶんや!気に食わん。」、Bグッドマンのカーネギー・ホールのコメントを翻訳すれば、「何でわざわざテディ・ウイルソンやなくて、ジェス・ステイシーをわしに聴かせるんじゃ!」とテストに使用するセレクションに抗議しているわけです。
  そしてモンクに対するコメントには、モンクに対する並外れた理解と敬愛の念を感じました。フラナガンの「伝統的なピアノの技量」はパウエル以上のものがありましたが、フラナガンは、モンクの頭の中をよく判っていた。だからこそ『セロニカ』という傑作を創ることができたのだとつくづく感じました。フラナガンは、数少ない言葉の奥が本当に深い人だった…
 13日(土)はジャズ講座、CU!

8月のメモワール

お盆休みはゆっくりとお過ごしですか?
 こちらは、寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が月末にあるので、それまでは休日返上、ピアニスト達は、初出場から余裕のベテラン達まで、皆とっても頑張って、良いプレイをしています!
  それでお盆のお参りだけしてきました。この時期、昭和3年生まれの実家の母親は、大阪大空襲や、軍需工場からの帰り道、十三で玉音放送を聴いた話をする。誰かに話さずにはいられないのかも知れない。私がチャランポランな学生生活を謳歌した年頃に、家を焼かれ、身内を戦争に取られ、青春どころか、工場で長時間働いていたのだ。
  私という人間は、大戦がなければこの世に存在していない。母の実家が焼け、郊外に転居しなければ、父と出会って、親の反対を押し切り嫁入りすることもなかったろうから、私も生まれなかったのです…
  トミー・フラナガンや、サー・ローランド・ハナは、第二次大戦中は中学生だったけれど、朝鮮戦争の際はキャリアを中断し戦地に送られた。トミーにもハナさんにも、「君の家族は大戦でどんな目にあったのか?」と訊かれたことがあります・・・
<ビバップと第二次大戦>
 寺井尚之とJazz Club OverSeasがこよなく愛するビバップも、第二次大戦の社会状況が大きな役割を果たしている。それまでのジャズはビッグバンド、ダンスバンドが主流だったのですが、戦時中は、ダンス・ホールに莫大な遊興税が課され、ツアーの交通手段であるバスやガソリンを調達することが困難になっていった。その上、若くて元気な楽団員はごっそり徴兵されるから人手不足。
 その為に、ダンスをせず“鑑賞する為”の“シリアスな”小編成のコンボのジャズ、つまりビバップの隆盛を促進したのだと、ビバップの創始者のひとり、マックス・ローチ(ds)は語っています。
  
   
左:グレン・ミラー、右:ジャック・ティーガーデン
 インディアンの血を引くトロンボーンの巨匠、ジャック・ティーガーデン(tb)は4ヶ月の間になんと17名の楽団員を徴兵されたそうです。一方、アーティ・ショウやグレン・ミラーなど白人バンドリーダーは、精力的に外地に慰問のツアーをし、海軍バンドを率いたショウは南方で日本軍から17回爆撃され、空軍バンドを率いたグレン・ミラーはご存知のように、英国海峡で消息を絶ちました。
<従軍ジャズメンとビバップ>
zoot sims photo:by pail slaughter     テナーの勇者、ズート・シムズは、戦時中テキサス、サン・アントニオで従軍中、黒人クラブでNYから演奏に来ていたビリー・テイラー(p)トリオの面々と知り合い、ビバップの虜になります。テキサスの名産品(?)マリワナと交換に、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーの新譜をNYから送ってもらいながら、新しい音楽をなんとか聴くことが出来たらしい。
Art_Pepper_by_Ray_Avery_medium.jpg    アート・ペッパーは、ビバップの興隆期、ヨーロッパに駐屯し、捕虜の移送をしていた。その頃、レコードで初めて聴いたディジー・ガレスピーの“Oop Bop Sh’Bam”の余りの革新性と速さに、“ビバップ”という言葉すら知らなかったけれど「胃痛と吐き気がした。」と告白しています。

<日本人の知らない戦時中のブラック・ミュージシャン達>
 大戦中の米国には、まだ人種差別が歴然としてありました。当時、徴兵された黒人達はおよそ100万人、内半数が外地の前線に派兵された。黒人は一番危険な前線に送られ、割り当てられる任務は過酷なのに、アメリカ国民として当然の権利は認められない。彼らが軍隊で受けた人種差別の過酷さが、黒人の人種意識を目覚めさせ、ジャズだけでなく、後の公民権運動を加速したと言われています。だってドイツ人捕虜が食事する出来る食堂に、有色人種のアメリカ兵は入れないのですから、どちらが味方なのかわけが判りません。
 ディジー・ガレスピー(tp)は、はっきりこう言っている。
「大戦中の黒人の敵は、ドイツ人ではなかった。我々の尊厳を無視し、体力的にも倫理的にも、ダメージを与える白人達が本当の敵だった。アメリカが自国の憲法を守らず、我々を人間として扱わないのなら、アメリカの国策などくそ食らえだ!」
  大都会NYで活躍する黒人ミュージシャン達も、一旦徴兵されれば、人種差別のきつい南部のキャンプ地に送られるかもしれない。その後は前線に送られ、腕や足の一本や二本なくなるかも…そんなことはまっぴらだ!
  若いジャズメンたちは徴兵を免れる為に、住所変更を繰り返したり、それでもダメな時は、ホモセクシュアルや精神異常を装ったり、なんとか徴兵を免れるため、あの手この手を使った。
 
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ジョー・ニューマンと、ビリー・ホリディ

  カウント・ベイシーOrch.の花形トランペット奏者で、トミー・フラナガンがプレスティッジ時代によく共演したジョー・ニューマンは、覚醒剤と睡眠薬を両方飲んで徴兵検査で不合格になろうと試みて、副作用で死にそうになり、友人のビリー・ホリディが彼女の自宅で3日間看護してくれたおかげで一命を取り留めたそうです。
 バップ・トランペット奏者、ハワード・マギーは、入隊検査で、誇大妄想の演技をして、まんまと不適格の審査を勝ち取った。
  徴兵を回避し、洒落たファッションに身を包み、白人女性と交際し、ヒップな言葉を話す、そしてポケットにはお金が一杯・・・黒人ミュージシャンは、一部の白人の憎悪の対象となり、その結果バド・パウエルやセロニアス・モンクが、白人警官にこん棒で殴打されるような事件を招く遠因になったと言われています。
  もちろん、全員が徴兵から逃げられるはずもなく、戦時下、米軍のフットボール選手とジャズメンは、ドリーム・チームだった。
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アル・グレイ&クラーク・テリー
  イリノイ州の海軍訓練センターには、フラナガンと同じデトロイト出身のアル・グレイ(tb)や、どんなややこしい譜面も即座に暗譜する達人ドラマー、オシー・ジョンソンが二段ベッドの上と下、その他、クラーク・テリー(tp)や、カウント・ベイシー楽団のメンバーがごっそり集まっていた。このセンターには、一線級のミュージシャンばかりでいくつも楽団があり、その内のひとつはグアムに送られた。
 al%20grey%20in%20navy.jpg  Ira Gitler著:「Swing to Bop」より: マサチューセッツで、当時の海軍バンド:アル・グレイの姿は他のトランペット奏者に隠れています。
アル・グレイ(tb)はそんな状況下、内地に留まるために、軍のバンド競技会で、何度も賞を獲得し、ボストンやミシガンのダンスバンドや軍楽隊に所属、除隊したその日にベニー・カーター楽団に入団するという離れ業をやっています。
 ジミー・ヒース(ts)のお兄さんであり、モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の一員であったベーシスト、パーシー・ヒース(b)は、タスカジー飛行訓練学校という、黒人エリート学校出身の空軍パイロットでしたが、戦地に出るまでに戦争が終わり除隊したので、「一人も殺さずにすんだ。」そうです。
  戦勝国アメリカとはいえ、ジャズ講座に登場する黒人ミュージシャン達は、色々苦労をしていたんですね。
 戦後、米軍の占領下で、日本人のジャズメンたちは驚くほどの富を得たそうですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。
 ご先祖様の苦労のおかげで今在る自分に感謝しつつ… 
今月もOverSeasは休みなく平常営業です!
CU

『”King”たるもの徳ありて』 ベニー・カーターの誕生日に…(1907-2003)

  先月のジャズ講座に、ベニー・カーター(as)の名盤、『The King』が登場してから、沢山の人たちがベニー・カーターに魅了されている。
8月8日はベニー・カーターの誕生日だ!

   今週末には、ジャズ講座で、再びディジー・ガレスピー(tp)との大物共演盤『Carter-Gillespie Inc』が聴けます。”

 『King』というニックネームは、その昔、一世代上の大王様、ルイ・アームストロングの発言に由来していますが、’70年代、何度かコンサートで観たベニー・カーターの姿は、正に『King』に相応しいものでした!

   スティックを空中高く放リ投げてフィニッシュするソニー・ペイン(ds)や、ハイノートをヒットすると、顔が台形になるキャット・アンダーソン(tp)、昭和天皇を想起させるジョージ・デュヴィヴィエ(b)…空前絶後的な名手を揃えたベニー・カーター・オールスターズを従え、すくっと立つベニー・カーター、上等そうなグレンチェックのブレザーにブルーのワイシャツが褐色の肌に映える。
 
 黄金色のアルトの先には、象牙色に輝くマウスピース!カーターが吹くと、最高のコニャックを使ったカクテルのように甘い芳香が満ちた。スイング感、ソロの長さ、フィル・イン、音量、テンポ…何もかもちょうどいい! 聴衆の心が躍り、足がダンスする!ベニー・カーターから発する光はスポットライト?それとも後光だったのか…
 
 ’20年代に、King of Jazzとして一世を風靡した白人バンドリーダー、ポール・ホワイトマン…豪華絢爛なステージ!でもどちらかといえば「王」というより、むしろ、小太りでチョビひげの「社長」というイメージだ。

  昨年、ディック・カッツさんのベニー・カーターについての談話を書きましたが、巨匠達が、ベニー・カーターと共演したことを、ちょっと自慢げに話す様子は、「かわいい」とさえ感じます。
 ’80年代に、トミー・フラナガンが、カーネギー・ホールでベニー・カーターのスペシャル・プログラムへの出演を依頼された時も、ダイアナと二人で「名誉なことだ!」と喜んでました。他のどんなスターと共演したって、トミーが名誉(honor)と言ったのは、後にも先にもこれだけです。。

 
 ベニー・カーター、80年間に渡る『King』の長い航路を、ちょっと観て見よう!

○  ○  ○  ○  ○

<王様は下町っ子だった>

 ベニー・カーターこと、ベネット・レスター・カーターは、1907年(明治40年)8月8日、NYのサン・フアン・ヒルという地域に生まれた。丁度、現在のリンカーンセンターのある辺りで、昔は黒人の住宅街でした。リンカーンセンターなどのリンカーン・スクエア建設に伴い、消滅した幻の町です。(懐かしい当時の街の様子は、NYタイムズのヴィデオで見ることが出来ます。英語がよく判らなくても映像だけで楽しい!)  
 
 ババ・マイリーはプランジャー・ミュートの神様だった。(1903-32)

  ベニー少年は幼い頃、サックスではなくトランペットに憧れた。20世紀初頭にクリフォード・ブラウンの様なプレイをしていたという伝説的トランペット奏者キューバン・ベネットが従兄弟だし、デューク・エリントン楽団の花形トランペッター、ババ・マイリーは、近所のお兄ちゃんだったのだ。それで、ベニー少年も、何ヶ月か小遣いを貯めて質屋でトランペットを買ったものの、3日経っても、モノにならず、あっさり、C-メロディのサックスと交換してしまう。こっちは3日で習得できたのか、殆ど独学のまま、15歳にはプロとして稼いでいた。
 ベニー・カーターは、サックスも、後に習得したペットも作編曲も全て独学、色んな人の演奏に耳を傾け、腕を磨いたのだ言いますが、人のプレイをコピーしたのは、13歳の時で、ただ一曲しかないそうです…

<若くして王になる>

 
  1928年に初レコーディング、同年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍して、メジャーになります。新加入のカーターが手がけたアレンジは、時代を先取りした斬新さがあった。楽団がバンドリーダー不在となった期間、ベテラン揃いの団員からリーダーに選出されたのはカーターだった。若干21歳のことです。

   1931年には、デトロイトを本拠に活躍した名楽団マッキニー・コットン・ピッカーズ(トミー・フラナガンの子供時代に大好きだった楽団です。)の音楽監督に就任。トランペットでも録音しており、アルトに勝るとも劣らない名演を残す。ベニー・カーターのペットはアルトサックスと同じで、メロウな甘い音色です。また、アレンジャーとしては、一曲あたり25$が相場だった編曲料の4倍の金額を取っていました。
 
   ベニー・カーターの公式サイトで、カーターの研究者、エド・バーガーはベニー・カーターの特質は、常に全体を考える編曲者でありながら、ソロイストとして即興演奏の醍醐味を失わない点にあると述べています。

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ベン・ウェブスター と  翌’32年、自己の楽団を設立、テディ・ウイルソン(p)、シド・カトレット(ds)など、後のスイング時代のスターを多く起用したものの、時代を先行する芸術の例に漏れず、経済的な理由から、楽団は1934年に解散の憂き目に会います。  <王様ヨーロッパへ>  自己楽団に失敗したカーターは、レナード・フェザーの勧めもあり、1935年、BBC放送の音楽監督として渡欧、フランス、オランダ、北欧などヨーロッパ各国を楽旅し絶賛される。    人種差別がなく、アーティストとして厚遇を受けますがが、音楽的な欲求不満を感じ、3年後に帰国する。すると、ビッグバンドのトレンドは、ちょうど渡米前の自己楽団のスタイルだった。自己バンドを率いて演奏する傍ら、エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、トミー・ドーシーなど多くの楽団にアレンジを提供し、人気ラジオ番組の編曲など、どんどん仕事を続ける。

   ビバップ革命前夜の1941年頃、カーターが率いたスモール・コンボのフロントは、ディジー・ガレスピー(tp)、ジミー・ハミルトン(cl)で、ガレスピーの代表作、当店でも大人気の演目“チュニジアの夜”は実はこの時期に書かれた曲です。当時はInterludeというタイトルでした。カーターは、その頃、J.J.ジョンソン、マックス・ローチなど、後のビバップ創設者達を盛んに起用していて、すでに次の時代を予見していたんですね。

 <王様ハリウッドへ>

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 戦争中、楽団でダンスホールを巡業するという、これまでのビジネス形態が行き詰った時代、ベニー・カーターは単身ハリウッドへ。映画音楽の世界に飛び込みます。後にJ.J.ジョンソンも同じような転身をしましたが、カーターを見習ったのかも知れません。

 ”Stormy Weather”(’43)を手始めに、ありとあらゆる映画、TV音楽を手がけました。ベニー・カーターとクレジットされていない映画にも、作編曲、演奏、多岐に渡って関わっている作品が沢山あるようです。同時に、音楽スタジオでは、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、レイ・チャールズ、ルー・レヴィーなど、彼がアレンジを手がけた人気歌手を挙げればキリがない。
 ハリウッドの映画音楽の世界で人種の壁を初めて破ったのがベニー・カーターです。だから、黒人映画関係者の「名声の殿堂」入りもしているんです。代表作には、『キリマンジャロの雪』、『キー・ラーゴ』、TVなら『シカゴ特捜隊M』などが有名です。

 映画人となったカーターですが、JATPなど様々なコンサート活動は継続、ベニー・カーター・オールスターズを率い、何度も来日公演を行った。おかげで、私達も何度か素晴らしいコンサートを拝めたんです。

<王様、教授になる>

 ’70年代に入ると、ベニー・カーターが現場で培った深い教養と品格ゆえに、大学へと引っ張り出されます。歴史の生き証人、カーターの人間性にすっかり心酔した名門プリンストン大のエド・バーガーの要請で、カーターはエリート学生を前に講演やキャンパス・コンサートを頻繁に行い、プリンストン大名誉博士号取得、ハーバード大でも各員講演を行いました。国務省の依頼で’75年には国務省の親善使節として中東諸国を歴訪。ジャズ講座で現在聴いているベニー・カーターのアルバム群は、映画のキャリアが一段落し、好きなジャズの仕事を選んで行っていた時期のものです。

   1997年の90歳の誕生日には、LAのハリウッド・ボウルと、オスロで相次いでベニー・カーターの誕生日イベントが開催。
 2000年には、クリントン大統領から、米国の文化勲章と言える、The National Medal of Artsを受賞しています。

 <王妃様たち>

   NYタイムスによれば、カーターは5度結婚しているそうです。18歳で最初の結婚をしましたが、三年後に奥さんが肺炎で亡くなりました。その後三度結婚し、最後の奥さんはヒルマ・カーターさんと言う白人の上品な女性です。最初の出会いは’40年で、お互いに惹かれあったそうですが、当時の人種の状況から結婚に踏み切れず、40年の間、社会情勢の変化を待ち、72歳、’79年に結婚し添い遂げたということです。なんとも王様らしい、壮大な物語ですね。
歴代プレズとベニー&ヒルマ・カーター夫妻
 

○  ○  ○  ○  ○

 というわけで、殆ど1世紀のベニー・カーターの伝記を駆け足で辿りました。長くてゴメンネ。というのも、情報溢れるネットの世界なのに、日本語でベニー・カーターの生涯について克明にかかれたものがなかったからです。もっと興味のある方は、ラトガース大学からディスコグラフィーや参考文献が、また色んな出版社からカーターの楽譜が出ています。 
 ベニー・カーターの肉声も聞ける公式サイト。

  80年間の長い間、ベニー・カーターは一貫してベニー・カーターであり続けました。王様は、「トレンド」というはかない波に汚されたことは一度もなかったんです。「邪悪」な所が全く見当たらないのに人間味に溢るベニー・カーターの音楽を聴くたび、私は人間の「品格」にというものについて考える。世間ではベニー・カーターを「王」でなく「翁」と呼ぶ人もいるけど、私には、最晩年の姿も、おじいさんには見えなません…
 
 王様、お誕生日おめでとうございます!

CU

寺井珠重の対訳ノート(12)/Moon & Sand :変幻する時空のラブ・シーン

<寺井珠重の対訳ノート(12)>
Full-Moon-and_sand.jpg 前回のテーマ、“Star Crossed Lovers”では、ご感想や、ストレイホーン作品にまつわる体験談など、いろいろありがとうございました!名曲は、国や時代を超え、聴く者の心を捉えるものなんですね。
 「夏の夜空」と言えば、もうひとつ絶対はずせない曲があります。先日、寺井尚之がThe Mainstemで演奏した“Moon and Sand” の事を書かずにはいられない。決して有名スタンダードではないけれど、たった一度聴いただけで、映画の名シーンのように心に余韻が残る。
sugar_roy.JPG  これは、ロイ・ヘインズ(ds)、ロン・カーター(b)とトミー・フラナガン(p)の組み合わせ『Suger Roy』。フラナガンは、録音直前に手をタクシーのドアで挟んで怪我したフィニアス・ニューボーンJr.の代役ですから、この曲も自分のレパートリーではないのでしょうが、砂に打ち寄せる波の様にうねりのあるピアノのダイナミズム、疾風のようなロイ・ヘインズのドラミング、ロン・カーターらしい個性あるビートで、鮮烈なヴァージョンに仕上げています。
 フラナガンと同じデトロイト出身のギターの巨匠、ケニー・バレルにも、これををタイトルにした名盤があって、ロイ・マッカーディ(ds)のブラッシュ・ワークが最高です。
『Moon and Sand/ Kenny Burrell』
ジャケットはすごくお洒落だけど、海でなく「月と砂漠」のイラスト。

  Moon and Sandは、’41年の作品で、クラシック、ポップスのジャンル関係なく、自分自身に正直な創作活動を行った作曲家、アレック・ワイルダーと、40年間に渡ってコンビを組んだ作詞家、ウィリアム・エングヴィックの作品です。ワイルダーは、ボストンの銀行家の御曹司でありながら、ビジネスでなく、音楽の道に進みました。変人だらけのNY文化人の中でも、傑出した変人として知られ、一生独身、ごく少数の友人とだけ付き合い、ミッドタウンの文人宿アルゴンキン・ホテルに住み、気ままな汽車の旅や、マリアン・マクパートランド(p)達ジャズ・プレイヤーの『瞬間的作曲』を愛した。

 変人に魅かれる私は、Aワイルダーに関する色んな本を読んだ…面白いエピソードがいっぱいあるのだけど、ザッツ・アナザー・ストーリー…
   Aワイルダー存命中は、殆ど彼のためだけに作詞をしたエングヴィックですから、彼の付けた歌詞を読むと、この曲の一体どこに魅力があるのかが納得できます。倒置法を使って判りやすく作った詞はこんなにシンプルで神秘的…ゴシック!エドガー・アラン・ポーのアナベル・リーか?こんな詞です。
 

“Moon and Sand” — William Engvick詞
Deep is the midnight sea,
Warm is the fragrant night,
Sweet are you lips to me,
Soft as the moon and sand.
Oh, when shall we meet again
When the night has left us ?
Will the spell remain?
The waves invade the shore
Though we may kiss no more
Night is at our command
Moon and sand
And the magic of love.

真夜中の海深く、
薫る砂浜温かく、
重なる君の唇は甘い、
その柔らかさは、
まるで今宵の月と砂。
いつまた逢えるだろう?
夜が去っても、
この夢の恋は残っているのか?
浜辺に打ち寄せる満ち潮、
最後の口づけでも、
夜は僕達のもの、
月も砂も
この恋の魔法も。

 魔力に満ちた満月の下、砂浜で愛を交わす恋人達は幻か? 柔らかな肌のぬくもりと、潮の香り…、静寂の中、大潮は無情にも、愛の砂浜を刻一刻と波の下に沈めていく…東の空が白み月が消える時、幻想の恋人達も海の底に沈んでいるのだろうか…
 terai_moon_sand.JPG  この曲の本当のよさは、夜の情景が、潮の満干と共に変化する”うねり”のマジックにあります。寺井尚之は、”ヴァンプ(Vamp)”と呼ばれる間奏フレーズを巧みに使い、コーラス毎に情景を変えていく。ラストテーマのターンバックで、いかにも切ない音色を出して、一夜の終わりを予感させます。
  腕の覚えのあるプレイヤーから、単にボサノバとして歌いたいだけの歌手に至るまで、色々聴いてみたけど、The Mainstemのヴァージョンは出色! ぜひOverSeasで聴いてみて欲しい。
 ’50、バリトンの貴公子として人気を博したアラン・デイルのヴァージョンは、エド・ウッドのホラー映画を思わせるレトロな出来栄えだけど、ちょっとなあ… やはり、Moon and Sandは、デトロイト・バップ・ロマン派の寺井尚之で聴きたい!こういう愛の題材は、光源氏の昔から日本人の得意なのだ!

夏の夜は まだ宵ながらあけぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ
 (清原深養父 :きよはらのふかやぶ  小倉百人一首)

(夏の夜は、まだ宵のうちと思っている間にもう明けてしまった。
月はまだ、西の山の端まで行きつくことは出来ぬだろうに、
一体雲のどのあたりに宿っているのだろう…)

CU
(このエントリーは、2010 8/16 歌詞について加筆修正しました。 Interlude)

ギンギンギラギラ…ボビー・ダーハム(ds)追悼

RIP_durham.jpgBobby Durham(1937-2008)
 7月7日未明、イタリアのジェノバでドラマー、ボビー・ダーハムが亡くなった。享年71歳。肺がんと肺気腫であったとのことです。
 
 4月からジャズ講座で毎月、彼の鮮やかなドラムを聴いていて、より身近に感じていた矢先の死去でした。
    エラ・フィッツジェラルド、モントルー'75 
 講座で聴いて来たボビー・ダーハム参加アルバムは凄いのが一杯!左から”トーキョー・リサイタル” ”エラ・フィッツジェラルド、モントルー’75″…
<ニッポンイチ!>
 寺井が雪の京都で初めてトミー・フラナガンに弟子入り志願した’75年、エラ・フィッツジェラルドと来日したフラナガン・トリオのドラマーが、このダーハムだった。寺井尚之は、先日のジャズ講座で、京都会館の控え室に入ってきたボビー・ダーハムの印象を、こんな風に語っている。
 「暴走族の兄ちゃんが、ヤクザの組事務所に行って、正真正銘のほんまもんの極道に初めてメンチ切られた感じ。ダーハムは、オスカー・ピーターソン・トリオですでに名を成してはったし、とにかく物凄いオーラがあった…」
  そのステージのトリオ演奏は、“前座”には程遠い圧倒的にハードな演奏だった! 私は某氏の秘蔵する音質の悪いテープで聴いたのですが、演奏に負けないほどソリッドだったのは満員のお客さんの反応! …涙が出た。
 まるで、背番号だけで、全選手を熟知するヤンキー・スタジアムか熱闘甲子園… 
 近畿一円からプロのバンドマン達も沢山来ているから、手拍子もズレないし、口笛だって最高のタイミングで入るんです。
  Caravanのドラムソロでボビー・ダーハムがクライマックスに達した瞬間、すかさず大向こうから「日本一!」の掛け声がかかる!多分ダーハムは、その意味は知らないはずなのに、ハイハットの二段打ちを炸裂させて、大見得を切った。
 ストレイホーンのAll Day LongからOleoまで… 天から何かが降りて来たような状態で、エラが登場するまでに、もの凄いことになっていた… 
 この夜に、寺井尚之も、客席にいた未来の鉄人、中嶋明彦(b)さんも、一生プロでやって行こうと思ったそうです。
  私自身、JATPやオスカー・ピーターソン3で何度かボビー・ダーハムのステージを観ました。個人的には会ったことはないけど、寺井の印象はよく判る。アーサー・テイラー(ds)がサムライであり『剣豪』であるならば、ボビー・ダーハムは、無頼であり『人斬り』だ。腕はめっぽう立つし、自分の持ち場を心得て、緩急自在のツボにはまったプレイだけど、シズルの付いたシンバルもギラギラで「今宵の虎轍(こてつ)は血に飢えた」風情、絶対カタギじゃない! だからこそカッコよくて堪らないドラマーだったんです。
<かつてドラマーはダンサーだった。>
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 ダーハムは’37年、フィリー・ジョー・ジョーンズやヒース・ブラザーズを輩出したフィラデルフィア生まれ。両親も叔父もタップ・ダンサーの家系に生まれ、よちよち歩きの2歳から、母にタップと歌を習う。トロンボーンやヴァイブラフォン、ベースなど、色んな楽器を習得した上で、ドラマーの道を選びました。
 デューク・エリントン楽団のハーレム時代の花形ドラマー、ソニー・グリアーや、ドラム・ソロが、そのままダンスだったエディ・ロック…タキシード姿でも、ドラム・スツールに座るとボロボロのダンス・シューズに履き替えたパパ・ジョー・ジョーンズ… ’昔はダンサー出身のドラマーが多かった。“華”のあるドラムとダンスには、秘密の関係があるに違いない。
  ダーハムの名前を一躍有名にしたのは、何と言ってもオスカー・ピーターソン(p)トリオです。エド・シグペン(ds)の後、断続的に’66~ ’71まで在籍、モンティ・アレキサンダー(p)とも名トリオを組んだ。エラとフラナガンは言うまでもないけど、元々R & B畑のダーハムはジャズだけでなく、ジェイムズ・ブラウン、マーヴィン・ゲイやレイ・チャールズ、そしてフランク・シナトラとも録音しているらしい。具体的にどのアルバムなのか、知っていたら教えてください。
<コワモテ>
  ステージでみせた「カタギでないかっこよさ」そのままに、ボビー・ダーハムは、なかなか難しい人であったらしい。アル中と噂され、トミー・フラナガンが独立後も、ボビー・ダーハムとは断続的に共演しているけど、ギグに遅刻することも、たびたびあったらしい。
Village_Voice_ad.jpg 私のスクラップfrom the Appleから:’89年のヴォイス誌のad.
 寺井尚之の友人、チャック・レッド(ドラマー、ヴァイブ奏者)が、その昔、NYにトミー・フラナガン3を聴きに行った時のこと。ドラムのダーハムがヴィレッジ・ヴァンガードの演奏時間になっても現れない。それで、フラナガンは客席にいたチャックに急遽代役を頼んだ。ラッキー・ガイ!チャックは、憧れのトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツと、天にも昇る心地でプレイしていたのですが、1セット目が終わる頃に、酔っ払ったボビー・ダーハムが現れた。
 ダーハムは、チャックに穴埋めの礼を言うどころか、物凄い剣幕で「おまえ何やってんだ。さっさとどけよ!」とドヤしつけたらしい。だからってチャックは、ダーハムを恨んだりする人じゃないんだけど、怖かっただろうな…
 <人格者オスカー・ピーターソンの証言>
Oscar-Peterson.jpgオスカー・ピーターソン時代に弾丸スピードで“Daahoud”を演っている圧巻の動画発見。ベースはレイ・ブラウン
 UKの高級新聞、「インデペンデント」誌にスティーヴ・ヴォースが寄稿した追悼記事には、ピーターソンの興味深い証言が載っている。
 オスカー・ピーターソン: ボビーは、初参加した時でも、まるで何年も一緒に演っているように感じた。他のプレイヤーなら、譜面に予め書いておかないと判らないような細かいところまで見越して叩いたからだ。
 私がボビーに付けたニックネームは“Thug(殺し屋)”だ。フィラデルフィアでも、一番物騒な土地の出身で、昔ボクシングで鳴らしたを荒くれ男だったからね。
 ダーハムは、トリオのベーシスト、サム・ジョーンズと仲が良かったんだが、スイスのツアー中、列車の中で大喧嘩をやらかした。サムは長身でダーハムは小柄なのだが、サムに乱暴しようとしたんだよ。ボビーは後から、ノッポを殴り倒す極意を、とうとうと講義していたよ…
OscarPeterson_HelloHerbie.jpg一番左がダーハム、右端がサム・ジョーンズです。ダーハムは背伸びしているみたい…
 
 <あのデュークがクビにした…>
   ピーターソンがボビー・ダーハムを気に入ったのは、エリントン楽団の複雑なアンサンブルで、いとも易々と華のある演奏をしていたからだったと言いますが、ダーハムは、メンバーを解雇しないことで知られる名君主、デューク・エリントンからクビにされた数少ないミュージシャンの一人でもあります。(もう一人は、ベーシスト、チャーリー・ミンガスらしいです…)
 息子のマーサー・エリントンの証言によると、解雇の原因は、生意気で、デュークの言う事を聞かなかったからだった。
 ところが皮肉にも、「2週間後解雇の通告」を受けてからのダーハムのプレイは、あっさりトゲが取れて、エリントン楽団にぴったりのリラックスしたものになっていた…「なんだ、最初からこう演ってくれればいいのに!」ということになり、解雇の撤回を決定した時には、すでにオスカー・ピーターソン・トリオへの移籍が決まっていたんです… 
   プライドが高くて喧嘩っ早いけれど、超一流の腕があったダーハムには、一匹狼の板前みたいに、いくらでも職場があった。ピーターソン・トリオを退団後、即、当時売り出し中の若手だったモンティ・アレキサンダーとトリオを組み、何枚も名盤を録音、その後、エラ・フィッツジェラルドのバックに参入した。
   フラナガンがエラのトリオから独立した後も、ダーハムはノーマン・グランツに可愛がられ、世界中のジャズフェスティバルに出演、特にヨーロッパで人気を博しました。
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 晩年のダーハムはスイスと、イタリアに住居を持ち、地元ミュージシャンと活動を続けていた。亡くなったジェノヴァの小さな村、イーゾラ・デル・カントーネでは、ここ数年間『ボビー・ダーハム・ジャズフェスティバル』というイベントが開かれ、ダーハムが亡くなる数日前にも開催されていた。
  気難しいヤクザな名ドラマー、ボビー・ダーハムも、自分の天才を判ってくれる人達には、聖人のようにとことん良くした人だったのではないだろうか?と、私は思う。 
 晩年すごしたイタリアの村では、一肌も二肌も脱いで、アメリカのミュージシャンを呼び、村起こしに貢献したのではないだろうか?
 今後のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルド、トミー・フラナガン3のライブ盤 <Montreux ’77 >や、 来月は、Eddie “Lockjaw” Davisのワン・ホーン作品 -< Straight Ahead>などでボビー・ダーハムのプレイを偲ぶことが出来ます。
 合掌

コールマン・ホーキンスの話をしよう!(2)

colemanhawkins_by_terry_crier.jpg 撮影:Terry Cryer
<ホーク、ヨーロッパに行く>
 10代でテナーの実力者と称えられたコールマン・ホーキンスは、20歳で名バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板奏者となり、実力、名声、そしてお金を手にします。楽団の人気を分けたルイ・アームストロングは僅か2年で独立したけれど、ホークは約10年勤続、その間、スターに相応しいファッションや高級車にはお金を使っても、無駄使いは決してしなかった。

クライスラー・インペリアル’32型:友人になだめられロールス・ロイスを諦めて、こんなのを即金で買ったらしい…
 当時、コールマン・ホーキンスが自分を磨くために心がけていたことが一つあります。
  どこに楽旅しても、必ず「その地元の音楽を聴くこと。」
 トップ・プレイヤーでありながら、常に新しいアイデアを取り入れようとしていたんですね!グローバル化されていない世界には、色んな地方に、斬新なアイデアや奏法が、ダイヤの原石の様にゴロゴロころがっていた。ホークは色んな場所で見つけたアイデアに磨きをかけ、自分のものにしたのです。
 「いつか耳にしたものが、気づかないうちに、自分の中のどこかに留まっていて、忘れていても、ひょっこりと顔を出す。」と述懐しています。彼が受けた影響の内、最も顕著なのは先週書いたように、アート・テイタムだった。
  やがてジャズとギャングのビッグ・タイムだった禁酒法時代が終わり、大恐慌がやって来た。楽団の凋落ぶりに失望したホーキンスは、30歳で一路ヨーロッパに向かいます。(’34)
ColemanHawkins.jpg新天地で彼を待っていたのは、一流音楽家に相応しい厚遇でした。ヨーロッパには黒人差別も区別もなかった。むしろ、肌の黒い人達は、エキゾチックで優美な美の象徴だったのです。
 トップ・プレイヤーのプライドを持つ彼が要求したギャラに、ヨーロッパ人は驚いた。…安すぎたんです。ロンドン、パリ、ブリュッセル、どこに行っても、大歓迎を受けました。
 サロンで催されるお昼のティーパーティなら、たった3曲演奏するだけ! 後は、バカラ・ルームで最高級のコニャックが飲み放題! 故国では、どんな豪華なボールルームで仕事をしようとも、どれほど一流でも、黒人は調理場でしか飲食は許されません。白人専用ホテルに宿泊なんてとんでもないことだった。ヨーロッパでは、そんな差別はない。彼は上流階級のエレガンスを吸収し、シックな服やクラシックの譜面を買い漁り、ロンドンを本拠にして、ステファン・グラッペリ(vln)やジャンゴ・ラインハルト(g)達とツアーもしました。
 「人種差別はないが、音楽的にインスパイアされない」と、ロンドンから早めに帰国したベニー・カーターに比べ、ホーキンスは、ヨーロッパの水が合ったのかもしれない。
BennyCarter.jpg ベニー・カーターは今月12日(土)のジャズ講座に!
<Body & Soul>
 ホークのヨーロッパ生活は五年で幕を閉じました。民族主義、ヒトラーの台頭で、黒人は、もはやドイツ国境を越える許可が下りなくなったのです。あれほど厚遇してくれた新天地に失望したホークは、’39年に合衆国に帰国。ヨーロッパで成功したアーティストとして、意外なほどの歓迎を受けましたが、トップの地位は、レスター・ヤングに変わっていた…ホーキンス35才のことです。
 普通なら、音楽家としての発展はこれで一巻の終わりとなってもおかしくないんだけど、ホーキンスは非凡で運も味方した。帰国した年に、スタジオのレンタル時間が余っていたので、クラブ出演のアンコールとして愛奏していたバラードを録音してみただけの<Body & Soul>が大ヒット!
 これを聴いたジミー・ヒース(ts)は、「これこそがサックス奏者のメロディ解釈の手本!」と実感したと言っています。後に、その印象を元にして<The Voice of the Saxophone>という名曲を書きました。ヒース・ブラザーズの『In Motion』というアルバムに入っているし、寺井尚之のレパートリーでもあります。
 テイタムのプレイをサックスに取り込んだ和声の展開法が、間接的にビバップの誕生を促し、ホーク自ら進んでビバップに身を投じた。
<ビバップ>
 ビバップの聖地52丁目のクラブ<ケリーズ・ステイブル>を根城にしたホークは、セロニアス・モンク(p)、マイルス・デイヴィス(tp)、オスカー・ペティフォード(b)など革新的な若手をどんどん起用。「まともなピアノを雇え!」とモンクに物議をかもしても、ビバップの革新性を理解するホーキンスは意に介さなかった。マイルス・デイヴィスの良さをいち早く看破したのも実はホーキンスだった。ディジー・ガレスピー、J.J.ジョンソン、ハワード・マギーといったバッパー達とどんどん共演し、モダン・ミュージックをバリバリ吹きまくるのです。
 チャーリー・パーカーに影響を与え、BeBopの元になったのはレスター・ヤングというのが定説ですが、「もしホークが、アート・テイタムを聴かなかったら…、もしホークがヨーロッパから帰ってこなかったらBeBopという音楽は全く別物になっていただろう」と言うミュージシャンは多い。
<After Paris>
 ’50sに入ると、ロイ・エルドリッジ(tp)との双頭バンドやJATPで活躍しながら、アルコールが災いし「下降期」に入ったと、批評家達は言うけど、本当にそうだったのでしょうか?
 ’60年代、コールマン・ホーキンス・カルテットの一番手のピアニストだったトミー・フラナガン、二番手のサー・ローランド・ハナ…レギュラー・ベーシストのメジャー・ホリー、最後を看取ったエディ・ロック(ds)、晩年のホークを慕うミュージシャンは批評家達には賛成しない。
 ホークは、第一人者であったのに、新しい音楽に心を開き続け、自分の演奏する姿を見せることによって、後輩達に立派なミュージシャンの姿を示したと口を揃えて言うのです。
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 60年代後半からは、アルコール依存症で内臓をやられ、レスター・ヤングがそうだったように、食事が摂れず痩せこけ、やつれを隠す為に口髭を生やした。思えばトミーもハナさんも、晩年は口髭を蓄えてたなあ…パノニカ夫人は独り暮らしのホークを気遣って、体調が悪くなったらすぐ電話できるよう、彼のアパートの至る所に電話を備え付けたと言います。
 
「その頃のホークは本当にアル中だったの?」とダイアナに尋ねたら、彼女は即座にこう切り返した。
「タマエ、歴史上のジャズの巨匠で、アル中でない人はいる?いたら言ってみなさい!」
ハナ+ムラーツの24のプレリュード ハナさんがホークに捧げた作品“After Paris”は、自宅の壁に掲げたパリの地図を懐かしそうに眺めていた最晩年のホークのイメージ。
  最晩年、コールマン・ホーキンスは、体調を押してヨーロッパにツアーし、ヴィレッジ・ヴァンガードに定期的に出演したが’68年になるとさすがに仕事を控えた。それでも、サド・メルOrch.のライブはしっかり客席で見守っていたそうです。母親が96歳で天寿を全うした4ヵ月後、ホークは巨木が朽ちるように’69年5月に静かに亡くなりました。享年64歳。葬儀には、NY中のありとあらゆるミュージシャンが駆けつけたと言います。
 BeBopの土壌を耕し、フラナガン達のミュージシャン・シップを育てたテナーの父、コールマン・ホーキンス。ぜひ、『At Ease』や、『No Strings』『Good Old Broadway』を聴いて見て欲しい。トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナがホークに見た「父親像」は、この二人のピアニストが身をもって寺井尚之に見せてくれた姿でもあったんです。
tommy_terai_1999.jpg  口髭を蓄えたトミー、’99 OverSeasにて。
  コールマン・ホーキンスをもっと知りたければ、講座本第5巻を一度読んでみてください!
CU

コールマン・ホーキンスの話をしよう!(1)

coleman_hawkins_1.jpgコールマン・ホーキンス(1904-69)
  コールマン・ホーキンスの名演は、ジャズ講座で大反響を呼びました。
それを言い換えれば、私たちには当たり前のコールマン・ホーキンスの素晴らしさが、忘れられつつある証拠なのかも知れない。
 今、このブログを訪問して下さっているあなたが、最近ジャズに興味を持ったのなら、「ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンなら知ってるけど、ホーキンスて誰やねん?」と思っても、ちっとも不思議じゃない。
 だけど、ソニー・ロリンズだって、少年の頃は、サイン欲しさに、ホークの家の前で、毎日待ち伏せしてたんですよ。
 この間、お店で新じゃがをボイルしながらダイアナ・フラナガン未亡人と電話でおしゃべりしていたら、’60年代に友人に連れられてホークのアパートに何度か行ったことがあると自慢していました。
ダイアナ: 「まだトミーと親しくなる前のことだった。コールマンは、“パークウエスト・ヴィレッジ”という、当時新しく出来た高層アパートに住んでいてね、窓からセントラルパークが一望できる部屋に暮らしていた。だいたいは独りでね。家にはピアノがあって、クラシックのLPのコレクションが凄かった。」
珠:あなたから見て、コールマンはどんな人だったの?
 ダイアナ:「正に巨匠(a great master)って感じ。容易に人を寄せ付けないオーラがあって、誰にでも気さくというタイプじゃない。だけど、とっても優しい人だってことは、よく判るのよね。
 無口だけど、何か自分の意見を言うときはズバっと言った。当たり障りのないものの言い方をしない人よ。でも、奥の深い言葉だった。トミーはコールマンが大好きだったけど、別にトミーだけじゃないわ、ジャズマンなら、誰だってコールマンのことは大好きだったのよ!」
 近寄りがたいオーラがあって、優しくって、奥の深いことをズバっと言う巨匠?ダイアナ、それじゃあトミーと同じじゃないの!
 だから、ちょっとホークの話をしてみよう。
<テナーサックスの父>
 “Hawk”や“Bean”という愛称で親しまれたコールマン・ホーキンス(1904 – 1969)は、日本なら明治37年生まれの辰年で、カウント・ベイシー(p)やファッツ・ウォーラー(p)が同い年。シュール・レアリズムの鬼才、サルヴァトーレ・ダリとか、名優、笠智衆、「歌謡界の父」古賀政男もこの年に生まれた。
 ホーキンスには、“テナーサックスの父”という名前もある。
   というのも、この楽器は19世紀中ごろにベルギーのアドルフ・サックスによって発明されたのだけど、ブーブーと変てこりんな音を出す『三枚目役』専門だった。幅広のマウスピースと、堅いリードを用い、重厚な音色を開発して、音楽史上初めて、テナーサックスを、シリアスな主役を張れる『二枚目』に仕立て上げたのがコールマン・ホーキンスだからなんです。
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 コールマン・ホーキンスの写真を見ると、今では過去の遺物かも知れない『父』の風格が漂う。家の中で、一番偉くて、恐くて、頼り甲斐があって、信念に溢れる家長の姿だ。
 普通『父』は、子孫を沢山作ると、『爺さん』になり、お役目御免となるのが常ですが、ホークは違った。自分の蒔いた種から育った子孫と共に、更に音楽を開拓したんです。
   トミー・フラナガンは郵便配達夫であった父について、「ちゃんと労働をし、家庭を守り、人間としてやるべきことをきちんと子供達に教えた人」と言っていた。フラナガンのホーキンスに対する敬愛の念は、このお父さんの印象とオーバーラップする。
   スタジオ入りしてからレコード会社が決めた曲目のメモと市販の譜面だけを頼りに、その場でどんどんアレンジして、後世の私達を魅了する名盤を数多く録音した巨匠…フラナガンにとっては「音楽家としてやるべきことを、きちんと教えてくれた」音楽の父ではなかったろうか?
 コールマン・ホーキンス、どんな生い立ちだったんだろう?
 <ミズーリの天才少年>
 コールマン・ホーキンスの生地は、ミズーリ州のセント・ジョセフという町で、音楽家の母と、電気工事作業員の父の間に生まれた一人息子、大事にされました。
 西部劇でジェシー・ジェームズという銀行強盗を見たことがありますか? ブラット・ピットも演じたアメリカン・ヒーローです。彼が、賞金稼ぎと撃ち合いの末、壮絶な死を遂げた町がセント・ジョセフ。ホーキンスが、銀行を信頼せず、長年、全財産をポケットに入れ持ち歩いたのは、そのせいなのかも…。
 コールマンは5歳からチェロとピアノをみっちり稽古し、9歳の時に、たまたまプレゼントにもらったCメロディのサックスが気に入って独学で習得してしまった。
 つまり10才かそこらで、譜面が完璧に読め、ピアノもチェロもサックスも演奏できた! 即戦力!子供のときから、劇場のオーケストラに駆り出され仕事をしていた。
 後に、多くのミュージシャン達が、彼のピアノやチェロが、プロ並の腕前だったと証言している。サー・ローランド・ハナが、チェロで活動していたのも、ホーキンスの影響に違いない!
<一流ヴォードヴィルから一流楽団へ!>
 それは、ラジオすらない時代、庶民の娯楽として大人気だったのが、旅回りのヴォードヴィル・ショー。ダンスや歌、お芝居に手品やアクロバット、何でもありのヴァラエティ劇団で、サーカスみたいに巡業します。黒人のヴォードヴィルで最も人気を博していたのが、『マミー・スミス&ジャズハウンズ』という一座でした。
   12歳になると、女座長マミー・スミスさんが、ホーキンス少年のサックスの腕を見込んでスカウトにやって来ます。彼は体が大きかったので、そんな子供とは知らなかったんだって。さっき書いたように、サックスは、サーカスや、ヴォードヴィルのような演芸には重宝されたんです。
mamie_smith_jazz_hounds.jpg “マミー・スミス&ジャズハウンズ”真ん中の女性がマミー・スミスで右がホーク、左から二人目のトランペット奏者が後にエリントン楽団のスターとなった、ババ・マイリーです。
 息子を音楽学校に通わせて、立派なチェリストにしたいと思っていたお母さんは断固断り、黒人でもちゃんと教育が受けられる大都会シカゴへ息子を送り出した。その後、カンサス州都トペカのハイスクールに進学、トペカから車で1時間ほど飛ばすと、そこはジャズのメッカ、享楽の都カンサス・シティ!内地留学は、檻の中のライオンをジャングルに放つような結果となった。コールマン少年は、ルイ・アームストロングやキング・オリヴァー達がニューオリンズから持ってきたジャズのエッセンスを吸収し、どんどん実力を高める。カンサス・シティでは大学まで行ったと言われていますが、本当のところは判りません。演奏に忙しく、学費はあっても、そんな暇なかったじゃないかしら?
 18歳になると、青田刈りされていたマミー・スミスの人気一座に入り、たちまち高給取りとなります。
fletcher_henderson.jpg フレッチャー・ヘンダーソン楽団(’24) 左から2番目がコールマン・ホーキンス、3番目がルイ・アームストロング、真ん中で腰掛けているのがフレッチャー・ヘンダーソン。アメリカの人気ジャズサイト:Jerry Jazz Musician.comより。
   20歳になると、メジャーに移籍! 当時、エリントンと人気を競い合ったフレッチャー・ヘンダーソン楽団に入り、更に給料が上がった。サックスを手にして僅か10年、この楽団で、ホーキンスは豪快なテナーの音色を開発し、NYに進出、ハーレムのキングの一人になったのです。
 この楽団でオハイオに旅した時に、あのアート・テイタム(p)を聴いた事は、ホーキンス自身だけでなく、それ以降のジャズの変遷を決定付ける運命的なものになります。 ホーキンスは、テイタムのハーモニー感覚とバーラインを超えたフレージングをテナーのプレイに取り込んで、新境地を開拓したのです。その革命的なスタイルが、後にビバップが芽吹く土壌を作ったと、多くのミュージシャンは言う。
<好敵手登場!>
 ホーキンスをテナーサックスの東の正横綱とするなら、西の横綱はレスター・ヤング! 性格も、演奏スタイルも、ファッション感覚も、何もかも対照的なレスター・ヤングはホークより5才年下で、何につけてもホークと比較され、辛酸をなめた。メディアは二人を「仇同志」にしたがるけど、実際はそうではなかったらしい。
 
 レスター・ヤング(1909-59)
   カッティング・コンテストと呼ばれるジャムセッションの勝負が盛んに行われたカンザス・シティで、夜明けから昼過ぎまで、二人が死闘を繰り広げ、結局レスターに軍配が上がったという伝説のセッションは、後に映画になったけど、真偽はよく判ない。タイムスリップできるなら、自分の耳で確かめたい!
 文字通り相撲の横綱のように、20代前半に頂点に上り詰めたコールマン・ホーキンス、続きはまた来週! 
 最後にこの映像をぜひ観て欲しい。1945年のミステリー映画「クリムゾン・カナリー」という日本未公開のミステリー映画の一シーンです。撮影用ですが、オスカー・ペティフォード(b)、デンジル・ベスト(ds)、ハワード・マギー(tp)、サー・チャールズ・トンプソン(p)という顔ぶれの中でブロウするホーク!テナーサックスの父でありながら、若手に引けをとらないモダンなかっこよさ!バリバリのバッパーです。

CU!