『”King”たるもの徳ありて』 ベニー・カーターの誕生日に…(1907-2003)

  先月のジャズ講座に、ベニー・カーター(as)の名盤、『The King』が登場してから、沢山の人たちがベニー・カーターに魅了されている。
8月8日はベニー・カーターの誕生日だ!

   今週末には、ジャズ講座で、再びディジー・ガレスピー(tp)との大物共演盤『Carter-Gillespie Inc』が聴けます。”

 『King』というニックネームは、その昔、一世代上の大王様、ルイ・アームストロングの発言に由来していますが、’70年代、何度かコンサートで観たベニー・カーターの姿は、正に『King』に相応しいものでした!

   スティックを空中高く放リ投げてフィニッシュするソニー・ペイン(ds)や、ハイノートをヒットすると、顔が台形になるキャット・アンダーソン(tp)、昭和天皇を想起させるジョージ・デュヴィヴィエ(b)…空前絶後的な名手を揃えたベニー・カーター・オールスターズを従え、すくっと立つベニー・カーター、上等そうなグレンチェックのブレザーにブルーのワイシャツが褐色の肌に映える。
 
 黄金色のアルトの先には、象牙色に輝くマウスピース!カーターが吹くと、最高のコニャックを使ったカクテルのように甘い芳香が満ちた。スイング感、ソロの長さ、フィル・イン、音量、テンポ…何もかもちょうどいい! 聴衆の心が躍り、足がダンスする!ベニー・カーターから発する光はスポットライト?それとも後光だったのか…
 
 ’20年代に、King of Jazzとして一世を風靡した白人バンドリーダー、ポール・ホワイトマン…豪華絢爛なステージ!でもどちらかといえば「王」というより、むしろ、小太りでチョビひげの「社長」というイメージだ。

  昨年、ディック・カッツさんのベニー・カーターについての談話を書きましたが、巨匠達が、ベニー・カーターと共演したことを、ちょっと自慢げに話す様子は、「かわいい」とさえ感じます。
 ’80年代に、トミー・フラナガンが、カーネギー・ホールでベニー・カーターのスペシャル・プログラムへの出演を依頼された時も、ダイアナと二人で「名誉なことだ!」と喜んでました。他のどんなスターと共演したって、トミーが名誉(honor)と言ったのは、後にも先にもこれだけです。。

 
 ベニー・カーター、80年間に渡る『King』の長い航路を、ちょっと観て見よう!

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<王様は下町っ子だった>

 ベニー・カーターこと、ベネット・レスター・カーターは、1907年(明治40年)8月8日、NYのサン・フアン・ヒルという地域に生まれた。丁度、現在のリンカーンセンターのある辺りで、昔は黒人の住宅街でした。リンカーンセンターなどのリンカーン・スクエア建設に伴い、消滅した幻の町です。(懐かしい当時の街の様子は、NYタイムズのヴィデオで見ることが出来ます。英語がよく判らなくても映像だけで楽しい!)  
 
 ババ・マイリーはプランジャー・ミュートの神様だった。(1903-32)

  ベニー少年は幼い頃、サックスではなくトランペットに憧れた。20世紀初頭にクリフォード・ブラウンの様なプレイをしていたという伝説的トランペット奏者キューバン・ベネットが従兄弟だし、デューク・エリントン楽団の花形トランペッター、ババ・マイリーは、近所のお兄ちゃんだったのだ。それで、ベニー少年も、何ヶ月か小遣いを貯めて質屋でトランペットを買ったものの、3日経っても、モノにならず、あっさり、C-メロディのサックスと交換してしまう。こっちは3日で習得できたのか、殆ど独学のまま、15歳にはプロとして稼いでいた。
 ベニー・カーターは、サックスも、後に習得したペットも作編曲も全て独学、色んな人の演奏に耳を傾け、腕を磨いたのだ言いますが、人のプレイをコピーしたのは、13歳の時で、ただ一曲しかないそうです…

<若くして王になる>

 
  1928年に初レコーディング、同年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍して、メジャーになります。新加入のカーターが手がけたアレンジは、時代を先取りした斬新さがあった。楽団がバンドリーダー不在となった期間、ベテラン揃いの団員からリーダーに選出されたのはカーターだった。若干21歳のことです。

   1931年には、デトロイトを本拠に活躍した名楽団マッキニー・コットン・ピッカーズ(トミー・フラナガンの子供時代に大好きだった楽団です。)の音楽監督に就任。トランペットでも録音しており、アルトに勝るとも劣らない名演を残す。ベニー・カーターのペットはアルトサックスと同じで、メロウな甘い音色です。また、アレンジャーとしては、一曲あたり25$が相場だった編曲料の4倍の金額を取っていました。
 
   ベニー・カーターの公式サイトで、カーターの研究者、エド・バーガーはベニー・カーターの特質は、常に全体を考える編曲者でありながら、ソロイストとして即興演奏の醍醐味を失わない点にあると述べています。

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ベン・ウェブスター と  翌’32年、自己の楽団を設立、テディ・ウイルソン(p)、シド・カトレット(ds)など、後のスイング時代のスターを多く起用したものの、時代を先行する芸術の例に漏れず、経済的な理由から、楽団は1934年に解散の憂き目に会います。  <王様ヨーロッパへ>  自己楽団に失敗したカーターは、レナード・フェザーの勧めもあり、1935年、BBC放送の音楽監督として渡欧、フランス、オランダ、北欧などヨーロッパ各国を楽旅し絶賛される。    人種差別がなく、アーティストとして厚遇を受けますがが、音楽的な欲求不満を感じ、3年後に帰国する。すると、ビッグバンドのトレンドは、ちょうど渡米前の自己楽団のスタイルだった。自己バンドを率いて演奏する傍ら、エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、トミー・ドーシーなど多くの楽団にアレンジを提供し、人気ラジオ番組の編曲など、どんどん仕事を続ける。

   ビバップ革命前夜の1941年頃、カーターが率いたスモール・コンボのフロントは、ディジー・ガレスピー(tp)、ジミー・ハミルトン(cl)で、ガレスピーの代表作、当店でも大人気の演目“チュニジアの夜”は実はこの時期に書かれた曲です。当時はInterludeというタイトルでした。カーターは、その頃、J.J.ジョンソン、マックス・ローチなど、後のビバップ創設者達を盛んに起用していて、すでに次の時代を予見していたんですね。

 <王様ハリウッドへ>

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 戦争中、楽団でダンスホールを巡業するという、これまでのビジネス形態が行き詰った時代、ベニー・カーターは単身ハリウッドへ。映画音楽の世界に飛び込みます。後にJ.J.ジョンソンも同じような転身をしましたが、カーターを見習ったのかも知れません。

 ”Stormy Weather”(’43)を手始めに、ありとあらゆる映画、TV音楽を手がけました。ベニー・カーターとクレジットされていない映画にも、作編曲、演奏、多岐に渡って関わっている作品が沢山あるようです。同時に、音楽スタジオでは、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、レイ・チャールズ、ルー・レヴィーなど、彼がアレンジを手がけた人気歌手を挙げればキリがない。
 ハリウッドの映画音楽の世界で人種の壁を初めて破ったのがベニー・カーターです。だから、黒人映画関係者の「名声の殿堂」入りもしているんです。代表作には、『キリマンジャロの雪』、『キー・ラーゴ』、TVなら『シカゴ特捜隊M』などが有名です。

 映画人となったカーターですが、JATPなど様々なコンサート活動は継続、ベニー・カーター・オールスターズを率い、何度も来日公演を行った。おかげで、私達も何度か素晴らしいコンサートを拝めたんです。

<王様、教授になる>

 ’70年代に入ると、ベニー・カーターが現場で培った深い教養と品格ゆえに、大学へと引っ張り出されます。歴史の生き証人、カーターの人間性にすっかり心酔した名門プリンストン大のエド・バーガーの要請で、カーターはエリート学生を前に講演やキャンパス・コンサートを頻繁に行い、プリンストン大名誉博士号取得、ハーバード大でも各員講演を行いました。国務省の依頼で’75年には国務省の親善使節として中東諸国を歴訪。ジャズ講座で現在聴いているベニー・カーターのアルバム群は、映画のキャリアが一段落し、好きなジャズの仕事を選んで行っていた時期のものです。

   1997年の90歳の誕生日には、LAのハリウッド・ボウルと、オスロで相次いでベニー・カーターの誕生日イベントが開催。
 2000年には、クリントン大統領から、米国の文化勲章と言える、The National Medal of Artsを受賞しています。

 <王妃様たち>

   NYタイムスによれば、カーターは5度結婚しているそうです。18歳で最初の結婚をしましたが、三年後に奥さんが肺炎で亡くなりました。その後三度結婚し、最後の奥さんはヒルマ・カーターさんと言う白人の上品な女性です。最初の出会いは’40年で、お互いに惹かれあったそうですが、当時の人種の状況から結婚に踏み切れず、40年の間、社会情勢の変化を待ち、72歳、’79年に結婚し添い遂げたということです。なんとも王様らしい、壮大な物語ですね。
歴代プレズとベニー&ヒルマ・カーター夫妻
 

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 というわけで、殆ど1世紀のベニー・カーターの伝記を駆け足で辿りました。長くてゴメンネ。というのも、情報溢れるネットの世界なのに、日本語でベニー・カーターの生涯について克明にかかれたものがなかったからです。もっと興味のある方は、ラトガース大学からディスコグラフィーや参考文献が、また色んな出版社からカーターの楽譜が出ています。 
 ベニー・カーターの肉声も聞ける公式サイト。

  80年間の長い間、ベニー・カーターは一貫してベニー・カーターであり続けました。王様は、「トレンド」というはかない波に汚されたことは一度もなかったんです。「邪悪」な所が全く見当たらないのに人間味に溢るベニー・カーターの音楽を聴くたび、私は人間の「品格」にというものについて考える。世間ではベニー・カーターを「王」でなく「翁」と呼ぶ人もいるけど、私には、最晩年の姿も、おじいさんには見えなません…
 
 王様、お誕生日おめでとうございます!

CU

「『”King”たるもの徳ありて』 ベニー・カーターの誕生日に…(1907-2003)」への2件のフィードバック

  1. ベニーカーターは名前だけはよく知っていたものの、その演奏にはあまり興味がないままに過していたのですが、ひょんなことから彼の演奏を採録した中古のCDを聴いてその優雅な編曲とジャズのスウィング感を見事に融合させているのに感銘を受け、彼のことをもっと知りたくなってこのサイトを見つけました。
     そしてこれを読んで大納得です。彼はサッチモに匹敵するプレーヤーですね。

  2.  伊理人さま
     ありがとうございました!
     ベニー・カーターさん、私は学生時代に生で何度も観ましたけど、本当に品と楽しさを兼ね備えたミュージシャンで、魅了されました。
     今の日本ジャズ界では全く黙殺されているのが不思議です。本当にサッチモに匹敵しますよね!
     これからもベニー・カーターの音楽を聴き続けてください!!

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