ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(1)

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6月「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ハードバップの味わいがぎゅっと詰まった永遠の愛聴盤『静かなるケニー』登場!濃密なのに、こんなに誰にも愛されるアルバムも珍しい。「完璧」ではありながら、やりすぎない「程のよさ」!粋だ!しかもレーベルは”New Jazz”=つまりプレスティッジですから、このきめ細かく行き届いた名盤はほとんどぶっつけ本番のワン・テイク録りで生まれたということになります。 Kenny Dorham 2.jpg 大都会の「粋」と「憂愁」が漂うKDのトランペットですが、意外にも彼が生まれたのは、NYから遠く離れた西部の大平原でした。彼の幼少時代に聴いた音が、彼のプレイに大きく反映しているといいます。  KDは音楽だけでなく、並外れた文才があり、ミュージシャンの視点から鋭いツッコミを入れるレコード評やエッセイもとてもおもしろい。彼が晩年、晩年(’70)にダウンビート誌に寄稿した自伝的エッセイ”Fragments of Autobiography in Music”には、ビバップやハードバップの中には、彼が幼いころに聴いた大自然の音が取り込まれていると書いてあります。 KDことケニー・ド-ハムの生い立ちをちょっと調べてみることにしました。 この自伝は、現在ではなかなか入手困難、ジャズ評論家の後藤誠氏にコピーを頂いて読むことができました。後藤氏に感謝!

 

<大いなる西部>

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  ケニー・ド-ハムが生まれたのは大正13年=1924年、テキサス州のポスト・オークという土地。街でも村でもなく、土地だった。そこには大きな樫の木が群生し、オールトマンという一家の農場があったので便宜上そう呼ばれていただけ、地図にない地名だった。 『名前の無い場所に住むっていうのがどんなものか想像してみてくれ。』と彼は書いています。20kmほどいくとやっとフェアフィールド市という人里がありますが、その街ですら現在も人口2000人足らずという大西部!両親は農場の小作人で、KDも幼い頃から、白人の農場主の息子たちと一緒に仔馬を乗り回し、家畜の世話や農作業をして育った。そんな彼が最初に親しんだ音楽が自然の音、つまり鳥や動物の声だった。モッキンバード(!)を始め、カラスやキツツキ、夜鷹、ウグイスなどの鳥の声や虫の声、それにコヨーテやガラガラヘビ…それらの生き物の声と、テキサス東部を横断する鉄道の汽笛のハーモニーを楽しんだ。夜汽車の汽笛の哀愁はドーハムの記憶に大きく残っているといいます。そういえば「静かなるケニー」の”Alone Together”にも、そんな静けさと哀愁が漂っていますよね。

<ビバップとヨーデルの不思議な関係> 

 blackcowboys.jpgジャズと出会う前、KDが憧れた音楽家は、夜汽車やヒッチハイクで放浪し、民家に食べ物や一夜の寝床を恵んでもらってはブルーズを歌って聴かせる流れ者(Hobo)、それに農作業をしながら巧みなヨーデルを聴かせるカウボーイ達。 

ケニー・ド-ハムはヨーデルの歌声とビバップのフレーズの関係を、こんな風に語っています。

  「 ヨーデルというのは、カウボーイや農夫が、初期の西部のフォークソング・スタイルで即興演奏をする道具だった。これぞ西部の上流生活!綿摘み農夫がその日の最後の綿を袋に詰め終わったとき、彼がヨーデルを歌うのが聞こえるよ。後になって、チャーリー・パーカーやキャノンボール・アダレイが、ホーンでそんなヨーデルと同じメロディを吹くのを聴いたことがある。 

   カウボーイがひとりぼっちで牧場で作業していると、一日の終わりに歌うヨーデルが聞こえる。仕事を終えて、囲い檻で馬の鞍を外す間、カウボーイはヨーデルを歌うんだ。カウボーイっていうのは、見せたり聞かせたりする芸当を色々持っていて、それらはしっかり仕事と結びついていた。芸はどうやら彼らの生活の一部になっているようだった。」

  KDもそんなカウボーイに倣って、いろんな芸を身につけ、5才の頃には見よう見まねで、ピアノを両手で弾いてみせることが出来たそうです。

<ルイ・アームストロングは大天使に違いない> 

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  人里離れた農場で育ったKDがジャズと出会ったのは12才と遅い。ジャズは、ポストオークから車で一時間ほどの街に住んでいた姉から伝わった。年の離れた姉さんは、やはり音楽の才能があり、ピアノと歌で学費を稼ぎ、結婚してパレスタインという街に住んでいた。その姉が実家に帰ってくると、街で流行する「ジャズ」という音楽のこと、そしてルイ・アームストロングの話をしてくれた。

 姉さんによると、ルイ・アームストロングは本当に素晴らしくて、聖書に出てくる「大天使ガブリエルに違いない。」というので興味が湧いた。 

archangel_gabriel_blowing_trumpet_relief_color_lg.jpg ガブリエルは、神の使いとしてマリアさまに受胎告知した天使で、ラッパを持っていて、神のお告げを伝えるのです。ラジオから流れるルイ・アームストロングのペットも歌も、ガブリエルそのままに神々しいものだと、街で評判だと言うのです。そして姉さんは、まだヨーデルとウエスタンと讃美歌以外に音楽を聴いたことのない弟の将来について予言した。 

 「この子が音楽を聴いて飛んだり跳ねたりするのを見たでしょう!この子は、きっと音楽家になるわ。ルイ・アームストロングみたいな偉大なミュージシャンにね!」 

 同年KDは、ハイスクールで教育を受けるため、親元を離れテキサス、オースティンの親戚の家に下宿し、姉さんが両親を説得してKDにトランペットを買い与え、正式なレッスンを受けることになります。

Clark_Terry_copy1.jpg テキサスはフットボールが盛んな州、アメフトの応援に欠かせないのがチアリーダーとブラスバンド!だからトランペット奏者の層は厚くレベルがとても高かった。全米各地のハイスクール・ブラスバンドの交流も盛んでした。才能のある学生トランペッターがいると、プロのスカウトマンやミュージシャンがゲームにやってきて、青田刈りするということが、フットボール選手だけでなく、応援するブラスバンドの団員にも行われていたのです。なかでも遠く離れたセント・ルイスに、恐ろしくうまい神童が2人いるという噂が鳴り響いてた。それがクラーク・テリーとマイルズ・デイヴィス!

 

  一方、KDのブラバン活動は神童と言えるほどのものではなかった。耳の良いKDは、ラジオで聴いたジャズのメロディーをすぐに吹けてしまうものだから、練習の合間に、ついつい聞き覚えのフレーズを吹いてみる。それが体育会系のバンマスの逆鱗に触れてあえなく登録抹消。KDはさっさとボクシング部に転向し、そこでもなかなかの成績を上げ、同時にジャズに対する興味は衰えず下宿先の納屋で一人練習、化学専攻でウィレイ・カレッジに進学しますが、大学では音楽理論の授業ばかり受け、その頃にはピアノもトランペットも相当な腕前になっていた。

 <ビバップ開拓時代の夜明け> 

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 KDは1942年に徴兵され、陸軍のボクシング・チームに入った。マイルズといい、KDといい、トランペットとボクシングにはなにか密接な関係があるのかもしれません。ボクシングの合間には、同じ隊にいたデューク・エリントン楽団のトロンボーン奏者、ブリット・ウッドマンとジャズ三昧!そんなときに出会ったの音楽がビバップで、KDはこの新しい音楽に夢中になりました。 

 1944年に除隊した後は、ジャズ修行に各地を転々とし、カリフォルニアまで行きますが、自分の求める音楽は西海岸にはなかった。そこで東に進路を変えNYに、翌年、ディジー・ガレスピーの弟子としてガレスピー楽団に入団。ここからKDのハードバップ開拓時代が始まります。(つづく)

 

 

トランペッター人生いろいろ(その2):レッド・ロドニーの七転び八起き

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<I stayed in music and I stayed a junkie>

 レッド・ロドニーはチャーリー・パーカーに共演者として選ばれた白人トランペット奏者。クリント・イーストウッド作品『Bird』の登場人物としてさらに有名になりました。
 見出し(私は音楽界に留まり、ジャンキーであり続けた。)は、ロドニーがチャーリー・パーカー・クインテット以降の自身を語った言葉です。

<フィラデルフィアのユダヤ人ゲットーから>

 red-rodney-20130710050556.jpgロバート・ロドニー・チャドニック)は1927年、ジャズメンを多く輩出したフィラデルフィアのユダヤ人ゲットーに生まれました。高校の仲間にジョン・コルトレーンやバップ・クラリネットの第一人者、バディ・デフランコがいます。ユダヤ教男子が13歳になると行う成人儀式、”バル・ミツヴァ”のお祝いにもらったトランペットをきっかけにジャズに開眼します。

 1942年、ニュー・ジャージーのレジャー都市、アトランティック・シティーに移ったロドニーは、トランペットでかなりなお金が稼げることにびっくり!戦時下でミュージシャンたちが次々と召集されてしまい、15歳で徴兵年齢に達しない駆け出しのロドニーが引っ張りだこになったのです。学校なんか行ってる場合じゃない!翌年、高校を中退しベニー・グッドマンのツアーに参加。その頃のアイドルはハリー・ジェームズだった!

<チャーリー・パーカー・いのち>

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 1940年代中ごろに再びフィラデルフィアに戻り、CBSのラジオOrch.で子分格のジェリー・マリガンと活動中に、町にやって来たディジー・ガレスピーの全く新しい音楽、ビバップに衝撃を受けます。ガレスピーも彼の才能を見逃さず、NYに呼び寄せた。ジャズのメッカ52番街の”Three Deuces”、そこで目の当たりにしたパーカー・ガレスピー演奏、そしてチャーリー・パーカーの並外れた知性に多感なロドニーは完全に魅了されてしまいました。

 1948年、パーカーはマイルズ・デイヴィスの後任として自己クインテットにロドニーを抜擢!マイルズがビル・エヴァンスを加入させて物議を醸す以前の出来事でした。バンド中、ただ一人のホワイト・ボーイ、人種隔離の南部のツアーでは、白子の黒人「アルビノ(色素欠乏症)・レッド」という芸名で有色人種のホテルに投宿し演奏した。そんな苦労は映画「バード」に詳しく描かれています。バードに憧れるあまり、(パーカーの意に反して)、ヘロインを打つことまで真似をしたロドニーは、入院や服役を繰り返す壮絶な人生を歩むことになります。

<バッパーの末路>

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 1955頃からチャーリー・ヴェンチュラ楽団の仲間で、トランペット、サックスなど何でもこなす名マルチプレイヤー、アイラ・サリヴァンと組み、今回のアルバムを始め、晩年に至るまで数多くの共演作を録音しています。ルイス・スミスは家族のためにジャズのキャリアを放棄しましたが、ロドニーは、麻薬の前科が災いし、各地のジャズ・クラブから閉めだされました。

 そのため一時期、ジャズ界を離れ、結婚式やバル・ミツヴァの盛大なパーティを専門に行うユダヤ系の宴会場で演奏とマネジメントを担当し、チャーリー・パーカーとの共演時代より遥かに高収入を得ていた時代もあります。しかし、ジャズへの想いは断ち切れず、フラストレーションのために、再びヘロインに耽溺し、財産も家も失いホームレスに… 挙句の果てに流れ着いたサンフランシスコでは、陸軍将校になりすまし、サンフランシスコで原子力委員会から10000ドルを盗み逮捕。27ヶ月の服役期間中に心を入れ替えて、刑務所で法律の学士号を取ったというから、頭のいい人です。

 出所後は、辣腕弁護士の誉高いMelvin Belliの支援を受け、調査員の仕事をしながら法律学校を卒業、法曹界にデビューとおもったのですが、カリフォルニア州では前科者は法律の仕事につけなかった。 それで60年代はラスベガスのショウ・バンドに入り、エルヴィス・プレスリー、サミー・デイビス・ジュニアといった超一流タレントのバックを勤め、結構なギャラをもらった。でも華やかなヴェガスにもビバップはなかった・・・・

<バッパーの再起>

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 世の中がジャズを「流行:と別物として捉え始めた1972年、ロドニーのジャズライフが再び始まります。西海岸に移住してLAの名門クラブ、『ドンテ』などで活動を再開。脳卒中に襲われて後遺症を抱えながらも’75年には、実に15年ぶりのアルバム” Bird Lives!”を発表して話題になりました。

 ヨーロッパと米国の両方で活動を続けたロドニーは、 ’80年代にアイラ・サリヴァンとのコンビを再結成し、各地で活躍。ラスト・レコーディングとして発表したチャーリー・ラウズと(ts)の2管によるバップ・アルバム『Social Call 』(’84 Uptown)は、世界中のバップ・ファンに衝撃的とも言える感動を与えてくれる名盤で、私たちも長年愛聴しています。

 1988年にクリント・イーストウッドが制作、監督したチャーリー・パーカーの伝記映画『バード』のコンサルタントを担当、ロドニー役の俳優への演奏指導や、サウンドトラックに演奏参加したロドニーは、一般的な知名度も俄然アップしました。1990年にダウンビート誌、「名声の殿堂」入りを果たし、肺がんのため1994年に67才で亡くなっています。

 ポスト・クリフォード・ブラウンと言われながらも、たった数年のキャリアでジャズ界を去り、たくさんの教え子たちに愛されたルイス・スミス、バードに溺れて地獄を観て、さらにバードのおかげで再起したレッド・ロドニー、ジャズもいろいろ、人生もいろいろですね!

 10月12日「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」6:30pm- 開講 受講料:2500yen (税別)
 どうぞお楽しみに!

トランペッター人生いろいろ(その1):ルイス・スミス

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いつまでたっても扇風機がしまえない大阪、ライブで「枯葉」も聴けないむし暑さです。

  毎月第二土曜日は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、10月12日(土)は名盤揃いでおすすめです!
  J.J.ジョンソンが新編成のコンボで録音した『J.J. in Person』を頂点に、クリフォード・ブラウン亡き後、彗星の如く現れて消えたトランペット奏者、ルイス・スミスのブルーノート・デビュー作『Here Comes Louis Smith』と、チャーリー・パーカーがマイルス・デイヴィスの後任者として迷わず白羽の矢を立てたトランペット奏者、レッド・ロドニーのアルバム『Red Rodney』の豪華三本立!

  ルイス・スミスとレッド・ロドニーは、とりわけ若いジャズ・ファンの皆さんにあまり馴染みがない名前かも知れません。二人の芸風もその人生も全く対照的!
 音楽性は寺井尚之が講座でズバリ納得の行く解説をしてくれますので乞うご期待!Interludeでは、全く違う人生模様を覗いてみよう!

<その1:ジャズより家族:ルイス・スミス>

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 日本ではルイ・スミスという呼び名が一般的なようですが、ここでは実際の表音に近い「ルイス」と綴ることにします。ルイス・スミスは1931年、南部テネシー州メンフィス生まれ、トミー・フラナガンよりひとつ年下になります。
 従兄弟に23才でこの世を去った夭折のトランペッター、ブッカー・リトルがいます。10代でトランペットを始め、学業にも優れていたため、奨学生としてテネシー州立大学で音楽を専攻、天才ピアニスト、フィニアス・ニューボーン・ジュニアとともに、大学の選抜バンドで活躍しました。卒業後さらにアナーバーにあるミシガン州立大の大学院に進みます。その時同じミシガンのデトロイト勢と交友を持ち、NY進出後、ケニー・バレルとも共演しました。

<ジュリアン・アダレイ先生と>

  1954年から2年間の兵役後、南部で音楽教師として教職に就き、昼は公立高校の教師、夜はジャズミュージシャンの生活。

 フロリダ州のリゾート都市、フォート・ローダレールの公立高校の同僚が、今回のアルバムに覆面参加しているキャノンボール・アダレイでした。二人で高校バンドの顧問をを担当したいたというのですから羨ましい話ですね!

 『Here Comes Louis Smith』の録音当時、アダレイはマーキュリー・レコードの専属アーティストだったので、”Buckshot La Funke”という不思議な偽名で参加しているのですが、爆発的な「火の玉」サウンドは隠しようがありません!実際にスミス夫妻にインタビューされたジャズ評論家、後藤誠氏によれば、この名前は、二人が顧問をしていた楽団名に因んだものだったそうです。さらに余談ですが、アルバム・ジャケットのユニークなチャイニーズ・ルックは、「たまたま来ていた部屋着」だったことも後藤インタビューで明らかになりました。

<さよなら、ジャズ界>

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 スミスは、奥さんのLuluに捧げたアルバム、『Ballads for Lulu』を’90年代にリリース

 

『Here Comes Louis Smith』は、もともと”Transition”という別のレーベルの作品だで録音後倒産、ブルーノートが買い取って、スミスを逸材と見込んだアルフレッド・ライオンが専属契約をして、更にもう一枚『Smithville』というリーダー作をプロデュースしています。それにもかかわらず、ルイスは、1958年にあっさりとジャズの第一線から引退!理由は「家族を養うため」でした。モダンジャズの黄金時代でも、ジャズだけで食べていけるミュージシャンは、ほんの一握りであったんですね!

 引退後、ルイスはミシガン州の学園都市アナーバーに戻り、古巣のミシガン州立大やアナーバーの公立高校で後進の指導に専念し、ジャズ・ヒーローだった伝説的音楽教師として生徒たちに愛されました。

 ’70年代になってからは、レコーディング・アーティストとして復帰し、教職の傍ら”Steeplechase”に10枚近いアルバムを録音しています。

 2005年に、脳卒中に見まわれ失語の後遺症が残りましたが、2011年には、アナーバーで「地元のジャズ・レジェンド」の80才の誕生日を祝うイベントが盛大に行われた模様です。

 後輩トランペッター、元ジャズ・メッセンジャーズのブライアン・リンチは、ルイス・スミスに捧げた””‘Nother Never””(唯一無比)を作曲、スミスのオリジナル曲”Wetu”と共に、自己アルバム『Unsung Heroes』に収録しているのが泣けます。

 第一線としては、わずか数年間のジャズライフに終わったルイス・スミス、でもこの人の表情からは、志半ばで道を諦めた屈折感は、どこにも感じられません。

 

 明日は、スミスと対照的に起伏の激しい人生を歩んだトランペッター、レッド・ロドニーのお話を!

 

CU

 

 

 

ビリー・エクスタイン:アイドルから伝説へ

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 9月7日(土)に「楽しいジャズ講座」で観るビリー・エクスタインは、寺井尚之が一番好きな男性ボーカリスト!バップの香り高い高度なフレージングと深い心の味わい、「智」と「情」を併せ持つ歌唱と、寺井尚之の熱い解説が楽しみです。

 その男性的な魅力に溢れるバリトン・ボイスから「セピア色のシナトラ」、その容姿から「黒きクラーク・ゲーブル」と呼ばれ、Mr.Bとして親しまれたエクスタインは、人種を越えた女性ファンに絶叫される黒人スターのパイオニアでした。

 同時にミュージシャンからも、かっこいいアニキと慕われ、パーカー-ガレスピーを始め実力者を擁するビバップのドリーム・バンドを率いて活動した3年間が、ジャズに寄与した役割の大きさは計り知れません。講座直前、戦前から80年代まで、第一線で活躍したビリー・エクスタインのことを簡単にまとめておきます。
 

 <ラブ・ソングを歌う黒人歌手>

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左から:アール・ハインズ(p)、エロール・ガーナー(p)、エクスタイン、マキシン・サリヴァン(vo)、 ピアノ前に座るメアリー・ルー・ウィリアムズ   

 ビリー・エクスタインは1914年(大正3年)に鉄鋼の街、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。同郷の先輩にはロイ・エルドリッジ(tp)が、後輩にはアート・ブレイキー(ds)がいます。
 父方の祖父はドイツ帝国に併合されたいまはなきプロイセン王国出身のヨーロッパ人で、祖母となる黒人女性と合法的に結婚しました。エクスタインのエキゾチックな容貌はそのせいなのかも… 7才の頃から歌を始め、ブラック・ハーバードと呼ばれる名門ハワード大学に進学しますが、アマチュア・タレント・コンテストに優勝したおかげで中退、本格的に歌手への道を進みます。
 1939年頃にかつてアル・カポネに愛された名門オーケストラ、アール・ハインズOrch.に専属歌手として加入、一気にトップ・シンガーに!最高のスーツでキメたゴージャスなバンドの雰囲気に、エクスタインはまさにぴったりでした。

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 アール・ハインズは最高のピアニストであると同時に、斬新なアイデアを受け容れる懐の深さがあり、その楽団.は、ビバップという新しい音楽を育むゆりかごのような場所でした。ギル・フラー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、それにマイルズが大きく影響を受けた夭折の天才トランペット奏者、フレディ・ウェブスターなどなど、キラ星のような団員で構成され、エクスタインは同僚のガレスピーにトランペットを習い、他の歌手と一線を画した器楽的なアイデアと歌唱スタイルを身につけます。

 イケメンでベスト・ドレッサーだったエクスタインが、アポロ劇場のアマチュア・ナイトで発見した逸材がサラ・ヴォーン!その頃は全く垢抜けない女子だったのですが、輝く才能を見込んだエクスタインが、容姿端麗主義のハインズに強力プッシュ、ピアニスト兼歌手として入団させたんです。当時、サラ・ヴォーンを観たエージェントは、ハインズの頭がおかしくなったのでは・・・と心配したそうですが、みるみるうちにショートカットの美女へと変身し、エクスタインからバップのコンテキストを伝授されスターへの階段を駆け上がった。サラは終生、エクスタインを兄のように慕いました。

<なんたってバンドリーダー!>

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左から:ラッキー・トンプソン, ディジー・ガレスピー, チャーリー・パーカー, エクスタイン

 当時の黒人歌手に許されたレパートリーは、コミックソングか意味のないジャンプ・チューンばかり、「黒人は道化に徹せよ」という社会で、白人客の前では、シリアスなラブソングを歌うことすらタブーだった。黒人はシリアスであってはダメという社会だった。ですからバラードで女心をメロメロにしたエクスタインの人気は、全く前例のない快挙だった。屈せず媚びない芸術家魂は、チャーリー・パーカーと共通するものがあり、若手の黒人ミュージシャンに尊敬された。その人気ぶりに、1944年、エージェントはエクスタインに自己楽団を組織して独立することを勧めます。

 ハインズ楽団で産声を上げた後にビバップと呼ばれる新しいジャズのかたちに心酔していたエクスタインは、自分のバンドをビバップのドリーム・チームに仕立て、本気で器楽演奏を主体とする活動を目指しました。トミー・ドーシー楽団から独立して、映画と歌の両方で大成功したフランク・シナトラとは、全く違う道を目指したわけです。いくら人気があっても、ハリウッドに黒人スターはあり得ない時代です。もしも、当時の映画界に有色人種をスターとして受け入れる度量があったら、ジャズの歴史はまた違うものになっていたのかもしれませんね。

 ビリー・エクスタインは自己バンド結成の理由をこんなふうに語っています。
 「バンドシンガーは楽団の使い捨てにされる。歌手としての私の自衛策は自分でバンドを持つ事だった。当時の人々は、私のような黒人歌手がバラ-ドやラブソングを歌うことをよしとしていなかった。今ならおかしいと思うかもしれないが、そんな時代だった。我々黒人は労働歌やブル-スや、アホな歌だけ歌っていればよく、愛については歌うべきではないとされていた。それにもうひとつ、私はビッグバンドが大好きだった!」
 
 billy-eckstine-orchestra-1.jpgビリー・エクスタイン楽団の在籍ミュージシャンを列記しするだけで、ドリーム・チームの様子がお分かりになるはずです。(ts)ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、フランク・ウエス、(as) チャーリー・パーカー、ソニー・スティット (tp)ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、ケニー・ド-ハム、マイルズ・デイヴィス、(ds)シド・カトレット、アート・ブレイキー・・・すごいでしょう!

メンバーたちは、仕事がはねてから次の午前中まで、ディジー・ガレスピーを中心にリハをやり、ピアノの前に集まってバップの新しいイディオムを創っていきました。ジュリアードなんて必要ない。バンドが大学だった!メンバー達はそう言いました。

エクスタイン自身もバルブ・トロンボーンを担当しました。なかなかの腕前だったけど、ビバップだけ、インストルメンタルだけというのは、世間は許さなかった。

 エクスタインの歌をフィーチュアした、A Cottage for SaleとPrisoner of Loveはミリオン・セラーになりましたが、大所帯、バンドの経営は大変です。戦時中でビッグ・バンドは遊興税を課せられ、移動手段のバスのガソリン配給もままならないイバラの道、地方巡業の公演地では、ほとんどのお客さんのお目当てはダンスとエクスタインの歌で、ビバップは理解されなかったんです。

 
1944savoy.jpg おまけに南部を旅すると、行く先々で人種差別や、ヤクザ絡みのトラブルがある。おまけに団員の音楽的な規律はビシっとしていたけれど、私生活はグダグダ。エクスタインは、上等のスーツの下にピストルを常に携帯してトラブルに備えた。それがまた「かっけえ!」と団員に慕われる!男の中の男だった。

 でも、バンド経営は別問題。あるときは公演地に譜面帳を忘れ、またある時は、チャーリー・パーカーがクスリ代のためにアルトを質入し、オカリナでソロをとる。そんなドタバタな毎日で、1947年、楽団は経済的に破綻してしまいます。

 儲からないと世間は冷たいもんだ!後に「最も過小評価されたバンド」と評したレナード・フェザーだって、その当時は、「調子っぱずれのバンド」と酷評してた。

 戦争とビッグバンドという形態の過渡期にあったドリーム・バンド!彼らの活躍ぶりをちゃんと捉えたレコーディングはないとブレイキーは残念がっています。  

<バラードを極める>


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 エクスタインはそれでもスターであり続けた。新境地はここからです。1947年 バンド解散直後、新生MGMレ-ベルと契約し、その2年後、ビリー・ホリディの献身的な伴奏者であった名手ボビ-・タッカ-を専属伴奏者し最高のバラード・シンガーとして活躍を続けました。タッカーとのパートナー・シップは、1992年、脳卒中で引退するまで終生続きました。 70年代はTVや映画などなど多方面で活躍。80年代は、ヨーロッパや、日本の「ブルーノート」にもたびたび出演し、さらに身近な存在になりました。

 2度の結婚で、連れ子を含め7人の子供のよき父親でもありましたが、そのうち、エド・エクスタインはマーキュリー・レコードの社長になり、日本公演にもドラマーとして同行したガイ・エクスタインは、プロデューサーとなり、クインシー・ジョーンズと共同で何度もグラミー賞を受賞し、現在私たちが頻繁に使うMP3の開発を手がけた音楽界の大物です。

 

 時代を先取りしながら、挫折に負けず終生「智」と「情」のある音楽を全うしたMr.B、晩年の味わいも、ビバップの土台があってこそ。その辺りを土曜日一緒に楽しみましょう!

 

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アポロ劇場主の息子ジャック・シフマン著:<ハ-レム ヘイデイ>より:
 「終戦後の芸能界の変革期に躍り出たニュ-スタ-は、ハンサムで才能あるビリ-・エ クスタインであった。Mr.Bは戦後初の真のス-パ-スタ-であった。・・・彼の発散する強烈なセックス アピ-ルは、黒人エンタテイナ-として初めて、アメリカ白人社会に受け入れられた。そのセクシ-さとは、ずば抜けた容姿だけでなく彼の音楽性、ショウマンシップ、人間性から出る魅力であった。」

トミー・フラナガン・トリオ:Overseas にまつわる話

 

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 大阪の街は天神祭、暑い暑いと言っているうちに、学生諸君は夏休みの話題で持ち切り!
寺井尚之とトミー・フラナガンの運命的な出会いとなった名盤『Overseas』が、8月10日(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。当日はこの一枚に焦点を絞って徹底的に聴きながら、寺井尚之が語りつくします。旧講座で取り上げたのが2004年7月、今回は新たな発見も沢山ご紹介していきます。前回以降、オリジナルEP盤のBOXセット(DIW)や、メトロノーム・レコードのアンソロジー『Jazz in Sweden』(ワーナーミュージック・ジャパン) など、様々なかたちで復刻が続いています。8月の足跡講座、Overseas Specialに先駆けて、ここではレコーディングにまつわるエピソードを。

 

<J.J.ジョンソンとの海外遠征>

downbeat_1957_9_5.JPG ご存知のように、本作はJ.J.ジョンソンとスウェーデン楽旅中、1957年8月15日に、ストックホルムで、バンドのリズムセクション(エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトル)でピアノ・トリオとしてレコーディングした『海外』作品。当時のダウンビート誌(1957年9月5日付)には、”Dear Old Stockholm”と題して、J.J.ジョンソン速報が掲載されています。

 王立公園で2万人以上の聴衆を熱狂させたこと、アフターアワーズのでジャム・セッションをするにも、ストックホルム、イエテボリ、マルモといった大きな街以外にはジャズ・クラブがないので仕方なくレストランで行ったこと、北欧の人々は英語に堪能で言葉の心配がないことなどなど、北欧ジャズ・ブームのSCN_0015.jpg一端を垣間見ることが出来ておもしろい!

 



<陰の立役者:ダールグレン>
 

 J.J.ジョンソンがキャバレー・カードを剥奪され、NYのジャズ・クラブ出演が長期にわたって規制されていたことは以前書きました。そのような状況下に舞い込んだ数ヶ月間のヨーロッパ楽旅は願ってもない仕事だったでしょう。

clas-dahlgren.jpg スウェーデン政府の招聘によるJ.J.ジョンソンのツアーとメトロノーム・レコードでのフラナガンの録音のお膳立てをしたのが、「スウェーデンのジャズ大使」と謳われたクラエス・ダールグレンという人物です。(左写真:Claes Dahlgren.1917 – 1979) )生粋のスウェーデン人ですが生まれはコネチカット、金融、工業など様々な企業の要職に就き、1949年から60年代まで米国に駐在し、スカンジナビア・ラジオやメトロノーム・レコードの代理人も務めていました。自他共に認める大のジャズ・ファンで、スカンジナビア・ラジオに”Jazz Glimpses of New York”という自分のジャズ番組では、自らレポーターとしてNYのジャズクラブから最先端のジャズ情報を発信していました。ダールグレンはまたジャック・ハーレムというステージ・ネームでピアニストとしても活動し楽団まで組織したこともある人ですから、新進ピアニスト、トミー・フラナガンにいち早く目をつけて、スウェーデン楽旅の際にはぜひ!と録音を依頼していたことは容易に想像がつきます。

 各方面に責任ある名士のアレンジメントですから、『Overseas』の録音契約は、フランスでライオネル・ハンプトン楽団のメンバーがハンプトン抜きで行ったVogueのセッションとは違い、抜け駆けの仕事ではなかったと推測できます。なによりもジョンソンはコロンビア・レコードの専属ですから他の会社でレコーディングはできなかったし、ボスを裏切るようなレコーディングであれば、フラナガンとジョンソンが終生個人的に親しくお付き合いすることもなかったでしょう。

 <ビリー・ストレイホーンの厚意>

 

billy-strayhorn-festival-2.jpg 『Overseas』にさきがけて、プレスティッジで録音した初リーダー作『The Cats』の出来が、想定外の憂き目にあったフラナガン、同じ轍は踏まず。

 録音プランは、自分のオリジナル曲と、尊敬する音楽家たちへのトリビュート的なヴァージョンの2本柱になっていました。

restau72.jpg 今回のメンバーは、J.Jのレギュラー・リズムセクションですから、”Dalarna”や”Eclypso”といった手強いオリジナル曲も、下準備の余裕がある程度あったはず。それらと、フラナガンが最も尊敬する3人の音楽家に因む曲を組み合わせて録音しようという構想を立てた。

 アート・テイタムの名演で知られる”柳よ泣いておくれ”はスタンダードですが、チャーリー・パーカーの、”Relaxin’ at Camarillo”は難曲!でもデトロイト時代からのエルヴィン・ジョーンズが一緒だから心配はなかった。そして、もうひとつの大きな要が、大好きな作曲家、ビリー・ストレイホーンの『チェルシー・ブリッジ』でした。

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 なんたる幸運!出発前、フラナガンは、マンハッタンでビリー・ストレイホーンにばったり会った!場所はジャズ・ミュージシャンの溜まり場になっていた『Beefsteak Charlie’s』というステーキハウス兼居酒屋でした。 現在も『Beefsteak Charlie’s』はありますが、ファミリー・レストランみたいになっていて往時の雰囲気はありません。

 新人のフラナガンにとって、デューク・エリントンの懐刀ストレイホーンは雲の上の人、だけど男として、ミュージシャンとして、きちんと筋はとおさなければ。、私はこれこれこういう者です。「実は今度、あなたの名曲をレコーディングさせていただきます。」とご挨拶をした。
 そうするとストレイホーンは「時間があるなら、ご一緒にどう?」とティン・パン・アレイにある自分の音楽出版社まで同行し、オリジナル曲の譜面をごっそりくれたのだそうです。フラナガンの大きな瞳はどれほど輝いたことでしょう!

 ストレイホーンの厚意をしっかり受け止めた結果が、あの名演!後のビリー・ストレイホーン集『Tokyo Recital』も、ライブでの名演目『Ellingtonia』も、この素晴らしい偶然の出来事から始まっのではないだろうか。

 
 <水浸しのスタジオ、マイク1本録り!>

 

overseas2.jpg 1957年8月15日、ストックホルムの某地下スタジオに入ったフラナガン一行は唖然とした。数日前に洪水に見舞われ床は水浸し!機材に損傷があったのか録音マイクは1本という”terrible”な装備だったのです。ピアノの状態は推して知るべし・・・その話をしてくれたときのフラナガンのへの字の口と天を仰ぐ目つき、今でもはっきり覚えています。

 そんな悪条件を思いやってか、地元の人から差し入れが届いた。ビールが2ケース(!)とジンが1本、レコーディングしながら全部3人で飲んじゃった!ウェ~イ!いい気分!完全に出来上がった状態でスイングしまくった即興ブルースは、そのまんま「乾杯、ブラザー!」”Skål Brothers”になった。

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 <続きは講座で>
 

mitsuplate8.jpg トミー・フラナガン27才のレコーディングは『Tommy Flanagan trio』として 、メトロノーム・レコードから3枚のEP盤として発売され、まもなく米国のPrestigeから『Overseas』のC並びのジャケット(デザイン:エドモンド・エドワーズ)でLPとして発売されました。(左の写真は、さらにシャレたお客様に当店が頂いた手作りプレートです。)

 

 ジャケットも実に様々なものがあり、トミー・フラナガン公認ファンクラブ「フラナガン愛好会」のサイト

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に詳細が掲載されていますが、私の初恋Overseasは、大学時代の先輩に強制的に購入させられたテイチク盤、ジャケット写真がDUGの中平穂積さんの撮影で、それがフラナガンの姿との初対面でした。

 ずっと後に、フラナガンに中平さんとの交友について聞かされて、NYのアパートに行ったときは中平さんから頂いたという豪華な羽子板が飾ってあり、数年前にご本人とお会いできたときは感激でした。

 コンプリート盤やSACD…これからも、様々な形でOverseasは再発されていくのかな?別テイクの収録は、研究者にはありがたい資料ですが、フラナガン自身はとても嫌がっていました。

 たくさんあるレコードの中には、「別テイクでない別テイク」という摩訶不思議なものもあってややこしい・・・

 そういう辺りや、演奏内容、内から外から、音楽についての目からウロコのお話は、どうぞ8月10日(土)6:30pmから、寺井尚之の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でお楽しみください。

CU

MR. PC: 素顔のポール・チェンバース

paul1.gif   左から:ポール・チェンバース(b)、クリフォード・ジョーダン(ts)、ドナルド・バード(tp)、トミー・フラナガン(p) 『Paul Chambers 5』(BlueNote)のセッションにて。撮影:Francis Wolff


 今週(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に『Paul Chambers Quintet (Blue Note BLP 1564) 』が登場します。
 
 高校入学した頃、ジャズ評論家、いソノてるヲ氏と懇意だった従姉のお姉さんの部屋に行くと、いつも『Kind of Blue』がかかっていたので、ポール・チェンバースは、ごく当たり前のベーシストという感じでした。だってそれしか知らないから。OverSeasに来てしばらくした頃の大昔、寺井尚之が、ジョージ・ムラーツ(b)に「好きなベーシストは?」と訊いたら、ポール・チェンバースとレイ・ブラウンという返事で、なんか「当たり前やん・・・」と思ったけど、ジャズの歴史を調べると、スラム・スチュアートと共に、ジャズ史上、初めてピチカートと弓(アルコ)を併用したベーシスト。当たり前どころか革新者!
 

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 Paul Laurence Dunbar Chambers, Jr. デトロイトで育ち、NYで開花したベーシスト、Mr. PCは、僅か33才と8ヶ月の人生を、太いビートで駆け抜けた。
Paul Chambers Quintet

Paul Chambers Quintet (Photo credit: Wikipedia)

 デトロイト出身の名手に数えられるMr.PCことポール・チェンバース、でも生まれは母方のピッツバーグ、13才の時、お母さんが亡くなって、お父さんの住むデトロイトに移ってきた。最初はチューバを吹いていて、チャーリー・パーカーやバド・パウエルを聴いてからベースに転向したのが14才頃、体育会系のお父さんは、ベーシストに成るのに猛反対したといいます。

 チェンバースは1935年生まれで、トミー・フラナガンより5才年下、あの頃のデトロイトの音楽年齢を考えると、完全に一世代下の異次元世代と言えます。20才になるかならないケニー・バレルとフラナガンが、十代の学生たちのパーティで演奏(バンド用語なら「ショクナイ」という営業か?)しているところに、「すみません、一曲演らせてもらえませんか?」と飛び入り志願したのが中学生のチェンバース少年、バレルは大学でセカンド・インストルメントとしてベースを勉強していたので、「ベース奏法のABCを最初に教えてあげた師匠は私だ!」と自慢しています。

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 チェンバースとダグ・ワトキンス(b)が従兄弟同士であったことは有名ですが、血縁関係はないらしい。異なるDNAでも、この二人は親友で、デトロイトの黒人街に同居し、多くのジャズの偉人を輩出したカス・テクニカル高校に通いながら、現在の音大に優るクラシックの高等教育を受け、お互いのベースの腕を磨きあったといいます。
 学校ではデトロイト交響楽団のコントラバスの名手が、そして放課後は、ご近所の住人、ユセフ・ラティーフやバリー・ハリスがジャズ理論をしっかり教えてくれて、ホーム・ジャム・セッションまであったんだから、モーターシティはジャズ・エリート養成所でもあった!
 『Paul Chambers Quintet』の参加ミュージシャンは、テナーのクリフォード・ジョーダン以外、全員デトロイターで、トランペット奏者の、ドナルド・バードはカス・テック高の同窓生です。ティーン・エイジャーながら、ピンホール・カラーのワイシャツがトレードマークで、デトロイトのジャズクラブに盛んに起用されました。デトロイト時代に儲けた息子さん、ピエール・チェンバースは、現在歌手として活躍中です。
 
 1955年、レスター派でVice Prez(副大統領)と呼ばれたテナー奏者、ポール・クイニシェットにスカウトされてNYへ。ジョージ・ウォーリントンや、J.J.ジョンソン & カイ・ウインディグの双頭コンボを経て、マイルズ・デイヴィスのバンドでブレイクします。
 <アイドルか?ニュー・スターか?>

paul-chambers.jpg マイルズ・デイヴィスやジョン・コルトレーンとの活躍は名盤と謳われるアルバム群が示すとおりですが、ライブのステージでも、チェンバースのベース・ソロは、いつでもお客さんの喝采と掛け声が凄かったと、マイルズ・バンドでしばらく共演していたジミー・ヒースが驚いています。それほど大きなベース・サウンドで『掴み』のあるプレイだったんですね。
 
 丸顔で愛らしい風貌と、マッチョな体躯とファッション・センス、そして痺れるビートで、どこに行っても女性にモテモテだったそうです。
 
 でもチェンバースは、クラシックの地道なトレーニングをコツコツやると同時に、激しいデトロイトの競争社会を勝ち抜いて、真面目に下地を作ったプレーヤーですから、チヤホヤされても努力は怠らなかった。しこたま飲んだ翌日も、デトロイト時代からお世話になっているカーティス・フラーの家に、朝の10時ころから、ライブで演奏する曲を予習したいと、出稽古に押しかけて、そのうち、ジョン・コルトレーンやクリフ・ジョーダンも加わって、夕方までずっと練習三昧の生活をしていた。音楽も快楽も、子供のようにむさぼって、並の人間よりも、人生を疾走しすぎたのかもしれません。
 <Big P>
 
  
 ジミー・ヒース(ts)は、麻薬で服役した後に、ジョン・コルトレーンの後任者としてマイルズ・デイヴィス・クインテットに入団。当時の同僚は、ウィントン・ケリー(p)、ジミー・コブ(ds)、そしてチェンバース(b)でした。コブは、前任者フィリー・ジョー・ジョーンズと対照的に、空手もたしなむ礼儀正しい優等生タイプ、後の二人は天才肌で大酒呑みだった。ケリーは酒好きでも、自分をコントロールする術を知っていたけど、チェンバースは赤ちゃんみたいに無邪気で、ブレーキをかけることが出来ないタイプだったそうです。だからツアーともなると、しばしばベロベロになってステージに上がるというようなことがあったらしい。そうなると、リーダーのマイルズは、わざと、早いテンポで出たり、ベースのイントロが要の”So What”を演ってお仕置きした。ベロベロのチェンバースが、噛むわ、滑るわで凹んだ時には、マイルズが、あの嗄れ声で囁きかけた。
 
 ”OK、ポール、もういいよ。今夜は飯を食いに連れてってやろう。”
 
 マイルズにご馳走してもらうと、ポールは子供みたいに無邪気な顔で、パクパクと食べ物にむしゃぶりついた。ツアー中、ジミーとホテルのバーに行くと、まるで駄菓子屋にいる子供みたいに、あれも、これもと飲みまくる。
「後にも先にもあんな奴、観たことない・・・」
 
latepaulchambers.jpg マイルズ・バンド時代、チェンバースは、尊敬するチャーリー・パーカーの三番目の妻だったドリス・シドナーと同棲していた。ドリスは13歳年上だったらしいけど、ポールのような無邪気な天才には、ベスト・マッチだったのかも知れないですね。
 
 
 その間、クスリと酒は彼の強靭な体をゆっくりと蝕み、結核を患ってから、半年余りで、あっけなくこの世を去りました。
 ビートも、その生き様も、文字通り”BIG P”の名前に相応しいサムライ!
 
 
 「スイングの定義?それはポール・チェンバースが繰り出す二つの連続音である。」
Joel Di Bartolo、ベーシスト
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ジャズ批評7月号

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 今月発売の「ジャズ批評」7月号 No.174 に、当ブログの紹介とジャズ歌詞の訳者としてのインタビュー記事を掲載して頂きました。
 インタビュワーは、ヴォーカリストの太田”AHAHA”雅文さん、言うまでもなくジャズ歌詞のオーソリティで、盛り上がりました。ぜひご一読を!
  
 「ジャズ批評」誌、今回は”日本映画とジャズ”の特集号で、各方面からの興味深い記事が一杯!
 大阪発では、藤岡靖洋氏の連載記事「海外探訪記」も公民権運動史レポートが迫力いっぱいです!
 併せてJazz Club OverSeasのライブ&講座も、どうぞご贔屓にお願い申し上げます。
 これを励みとして、対訳ノートも近々書かなければ・・・
 今回はどうもありがとうございました!

“The Cats” トミー・フラナガンの青春グラフィティ

The_cats.jpg  演奏者:Tommy Flanagan, John Coltrane(ts),  Idrees Sulieman(tp),Kenny Burrell,(g) Doug Watkins(b), Louis Hayes(ds)   =録音日:1957 4/18=

  

今日のテーマは有名アルバム『The Cats』(LP New Jazz 8217)、OverSeasの「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で、寺井尚之が徹底的に演奏内容を検証しているので書きたくなりました。


『The Cats』、タイトルそのままのネコ・ジャケットは、MuseやXanaduなど、多くのレコード・レーベルを創った名プロデューサー、ドン・シュリッテン作。”Cat”というスラングは、’20年代に黒人達が、「ジャズ・ミュージシャン」の意味で使い始めたそうですが、アルバムが録音された’50年代には、かっこいい男、「イケメン」の意味になっていた。最近は性別関係なく使っていいみたい


<フラナガンの不思議なMC>

 

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 1984年12月、トミー・フラナガンがOverSeasで初めてコンサートをした時のMCは謎めいたものだった。

 「1957年に私はジョン・コルトレーン達と共に『ザ・キャッツ』というアルバムを録音いたしました。次の曲はアルバム中の”マイナー・ミスハップ”であります…」(大喝采)

 ダイアナ夫人は、この曲を知ってるんだ!と喜んでいましたが、フラナガンの言い方は、なんとなく引っかかるものだった。”Minor Mishap”は、「小さな災難」とか「小事故」を意味する言葉。(英語サイトには、例えば、雨上がりの道で、水たまりを踏んでしまい、靴下までびしょびしょになって、気持ちワル~というような時、大怪我したわけじゃないけど、へこむなあ・・・って時に使うとありました。)だから、フラナガンのMCは、「アルバムの中には、バツの悪いこと」が、なにかあったとほのめかしているようにも取れたのです。

  <マイナー・ミスハップはどこ?>

それは今月の足跡講座で、寺井尚之が、バッサリ明瞭に解説した。なにしろ、ドラム=各プレイヤーの4バース交換は8小節が欠落する想定外の事態、どさくさに紛れてフラナガンのソロの後ろでは、ケニー・バレルがせっせと四つ切りをやっている。バーラインを越える流れるようなフレーズが身上のデトロイト・ハードバップで、四つ切りやリムショットはご法度。それにしても、バレルの四つ切りが聴けるのはとても珍しい。ギタリストの末宗俊郎さんにお伺いしたところ、「後年もう少しゆるーい感じでスポット的に使う例はありますが、バレルがまともに四つ切してるのはこれしか知りません。」とのことでした。

でも、何故そんな事に?


<名門レーベル:プレスティッジ>

 

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 このアルバムを制作した”プレスティッジ”は、Blue Noteと並び称される名門ジャズ・レーベル、創業者のボブ・ワインストックは、15才の時から通信販売で稼ぎ、18才で”Jazz Record Corner”というレコード屋店を開業、ジャズ好きが高じて”プレスティッジ”を創設したのが弱冠20才というベンチャー起業家。小さなことからコツコツと儲けたワインストックの製作姿勢は「即興演奏というジャズ本来の姿を捉えるブロウイング・セッション形式のレコーディング」・・・語感はカッコいいけど、平たく言えば低予算。Blue Noteがアルバム・コンセプトをしっかり作り、ミュージシャンに2日間のリハーサル・ギャラを支払ったのとはかなり違う。それにも拘らず名盤が多いのは、ジャズ界に天才が多かったから?

<Overseas前夜の初リーダー作>

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 『The Cats』は、新進ジャズメンをフィーチュアした”ニュー・ジャズ”というレーベル用に録音された。収録曲全5曲中4曲がトミー・フラナガンのオリジナル、残りのスタンダード1曲(How Long Has Been Going On?)がピアノ・トリオですから、リーダーは明らかにフラナガン。他のメンバーは、ベテランでワインストックの信望厚いトランペット奏者、イドレス・スーレマンとフィラデルフィア党のジョン・コルトレーン、フロントを除く全員が、気心知れたデトロイト出身者でした。ドラムのルイス・ヘイズは当時まだ19歳!デトロイトの”ブルーバード・イン”の窓からエルヴィン・ジョーンズのプレイを盗み聞きして育ち、ダグ・ワトキンス(b)を通じて、ホレス・シルヴァー(ds)の目に止まり、NYに出てきて僅か数ヶ月の録音です。

 

 フラナガンは27才、髪もふさふさ大きな瞳、インディアンの血統を受け継ぐ精悍な顔立ちの”キャット”、この2か月後には、世界的トロンボーン奏者、J.J.ジョンソン・クインテットのピアニストとして初ヨーロッパ楽旅、滞在地のスェーデンでは自己トリオでのレコーディングも決まっていた。それが名盤『Overseas』!つまり上り調子だ!そこに飛び込んで来たリーダーの役まわり、きっとフラナガンは張り切ったんだ!

 録音の依頼を受け、フラナガンは大好きなテナー奏者、コルトレーンに自ら電話をかけて共演を頼んでいます。

<ジョン・コルトレーンのミスハップ>

 

blue_trane_francis_wolf.jpg 一方、共演を頼まれたジョン・コルトレーンは、その時ドツボ、苦境のまっただ中だった。最大手コロンビア・レコードがバックアップするマイルズ・デイヴィスのバンドを「ドラッグとアルコールによる不始末」でクビになったのが録音の4日前!野良猫にならないために、プレスティッジと不利な専属契約を交わしたばかりだったのです。プレスティッジは、ミュージシャンがきちんと仕事をする限り、ジャンキーに寛容だったし、ギャラは即金、問題を抱えるアーティストには何かとありがたかったのです。 

 そんなコルトレーンを救ったのがセロニアス・モンク。表向きは不可思議な言動で皆を煙に巻く「バップの高僧」、でも仲間内では、先輩に礼儀正しく、後輩にとっては誠実な「師」として敬愛されていた。デトロイト時代からバップの原理主義者として有名だったフラナガンは、尊敬するモンクに「選ばれた弟子」コルトレーンに大きな魅力を感じ、お互いの家を行き来しては、一緒に練習を重ねていたのです。だからコルトレーンにだけは『ザ・キャッツ』の録音予定曲も、見てもらっていたかもしれません。オリジナル曲の録音を推奨するプレスティッジの意向に添って自作曲を揃えた。上述の“Minor Mishap”そして、月に因む”Eclypso”と、太陽に因む ”Solacium”を対にして並べたところもフラナガン流!ブルースの”Tommy’s Tune”以外のこの3曲は、どれもこれも目まぐるしくキーの変わる難曲で、ワン・テイク・オンリーのレコーディングでは、到底、パーフェクトな仕上がりになる題材ではなかった。でも、フラナガンは強気で押し通す。信頼の置ける実力者がフロントで、同郷デトロイト出身者でバックを固めれば、一発勝負でもなんとかなる!フラナガンはそう思って賭けに出た。 

 でもフラナガンは知らなかった。コルトレーンが、ヘロインと決別を試みて、非常に体調が悪かったことを…その結果、出来上がりは厳しいものになってしまった。

 

 <やっぱりフラナガンも若かった!>

 たとえ共演者が親しい仲間でも、リーダーと同じ熱意と気合でがんばってくれるとは限らない。でもフラナガンは若く、そこまでは思い至らなかったんだ。

 ”Minor Mishap”というタイトルは、トミー・フラナガンが得意とする自虐的ユーモアに違いない!元のタイトルは何だったのだろう?生きているうちに分っていれば訊いておけたのに・・・後悔先に立たずです。

 結局、この録音は2年間お蔵入りのままで、リリースされたのは、コルトレーン人気が高まった1959年になってからです。

 それ以降、フラナガンが同じ過ちを繰り返すことは二度となかった。でも、イチかバチかの強気な性格は終生、そのプレイに反映されていたと思います。

 『The Cat』の録音スタジオで、もう1テイク録音することが許されていれば、どんな演奏に、どんなアルバムになったろう?あの時のフラナガンのMCは、血気盛んな青春へのほろ苦い思いが込められていたのかも知れませんね。

 『The Cats』初演の3曲のオリジナル(ブルース以外)は、フラナガン終生の愛奏曲となっています。

=収録曲=

1. Minor Mishap (トミー・フラナガン作)

2. How Long Has This Been Going On? (ジョージ・ガーシュイン作)

3. Eclypso (トミー・フラナガン作)

4. Solacium (トミー・フラナガン作)

5. Tommy’s Time (Blues:トミー・フラナガン作)

参考文献:

  John Coltrane: His Life and Music(Lewis Porter著)Univ of Michigan Press刊

  The John Coltrane Reference  (Lewis Porter, Chris DeVito, David Wild, Yasuhiro Fujioka, Wolf Schmaler共著)  Routledge刊

   Kenny Burrell Interview from Smithonian National Museum of American History

  Before Motown A History of Jazz in Detroit, 1920-60 (Lars Bjorn.
Jim Gallert
共著) University of Michigan Press

     「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第1巻(寺井尚之著)Jazz Club OverSeas刊 

ボビー・ジャスパー:サックスの国から来た男

 bjimages.jpeg 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、フラナガンがNY進出後、最初にレギュラーとして活動したJ.J.ジョンソン・クインテットによる名盤群を解説中。

 13日(土)に取り上げるのは、『Live at Cafe Bohemia』(Marshmallow)、『Overseas』の録音が近づく1957年のライブ録音、J.J.ジョンソンとボビー・ジャスパーと、フラナガン、ウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)による一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルの上で、縦横無尽のアドリブが繰り広げられるダイナミズム、すごい!の一言です。

 

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 今回は、このコンボのテナー奏者、また寺井尚之が最も愛するフルート奏者、わずか37才で早すぎる死を遂げたボビー・ジャスパー(1926-63)について調べてみました。

 ボビー・ジャスパー(本名 Robert Jaspar)は、ベルギー東南部にある、フランス語圏の中心都市、リエージュの生まれ。『Dial J.J.5』や『カフェ・ボヘミア』で聴けるジャスパー・オリジナル”In a Little Provincial Town”(小さな田舎町)は、故郷のリエージュに因んだ曲です。日本では、川島永嗣GKなどが活躍するサッカー・チーム、「スタンダール・リエージュ」の街として有名らしい。
 
 元来、サックスという楽器はベルギー発祥、19世紀にアドルフ・サックスというベルギー人が発明したものですから、、ベルギーとフランスでは、サックスを「いろもの」扱いにするドイツ圏に比べ、サックスはずっと「偉い」楽器で、サックスの為に書かれたクラシック曲が沢山あるそうです。同時に、フランスとベルギーは、ヨーロッパの中でもとりわけジャズを愛好する文化がありました。ジャスパーは、そういう土壌から生まれたミュージシャンだったんですね。

 幼い頃からクラリネットとピアノを学び、19才でプロ・デビュー、24才で、パリを拠点として活動しました。戦時中ナチの占領下であった「花の都」では、ジャズは、自由を象徴する芸術、ジャスパーはレスター・ヤングばりのリリカルなブロウイング・スタイルで、またたく間にトップ・ミュージシャンに踊り出ました。

 

<ジャズのゴーギャン>

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 ジャスパーのパリ時代からの友人で、クラシック畑からジャズまで幅広く活躍するフレンチホルン奏者、デヴィッド・アムラムは、彼について「物静かで内向的な性格だが、音楽への情熱と探究心が人並み外れて強かった。」と語っています。ジャズ・ブロガー、マイク・マイヤーズのアムラム・インタビューによれば、ジャスパーは自分と向き合うため、パリに移る前に一旦活動を休止し、一年間タヒチで暮らした時期があったそうです。『自分の目指すサウンドは何なのか?』 完璧なテクニックを持つ演奏家ゆえの悩みなのか?ジャスパーには、ソニー・ロリンズと共通する、とことん内省的な面があったのかもしれません。

 

<ディアリー・ビラヴド>

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 花の都で6年間、ジャズ界の若き第一人者として君臨したジャスパーは、その地で米国人歌手、ブロッサム・ディアリーと出会い’55年に結婚しました。ディアリーは’52年からNYを離れ、ベルリッツのパリ校でフランス語を勉強する傍ら、高級クラブの弾き語りとして活躍、アニー・ロスとジャズ・コーラス・グループ”Blue Stars of Paris”を結成(ダバダバ・コーラスでお馴染み、スウィングル・シンガーズの前身です)”バードランドの子守唄”のフランス語ヴァージョンをヒットさせています。

 ’56年、夫妻はNYに移り、グリニッジ・ヴィレッジに新居を構え、ジャスパーのNY進出が始動。二人の結婚生活は2年で終わってしまいましたが、終生、友達として親しく付き合い、レコーディングも一緒にしています。

 

<ジレンマ>

  ジャズのメッカ、NYの街で、ジャスパーがびっくりしたのが、街が石畳ではなくアスファルトで覆われていること、そして憧れのジャズの巨人達がうようよ居ること、そして何よりもジャズメンの現実でした。多くの素晴らしい芸術家が生活に困っているなんて、ヨーロッパ人のジャスパーには、全く受け容れがたいことだったんです。
 
 パリからやってきた外人テナー奏者にいち早く注目したのがJ.J.ジョンソン、完璧なテクニックと、クリアで、心に響く歌心は、ジョンソンの最も愛するレスター・ヤングを彷彿とさせ、その持味を最大限に生かしたアレンジを整えて、レギュラーに迎え入れ、ライブやレコーディングに起用、北欧ツアーにも同行し、名演を繰り広げたおかげで、ジャスパーは、ダウンビート誌の批評家投票でテナーの「注目すべき新人部門」第一位を獲得しています。それに目をつけた《SAVOY》《Prestige》などのレーベルもこぞって録音し始めました。ジャスパーはJJバンドの若い同僚、エルヴィン・ジョーンズの演奏に大感動し、フランスのジャズ雑誌「Jazz Hot」にエルヴィン・ジョーンズ論を寄稿したほどでした。フランス語の辞書と首っ引きでも、何が書いてあるか読んでみたいですね!

 

<In New York, You’re Just Another Cat>

 

bobby_jaspar1.jpg 「NYじゃ、誰だってただのキャットさ。」ジャスパーが、友人のアムラムやアッティラ・ゾラ―に、ふと漏らしたのがこの言葉。J.J.ジョンソンの許で15ヶ月活動後、ジャスパーはマイルス・デイヴィスのバンドに起用されています。その後、新進ピアニストだったビル・エヴァンスやジミー・レイニー(g)など、、幅広く活動しますが、パリよりもNYの方が、ずうっとジャズでは食えない土地だった。

 最も耐え難いことは、ヨーロッパでは「鑑賞すべきアート」であるジャズメンの演奏中、大声で話をするガサツなNYのお客!余りのリスペクトのなさに堪忍袋の尾が切れて、ヨーロッパに戻り、古巣の仲間と演奏すると、今度は音楽的に満足が行かない。バンドスタンドでは、アメリカのミュージシャンの方が自分の音楽言語を理解してくれる同胞であり、ヨーロッパのミュージシャンの方が、自分の言語を理解しない音楽的外人だった。聴衆のレベルとミュージシャンのレベルが反比例するどうにも困った状況だ。

 そんなジレンマが災いしたのでしょうか?62年、心臓発作で倒れ、心内膜炎という難病と診断されます。唯一生き延びる選択肢は、当時、大手術であった心臓バイパス手術でした。手術に耐えられる体力をつけるためには6ヶ月間の休養が必須と言われ、精神的にも経済的にも困難でしたが、ジャズパーは平静さを失わず、健康なときと変わらない物静かな人柄だったと多くの友人が証言しています。手術は1963年2月28日に行われ、20リットルの大量輸血をされました。それほどの時間と労力をかけたにも拘らず、術後の合併症で、ジャスパーは3月4日に死去。37才の誕生日からわずか2週間後の早すぎる最後でした。 

 

 晩年は、バリトンサックスやバス・フルートなど、様々な楽器を意欲的に取り組んでいたボビー・ジャスパー、どんな楽器を吹いても、そのサウンドには磨きあげた上等のクリスタルみたいに曇りがありません。超絶技巧なのに、温かく心に語りかけてくるプレイは、レスター派とかいったカテゴリーに入れたくない個性的なものだった。 もしも手術が成功していたら、またタヒチで暮らして、新しいサウンドを見つけたのだろうか?

 

 

sawano_jaspar.jpg 土曜日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」をお楽しみに!CU

 

J.J.ジョンソンをもっと楽しむためのキーワード

 

jjwithhat.jpgJ.J.ジョンソン (1924-2001)

  大阪は急に暖かくなりました!「ブログずっと読んでますよ。」とOverSeasに来て下さったお客様、ありがとうございます。おかげで気分は「春の如し」!
 
 小鳥のさえずりに『Dial J.J.5』の “Bird Song”や、ボビー・ジャスパーの”It Could Happen to You”が重なります。

 3月9日、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」用『Dial J.J.5』の構成表も、ようやくPCファイルに転写できました。
 J.J.の「理にかなった明快さ」、レコードを聴きながら構成表を見れば、一目瞭然!リスナーもミュージシャンも、一緒に楽しめるよう、寺井尚之が解りやすく図解しています。複雑だけどすっきり明快なリズムの割り振り、プレイヤーの個性を生かしたアレンジにのけぞりましょう!
 
 トミー・フラナガンでさえ、「J.J.ジョンソンがバンドスタンドでミスをしたことは、一度もない。私は間違ってばかり。ただただ粛々と演奏するのみ・・・」と信じられないことを言っていました。実際にお目にかかった時の眼光の凄さが忘れられません。
 コルトレーンがGiant Stepsを録音する8年も前、J.J.ジョンソンは、”サークル・オブ・4th”の進行を取り入れた”Turnpike”(’51)という曲をさり気なく作ってた!なんというメティキュラスな天才!私のようなチャランポラン人間には、アンビリーバブルな雲の上の遠い人・・・今回のプリント資料のために、色んな伝記的インタビューを読んでみても、「こんなに私は練習した」とか「こんなに私は勉強した」とか、音楽的な発展という意味での苦労話は全く見当たらない。J.J.ジョンソンの「苦労」は、むしろビジネスの方だったのかも知れません。

 『Dial J.J.5』は永遠の愛聴盤、同じくらい人間として、親しみを持てるようなキーワードを列挙しておきます。

 

<Naptown>

 ”ナップタウン”とは米国中西部、インディアナ州、インディアナポリス(Indianapolis)のこと。J.J.ジョンソンはこの街で生まれ、NYやLAと東西の大都会で暮らした後、この街に戻り、自ら命を立つまで暮らした。

  父は地元の人間で貨物運送の労働者、母はミシシッピからやって来た。両親とも、教会の聖歌隊の他には、音楽とは無縁だったとJJは言う。普通高校を卒業後、すぐにプロ活動。正規の音楽教育は受けなかった。「音楽理論」は、ジュリアード音楽院で勉強したマイルズ・デイヴィスから教えてもらったそうです。多分、実地体験として、知ってることばかりだったのかも知れないけど。

<レスター・ヤングとフレッド・ベケット>

  lester.jpeg「音楽的な影響」を問われれば、必ず挙げるのが、テナー奏者、レスター・ヤング と、夭折の天才トロンボーン奏者、フレッド・ベケット、レスターからは、「一音一音、隅々までを追求する『理に適った』アドリブの姿勢」を、ベケットには、レスター的な要素を、トロンボーンに置き換えた「かたち」として影響を受けた。ベケット(Fred Beckett: 1917- 1946)は、ジミー・ヒースはじめ多くの名手が在籍したテリトリー・バンドNat Towles楽団やライオネル・ハンプトン楽団などに在籍していましたが、残念ながら、J.J.の発言を私たちが実感できる録音は見つけることが出来ませんでした。

 

 

 

<ベニー・カーター>

benny_carter50wi.jpg J.J.ジョンソンは、多くの楽団で活躍しましたが、憧れのレスター・ヤングが仕えたカウント・ベイシーよりも、「The King」 ベニー・カーターは、J.J.にとって、とても特別な存在!プロとしての手本だった。ミュージシャンたるものはこうでなくては!バンドリーダーとしての帝王学、そして、作編曲の面でも大きな影響を受けたと言っています。J & Kai時代.のピアニスト、ディック・カッツさんも、同じ事を言ってました。ミュージシャンにとってベニー・カーターの存在は、私たちが思うよりずっと大きいんですね。

<ディジー・ガレスピー>

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   1946年、カウント・ベイシー楽団と共にNYにたどり着いたJ.J.ジョンソンは、楽団を去り街に落ち着いて、52ndストリートで活躍、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンクたちと盛んに共演、彼らの創った新しい「ビバップ」のイディオムをトロンボーンに充当して、モダン・トロンボーンの開祖に成長します。
 ステージで彼らと共演しながら、耳にした新しいサウンドを、幕間にせっせと書き留めているジョンソンを、常に励ましたのがガレスピーだった。

  「俺は、トロンボーンが従来とは違う可能性があると判っていたよ。いつか、きっと誰かがそれをやってのけるってね。J.J.、お前が、その『お役目』を授かったんだよ。」

  J.J.ジョンソンはディジー・ガレスピーについてこう言っています。

 「ディジー・ガレスピーをビバップという狭いカテゴリーに押し込めてはいけない。彼の才能は、それをはるかに超えている!」

  
 

<中毒>

 
 
 数あるJ.J.ジョンソンのインタビュー記事を読んでいて、最も頻繁に出てくる言葉ベスト1が先週書いた「logic and clarity」、そしてベスト2は、「中毒」を表す、「addict」や「・・・holic」という言葉、「レスター・ヤング中毒」「MIDI中毒」「ストラビンスキー中毒」などなど・・・「好き」なものには「中毒」するほどのめりこむのがJ.J.ジョンソン流なのかも・・・あるいはJ.J.にとって、何かを徹底的に追求するためのロジカルな方法として「中毒」することをためらわなかったのかも・・・

 並外れてクールなJ.J.が立派なヘロイン中毒だったというのを知って、私はびっくり仰天したけれど、サウンドへの集中力をぎりぎりまで高めるための、「理詰め」の選択であったのかしら? ジャズ界のオスカー・ワイルドのような人だったのかも知れません。

<J.J.ジョンソンの死>

 

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 J.J.ジョンソンは、2001年2月4日、自宅で拳銃自殺をした。J.J.ジョンソンの二度目の奥さんでマネージャーでもあったキャロラインによれば、J.Jは、家族や親友を亡くした寂しさから、過去にも自殺を真剣に考えたことがあったそうだ。

 死の理由は様々な憶測を生んでいる。公共放送のケン・バーンズのジャズ・ドキュメンタリーでJ.J.のことが全く語られなかったからと言う人もいる。(まさか!)

 或いは、前立腺がんの痛みに耐えかね、24時間付き添い看護が必要だと医師に告げられたため、家族のお荷物にならないように死ぬことを選んだ。最初の理由よりはもっともらしい。・・・でも、亡くなる直前まで、自宅のスタジオで過ごしたり、トロンボーンの教則本を書いたりしていたと言います。トミー・フラナガンやジミー・ヒースたちは、みんな「わからない」としか言いません。

 では、3月9日(土)は『Dial J.J,5』を聴きながら、J.J.ジョンソンの、徹頭徹尾「理詰め」なところと、熱く燃えるジャズ魂を味わいましょう!

「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は6:30pm開講、受講料は2,625yen

CU