ビリー・エクスタイン:アイドルから伝説へ

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 9月7日(土)に「楽しいジャズ講座」で観るビリー・エクスタインは、寺井尚之が一番好きな男性ボーカリスト!バップの香り高い高度なフレージングと深い心の味わい、「智」と「情」を併せ持つ歌唱と、寺井尚之の熱い解説が楽しみです。

 その男性的な魅力に溢れるバリトン・ボイスから「セピア色のシナトラ」、その容姿から「黒きクラーク・ゲーブル」と呼ばれ、Mr.Bとして親しまれたエクスタインは、人種を越えた女性ファンに絶叫される黒人スターのパイオニアでした。

 同時にミュージシャンからも、かっこいいアニキと慕われ、パーカー-ガレスピーを始め実力者を擁するビバップのドリーム・バンドを率いて活動した3年間が、ジャズに寄与した役割の大きさは計り知れません。講座直前、戦前から80年代まで、第一線で活躍したビリー・エクスタインのことを簡単にまとめておきます。
 

 <ラブ・ソングを歌う黒人歌手>

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左から:アール・ハインズ(p)、エロール・ガーナー(p)、エクスタイン、マキシン・サリヴァン(vo)、 ピアノ前に座るメアリー・ルー・ウィリアムズ   

 ビリー・エクスタインは1914年(大正3年)に鉄鋼の街、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。同郷の先輩にはロイ・エルドリッジ(tp)が、後輩にはアート・ブレイキー(ds)がいます。
 父方の祖父はドイツ帝国に併合されたいまはなきプロイセン王国出身のヨーロッパ人で、祖母となる黒人女性と合法的に結婚しました。エクスタインのエキゾチックな容貌はそのせいなのかも… 7才の頃から歌を始め、ブラック・ハーバードと呼ばれる名門ハワード大学に進学しますが、アマチュア・タレント・コンテストに優勝したおかげで中退、本格的に歌手への道を進みます。
 1939年頃にかつてアル・カポネに愛された名門オーケストラ、アール・ハインズOrch.に専属歌手として加入、一気にトップ・シンガーに!最高のスーツでキメたゴージャスなバンドの雰囲気に、エクスタインはまさにぴったりでした。

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 アール・ハインズは最高のピアニストであると同時に、斬新なアイデアを受け容れる懐の深さがあり、その楽団.は、ビバップという新しい音楽を育むゆりかごのような場所でした。ギル・フラー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、それにマイルズが大きく影響を受けた夭折の天才トランペット奏者、フレディ・ウェブスターなどなど、キラ星のような団員で構成され、エクスタインは同僚のガレスピーにトランペットを習い、他の歌手と一線を画した器楽的なアイデアと歌唱スタイルを身につけます。

 イケメンでベスト・ドレッサーだったエクスタインが、アポロ劇場のアマチュア・ナイトで発見した逸材がサラ・ヴォーン!その頃は全く垢抜けない女子だったのですが、輝く才能を見込んだエクスタインが、容姿端麗主義のハインズに強力プッシュ、ピアニスト兼歌手として入団させたんです。当時、サラ・ヴォーンを観たエージェントは、ハインズの頭がおかしくなったのでは・・・と心配したそうですが、みるみるうちにショートカットの美女へと変身し、エクスタインからバップのコンテキストを伝授されスターへの階段を駆け上がった。サラは終生、エクスタインを兄のように慕いました。

<なんたってバンドリーダー!>

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左から:ラッキー・トンプソン, ディジー・ガレスピー, チャーリー・パーカー, エクスタイン

 当時の黒人歌手に許されたレパートリーは、コミックソングか意味のないジャンプ・チューンばかり、「黒人は道化に徹せよ」という社会で、白人客の前では、シリアスなラブソングを歌うことすらタブーだった。黒人はシリアスであってはダメという社会だった。ですからバラードで女心をメロメロにしたエクスタインの人気は、全く前例のない快挙だった。屈せず媚びない芸術家魂は、チャーリー・パーカーと共通するものがあり、若手の黒人ミュージシャンに尊敬された。その人気ぶりに、1944年、エージェントはエクスタインに自己楽団を組織して独立することを勧めます。

 ハインズ楽団で産声を上げた後にビバップと呼ばれる新しいジャズのかたちに心酔していたエクスタインは、自分のバンドをビバップのドリーム・チームに仕立て、本気で器楽演奏を主体とする活動を目指しました。トミー・ドーシー楽団から独立して、映画と歌の両方で大成功したフランク・シナトラとは、全く違う道を目指したわけです。いくら人気があっても、ハリウッドに黒人スターはあり得ない時代です。もしも、当時の映画界に有色人種をスターとして受け入れる度量があったら、ジャズの歴史はまた違うものになっていたのかもしれませんね。

 ビリー・エクスタインは自己バンド結成の理由をこんなふうに語っています。
 「バンドシンガーは楽団の使い捨てにされる。歌手としての私の自衛策は自分でバンドを持つ事だった。当時の人々は、私のような黒人歌手がバラ-ドやラブソングを歌うことをよしとしていなかった。今ならおかしいと思うかもしれないが、そんな時代だった。我々黒人は労働歌やブル-スや、アホな歌だけ歌っていればよく、愛については歌うべきではないとされていた。それにもうひとつ、私はビッグバンドが大好きだった!」
 
 billy-eckstine-orchestra-1.jpgビリー・エクスタイン楽団の在籍ミュージシャンを列記しするだけで、ドリーム・チームの様子がお分かりになるはずです。(ts)ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、フランク・ウエス、(as) チャーリー・パーカー、ソニー・スティット (tp)ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、ケニー・ド-ハム、マイルズ・デイヴィス、(ds)シド・カトレット、アート・ブレイキー・・・すごいでしょう!

メンバーたちは、仕事がはねてから次の午前中まで、ディジー・ガレスピーを中心にリハをやり、ピアノの前に集まってバップの新しいイディオムを創っていきました。ジュリアードなんて必要ない。バンドが大学だった!メンバー達はそう言いました。

エクスタイン自身もバルブ・トロンボーンを担当しました。なかなかの腕前だったけど、ビバップだけ、インストルメンタルだけというのは、世間は許さなかった。

 エクスタインの歌をフィーチュアした、A Cottage for SaleとPrisoner of Loveはミリオン・セラーになりましたが、大所帯、バンドの経営は大変です。戦時中でビッグ・バンドは遊興税を課せられ、移動手段のバスのガソリン配給もままならないイバラの道、地方巡業の公演地では、ほとんどのお客さんのお目当てはダンスとエクスタインの歌で、ビバップは理解されなかったんです。

 
1944savoy.jpg おまけに南部を旅すると、行く先々で人種差別や、ヤクザ絡みのトラブルがある。おまけに団員の音楽的な規律はビシっとしていたけれど、私生活はグダグダ。エクスタインは、上等のスーツの下にピストルを常に携帯してトラブルに備えた。それがまた「かっけえ!」と団員に慕われる!男の中の男だった。

 でも、バンド経営は別問題。あるときは公演地に譜面帳を忘れ、またある時は、チャーリー・パーカーがクスリ代のためにアルトを質入し、オカリナでソロをとる。そんなドタバタな毎日で、1947年、楽団は経済的に破綻してしまいます。

 儲からないと世間は冷たいもんだ!後に「最も過小評価されたバンド」と評したレナード・フェザーだって、その当時は、「調子っぱずれのバンド」と酷評してた。

 戦争とビッグバンドという形態の過渡期にあったドリーム・バンド!彼らの活躍ぶりをちゃんと捉えたレコーディングはないとブレイキーは残念がっています。  

<バラードを極める>


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 エクスタインはそれでもスターであり続けた。新境地はここからです。1947年 バンド解散直後、新生MGMレ-ベルと契約し、その2年後、ビリー・ホリディの献身的な伴奏者であった名手ボビ-・タッカ-を専属伴奏者し最高のバラード・シンガーとして活躍を続けました。タッカーとのパートナー・シップは、1992年、脳卒中で引退するまで終生続きました。 70年代はTVや映画などなど多方面で活躍。80年代は、ヨーロッパや、日本の「ブルーノート」にもたびたび出演し、さらに身近な存在になりました。

 2度の結婚で、連れ子を含め7人の子供のよき父親でもありましたが、そのうち、エド・エクスタインはマーキュリー・レコードの社長になり、日本公演にもドラマーとして同行したガイ・エクスタインは、プロデューサーとなり、クインシー・ジョーンズと共同で何度もグラミー賞を受賞し、現在私たちが頻繁に使うMP3の開発を手がけた音楽界の大物です。

 

 時代を先取りしながら、挫折に負けず終生「智」と「情」のある音楽を全うしたMr.B、晩年の味わいも、ビバップの土台があってこそ。その辺りを土曜日一緒に楽しみましょう!

 

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アポロ劇場主の息子ジャック・シフマン著:<ハ-レム ヘイデイ>より:
 「終戦後の芸能界の変革期に躍り出たニュ-スタ-は、ハンサムで才能あるビリ-・エ クスタインであった。Mr.Bは戦後初の真のス-パ-スタ-であった。・・・彼の発散する強烈なセックス アピ-ルは、黒人エンタテイナ-として初めて、アメリカ白人社会に受け入れられた。そのセクシ-さとは、ずば抜けた容姿だけでなく彼の音楽性、ショウマンシップ、人間性から出る魅力であった。」

「ビリー・エクスタイン:アイドルから伝説へ」への2件のフィードバック

  1. こんばんは
    ビリー・エクスタインかっこいいですね。僕は彼のビッグバンドが好きで、スポットライト原盤のTogetherをよく聴きました。綺羅星のようなメンバーで、それだけで聴きたくなるアルバムです。今回アップされた記事で、当時の事情がよくわかりました。

  2. Azuminoさま、お立ち寄りありがとうございます!
    ビリー・エクスタインのビッグ・バンドがお好きと伺い狂喜です。生で聴いてみたかったですね!バンド結成したもののネタに乏しくて、カウント・ベイシーから譜面超を提供してもらっていたとか・・・レコーディングが少ないだけに、一層想像力(妄想?)が掻き立てられます。(暑い大阪より)

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