MR. PC: 素顔のポール・チェンバース

paul1.gif   左から:ポール・チェンバース(b)、クリフォード・ジョーダン(ts)、ドナルド・バード(tp)、トミー・フラナガン(p) 『Paul Chambers 5』(BlueNote)のセッションにて。撮影:Francis Wolff


 今週(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に『Paul Chambers Quintet (Blue Note BLP 1564) 』が登場します。
 
 高校入学した頃、ジャズ評論家、いソノてるヲ氏と懇意だった従姉のお姉さんの部屋に行くと、いつも『Kind of Blue』がかかっていたので、ポール・チェンバースは、ごく当たり前のベーシストという感じでした。だってそれしか知らないから。OverSeasに来てしばらくした頃の大昔、寺井尚之が、ジョージ・ムラーツ(b)に「好きなベーシストは?」と訊いたら、ポール・チェンバースとレイ・ブラウンという返事で、なんか「当たり前やん・・・」と思ったけど、ジャズの歴史を調べると、スラム・スチュアートと共に、ジャズ史上、初めてピチカートと弓(アルコ)を併用したベーシスト。当たり前どころか革新者!
 

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 Paul Laurence Dunbar Chambers, Jr. デトロイトで育ち、NYで開花したベーシスト、Mr. PCは、僅か33才と8ヶ月の人生を、太いビートで駆け抜けた。
Paul Chambers Quintet

Paul Chambers Quintet (Photo credit: Wikipedia)

 デトロイト出身の名手に数えられるMr.PCことポール・チェンバース、でも生まれは母方のピッツバーグ、13才の時、お母さんが亡くなって、お父さんの住むデトロイトに移ってきた。最初はチューバを吹いていて、チャーリー・パーカーやバド・パウエルを聴いてからベースに転向したのが14才頃、体育会系のお父さんは、ベーシストに成るのに猛反対したといいます。

 チェンバースは1935年生まれで、トミー・フラナガンより5才年下、あの頃のデトロイトの音楽年齢を考えると、完全に一世代下の異次元世代と言えます。20才になるかならないケニー・バレルとフラナガンが、十代の学生たちのパーティで演奏(バンド用語なら「ショクナイ」という営業か?)しているところに、「すみません、一曲演らせてもらえませんか?」と飛び入り志願したのが中学生のチェンバース少年、バレルは大学でセカンド・インストルメントとしてベースを勉強していたので、「ベース奏法のABCを最初に教えてあげた師匠は私だ!」と自慢しています。

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 チェンバースとダグ・ワトキンス(b)が従兄弟同士であったことは有名ですが、血縁関係はないらしい。異なるDNAでも、この二人は親友で、デトロイトの黒人街に同居し、多くのジャズの偉人を輩出したカス・テクニカル高校に通いながら、現在の音大に優るクラシックの高等教育を受け、お互いのベースの腕を磨きあったといいます。
 学校ではデトロイト交響楽団のコントラバスの名手が、そして放課後は、ご近所の住人、ユセフ・ラティーフやバリー・ハリスがジャズ理論をしっかり教えてくれて、ホーム・ジャム・セッションまであったんだから、モーターシティはジャズ・エリート養成所でもあった!
 『Paul Chambers Quintet』の参加ミュージシャンは、テナーのクリフォード・ジョーダン以外、全員デトロイターで、トランペット奏者の、ドナルド・バードはカス・テック高の同窓生です。ティーン・エイジャーながら、ピンホール・カラーのワイシャツがトレードマークで、デトロイトのジャズクラブに盛んに起用されました。デトロイト時代に儲けた息子さん、ピエール・チェンバースは、現在歌手として活躍中です。
 
 1955年、レスター派でVice Prez(副大統領)と呼ばれたテナー奏者、ポール・クイニシェットにスカウトされてNYへ。ジョージ・ウォーリントンや、J.J.ジョンソン & カイ・ウインディグの双頭コンボを経て、マイルズ・デイヴィスのバンドでブレイクします。
 <アイドルか?ニュー・スターか?>

paul-chambers.jpg マイルズ・デイヴィスやジョン・コルトレーンとの活躍は名盤と謳われるアルバム群が示すとおりですが、ライブのステージでも、チェンバースのベース・ソロは、いつでもお客さんの喝采と掛け声が凄かったと、マイルズ・バンドでしばらく共演していたジミー・ヒースが驚いています。それほど大きなベース・サウンドで『掴み』のあるプレイだったんですね。
 
 丸顔で愛らしい風貌と、マッチョな体躯とファッション・センス、そして痺れるビートで、どこに行っても女性にモテモテだったそうです。
 
 でもチェンバースは、クラシックの地道なトレーニングをコツコツやると同時に、激しいデトロイトの競争社会を勝ち抜いて、真面目に下地を作ったプレーヤーですから、チヤホヤされても努力は怠らなかった。しこたま飲んだ翌日も、デトロイト時代からお世話になっているカーティス・フラーの家に、朝の10時ころから、ライブで演奏する曲を予習したいと、出稽古に押しかけて、そのうち、ジョン・コルトレーンやクリフ・ジョーダンも加わって、夕方までずっと練習三昧の生活をしていた。音楽も快楽も、子供のようにむさぼって、並の人間よりも、人生を疾走しすぎたのかもしれません。
 <Big P>
 
  
 ジミー・ヒース(ts)は、麻薬で服役した後に、ジョン・コルトレーンの後任者としてマイルズ・デイヴィス・クインテットに入団。当時の同僚は、ウィントン・ケリー(p)、ジミー・コブ(ds)、そしてチェンバース(b)でした。コブは、前任者フィリー・ジョー・ジョーンズと対照的に、空手もたしなむ礼儀正しい優等生タイプ、後の二人は天才肌で大酒呑みだった。ケリーは酒好きでも、自分をコントロールする術を知っていたけど、チェンバースは赤ちゃんみたいに無邪気で、ブレーキをかけることが出来ないタイプだったそうです。だからツアーともなると、しばしばベロベロになってステージに上がるというようなことがあったらしい。そうなると、リーダーのマイルズは、わざと、早いテンポで出たり、ベースのイントロが要の”So What”を演ってお仕置きした。ベロベロのチェンバースが、噛むわ、滑るわで凹んだ時には、マイルズが、あの嗄れ声で囁きかけた。
 
 ”OK、ポール、もういいよ。今夜は飯を食いに連れてってやろう。”
 
 マイルズにご馳走してもらうと、ポールは子供みたいに無邪気な顔で、パクパクと食べ物にむしゃぶりついた。ツアー中、ジミーとホテルのバーに行くと、まるで駄菓子屋にいる子供みたいに、あれも、これもと飲みまくる。
「後にも先にもあんな奴、観たことない・・・」
 
latepaulchambers.jpg マイルズ・バンド時代、チェンバースは、尊敬するチャーリー・パーカーの三番目の妻だったドリス・シドナーと同棲していた。ドリスは13歳年上だったらしいけど、ポールのような無邪気な天才には、ベスト・マッチだったのかも知れないですね。
 
 
 その間、クスリと酒は彼の強靭な体をゆっくりと蝕み、結核を患ってから、半年余りで、あっけなくこの世を去りました。
 ビートも、その生き様も、文字通り”BIG P”の名前に相応しいサムライ!
 
 
 「スイングの定義?それはポール・チェンバースが繰り出す二つの連続音である。」
Joel Di Bartolo、ベーシスト
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