明日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」にはトミー・フラナガン・トリオのアルバムの中でも最高傑作と言いたい一枚『Thelonica』が登場します。
百万弗トリオ、黄金トリオ、皇帝トリオ、GJT、・・・古今東西、名トリオは色々あるけど、私のThe Trioはこれ!トミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツ(b)、アーサー・テイラー(ds)のこのトリオの印象がなんと言っても強力なんです。それはOverSeasで生を聴いたからかも知れません。セロニアス・モンク没後、トミー・フラナガンがモンクとパノニカ男爵夫人の稀有な友情をテーマに上梓したこのアルバムは、所謂『企画もの』とは全く違い、芸術家トミー・フラナガンの叡智が一枚のレコード盤に凝縮されたような印象を受けます。セロニアス・モンクの表面的なアクを取り去ると、こんなに優しく美しい音楽になるんですね。日本料理の最高の汁椀の味や香りのように、静謐でありながら華やか、枯淡の極致ようで生命力に溢れています。ブラック・ミュージックの品格とはこのようなものなのでしょうか。
上の写真は『Thelonica』録音の翌々年、OverSeasでこのトリオが演奏した時のもの。
ジャズ講座では、寺井尚之しか語れない切れ味鋭い音楽解説や、当時の逸話が沢山お聞きになれると思います。
ぜひ皆で一緒に楽しみましょうね。
お勧め料理は、暖かくなってきたので、皆さんのお好きな「蒸し豚」にナムルやチジミを添えてお待ちしています。
CU
カテゴリー: ジャズ講座 名盤名場面集
キム・パーカー(vo):家族の肖像
夏と真冬を行ったり来たり…ベランダに満開のフリージアも今日はとっても寒そう。冷害で春野菜もなかなか口に入らないし、ひどい風邪も流行ってるみたいだし…体調は大丈夫ですか?
先週のジャズ講座は、Aurex Jazz Festival ’82のライブ盤が一番人気!クラーク・テリー、デクスター・ゴードン、J&カイなどドリームチームの快演と、実際コンサートの客席にいた寺井尚之の迫真の実況中継で、ジャズ講座ごと会場に行った気分!ほんとに楽しかった!
このアルバムのインパクトが余りに強烈で見過ごされてしまったのがキム・パーカー(vo)の『Good Girl』。G先生だけは彼女の選曲に大いに意義を見出してくださったものの、歌詞の聞き取りに苦心惨憺した割には実り少なし…まあいいか。
歌手キム・パーカーの評価は講座の解説に委ねるとして、私が興味を覚えたのは、チャーリー・パーカーとフィル・ウッズという二人の偉大なアルト奏者を父と呼んだ彼女の家庭環境です。ジャズ史上最高の天才チャーリー・パーカーをパパにするってどんな風なのだろう?
<チャン・パーカーという母>
キム・パーカーはチャーリー・パーカーの実の娘ではなく、内縁の妻だったチャン・パーカーの連れ子です。チャンはユダヤ系の白人、コーラス・ガールで当時ジャズのメッカだったNY52番街のすぐ近くで生まれ育ったチャキチャキのNY娘、パーカーが愛した女性達の中で唯一、彼を「バード」と呼んだ女と言われ、極めて強い個性が私にダイアナを彷彿とさせます。’50年代ですからNYとはいえ黒人と白人のカップルは音楽の世界を一歩出ると、世間の風当たりはさぞ厳しかったことでしょう。二人の間に出来た娘が病死したのが原因で離婚、その数ヵ月後にバードも他界。彼女の手元には殆ど遺産らしきものはなかったそうです。2年後にパーカーを崇拝するアルト奏者、フィル・ウッズと再婚。’83年に離婚してからはパリ郊外に居住、作詞作曲家としても活動し、1999年にキムと、フィル・ウッズとの間に出来た息子、ガーフィールドに看取られて74歳の生涯を閉じました。
彼女の自伝《My Life in E♭》が出版されていると知ったので一度読んでみたいと思います。またチャーリー・パーカーの生涯を描いた映画《バード》(クリント・イーストウッド監督作品)の脚本は、チャン・パーカーの回想が基になっているので、興味のある方は一度ご覧になればいいかも知れません。
<パパとしてのバード>
キム・パーカーがチャーリー・パーカーと共にイースト・ヴィレッジのアパートで暮らしたのは’50-’55の足掛け五年間で、その住居はNY市の史跡として現存し、アパートは家賃$4,500也で住むことも出来るみたい。その史跡のHPにキムのインタビューがありました。チャーリー・パーカーの伝記「Bird Lives」(Ross Russell著)と内容はよく似ていますが覗いてみましょうね。
小学生だったキムは、そのアパートから数ブロック北にある小学校に通っていましたが、学校の始まる時間は家族全員が寝ているので、可愛そうに、幼い彼女が自分で朝ごはんとお弁当を作って独りで学校に通っていたそうです。他の子供達と全く環境が違うのでイジメにあったのかも知れません。摂食障害になり毎朝10:30になると決まって嘔吐するため、学校が自宅に医者の診察を受けさせるよう勧告。お父さんに医者に連れて行ってもらったというのが一番記憶に残っているそうです。
医者の診断は「体に異常はなく、恐怖感が嘔吐の原因になっているので、自信をつけてあげなさい。」というもので、バードはそのままキムの手を引いて学校まで連れて行ってくれました。いじめっこが一杯の白人小学校に、立派で黒いお父さんと一緒にいることがどれほど自信になったことかとキムは回想しています。
家庭でのバードは、全く普通の人だったとキムは言っています。日曜日は家でお父さんが作ったト音記号の形の食卓(!)で夕食を取るのが決まりになっていました。家庭でジャズが流れることは全くなくBGMはクラシック音楽、ペギー・リーのスタンダードも好きだったそうです。西部劇が大好きで、西部劇の名脇役、ジョージ・ギャビー・ヘイズを街角で見かけて、サインをもらったと言って得意がり、おもちゃ屋さんで手品の道具やいたずらの小道具を買ってきては、キムを喜ばせてくれたとも語っています。
両親の間の揉め事や、妹の死、父の麻薬の問題も、小学生のキムには理解を超えていたし、父が「悩み」を抱えているとは到底思えなかった。とにかく父バードはキムにとって「特別な存在」だったし、幸せな思い出だけが残っていると彼女は語っています。子供ならそれも当然かな?
両親が別居しバードが亡くなるまでも、バードはたびたびキムを訪ねて来て、彼女をびっくりさせようと、一度は馬を借りてカーボーイのように乗馬でやってきたこともありました。そのエピソードは映画《バード》にも少し形を変えて用いられています。
キムの証言を読むと、ジミー・ヒース(ts)の奥さんモナの名言を再び思い出しました。
「天才ミュージシャンは例外なく子供みたいなところがある。」
チャーリー・パーカーの死後、キム・パーカーはフィル・ウッズという新しいお父さんに恵まれ、スイスの寄宿制学校からNYのホフストラ大学で演劇を勉強。’恐らく育児のためにしばらく活動を休止した後に’79年から音楽活動を再開し、ジャズだけでなく映画の吹き替えの仕事などでも活動していたようですが、現在はどうしているのでしょうか?
キム・パーカーの歌唱には、良くも悪くも、ビバップの影響も呪縛も、少なくとも私の耳には一切聴こえてきません。それはチャーリー・パーカーがキムに対して「芸術家」としてでなく、純粋に「家族」として接し、愛情を注いだためだったのかも知れませんね。
さて、17日(土)はメインステム!4月のあの曲、この歌でゆっくりお楽しみください。
ベランダで寺井パパが育てている色んな花が寒さにしおれていなかったら、飾っておきます。
おすすめ料理は、寺井尚之お手製「牛肉の赤ワイン煮」です。こちらもお楽しみに!
CU
All God’s Children Got Rhythm!
暑くなったり、寒くなったり、寒暖のダイナミクスが大きすぎですが、皆様お元気ですか?
大阪の桜もそろそろエンディング・カデンツァに差し掛かってきました。でも路地裏の私には「お花見」の余裕がないのがPity! 残念・・・
先週の土曜日の寺井尚之トリオは坂田慶治(b)、菅一平(ds)の初顔合わせ、珍しく食事しに来た鷲見和広(b)さんの飛び入りもあって、大いに盛り上がりました。
この夜は、真剣な顔で演奏を聴く子供さんがいっぱい!
北京に単身赴任される常連K氏がトリビュート・コンサートを聴きに日本に帰って来られて、さいたまのファミリーと共に再び大阪にジャズを聴きに来て下さいました。USJとOverSeasの大阪ツアーが、ピアノやドラムス、トランペットをたしなむお子さん達のプランというのが嬉しいやん!
左から:菅一平ジュニア(p), お母様にそっくりな真裕ちゃんfrom さいたま(tp)、イッペイ(ds)、志歩ちゃんfrom さいたま(p)
Kファミリーの真裕子ちゃん、志歩ちゃん姉妹は、二人とも、幼稚園前からOverSeasの常連で、ジョージ・ムラーツやトリビュート・コンサート・・・前の店舗からマナーと聴きっぷりがよくて、私も尊敬してます。
イッペイさんの子息、心海くんは3つの誕生日からピアノを習っていて現在小学二年生。もう少ししたら、寺井尚之に習うと決めてます。バッパー向きのCall & Responseができる性格なので、ベーシストを目指すザイコウ・ジュニアと共に将来が楽しみ。この夜も、セッションの合間はKファミリーのテーブルに座り込み、深遠なジャズ談義にふけってました。
皆、赤ちゃんの時から知ってるから、大きくなっておばちゃんもウレシイな!私たちがいなくなっても、ジャズを愛し続ける大人になってほしいです。
「子供」といえば、土曜日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場する歌手、キム・パーカーはチャーリー・パーカーの妻、チャン・パーカーの連れ子、つまりバードの義理の娘さんです。チャーリー・パーカーとチャンは、’50年からパーカーが非業の死を遂げる5ヶ月前まで結婚していて、チャンはその後、チャーリー・パーカーの弟子格のフィル・ウッズと再婚しましたから、キム・パーカーは、ジャズ史上に輝く二人のアルト奏者をお父さんにしたことになります。
アルバム・タイトルも『Good Girl』、タイトル・チューンは、義父フィル・ウッズのオリジナル曲でラブソングにあらず。「いい子にしてた?」といつも聞かれてうんざりする女の子の歌。
パーカーと暮らしていた時は、彼が学校の送り迎えをしてくれていたそうです。不安定な環境から拒食症に苦しみながらも、お父さんと一緒にいる時はとても安心できたと、キムはインタビューで語っています。チャーリー・パーカーは家庭生活とジャズライフを区別していて、自宅にいるときは、練習はおろかジャズは一切聴かず、クラシック音楽が流れているか、西部劇やエド・サリバン・ショウなどのヴァラエティ番組を観ているかで、一般人とほとんど変わらなかったというから、天才は判りません。
お母さんがヨーロッパで活動していたフィル・ウッズと結婚してからは、スイスの寄宿学校で行儀作法を学んだということですが、ジャズ歌手としてのキム・パーカーに、それらのバックグラウンドが感じられるかどうかは、ぜひ講座に来てみてください。
キム・パーカーの対訳を作るため、桜を見る余裕もないほど四苦八苦。とにかく歌詞の聞き取りが難しく、遥かアメリカ南部に帰っちゃった友、ジョーイ氏に泣きつくテータラク、「こない唄ってるんやで~」と、プルーフ・リーディングしてもらって聴きなおしても、「え~・・・ほんまかいな~」という位、聞き取りにくい箇所がいくつかあって号泣しそうになりました。Thanks a Billion, Joey!
同時に講座で取り上げる『Aurex All Star Jam』のクラーク・テリーが歌う”I Want A Little Girl”も対訳付きです。一世を風靡したトロンボーン・チーム、J&カイ、後に映画スターになったOur Man、デクスター・ゴードン(ts)、ケニー・バレル(g)、ロイ・ヘインズ(ds)、リチャード・デイヴィス(p)など千両役者勢ぞろいで、”Eclypso”、”Minor Mishap”といったトミー・フラナガンのオリジナル曲をブロウして爽快です!
ジャズ講座は4月10日(土) 6:30pm開講!
お勧め料理にはアメリカン・ポーク・チャップと、季節野菜のパスタを作ってお待ちしています。
CU
対訳ノート(25)Speak Low
寒い日が続きますが、日差しは春が近くに来ていることを教えてくれます。東京方面は雪だったそうですが、皆様いかがお過ごしですか?先週のジャズ講座は、とっても盛り上がりました。『The Magnificent』(トミー・フラナガン3)には別テイクが沢山公開されていて、テイク数の推理は寺井尚之ならではの説得力がありました。師匠への愛に溢れる激辛トークがどうにもとまらなくなって、あやうく最終新幹線に乗り遅れそうになったお客様も…間に合ってよかった!
ジョージ・ムラーツ(b)、アル・フォスター(ds)時代のトミー・フラナガン3の作品、”The Magnificent”は「品格あるもの」という感じかな?日本盤のタイトルは”Speak Low”です。
<Speak Low 歌のお里>
“スピーク・ロウ”は、OverSeasのライブの定番として長らく聴いてきました。時たま、バーや居酒屋と間違えて来られたお客様たちが演奏中にワイワイ騒ぐと、寺井尚之がこの曲を演奏して「小声で話してや~!」とアピールしていたので、長年の常連様にはとっても馴染み深いナンバーですね!
クルト・ワイル作曲、オグデン・ナッシュ作詞の<スピーク・ロウ>のお里は、1943年のブロードウエイ・ミュージカル、『ヴィーナスの接吻 One Touch of the Venus』、美術館のヴィーナス像の薬指に床屋の青年が婚約指輪をはめると生身の美女に変身して・・・というロマンチック・ドタバタ・コメディーで、48年にきれいなエヴァ・ガードナー主演で映画化されています。ブロードウェイではヴェーナス役としてマレーネ・ディートリッヒに白羽の矢が立ったのですが、俗っぽくてお色気過剰で、舞台で脚線美をモロ出しするのは娘の教育に悪いと言って断ったらしい。
作詞のオグデン・ナッシュは「アメリカ最高の小唄作詞家」としてつとに有名ですが、ブロードウェイでヒットしたのはこの『ヴィーナスの接吻』だけ・・・この作品では脚本も担当しています。クルト・ワイルは皆さんもよくご存知、『三文オペラ』で有名ですね。ドイツで活動していましたが、ナチのユダヤ人迫害を逃れ米国に移住した人です。数年前にInterlude に書いたことがありますが、この歌詞の冒頭、”Speak Low, When you speak love”はシェークスピアの有名な喜劇『空騒ぎ: Much Ado About Nothing 』の名セリフ、一目惚れした女性に恋を告白できない内気な親友の為、貴族ドン・ペドロが、仮面舞踏会の夜、親友になりすまし、このセリフで彼女を口説きます。
ミュージカルについてあれこれ相談をしているとき、クルト・ワイルが何気なく引用したシェークスピアの台詞にヒントを得たナッシュが一気に詞を書き上げたと言われています。A-A-B-A形式なんだけど、小唄どころか56小節の長い歌、Aの部分が各16小節で、サビのB部分はたった8小節しかない変形サイズ。
『The Magnificent』では冒頭の”Speak Low…”のところを、わざと朗々と歌い上げてみせるところが、いかにもフラナガン流ジョークに思えます。まるで、内緒話を大声で言ってびっくりさせようとしているみたいで可愛い!原曲はゆったりしたハバネラだけど、フラナガンはin twoと4beatを駆使してメリハリのある楽しい演奏解釈でした!
映画『ヴィーナスの接吻 One Touch of the Venus』の”Speak Low”のシーンはyoutubeで観れます。オリジナル歌詞はネット上にありますが問題が多い。歌詞を勝手に載せるといけないので、こちらを三行目から読んでみてください。
Speak Low スピーク・ロウ
Ogden Nash/ Kurt Weill
恋を語る時は
小声で囁いて。
夏の日は
瞬く間に色褪せる。
恋を語る時は
ひそやかに。
二人の時は駆け足で過ぎ、
海に漂う舟の如く、
あっと言う間に離れ行く。愛しい人よ、
ひそかに甘く囁いて、
恋は一瞬の火花、
すぐに闇へと消え去るもの。
どこにいようと、
すぐに明日は来る。時はあまりに速く、
恋はあまりに短い。
恋は輝く純金で、
時は泥棒のように恋を奪う。愛しい人よ、
私たちは遅れているよ、
カーテンが降りると、
全てが終わる。私はじっと待っている、
愛しい人よ、
お願いだから囁いて、
愛の言葉を
さあ早く!
当店の演奏中は、恋愛でも経済問題でも、常にスピーク・ロウでお願いいたします。
土曜日のメインステムをおたのしみに!私は赤身の多い特上三枚肉と、大きな白花豆でポーク・ビーンズを作ってお待ちしています。
CU
ジャズ講座やウォルター・ノリス(p)さんのことなど・・・
暖冬予報はいずこ?昨日から大阪もとても寒いです。皆さま、いかがお過ごしですか?
<新年ジャズ講座>
OverSeasは新年ジャズ講座から大爆笑、それというのも、新年に寺井尚之のカギ型ブリッジ付きの差し歯が食事中にどこかに消えてしまい、ジョージ・ムラーツの仲良しドクター、梶山せんせいに相談したら、「えらいこっちゃ!腸に引っかかっとったら開腹手術やで!!」と言われ、スッタモンダの末、大きな病院を紹介してもらってレントゲンをかけたけれど見つからない・・・歯はいずこ??? 上方落語みたいなお話でお腹の皮がよじれました。ライブの寡黙な寺井尚之しかご存じない方にはアンビリーバブルかも・・・本題の解説は、音楽的でアカデミック、フラナガンをはじめとするジャズメン達のちょっとしたフレージングやバッキングで判る親密さなど、トミー・フラナガンの弟子にしか、ミュージシャンにしか判らない醍醐味をたっぷり味わうことができました。
今回登場したアルバム中、腕の良さがケタ違いだったのは、何と言ってもフランク・ウエスの『バトルロイヤル』!テナー、アルト、なんでもこなす巨匠フランク・ウエスがフルートに専念し、フラナガン、ジョージ・ムラーツ(b)、ベン・ライリー(ds)の最強リズム・セクションがバックアップして、純米大吟醸みたいに淡麗な演奏にうっとり!この作品は2月に後半が聴けるので、ぜひどうぞ!
個人的に好きだったのは、フラナガンが「親友」と呼んでいたJ.R.モンテローズ(ts)とのデュオ・アルバム『・・・And a Little Pleasure』、モンテローズは決して大スターでも巨匠でもないけど、ハード・バッパーらしい潔さと、歌詞のある曲のセレクションや「歌詞解釈」が好き。独特の野太い音は、一度生で聴いてみたかった・・・今回の”Never Let Me Go”も哀愁が漂って泣けました。タイトル曲、『Pain and Suffering and a Little Pleasure(痛みと苦しみ、そしてささやかな喜び)』は、モンテローズの音楽観なのだろうか?あるいは彼の人生がそうだったのか?ビター・スイートなタイトルが、いかにもトミー・フラナガンの親友らしいです。今年の講座のラインナップは、久々にボーカルも登場するので、また対訳にいそしむことになりそうです。次回は2月13日で、”My Funny Valentine”も登場するようです!
<ウォルター・ノリスさんのこと>
先週、ジョージ・ムラーツの新しいベースのことを書いたら、偶然にもムラーツの盟友ウォルター・ノリス先生から、「ジョージを新しいベースで聴いたよ!」とお知らせメールが到着!
ノリスさんは、昨年11月に開催されたベルリン・ジャズフェスティバルのハンク・ジョーンズ3でジョージ・ムラーツのプレイを聴いて、新しいベースをムラーツが、完璧に使いこなしている様子にぶったまげたそうです。確かベルリンのそのコンサートがあのトラベル・ベースのデビューだったと思います。’70代から愛用していたイタリア製の名器に「カナリア」という愛称をつけたのもノリスさんですから、新しいベースにも、何か適当なニックネームを付けて欲しいな。
2009 11月ベルリン・ジャズフェスのハンク・ジョーンズ3
因みにコンサート後、ジョージ・ムラーツとハンク・ジョーンズ(p)は、モダンアートと日本の調度品で飾られたノリス夫妻の瀟洒なアパートで再会を楽しんだそうです。
昨年は、心臓発作に見舞われて演奏活動休止という大きな不幸に見舞われたノリスさんですが、主治医が驚くほど体調が回復しているそうで、とても嬉しいです!今年はベルリンでレコーディングの企画も持ち上がっているそうで、一日も早いカムバックを願うばかり!ノリちゃんがんばれ!
と、今日はここまで書くまでにダイアナ・フラナガンから電話が4回もありました。今年は不惑の年にしたいけど、メールサーバーも復旧しないし、波乱の予感・・・
明日はThe Mainstem新春ライブで楽しく過ごしましょう。ご予約は電話あるいはメールならtamae.terai@gmail.comまでください。
お薦め料理は、「かぼちゃとひき肉のグラタン」を作ろう。
え?寺井尚之の失われた歯はどうなったって?まだ見つかってません・・・Pain and Suffering and a couple of Little Teeth…
CU
「トミー・フラナガンの足跡を辿る」新刊できました!
北国は大雪だそうですね。大阪も昨日から寒くなりました!配達に来た八百屋のお兄さんが「さむいてなもんとちゃうわ!今日は震えるで!」と走って行きました。巷は忘年会シーズンで色々お忙しいと思いますが、皆さま、二日酔いは大丈夫すか?
さて、ジャズ講座の本、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第7巻がやっと出来上がりました。サブタイトルが《エラ・フィッツジェラルドとの黄金時代(その2)》:『Jazz At The Santa Monica Civic』『Newport Jazz Festival Live At Carnegie Hall』、『Montreux ’75』など、ジャズ通でなくても、明日への元気、健康増進のため、サプリメント代わりに毎日聴きたい名盤中の名盤がずらりと並びました!
世界の都市で公演を重ねて行くうちに、エラ+トミーのコラボがどのように進化していくのか?寺井尚之の解説を読んでいくと、単なる「歌伴」の枠をはるかに越えた、有機的な音楽の変遷を辿ることができます。エラ+トミーのコラボ盤は『Fine & Mellow』以外、全てライブ録音のため、音質の是非を問う意見もありますが、所詮は録音されたもの。内容に比べれば、「音質云々」などDoesn’t Matter!付属の対訳ページで、エラ+トミーならではの歌詞に沿った転調の神業も手に取るように判ります。「喝采こそイノチ!」のエラ・フィッツジェラルド!ノーマン・グランツさん、ありがとう!ライブ盤でよかった~。
今回も、エラの歌う歌詞の完全対訳は不肖私が作りました。ご存じのように、エラはすぐ歌詞を忘れることで有名な歌手ですから、確かに「忘れてるな・・・」というのもあります。とはいえ、彼女の歌詞解釈はびっくりするほど深い!「酒とバラの日々」や「ポルカドッツ&ムーンビームズ」など、”ああ、またか・・・”と思うような超スタンダードの歌詞の深さ、コール・ポーター歌曲の強さと優しさは、エラの歌唱を通じて、私も初めて思い知りました。録音を聴きながら対訳を読んでいただくと、かなり楽しめると思います。
エラ以外にも、新刊の読みどころは一杯!『Newport Jazz Festival Live At Carnegie Hall』のオールスター・ジャム・セッションの楽屋裏でミュージシャン達が交わす会話の下りは、「あんた見てきたんか?」という位、リアルで抱腹絶倒。体育会系ジャズ・ミュージシャンの上下関係を知っている寺井尚之だからこそ語れる裏話が満載。ジャズ・マンの視点から見たバート・バカラックやビートルズなど、当時のポップ・ソングに対する論評も、大変興味深いものがあります。
そして、新刊のもう一つの目玉は『Tokyo Recital ( A Day in Tokyo)』の解説。リアルタイムでコンサートを聴いた寺井尚之の思い出、それに44歳という年齢のフラナガンの奏法解説、ベース、ドラムスの動きを明確に解説しながら、”あの”ダイナミックなトリオ演奏を分析していますので、フラナガン・サウンドを目指すミュージシャンは必読です!
と、いうわけで、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第7巻新発売。ご希望の方はOverSeasまで。トリビュート・コンサートのCDも併せてご注文ください。
講座本新刊は、もうしばらくしたら、”ワルティ堂島”さんや、”ジャズの専門店ミムラ”さんにも配達しに行きます。
明日は忘年会ピークかな?楽しく静かにバップ・ギターを聴いて過ごしたい方は、ぜひ末宗俊郎3を聴きに来てください!
19日(土)は寺井尚之3”The Mainstem”(要予約)、身も心も温かくなるように、チキンと根菜をたっぷり入れた熱々のクリームシチューを作ってお待ちしています!
CU
ほのめかしの美学 < It’s All Right with Me > 対訳ノート(21)
日ごとに秋が深まって、夜空もきれいです。オリオン座のスターダストは見えましたか?音楽と文学の秋、今日は先日のジャズ講座や、寺井尚之3”The Mainstem”で楽しんだコール・ポーター作品、< It’s All Right with Me >について書こうかな。
<コール・ポーター的世界>
コール・ポーター(1891ー 1964)
ファッション界の大御所フォトグラファー、リチャード・アヴェドンが撮影したコール・ポーターは「都会的洗練」が上等のスーツを着て煙草をくゆらせているみたい。
< It’s All Right with Me >の作者コール・ポーターは、作詞作曲の両方をやってのける数少ない音楽家。高校時代、すでに「歌詞と曲は分かち難く一体でなくてはならない。」という信念を持っていたといいます。
ポーター作品の特徴は、都会的で垢ぬけていて、ビタースイートなところ。そして、歌詞については、「ほのめかし( insinuation)」「 ダブル・ミーニング(double-entendre)」の妙です。都会的でビタースイートな作詞家なら、他にMy Funny Valentineなどを書いたロレンツ・ハートがいるけれど、ポーターの書く詞は、もっときらびやかで甘さは控え目です。
米国中西部インディアナ州ペルー出身、スコットランドに祖先を持つコール・ポーターは、お母さまに溺愛された甘やかされっ子。母方の祖父は、一代で財を成した街一番の富豪、ポーターの養育費、学費などを援助しました。厳格な祖父は孫が将来法律家になり、家督を相続して欲しいと願っていたのですが、母の助けで祖父を欺きながらエール大やハーバード大時代から作曲に勤しみ、卒業後すぐブロードウェイで活躍します。第一次大戦中の1917年に渡仏、パリ社交界で、政界財界のセレブ達とパーティ三昧の享楽的生活を送りながら、表向きは、フランスの外人部隊に参加していた戦争の勇者と偽っていました。
28歳のとき、ポーターはパリで知り合った、アメリカ人の富豪リンダと結婚します。でもそれは、業界の「公然の秘密」であった彼のホモセクシュアリティを承知の上の、ちょっと変わった結婚であったそうです。まだアメリカでは、多くの州で同性愛が犯罪行為とされていた時代のこと、その辺りは、「五線紙のラブレター」(2004)というコール・ポーターの伝記映画でハリウッド的に美化されて描かれています。コール・ポーターの愛人の男性たちは、振付師、建築家など職業も色々ですが、皆大柄で逞しい男性であったそうで、ポーター作品の版権は全て最後の愛人とその遺族に帰属しています。
フランス帰りのトップ・ソングライター、見た目も中身も徹底的に洗練された「粋」の権化、コール・ポーターの悲劇は46歳の時に起こります。’37年、落馬事故で両足骨折し、34回の手術の挙句、片足を切断、死ぬまで激痛と闘いながら創作活動を続けました。誰よりも「ルックス」にこだわっていたポーターの辛さはどれほどだったでしょう。その苦しみが、享楽の「報い」と思えることがあっても、不思議ではないかも知れない。でも、享楽も苦しみも、誰も知らない悲しみも、溢れる想いは、いつも「ほのめかし」と「ダブル・ミーニング」に隠されていて、野暮天には一生分からないようになっている。
<危険なラブ・ソングに隠されるコード>
とりあえず<It’s All Right with Me>の歌詞を読んでみましょうか。元歌詞はこちら。
元々はパリ生まれのお色気たっぷりのレビュー、フレンチ・カン・カンを題材にしたミュージカル”Can Can”の挿入曲、映画ではフランク・シナトラが歌いヒットしました。
私が聴きなれているエラ・フィッツジェラルドの歌は、「Montreux ’75」と、「Jazz At The Santa Monica Civic 」に収録されています。道ならぬ恋の歌だけど、いやらしくなくて、粋で色っぽい歌詞が、エラの明るさとマッチして、強烈なスイング感と共に独特な魅力を発散し、グッと来ます。コール・ポーター自身もエラが歌う自作品を非常に気に入っていたそうです。 年末に発行予定の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第7巻には、他にも、エラ・フィッツジェラルドの歌うコール・ポーターがたくさん載っているのでぜひ読みながら聴いてみてくださいね。
<イッツ・オーライト・ウィズ・ミー:sung by エラ・フィッツジェラルド>
Cole Porter (’53作)
A-1
いけない時間に、いけない場所で会った人、
あなたの顔は魅力的、でも、いけない顔ね。
彼の顔ではないけれど、あんまり素敵な顔だから、
私は別にかまわない。
A-2
いけない歌だし、歌い方もいけないわ。
あなたの微笑は素敵だけど、それはいけない笑顔でしょ。
彼の微笑じゃないけれど、ほんとに素敵な笑顔だから、
私は別にかまわない。
B
出会えて私がどれほど幸せか、あなたは分からないでしょ。
不思議にあなたに魅かれてる。
私には忘れたい人がいるんだけど、
実はあなたもそうじゃない?
A-3
いけないゲームに、いけないものを賭けている。
いけないことと知りながら、あなたの唇にうっとりしてる。
彼とは違うけど、うっとりするようなキスだから、
もしも特別な夜にあなたが自由なら、
ねえ、私は別にかまわないのよ。
詞だけ読んでいるとかなりヤバい、いやらしいなあ・・・ところが、あの軽快なメロディと一緒だと、不思議にサラリとして、粋になるのが、メロディと詞を合体させてやっと味が出るというコール・ポーターらしさですね!
<ほのめかしはどこに?>
エラの歌も映画のシナトラ・ヴァージョンも、道ならぬ恋に、どうしようもなく堕ちていく歌ですが、本当のところ、コール・ポーターがこの歌詞に託したのは、自分が住む男同士の恋の世界に思えて仕方ありません。
上のエラの歌詞は女性だから彼女 を彼 に変えているけど、A-1部分の元々の歌詞はこうなっている。
It’s the wrong time, and the wrong place,
Though your face is charming, it’s the wrong face,
It’s not her face, but such a charming face
That it’s all right with me・・.
「いけない時間といけない場所」というのが、パリ時代にコール・ポーターがよく開いたという男だけのゲイ・パーティを暗示しているとしたら、チャーミングな顔やどうしようもなく魅力的な笑顔も、唇も、それらが「いけない」わけは、「同性のものだから」ではないのかな?
その証拠が3行目にほのめかされている。
It’s not her face, but such a charming face that it’s all right with me・・.
つまり、「それは女性の顔じゃないけど、あんまりチャーミングだから、(男でも)僕は構わない。」と読めてしまうんです。
ではB節の「忘れたい誰かさん」とはコール・ポーターにとって誰なんでしょう?別居中だった奥さんのリンダなのか?ゲイに否定的だった当時のアメリカの教会や司法なのかしら?私には、厳格な祖父、OJ・ポーターの顔が見えます。
ゲイの世界には全然縁がないけれど、<イッツ・オーライト・ウィズ・ミー>には、コール・ポーター的な「ほのめかし」と「ダブル・ミーニング」がたくさんあって、わくわくします。
それにしても、快楽的なこの歌が、片足を失い辛い痛みと闘っていた人が書いたものとは、とても思えません。苦しみや悲しみはすべて、上等なスーツの内ポケットに隠していたんですね。壮絶なるええかっこしい・・・極限のダンディと言えるかもしれない。
コール・ポーター的「ほのめかし」のウィットをよく理解するトミー・フラナガンだからこそ、『The Standard』に敢えてこの曲を収録したのかな?歌詞の聴こえるプレイが身上のピアニストですから、歌詞を観ながら演奏を聴けば、フラナガンの「ほのめかし」と「ダブル・ミーニング」がお分かりになるかも・・・分からなければ、講座本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」にそのうち載りますよ!
CU
Red Mitchell (その3) 考えて闘ったベーシスト
台風一過で秋本番の大阪です。今朝はJRのダイヤも大混乱でしたが、いかがお過ごしですか?皆さんの町やご家族の誰にも被害がなければいいのですが・・・
<私が故国を去った理由>
レッド・ミッチェルが住みなれたLAを離れストックホルムに転居したのは1968年ですが、初めてスエーデンを訪れたのは’54のツアーで、ビリー・ホリディも一緒だったと言います。リムジンで街を案内された時、ビリー・ホリディはてっきり景観の良い場所だけをドライブしているのだと思いこんで、「スラム街に連れて行ってよ。」と言いだしました。すると、現地の人たちはこう言って、レディ・デイを驚かせたそうです。
「この町にスラム街はありませんよ。」
「そのかわり、この国にはビヴァリー・ヒルズもありませんがね。」
アメリカン・ドリームの裏側にある、構造的格差社会の米国に失望したミッチェルは、第二の人生の舞台に、平等社会スエーデンを躊躇なく選んだのかも知れません。
ジーン・リース著、「Cats of Any Color」の中で、レッド・ミッチェルはスエーデン移住の動機について語っています。
レッド・ミッチェル:「二度目の妻と暮らしていた時のLAの自宅はシャロン・テートを惨殺したマンソン・ファミリーの活動場所の近所でね、近所の老夫婦が殺害され、私の家のガレージが荒らされた。彼らの仕業だと思うよ。当時、ショウビジネスの人間は戦々恐々としてしていて、スティーブ・マックイーンですら拳銃を携帯していたほどだ。だが、あの事件は米国全土に蔓延する暴力主義の氷山の一角に過ぎない。
私がアメリカを去ったのは、ホワイトハウスから地下鉄に至るまで、全米を覆い尽くす暴力と人種差別が原因だ。具体的には、ごく短期間に続けて起こった6つの事件が、移住の理由だ。ひとつは二度目の結婚の破たん。ふたつめは、ヴェトナム戦争から街で起こる事件など様々な暴力の悪循環に加担したくなかったから。そして、僕たちが演奏する音楽にも、社会の暴力的な要素が反映されていくのに耐えられなかった・・・」
レッド・ミッチェルの最後の妻、ダイアンはスエーデンを含め3つの大学で社会学を修め、反戦運動に関わった社会活動家ですから、実存主義的でリベラルな思想は、ひょっとしたら彼女の影響なのかも知れません。
<スエーデン時代>
ペデルセンと、二大巨匠の2ショット。
スエーデンに渡ったレッド・ミッチェルはアーティストとして大歓迎を受け、フリーランスで活動します。その頃レギュラーで共演していたのが、12月のジャズ講座に登場するテナー奏者ニセ・サンドストローム(ts)です。
’77年から’90年までは、毎年必ずNYに3か月間滞在し、「ブラッドリーズ/ Bradley’s」を拠点にして、トミー・フラナガン、ジム・ホール(g)、ハーブ・エリス (g)と共演。辛口コメントで知られる評論家レナード・フェザーに「ジャズ・ベース最高のソロイスト」と賛辞を献上させています。
ベースだけでなくヴォーカルやピアノも演奏、そればかりか詩人としても活躍しました。91年にはスエーデンのグラミー賞を受賞、同年ソ連にホレス・パーラン(p)とツアーしています。演奏の傍ら、欧米をまたにかけ”Communication”, “ベース・ワークショップ” “五度チューニング・ベース” などのテーマで講義、講演し、教育者としても実績を挙げました。チャーリー・ヘイデン(b)や、モンティ・アレキサンダー(p)のレギュラー・ベーシストであるハッサン・シャカール(Hassan A. Shakur aka.J.J. Wiggins)もレッド・ミッチェルの愛弟子なんです。
<ズート、サラ、マイルス・・・レッド・ミッチェルのアイドルたち>
音楽や社会問題、何でも徹底的に論じ尽くすレッド・ミッチェルの発言を読んでいると、もし彼が日本人なら、TVコメンテイターに成れたのに・・・と思うほどです。そんな彼の音楽的アイドルは、ベーシストでない人ばかりでした。
レッド・ミッチェル:私のアイドルは、ベーシストとは限らない。たとえばズート・シムス(ts)、それにサラ・ヴォーン(vo)だ。彼女の数え切れない美点の中でも、あのイントネーションが最高だ。彼女の音程は完璧だ。ど真ん中に命中した音程が、次にはさらにその中心に、その次には、さらにその針の穴のど真ん中にヒットしていくのが堪らない。それだけで鳥肌が立って泣いちゃうよ。
自分の生徒には、ベースでなくホーン奏者を見習えと常に言っている。特に心から薦めたいのが’50~’60年代のマイルス・デイヴィスだ。
なぜなら、マイルス・デイヴィスにはトランペッターとしての天賦の才はないからだ。マイルスはトランペットを演奏する為には、ありとあらゆる問題を克服しなければならなかった。そのため、マイルスは考えに考え抜いた。問題と闘いながら考え抜いたんだ。だから彼のプレイは実にシンプルで深みがあり、ベース奏者でも演奏できるし、オクターブ低く引けば一層深みが増すフレーズが多い。だから、ホーンならマイルスを聴けと言っている。
マイルス・デイヴィスは自分の欠点を、最高の長所に変えた。彼の吹く音は、様々な問題と格闘した結果だ。彼が考えることなく出した音などただ一つとしてないよ!
私にもベーシストとして致命的な欠陥がある。一番の欠陥は、極端な「右利き」であること:普通ベースの演奏は8~9割までが左手の仕事なんだよ。左手と右脳を柔軟に活用して、右手はとれとれの魚みたいなもんでいいんだ。左手を自由に使えるよう努力してみたが、どうにも無理だった。それで、「右利き」を最高に活かせるようフィンガリングを工夫して、自分の奏法を編み出した。マイルスのように欠点を長所にしようと格闘したわけだ。
<晩年>
G先生のお話によれば、’92年にレッド・ミッチェルが故国に戻り、オレゴン州のサレムに転居したのは、ダイアン夫人のお父さんがそこに住居を持っていたのと、ストックホルムのアパートで近隣から演奏による「騒音」の苦情が来たためであるそうです。
この頃からミッチェルはしばしば狭心症の発作が激しくなり、痛みをこらえて生活していたそうで、ひょっとすると、アメリカに帰ったのは、自分の死期が近いのを予感していたせいかも知れません。トミー・フラナガンやレッド・ミッチェル、サー・ローランド・ハナ・・皆心臓疾患を抱えていたんですね。
帰国後、大統領選挙戦たけなわの’92年10月、ミッチェルは軽度の心臓発作で入院、リベラルでジャズ・ファンであったビル・クリントンに不在者投票しています。11月3日、心臓検査の結果は良好、またビル・クリントンが大統領に選出され、レッド・ミッチェルは最高の上機嫌でLAにいる弟のゴードン・ミッチェルと、長距離電話で互いに祝い合いました。
その夜遅く、レッド・ミッチェルは脳卒中の発作に見舞われ5日間昏睡状態となり、1992年11月8日、帰らぬ人となりました。
先月から、三回に分けて、レッド・ミッチェル(b)について書いてきましたが、ちょうど、この時期にレッド・ミッチェルのメモリアルサイトがオープンしていました!ダイアン未亡人が作成しているサイトで、まだ工事中の箇所もありますけれど、写真やヴィデオも沢山Upされていて、とても嬉しく思いました。「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のレッド・ミッチェル時代にこのサイトが出来たのは、ミッチェルの言葉を借りるなら、神様ではなく”母なる自然”の思し召しかも知れません。
今回のレッド・ミッチェルの写真はすべてhttp://www.redmitchell.com/からのものです。
土曜日のジャズ講座では、レッド・ミッチェルの饒舌な語り口そのままのベースを楽しもう!
お勧め料理は、レッド・ミッチェルと同じくらい饒舌なペッパー・アダムスの名盤「The Master」の中のオリジナル曲に因んで、メキシコ料理「エンチラーダ」を作ることにしました。中身はピリ辛のお肉と、あっさりマイルドなマッシュルーム&ホウレン草、ソースもホットチリ味とサワークリームの2色作って待っています。
CU
レッド・ミッチェル(その2):私がチューニングを変えた理由
お元気ですか?今日ショーン・スミス(b)夫人の安紀子さんから丁寧なお礼状をいただきました。コンサートの後、掲示板にいだだいた皆さんの感想を読んで感激して泣いてしまったそうです。「心に触れた音楽の感想が、今度は自分の心に触れた。」とメールに書かれていました。
ショーン・スミスは自己グループで10月5日(月)にNYブルーノートに出演します。銀太くんやNYにいらっしゃる皆さんはCheck It!
さて今日は、ショーン・スミスもオリジナル曲を献上しているレッド・ミッチェル(b)伝の続きです。10日(土)のジャズ講座にはトミー・フラナガンとのデュオ・アルバム、『You’re Me』が登場することですので、今回はミッチェルの「あの」サウンドを生む革新的な調弦方法“五度チューニング”について探ってみたいと思います。
ジャズ批評家であり作詞家のジーン・リースによるインタビュー集"Cats of Any Color “の中の”The Return of Red Mitchell”を読むと、音楽ファンであり音響工学の専門家であった父にはぐくまれ、科学と芸術の両方を突き詰めるルネサンス時代のレオナルド・ダ・ビンチのようなアーティスト像が見えてきます。
<音階とは?>
父は、「自然は必ずしもバラの花園を意味しない。」という事実を、幼い私にも、ちゃんと説明することが出来る人だった。つまり、我々が「音階 (the scale)」と呼ぶものは、「こんな音を聴きたい。」という願いの産物で、自然界のどこにも「音階 」など見つからない。「音階 (the scale)」は人間の世界にしかないものなんだ。
弦楽器の場合、4度チューニングと5度チューニングの2種類にするとき、「音階」とは二種類の調弦の軋轢(あつれき)の妥協点だ。4度チューニングにするなら、トップノートのピッチは低く、ボトムは高くなり、物理的にスケールの音程幅は短くなる。逆に5度チューニングにすると、スケールの幅は大きくなり、トップノートは高く、ボトムは低くなる。
<コントラバス調弦史と四度チューニングの功罪>
いつか私はこのテーマについて本を書こうと思っている。その中で、何故ベーシストやチェリストで相性の良い演奏家達がいるのかを説明するつもりだ。要するに、異なったチューニングさえしなければ、皆うまくサウンドするということなんだけどね。ベース以外の弦楽器は全て五度チューニングだし、実際ベースという楽器も、最初はそうだった。
現在のベース・チューニングの基本である四度チューニング(上からG-D-A-E)は、全ての交響楽団に於いて、ベースVS他の弦楽器の間に「戦争」を起こす元凶で、四度チューニングは、最悪の間違いだ。ベースの四度チューニングは18世紀から徐々に普及し始めたと僕は思っている。元々ベースは現在の4弦でなく3弦で、僕と同じように上からA-D-Gと五度チューニングをしていたんだ。
当時は、ガット弦(羊の腸で出来ている弦)しかなく、それでC弦を作ろうとすると人間の親指より太くなってしまうので、C弦を作ることが出来なかった。巻線というものがなかったからね。それでベースの最低音はG(ピアノの最低音のAより7度上)、その五度ずつ上がってD、Aと、三弦をチューニングするところからベースの歴史は始まった。
実際のところ、他にもいろいろチューニング法はあったんだが、オーケストラの音楽家たちも、まだその辺りをきっちり分析できていない。
ロンドンのロイヤル・フィルハーモニック交響楽団がNY公演中、僕はブラッドリーズに出演中で、楽団のベース奏者が8人連れ立って三晩聴きに来た。彼らはジャズファンで、それに、僕の五度チューニングに興味を持っていた。彼らはリンカーン・センターのコンサートに僕を招待してくれた。とても良いオーケストラで良いコンサートだったよ。
8人のベース奏者は、4種類のチューニング法を使って演奏していた。主席と副主席の奏者は、ほとんどのジャズ・ベーシストと同様、下からE-AーD-Gの順にチューニングし、次の二人は五弦ベースで、最低音の弦をCではなくBにしていた。確か、ブラームスの交響曲第一番を演奏するので、低音のBが必要だったからだったと記憶している。下のBは二人しか出さないが、いい感じだった。つまりこの二人は、B,E,A,D,Gとチューニングしていたわけだ。そして後列のベーシスト4人のうち、二人は指板の上方に、糸巻きを部分的にカットして黒壇のエクステンションを装着していて、二種類のエクステンションを二人ずつ装着していた。
<ジャズ・ベースとエクステンションについて>
エクステンションを使用するルーファス・リードとロン・カーター
ロイヤル・フィルのベース奏者が装着したエクステンションのうち、二人はメタル・フィンガーのないもので、通常のE弦の場所に留め金がついている。エクステンションを使う時は、留め金を開ける。すると「カチン!」と大きな音がして、糸巻きを調整する。例えばロン・カーターやルーファス・リードように大きな手のベーシストなら、それを使うと、限定的ではあるが独特のパッセージを弾くことができる。だがあまり実用的とはいえない。せいぜい、ランニングで使う程度だ。エクステンションを使っても、ズート・シムスのような低音のソロは弾けない。ズート・シムズのあの低音のソロを覚えているかい?普通の音域に戻っても、それが不自然なくらい低い音だったなんて気がつかないような自然のソロだ。ズートは、そういうことをいともた易くやってのけた。だから彼は僕の永遠のアイドルなんだよ。
残りの二人はメタル・フィンガー付きのエクステンションを使っていた。それは最初のものより更に使いにくい。金属製のフィンガーが弦を固定し、細いチューブを通って、ネック上部にある4個の金属ノブに弦を固定してある。この装置はクラシック音楽にしか向いていない。ジャズの場合、このエクステンションで出来ることは皆無だ。まあ、しかし、クラシック作品に書かれてある無理難題を演奏する場合は使ってみればいい。
僕がMGMのスタジオで主席ベース奏者をやっていたのは、何も僕がそこで最も優れたベーシストだったからではなく、エレキベースでロックも出来るし、クラシックも出来る器用なところを買われただけなんだけど、そのスタジオでエクステンションを必要とする超低音の指示があると、必ず「クッソー・・・」というつぶやきが聴こえて来る。つぶやきの大きさはベーシストの人数に比例する。エクステンションを装着すると面倒なことだらけなのさ。
<倍音と音階の矛盾の問題>
弦楽器で完全五度を鳴らすと、クレッシェンドするという現象が起こる。二本の弦を鳴らすとデクレッシェンドする代わりにクレッシェンドする。僕の場合は、トップのA弦とD弦を鳴らした場合に、約10秒間、徐々に音量が増すんだ。
僕は子供の時、本当にラッキーだったと思う。父が子供にそういうことを判り易く説明できる数少ない人間だったからね。ピアノの最低音のAの周波数は、約27.5Hz(ヘルツ)だ。その倍は55Hzでオクターブ上のAだ。110Hz、220Hz、440Hz・・・周波数が倍になるとオクターブ上になる。
今度は最低音のAの周波数を1.5倍(1/2×3)すると、五度上の音になる。そしてGの開放弦を鳴らすと、周波数に拘わらず倍音(ハーモニクス)のDを伴う。それは、その弦が三分の一に分割されている結果だ。その倍音のDは、元の開放弦のG音からオクターブと五度上の音だ。つまり、1/2×3というところから音程間隔が決定づけられるということだ。
父が教えてくれたことなんだが、最低音のAから倍音を辿って次のAを鳴らすと、周波数を単純に2倍に掛け算した結果得たA音とは、周波数が異なる高い音が生まれる。音痴でなければ耳でその違いは瞬時に判別できるよ。
私がベースを始めた頃、色んな人にチューニングの方法を尋ねたが、皆、最低音のEから4度ずつ上にチューニングすると、同じ答えが返って来た。だからベースはチェロと(五度チューニング)全く違う音階の世界になってしまうのだ。とにかく私も19年間、四度チューニングで演奏を続け、様々な問題に遭遇した。しかし、チューニングを変えてからは、ほとんどの問題点が解決されたよ。私のチューニングはチェロを1オクターブ低くしたもので、最低音は通常のE音より三度下だ。
<試行錯誤の日々>
レッド・ミッチェルが五度チューニングに転向したのは、すでにベース奏者として名前を成していた’66年のことです。早熟なジャズ・ミュージシャンなら「守り」の態勢になっても不思議でない39歳という年齢を考えるとアメイジング!ですね。
五度チューニングに最適な弦を探して、’66 年から’77年までの間、世界中のありとあらゆる弦で、私は実験を繰り返した。一番の被害者は当時レギュラーで仕事をしていたハンプトン・ホーズ(p)だな。LAの「ドンテ」や「ミッチェルズ」に出演するときは、ベース弦の束をドサっとピアノの上に置いて、各セット違う弦で弾いていた。5年間の実験を重ねたが、「これだ!」という弦にはまだ出会えなかった。それで、ベース弦の一流メーカー『トマスティック社』に電話した。1971年のことだ。そしてトマスティックの若い社長と話をすることができた。彼はまだ29歳の恐ろしく万能な若者で、おまけにジャズファンで、僕のことを知っていたんだ。すぐに五度チューニングに最適な弦を作ることを約束してくれて、そのとおりに最高の弦を作ってくれた。今じゃ五度チューニング用の4種類のベース弦が製品化されている。
<9日間で新奏法に移行する方法>
’66年、チューニングを変えて演奏活動をするため、二度目の妻と連れ子を伴い、サンディエゴ近郊の浜辺のモーテルで9日間波の音を聴きながら昼夜なく練習し続けた。
レッドの弟、ゴードン・"ホワイティ"・ミッチェルの証言: 兄は、仕事先をなだめすかし、嘘八百並べ、皆を何とか丸め込んで10日間のオフをひねり出し、あのモーテルに籠ったんだよ。そして今までの弦をはずし、自分の演奏システムをリセットし、五度チューニングに順応する演奏法を発明し稽古に没頭した。10日後、スタジオに何食わぬ顔で戻り、新しい奏法で仕事した。すごいね!!そりゃまったく週末にオーボエをマスターしちまう位すごいことだよ。
*ゴードン・ミッチェルは兄同様、ベーシストとして’60年代まで、"ホワイティ"・ミッチェルという名前でジャズ界で活躍しました。その後、ダウンビートに、ジャズマンの悲哀をユーモアたっぷりに綴る記事を寄稿したのがきっかけとなりTV界に入り、コメディ畑の脚本家やプロデューサーとして大活躍。爆笑スパイシリーズ「それいけスマート」や、ホームコメディー「パートリッジ・ファミリー」は日本でも人気があったので、覚えている人も多いかも。寺井尚之も「それいけスマート」の「盗聴防止装置」の大ファンでした。
レッド・ミッチェル:「演奏法改造後すぐLAに戻り、五度チューニングの初仕事は、MGMのスタジオでアンドレ・プレヴィンが指揮する65人編成オーケストラだった。私は第一ベースだ。
私は思った。『初仕事はアンドレ・プレヴィンと大交響楽団か・・・まあ、いいさ。象みたいなデカ耳でなんでも聴こえるアンドレが気づかなければ、誰だって気付きっこないさ。』
私はアンドレにチューニングを替えたことは言わなかった。セッションが始って20分ほどしてから、一瞬、以前のチューニングと間違え、全音上のミス・ノートを出しちまった。普通アンドレはそんなことをしないんだが、演奏を止めて、僕にこう言った。
『レッド、ほんとかい!もし君じゃなかったら、アウトしてるぞって言うところだったじゃないか!』
アンドレ・プレヴィン(1929-)指揮者、作曲家、クラシック&ジャズ・ピアニスト、ウィットに富むトークも最高!
休憩中、私が事情を打ち明けると、アンドレはこう言った。
『つまり、君はベースをチェロと同じようにしちまったってことかい?丸1オクターブ低いというわけ?』
Yes,
『チェロと同じように弦が渡ってるわけ?』
Yes,
『同じフラジオレット!?』(フラジオレット(Flageolets)とは、弦楽器のハーモニクスのこと。)
Yes,
『弓使いも同じなの!?』
Yes,
アンドレは自分の額を叩いてから、その後何人もの作曲家たちが言ったのと同じ言葉を発した。
『ちきしょう!ベーシスト全員がそうすりゃいいのになあ・・・何でやらないんだろう!』
ディジー・ガレスピーも即座に五度チューニングの意味を理解して同じことを言ったよ。
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8月のジャズ講座で、宮本在浩(b)さんがベースを抱えて、実地に色々教えてくださったことを、レッド・ミッチェルのインタビューで再確認することができました。
ミッチェルは、それからチェロ奏者の技や、チャーリー・クリスチャン(g)がギターで行ったような「禁じ手」をベースに応用して、五度チューニングに適切なフィンガリングを開発して、あんなに深くニュアンスに富むプレイを自分のものにしていったのです。
次回はレッド・ミッチェルのアイドルたちやスエーデン移住のいきさつなどについて書きたいと思います。
CU
忘れられない微笑み <Too Late Now> 対訳ノート(20)
大阪の町の片隅にもコオロギが鳴き始め、秋の気配を感じます。皆さん、寝冷えしていませんか?
今週土曜日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」 は、ヘヴィー級作品、“Super Session”が登場します。’80年当時盛んに共演したベースの異才、レッド・ミッチェル、フラナガンが十代から共演した兄弟分ドラマー、エルヴィン・ジョーンズ!横綱級のミュージシャンの三つ巴で、『Minor Mishap』、『Rachel’s Rondo』などフラナガンの代表的オリジナルを含め選曲もヘヴィー級。
その中で、今日吹く風のように爽やかな余韻を残してくれるバラードが、『Too Late Now』、一昨日のOverSeasでの演奏があまりに素敵だったので、この曲のことを書きたくなりました。
<歌のお里>
バートン・レイン作曲、アラン・ジェイ・ラーナー作詞のバラード、『Too Late Now』は歌って踊って恋をするミュージカル映画《Royal Wedding (邦題:恋愛準決勝戦 )》(’51)のサブ・テーマでした。主演フレッド・アステア、ジェーン・パウエル、アメリカで活躍する兄妹ダンス・デュオ・チームがエリザベス現女王のご成婚に湧くイギリスに渡って繰り広げるロマンチック・コメディです。主演のアステアは事実、妹のアデールとコンビで売り出し、妹はイギリス貴族と結婚したという実生活を連想させる映画でもあります。
なぜ邦題が《恋愛準決勝戦》なのかというと、兄妹二人のロマンス故、人員が計4名なので「準決勝」になったというシンプルな理由が最高!気色の悪いカタカナの羅列ばかりの最近の洋画にも、素敵な邦題を付けてほしいな。
作曲のバートン・レインは『カシモド』の名引用句としてOverSeasで人気高い『How About You?』や、寺井尚之が大好きなビリー・エクスタイン(vo)のオハコ『Everything I Have Is Yours』などで有名ですね!一方、アラン・ジェイ・ラーナーは脚本家と作詞家の二刀流で筋の通ったミュージカルを作る巨匠、《マイ・フェア・レディ》が余りにも有名です。
《Royal Wedding》を観たいと思った方は、インターネット・アーカイブというサイトで、最初から最後まで観れます。(ただし字幕はないけど、あまり気にならないかも・・・)ネット社会恐るべし…
『Too Late Now』はオープニング・タイトルの後半にも使われていますし、上のアーカイブで57分35秒くらいから、妹のエヴァに扮するジェーン・パウエルが歌うオリジナルを観ることができます。 ジャズで演るサイズより最後のA-3部分が2小節多い34小節で歌われています。
それだけでなく、壁や天井をフレッド・アステアがダンスするシーンや、船上のジムの中のタップは、後のハリウッド映画で何度もリメイクされた歴史的名シーン、ダンサブルなソロを目指すドラマーは必見(16分すぎからは、ジムの中でのダンスシーンが。1時間6分くらいのところからは、壁や天井で踊る圧巻のアステアが。)。
<微笑みを忘れるにはもう・・・>
『Too Late Now』は、妹のエヴァと英国貴族、ジョン・ブリンデイル卿の愛のテーマとして、繰り返し流れます。人気ダンサーのエヴァは、アメリカでは次から次へとボーイフレンドをとっかえひっかえしている無邪気な天然プレイガール、でもロンドンに来て、今まで会ったことのない誠実で上品な貴族の青年と恋に落ち、奔放だったエヴァが一途な愛に目覚めたことを告白する歌だったんです。アレック・ワイルダーは著書「American Popular Song」の中で、”シンプルなA部と対照的なサビのB部は驚嘆に値する発明だが、決して小賢さはなく、一度聴くと、これ以外にはない!と思うほど完璧なものだ。”と論評しています。
<Too Late Now トゥ・レイト・ナウ>
Alan Jay Lerner / Burton Lane
あなたの微笑みを
忘れるには遅すぎる。
抱き合い踊ったひととき、
それを忘れて、
誰ともダンスは出来ないの。忘れるには遅すぎる、
一言で私を喜びで満たす
あなたの声を。
あなたのいない私など、
思うことすら出来ないの。離れている間は、
二人でしたことを、
指折り数えて思い出す、
優しく楽しい思い出が、
心の中にずっとある。心の扉を閉じれない。
昔の私に戻れない。
だってもう遅すぎるから。
作詞者が脚本も同時に担当しているだけあって、歌詞もストーリーに沿ったものになっています。とはいえ、対訳を作っていると、恥ずかしくなるほど甘い甘い歌詞です。ジャズ・ヴォーカルで演っているものは案外少ないし、決定版と言えるものを私はまだ聴いたことがありません。器楽奏者がうまく演ると、却って歌詞の良いところだけが抽出されるのかも知れません。
歌詞のパンチラインは、冒頭2小節(2行)の”Too late now to forget your smile”に尽きると思う。このインパクトをずっと引っ張って、最後まで持っていくところが凄い。
一瞬の微笑みで人生がガラリと変わる、そんなことがあるんだ・・・
土曜日の講座は、人生を色々想いながら、楽しい解説でフラナガンの足跡を辿ろう。
秋が深まりそうなので、私はチキンと茸を色々使ってクリーム煮を作ります。
ジャズ講座は9月12日(土)6:30pm~ 受講料:2,500yen (ご予約はOverSeasまで。)
CU