対訳ノート(48)You’d Be So Nice to Come Home To

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Cole Porter (1891-1964)

=歌のお里=

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  “You’d Be So Nice to Come Home To” は言わずと知れた超セレブソングライター、コール・ポーターの作詞作曲。ブロードウェイの舞台裏を描くコメディ-映画『Something to Shout About』(’43)の劇中歌で、主役、ドン・アメチーが、この歌でヒロインを口説くものの、「プレイボーイのあなたは、女の子を見れば誰でも追いかけまわしているのでしょ。」と軽くいなされる。映画はコケたけど、この歌はオスカーにノミネートされ、多くの歌手や楽団がカヴァーした。中でも映画と同年にリリースされたダイナ・ショア&ポール・ウェストン楽団のレコード(メリルのヴァージョン同様、ヴァースなし)は、ヒットチャートに18週間ランクイン、ソングライターとして最大のライバル、アーヴィング・バーリンの<ホワイト・クリスマス>を追い抜き、ポーターは大いに溜飲を下げた。ジャズ・ファンに愛され続けるヘレン・メリルのヴァージョンはそれから10年以上後に録音されたものです。

 当時、この歌がヒットした理由は?
 -「歌詞哀愁を帯びたメロディーが、戦争のため、愛する人と離れて暮らす何百万という男女の共感を呼んだから。」- 伝記《Cole Porter/ A Biography (Charles Schwartz著)より。

 それなら、やっぱり歌詞を調べよう!コール・ポーター詞の特徴は、クラシックでエレガントなことばと、口語や新語が絶妙のさじ加減で混ざり合い、独特のリズムと洒落た味わいを生み出すところ。だから英語を母国語としない私たちには難しい!

=エイゴの話=

 最大の難関は、巨泉さんでさえ誤ったタイトル・フレーズ、You’d Be So Nice to Come Home Toこのことばで歌(Refrain)が始まり、終わる。当初、歌のタイトルには、いくつか候補があり、結果的に、このフレーズを題名とした。歌の肝!英語の意味をチェックしてみよう。

 (1) You’d は、ご存知のようにYou wouldの略、ここでの wouldは、現実と異なる空想や願望を表す。

 (2) You’d Be So Nice to Come Home Toの末尾の ‘To’は目的語を導く前置詞、なのに目的語自体がないのは、それが主語と同じだから。こういう場合は、目的語を入れてはだめ。受験英語サイトを見ると、そういうのは「欠落構文」と呼ぶらしい。先月見かけた、英デイリー・テレグラフ電子版の見出しが欠落構文だった。”This is the kind of music you should listen To at work. (仕事の能率向上に役立つ音楽ジャンルはこれ!) 

(3) 次によくわからないのが ’Come Home To You‘ということばの意味。‘come home’なら’家に帰る’だけど、そこに‘To you’が付くとどうなるの?私が調べた英和辞書には、イディオムとしての適切な説明はなかった。そこで、ネイティブ用の便利な無料辞書サイト、The Free Dictionary.com を調べてみる。すると、以下のような記述が!

come home to someone or something

to arrive home and find someone or something there.( 帰宅して、’to’以下の人、あるいはそれ以外の何かを見つけること) 

  これだ!‘Come Home To You’とは、「自分の家に帰ると、あなたが居る。」という意味だったのだ。つまりYou’d Be So Nice to Come Home Toは、「僕が家に帰ったとき、もしも、誰かが僕の家に居てくれるとするなら、そして、その誰かが、もしも君なら、すごく素敵だろうなあ…」となり、直訳すると、詩的と言うには程遠い、やたらと回りくどい愛の表現になるのだった。

  巨泉さんは、この題名の正しい意味は『あなたの待つ家に帰っていけたら幸せ』としていた。そして、大戦下でヒットしたのは、『戦争のために、愛する人と離れ離れで暮らす何百万という男女の心にアピールした』から。どうやら、ずいぶん近づいてきたみたい。

 それでは、この言葉は、映画のように、男から女への口説き文句であり、「早く戦争が終わって、恋人の待つ故郷へ、或いは妻の待つ家に戻りたい!」という男たちの気持ちを語る歌なのだろうか?十年ほど前、私はそう確信し、『Ella at Juan Les Pain』でエラが快唱するこの歌の対訳を作ったのだけど…もう一度しっかり確かめておこう。 

=ネイティブに訊いてみた

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 持つべきものは友!米国に進出する日本企業のために、膨大な和英翻訳をこなすプロ中のプロフェッショナルであり、サックスでジャズ、ヴァイオリンでクラシックと幅広い音楽活動を続ける私の翻訳パートナー、ジョーイ・スティールさん(在サウス・カロライナ)は、私の疑問をいつも解決してくれる魔法使い。日英の比較言語とジャズの両方に精通するジョーイさんに、歌詞の本当の意味を訊いてみた。日本語検定一級の彼でも、英語のニュアンスを伝えるのは英語。驚いたことに、これは「プロポーズの言葉」だと、教えてもらいました。以下は要約。 

1.要するに、プロポーズの歌だよ。 

2.この歌の時代は、男性が外に出て働き、女性は主婦、というのが一般的だった。’仕事で疲れて家に帰った僕を、君が迎えてくれれば、どんなにいいだろう!’言い換えれば‘一緒になろう、結婚して!’ってこと。明らかに、男性から女性に向けた歌詞だよ。もちろん女性が歌っても問題ないけどね。 

3.結婚したカップルの間で、夫が妻にこのセリフを言う?それは、絶対あり得ない。例え離れ離れの夫婦でも考えられない。勿論、夫が戦地に居る夫婦がこの歌詞にグッとくるというのは、十分納得できるけどね。あくまで、「日常の夫婦生活に戻る」という意味じゃない。一緒に住もう、結婚しよう、という意味。

 *英語に関する質問サイトに日本人が投稿した同様の質問に対して、英国人女性がやはり「プロポーズ」という言葉で説明していたから、一般論として間違いないでしょう。

=リアリティ・ギャップ=

 結局のところ、「帰ってくれたら嬉しいわ」よりも「あなたの待つ家に帰っていけたら幸せ」の方が正しいけれど、英語を母国語とする人々の意味するところよりも広義だった。言語のリアリティ・ギャップは至る所にある。状況証拠に気を取られずに、謙虚にならなければと自戒。

515332000.jpg 一方、戦時中の男女の心をわしづかみにした歌の陰には、コール・ポーターの秘められたリアリティがあった。ポーターはバーリンと並ぶほどの愛国者として知られているけど、自分が戦地に居たわけじゃない。ポーターはすでに50才を過ぎ、落馬事故によって両足の自由を奪われて5年の歳月が経っていた。それどころか、真珠湾攻撃が勃発したのは、左足の再度の大手術とリハビリからようやく退院した翌月だった。

 今の言葉で言うとLGBTだったポーターの奔放な男性遍歴の中でも、最愛の恋人(の一人)とされるネルソン・バークリフト(右写真 Getty Imagesより)は、この歌は’僕たちの歌’、つまり二人のロマンスを基に作られたと証言している。

 ダンサー、俳優、振付師であったバークリフト(1917-1993)は、ポーターより二回り年下だ。二十歳そこそこで俳優を目指しヴァージニア州からNYにやって来た。ポーターと親密になったのは、ブロードウェイで役が付き始めた’41年頃だ。芸能界の超大物で大金持ちのポーターは、彼にとって、願ってもない後ろ盾だったはず。

 ポーターは、この若者に夢中になった。足の自由を奪われ、合併症に苦しむポーターの目に、若く健康でしなやかな肉体を持つ美青年は、愛らしく眩しいものだったに違いない。ポーターから彼に送られた膨大な手紙や電報は、デート場所を記した走り書きのメモに至るまで、ポーターの死後公表されていて、一部を伝記で読むことができる。 

f99014b379ebfe6154dc5746f952adf7.jpg 1942年、バークリフトはポーターの元を離れて、陸軍に入隊した。耐え難い寂しさを味わうのは専らポーターだった。逞しい若者がわんさか居る軍隊、勿論、軍隊にはゲイも居る。いろいろ浮名を流す年下の恋人の帰りを待つポーターは、僕My可愛いlittle兵隊soldierさんboy“に宛てて、残された寂しさや、臆面もない愛の言葉、時には嫉妬や非難の言葉を書き送っている。ポーターはLAとNYに複数の屋敷を所有し(戦前はパリにも)、ビヴァリーヒルズに近いブレントウッドの邸宅には、バークリフト専用の部屋が用意されていた。

 コール・ポーターの時代のアメリカでは、同性愛は違法、だから彼の嗜好はひた隠しにされた。リンダという妻を娶り、妻との「友情」は美化され語り継がれているけど、真相は本人しかわからない。彼はしばしば夫婦旅行にボーイフレンドを同行させることもあった。お気に入りのボーイフレンドを自宅近所のアパートに囲ったり、セレブ達で共同経営する高級クラブの支配人に据え、そこで別の男の子とデートしたり・・・毎日昼間から、プールサイドで男だけのパーティ三昧…私のような庶民には、面倒臭いとしか思えないけど、セレブだけに許されるゴージャスな享楽を謳歌した。実際のとこと、24時間介護してくれる使用人なしでは、トイレや着替えも難しいことも、ひた隠しにした。

 彼の恋の相手は、このバークリフトだけでなく、ロシア人建築家からトラック運転手まで、数え切れないほどいたけれど、一生を共にする相手には恵まれず、孤独な死を迎えている。

 戦時下の大多数の男女と、コール・ポーターの事情には、少しばかりのギャップがあるけれど、<You’d Be So Nice to Come Home To>が、大きな共感を巻き起こしたのは、ドロドロの愛憎を上手にクローゼットにしまい込み、美しいところだけを見せるという、プロフェッショナルなソングライターとしての手腕の賜物だったのか?或いは、戦地に行った愛する人への想いは、誰でも同じということなのだろうか?

=暖炉のメタファー=

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 コール・ポーターの権威、ロバート・キンボールの解説に、この疑問に対するヒントがあった。〝当初、この曲には複数の仮題が付けられていて、その中の一つが<Something to Keep Me Warm (僕を温め続けてくれるもの)>である。”というのです。恐らく、このタイトルがボツになったのは、アーヴィング・バーリンによる’30年代のヒット曲、<I’ve Got My Love To Keep Me Warm >を連想させるからでしょう。もしも、このタイトルだったら、歌手たちは、二行目の“You’d be so nice by the fire”を強調して歌ってたかも。この言葉、単純に訳せば「暖炉のそばの君は素敵だろうな。」になる。でも、この歌が「プロポーズの言葉」であるからには、「暖炉のそばの君」の意味はとても深い。

 寒い冬の夜、一人暮らしの我が家に帰ると、家の中は暗くて寒い。でも「君」と一緒になれば、明かりが灯り、暖炉で温まった家が「僕」を待っていてくれる。

 赤々と燃える暖炉は、仕事の疲れを癒し、すさんだ心を温めてくれる「君」の象徴、コール・ポーターが、いくつ屋敷を所有し、どれほど恋をしようとも、母親以外の誰に求めても得られなかった、「ぬくもり」の象徴ではなかったのかな?

=You’d be So Nice to Come Home To=
作詞作曲 Cole Porter (1943)

You’d be so nice to come home to,
You’d be so nice by the fire,
While the breeze, on high, sang a lullaby,
You’d be all that I could desire,

Under stars, chilled by the winter,
Under an August moon, burning above
You’d be so nice,
You’d be paradise to come home to and love.
 

家に帰って、君が出迎えてくれたなら、とても素敵だろうな。

暖まった暖炉のそばに君が居れば、もう最高だろうな。

心地良く吹くそよ風が子守歌を歌ってくれても、

僕の願いは君と一緒になることだけ。

凍てつく冬の星の下、

8月の燃える月の下、

いつも君と一緒なら、素敵だろうな、

最高に幸せだろうな、

僕を待つ、愛する伴侶が君ならば。

 戦争を体験した昭和の文化人、大橋巨泉さんは、「遊び」を、トコトン真面目に追及する楽しさを教えてくれました。この対訳ノートを、大橋巨泉さんに捧げます。合掌

  • 参考文献 

    COLE PORTER / A Biography by William McBrien / Alfred A. Knopf 1998刊
    The Complete Lyrics of Cole Porter by Robert Kimball / Da Capo Press 1992刊
    Cole Porter: A Biography by Charles Schwartz / Da Capo Press 1979刊

 

巨泉さんを偲ぶ/対訳ノート(48)You’d Be So Nice to Come Home To

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 大橋巨泉さんが亡くなった。「野球は巨人、司会は巨泉」…巨人は別として、11PMは、勉強するふりをして観ていた教養番組でした。クイズダービーなど、それ以降の人気番組は、こっそり見る必要がなくなったので、あまり印象にありません。

 11PMの巨泉さんは、ジャズや麻雀、釣り、北欧のフリーセックス事情だけでなく、歌舞伎や落語にもやたらに詳しかった。黒縁メガネのぽっちゃり顔とハイカラーのワイシャツ、ほどの良い毒舌…今思えば、巨泉さんのロール・モデルは、米国のTVタレント、スティーヴ・アレンだったのかもしれない。

Steve_Allen_-_press_photo.JPG 全米ネットワーク番組<The Tonight Show><The Steve Allen Show>で人気を博したアレンは、ジャズにも造詣深く、レイ・ブラウン(b)の十八番”グレーヴィー・ワルツ”の作曲者としてグラミー賞までもらっている。一方、巨泉さんがジャズ評論を辞めたのはコルトレーンの出現のためだった、と言われている。でも、亡くなる前に出演された関口宏のインタビュー番組「人生の詩」で、「ジャズ評論より、TVの放送作家のギャラは桁違いだった…」というようなことを仰っていたから、コルトレーン云々は江戸っ子の見栄だったのかもしれない… 合掌。

helen_1.jpg 巨泉さんが亡くなって一週間ほど経った7月21日は、ヘレン・メリルの生誕86周年らしく、ネット上で<You’d Be So Nice to Come Home To>が盛んに紹介されていた。昔見た大橋巨泉さんのジャズ番組で、こんなことを言っていたのを思い出す。

 「<帰ってくれたら嬉しいわ>という邦題があるけど、あれはゴ・ヤ・ク!ほんとうは、<君の元に帰っていけたら幸せ>って意味なんだよ。まったくバカがいるね。」

 後で夫に、この誤訳の主が大橋巨泉その人であることを教えてもらった。調べてみると、お嬢さんでジャズヴォーカリストの大橋美加さんが、自著エッセイで、父上が自分の誤りを正すために、さまざまなメディアで発信していたということが書かれている。

「この歌に、当時≪帰ってくれたらうれしいわ≫という邦題をつけた私の父は、最近テレビや文章の中で、しきりにそれが若かった自分の誤訳で、正しい訳は『あなたの待つ家に帰っていけたら幸せ』という意味であると伝えている。・・・」(『唇にジャズ・ソング』(’98,7月刊)より 

 ともあれ、「NYのため息」と言われたスモーキーなヘレン・メリルの歌声とクリフォード・ブラウンの艶やかなトランペットのコントラストによって、この歌は<帰ってくれたら嬉しいわ>として日本で大ヒットした。私を大人のお楽しみと、ジャズの世界に導いてくれた巨泉さんを偲び、この歌を調べてみることにしました。(つづく)

翻訳ノート:フレッド・ハーシュ『サンデイ・ナイト・アット・ザ・ヴァンガード』

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  ピアニスト、Fred Herschは、寺井尚之の盟友、ドラマー、Akira Tanaさんや、ジョージ・ラッセルの愛弟子であったギタリスト、布施 明仁さん(在マレーシア)と同じ、ニューイングランド音楽院出身。ハーシュさんを初めて聴いたのは1970年代終盤、六本木のクラブにRed Mitchell(b)と出演した若手時代ですから随分昔のことです。

FH.jpg フレッド・ハーシュは1955年、コネチカット州シンシナティ生まれのシンシナティ育ち。アイオワ州きっての名門、グリネル・カレッジ在学中、ジャズに傾倒し、中退してニューイングランド音楽院に入学、ジャッキー・バイアード(p)に師事しました。

 ジャズ・シーンでトップ・ランナーとして輝かしい経歴を誇るハーシュは’90年代、その当時、死に至る病とされていたHIV(エイズ)に感染、、2008年には、関連疾患のために、演奏活動はおろか、2ヶ月間昏睡状態に陥り、生死の境をさまよいました。しかし、周囲の献身的な努力もあり、死の床から生還し、見事にカムバックを果たします。独自の音楽世界に一層の磨きをかけると同時に、エイズ撲滅の闘志として、様々なチャリティー活動を行っています。その一環として、ハーシュが昏睡状態の中で観た夢を舞台化した『My Coma Dreams』(2014)や、闘病経験をテーマにしたドキュメンタリー『The Ballad of Fred Hersch』も発表されているようで、一度見てみたいものです。

  そんなフレッド・ハーシュの最新盤は、特別な思い入れのあるジャズクラブ、<ヴィレッジ・ヴァンガード>でのライブ録音。彼自身が書いた誠実さ溢れるライナー・ノートを、ご縁があって翻訳させてもらいました。レギュラー・トリオならではの良さが溢れる、素晴らしいアルバムで、日本語解説書には、彼がライブ録音を行った週の、完全セットリストが付記されていて、日本語版ディレクターの熱意もまざまざと伝わってきます。

 ぜひご一聴を!

 日本盤<キングインターナショナル>のサイトはこちら。

 

翻訳ノート:ビル・エヴァンス『サム・アザー・タイム:ザ・ロスト・セッション・フロム・ザ・ブラック・フォレスト』

 bill1006950053.jpg 1968年、ビル・エヴァンス・トリオ(エディ・ゴメス-bass, ジャック・ディジョネット-ds)が、モントルー・フェスティヴァル出演の5日後、ドイツ南部の小さな村、通称<ブラック・フォレスト>にあるMPSスタジオで録音していたことは、これまで知られていませんでした。その幻の音源は、森の中で半世紀近い眠りにつき、やっと日の目を見ることに!

 『Some Other Time : The Lost Session from the Black Forest』のリリースを実現させたのは、ジョン・コルトレーン、ウエス・モンゴメリーの歴史的音源を世に出した実績のある<Resonance Records>で、日本盤が<キング・インターナショナル>から先行発売されたところです。

 エヴァンスは、もとよりライブ盤が多く、スタジオ録音自体が希少、ディジョネットがエヴァンス・トリオに在籍したのは僅か6ヶ月、このメンバーでの唯一のスタジオ録音であり、それも最高に趣味の良い音質に定評のあるMPSのレコーディングですから、ファンの興味は尽きません。

 日本盤もオリジナル盤も、音楽内容に相応しい豪華パッケージで、貴重な演奏写真やポートレートも一杯!日本盤には、岡崎正通氏が書き下ろされた明瞭で奥深い日本語ライナー・ノートが加わり、光栄な事に、それに続く英文ブックレットの翻訳を、A&Rディレクター、関口滋子氏の監修の下で担当させていただきました。

 「世界の発掘男」の異名を取るゼヴ・フェルドマンの熱血プロデューサー・ノート、共演者、エディ・ゴメス(b)とジャック・ディジョネット(ds)のロング・インタビュー、元MPSのスタジオ・マネージャーであったフリードヘルム・シュルツのMPS物語、人気ジャズ・ブロガー、マーク・マイヤーズによるビル・エヴァンス論など、充実した内容は、さすがです。

 私も、翻訳の過程で、これまで知らなかった欧米のジャズの歴史を色々学ぶことができました。ぜひご一聴、ご一読を! 

 ビル・エヴァンス・トリオ:『サムアザータイム:ロストセッション・フロム・ザ・ブラック・フォレスト』

日本盤好評発売中:キング・インターナショナルHP http://www.kinginternational.co.jp/jazz/KKJ-1016/ 

 

対訳ノート(47) 俳句歳時記 ”ヴァーモントの月”

taniuchi1949.jpg 先月末、”寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)”がアンコールに演奏したのは、スタンダード曲 “ヴァーモントの月”、ピアノ・タッチの変幻が、舞い落ちる雪の結晶のようで、本当に美しかった!ピアニストも、愛器も、今が絶頂期かもしれません。雪とあまり縁のない大阪育ちの私、様々に色合いを変えるサウンドに、忘れていた谷内六郎の童心溢れる絵や、雪が積もると大喜びした大昔の子供時代の思い出が次々と甦り、音楽の持つ不思議な力に圧倒されました。

 寺井はジョージ・ムラーツ(b)から、彼がヴァーモントと縁の深いギタリスト、アッティラ・ゾラーと一緒に、ヴァーモントでスキーを楽しんだという話を聞いていたから、雪の情景を描いたのでしょう。メインステムのジャズは雪月花。改めて、この歌を調べてみたくなりました。

 <歌のお里>

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 ”Moonlight in Vermont (ヴァーモントの月)”は1944年の作品、ジョン・ブラックバーン(上の写真、左)、カール・スースドルフの共作。白人女性歌手ファンに人気の高いマーガレット・ホワイティング(上の写真、右)がビリー・バターフィールド楽団と初演し、ミリオン・セラーになった。

 作者も歌手も、ヴァーモント州に特別な思いがあった、というわけではないらしい。それどころか、雪のないLA育ちのホワイティングにとっては、歌詞中の情景が全くイメージできずに四苦八苦、「これじゃ私うまく歌えない!」と泣きを入れ、よくわからない歌詞の単語”ski tow (スキーヤーを牽引するリフトのようなもの)”を”ski trail (シュプールのこと)”に変更してもらって、やっと録音したほどです。主に作詞を担当したブラックバーンだけがヴァーモントを知る人で、当地の大学でしばらく教鞭をとっていた、或いは人形劇一座に居た時に滞在していた、というようなことが様々な書物に書かれていました。

 結局のところ、東海岸から近い人気リゾート地、ヴァーモントのご当地ソングを作って、もしもヒットすれば、きっと長い間愛されるだろう、そんな思いで作った歌、その意図は見事に的中し、70年以上経った現在もスタンダードであり続けています。

 ヒットの仕掛け人は、ジョニー・マーサーと、彼の主宰するキャピトル・レコード、’40年代前半、アメリカの音楽産業を長期間悩ませた「レコーディング禁止令」が一段落したので、なんとか低コストでヒット曲を作ろうと、無名のソングライターと歌手の発掘に腐心した産物ともいえます。なんたってマーサー自身がアメリカン・ポピュラーソング史の金字塔的ソングライター、有名無名に関わらず、歌と歌手のポテンシャルを見分ける目が肥えていた。この洒落たご当地ソングはマーサーの目に止まり、共作仲間の作曲家リチャード・ホワイティングのお嬢さんで、当時新人だったマーガレットを一躍スターダムへ送りました。

 この歌には、他のポップ・ソングと少し違うユニークなところがいくつかあって、それがヴァーモントと縁もゆかりもない私達をも魅了する要素になっているのかもしれません。

<三句の俳句>Three Japanese Haikus

 mini_101030_1105.jpg  曲の形式は、ごく一般的なA1AB A3形式なのですが、A1A2 6小節、 B(サビ)と A3が各8小節( A3は6小節と、ターンバックに向かうための2小節のタグの組み合わせ)で、ありそうで滅多に見かけないサイズになっています。Bのメロディーは同じ音が並んでいて、一つ間違えば単調な「ねぶか節」になりかねないところを、美しいコードの変化で聴かせる仕掛け。この変則型のため、「一般人には歌いにくい。」とされ、ヴァーモント州の公式州歌に選定されなかったと言われていますが、今も、ヴァーモント州のソシアル・パーティで、このバラードが演奏されないことは決してないらしい…

Fall-Colors-at-Rocky-Mountain-National-Park-Colorado14.jpg さて、改めて歌詞を読んでみると、これがまた変わってる。多くの解説者が指摘する歌詞の特徴は、当時の歌詞には絶対不可欠な「押韻(rhyme)」がないこと。句の始めや終わりに、同じ響きの音を使って、詞にリズムを持たせるのが「韻」で、今のラッパーも、韻」を踏んでリズム感を出すということをよくやっている。’40代当時に「無押韻」の歌は極めて珍しいのですが、ブラックバーンとスースドルフは、意図的に「無押韻」で行っちゃおう!と、敢えて歌手泣かせの、覚えにくいことば選びをしたのだそうです。

 ホワイティングは、歌詞に命を与えるために、メロディを付けて歌う前に、必ず「歌詞を何度も朗読する」ということをやっていたそうです。私も、彼女に倣って、下掲の英語詞を音読してみました。すると、驚いたことに、サビ(B)以外は季語の入った3節の詩!まるで英語の俳句=Haikuだった!WOW!

 ためしにHaikuのサイトに載っていないか調べてみると、あった、あった!米国の「現代俳句」の掲示板サイトに、私が感じたのimgrc0061192330.jpgと全く同じことが書かれていました。

 A1は秋の句、水面に漂う落ち葉を、沢山の銅貨に例えて、秋を愛でている。 A2は冬、雪山の中腹に見えるスキーのシュプールを、真っ白に凍えた長い指のようだと謳ってる。そしてA3は、夏の宵の風の心地よさや、鳥のさえずりを風流に思う夏の一句になっていた。サビのBには俳句らしいところも、季語もありません。一見詩的でない電信線に音楽的な楽しさを見出す歌詞に、またまた谷内六郎さんの絵を思い出しました。

 だけど何故「春」の句がないの?

 私の素朴な疑問に対する、面白い答えがネット上にありました。ヴァーモント州の北隣、カナダに生まれ、東隣のニューハンプシャー州に住む保守系ジャーナリスト、マーク・スタインが、自分のHPに俳句とこの歌について論評しています。

 「北国の人間なら判ることだが、北の土地には所謂「春」というものはない。ただただ長い冬があり、雪解けの時期は「春」ではなく「泥」の季節だ。道路はぬかるみだらけで、汚いだけ、だから、「泥」を賛美する8小節を書く気にはなれず、その代わりにモールス信号みたいに一本調子な電信線を賛美するブリッジにしたのさ・・・ 

 へえ~ ほんとかな? 

=Moonlight in Vermont=
by John Blackburn and Karl Suessdorf (1944)

<A1>

Pennies in a stream,
Falling leaves, a sycamore,
Moonlight in Vermont.
 

 

せせらぎの中
漂う銅貨は、
落ち葉、
鈴懸の木に
ヴァーモントの月。

 

<A2>
Icy finger waves,

Ski trails on a mountain side,
Snowlight in Vermont.


白く凍えた指はうねる、
それは山肌のシュプール、
ヴァーモントの雪あかり。

<B>
Telegraph cables
They sing down the highway
And travel each bend in the road.

電信ケーブルも、
鼻歌で、
曲がり道の電信柱に突っ走る。

People who meet
In this romantic setting
Are so hypnotized
By the lovely


こんなロマンチックな場所、

出会えば
すっかり夢心地。
心地良く

 

<A3>
Evening summer breeze.
Warbling of a meadowlark,
Moonlight in Vermont,

You and I and moonlight in Vermont. 

夏の宵に吹く風、
牧場の小鳥のさえずり、
そしてヴァーモントの月に。

君と僕、
そしてヴァーモントの月。

 

<参考文献、サイト> 

Reading Lyrics: by Robert Gottlieb  and Robert Kimball :Pantheon books
Jazz Wax by Marc Meyers 8/12, 2008,
現代俳句:Pennies in a stream..他
.
And Special Thanks to Joey Steel 

コールマン・ホーキンスの肖像(1)

tommy_flanagan-coleman_hawkins-major_holley-eddie_locke.jpg  今季の 冬休み(あんまりないけど・・・)の勝手な課題は、月例講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で辿り着いた、トミー・フラナガン至福のコールマン・ホーキンス共演時代に因んで、フラナガンと親しかったNewYorker誌のコラムニスト、ホイットニー・バリエットが書いたコールマン・ホーキンス論にしました。ロリンズもトレーンも、この巨人が敷いたレールの上を突っ走った。「テナーサックスの父」の肖像を読み解くことにします。

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 =Coleman Hawkins=
American MusiciansⅡ(1996)より
ホイットニー・バリエット著

 <二人の帝王> 

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 テナー・サックスの世界には二人の皇帝がいる。それは、コールマン・ホーキンスとレスター・ヤングだ。彼らはそれぞれ、「帝王」の名に相応しく、独自の音楽を発明した

 二人の個性は全く対照的である。ホーキンスの即興演奏は垂直的だ。彼は、バックミラーでメロディを確かめながら、”コード・チェンジというハイウエイをひた走った。一方、レスター・ヤングは水平的だ。彼はメロディを小脇にかかえ、燃えたぎるコード・チェンジの熱を鎮めるような演奏をした。ホーキンスは、豊満にして包み込まれるような音色トーン、ヤングは、遠くから聴こえる浮揚感のあるサウンドが身上。ホーキンスがコーラス毎に繰りだす音の量は、太陽も覆い隠すほどだが、ヤングは注意深く選りすぐった音を、光や空気にかざしては、きらめかせて見せた。ホーキンスは猛獣のごとく、激しくビートに挑みかかった、ヤングは、ビートに牽引されているようであった。ホーキンスはハンサムで逞しく颯爽とし、ヤングは細身で一風変わった神秘的な風貌だ。ホーキンスの声は良く響き、話し方は早口だがはっきりとしていた。ヤングの方は静かな声で、独特のおもしろい詩的な言葉を使い、略語だらけの判りにくい話し方だった。眺めていると、ホーキンスの方は、だんだんと逞しく大きくなるように見え、ヤングは今にも透明になって消えてしまうようだった。

 ホーキンスは結果的に酒で身を滅ぼした。ヤングも、その点では同じで、一足早く他界している。(ホーキンスは1969年没、享年64歳、ヤングは1959年没、享年49歳)そして、どちらもベスト・ドレッサーであった。ホーキンスはファッション雑誌から抜け出たかのようにダンディであった。両者とも音楽に人生を捧げ燃え尽き、音楽的に多くの子孫を遺した。

<テナー・サックスの父>

ColemanHawkins2.jpg(Coleman Hawkins 1904-69) 

 17世紀、近代小説を発明した英国の文学者、サミュエル・リチャードソンと同じ意味に於いて、ホーキンスはテナー・サックスを発明した。それまで誤用され続けた「テナー・サックス」という楽器を、初めて正しく演奏したのである。テナー・サックスは、クラシックやマーチング・バンドの世界に於いて、チューバ同様、コミカルな役割を受持ち、金管楽器と木管楽器の混合種の様に見做されていた。ホーキンスといえども、この楽器の可能性を完璧に理解し開花させるのに、十年の歳月を要した。彼はこの楽器に、従来では考えられない程幅広のマウスピースと、硬いリードを使う事を思いつき、1933年には、過去に誰も聴いた事のないようなサックスの音色を創造していたのである。(無論、彼以前にもサックスの名手は存在したが、先人達の音色は軽く、終始流麗なグリッサンドとアルペッジオの華麗な表現に留まっていた。) 彼の音色には、チェロやコントラ・アルトの歌手のように、とげのない丸みがある。その音色を聴くと、暖炉の灯に照らしだされた赤褐色の情景、雄大な土地、にれの大樹といったイメージが浮かぶ。非常に無口な人ではあったが、一旦、口を開くと、その話しぶりは、演奏と同じく、沢山の言葉を繰り出して弾みがつく。’50年代にリヴァーサイド・レコード“で、彼の自伝的レコーディングが制作されており、その中で彼自身は自分のスタイルについて論じている。 

 ホーキンス: 「色々な音楽との出会いによって私のスタイルは自然と変化した。音楽家は誰でも、自分の聴いたものが演奏に現れる。わざとではなく、自然にそうなっただけだ。そうするために練習する必要はないし、そんな練習をしたこともない。いまだかつて、ある特定のスタイルを習得するための練習は、生まれてこのかたやったことはない。演奏を続けているうちに、音楽的方向が一変したり、同じ曲でも、1年前とは全く違った演り方をしているのに気が付く。それは、私が色々な音楽を聴く事によって生れた自然の結果なのだ。つまりね、私は何かを聴くと、それを覚えてしまうんだよ。次の夜になると、もう忘れてしまっているんだが、6ヵ月後、ふいにそれが自分のプレイに顔を出す。そういうことが良く起こる。それで、常にスタイルが変わっていく。

 もうひとつ私のよくする事を話そうか。これは私だけのやり方で、他の誰もやっていない事だ。

 フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代には、しょっちゅうツアーをした。私は、行く先々で、必ず自分の耳に、なにか新しいものを聴かせてやる事にしていた。その土地の小さなクラブや、生演奏のある店に行くんだ。小さな街に公演に行くと、私はよく、そんな場所に出かけてプレイした。この習慣は絶対止めない。今も同じ事をやっている。何処に行っても、その土地の音楽は、どんなものであろうと聴いてみることにしている。」

 そして、同じリヴァーサイドの録音で、彼は、NYという土地が、地方から出てきたばかりのミュージシャンに与える影響について語っている。

 「NYという所は、よその土地からぽっと出てきたばかりの者なら、誰であろうと、最初は、おかしな演奏に聴こえてしまう土地だ。、出身はどこであれ、初めてNYに来ると、こてんぱんにされる事を覚悟しなくてはいけない。毎回さんざんな目に合わされる。だから、実際にこっちに来ると、一から勉強だ。失敗して一旦故郷に帰るもよし、腕を磨き直し、もう一度NYに来て勝負すれば、今度は大丈夫だ。あるいはこっちに居残り、頑張って勉強して、うまくなればいい。」

  ホーキンスは早足でさっさと歩いた。背筋をピンと伸ばし、「会議がもう始まる!」という雰囲気であった。余り笑わないし、決して愛想は良くない。寡黙な雰囲気に包まれている。だが、寡黙な人は、往々にして腕白小僧のような素顔を隠していたりする。ホーキンスも、親しい友人には、ジョークを飛ばすのが大好きだったし、スピード運転を好んだ。友人であったトロンボーン奏者、サンディ・ウィリアムズはスタンリー・ダンスの著書”The World of Swing”でダンスにこう語っている。

chrysler-imperial-1948-9.jpg 「彼とウォルター・ジョンソン(ds)と私の三人でフィラデルフィアからNYまでドライブした事を思い出すなあ。彼はインペリアルの新車を手に入れたばかりだった。全速で長距離つっぱしろうという事になり、彼は時速103マイル(165km/h)でぶっ飛ばした。私は時速100マイル以上を体験したのは生れて初めてだった。だが、ホークの運転はうまかったよ。

『俺はまだ死にたくないっ!』と言ったら、すぐ言い返してきたもんだ。

『一体何言ってんだよ?心配するなよ。』ってね。」 

 (つづく)

アキラ・タナ『音の輪』:本拠地で絶賛!

  先日ご紹介したアキラ・タナの『音の輪』、来日に先駆けて本拠の西海岸で精力的に活躍中!スタンフォード・ジャズフェスティバルでコンサート・レビューが、Jazz Policeというサンフランシスコのジャズ系有名ポータルサイトに掲載されていました。ライターはサンフランシスコ・ベイエリアの有名ライター、ケン・ヴァームズ、自らもテナー奏者です。インターナショナルな土地柄と音楽を結んだ視点で聴く3つのコンサート、筆者が最もインパクトを受けたのがアキラ・タナと『音の輪』であったことが、文章からじわ~っと滲み出てくるレビューです。

『音の輪』、ライブで聴いてみたいですね!2015ツアー・スケジュールはバンドのHPに!

アキラ・タナを単独でフィーチュアするライブは9/8、OverSeasで!


=ジャズに溢れる国際色:フィロリ&スタンフォード・ジャズフェスティバル=

Thursday, 16 July 2015, Jazz Police 原文はこちら

  ベイエリアは音楽の驚きに溢れる場所だ。国際的な土地柄が理由のひとつである。世界中のミュージシャンが、単なるツアーではなく、この地を目指してやって来る。最近行われた二つのフェスティバル、なかでも3本のパフォーマンスは、ここベイエリア特有のグローバルな香りと、強烈な音楽の魅力を最大限に発揮していた。

7/12 フィロリ・ジャズフェスティバル

­=ラリー・ヴコヴィッチ=

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Larry Vukovich (p)and Rob Roth(sax) ©Ken Vermes

 ラリー・ヴコヴィッチは、旧ユーゴスラヴィア、モンテネグロの小さな町の出身だ。1951年、14才の時、家族と共にに政治的圧力から逃れ、サンフランシスコにやって来た。以来、町のレコード店をめぐり、ラジオから流れてくるジャズを聴き、やがてミュージシャンとなり、活況を呈するクラブ・シーンに飛び込む。 彼の活動の幅は広く、ジョン・ヘンドリクス(vo)との長期の共演をはじめ、様々なバンドを率いてクラブやフェスティバルを舞台に活躍してきた。さて、7月12日、州間高速280号線をウッドサイドで降りたところにある風光明媚な史跡、フィロリ・ガーデンで毎年開催されるフィロリ・ジャズフェスティバル、ヴコヴィッチは特別編成のオールスター・バンドを率いて出演した。

jackie and hector 0715.jpgJackie Ryan(vo) and Hector Lugo (perc) ©Ken Vermes

 ラリーはピアノの名手に留まらず、バンドリーダー、音楽研究者、教育者、プロデューサーとして長年活動している。大なり小なり彼と無関係な音楽環境はほとんどないだろう。そして、どの分野でも徹底した国際主義が特徴だ。だれだって、彼と少しでも話してみれば、どんな苦境や試練に見舞われようと、それを教訓としてしまう高度な知性と知力の持ち主であると判る。

 さて、今回のコンサートは二部構成、ロブ・ロス、ノエル・ジュークス(saxes)をフィーチュアしたデクスター・ゴードン・トリビュート・クインテット、「スヌーピー&チャーリー」の音楽担当として有名なピアニスト、ヴィンス・グアラルディへのトリビュート・バンド、ラテン・バンド、ヴォーカル・グループ、そして、全ミュージシャン+ヴォーカリストのジャッキー・ライアンという複数のバンドで登場した。

 ラリー以下それぞれのグループが各テーマに相応しいプログラムを披露したが、特筆すべきは、デクスター・ゴードンにトリビュートした”チーズケーキ”、ノエル・ジュークスのクラリネットをフィーチュアした”プア・バタフライ”の歴史的ヴァージョン、ライアンのヴォーカルをフィーチュアした”アイ・ラヴズ・ユー・ポーギー”、ヴィンス・グアラルディ・トリビュートでの”風の吹くまま”(「スヌーピーの大冒険」より)、”ギンザ・サンバ”、フィナーレに全員で演奏した”キャラヴァン”であった。全プログラムを支えたメンバーはジョシュ・ワークマン(g)、若手ジョン・アーキン(ds)、ルイス・ロメロ、ヘクター・ルゴ(perc)、そして長年にわたり引っ張りだこのトップ・ベーシスト、ジェフ・チェンバース(b)であった。

6/20, 7/10:スタンフォード・ジャズフェスティバル

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Akira Tana©Ken Vermes

イリアーヌ・アライアス

 高速280号線から少し南に行くと、スタンフォード・ジャズフェスティバルだ。その2つのコンサートで、さらに豊かな国際色が楽しめた。まず6月20日、コンサートのオープニングは、あの素晴らしいイリアーヌ・アライアス、彼女をフェスの幕開けに望まない主催者はいないはずだ。

 アライアスは、デビュー当時、ブラジル人ヴォーカリストとしてクレジットされていたが、彼女もまだ、ヴコヴィッチ同様、歴史上の様々な音楽の研究者であり権威だ。また彼女の場合、数十年の歴史を誇る奥の深いブラジル音楽に属する演奏家、作曲者など、あらゆる人々に精通している。その資質を思えば、フェスティバル全体を一人でもやってしまいそうだ。彼女がプロデュースしたステージには、もっとブラジルのプレイヤーを入れてほしかったとも思うが、今回の共演者は、夫君マーク・ジョンソン(b)、ラファエル・バラータ(ds)、ルーベンス・デラ・コルト(g)、1939年作の超スタンダード”ブラジル”やジョビンの名曲、ボサノヴァとして初めてレコーディングされたと言われる”思いあふれて”、チェット・ベイカーにトリビュートした”エンブレイサブル・ユー”などを演奏。コンサートは、この現代の音楽の巨匠が、正確無比なプレイと、さりげないヴォーカルを楽しませるという気楽な雰囲気だった。特筆すべきは、マーク・ジョンソンの素晴らしさとともに、緩急自在のスインギーなプレイで、終始一貫して演奏を盛り上げたドラマー、バラータの美技であった。

 

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Masaru Koga ©Ken Vermes

=音の輪=

 7月10日、ベイエリア・ジャズの地理範囲は、”音の輪“というグループによって、ユーゴスラヴィア、ラテン諸国、ブラジルを越え、ついに日本まで到達した。バンドの主役であるドラマー、アキラ・タナを、筆者は様々なグループで何度も聴いたことがあるし、マサル・コガはフェイスブックでフォローしている。だが、スタンフォード大音楽学部ビルにあるこじんまりしたキャンベル・リサイタル・ホールでファースト・セットが始まった途端に度肝を抜かれた!まず講堂という場所で、これほどハイレベルなコンサートにお目にかかったことがなかったのである。

 そのサウンドは活き活きと輝き、時に圧倒的なパワーを放つ。なにより演奏内容が凄かった。とにかく”音の輪“のメンバーそれぞれの技量が桁外れであった。 

 演奏前に詳しく聞いたところでは、今回は、コンサートが唯一の目的ではなく、2011年に起った東日本大震災と津波の被災者のために演奏しに行くのに必要な、日本への往復渡航費用獲得に向けた組織的努力の一環だという。2013年には、バンドと同名タイトルのCDがアキラ・タナのレーベルからリリースされ、この夜も、そのCDに収録された日本の民謡やポップ・ソングのアレンジ・ヴァージョンを披露した。

 タナと共にリーダーを務めるホーンとフルートの名手、マサル・コガが、尺八、テナー、バリトン、西洋の”Cキー”フルートなど、彼の得意とする様々な楽器で曲のテーマを奏でた。アート・ヒラハラのピアノは力強く、ノリユキ”ケン”オカダもまた非常に骨太なベーシストだ。彼らが演奏するのは、多くの日本人が子供のころから聴き親しむメロディだが、それは西洋の我々の耳を捉えて離さない。プログラムの半分は日本の民謡や童謡で、中には、西洋の「子守唄」のようなものもあった。それ以外は「恋のバカンス」といった’70年代の流行歌で、日本人の心に残る懐かしのメロディだ。「祇園小唄」のように、芸者の舞踊のための曲もある。編曲は全てバンドのメンバーによるもの。演奏曲の大半は日本の学校で演奏されているとはいうものの、この日の聴衆にとっては、馴染みのない曲ばかり。しかしこれらの楽曲の印象は素晴らしく、聴衆はすっかり魅了されてしまった。大切なものを失い、今も心の傷を抱える日本の人々に、これらの歌を贈るというアイデアにも、大きく感動したのだった。

=幅広い芸術の恵み=

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Eliane Elias and Rubens de La Corte (photo by Jeff Dean, Stanford Jazz Festival)

 

  以上の3つのコンサートそれぞれが、異文化、いやそれ以上に、異なる芸術と創造の世界に対する視野を広げてくれた。また、それはカリフォルニアという土地が生み出すユニークな文化の絶え間ない波動と緊密につながっている。ヴコヴィッチ、アライアス、タナと彼の“音の輪”、皆シリアスなアーティストばかりだ。楽器の名手であるのはもちろんだが、その上に研鑽を怠らず、莫大な労力と時間を費やして、彼ら独自のアートを、底抜けの楽しさに溢れる、ひとつの有意義な「かたち」として作り上げている。その結果、メンバー全員に深い感情が浸透し、バンドとして、パワフルで芳醇なサウンドになっている。それぞれ、単にジャズやポップの枠を超えた音楽ばかりで、ワールド・ミュージック、あるいはむしろクラシックの音楽体験に似た感動を受けた。筆者を含め、世界中の多様で素晴らしい文化を体験するためにここに住む人々にとって、彼らの演奏は広大な芸術の恩恵を実感させてくれるものだ。彼らの芸術は、人間の声と楽器のサウンドによって織り上げた「世界」そのものと言えるだろう。このような音楽が、人々の心を癒し、世界をひとつにしてくれるように、そう願ってやまない。

2015,7/15  レポート: ケン・ヴァームズ 

(訳:寺井珠重)

 

 

 

対訳ノート(46)Until the Real Thing Comes Along

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 月例「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に今月、来月にまたがって登場するケニー・バレburelld0d0eb87.jpgルの弾き語りアルバム『Weaver of Dreams』、名ギタリスト、バレルの歌うスタンダード・ナンバーは、どれもミュージシャンならではの音選び、正確無比な音程、それにミュージシャンらしくない男性的な甘い声は、ジャケットの姿に相応しいハンサム。バレルとフラナガンが若かりし頃、デトロイトで人気だったナット・キング・コール・スタイルの演奏活動の延長線上にあることでも意義深いこのアルバムの収録曲 “Until the Real Thing Comes Along”も、キング・コールの演目です。この歌には、「本当のことがわかるまで」という邦題もついているのですが、講座で映写する対訳作りでは、歌詞の肝心要になる英語のシンプルな言い回しをどう訳せばいいか、ほとほと困りました。

<歌のお里>

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  この歌のお里は『ラプソディ・イン・ブラック』(1931)というブロードウェイのレヴュー、ハーレム・ルネサンスの華、エセル・ウォーターズが唄った。当時の時の曲名は”Till the Real Thing Comes Along”で、おしどりコンビ、アルバータ・ニコルス(曲)、マン・ホリナーRhapsody-in-Black-05-31-1.jpg(詞)の作と記載されている。5年後、この曲はリニューアルされ”(It Will Have to do) Until the Real Thing Comes Along”と改題、サミー・カーンやソール・チャップリンといった3人の共作者の名前がドドっと付け加えられた。歌の中身に、どれほどの改訂がなされたのか?あるいは版権の分配先が増えただけなのか、全く不明。とにかく、リメイクされた1936年、アンディ・カーク楽団で大ヒット!以来、ファッツ・ウォーラー、ビリー・ホリディ、デクスター・ゴードン、ソニー・クリス、アレサ・フランクリン、そしてケニー・バレルなどなど…ジャンルを問わず多くの音楽家に愛奏された。因みにアンディ・カーク楽団は、チャーリー・パーカーやファッツ・ナヴァロが在籍した名門バンドで、ビバップ誕生のゆりかごとされる楽団です。

<ちょっと英語の話>

 けっこうな有名曲にもかかわらず、日本の対訳サイトにほとんど紹介されないのは、私も手こずった肝心要の複文パンチライン “It will have to do until the real thing comes along”の意味が、イマイチ釈然としないせいかも…

 英語を母国語としない私たちにとって、DoGetと並ぶ厄介者、「ソレハスベキデアロウ」って何だろう… 謎解きのために、まずは、このフレーズからHave toを省き更にシンプルにして、It will do. の意味を考える。これはスラングでもなんでもない、とても英語らしい一般的な表現。英語学習者には非常に重宝なBBC放送のポドキャストに紹介されています。使い勝手のある多様な言葉ですが、歌詞のwill doは、satisfactory, or acceptableと言い換えられる。ここでのwill doは「必要な要件を満たしていること、許容範囲内であること」なのでした。

 例えば、週末のデートのために、デパートでとびきり可愛くてセクシーなピンクの口紅を見つけたら”It will do!”とほくそ笑む。或いは、区役所や郵便局で「身分を証明する物を提示してください。」と言われた時、「運転免許証でいいですか?」と言ったとします。窓口の人が「はい、いいですよ」という言葉に当たる英語がwill doです。

  じゃあ”It will have to do“となるとどうなるの?

 前述のデートの当日、勝負服を着て、そのリップをつけてみた。そしたら、リップの香りが、今吹きかけたシャネル#19とはずいぶん違う。しまった!でも、そんなに強い香りじゃないし、きっと彼はそんなところまで気にしないはず。このリップで大丈夫、と自分に言い聞かせる。こういう場合の女心が”It will have to do“。つまり、100%完璧とはいえないまでも、「これで大丈夫でしょう。」という意味なんです。大阪弁なら「まあ、いけるやろ」って感じ。

 この歌のヴァースを読むと判るように、主人公は、自分がどれほど愛しているかを、いろいろ説明するけど、相手には納得してもらえない。それで、「本当のことがわかるまで(つまり、自分の愛を納得してもらえる時がきっと来るから)、それまでは、私の説明でよしとしておいてくださいな。」という歌なんです。

 この「当座しのぎ」の言い回しが、奥深い音楽表現につながることから、長らく愛奏、愛唄されているのかも。バレルのハンサムな歌を聴けば、こんな風に告白されたいと思うだろうし、ビリー・ホリディの歌を聴くと、色んな男を相手にしてきた商売女が命を賭けたラブストーリーになっている。

<Until the Real Thing Comes Along>

原歌詞はこちら

Mann Holiner, Sammy Cahn, Alberta Nichols, Saul Chaplin, L.E. Freeman

=Verse=

あなたは私にとってこの世の天国、

それをうまく説明できないの。

だって愛や、愛の深さは言葉にできないものだから、

でも本当よ、

あなたはたった一人の恋人・・・・

 

Chorus

あなたに仕え、

身を粉にして働くわ。

物乞い、悪行してみせる、

それがあなたのためならば。

それは違うと言われても、

それほど違いはないはずだから、

どうぞ愛だと思っておいて、

本当の事が判るまで。

 

愛の証になるのなら、

大地を動かすのも厭わない、

それが愛ではないにせよ、

大して変わりはないはずだから、

愛だと思って受け入れて、

本当の事が判るまで。

 

言葉を尽くして説得しても、

どうにも判ってもらえない。

たとえ何が起ころうと、

いつでも愛しているのにさ、

私の心はあなたのもの!

この上、何を言えばいい?

 

あなたに焦がれため息ついて、

あなたを思い涙する、

空の星さえ取って来る。

それが愛ではないにせよ、

ほとんど変わりはないでしょう、

だから思いを受け入れて、

本当だと判るその日まで。

 

 えっ?私のような者に、英語の意味について講釈されても納得出来ないって?そんな事言わずに、まあ、これでよしとしておいてくださいな。本当のことが判るまで、ねっ!

対訳ノート(45) Skylark : 禁じられた恋の鳥

 お久しぶりです!

  連休は楽しく過ごされましたか? こちらは4夜連続36周年記念ライブが無事終わりほっと一息。沢山のご来店、心から感謝しています。

 それぞれ趣向を凝らしてお届けしたプログラムは、各ミュージシャン達の音楽に対する見方や立ち位置が反映されていて楽しかった!

  連休前、寺井尚之メインステム・トリオがアンコールで演奏した”スカイラーク”はそよ風が吹き抜けるようで、爽やかな春の日にぴったり!ぜひ紹介したいと思っていました。

  空を舞い、美しい声で春を謳歌するスカイラーク( 雲 雀 ヒバリ)に語りかけるこの曲、アレック・ワイルダーは名著『American Popular Song』の中で、「これほど素晴らしいブリッジ(サビ)のある曲は聴いたことがない!」と絶賛しています。確かに、この間の演奏も、サビの部分で、雲雀の飛ぶ大空が、青空から燃えるような夕焼けへと鮮やかに変化していく感動にとらわれました。

<歌のお里>

johnny_mercer.jpgJohnny Mercer (1909 -76)
 

304221_actual.jpg  “Skylark”は”Star Dust”でおなじみのホーギー・カーマイケル作曲(左写真)、作詞はアメリカ・ポピュラー・ソング史上最高の作詞家とされるジョニー・マーサー、歌の誕生は、太平洋戦争直前の1941年。元々、曲が先にあり、歌詞は後付け。曲は、カーマイケルの盟友であった夭折のトランペッター、ビックス・バイダーベックの生涯をミュージカル化する企画で生まれたものです。ビックスのバンドで学生時代共演していたカーマイケルは、生前ビックスが吹いたフレーズを元に作曲したのですが、企画が流れたために、マーサBix-Beiderbecke-1924.jpgーに「詞を付けてみて」と曲を渡し、そのままこの曲のことは忘れてしまっていた。余談ですが、10年後、流れた企画はハリウッド映画に生まれ変わり、カーク・ダグラスがビックス役で、様々なジャズ・スタンダードを散りばめた『Young Man with the Horn(’50) 』としてヒットしました。この映画で、カーマイケルは音楽担当ではなく、ピアニスト役で出演。日本では『情熱の狂詩曲』というタイトルで上映され、私もTVの深夜映画で観た記憶があります。

<ジョニー・マーサー>

   “Come Rain or Come Shine””酒とバラの日々””I’m Old Fashioned”…ジャズ・スタンダードとされるジョニー・マーサーの作品を挙げるときりがない。上述のホーギー・カーマイケル、ハロルド・アーレン、ジェローム・カーンはじめ当代随一の作曲者とコラボし、”Satin Doll”など、エリントンなど黒人アーティスト達のビッグバンド曲にぴったりの歌詞を後付けした。15才の頃から作詞作曲を独学で始め、トミー・ドーシー楽団の専属歌手としても人気を博した。シンガー・ソングライター(こんな言葉は、その時代にはなかったけれど)の先駆者とも言えます。

 マーサーの言霊は、一言で言えば「ナチュラル」!トレンディな新語を作り、大都会のシックを強調するような、コピーライター的手法とは無縁な作家。それでいながら歌の空気感を鮮やかに紡ぐ歌詞は、ぽっちゃりした丸みと詩情に溢れ、耳に心地いい。アメリカ人は 「南部的」 southern) と評し、北部の水で育ったヤンキー・リリシスト達には、逆立ちしても真似が出来なかった。
 それは、マーサーがジョージアの美しい港町サヴァナ出身であるだけでなく、なにより優れた歌手であり作曲家であったからかもしれません。

 生まれは南部に代々続く指折りの名家ですが、大恐慌で家は没落、一家でNYに落ち延びた。そこでボードヴィル芸人から叩き上げ、ビング・クロスビーの後釜としてトミー・ドーシー楽団でブレイクした後、さらにハリウッドで作詞作曲家として成功、キャピトル・レコードの創始者となった音楽家です。

<国民的美少女との禁断の恋>

j_garland.jpg(Judy Garland 1922-66)

 マーサーのキャリアは、晩年に至るまで順風満帆そのもの、そんな彼が果たせなかった夢が二つ、一つはブロードウェイのヒット・ミュージカルを書く夢、もう一つは運命の女性と結ばれる夢だった。その女性とは『オズの魔法使い』のドロシー役で映画史に残る女優、エンタテイナー、ジュディ・ガーランドでした。
 二人が恋に堕ちた時、すでにガーランドは、『オズの魔法使い』で国民的美少女、まだ18才の若さでした。一方マーサーは30才、年の差はともかく、れっきとした妻帯者。清純少女スターと30男の不倫は、いくら自由奔放なハリウッドでも都合の悪い真実、この不倫はアカン!業界だけでなく、友人たちも口を揃えて猛反対!だけど、恋は理屈じゃないんですよね。

 結局、お互いのためと、引き離されたものの未練は募るばかり。マーサーは家庭を守り酒に溺れた。ガーランドは結婚離婚を繰り返し薬に溺れた。二人はそれからもしのび逢い、ガーランドが亡くなるまで、二人の密やかな炎は消えることがなかったのだそうです。

 マーサーの名歌の数々は、断ち切れない恋のカタルシスと言われ、しみじみと心に染み入る言霊に、叶わなかった恋への静かな炎が見え隠れしています。

 中でもガーランドへの慕情が最も直接的に語られているのは GWに末宗俊郎+The Mainstem も演奏していた”I Remember You”だと言われていて、マーサーの死後に出た伝記には、未亡人、ジーン・マーサーの強い希望で、この曲についての言及は一切ありません。

  ”Skylark”は、二人の出会いの翌年に作られた詞、小さな体で空を舞い、歌う雲雀が誰なのかは、もうお分かりですよね!

 うつくしや雲雀の鳴し迹の空 小林一茶

<Skylark>

Hoagy Carmichael/ Johnny Mercer (原歌詞はこちら

雲雀よ、
何かいいたいことがあるのかい?
恋人はどこにいるの?教えてくれないか。
霧に煙る草原で、
愛のくちづけを待っているのかな?

雲雀よ、
泉に潤う緑の谷を見たことがあるかい?
そこは僕の心の旅の先、
暗くても、雨が降っても、負けずに進む、
そうすりゃ花咲く小道に辿り着く。

一人ぼっちで飛ぶ間、
夜の調べを聴いたことはない?
それは素敵な音楽なんだ、
鬼火のようにひそやかで、
水鳥みたいに狂おしく、
月夜のジプシー音楽みたいに切ないよ。

雲雀よ、
ほんとにそれが見つかるかどうかは分からない。
でもね、君の翼に乗って僕の心も旅をする。
だからね、もしも旅の途中で僕の心の風景を見ることがあったら、
どうか一緒に連れて行ってくれないか?

翻訳ノート:ウエス・モンゴメリー『アーリー・レコーディングス・フロム1949-1958 イン・ザ・ビギニング』

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キング・インターナショナルHPより:

驚愕の未発表音源!!<<ウエス草創期の一大アンソロジー>>

オクターブ奏法, ベースを弾くウエス, クインシー・プロデュース音源・・

『エコーズ・オブ・インディアナ・アヴェニュー』を凌ぐ作品の登場!!

 

  先月、日本先行発売、まもなく本国米国で発売される、ウエス・モンゴメリー話題の未発表音源『アーリー・レコーディングス・フロム1949-1958』、私の周りでも、ジャズにかぎらずロックやクラシックを主に演奏しているミュージシャン達も、すぐにチェックして愛聴しているみたいです。

 このアルバムは地元インディアナポリスの人気ギタリストとして活躍した時期、26才から33才のライブ、スタジオから、プライベートなジャム・セッションでのエレキベースまで、さまざまなシークエンスのプレイを収録したものです。ウエスが遅咲きであった理由は、家の生活を守るため、俗にデイ・ギグと呼ばれる工場勤めをしながら、地元に留まって音楽活動を続けたというのは有名ですよね。でも、ここでの演奏を聴くと、すでにウエスのあのスタイルは出来上がっていたことを、自分の耳で確かめられるのが嬉しいです。

 NYの一流ミュージシャンの間では、「インディアナポリスにウエスあり!」と口コミで噂は伝わっていて、楽旅でインディアナポリスを訪れると、こぞって、彼の出演場所にやって来た。本作は、そんなミュージシャン達の気持ちを共有できます。ウエスと共演している地元ミュージシャン、プーキー・ジョンソン(ts)、ソニー・ジョンソン(ds)も並々ならぬ実力派です。

 2枚組CDには、当時の貴重な演奏写真と共に、当時のウエスの実像に迫る様々なエッセイがぎゅうぎゅう詰めになった小冊子付き。この辺りが、「ジャズ発掘人」として名高いゼヴ・フェルドマンらしいアルバム作りですね!小冊子の冒頭には、「ジャズ発掘人」と呼ばれるフェルドマン自身が語るアルバム誕生秘話。世界中から情報を集め、良いアルバム作りに邁進するのプロジェクトXに血沸き肉踊ります。続いてウエスの家族たち、22才の若さでウエスをプロデュースしたクインシ―・ジョーンズ、ロック畑のウエス・ファン代表、ピート・タウンゼント、さらには、2月に『オファリング:ライブ・アット・テンプル大/ ジョン・コルトレーン』のアルバム・ノート執筆者としてグラミー賞を勝ち取ったアシュリー・カーンなどなど、音楽解説だけでなく、その当時のインディアナポリスのジャズ・シーン、歴史や社会状況が手に取るように見えてくる高内容の一冊!

 当時のインディアナポリスで黒人たちが直面していた人種差別からは、ウエスが、パノニカ男爵夫人の「三つの願い」で、『No discrimination whatever いかなる差別もなくなること。』 と願っているのが深く頷けました。そして、その差別をウエス達が音楽の力で正す痛快な事件のことも書かれています。

 初期ウエスの貴重なレコーディング、それに、まつわる音楽史の興味深い断面を、ぜひご一読ください!日本語訳は不肖私が担当させていただきました。King e-SHOP

 下のヴィデオは、ゼヴさんがホスト役で登場する、アルバム制作ドキュメンタリーです。

CU!