その男、凶暴につき(2):ルーレット・レコードCEO、モリス・レヴィー

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Morris Levy (1927-1990)

 禁酒法時代、ジャズは密造酒に洗われ、ずいぶん垢抜けた。カポネは大恐慌の後脱税容疑で投獄。1947年、梅毒で脳を侵されて見る陰もない最期だった。財布に入りきらないお札を、弱い黒人ミュージシャン達に多少なりとも分け与えたアル・カポネに比べて、音楽界のドンとして君臨したギャング、モリス・レヴィーのやり方は、ミュージシャンの著作権を奪い、クスリやギャンブルで二重三重に絞り上げるという卑劣極まりないものだった。
 だからといって、カポネが音楽を愛する善人で、レヴィーが真正のワルだったというわけではないのだろう。カポネの時代、音楽は美しいダンサー達のショウの添え物的な存在でしかなかったし、莫大な利益をむさぼる対象からはずれていただけなのかも知れません。

 第二次大戦中、マフィアは「暗黒街工作員」として連合軍勝利のために命を張って手を汚した。戦争に勝った後、ルーズベルト大統領はその見返りとして、ヘロインの密輸を黙認、麻薬の売買は密造酒に変わる主要産業になった。また砂漠のど真ん中にモルモン教徒が開拓したネバダ州に、カジノと娯楽の聖地ラスベガスを建設したのもマフィアの功績(?)だ。

<ビバップのフィクサー>

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 L1.jpg 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場したプランジャー・ミュートの達人、タイリー・グレンのアルバム『Let’s Have a Ball』や、1月同講座で聴いたカウント・ベイシー楽団とジョー・ウィリアムス&LH&Rのコラボ盤『Sing Along with Basie』をリリースしたレコード会社は“Roulette Records”。このレーベルのオーナーはラジオのDJ、シンフォニー・シドと組みビバップ・ブームを大いに盛り上げた流行の陰の立役者で、音楽業界のドンとなったモリス・レヴィーです。

 その男、実は、NYのマフィアのうちでも五本の指に入るジェノヴェーゼ一・ファミリーの一員、 一家を束ねた親分は、泣く子も黙るヴィトー・ジェノベーゼ、映画”ゴッドファーザー”のモデルのひとりだった。映画でマーロン・ブランド扮するヴィトー・ドン・コルレオーネは地域の争い事を収め、麻薬売買には断固反対した侠客でしたが、そんなこと言ってちゃ食べて行けない。現実のジェノヴェーゼ一家は博打、クスリ、売春、ボクシングその他の興行、金融業など、手広く事業展開する大実業家、その中の音楽エンタメ部門を仕切った幹部がモリス・レヴィーだった。本名モーセ・レヴィー、シチリアではなくてユダヤ系。NYブロンクス出身で、13才のとき、御年75才の担任教師に暴行を働き放校処分、それ以来ヤクザ稼業一筋、ほんとはこういう人を「Mean Streets」と呼ぶのでしょうね。

 

 

Letshaveaball.jpg 若いころはフロリダの高級クラブで丁稚奉公した。カワイコちゃんが店内のお客様の記念写真を撮影すると、お客さまが帰るまでに現像してお渡しするサービス係を務め、暗室の現像技術を取得した。きっと隠し撮りされて恐喝されたお金持ちもいたんでしょうね… モリスはこの土地でクラブ経営のノウハウを学んだ後、NYに舞い戻り、Topsy’s Chicken Roostという店の経営に関わります。折しも到来したビバップ・ブームに便乗して、店は”Royal Roost””Bop City”と屋号を変え有名ジャズクラブとなりました。人気ディスク・ジョッキー、シンフォニー・シドと組んで、チャーリー・パーカーやデクスター・ゴードンといったスターをブッキング、ラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げた。ここからモリスは、ラジオでPRしてくれるDJを味方につけることがいかに大事を身をもって学んだ。それと平行して”Roulette Records”を設立、ビバップのレコード・レーベル”Roost”を買収、”Birdland”レーベルではPrestigeのボブ・ワインストックと組んだり、ジャズにかぎらずR&Bやスタンダップ・コメディのレコーディングなど多方面で、どんどん事業展開、ビバップ、ハードバップ期の象徴的クラブ、”Birdland”を設立した。前述のタイリー・グレンがフラナガンやハンク・ジョーンズと常時出演していたアッパー・イーストサイドの高級レストラン”The Roundtable”は、”Roulette”で得た利益を投資して開店したからラウンドテーブルという屋号になったのです。

 『Let’s Have a Ball』(’58)は、この店のオープンと前後にリリースされたアルバム、レコードが売れれば店が繁盛し、店で生演奏を聴けばレコードが売れるという仕組みです。

<カウント・ベイシーとルーレット>

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 カウント・ベイシー楽団は、前述の『Sing Along with Basie』を含め20枚以上ものアルバムを”Roulette Records”に録音してる。名門コロンビア・レコードの司令官ジョン・ハモンドが面倒をみたベイシーが何故多く録音をしたのか?これが私にとって長年の「謎」だったのですが、トニー・ベネットの自伝(The Good Life: The Autobiography Of Tony Bennett)を読んで疑問が溶けた。そこにはベイシーが知る人ぞ知る無類のギャンブル好きであったことが書かれていた。カウント・ベイシーは、博打で負けてレヴィーに莫大な借金があったのです。ベネットとベイシーのゴキゲンにスイングする共演盤『Basie Swings, Bennett Sings 』さえも、借金のカタとして録音されたものだった。ベネットはこんな風に書いている。
basie43.jpg 「レヴィーはミュージシャンの骨の髄までしゃぶる古典的悪党だった。噂によれば、カウント・ベイシー楽団員全員がレヴィーの会社の従業員として強制的に演奏奉仕させられた挙句、1セントの著作権料も支払われなかったらしい・・・」
 名門ジャズクラブ、”バードランド”にベイシー楽団は何度も出演しているけれど、最高に楽しい演奏のギャラは雀の涙(peanuts)だった・・・
 ミュージシャンを徹底的に搾取するレヴィーの商法、20才そこそこの若きジャズ・ミュージシャン達が創造するビバップ・ムーヴメント、その演奏の場所を経営する団体がヘロインの売買を主たる産業にしていたのですから、彼らがドラッグ浸りになったって何も不思議ではないですよね。
 

<版権ほど素敵な商売はない>

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 モリスの手がけた店で最も有名なのがチャーリー・パーカーの名前を拝借した“バードランド”、実質的な経営者は弁護士の肩書を持つオスカー・グッドスタイン、モリスは6人の共同経営者のひとりとして財務を担当していました。彼が音楽業界のドンにのし上がったきっかけがここにあります。或る日、ASCAPの職員が音楽家や出版社の代理人として、バードランドに対し演奏著作料を請求しにきた。顧問弁護士(恐らくグッドスタイン)は、その請求は完璧に合法的だから払いなさいと言う。そうか!「著作権」があれば、寝ててもお金が入ってくるんだ!目の前に「宝の山」があったことに気づいたレヴィーは、この著作権法を逆手に取って一儲けしようと決意。最初の妻の名を取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立し、バードランドで初演される楽曲の著作権をせっせと取得した。その中で最も有名なのものが、バードランドから発信されるラジオ番組のテーマソングとして大ヒットした”Lullaby of birdlande5f.jpgBirdland”(1952)。作曲家であるシアリングは、店のレギュラー・ピアニストで、わずか10分でこの曲を創ったと言います。いったい彼がどのような手段を使ったのかはわからないのですが、後になって、出版権をレヴィー、作曲著作権をシアリングに、ということで折り合いがつき、シアリングにも莫大な印税が毎月転がり込んできた。レヴィーが、この著作権事業を更に拡大するため、1956年に設立したのが「ルーレット・レコード」で、それからは作曲著作権も独り占めしようと、新人の契約書を工夫した。とにかくミュージシャンに対しては、おこぼれをあげるどころか、ぼったくる主義を貫徹。恐らくモリスにとって音楽家は単なる消耗品にすぎず、いくらでも代りがあるものだった。ヒットは楽曲ではなくPRによってのみ作られる、という信念があったんでしょう。

 モリスを良い人間だと褒めているのはディジー・ガレスピーくらいで、自伝には「未払のギャラを請求しに行ったら靴箱一杯の札をくれた。自宅の敷金を無利息で肩代わりしてくれる親切な男」と書いてある。しかし、この伝記が書かれた時期を考えると、全くの本心かどうかはわからない。

  

<ロックンロール!>

 

Alan_Freed_1957.JPG  レヴィーは、ロックンロールの創成にも大きく貢献した。その時代、レヴィーが最も重要視したのは音楽の作り手ではなく流行の作り手、つまりラジオのディスク・ジョッキーたち。 レヴィーはラジオの番組のヒット・チャートに自分の楽曲を優先的に流すために、ミスター・ロックンロールと言われた伝説のDJ、アラン・フリードはじめ数々のディスクジョッキーを接待漬けにした。DJの給料はとても安いから接待にはイチコロだった。レストランもホテルも沢山持ってるギャングだから、お・も・て・な・しは得意です。豪華ディナーやただ酒をたらふくごちそうしてから、自分の高級車を提供して乗り回させる。助手席には高級娼婦がもれなくついて… 勿論、現金だってたんまり包んで渡すものだから、レヴィー傘下の曲はラジオでガンガン流れた。レヴィーは、その代わりにフリードの造った”rock & roll”という流行語の所有権を独占し、使用権を徴収していたというからたいしたもんだ。やがて、DJが賄賂と接待にまみれながらヒット曲を操作していることが大きな社会問題となりますが、糾弾されたのはDJで黒幕はお咎め無しだった。内田裕也さんもレヴィーがいなくなってよかったですよね!

 大実業家として、「音楽業界の蛸」「ゴッドファーザー」と雑誌で賞賛されたモリス・レヴィーは、マンハッタンの超豪華アパート暮らし、セレブが憧れる日本人のハウスボーイがお仕えし、傘下企業の利益は7500万ドルと言われていました。
 
6a00d83451c29169e20168e852dc3c970c.png 一方、その裏では、暗黒街の抗争は絶えず、ジャズのメッカ、”バードランド”では立て続けに殺人事件が起こった。最初に殺されたのはギャングの一味、その直後に刺殺されたのはモリスの兄だった。レヴィーと間違えて兄が代わりに殺された。”バードランド”はここから凋落しますが、モリスにとっては痛くも痒くもないことだった。

 

<ジョン・レノンを告訴>

ori-roots09.JPG 1973年、レヴィーは、ビートルスのヒット曲『Come Together』の冒頭歌詞が、チャック・ベリー(レノンのアイドル)の作品”You Can’t Catch Me”(1956)の盗作として、レノンを告訴。示談の結果、レノンがレヴィーが版権を持つロックンロール曲3曲をレコーディングすることで落ち着いた。すったもんだの末、レビーは1セントも出費することなくレノンのアルバム”Roots”を通信販売することで大儲けします。 レヴィーは少しやり過ぎたのかも・・・
 その頃から、競合する音楽企業は、どんどん健全化(?)してギャング以外のビジネスマンが参入し始めて、レヴィーの手がけるポップ・ミュージックに翳りが出てきます。

 <ヤクザ商法の終焉>

6a00d8341c4fe353ef0134880b8394970c-800wi.jpg 時とともに、レヴィーのビジネス感覚や流行を嗅ぎつける嗅覚が鈍り、膨らみ上がった音楽企業の収益が複合的に減少して行きました。財力が引き潮になったとき、それまで金と権力のおかげで隠れていた悪行が徐々に露見し始めた。

 1984年から、FBIがレヴィーの企業について潜入捜査を開始、レコード卸売業者に対して125万ドル相当のレコード売買契約を結ぼながら、高額商品を故意にカタログから削除して販売するという詐欺行為を行ったことを突き止めます。それに気づいて満額の支払いを拒否した業者は暴行を受け重症を負うという事件が表沙汰になり、レヴィーは1986年に逮捕、一流ホテルでの捕物シーンが派手にTVで報道されることに。

 FBIは捜査の手を緩めることなく、「ルーレット・レコード」が、実はマフィアの隠れ蓑として、マネー・ロンダリングの役割を受け持つ会社であることも明るみに出ました。

 1988年、レヴィーは「ルーレット・レコード」と複数の音楽出版社を5,500万ドルで売り抜けますが、マフィアとしての裏の顔はかつてレヴィーが大いに利用したマスコミによって大々的に報道され、TV特番まで組まれた。結局レヴィーは「ルーレット」の管理職2名(うち一名はジェノベーゼ・ファミリー)と共に、強要罪で10年の懲役刑を宣告されることになりました。控訴は棄却され、服役前の1990年、レヴィーは癌で死亡。享年63才、バッパーを食い物にしたバップの立役者の最期でした。

 彼のヤクザ商法は、映画「ゴッドファーザー」でたびたび登場するマフィアらしい台詞 ”I made an offer he can’t refuse” (奴がいやとはいえない提案をしてやった。)を思い出します。ミュージシャンに対するレヴィーの脅しは、レヴィーの死後、60年代に売れっ子だっロック・バンド、「ションドレルズ」のトミー・ジェイムズの手記” Me, The Mob, and The Music (僕とヤクザと音楽)“に赤裸々に書かれています。


 今回、モリス・レヴィーや、彼の著作権商法を調べていると見えてきました。黒人ミュージシャンで初めて著作権会社を設立したジジ・グライスが被害妄想に陥り、ラッキー・トンプソンがホームレスにまで落ちぶれた理由が・・・彼らは後進のためにトラの尾っぽを踏んだ殉教者と言えるのかもしれません。ブームの立役者はミュージシャンの生き血を吸いながら大きくなった。フィリー・ジョー・ジョーンズのビバップ・ヴァンパイアは現実にいたんだね!

その男、凶暴につき (1) アル・カポネとジャズ

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(Al Capone 1899 – 1947)

 毎日寒いですね!今週は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」の下準備で必死のパッチ。今回はミルト・ジャクソン(vib)の名盤『Bags’ Opus』を中心に、コールマン・ホーキンスのレギュラー時代前夜のフラナガン参加盤を楽しみます。

  さきほど寺井尚之とコーヒー飲みながら、ちょっと講座の内容を聴いたのですが、ミュージシャン耳が捉えた名盤の切り口は、ディスク・レビューではなかなかお目にかかれない興味深いもの。前回の講義よりずっと深く楽しく楽しめそうです。ミルト・ジャクソンやベニー・ゴルソン・・・バッパー、ハードバッパーと言われる一流の人たちの音楽に対する「姿勢」は、ルイ・アームストロングはじめ、偉大なる先人から脈々と受け継がれてきたものだということを、サウンドと共に実感していただけますよ!

 講座のラストに紹介する『Let’s Have a Ball』のトロンボーン奏者、タイリー・グレンはルイ・アームストロングと長らく共演したプランジャー・ミュートの達人、前々回のアイリーン・ウィルソン同様、ジャズエイジの栄華を知る名手です。禁酒法のおかげで富と権力を得たマフィア、1920年代のジャズの発展は禁酒法とギャングなしには語れません。

 teddy_wilson_talks_jazz.JPG テディ・ウイルソンは自伝『Teddy Wilson Talks Jazz』で、その時代の体験をヴィヴィッドに語っています。要約するとこんな感じ。
 
カポネが秘密裏に経営する会員制高級クラブ””ゴールド・コースト”の会員証は18金でできていた。深夜、カポネが現れると、貸し切りになる。カポネもマシンガンを持つ子分たちもジャズが大好きだ!カポネが贔屓にするアール・ハインズ楽団の演目はずべて知ってる。彼らのお気に入りミュージシャンは、サックスならジョニー・ホッジスかベニー・カーター、トランペットならルイ・アームストロングかジャボ・スミスだった。(趣味がいいですね!)
 バンド演奏が始まると、王様カポネは始終バンドスタンドに上がってくる。(それはリクエストをするためではなく)ミュージシャンのポケットにチップの100ドル札を入れてやるためだ。時には一晩のチップが一ヶ月分のサラリーより上回ることもあった。大恐慌が始まった頃だったが、おかげで私はクライスラー・インペリアルに乗っていた。
 カポネが飲んでいる間、店の外には防弾ガラス仕様のキャディラック3台と15人の屈強な用心棒が待機していた。
 私は演奏以外に、彼らの仕事をしたこともあるよ。バイオリンのケースにマシンガンを入れて運んだんだ。
 カポネはギャングだし人も殺す。その資金源は密造酒、売春、麻薬…ろくなもんではないが、彼らの潤沢な富みの一部はミュージシャン達に流れ、我々の懐は大いに潤った。
 もうひとつ、カポネのいいところは、シカゴの密造酒販売の利権を黒人のマフィアに任せたことだ。カポネは白人のファミリーは全滅させたが、この黒人一家には手厚かった。おかげでそのファミリーは米国黒人史上第二の億万長者となった。

 <ファッツ・ウォーラー拉致事件>

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 ギャングがジャズ通なんて今じゃ到底考えられませんが、私の学生時代、組事務所が並ぶミナミの街に『デューク』というジャズ・クラブがありました。そこに田村翼(p)さんのライブを聴きに行ったら、最前列に着流しの親分さんみたいな人が子分を連れて真剣に演奏に聴き入っていたのを観たことがあります。

 カポネのジャズ・ファンぶりについて、とてもおもしろいエピソードがあります。1926年1月17日、寒い夜のこと、シカゴの繁華街にあるシャーマン・ホテルにファッツ・ウォーラー(p)がに出演し大当たりをとっていた。ファッツ・ウォーラーは道化の仮面をかぶった天才音楽家、ピアニスト、歌手、作詞作曲家、ファッツはトミー・フラナガンの子供時代のアイドルで、晩年には彼のレパートリーを再発掘していました。その夜の演奏がハネてファッツがホテルから出てくると、屈強なその筋の兄さんたち4人に取り囲まれた。ぽっこりしたお腹にピストルの銃身がめり込む。ファッツは否応なしに、脇に停めてある黒塗りのリムジンに押し込まれた。

hawthorne_500.jpg 「もうこれで俺もお陀仏だ・・・神様・・・」ファッツは生きた心地がしなかったそうです。降ろされた場所はシカゴ郊外のハートホーン・インというホテルだった。そこは、アル・カポネ一家の根城。ホテルに入り、ファッツが強引に連行された場所は、処刑場ではなく、宴会場、ステージ上のピアノの椅子だった!

   主賓席に座る男の頬の傷を見てファッツは、その男こそシカゴの帝王、カポネだとわかった。1月17日、その日はカポネ親分の27才の誕生日だったんです!  ファッツを拉致した屈強な男たちは、敬愛する親分に喜んでもらえるプレゼントをあれこれ考えた結果、極上のジャズを選んだというわけ!手段は怖いが、ケーキいから登場する裸の美女ではなく、ファッツ・ウォーラーをサプライズにしたとは、なんとも粋な兄さんたちです。

 多分生きた心地がしなかったファッツは、気合を入れ直し歌って弾いた。最高の技量とユーモア・センス!美しいピアノ・タッチ!満員のお客は大喜び、中でもいちばんウケていたのが主賓のカポネ。人種差別の時代、黒人ミュージシャンは一流クラブで演奏しても、お客と同じ席で食事もできない。正面玄関から出入りもできない。でもジャズを愛するカポネは野暮なことは言わない。食いしん坊のウォーラーに極上シャンパンやキャビア、最高の食事をたんまりふるまって、演奏を続けさせた。拉致されたって、自分の音楽を喜んでくれるなら、それにごちそうも一緒にあるのでから、きっとノリにのった演奏になったんでしょう。

 一曲終わると、「最高だ!」と喜ぶカポネや、他の客が100ドル札のご祝儀を次々とウォーラーのポケットに突っ込む、そしてまた演奏、という繰り返し・・・そのパーティは3日3晩続いたといいます。演奏が終わると、男たちは来た時と同じリムジンにファッツを乗せて、シャーマン・ホテルまで安全に送リ届けた。ポケットに入りきらないチップ、お札の山、その合計3,000ドル、今の貨幣価値でざっと300万円だった。

 

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 そんなわけで、ジャズはニューオリンズのコンゴ広場で芽吹き、娼館をゆりかごにして、禁酒法とギャングの潤沢な経済援助を受けながら発展した歴史があるのです。禁酒法が終わりを告げて、ギャングの資金源が変貌するとともに、ミュージシャンとギャングの関係も大きく様変わりしていきます。

   次回はタイリー・グレンの『Let’s Have a Ball』をリリースしたルーレット・レコード、フラナガンとグレンが出演していたジャズ・レストラン『ラウンドテーブル』そして『バードランド』の経営者、果てはジョン・レノンまでゆすったマフィア、モリス・レヴィーについて。

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(2):Irene Higginbotham

 510f25a6.jpg  ジャズ史上に残るビリー・ホリディの名演目”グッドモーニング・ハートエイク”、失恋の苦しみを忘れることが出来ない。そんなら逃げるのはやめた!これからは「哀しみ」と手に手をとって歩いて行くんだ・・・捨てられた女の花道だ!涙の海の向こうの地平線のような歌の心は、70年経っても色褪せません。まるで普通に話しをしているような自然で胸を打つメロディーの作曲者が、もう一人のアイリーン(Irene Higginbotham: ヒギンボサム)です。 

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 Irene Higginbotham (1918- 1988)

Jay_Higginbotham,_Jimmy_Ryan's_(Club),_New_York,,_between_1946_and_1948_(William_P._Gottlieb_04121).jpg 長らく”Some Other Spring”の作者、アイリーン・ウィルソンと混同されて、ルイ・アームストロングなどと共演したトロンボーン奏者、J.C.ヒギンボサムの姪であることくらいしかわからなかった謎の作曲家でしたが、一昨年末にChet Williamson(チェット・ウィリアムソン)がマサチューセッツ州ウースター出身の作曲家を語る自己ブログ「Worcester Songwriters of the Great American Songbook」に、これまでの決定版といえる情報を掲載してくれました。ウィリアムソンは”The New Yorker”や”Esquire”誌に寄稿する作家で、ミュージシャン、役者として舞台活動するマルチ・タレント。女優の岸田今日子さんに似た上の写真もこのブログから拝借しました。 

 彼のブログを読むと、ビリー・ホリディと私的に親しく、彼女に相応しいカスタム・メイドの歌を作曲したアイリーン・ウィルソンに対し、ヒギンボサムは職人的な作曲家だったようで、その存在が謎に包まれていたのは、様々なペンネームで作曲活動をしていたからでした。その理由としてあげられるのが、1940年代の「レコーディング禁止令」、ASCAPに所属していた彼女が、ラジオ放送可能なBMI著作権団体に帰属する作品を書くための苦肉の方策だったんでしょうね。

 ASCAPの資料によると、ヒギンボサムはウースターで生まれた後、ジョージア州アトランタに移り、5才でピアノを、13才で作曲を始め、クラシックのコンサート・ピアニストとしてもデビューした。クラシックの作曲家について作曲技法も学び、歌って弾けて作編曲の才もあったのに芸能界は難しい。なかなか職業音楽家としてブレイクできず、NYのビジネス・スクールで速記術を身につけ、事務の仕事に就きながら音楽を続けた。

<ブギ・ウギからロックン・ロールまで>

atamp_stanpy.jpg   彼女が所属していた芸能エージェントがジョー・ディビスという海千山千の策士で、著作料収益を稼ぐための一計を案じました。彼の抱える作曲家達でチームを編成し、彼らの作品の一部をグレン・ギブソンというペンネームで発表したんです。複数の作曲者に多額の印税収入を分割する体裁をとれば節税できるというわけです。グレン・ギブソンは1940年代から’50年代にかけてR&Bの人気グループ”スティーブギブソンレッドキャップス“などでヒット曲を連発しており、ヒギンボサムも相当数の作品をギブソン名義で書いていた。

 それ以外にも、ブギウギの名曲をピアノ用にアレンジした譜面集や、歌って踊る人気コメディ・コンビ、”スタンプ&スタンピー”の持ち歌、果てはCMソングまで、驚くほど広範囲の作曲を手がける本物の職人でした。

<Goodmorning Heartache>

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51ALLDF25jL._SL500_AA280_.jpg ヒギンボサム名義の作品を探してみるとあるもので、古くはコールマン・ホーキンスが若いころ共演していたブルース歌手、マミー・スミスの”No Good Man”や、寺井尚之が大好きなナット・キング・コールの”This Will Make You Laugh”など、やっぱりいい歌が揃っています。 名曲”グッドモーニング・ハートエイク”は、”Perdido”や”Tico Tico”などのいわゆる「後付け」の作詞によってヒギンボサムと比較にならない名声を得たアーウィン・ドレイクとの共作。この二人と並んで作者としてクレジットされているダン・フィッシャーは音楽出版会社のプロデューサーですから名目上の作者だと思われます。

 今年95才になる作詞家ドレイク自身は、ちょうど失恋の矢先だった。結婚を決めていた美しいコーラス・ガールの恋人が彼を捨て、お金のある実業家の元に去ってしまった。絶望で眠れない夜が続いているとき、ヒギンボサムの曲が心に響き、自分の心を投影したのだといいます。「女の歌」にしか聞こえない歌詞は、男の心情だったんですねえ。

 出来上がった曲をビリー・ホリディに売り込んだのがダン・フィッシャー、ホリディはたいそうのこ歌が気に入って、「ぜひストリングスを入れて歌いたい!」と言った。 そしてこの歌が、彼女にとってストリングスとの初共演になりました。レコーディングは作詞家のドレイクがスタジオ入りして、ホリディの傍らで立ち会った。あのデッカ盤はワン・テイクのみで録音完了、さらに1956年、トニー・スコットOrch.と最録音、ホリディの歌唱は一層円熟していた・・・

 

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 余談ですが、フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」ってご存じですか?最近、オットー・プレミンジャー監督映画をまたまた観たのですが、ショートヘアにマリンルック、シックなドレス・・・、’50年代の映画なのにソール・バスのタイトル・デザイン(右)が象徴するように、不滅なおしゃれ感覚で目が離せませんでした。

 原題は”Bonjour Tristesse”、英語にすると、”Goodmorning Heartache”、ビリー・ホリディを愛したフランス文学ですから、何か関係があるのかな・・・とずっと疑問に思っていたのですが、このフランス語原題の元は、同じフランスの大詩人で、プーランクの歌曲の作詞も沢山手がけたポール・エリュアールの「直接の生」という詩の一節から取ったものだった。

 この詩は1938年に作られていて、「悲しみよ、さようなら、悲しみよ、こんにちは・・・」が冒頭のことばですから、ひょっとすると、ドレイクもサガン同様、言葉のトップ・アーティストだったエリュアールのポエムをヒントにしたのかも知れない。

 ホリディの”Goodmorning Heartache”は発売当初、ラジオのヒットチャートの上位にランキングされることはなく、1970年代にダイアナ・ロスが「ビリー・ホリディ物語」に主演してカバーしたレコードは、その何倍ものセールスを記録した。大ベストセラー、サガンの「悲しみよ、こんにちは」の印税は日本円にして340億円だったそうですが、私には関係ない。


<グッド・モーニング・ハートエイク>

おはよう、悲しみさん、
いつも鬱っとうしい様子だね。
おはよう、悲しみさん、
昨日の夜、さよならしたはず。
あんたの気配がなくなるまで
寝返りばかり打っていた。
それなのにまた
夜明けと共に戻ってきたのね。

忘れたいのに、
あんたはどっかり居座ってる。
最初に会ったのは
恋に破れた時だったっけ。
今じゃ毎日、
あんたへの挨拶で
一日が始まる
悲しみさん、おはよう、
調子はどう?・・・(後略)

原歌詞はこちら。

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(1):Irene Kitchings

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左からドロシー・ドネガン(p)、ビリー・ホリディ、アイリーン・キッチングス、ケニー・クラーク(ds)

 ずいぶん昔、故ミムラさんに頂いたビリー・ホリディの伝記で初めて見たアイリーン・キッチングス(右から2人目)の写真、ハーレムのジェーン・バーキンみたいにシックな人!キッチングスは”Some Other Springs”や”Ghost Of Yesterday”といったホリディのヒット曲の作曲だけでなく、ホリデイのブレーンとして、姉貴分として、彼女の歌に大きな影響を与えた。彼女の写真は後にも先にもこれ一枚しか観たことない。今日改めてキッチングスの画像検索してみたら、かの女だけトリミングした私のブログ画像が海外のサイトに拡散していてネットの威力にびっくり!

 アイリーン・キッチングスは3回の結婚歴を持ちアームストロング→イーディ→ウィルソン→キッチングスと姓が変わった。ホリディの十八番、”Good Morning Heartache”を書いたもう一人のアイリーン(ヒギンボサム:”Irene Higginbotham)と長い間混同されていた。OverSeasのビリー・ホリディ解説本初版の記述が誤っているのはそのためです。申し訳ありません。
 二人のアイリーンは、どちらもビリー・ホリディの芸術に輝きを与えた。まずはアイリーン・キッチングスのことを書いてみます。

Jumpin_TeddyBillieHoliday.jpg アイリーン・キッチングスは1908年(明治40年)、オハイオ生まれ、若くしてプロのピアニストとなり、やがて禁酒法時代のシカゴで男達を率いる美人バンドリーダーとして大活躍した。マフィア王国シカゴ・ジャズ界のアイドルだ!彼女の最大のサポーターはアル・カポネ。その地で結婚したが、4才年下のピアニストの才能に惚れ込み一人前に育て上げ、挙句に深い仲になった。そのピアニストこそフラナガンが大好きなテディ・ウイルソン!やがて二人は結婚、アイリーンは山口百恵さんのようにスターの座を捨て、夫に付いてNYへ。一説にはウィルソンの母親が引退をごり押ししたとも言われています。

  

 

 

 

 

<女が惚れる女>

Jumpin_HamptonGoodmanWilson.jpg NYでテディ・ウイルソンのプレイに香る品格を気に入ったのが大プロデューサー、ジョン・ハモンド、春に来日するボブ・ディランをスターにしたのもこの人です。おかげでウィルソンには大きな仕事が沢山回ってきた。中でもベニー・グッドマン楽団への参加によって彼の名声は世界的になります。さらにハモンドが育てる大型新人ビリー・ホリディの音楽監督となり、かの有名な一連のブランズウィック盤を次々に吹き込んだ。レコーディング準備のため、レディ・ディ(ビリー・ホリディのニックネーム)は、ウイルソンのアパートに通い歌の稽古を付けてもらってた。ウィルソン宅でお世話になったのが奥さんのアイリーンです。20歳になるかならないスター予備軍とはいうものの、ホリディは元娼婦、譜面どころか読み書きだってロクにできないおねえちゃん、普通の奥さん連中には距離を置かれる存在だ。でもアイリーンは違ってた。だってシカゴでピストル振り回す荒くれ男たち相手に、音楽で一枚看板張ってた姐さんだもの、そこらの素人さんじゃない。彼女はホリディの歌手としての資質を正しく評価して、率直に接した。ホリディはアイリーンを姉のように慕い、歌詞の読み方や発音でわからないところがあったら、まっさきに頼った。アイリーンはホリディのレコーディングに立ち会い、次の録音のため「新しいネタ」を探しに二人で夜の街を徘徊する仲になります。ホリディが垢抜けたのは、恋のせいだけじゃない、アイリーンのおかげでもあった。  一方、テディ・ウイルソンはベニー・グッドマン楽団で大ブレイク。ところが彼を支えた妻に夫の感謝はなかった。人生って皮肉だな・・・ウィルソンはアイリーンを捨て、若い愛人と駆け落ちしてしまいます。アイリーンとも親しかった総司令官ハモンドは激怒、罰としてテディは仕事を干され、グッドマン楽団のレギュラー・ピアニストはジェス・ステイシーと入れ替わった。さらに皮肉なのは、ハモンドの制裁のおかげでテディがアイリーンの生活費を負担できなくなったこと。精神的にも経済的にも窮地に陥った彼女を助けたのは、ザ・キング=ベニー・カーターの一言だった。

 「昔から君のハーモニーのセンスは飛び抜けていた。ピアノも勿論うまいが、いっそ作曲の仕事をしてみたらどうだい?」

 「じゃあ私の歌を書いてよ!」とビリー・ホリディがと紹介してくれたのが作詞家アーサー・ヘルツォークJr. 二人の相性は抜群だった。”Ghost of Yesterday”(過ぎし日の亡霊)は惨めな女の未練を、”I’m Pulling Through(立ち直れて)”は、最悪の時期に手を差し伸べてくれた人への感謝を歌いヒットした。最もヒットしたのが、ボロボロになった自分の中にほんのわずかに芽吹く再生への希望を歌う”Some Other Spring (いつか来る春)”。アイリーンは惨めな自分の姿を曲の中にさらけ出すことによって、新しい人生を生きることができた。こういうのを「カタルシス」って言うんですね。  ホリディにとって最も親しい女性であったアイリーンの波乱に満ちた生き様を傍らで見つめることで、自分が歌う女性像に劇的な深みが加わったのではないかと私は思います。”God Bless the Child”や”Don’t Explain”・・・一本の映画を見る以上にドラマのある数々の十八番はアイリーンとのコラボ以降に生まれている。上質のワインのように熟していくビリー・ホリディの「女」のドラマは『Lady in Satin』で結実するんだ…

 

<アイリーンの春>

 アイリーンがジャズ界に遺した功績がもうひとつある。それは、ビリー・ホリディにカーメン・マクレエを引きあわせたこと。当時OLをしながら弾き語りをしていたマクレエの素質を見出したアイリーンが、譜面の読めないホリディに新曲を歌って聴かせる仕事をさせたのです。自分が歌った「素」を天才がどのようなプロセスで再構築するのかをマクレエは目の当たりにした。それがどれほど貴重な勉強になるのか?マクレエはホリディを死ぬほど敬愛して大歌手になれたんです。

 

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 数年後、アイリーンは病に倒れ静養のためNYを去りクリーブランドの親戚の家に身を寄せた。彼女の作曲期間は僅か数年間でしたが、静養先で青少年保護委員を務めるカタギの男性エルデン・キッチングスと出会い一生添い遂げました。

  <Some Other Spring>

  Irene Kitchings 曲/ Arthur Herzog Jr.

いつの日か春に

もう一度恋しよう。

 今は朽ち行く花を

 嘆くだけでも・・・

 

 
アイリーンの「春」 は本当にやって来た。

対訳ノート(42) Blues for Dracula

先週の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、チャラ男系の巨匠ドラマー、フィリー・ジョー・ジョーンズの『Blues for Dracula』(Riverside)で、大いに楽しみました。フィリー・ジョー自らブラッシュでパタパタパタとコウモリの羽音でイントロを奏でてから繰り出すドラキュラ伯爵のモノローグ。
 
 ジョニー・グリフィン(ts)、ナット・アダレイ(cor)、ジュリアン・プリースター(tb)、ジミー・ギャリソン(b)、トミー・フラナガン(p)という申し分のないフィリー・ジョーのセクステット(訳詞にある「夜の子どもたち」)が奏でるこのブルーズはグリフィン作、本録音の4ヶ月前には”Purple Shades“というタイトルで、『Art Blakey’s Jazz Messengers and Thelonious Monk』(Atlantic ’58)に収録されています。
 足跡講座では、まず構成表でプレイの組み立てを頭に入れておいて、レコードを聴きながら、下の対訳表をモノローグに沿って映写しました。
 お時間があれば、下の音源と対訳表で、OverSeasの足跡講座の気分を、私と一緒に味わってみませんか?

44.Blues for Dracula_monologue.jpg
  

  フィリー・ジョー・ジョーンズはこのレコーディング以前、2年間”Prestige”でハウス・ドラマーのような役割をしていました。オーナーのボブ・ワインストックに、「もういい加減自分のリーダー・アルバムを作ってくれ」と掛け合ったが、ワインストックは首を縦に振らなかった。「そんなら、うちで演らないか?」と声をかけたのが”Riverside”のオリン・キープニュース、初リーダー作録音の休憩中に、ふざけてやってたチャラ男のドラキュラ・ネタがあまりにも面白かったので、ブルーズに乗せて録音、『Blues for Dracula』がそのままアルバム・タイトルになったと言われています。
 でも、このモノローグはとてもその場でやったとは思えないほど、しっかりした作りになっている。『ビバップ・ヴァンパイア』や『夜の子供たち』は、ヘロインの禁断症状に悩むバッパーだとすぐにわかるけど、そんなジャズメンを脅して生き血を吸うクラブ・オーナーこそが、「ほんとはコワいんだぞお~」というオチが最高です。
 
view_from_within_the.jpg ”Riverside”のプロデューサー、オリン・キープニュースはフィリー・ジョーや、このモノローグの本家、レニー・ブルースとベラ・ルゴシのドラキュラについて、面白いことを書いていました。 
 「レニー・ブルースのスタンダップ・コメディが、とりわけジャズ・メンに愛されたのは、彼らを取り巻く環境がよく似ていたからだ。5時に終わる仕事なら、それからカクテルでもすすりながらほっと一息つく場所はどこにでもある。だが、午前2時や4時に仕事が終わる人間にとって、仕事帰りにくつろげる場所は非常に限定されてしまうんだ。
 彼らはオールナイトの映画館で朝まで過ごし、TVの深夜映画を観て、否が応でもB級映画に詳しくなってしまった。ベラ・ルゴシへの愛と理解は、正にレニーとフィリー・ジョーが共有するものだった。」
(”The View from Within:Jazz Writings 1948-1987″ Orrin Keepnews著/ Oxford University Press刊)

ニュー・イヤー講座、フィリー・ジョー・ジョーンズ:対訳覚書

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Philly Joe Jones (1923-85)

 
 新年明けましておめでとうございます。暦の関係で、何年ぶりかの正月休みでした。ただし、夜なべに講座用の対訳を作りながら・・・それも、スタンダード・ソングではなく、ハチャメチャに早口な約10コーラスのヴォーカリーズや、フィリー・ジョー・ジョーンズの”吸血鬼ブルーズ”のモノローグ・・・前回の講座で使った資料は、プロジェクターの仕様が替わったのを機に、一から洗い直しです。

 新年講座の番外編として、カウント・ベイシー楽団、ジョー・ウィリアムズが、”Lambert Hendrick and Ross”とコラボした一大傑作、『Sing Along with Basie』の代表的な2トラック・・・どれも歌詞が多すぎて、OHPを閲覧した後は忘れ去られる虚しい内職と、指揮官を恨んだものの、結構奥が深くて、やっぱり対訳は楽しいです!
 

 昔、トミー・フラナガン、モンティ・アレキサンダーの2大ピアニストと御飯を食べている時、楽器別ミュージシャンに共通する性格の談義になり、「一番のチャラ男はドラマーだ。」という結論になった。フラナガンがジェスチャー付きで言うには、ドラマーというものは、バンドスタンドで叩きながら、「可愛い女の子がいないか、会場内をくまなくスキャンしている。」らしい… 

 チャラ男なら、私が一番最初に思い浮かべる巨匠こそフィリー・ジョー・ジョーンズ!
 本名、ジョセフ・ルドルフ・ジョーンズ: 地元では普通にジョー・ジョーンズであった彼に、「そのままでは、本家の(パパ)ジョー・ジョーンズに仁義が悪い」と、出身地フィラデルフィア(フィリー)の冠を付けてくれたのは他ならぬタッド・ダメロンだった。
 

 コージー・コール直伝の正統派テクニックと、軍警察やトロリーバスのカタギ社会、ドラッグ密売の闇社会で培ったヤクザなストリート系の魅力を併せ持つミュージシャン!昔OverSeasの調理場にいた海千山千の凄腕バーテンダーを思い出します。

 フリー・ジャズ全盛の70年代、フィリー・ジョーは、「楽器ケースを持ち歩くだけの連中や、ノイズは音楽とちゃう!まともなことやって売れんのんかい!」と、アヴァン・ギャルドの看板を掲げるミュージシャンをバッサリ斬り捨てた。
 

lenny_bruce__the_jazz_stars.jpg  そのフィリー・ジョーが愛したのが「お笑い」、中でも人種的なギャグや下ネタで、警察から睨まれたユダヤ系のスタンダップ・コメディアン(日本なら漫談家orピン芸人)、レニー・ブルースが一番のご贔屓!

 二人はドラッグという共通の楽しみもあり、大親友でした。
 スタンダップ・コメディというのは、座布団なしの落語、いわゆる漫談、ヴィレッジ・ヴァンガードのようなジャズクラブでも’50年代にはジャズ・バンドと演芸の二枚看板でライブがあったんです。レニー・ブルースの得意ネタが、ドラキュラ役者 ベラ・ルゴシの物真似、彼にかかると、ドラキュラの嫁さんは口うるさいユダヤ系の女性で、ドラキュラ伯爵が、東欧訛りで一言文句を言おうものなら、10倍返しで突っ込まれる。街に出れば、バーで酔っぱらいと喧嘩したり、ドラキュラ伯爵は、東欧訛で血を吸うこと以外は、どこにでもいる一市民、「訛りすぎるベラちゃんです。」って感じ。

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 ハードバップにそのまんま話芸を乗っけたのが、フラナガンも参加するハードバップの名盤のタイトル曲、”Blues for Dracula”、当初、レニー・ブルース本人がトークの部分をやる企画もあったそうですが、色々あってフィリー・ジョー本人がベラ・ルゴシのドラキュラ伯爵に扮して、一席やってます。これが凄い、真打ち級の話芸が堪能できます。

 なにしろバッパー、噺の内容も物まねではなくジャズ仕様、話し振りもスイングしています。  belle-dee-dracula.jpg 

 お話は 嫁も子供も居るドラキュラ伯爵の家に、ジャズ・バンドが余興に呼ばれ、そこでブルースを演奏するというもの。
 

 訛りすぎのドラキュラ伯爵は、ジャンキーのバッパーように禁断症状に苦しんだり、ジャズ評論家の真似をしたり、ドケチのクラブ・オーナーになったりする。ジャズメンの自虐と、ジャズ界への痛烈な皮肉が共存してて、最高です。

 今回は、ワイドサイズになった対訳の映写で、「語り」の楽しさがさらにお伝えできればいいのですが・・・

 

 フィリー・ジョーの生き様や音楽については、またじっくり調べて書きたいと思いますが、このエントリーの結びとして、心臓発作と報じられたフィリー・ジョーの死の真相について、大阪の巨匠ベーシスト、西山満さんが親交厚いNYのジャズ・ミュージシャンたちから口伝えに伝わったお話を書いておきます。

 フィリーは60年代、一時英国に住んでいたことがあります。亡くなる前、わざわざイギリスから一人の弁護士が彼の元に訪ねてきました。フィリーの大ファンであり、友人でもあった英国貴族が亡くなり、遺書にフィリー・ジョーに多額の遺産を遺すと記されており、その遺産譲渡の法的手続きのためでした。降って沸いた大金!フィリー・ジョーは高級車やデザイナー・ブランドのスーツを買い込んだ!マイケル・ジャクソンも顔負けの伊達男、滅多に味わえない極上のコカインをどっさり手に入れた。それを一気に服用してオーヴァードーズ、心臓麻痺を起こして天に召されたというのです。西山さんは言った。「幸せな奴や。大往生や・・・」

 このお話の裏づけはまだ取れていないのですが、いかにもフィリー・ジョーらしい最期!ビバップ・ヴァンパイアはまた甦る!

と、いうわけで続きは講座で! CU 

 

 

年の瀬雑感:2013年 

New-Year-Ahead-.gif OverSeasは今年のライブ日程も残すところ後2日、皆様はいかがお過ごしですか?海外や温泉でゆっくり?それとも帰省の準備?私はまだまだ・・・ドタバタのうちに新年の営業が始まりそうです。

 今年を振り返り一番思うのは、自分がオバンになったこと。目が悪くなって、深夜にバリバリ書く、という事ができなくなりました。悲しいね・・・それを別にすれば、嬉しい事も多かった!
<寺井尚之メインステム>
 まず、寺井尚之がピアニストとしてますます良くなったこと。2008年、寺井が、当時まだ新人だった宮本在浩(b)と菅一平(ds)と結成した”メインステム”が、5年の歳月を経てメインステムだけのトリオとしての「かたち」になってきた。11月のトリビュート・コンサートを節目に、ザイコウ&イッペイ・リズム・チームの出し入れで生まれる「走塁野球」的な小気味よさと、ピアノ・タッチの美しさを褒めてくださるお客様が増えたことが大収穫!寺井の持つトリオ演奏のイメージに応える共演者はすごく大変です。その苦労は拍手で癒されるのではないでしょうか?私も調理場でせっせと仕込みしてズクズクになっても、「美味しい」の笑顔で、一発エナジー・チャージ!
 
 Youtubeの動画は、メインステムの初期のスタイルを残す貴重な資料ですが、来年は動画だけでなくCDも作れればいいなあ・・・
 
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 <ピアノ教室、ジャズ理論教室>

 ライブと併設の「寺井尚之ジャズピアノ教室、ジャズ理論教室」も、今年は飛躍の年でした。ピアノ教室の吉沢瞳さんが、練習の成果をライブとして披露し大成功!理論教室ではジャズ・ハーモニカの指導を受ける伊藤加奈さんが、ドイツで4年毎に開催する「国際ハーモニカ・フェスティバル」オープン・カテゴリーでタッド・ダメロンの”Our Delight”で入賞しました。快挙!
 ジャズを「簡単にゲットできるツール」ですよと銘打つ音楽スクールの時流に逆行するかたちで、本当にピアノをサウンドさせて、アドリブ語法もきっちり勉強してきた生徒さんの成果が出たことに「やった!」っていう思いです。
 来年もピアノにかぎらず、ジャズを志す様々なミュージシャンに、指導していければいいなあ・・・
訳したり、書いたり・・・>
 
 
 本ブログの「対訳ノート」は、長年続く「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の副産物ですが、今年は映像解説の「楽しいジャズ講座」で字幕なしの輸入盤ドキュメンタリーのテキスト翻訳も楽しんでいただけました。
 ジャズでも、それ以外の分野でも、今年は様々な英訳、和訳のチャンスをいただけました。根がおっちょこちょいで、なんでもかんでもやりたがり、どの仕事も楽しくて仕方ない。声をかけてくださった様々な分野の先生方には感謝の一言です。来年もよろしくです。
 偶然が偶然を生み、あろうことか大学の比較文学比較文化研究室に和訳が紹介され、それがきっかけで、「音楽とことば」の秘密の関係を解き明かしてくれる比較言語学にとても興味を持ちました。大学時代は選択科目にあった言語学、教授がコワいという噂からスルーした自分はバカだったなあ・・・
 
chrismas_dinner1.jpg
 まあ、結局のところ、今年も大変な一年でした。震災以降、OverSeasはお正月を迎えることができるのだろうか?と思い悩んだ瀬戸際族、凹んで心が折れそうになったとき、OverSeasのドアから、誰かがやって来て、笑顔で励ましてくれたり、救いの手を差し伸べて下さった。御恩は一生忘れません!
 こんなオバンになっても、「楽しかった」「ごちそうさま」、素敵な言葉をいただけて、お金もいただけるのだから、本当に自分は恵まれていると感じる一年でした。
 常連様や初めてのお客様、数十年ぶりに来てくださったお客様、今年OverSeasにご来店いただいた方々、一人、一人に改めてお礼を申し上げます。
 そして、このブログを読んで下さった皆様、お一人、お一人に、ありがとうございます。
 みなさま、どうぞいお年を!

寺井珠重の対訳ノート(40)ザ・クリスマス・ソング

 11282693-vector-christmas-background-with-sprig-of-european-holly--ilex-aquifolium-and-white-mistletoe.jpg あっという間に年の瀬です。Time waits for no oneと言いますが、この季節は、特に時間が速く過ぎ去るように感じます。子供のときは、大人達が「お寒うございますね。」なんて挨拶しているのが不思議で、楽しいだけの季節だったのに。”The Christmas Song”はそんな子供の心の歌。先月の「楽しいジャズ講座」では、1991年のコンコード・ジャズフェスティバルで作曲者メル・トーメが日本のファンの前で披露した素敵なヴァージョンを楽しみました。

 

<宗教のないクリスマス>

Mel-Torme-08.jpgMel Tormé (1925-1999) ”White Christmas”と共に、クリスマス・ソングの決定版と言える”The Christmas Song”、作曲は白人ジャズ・ヴォーカルの最高峰といえるメル・トーメ、当時作曲家としてのトーメとコンビを組み、後にTVプロデューサーとして大成功したロバート・ウエルズ。”ホワイト・クリスマス”のアービング・バーリンがそうであったように、二人ともユダヤ系アメリカ人の非クリスチャン、当然、この歌にはキリストも教会も出てこない。それが功を奏し、ナット・キング・コールの初演を皮切りに、日本を含め、世界中でヒットしました。メル・トーメ&ロバート・”ボブ”・ウエルズのコンビは200曲以上の作品がありますが、ジャズ・ファンの間で最も有名な曲に”Born to Be Blue”かな?
 

<それは暑さの憂さ晴らし>

not_all_velvet.jpg ”ザ・クリスマス・ソング”のトリビアとして最もよく知られているのは、この歌が真夏に作られたということです。「私の人生は、自分の声のように滑らかなではなかった・・・」という、メル・トーメの自伝『It Wasn’t ALL Velvet』は、私の知るジャズメンの生活とはあまりにもかけ離れた華やかなスターの告白という趣きですが、ここに”ザ・クリスマス・ソング”の誕生が詳しく書かれています。

 戦争が終わり平和が戻った1945年のハリウッド、トーメとウエルズは、ジョニー・バーク+ジミー・ヴァン・ヒューゼン名コンビのアシスト的な役割で、映画音楽の制作に携わっていました。LAの暑い7月の或る日、トーメは歌作りの仕事でウエルズの自宅を訪ねます。ウエルズの住むサンフェルナンド・ヴァレーは盆地で、LAの街より5゜Cは気温が高い。エアコンなんてない時代、正に酷暑でした。ウエルズ家に着くと留守で、ドアの鍵は開いている。まだアメリカの治安は良かったんですね。家に入ってピアノのところに行くと、そこには鉛筆で走り書きした4行の詞があった。それは真冬の情景、ジャック・フロストやエスキモー・・・これ何だ?ありえないお伽話みたいだけど、心惹かれる詞だなあ・・・
 
 しばらくするとウエルズがテニス用の短パンにTシャツ姿で、暑い、暑いと戻ってきた。
「ボブ、この歌詞は何?」
「いやあ、あまりにも暑くて堪らんから、涼しいことを考えてみただけさ。」
「これいいんじゃない?曲にしようよ!」

 ウエルズが歌詞を紡ぎ、トーメがピアノで歌いながらメロディを付け、僅か45分で出来上がったのがこの曲。 

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冒頭フレーズの”Chestnuts…”のくだりは、殆どの訳詞で「暖炉で栗を焼く情景」になっているのですが、庶民の私の目に浮かんだのは、大阪、難波で売ってる天津甘栗屋。われながらお里が知れるなあ・・・と笑ったものの、 正解はウエルズが子供時代を過ごしたボストンの冬、クリスマス時分の街角に出る焼き栗の屋台のことだった・・・当たらずとも遠からず! 


The Christmas Song

Robert Wells /Mel Torme (1946) 

Chestnuts roasting on an open fire,

Jack Frost nipping at your nose.

Yuletide carols being sung by a choir

And folks dressed up like Eskimos.

Everybody knows a turkey and some mistletoe

Help to make the season bright.

Tiny tots with their eyes all aglow

Will find it hard to sleep tonight.

They know that Santa’s on his way;

He’s loaded lots of toys and goodies on his sleigh.

And every mother’s child is gonna spy

To see if reindeer really know how to fly.

And so I’m offering this simple phrase

To kids from one to ninety-two.

Although it’s been said many times, many ways,

“Merry Christmas to you.”

火の上で焼き栗がパチパチ、
霜の妖精に鼻をつままれ凍えるね、

合唱隊が聖歌を歌う、

行き交う人はエスキモーみたいな格好だ。

 

みんな知ってる、

面鳥とヤドリギが、この季節の彩り。

ちびっこ達の瞳が輝く、

今夜は眠れないよね。

だってサンタがやってくる!
玩具やお菓子でソリは一杯!

子供たちは気合充分、

トナカイが本当に空を飛ぶのか

確かめてやるんだと。

だからここは、ごく簡単にご挨拶、

1才から92才までの、

子どもの心を持つ皆さんに。
使い古された言葉だけれど
あなたにメリー・クリスマスを!” 

 

<名手ナット・キング・コール、エイゴにつまづく!>

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  メル・トーメのマネージャー、カルロス・ガステルは、ペギー・リーやナット・キング・コールを抱える腕利きでした。出来上がった曲をガステルとナット・キング・コールに聞かせるとたちまち気に入った。翌1946年、真夏の8月にキング・コール・トリオで録音。Capitol Recordsはジャズのレコードとして企画したのですが、キング・コール側はこの出来が気に入らず、この歌にはストリングスが絶対に必要!絃を入れて最録音したいと強く主張、スッタモンダの末に、会社側が折れる形で、ヴァイオリン4本の小規模なストリングスで再レコーディングした。これがキング・コールにとって、初のw/ストリングスとなりました。これが大当たり! 

 キング・コールはピアニストとしてトミー・フラナガンに大きな影響を与えた名手ですが、その声は弦楽器とのブレンドで最高の魅力を発揮しますよね!たった45分で書いた曲はトーメとウエルズに莫大な印税をもたらすことに・・・。

 さて、上の歌詞をご覧になって不思議に思われる方の注意力は凄い!サビの最後に出てくる「トナカイ=reindeer」は、サンタのソリを引くのだから4頭くらいは居るはずなのに単数形になっている。トナカイは英語の意味カテゴリーで「動物の群れ」であり、中学で習った「単複同形」。トナカイの個性は英語では認めてもらえないんだ・・・SheepやFish、それに我々Japaneseもこのカテゴリーに入ってるのがムカっとします(怒)。

 ところがキング・コールは1946年に録音したトリオとストリングス入りの両方のヴァージョンで、このトナカイを”reindeers”と複数形にして歌ってしまった。
 ヒットしたのだし、動物愛好家みたいでええやんか!と思うのですが、キング・コールは完璧な発音を誇るアーティストであると同時に、自他ともに認める完璧主義者。これじゃ嫌だ!耐えられない!というわけで、1953年にネルソン・リドルのアレンジで改訂版を録音、完璧な「reindeer」の発音は
“どんなもんじゃい!”ッと聞こえてきます。繊細なストリングスとともに、何段階もレベルアップした歌唱は最高です。
 
 「トナカイたち」と歌った初版のレコードはコレクターズ・アイテムとして、高値で取引きされているとか・・・初期のトリオでのヴァージョンから、歌詞違いのもの、訂正版、後のネルソン・リドルとの豪華ストリングスまで聴き比べると、キング・コールの歌唱の洗練度がよく判るし、職人魂が感じられてとても楽しくなります。 

 というわけで、使い古された挨拶ではございますが、私も皆様にメリー・クリスマス!

 寺井尚之トリオ、The Mainstem(宮本在浩、菅一平)のライブに、お祭り騒ぎはないけれど、心に残る季節の曲を聴かせてくれます。ぜひJazz Club OverSeasに!

第23回トリビュートCDできました。

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毎年 Jazz Club OverSeasはトリビュートが終わって瞬きすると師走です。

 トリビュート・コンサートのCDがうまく出来ましたので、お知らせします。
 23回のコンサート史上、ピアノのサウンドが最も輝き、宮本在浩(b)、菅一平(ds)の出し入れの効いたプレイで、とても良いバランスに仕上がりました。巨匠フラナガンがレギュラー・トリオとともに培った名演目、寺井尚之率いるメインステムも、ザイコウ、イッペイが「最強の二遊間」という感じのフィールディングで魅せる、強力トリオの録音となりました。

 お客様の掛け声や拍手もトリビュートならではの楽しさ!コンサートにご参加いただいたお客様にも、お越しになれなかったお客様にも、トミー・フラナガンをみんなで想う、OverSeasの空間を共に感じていただける三枚組CDになっています。
 録音からCD製作まで、毎回ボランティアでお世話くださる福西You-non+あやめ夫妻に感謝。
お申込みはメールか、ご来店の際にお願い致します。すでにご予約いただいているお客様には、来週早々、改めてご連絡いたしますので、どうぞよろしく!
 =収録曲=

<Disk 1> 曲説へ

1. Bitty Ditty ビッティ・ディッティ(Thad Jones)
2. Beyound the Blue Bird ビヨンド・ザ・ブルーバード (Tommy Flanagan)
3. Minor Mishap マイナー・ミスハップ (Tommy Flanagan)
4. Medley: Embraceable You エンブレイサブル・ユー(George Gershwin)- Quasimodo カジモド(Charlie Parker)
5. Lament  ラメント(J.J. Johnson)
6. Eclypso エクリプソ  (Tommy Flanagan)
7. Dalarna ダラーナ (Tommy Flanagan)
8. Tin Tin Deo  ティン・ティン・デオ (Chano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespie)

<Disk 2>   曲説へ

1. Let’s レッツ (Thad Jones)
2. That Tired Routine Called Love ザッツ・タイアード・ルーティーン・コールド・ラブ (Matt Dennis)
3. Thelonious Monk Medley
  Ruby, My Dear ルビー・マイ・ディア
     Pannnica パノニカ
     Thelonica セロニカ(Tommy Flanagan)
    Epistrophy エピストロフィー
    Off Minor オフ・マイナー
4. If You Could See Me Now イフ・クッド・シーシーミー・ナウ (Tadd Dameron)
5. Mean Streets ミーン・ストリーツ (Tommy Flanagan)
6. I’ll Keep Loving you アイル・キープ・ラヴィング・ユー (Bud Powell )
7. Our Delight  アワー・デライト  (Tadd Dameron)


<Disk 3>  曲説へ

1.With Malice Towards None ウィズ・マリス・トワーズ・ノン (Tom McIntosh)
2.Medley: Ellingtonia 
  Chelsea Bridge チェルシーの橋(Billy Strayhorn)
  Passion Flower パッション・フラワー (Billy Strayhorn)
  Black and Tan Fantasy 黒と茶の幻想 (Duke Ellington)
 
春、秋、恒例、トミー・フラナガン・トリビュート、応援いつもありがとうございます!次回はフラナガン・バースデー前日、2013年3月15日(土)開催!どうぞよろしく!

第23回トリビュート・コンサート曲目解説

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  11月16日に開催した「第23回 Tribute to Tommy Flanagan」コンサート、ご参加のお客様、たくさんの拍手、掛け声、笑顔、激励メール、差し入れ、お供え、ほんとうにたくさんの皆様にご協力をいただき、ありがとうございました。もうすぐ、コンサートの3枚組みCDが出来る予定ですので、OverSeasまでお申込みください。

 私自身、今回のメインステムはかなりすごくて、長いOverSeasの片隅生活の中でも、思い出に残る演奏になりました。

 寺井尚之は師匠のことですから、まあ当たり前ですが、宮本在浩(b)、菅一平(ds)の化けっぷりにぶっ飛んだ感じです。ジャズの歴史を色々調べていると、巨匠と呼ばれるミュージシャン達の芸術的な岐路というものは、何かを「得た」ときと同じくらい、何か大きなものを「失った」ときに訪れるのだということが判ります。

 いずれにせよ、メインステムには、このレギュラー・トリオでしか出せないという強烈なメインステム・サウンド目指して化け続けて欲しいです。


 トミー・フラナガンの名演目を演奏するトリビュート・コンサート、23回目を数え、毎回HPに曲説をUPしているのですが、回を重ねる毎に曲についての新しい事実も判明し、今回の曲説も限られたスペースですが、かなり改訂を加えました。

 もしご興味があればぜひ読んでみてくださいね。

<第23回トリビュート・コンサート曲目説明>http://jazzclub-overseas.com/tribute_tommy_flanagan/tunes2013nov.html

 

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 なお、演奏写真は、全てジャズ評論家、後藤誠先生のご提供です。後藤先生、ありがとうございました。