寺井珠重の対訳ノート(9)  <Caravan>

Son_of_Sheilk.jpg  無声映画の大美男スター、ルドルフ・ヴァレンティノで大当たりした「キャラヴァン」映画、“熱砂の舞”
<キャラバン>は、寺井尚之の隠れた18番、ピアノとドラムのスリリングな掛け合いから、あのテーマが始まると、いつもお客様は大喜び!
 今月のジャズ講座では、トミー・フラナガン3の傑作アルバム『トーキョー・リサイタル(A Day in Tokyo)』の<キャラバン>が聴けた。キーター・ベッツ(b)の地響き立てて唸るようなビートと、ギラギラ光ってズバズバ時空を切る、黒澤映画のチャンバラみたいな、ボビー・ダーハム(ds)のスティックさばき、トミー・フラナガンが二人の持ち味を生かし、息を呑むようなトラックだった。
 来月のジャズ講座では、このアルバムから5ヶ月後、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルで同じトリオをバックにエラ・フィッツジェラルドが歌う<キャラバン>が次回のジャズ講座で聴けます。
ella_montreux_75.JPGモントルーはスイス、レマン湖畔の高級リゾート、このジャズ・フェスは当時カジノの中で行われていたのです。
 後で付いた歌詞は、砂漠を行く愛と冒険の旅路、レマン湖でヴァカンスやつかの間のロマンスを楽しむお客様にぴったり!下はエラが歌った1コーラス目です。

Caravan
曲:Juan Tizol,Duke Ellington/詞:Bob Russell
Night
And stars above that shine so bright,
The mystery of their fading light,
That shines upon our caravan.
Sleep
Upon my shoulder as we creep
Across the sand so I may keep
This mistery of our caravan.
You are so exciting,
This is so inviting,
Resting in my arms
As I thrill to the magic charm of you
With me here beneath the blue     
My dream of love is coming true
Within our desert caravan…
 
夜の砂漠、
輝く満天の星、
流れて消える神秘の流星は、
キャラバンに降り落ちる。
私に肩にもたれて、
眠っておいで。
砂漠を進む、キャラバンの
長き旅路に、
愛の魔法から醒めぬよう。
ときめく心、
わが腕に休む君、
君の妖しい魅力に囚われる。
空の下、君と寄り添い、
恋の夢は叶う、
愛の砂漠、二人のキャラバン…
 

   星降る夜空、砂漠の海、静かに進むキャラバン隊…異国の地に繰り広げられる愛と冒険のスペクタクル!歌詞のムードは、第一次大戦後に大流行したルドルフ・ヴァレンチノのサイレント映画(上の写真!)や、後に「アラビアのロレンス」として日本でも有名になった、砂漠の英雄、T.E. ローレンスの実話などの「砂漠ブーム」を強く意識したものです。
  実際の作曲者、フアン・ティゾールは、エリントン楽団のバルブ・トロンボーン奏者です。20歳の時、プエルトリコから第一次大戦後の好景気に沸く本土に渡って来た。それは、はラジオがやっと出来た頃、間違ってもTVなんかない! 当時、庶民の娯楽は、劇場に行って、サイレント映画と“実演”つまりバンド演奏やショーを楽しむことくらい。劇場のピットOrch.の楽員がとにかく足りなかった時代。
 プエルトリコは、本土よりずっとハイレベルの音楽教育で知られ、即戦力で使える音楽家の宝庫だった。だから、大勢のプエルトリカンがスカウトされてやって来た。ティゾールもその一人です。彼も劇場映画館のオーケストラ・ピットで、ヴァレンチノが砂漠の首長(シーク)として活躍する大スペクタクル映画、「血と砂」や「熱砂の舞」に女性達が失神するほどうっとりするのを観ていたに違いない。
juan_tizol.jpgフアン・ティゾール(1900-84)
 ティゾールは、<キャラバン>(’36)の他にも<パーディド>など、楽団の為にたくさん作曲している。エリントンやストレイホーンだけでなく、こういう作品を総括したのがエリントニアなんです。
 ’29年に入団し、15年間在籍した後、ハリー・ジェームズ楽団に破格の報酬で引き抜かれましたが、’51年、ジョニー・ホッジス(as)達、主力メンバーがドドっと退団した楽団の危機に、助っ人として再加入した。
 楽団での彼の役割は、アドリブで魅了するソロイストではなく、しっかりとしたテクニックでエリントン・サウンドを支える縁の下の力持ち。ヴァイオリン、ピアノetc…あらゆる楽器に習熟していたから全体を考えプレイした。
 勿論バルブ・トロンボーンでは、どんなに速く広く音符が飛び回るパッセージでも容易く吹ける名手であったから、エリントンは彼の為に、普通のスライド・トロンボーンでは到底演奏不能なパートを書きまくった。そんなティゾールの複雑なラインとサックス陣のとのコントラストが、随一無比のエリントン・サウンドを生んだのです。
 ティゾールの長所はそれだけではありません。「規律」という楽団にとって最も大切なものを守った。本番でもリハーサルでも、仕事場に、誰よりも早く入ってスタンバイしている人だった。アメリカの一流ジャズメンは、日本よりずっと体育会系で、ファーストネームで呼び合っていても、上下関係が凄いのです。先輩が早く入っていたら、いくら「飲む=打つ=買う」三拍子揃ったバンドマンでも、おいそれ遅刻など出来ません。こういうメンバーがいると、バンマスはどんなに楽でしょうか!
 故に、ティゾールはエリントンの代わりにコンサート・マスターとして、リハーサルを仕切るほど重用されました。ですからずっと後から来て側近となったビリー・ストレイホーンと確執があったのは、むしろ当然のことですよね!
 <キャラバン>のエキゾチックなサウンドは、サハラ砂漠ではなく、西インド諸島で生まれたフアン・ティゾールのものだった! エリントンは『ビバップとは、ジャズの西インド的な解釈である。』と言っている。
 この作品にも、ビバップを予見するように、オルタードと呼ばれるスケールが多用されています。
 それは、ティゾールをエリントンに結びつけた第一次大戦から、社会の変化につれて、ビバップへと連なって行く。
 その道筋もまたInterludeにとっては、愛と冒険の一大スペクタクル!
 
 次回のジャズ講座は6月14日(土)、ジャズ講座の本第5巻も新発売!
CU

ビリー・ストレイホーン(1915-67) 生涯一書生

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 トミー・フラナガンは、ある午後、OverSeasで『Tokyo Recital』を聴きながら、寺井尚之に向かって言った。『ビリー・ストレイホーンは、一生エリントンの書生(a boarder)だった。そうとは書いていなくても、ストレイホーンが作ったものには、こっそりと自作と「ハンコ(stamp)」が押してあるのだ。』
 Boarder…どういうこっちゃ? フラナガンの言うBoarder…には、[下宿人]や、「寮生」というよりも、『書生』に近い意味合いが聞き取れた。そんなもんアメリカにあるのかしら? 
 ビリー・ストレイホーン…OverSeasのスタンダードナンバー、<チェルシー・ブリッジ>や<レインチェック><パッション・フラワー>の作者、なんと言っても有名なのは <A 列車で行こう>や<サテン・ドール>だ。
 トミー・フラナガン青年が、『Overseas』の録音前、街で見かけたビリー・ストレイホーンに、「今度あなたの曲を録音させていただきます。」と挨拶したら、出版社までトミーを誘い自作の譜面の束をどさっとくれた紳士だ。エリントン楽団は何度もTVで観たけど、ストレイホーンは映ってなかった…「書生さん?」どんな人なんやろう? 
 それから私は、ストレイホーンの関連する文書を手当たり次第に読んだ。丁度、’92年頃に、米ジャズ界でストレイホーン・ブームが起こり、色んな雑誌でストレイホーンの特集が組まれた。数年後、音楽ジャーナリスト、David Hajdu (日本ではデヴィッド・ハジュだけど、本当はハイドゥと読むらしい。)が書いたストレイホーン伝、『ラッシュ・ライフ』が、ジャズ界で大センセーションを巻き起こした。
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  何故なら、ビリー・ストレイホーンはゲイの市民権のない時代、ホモセクシュアル故に、正当な評価を得られなかった孤高の天才音楽家として、偉大なるデューク・エリントンの実像は、彼の天才を踏み台にして名声を得たバンド・リーダー、という構図で描いていたからだ。
 ジミー・ヒースやサー・ローランド・ハナ達、良識派は『あんな本あかんっ!』とカンカンになっていた。だけど、こっそり読みました。
  
 『生涯一書生』とは禅の言葉、楽天の監督、野村克也はそれに倣い「生涯一捕手」と言うけど、ストレイホーンは禅の境地だったのだろうか?それとも…
<いじめられっ子とヒーローの出会い> 
 ビリー・ストレイホーンは、エリントンより16才年下だ。お坊ちゃん育ちのエリントンと違い、生活は苦しかった。生まれつき体が弱く、母と祖母からは溺愛されたが、アル中で工場労働者の父から虐待され、学校では、Sissy(女っぽい男)といじめに合ったという。ただし、音楽の才は並外れていて、ピッツバーグの高校時代には、楽器なしに考えるだけでオーケストラのフルスコアを書き、いじめっ子も「天才」と一目置いた。
 ビリーはクラシック音楽家を志すのですが、黒人学生には音大への奨学金は出ない。将来の道を閉ざされたビリーは高校を中退、ジャズにクラシックと同じ美点があるのに気づき、ドラッグ・ストアでアルバイトしながら、地元でミュージシャンとして活動していた頃、エリントン楽団が町にやって来た。
 それは、ビリーが23歳の時。ビリーを応援するバンド仲間が、ツアー中のエリントンにアポを取ってくれたのだ。ピアノの腕と作詞作曲、編曲の才能に驚いたエリントンは、即編曲の仕事を与えた。<Something to Live For>は、その時に持参した作品です。
 翌年から、ビリーはNYで、エリントンの助手として仕える。エリントン楽団のテーマ、ハーレムの香り漂う<“A”列車で行こう>は、NYのエリントンを訪ねた時、手土産代わりに持参した作品で、ピッツバーグで、A列車に乗ったことのないビリーが書いたもの、最初は作風がエリントンのイメージと違うと、ボツになった作品だったのです。
 
<“A”列車で行こう>
 師匠であるエリントンが修業中のビリーに命じたことは唯一つ。「観て覚えろ (Observe)」だったと言います。
最初は、下働きのストレイホーンの存在感が一挙に高まったのは、’42年アメリカで起こった音楽戦争、『録音禁止令』のおかげだった。『録音禁止令』(Recording Ban)とは大手著作権協会ASCAPが、著作料の大幅値上げを一方的に決めた為に、音楽家協会とラジオ局が、ASCAPに属する楽曲の放送や録音を、全面的にストップしたという事件です。エリントンの曲は全てASCAP帰属だから、レコーディングもラジオ放送もできない。ところが、録音禁止令の直後にラジオ出演が入っていた。どうしても48時間以内に、エリントン名義でない大量の楽団スコアを用意しなければならない。絶体絶命だ!
 ストレイホーンと、エリントンの息子、マーサーが、不眠不休で仕事をして、何とかレパートリーの準備をする。今までの楽団のテーマ・ソング<セピア・パノラマ>に替わって使われたのが<“A”列車で行こう>で、世界中でヒットした。その間、エリントンはどうしていたかって?もちろん楽団を率いて仕事です。だからバンドリーダーであり、大作曲家というのは、例外中の例外なのです。
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<スイーピー&モンスター>
 自作曲が楽団のテーマになり、全幅の信頼を置かれたビリーは、文字通りエリントンの影武者として、演奏に多忙なエリントンの代わりに、作曲、編曲、映画やショウの監督、レコーディングのピアノ演奏に至るまでエリントン名義で担当する。寺井尚之ジャズピアノ教室で配布しているエリントン著の「ブルース教本」も実はストレイホーンの執筆だ。モンスター、スイーピーと呼び合うエリントンとストレイホーンの仕事は、どこからどこまでが区切りか本人すら判別出来ない程緊密で、今も音楽史上最高の共同作業と言われる。その事実は業界の人だけが知ることで、一般には公表されていなかったのです。
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 スポットライトが当たらない代わりに、ビリーは自由気ままな生活を享受します。兵役を免れ、偽装結婚をする必要もなく、ボーイフレンドと豪華なアパート暮らし、高価な美術品を集め、創作活動に没頭した。多くの州で同性愛が逮捕された時代、公民権法もなかった時代のことです。
 おまけに、多額の生活費用は、全てエリントン自身が決済していた。つまり、ストレイホーンに給料はなく、エリントンがポケット・マネーで彼を養っていた。フラナガンの言うように、雇用関係のない『書生』だったのです。彼がこのまま世間知らずで一生送れたらどんなに良かっただろう。
wlena.jpg  レナ・ホーンとストレイホーン
 
<迷子のスイーピー>
 スイーピーとモンスターの稀有なパートナーシップは、実の息子、マーサー・エリントンや、生え抜きのファン・ティゾールなど、多くの取り巻きとストレイホーンの間に軋轢を生じ、状況は変わっていきます。
 反面、ストレイホーンの味方には、クラーク・テリーやジョニー・ホッジス達がいた。意外にも男臭さ溢れるテナー、ベン・ウェブスターや、夭折のベーシスト、ジミー・ブラントンも親友だ。中でも仲良しだったのが絶世の美人歌手、レナ・ホーンだ。
 彼女と夫の編曲家レニー・ヘイトン(マーサー・エリントンの同窓生)は、ストレイホーンに音楽出版会社を作ろうと独立を誘う。著作権が莫大な金額を生むと教えた。世間知らずのビリーは、自分に著作権がないことに初めて愕然とするのです。まるで、リンゴを口にしたアダムとイヴの話の様に、ビリーは、気楽に思えたエリントンの庇護から独立を望むのです。
 それを知ったフランク・シナトラも、音楽監督としてビリーを好条件で引き抜こうとしますが、エリントンは、裏で手を回して計画を阻止していく。楽団のスター・プレイヤーは放出しても、スイーピーを外に出すことは徹底的に拒否したのです。時は’48年、ビッグバンド凋落の時代でエリントンが経済的に難しい時代というのを忘れてはいけません。結局、ビリーは楽団を離れて活動するのけれど、ブロードウエイも、歌の世界でも、「知名度が低い」という現実をつきつけられ挫折。放蕩息子の帰還のように、’51年にはエリントンの元に戻ります。
<ラッシュ・ライフ>
 再び二人の共同作業が始まって、更にエリントンはステイタスを高めるのですが、今度はビリー・ストレイホーンを出来るだけ前面に出して気遣いを示します。二人の第二期黄金期の代表作、『くるみ割り人形のジャズ・ヴァージョン』のジャケットに、二人の顔写真が並んでいるのは、エリントンの気遣いを象徴したものだ。それでも、抵抗勢力との確執は続いた。エリントンという大所帯にはビリー・ストレイホーンの名声は別不要なものだった。ストレイホーンが終生、名声を得られなかったのは、人間としてのエリントンより、エリントンが抱える組織の事情が大きかった。
Duke Ellington - The Nutcracker Suite
 ナット・キング・コールがヒットさせた<ラッシュ・ライフ>には、そんな彼の行き場のない思いが感じられます。
 焦燥感を紛らわせるために、父親同様、酒に溺れそうになるストレイホーンにとって、希望を与えてくれたのが、キング牧師と自由公民権運動です。フラナガンや寺井の得意とするU.M.M.Gは、同じキング牧師の支援者で、ボランティア活動に貢献したエリントンの主治医に捧げた曲なんです。でも、ワシントン大行進の頃にはストレイホーンは食道がんに侵され、今までのような享楽の生活は叶わなくなっていた。
 エリントンは、病魔と闘うストレイホーンの最期まで、経済的な援助を続けた。リノのカジノで悲報を受けた時には、その場で泣き崩れたと言う。ストレイホーンの葬儀でのエリントンの表情、エリントンの音楽と同じように、言葉では言い表せない深い思いが読み取れて、どんな名画のシーンよりも心を打たれます。
 ハイドゥの言うようにエリントンはストレイホーンを利用した打算的な人間だったでしょうか?私にはそう思えない。エリントン楽団が亡くなったストレイホーンに捧げたアルバム、『And His Mother Called Bill』(’67)を聴くと、どうしてもそうは思えないのです。
エリントンやストレイホーンを知らない人も、このアルバムは一度聴いてみて欲しい!
 エリントンは自伝にこんなことを書いています。
 「芸術家たるもの、自分の信条は、言葉であれこれ言うべきものではない。自分の作品で表現することこそ芸術家の使命なのだ。」

寺井珠重の対訳ノート(8) <Something to Live For>

Billy_strayhorn-Duke_ellington.jpeg 左:デューク・エリントン、右:ビリー・ストレイホーン 
 昨日のジャズ講座では、待望の『Tokyo Recital/ Tommy Flanagan3』を皆で聴くことが出来ました!エリントン楽団の名演をピアノトリオで演るには、キーを変え、キーター・ベッツ(b)と、ボビー・ダーハム(ds)の妙技を120%生かす…フラナガンの頭の中が講座で少し覗けた気がしました。
  寺井尚之が歌詞付きの譜面を出して解説した名曲が今も心の中で鳴っている。それは、青春の危うさと、希望の炎が、陽炎(かげろう)の様にきらめく不思議なバラード、<Something to Live For サムシング・トゥ・リブ・フォー>、OHPに出された五線紙上の歌詞が余りに小さくて、もったいなかった。だって、トミー・フラナガンのピアノは、この歌詞をストレートに歌い上げたものだったから。
 寺井の膨大な譜面には、歌詞を書き込んだものや、対訳まで横に付けているものが多い。
 ストレイホーンが二十歳になるかならない青春時代に書いたものです。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの共作とクレジットされているけど、実はストレイホーンが初めてエリントンを訪ねた際、持参した譜面の中で一番気に入られた曲だと言います。早くも翌年には、レコーディング(’39)された。現実のビリーは、ピッツバーグで暖炉も別荘もなく、アル中の父から家庭内暴力すら受けていたと言います。だけど、この作品は現実逃避のファンタジーというには、メロディも歌詞も余りに愛らしい。
 昨夜、歌詞が小さすぎて判りづらかった皆様に、それから、昨日だけよんどころない事情で来れなかった、いつもの仲間に感謝を込めて!
 
Something to Live For/ Billy Strayhorn/Duke Ellington


<Verse>
I have almost everything
 a human could desire,
Cars and houses, bearskin rugs
To lie before my fire,
But there’s something missing,
Something isn’t there,
It seems I’m never kissing
The one whom I could care for,

<Chorus>
I want something to live for,
Someone to make my life an adventurous dream
Oh, what wouldn’t I give for
Someone who’d take my life and make it seem
Gay as they say it ought to be.
Why can’t I have love like that brought to me?

My eye is watching the noon crowds,
Searching the promenade,
Seeking a clue
To the one who will someday be
My something to live for.

<ヴァース>
 人がうらやむ贅沢も、
 殆ど私は手に入れた。
 車や家や別荘も、
 熱い暖炉のその脇の、
 熊の毛皮の敷物も…
 なのに何かが欠けている。
 どうやら、私にないものは、
 本当の恋人、燃える恋。

<コーラス>
 求めるのは生きる喜び、
 冒険の夢を見せてくれる人、
 私の命を輝かせ、
 それが定めと言うのなら、
 その人のために進んで死ねる、
 そんな恋がしたいのに。

 昼間の喧騒の町、
 私は人の行きかう通りを探す。
 運命の糸口が開けるように、
 私の生きがいとなる、
 その人の手掛かりを求め。



下は、エラ・フィッツジェラルドとデューク・エリントン楽団のヴァージョン、ピアノはフラナガンが伴奏者として絶賛するジミー・ジョーンズです。
 
 トミー・フラナガンのTokyo Recital (Pablo)もぜひ聴いてみてください!これはもう、最高です。 
CU

トーキョー・リサイタルとデューク・エリントン



 今週の土曜日のジャズ講座には、(別名 A Day in Tokyo)が登場します。
 ’75年2月録音、フラナガンがエラ・フィッツジェラルドとの日本ツアーのオフ日に東京で録音したアルバム。当時大学3回生の寺井尚之は、その4日後に、最終公演地の京都で、トミー・フラナガンに初めて弟子入りを志願し、「人に教える暇があったら、自分の練習をしたい。」と見事に断られた。もし、フラナガンが調子よく「よっしゃ、今日から君は僕の弟子だよ!」と、言っていたら、寺井尚之の今はなかったかも知れない。
 当時のスイングジャーナルを読むと、このアルバムの実質的な製作者であった日本ポリドールが『スタンダード集』を要望したにも関わらず、フラナガンの強弁な主張に押し切られた形で、『エリントン-ストレイホーン集』に成ったと書いてありました。恐らくトミー・フラナガンは、来日前に「リーダー・アルバムを」とだけの録音オファーを受け、長年温めていたエリントン集の構想を、映画の絵コンテのようなしっかりとしたイメージを準備して、東京で録音に臨んだに違いないのです。
 それが土壇場になって、「トミーさん、エリントン集なんたって、そんなもの売れませんや。何とかスタンダードでお願いしますよ。」とか言われたに違いない。フラナガンという人は、そんな時、ピストルで脅されたって札束を積まれたって、、テコでも動かない人ですからね。No!と言ったはずだ。頭から湯気を出しためちゃくちゃコワイ顔が想像できる。
 <Tokyo Recital>が、どれほどの名作かは、ぜひジャズ講座に来て寺井尚之の話を聴いて楽しんで頂きたいと思います。
 ところが、最近は、ジャズが好きでも、デューク・エリントンという名前も”A列車で行こう”も聴いたことがないと言う、若い方々が増えている。時代が変わるという事は、こう言うことなのでしょうか? Oh, My God, 神様、仏様、こりゃ、困った。
 だから、ちょっとザ・デュークとストレイホーンの話をしてみよう!
とは言え、経歴だけでも、アメリカ音楽史となり、楽団メンバーの変遷だけでも、ジャズ人名辞典になる。楽曲を並べると、アメリカン・ヒットパレード。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの世界は、アマゾンの熱帯雨林より奥深い。だから、本当に少しだけ。
 ellington_1.jpg ピアノとワードローブに囲まれたデューク

撮影ハーマン・レオノール

(その1)デューク・エリントン
<明治のぼんぼん>
  “デューク”こと、エドワード・ケネディ・エリントンは、日本で言えば明治32年生まれ。”アンタッチャブル”でおなじみのギャングのボス、アル・カポネ、日本なら川端康成、笹川良一と同い年だ。当時全米で最大の黒人人口を誇った都市、ワシントンDCに生まれた。 父親は、裕福な医師の邸宅の食事やパーティを仕切る有能な執事だった。エリントン少年は、アメリカに人種差別があることも知らず、お坊ちゃまとして何不自由なく育ち、幼少からピアノを習ったが、発表会では片手を先生に手伝ってもらわなければ満足に弾けない劣等生、野球の方がずっと好きだったと自伝に書いている。
Fats_Waller.jpg エリントンの天才仲間、ファッツ・ウォーラー(p)
 
  ハイスクール入学後のエリントン少年は、“ぼんぼん”の例に漏れず、夜遊びを覚えた。プールバーや、浅草ロック座のように、綺麗なお姉さんがしどけなく踊るバーレスクの劇場に出入りする。そのうち、生演奏するピアニストの脇には、必ず美人がはべるという法則を発見し、初めてピアノへの情熱が生まれたのだった。エリントン少年の非凡な点は、女性を追い掛け回すだけでなく、ハスラー達のいかさまの極意や、お客に喜んでチップを払ってもらう術を、即座に会得したところです。例えばピアノ演奏のエンディングでは、わざと腕をオーバーに上げると喝采とチップが増えると言うような実践的テクニックを次々に身につける。電話帳に「芸能なんでも承り」と、一番大きな枠の広告を張り、自分で演奏するだけでなく、芸能事務所や広告代理店など多角経営を行い、破格の収入を得て、高校中退。そんなエリントンにNY進出を薦めたのはファッツ・ウォーラー(p)だ。’23年、エリントンが故郷を出る時に持っていた有り金は、全て道中で散財し、NYに着いた時は一文無しだったが、蛇の道は蛇、天才的な要領の良さで、酒場からコットン・クラブやブロードウエイへと、天井知らずにどんどん出世して行く。
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<禁酒法に学ぶ>
  エリントンがブレイクしたのは禁酒法時代。第一次大戦後、バブル景気に沸くアメリカで施行されたけったいな法律、禁酒法は、結果的にギャングと娯楽産業を大儲けさせた。だって非合法ビジネスは税金を払わなくていいから儲かります。客席は白人オンリーのハーレムの名店《コットン・クラブ》は、毎夜、富豪やセレブで大繁盛、専属バンドのエリントン楽団は全米にラジオ放送され、海外にも名声が轟いた。ジョニー・ホッジス(as)の官能的な響きやクーティ・ウィリアムス(tp)の野生的なプランジャー・ミュートは、絢爛たるハーレム・ルネサンスの栄華と、エキゾチックな肢体をさらすコーラス・ガールなしには生まれなかったのだ。
  エリントン達は、もぐり酒場(スピーク・イージー)で密造酒の作り方も会得した。
 非合法のもぐり酒場で提供される密造酒は、同じ中身でも、A.Bとランク付けされていた。豪華なカップで供されるAは値段が倍違う。大阪人なら、「Bでええわ」と言うところですが、景気の良いお客さんは、例え中身は同じでも、“A下さいっ”と高い方を注文し、女性達に羽振りのよさを見せ付けたのです。容器が違うから、高価な飲み物とそうでないのはひとめで判るのです。(今ならキャバクラのドンペリか?)エリントンは、それを観て「これだ!」と膝を打ったと言います。
エリザベス女王に謁見するエリントン
<音楽にジャンルなし。良い音楽とそうでないものだけ。>
 中身は同じでも、ステイタスを付けよう。 故にエリントンは、ハーレムの一流で終わることなく、禁酒法でギャングが没落し、ハーレムが廃れても、どんどん出世した。ギャングとの黒いつながりも、エリントンは巧みに避ける処世術を持っていた。 ヨーロッパでは、英国皇太子(後のウィンザー公)が“追っかけ”となり、一晩中バンドの近くから離れない。そしてエリントンが出演するイギリスの晩餐会でダイヤのイヤリングを落とした高貴なレディの名文句は世界に発信されたのだ。
 「ダイヤはいつでも買えるけど、エリントンは今しか聴けないのですよ。皆さん、どうぞ、ダイヤなんてお気になさらないで。」
   ’38年にビリー・ストレイホーンと出会い、二人の非公式な共作活動が始まってからは、組曲やクラシックのエリントン・ヴァージョン、バレーに至るまで、創作スケールは更に拡大を続ける。ビートルズやロックに主役の座を奪われたジャズ界から超越した存在になることで生き残りを図り、ジャズの枠に囚われることを徹底的に避けたのだ。
<エリントンの楽器はオーケストラだった。>
 エリントンの革新的な和声解釈はジャズだけでなく、ジャンルの区別なく20世紀の音楽に大きな影響を与えた。エリントンは、楽団メンバーの持ち味を最高に生かした楽曲を創り、自分のピアノのサウンドを絶妙に生かす楽曲を作った。
 留学時にエリントンへの弟子入りを熱望した武満徹は、こんなことを言っている。「エリントンは常にこの音を誰が弾くのかと常に考えて作曲することが出来た。あれほど作曲家冥利に尽きる贅沢はありません。クラシック界では、夢のまた夢のようなことです。」
 以前、ジャズ界のサギ師としてセロニアス・モンクの事を書きましたが、モンクが一番尊敬したのがデューク・エリントンだった。エリントンの痛快なサギ師ぶりは、またいつか書いてみたいけど、それは決して音楽家の内容のなさを小手先の術で補ったのではないのです! むしろ、自分の音楽の崇高さを、正しく世間に認めさせるために使った、「ちょっとした魔法」ではなかったか?
 Duke-Ellington--at-the-Graystone-Ballroom--1933-.jpegトミー・フラナガンが3つの時の、デトロイトでの公演ポスター
 ビッグバンド時代の終焉後も、エリントンは作曲の印税を、ほとんどバンドの給料に宛てて維持したと言いますが、主要なバンドメンバーが抜けても、エリントンは決して動じず、新しいメンバーで新しいバンドの醍醐味をどんどん創って行った。それほど懐の深いエリントンが、ただ一人、独立を徹底的に阻止したスタッフが、ビリー・ストレイホーンだったのです。
 
 次回はビリー・ストレイホーンの天才について、少し話そう!
その前にジャズ講座は10日です。皆さん、どうぞいらっしゃい!
CU

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(3) ほんのり甘口編

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 ゴールデン・ウィーク特集、KDことケニー・ド-ハムが書いたレコード評の最終回は、私も大好きな歌手、カーメン・マクレエのアルバム。これはNYのヴィレッジ・ゲイトでのカーメンのライブ盤。私がピックアップした彼のレビューは、偶然にも、全てライブ・レコーディングでした。
 
ダウンビート誌 ’66 5/19号より。
womantalk1.jpgCarmen McRae『Woman Talk』(Mainstream 6065)
評点:★★★★★
=パーソネル=
Carmen McRae(vo), Ray Beckenstein(fl), Norman Simmons(p), Joe Puma(g), Paul Breslin(b), Frank Severino(ds), Jose Mangual(bongos)
=曲目=
1. Sometimes I’m Happy
2. Don’t Explain
3. Woman Talk
4. Kick off Your Shoes
5. The Shadow of Your Smile
6. The Sweetest Sounds
7. Where Would You Be Without Me?
8. Feelin’ Good
9. Run, Run, Run
10. No More
11. Look At That Face
12. I Wish Were In Love Again 

<1>は、ゆったりスイングするベースから始まり、客席は、手拍子や指を鳴らして呼応する。2コーラス目にドラムとピアノ、そしてフルートが加わり、ミス・マックレーがひそやかに唄い出す。3コーラス目は、いつもの彼女のスタイルにちょっとエラ・フィッツジェラルドの雰囲気を加味したスキャットを聴かせて終わる。
 <2>冒頭の8小節の最後の部分は、中東の名歌手、イーマ・スーマックを思い起こす。サビの部分でのカーメンの歌唱は、余りに素晴らしく、言葉で説明できない(Don’t Explain)ほどだ。…全てが彼女自身の人生経験から滲み出る歌唱だ。1コーラス目の最後までクライマックスは持続し、ラストの8小節で、陰影、ドラマ性、そして感情、全てが溢れ出す。ラスト・コーラスはアドリブ、あの最後の8小節は僕に素晴らしい心理療法を施してくれた。
 僕は<3>で歌われているような女性たちの座り方や話し方について、詳しくないけど、マックレーの歌は本物だ!…皆さん、よく聴きなさい!
続く<4>では、実際に、楽しいことにさよならする女の子たちの姿を見ることができる。ひょっとしたら、これを聴いてがっかりする夫たちも何人か居るかも知れないな。
 <5>になると、カーメンは、より力強く活気に溢れた歌い方で、巧みにクライマックスまで持っていく。
 <6>で、一層ステージは盛り上がる。緊張感とドライブ感、説得力で、クライマックスは一層高まる…なんとも奥の深い歌唱だ。
 <7>は、定石通りの手法と力強いフィニッシュを合体させたヴァージョン。
 <8>はアドリブで始まり、そのうちイン・テンポとなる。そして、濃いラテン・リズムとフルートで色合いをガラリと変える。ゴキゲンなグルーヴを感じる。
 <9>では、歌、フルート、ギターの心躍るスイング感が聴きもの。
独特のムード溢れる<10>には、彼女の想像力と、語り口の深さに心奪われる。“あなたのことで苦しんだりしない、もうこれからは…”いいねえ。
 <11> この素晴らしさ…僕には適当なほめ言葉も見つからない。彼女の歌は、真にパーソナルで、他の誰にもないものだ。皆、聴け!よく聴くのだ!(Listen, listen!)
<12> では、彼らが舞台のずっと前方に出て行きライトを浴びる感じ。彼らが退場する時も、音楽は背を伸ばして行進を続ける。伴奏陣も素晴らしい。リチャード・ロジャーズ&ロレンツ・ハート・コンビが、命を与えられ、最高に活き活きしている。(KD)

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
KDのレビューに割り当てられたレコードは、大物の作品はどちらかというと少なくて、レコードは廃盤でも、良く知られているアーティストのものを三篇選んでみました。KDはミュージシャンなのに、テクニック面の言及はしない。譜面の読めない一般のリスナーの視点から、非常に判りやすく書いている。これはすごいね!
 今回のレビューみたいに、好きなものを語る時の嬉しそうな様子は、寺井尚之と合通じるものがあって、特に親近感を覚えます。
 このカーメン・マクレエのアルバムで、KDが一番注目しているのは、歌詞解釈。これまでの三篇に共通するKD批評の指針は、歌、曲、そして一枚のアルバムに起承転結をもたらす構成の力だ。それは、同時に『寺井尚之のジャズ講座』の指針と非常に共通している。
  
 評論集は今回で一段落。今週のジャズ講座には、トミー・フラナガン・トリオの名作、エリントン~ストレイホーン集『A Day in Tokyo』(Tokyo Recital)が登場します。OHPには譜面も多数登場予定。

 皆、聴け!よく聴くのだ!(Listen, listen!)
CU

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(2) 激辛編

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 名トランペッター、ケニー・ド-ハムが書いたレコード評は、好評、酷評の区別なく、演奏描写がしっかりしていて、やっつけ仕事がない。また、お公家さんみたいに、奥歯に物の挟まった言い方や、類語辞典片手にひねくりだした美辞麗句もない。ただ、真剣に聴き、KDのプレイと同じく、簡潔でストレート・アヘッドだ。
 今回、紹介するレコード評は、当時、日本でも非常に人気があったトランペットのスター、フレディ・ハバード(tp)のライブ盤、LPが片面一曲ずつの演奏です。メンバーはリー・モーガン(tp)を迎えた豪華版、演奏場所はブルックリンにあった『クラブ・ラ・マーシャル』。KDの評文は激辛!
ダウンビート誌 ’66 8/25 号より
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 Freddie Hubbard(tp)/ The Night Of The Cookers- Vol.2 (Blue Note 4208)
評点 ★★★
曲名
1.Jodo
2.Breaking Point
パーソネル
Freddie Hubbard(tp),
  Lee Morgan(tp)
  James Spaulding(as fl),
  Harold Mabern(p)
  Larry Ridley(b)
  Pete LaRoca(ds)
  Big Black(conga)

  16小節のシンバル・ワークに、疑問の残るアルト+トランペットのアンサンブルからフレディ・ハバードのソロ。しょっぱなから、彼お得意の『現在奮闘中』の看板を見せびらかす。
安定したペースで聴かせる他の殆どのソロイスト達(あるいは少なくとも数名の)から自分をより目立たせようとして、最初はペースを定めることをしない。
 
 ハバードは、まるでスポーツカーがくねくねしたカーブをターンするが如く、見え隠れしながら、退場するそぶりを見せ、一方で、ハイ・オクターブのエネルギーと多彩なアイデアの爆弾を投下し続ける。そのプレイは、有り余る肉体的パワー、攻撃性と、知的なハーモニーを併せ持つ20世紀的即興音楽らしい、炸裂するような流動感を作り出している。
 続くスポールディングのアルトはルーズでありながら、シャープで抑制が効いている。オープンなサウンドのメイバーンのピアノから、リズムセクションで、チーフ・ナビゲイター役のピート・ラロッカの激しいドラムが取って代わる。その後に来るのは、コンガの新人で、最も傑出した存在、今、ジャズ界で最もクリエイテイブな、ビッグ・ブラックだ。彼のプレイ自体に、先輩コンガ奏者ーチャノ・ポゾ、モンゴ.サンタマリア、、トゥオノ・オブ・ハイチやポテト・バルデス達のような深い音楽性は感じられないが、ビッグブラックには何か特別なものがある。ラロッカは最終コーラスでバンドをまとめ、<Jodo>は激しい幕切れとなる。
<Breaking Point>はカリプソの曲。ハバードが先発ソロ、、次にスポールディング、そして、“サイドワインダー”で有名なMr.リー・モーガンからメイバーン‥この曲を聴くのに延々費やした時間のおかげで、僕もついに我慢の限界(Breaking Point)に達する。
 ハバードは素晴らしい。しかし、このアルバムは退屈だ。(KD)

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フレディー・ハバード(1938-)
’92にトランペット奏者にとって一番大切な唇を損傷してから活動は少ない。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 
 ハバードは、’70年代以降、頻繁に来日していて、私もよく観ました。大学のクラブのビッグバンドのメンバー達は、皆、ハバードに熱狂していた。超うまい!パワーも凄い!へヴィー級チャンプみたいだった!だけどなあ… 
 私がずーっと感じていた、「だけどなあ…」という漠然とした感じを、ちゃんと言葉にしてくれたのは、私の知る限りケニー・ド-ハムだけだ。
(続く)

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(1)

kenny_dorham.jpgKDことケニー・ド-ハム(1924-72)はテキサス男。ビリー・エクスタイン楽団、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、BeBopの名バンドで活躍し、トミー・フラナガンとは名盤『静かなるケニー』を遺した名トランペット奏者、作編曲家。腎臓を患い僅か48歳で死去。
 寺井尚之は、懐石料理の如く、季節に因む旬の曲を聴かすのを得意にしている。先週、フラナガニアトリオはケニー・ド-ハムのハードバップ作品、”Passion Spring”を演った。春野菜には強いアクがあるけれど、それを抜いて上手に料理すると、この季節ならではの力強い味わいになる。”Passion Spring”も丁度そんな曲だった。私はケニー・ド-ハムが大好きなんです。職人というか、昔気質というか、会ったことないけど、非常に親近感を覚える。テナーの聖人、ジミー・ヒースとKDは非常に親しかったらしい。

 『Quiet Kenny』(静かなるケニー)にしても、「この音、このタイムしかない!」と言う位、どこを取っても完璧なのに、ジャズ特有の“カタギじゃない”かっこ良さに溢れていて、窮屈なところがない。だから、毎日聴いても飽きない。
 ケニー・ド-ハムを、ジャズ評論家、ゲイリー・ギディンスは『過小評価の代名詞』と呼んだ。
 ド-ハムは決して世渡りのうまい人でなく、腕の良い大工や板前さんみたいに気難しい名手だったという。大阪弁でいうと、“へんこなおっさん”だったのだ。名盤『Quiet Kenny』が録音された’59年当時、ド-ハムは、NYのマニーズという大きな楽器屋で、音楽インストラクターでなく、トランペット売り場の販売員として働いていた。いわゆるDay Gigで家族を養っていた。その気になればTV局やスタジオ・ミュージシャンの仕事がいくらでもあったろうに、けったいな人です。
 
 ケニー・ド-ハムはトランペットだけでなく、作編曲も一流で、ビッグバンド全盛時代は、ギル・フラーなど色んな編曲家のゴースト・ライターとして働いた。五線紙だけでなく、文才もあった。彼の書いた短い自叙伝は大変面白いので、いずれInterludeに載せたいな。
 さらに’66年には、ダウンビート誌でジャズ評論家としてレコード・レビューを担当している。これがまた、“へんこ”なド-ハムならではの名文です。とにかく、アルバムを真剣に聴いて書いている。ミュージシャンだから、音楽の描写力がダントツに優れていて、愛と厳しさがある。ミュージシャンの視点で、良いものは良い、ダメな物はダメとはっきり言う。
 そんなドーハムがセロニアス・モンク・カルテットのアルバム、『ミステリオーソ』について書いた異色のレコード・レビューを紹介してみましょう。(DownBeatの貴重なバックナンバーはG先生の膨大な蔵書から拝借して、日本語にしてみました。)
 この文章が書かれた’66年のジャズ界の潮流が、コルトレーン、マイルス以降のアヴァンギャルドで、“New Thing”という流行語が使われていた頃であることを心に留めて読むと一層興味深い。
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THELONIOUS MONK / MISTERIOSO(RECORDED ON TOUR)セロニアス・モンク/『ミステリオーソ』 (COLUMBIA)

 評点 ★★★1/2

ダウンビート・マガジン ’66 1/27号より

1. Well, You Needn’t
2. Misterioso
3. Light Blue
4. I’m Gettin’ Sentimental Over You
5. All the Things You Are
6. Honeysuckle Rose
7. Bemsha Swing
8. Evidence
パーソネル: Charlie Rouse(ts) Monk(p) Larry Gales or Butch Warren (b) Ben Riley or Frankie Dunlop (ds)

1. ライブ・レコーディングで、オープニングの1.では、モンクが<ウェル、ユー・ニードント>のメロディをイントロとして8小節を弾き終わる前に拍手が来る。ファーストテーマの後にラウズが先発ソロ、テーマから一貫性のある良いアドリブだ。その後モンクがソロ。続くベースのゲイルズ(b)もきっちり仕事をする。ライリー(ds)はバーラインを越えたハードなドラムソロだ。
再びアンサンブルに戻り、これぞモンクという決め技で終わる。
2.<ミステリオーソ>は風変わりなブルースだ。カット・タイムで進むが、ラウズのソロになると普通のタイムの普通のブルースになるので、全編これミステリアスということもなし。
3.<ライト・ブルー>には殆どコードがない。これは “NEW THING”のコンセプトか?いや違う。実はモンクの“OLD THING”な古いネタなのであった。だが古いと言えどあなどってはいけない。モンクのプレイする音楽の地平は“NEW THING”の、煙幕を張ったようにぼけたサウンドではない。モンクはどこまでもクリアだ。
4.は古いスタンダードだが、コンセプトは非常に斬新。テーマはモンクのストライド入りのソロで聴かせる。ラウズのリラックスした堂々たるソロは爽やかな風を呼び起こす。全く嬉しくなる(Delightな)演奏だ!
5.モンクの8小節のイントロから、グループ全体でスイングしながら<All the Things You Are>のテーマにどっとなだれ込む。部隊の先頭に立つのはラウズ。その激しさをそのまま読み取ったコード、自己主張するモンク、それをバックにするラウズ。テーマからそのままラウズがアドリブ・ソロを取る。ラウズに続くモンクは、大変に美しく、アヴァンギャルドな(というか、風変わりな)なシングルラインのシンコペーションをを弾いて見せる、秀逸なユーモアだ! モンクのソロの後、再びラウズが戻ってくるが、戻ってきても別に大したことは起こらず、モンク流のクライマックスは降下を始める。
6.モンクは自分流のコード解釈で<ハニーサックル・ローズ>を演奏。市販の譜面からはおよそかけ離れている。しかし、それでこそモンクだ。アドリブ・ソロでは、高音の慌ただしい右手の動きに入り込んでいく。本トラックにラウズは不参加。
7.各4小節で成り立つAABA形式の曲、短いフォーマットでアドリブのしやすい素材。まずラウズのソロから、モンクが続き終わる。
8.B面の<エビデンス>はオリジナリティとドラマ性では極めつけだ。-つまりメロデイとタイトルの関係において、である。
 本作品は、全体的に、’40年代のいわゆる「ハード・ジャズ」、つまり各人のソロ主体のフォーマットだが、ハーモニーとラインのコンセプトは非常に新鮮なものだ。しかし、現在流行中の“アヴァンギャルド” を特急列車に例えるなら、特急の線路上を各駅停車のが走っているような感は否めない。故に、まるで昔のレコードのように聴こえてしまう。列車の内容が余りに多いため、却って活気がなく、ハッスルが十分でない。(KD)
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
どうですか?非常に具体的な描写で、このアルバムを聴いたことがなくても、楽器を演奏できなくとも、なんとなくイメージ出来る親切な書き方でしょう?一度聴いてみたくなりますね。だけど、当たり障りのない書き方でなく、あくまで鋭くモンク音楽を見据えている。
 
 ゴールデン・ウィークなので、土曜日も休日だから、土曜にでも、更に激辛と甘口のKDの評論2種を紹介します。
 CU

サキソフォン・コロッサスに押された「怒りの刻印」/ソニー・ロリンズ


 『サキソフォン・コロッサス』はモダン・ジャズのバイブル的名盤、どのトラックを聴いても、“モダン・ジャズ”の圧倒的なパワーと魅力に溢れている。“モリタート”“セント・トーマス”は、歌舞伎なら『勧進帳』、クラシック音楽なら『運命』同様、特にそのジャンルが好きでなくたって誰でも知ってるもんや…と思っていたけど、ジャズが、BGMとして“流れる”だけの時代になってからは、あながちそうでもないらしい… とはいえ、“サキコロなんかあんまり当たり前で耳にタコできて、もう聴く気もせんわ。”と言うジャズ通も多いのではないでしょうか?このセリフは、かつて私がミナミの中古レコード店に行くと、必ずハングアウトしていたネクタイ姿の常連さんの言葉です。
 それほどベーシックな名盤なのに、今まで我々はちゃんと聴いていなかった…と思い知らせてくれたのが、ジャズ講座だった。
  スイングジャーナルやダウンビート、どのジャズ雑誌でも星5つ、ガンサー・シュラーや、ラルフ・グリースンなどの大先生は、歴史的名演と口をそろえて誉めちぎる。おまけに『主題的即興演奏に於けるソニー・ロリンズの挑戦』と題するシュラーのエッセイまでが、ジャズ批評を代表する歴史的名文と評価される結果になった。ジャズ・ファンとグルメは、星の数にはめっぽう弱い。しかし、絶賛されるが故に、真実が見逃されるということもある。
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 講座では、このアルバムには、『ずれ』や、テンポの『揺らぎ』、バース・チェンジのミスが潜むことを、実際の音源を聴きながら確認し、その瞬間のソニー・ロリンズを始めとする各メンバーの心象風景まで、実際のプレイを聴きながら解き明かしていく。寺井尚之特製の進行表があれば、耳の肥えたプレイヤーでなくとも、自分達が今、この瞬間、曲のどの位置を聴いているのかが一目瞭然に判る。だから、寺井尚之と同じ目線で、演奏に現れる色んなシーンを一緒に楽しめるのです。
 中でも圧巻は、“ストロード・ロードの謎”と呼ばれるバース・チェンジの謎解き。
 ソニー・ロリンズのオリジナル、Strode Rodeは、ロリンズがシカゴ時代によく出演していたクラブ、ストロード・ラウンジにちなんだ曲で、講座以降、寺井尚之のレパートリーにもなり、ピアノトリオで楽しんでます。
 AABA形式のテーマは12+12+4+12と、少し変則になっている。寺井は、この録音から、ハーモニーが余り明確に伝わってこないことから、「メモ的な譜面をその場で渡して録音したのではないか…」と推測する。
 ここでのロリンズ-ローチのバース・チェンジは、試しに私が何度数えても何コーラスやってるのかさっぱり判らない。寺井尚之は何故、皆が判らないのかを、進行表を出して教えてくれる。実は「演ってるほうも判らなくなっているからだ。」と。結局、一瞬失った流れを、うまくアジャストして元に戻した結果、歴史的名演となったのです。
 
 バース・チェンジを迷子にさせた誘因はフラナガンがヒットさせたテンションのきつい一発のコードが原因だったことが明らかになっていく。サイドマンとして抜群の評価を受けているフラナガンが、確信犯的に「判らなくなるようなタイミング」のバッキング・コードを絶妙に入れたのだ。
 地道に仕事をする脇役フラナガン、メトロノームの様に正確無比なマックス・ローチ…ジャズ評論でお決まりのように出てくるキャッチフレーズが、講座ではどんどん崩されていきます。
 その経緯は、推理小説を読むようで、知的満足度たっぷり!『間違い探し』にありがちなセコいところがない。詳しいことは、講座の本第一巻をぜひとも読んでいただきたいと思います。
 夭折の天才ベーシスト、ダグ・ワトキンスはデトロイトの名門高専カス・テック出身、この学校の当時の音楽カリキュラムは並みの音大よりずっとハイレベル、教師陣はヨーロッパから亡命してきた一級のコンサート・アーティストが多かった。ダグはポール・チェンバースの従兄弟で一年間デトロイトで同居し、非常に仲良しだったと言う。晩年トミーのレギュラーだったピーター・ワシントン(b)にはダグの大きな影響を感じます。
 進行表を見ながら、フラナガンのヒットさせたキツいコードを自分の耳で確かめて、「ほんまや、これはわからんようになるわ。」と納得、あれあれ、ほんとだ。ダグ・ワトキンスの逡巡するビートや、ローチのドラムから送られるサインに戸惑うロリンズ、今度はロリンズをフォローして、カチンと歯車のかみ合うバッキングを送るフラナガン、皆のプレイに、字幕がついたように良く判ったし、このアルバムを一層楽しめることが出来るようになりました。
 
 フラナガンが、現場での「何か」にカッとしてガツンと押した『怒りの刻印』…でも、それは音楽を台無しにするどころか、却って、レイジーな浮揚感と、即興演奏に命を賭ける集中力との激しいせめぎ合いを生み、化学作用を引き起こしたのではないだろうか?
マックス・ローチが牽引した二つの大車輪クリフォード・ブラウン(tp)とソニー・ロリンズ。
ブラウニーは奇しくもこの作品が生まれた4日後に悲劇的な事故死を遂げた。

   
 色々な書物に遺されたトミー・フラナガンの発言を読むと、この名盤の謎解き講座に陰影が付き、一層興味深いのです。
 

NY的なるジャズについて:
  デトロイトから出てきた当時、NYのミュージシャン達は余りにもバド・パウエルとチャーリー・パーカーに、耽溺しすぎているように思えた。勿論、我々だって(デトロイトのピアニスト)パーカーやパウエルは好きだったが、我々にはもっと何か他のものがあると思っていた。例えば、NY派のドライブ感と同時に、我々にはもっとリリカルな要素があると。趣味の良さと、テクニックももう少しあると自負していた。まあ、それは私個人の意見だから間違っているかもしれないがね。
 Jazz Spoken here/ Waine Enstice & Paul Rubin, 1992
 “サクソフォン・コロッサス”参加の経緯について
 偶然!偶然だったんだ。大勢のミュージシャンがプレステッジで録音していて、僕も名簿に載っていただけだったんだ。振り返ってみると、その頃に録ったものが全て今は古典になっている。参加していたのは幸運だった。ソニーとはバンガードで何回か共演したがツアーに同行したりするというようなことはなかった。
Downbeat誌 ’82 7月号
サキソフォン・コロッサスについて
 
 現在のレコード製作では、気にいらないところは編集してしまうが、昔の録音は、ミスも何もかもそのままだ。だが、私はその方が好きだな。…“サキソフォン・コロッサス”の収録曲がエクサイティングだったどうかは知らないが、なによりロリンズと共演することが私にはエクサイティングだった。何故ならコールマン・ホーキンスを別にすれば、ロリンズは私が当時最も好きだったサックス奏者だったから。
Jazz Spoken here/ Waine Enstice & Paul Rubin, 1992
 まあ、ロリンズはあれほど素晴らしいミュージシャンなのだから、<ブルー・セブン>が絶賛されたこと位どうってことはない。 実際の彼はあれよりずっと良いよ。
Jazz Spoken here/ Waine Enstice & Paul Rubin, 1992
ソニー・ロリンズについて
 ロリンズはフラナガンにとって、いつもお気に入りのミュージシャンであり、”優しいスイートな男”だ。ロリンズは、スターであるプレッシャーに打ち勝つために、わざと近寄りがたい人物像を演じているのだとフラナガンは言う。フラナガンがロリンズと初めて出会ったのはデトロイト時代で、かの有名なローチ-ブラウン・クインテットが町に来た時だ。
 “ロリンズは自分自身をどれくらい面白いと知っているのだろう?”という質問に、フラナガンはこう答えた 。
「彼は真剣そのものなんだけど、真剣なところがおかしいんだ。意識的におかしくプレイしようとしてるかどうかは知らない。でも僕にはおかしく聞こえてしまう。例えば“If Ever I Would Leave You” 初めて聴いた時には、もう床にぶっ倒れる程笑いこけたよ。だが、同時に、彼は真剣そのものだとも思えた。彼はあのスタイルでなくとも、色々なやり方でプレイできるんだ。しかし、その時は、彼のルーツである西インド諸島風に演ってるとは、知らなかった。凄く細かいビブラートで、殆ど初心者のような音色だよ。全く音にならないようなところまでホーンをオーバー・ブロウさせてね。でも、あのようなアプローチで、あれほど音楽的に出来る演奏家を私は他に知らない。」
Jazz Lives/Michel Ullman New Republic Books, 1977

“サキソフォン・コロッサス”の緊張感に満ちた名演は、天才音楽家集団を生んだ二つの街、ハーレム・ストリーツとデトロイトとのせめぎあいで実った果実なのかも知れない。
 “サックスの巨人”の初期の代表作、やっぱりBGMとして流すのでなく、こっちも正座して真剣に聴きます!
CU
 

寺井珠重の対訳ノート(7)

所変われば『彼氏』も変わる
The Man I Love (私の彼氏)/エラ・フィッツジェラルド

’98年、AMEXのPRでのエラ・フィッツジェラルドアニー・.リーボヴィッツ撮影 ©2008 artnet
 トリビュートが終わったら、あっという間に桜が咲き、今週の土曜日はもうジャズ講座…年を取ると月日の経つのがどんどん速くなります。
 寺井尚之がトミー・フラナガンのプレイを年代順に解説して行く『足跡』ジャズ講座、今週の登場アルバムはエラ&トミーの唯一のスタジオ録音盤『Fine and Mellow』と、ロンドンっ子達が大いに盛り上がるライブ盤『エラ・イン・ロンドン』、この両方に収録されているのがこの曲、“The Man I Love (私の彼氏)”、エラ・フィッツジェラルドは、長年の間、様々な公演地やスタジオで、たくさんの「彼氏」のことを歌って聴かせてくれた。それぞれ、とっても楽しいのです。
 
  《元カレ from Songbook》
 “The Man I Love”は、エラの金字塔、『ガーシュイン・ソング・ブック』(’58)に収録されています。
このアルバムを聴いたアイラ・ガーシュインは「エラに歌ってもらうまで、自分達の作品がこれほど良いとは思わなかった。」と言ったとか。
後に出てくる2ヴァージョンを、アイラが何と言うか訊いてみたかった。
 まだ見ぬ恋人を夢見る乙女ので歌詞のあらすじはこんな感じ。
☆原詞はこちらに。

<私の彼氏>
原詩(’24作):アイラ・ガーシュイン
いつか、私の恋人が現れる。
きっと強くて逞しい人。
私を愛し続けてもらえるように、
精一杯尽くす。
彼は私と出会ったら、
微笑みかけるはず、
だから運命の人だと判る。
しばらくしたら、彼は私の手を取るわ。
馬鹿な事と思うでしょうけど、
言葉を交わさなくたって、
二人は恋に落ちるの。
巡り会う日は日曜?月曜?
それとも火曜日?
彼は私達の住む、
小さなお家を建ててくれる。
そうしたら、私はもう出歩かない。
愛の巣から離れたい人なんているかしら!
私が一番待ち望むのは
愛する彼氏!

《彼氏 in U.S.A》
☆講座で取り上げる『ファイン&メロウ』は、ズート・シムス(ts)やクラーク・テリー(tp)、エディ・ロックジョウ・デイヴィス(ts)達の個性が聴けるのがお楽しみ。

 ガーシュイン・ブックから25年以上経ち50歳半ばを過ぎても、1コーラス目のエラの清純無垢な歌唱には一層磨きがかかっている。トミー・フラナガンのピアノをバックにルバートで歌い上げるエラは最高に美しい声と完璧なアクセントで、初々しささえ感じさせる!
 恋愛に言葉なんかいらない!汚れを知らぬ乙女は、心眼で愛する男性を見分ける。彼氏に対して、打算的なことなんて考えない。前もって「あのー、私の彼氏さん、年収いくらですか?学歴は?星座は?IQは?」なんて一切審査しないのだ!ロマンチックやわあ・・・
 と、思うのもつかの間、リズムに乗ってスイングする次のコーラスからは、殆ど同じ歌詞なのに、ガラっと変る。魔法のマスクをつけたジム・キャリーのように、ほうれん草を食べたポパイのように、秘薬を飲んだ底抜け大学教授のように、パワフルに大変身して見せます。

『Fine & Mellow』(’74)
<私の彼氏>対訳から編集

とにかく『彼氏』を見つけたら、
愛し続けてもらえるようにベストを尽くそう!
彼氏はマイホームを建ててくれる!
そうなったらシメたもの!
もう、金輪際ほっつき歩くもんか!
レギュラーのポジションを守り抜く!
彼氏をつなぎとめるために
ガンバろう!

最初のコーラスの純情可憐なイメージはどこへ?
しっかり気合を入れて、彼氏をゲットしよう!「ファイトー!一発」 エネルギーが溢れます。だけど、決して下品にならないのがエラのエラたるところ!この辺りがエラのサポーターだったマリリン・モンローの芸風に共通するものがあるなあ。以前話題にした“The Lady Is the Tramp”同様、上品ぶらない魅力が爆発する。こんな歌唱解釈の出来る歌手はいないね!スイングする楽しさ、ジャズの醍醐味がストレートに伝わってきます。
 エンディングでのレイ・ブラウン(b)とのへヴィー級の掛け合いがまた最高なんです。

ヘイ、カモン、マン、
私は彼氏を待っている、
あっ、あそこにいい男がいるじゃない!
きっと彼氏だ!
(レイ・ブラウンのベースに向かって)
ねえ、あの男はどんな奴?
彼氏の話をしてってば。
私は、彼氏を
ずーっと待ってるってのに・・・



  こんな感じで、“強くてたくましい”レイ・ブラウンの音と会話をするエラが最高!レイ・ブラウンとエラがかつて夫婦であったことを知っているファンには、また別の感慨を誘いますね。多分このインタープレイにヒントを得て、さらに発展したものがロンドンのライブ盤で楽しめるんです。
《彼氏 in UK》

 同じ’74年録音のライブ、『In London』のベーシストはレイ・ブラウンの薦めでエラのバックを長年勤めるキーター・ベッツ、エラは良く歌うベースに向かって『彼氏の事を教えてよ』と聴きながら、ミス・マープルのように『彼氏』がどんな人か探っていく。
 彼氏はどこの出身かしら? 北イングランド、シェフィールドの人なのか、はたまた南東のブライトン?身近な地名が出るたびに大喝采が上がります。結局、キーターのベースに、『彼氏はロンドンの男だよ』、と教えてもらうと、もうロンドンっ子たちが、ヤンヤの歓声!そしてその彼氏はダイヤの指輪を持っている大金持ちだと判ると、エラははりきって『ダイヤは淑女の一番の友達♪』と歌いだす。でも、ダイヤをちらつかせる男が誠実とは限らない。”結局、彼氏はとんでもない男だった…Fine and Mellow”や、”My Man”を引用し、男が金持ちだと、女はどんな目に会うかの教訓を示唆しながら更にスイングする。結局、「男は、どこでも皆いっしょ、男は皆おんなじだ。」とオチが来る、ほんま、エラは落語以上に面白い!
えっ?ベースの音とそんな掛け合いできるわけないって?
じゃあ、この映像を見てください。そしてジャズ講座でOHP観ながら聴いてみてください。ほんとに面白いよ、未婚の方には将来の、既婚の方にはまさかの時の参考になります!?

 
《彼氏 in Japan》
  このアルバムを録音した翌年(’75)、エラ&トミー・フラナガン3が来日した。『Ella in London』は来日記念盤です。当時、ラジオで放送された東京、中野サンプラザでの公演を聴くと『私の彼氏』は日本人、江戸っ子だい!なんとホテル・オークラの持ち主で、日本の特産、真珠を一杯持っている。おまけに『あ、そう』とか言うので、ひょっとしたら高貴な血筋かもしれない。
 一方大阪では、『彼氏』は浪花の男になっていた。

 おそらくパリでも、ベルリンでも、ブリュッセルでも、『彼氏』はその土地の男になり、大観衆を沸かしていたのでしょうね!
 トミー・フラナガンが音楽監督を務めた’70代のエラのおハコの代表的なものは『私の彼氏』以外にも、色んなジャンルの音楽をスキャットとバックのトリオが機関銃のように繰り出す『スイングしなくちゃ意味ないよ』、’60年の『エラ・イン・ベルリン』以降、目覚しく進化して、月面着陸までしちゃう『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』、ボサノバやサンバが、玉手箱みたいにどんどん出てくる『ボサノバ・メドレー』など枚挙にいとまがありません。これらのレパートリーを寺井尚之は’75年、京都と大阪で生を見たのです。うらやましいネ。
 私のブログよか、ずっと音楽的で、エラの歌に負けないくらい、おもろしくて為になる寺井尚之のジャズ講座は今週土曜日、Jazz Club OverSeasにて。
CU
 

トリビュート曲目説明できました!

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 先日のトリビュート・コンサートは、凄く沢山のお客様が来て下さって、サービスが行き届かず、失礼しました。開演後に、玄関口で佇む人がいるのを、テーブル席のお客様に教えていただいたり、いつもながらとはいえ、ほんとにすみません!
 そんなわけで、終わってみたら、バタバタと駆け回って、ほとんど写真を撮れなかったことに気づきました…。
 トリビュートが終わった翌日からは、歌詞や、講座の本のための翻訳の仕事が山のように溜まっていましたが、さきほどどうにか、トリビュートの曲目説明をHPにUPしました。
 「曲目説明」は、いつも頭の痛いことです。よくジャズのレコードのライナーを読むと、「○○は、コール・ポーターの作曲、19××年に、ブロードウエイのミュージカル○○の中の歌われたラブソングだ。」とかなんとか、書いてありますが、スタンダードナンバーは、ほとんどがラブソングだし、「それでどないやねん?」と思ってしまうことがある。
 何か、演奏者がその曲を選んだ必然性というか、聴き所のようなものを書きたいのですが、文章にするのはムズカシイ…
 とにかく、今回も軽めの脳みそを絞って一生懸命作りました。
 とはいえ、結局、つまるところは『百文は一聴にしかず』であります。トリビュートの演奏曲をトミー・フラナガンで聴けるアルバムは紹介しておきました。
 また、当夜の演奏を聴きたい方はCDRがありますので、Jazz Club OverSeasにお問い合わせください。
 寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、河原達人(ds)のフラナガニアトリオの皆さん、私に曲説を書く力をお与えくださってありがとうございました。
 CU