Baby Baby All The Time
A.T.ことアーサー・テイラー(ds)1929-1995
アーサー・テイラーが初めてハーレムの自宅に招待してくれたのは1988年、まだNYが犯罪都市と呼ばれ、ハーレムにビル・クリントンの事務所もスターバックスもなかった頃だ。
だが、ハーレムは、デューク・エリントンを大スターに育て、BeBop革命を生んだ街、そう、ハーレムは世界遺産だ。恐がってなどいられるもんか!ハーレムに行かなくちゃ!
(でも、ジャズメンやその奥さん達は口をそろえて「絶対にAトレインに乗らないでタクシーを使いなさいよ。地下道が危ないんだからね。」と口を揃えて言うのだった。)
まあハーレムでもクイーンズでも、とにかくA.T.の自宅に招待されるのは、もの凄く名誉なことなのだ。私たちよりずっと先輩の一流ミュージシャンでも、おいそれと口などきけない人らしい。故に、寺井尚之はスーツとネクタイの正装でA.T.のアパートを訪問することにした。
48丁目の安ホテルからタクシーで30分足らず、ブロードウエイからリヴァーサイド・ドライブを北上すると、そこはもうブラック・ハーレムのど真ん中。道幅は広く、大きな古めかしいビルが並ぶ。午後のハーレムはひっそりして、東洋人の姿は私達以外なかった。A.T.の住むアパートは古めかしい6階建てのビルだった。
ここはセント・ニコラス・アヴェニュー940番地、後で知った事だが、このアパートはハーレム・ルネサンスのランドマーク的な建築で、当時を象徴する詩人、カウンティ・カレンも同じアパートに住んでいたのだった。
ブザーを鳴らし、ロビーに入るとバニラの匂いが漂う。高い天井と大理石の床には’20年代の栄華が、ロビーのコーナーにあるテーブルの上に積まれた、近所のスーパーのチラシには、現在の生活感が漂っている。
大きなエレベーターの扉が開き、私達は2頭の大きなドーベルマンを連れたおばさん達と同乗した。それでも中は広々している。黒光りする大きな犬は行儀が良く、琥珀色のマダム達は、スーツとネクタイで正装したヒサユキと私に、“Enjoy!”と、にこやかに声をかけてくれた。
5階に上がると、Eの扉のところに笑顔のA.T.が出迎えてくれた。「そこはマックス・ローチ(ds)、向こうはアビー・リンカーン(vo)の住居だよ。」と、隣近所のドアを指差した。
私たちは、玄関から居間に通じる廊下の壁一面を飾る、畳半分位の綺麗に額装されたモノクロ写真に目も心も奪われてしまった。それは、チャーリー・パーカー(as)を擁するビリー・エクスタイン楽団の演奏写真だ。ドラムはA.T.が尊敬するアート・ブレイキー、BeBopの絶頂期の一瞬を捉えたこの写真に「絵になる男;A.T.」のルーツがあった。写真から発散する強烈なBeBopの芳香、白く輝くチャーリー・パーカー(as)のマウスピースが、不思議な光を放ち、画面の中のミュージシャン達も、この写真の前に立つ者も、パーカーの元に引き寄せられてしまう。まるで至福に満ちたルネサンスの宗教画だ。
「どうだい!いい写真だろう!」A.T.は写真に吸い込まれそうになっている私達を現実に引き戻すように、ニコニコしながら声をかけた。
この写真はATの家のものではないですが、チャーリー・パーカーはこんな人です。セロニアス・モンク(p)、チャーリー・ミンガス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
最初の部屋は音楽室で、スピネット・ピアノの傍らにソナーのドラムセットがすぐ演奏できるようセットしてある。楽器類は手入れが行き届き、スティック・ケースの中も整然としている。その奥が書斎兼居間になっていて、タイプライターを置いた机と、各国のジャズ雑誌の他に、詩集や哲学書などが並ぶ書棚。バスルームの大きな浴槽には書見台が渡してあった。
A.T.の自宅です。
A.T.はこの広々としたアパートに一人で住んでいた。薬剤師として病院勤めをしている自慢の娘さんは、ここにはいないようだ。白い壁と高い天井、どの部屋も清潔で、家族の写真や、巨匠ぶりを誇示するような賞状類など、俗世間への愛着を示す品々が不思議と見当たらない。孤独を味方に出来るよう、居住まいが整えられていた。
晴れ渡るハーレムを一望する大きな窓からA.T.が指差す方角を見る。「そっちはセロニアス・モンク、あっちはジャッキー・マクリーン、そこがソニー・ロリンズの家だったんだよ。ベイビー、うまいこと言うね、確かにここはハーレムのオリンポス山だな。」A.T.はトミーと演奏する時も、こんな風に高いところからアドリブの行く手を俯瞰していたのだろうか?
蔵書のハーマン・レオナールの初版写真集を見ながら…
A.Tが作ってくれたブランデー・アレキザンダーをすすり、フランス仕込みのクロークムッシュを頬張りながら、彼が参加するデューク・エリントン楽団の貴重なヴィデオを観るのは、夢のようなひとときだった。
チャーリー・パーカーは映画(’88作品;クリント・イーストウッド監督の伝記映画“バード”)のような汚い言葉使いは決してしなかったこと、バド・パウエルは脳の病気だったので、(あんな名盤で数多く共演しながら)一度も口をきいた事がなかったこと。セロニアス・モンクの家を訪ねても、彼はピアノから片時も離れないので、奥さんのネリーとばかりおしゃべりしていたから、今でも大の仲良しである事など、色々楽しい話を聴いているうちに、気が付けば日没が近くなっていた。私たちは竜宮城を後にするように、大慌てでミッドタウンに戻ったのを覚えている。
A.T.の歴史的名演が聴ける。左はリーダー作“A.T.’sデライト”右はバド・パウエルの名盤“シーン・チェンジズ”
A.T.は、寺井を、きちんとヒサユキと呼んだけど、私はいつも“ベイビー”だった。多分、世界中の女性を沢山知りすぎて、名前が覚えきれなかったからかも知れない。ベイビーと呼ばれても、A.T.なら不思議にちっとも蹴飛ばしたくならない。
数日後、深夜のブラッドリーズで、私はA.T.に不躾な質問をした。「ねえ、A.T.モナが心配してたわよ。あなたのガールフレンドはもう一緒にいないのかしらって。」 (サックスの大巨匠、ジミー・ヒース(ts)夫人のモナさんはハードバップ界きっての良妻賢母、美しく優しい女性で、夫妻はA.T.と親戚付き合いだったのだ。)
A.T.は眉を少し上げてこう答えた。「ああ、この間彼女はスイスに帰った。ベイビー、人生は短いんだ。千日の恋なんて、僕には長すぎるんだよ。」こんなセリフもA.T.なら、とてもよく似合った。
それから数年後、再びNYを訪れた時、A.T.の“テイラーズ・ウエイラーズ”はNYのライブシーンで最も注目を集めるハードバップ・コンボとなっていた。<コンドンズ>というクラブに今週出ているからぜひおいでとヒサユキと私を誘ってくれたけれど、別のクラブ、スイート・ベイジルにはトミー・フラナガン3が出演しているので、どうしても行くことが出来ない。泣く泣く謝りの電話をかけた。「A.T.せっかく誘ってくれたのに、本当にごめんなさい。ヒサユキも私も行きたいのだけど、予定があってどうしても行けないの。」
A.T.は、きっと私達の事情を察していて、優しくこう言ってくれた。
「ベイビー、気にするなよ。またこの次に来ればいいじゃないか。人生は長いんだから。」
「人生は長い」皮肉にもその言葉が、A.T.との最後の会話になってしまった。
「50歳で引退したかった。」と言っていたA.T. 物事をちょっと離れて冷静に見つめていたA.T. タイトなハイハット、トップシンバルの完璧なレガート、無限の色彩を持つリムの技…レコードを聴くと、あの絵になる姿が蘇る。
私はジャズ講座にA.T.が登場すると、OHPで映写する構成表の余白に、彼の写真を出来るだけ入れておく。
「A.T.は絵になるねえ」 そう皆に言って欲しいから。
(’84 OverSeasにて)
(この章了)
ATを最初に聞いたのは1967年5月、コペンハーゲンのカフェ・モンマルトルでした。EDDIE LOCKJAW DAVIS,JOHNNY GRIFFIN(ts)、KENNY DREW(p)、NIELS-NENNING ORSTED PEDERSEN(b)でした。それから7月までAL HEATHにドラムスが替わるまで殆ど毎晩聴きました。その後阿川泰子の伴奏でフラナガン、ムラーズとトリオで来日した時には、ホテルで長時間AT、フラナガンにインタビューをしました。最後に聴いたのはキーストン・コーナー(原宿)で、B.ハリス、C.イズリールスのトリオの時で録音もしました(ATのまん前で)。私が思うにATはジャズ界で最もオシャレ(センスの良い)な人で、これは1950年代から死ぬまで変わりませんでした。私も昔ATが好きだった時期があり、未発表の写真を沢山持っています。阿川泰子の伴奏で来日した時、1967年にコペンハーゲンで私がプレゼントした扇子の事をそのときも覚えていて、「今でも大切にしている」といわれた時は嬉しかったです。
<J.J.ジョンソン Live at カフェ・ボヘミア>を限定版で提供して下さったマシュマロ・レコードの上不さんに、ここでコメントをいただけるとは恐縮です。先日マシュマロ限定盤999のバド・パウエル短編映画を観たところでした。
だいぶ前のバド・パウエル・カレンダーもまだ大切に保存しています。
カフェ・ボヘミアの章を書いた後、上不さんのHPにあるいろいろなエッセイを拝読し、楽しい気持ちになりました。
A.T.の思い出を頂戴できて光栄です!
私が初めてA.T,を観たのは、’75年の学生時代、ジョニー・グリフィン4ののコンサートでした。不入りでもプレイは全開の本当に凄いもので、心底感動しました。(司会はいソノさんです。)
ありがとうございました。
ATがグリフィンと最初に来日した時に、NHK-FMに出演、その時の放送録音が良い音で残っています。ご希望でしたらCD-Rで送ります。