シルバー・ウイークは楽しく過ごされましたか?寺井尚之は、土曜日のショーン・スミス(b)とのコンサートのレパートリーをプラクティス、プラクティス、ショーンの東京ライブ(守屋純子3)の模様はG先生のブログに載っていましたが、こちら大阪のライブは、一味違ったものになりそうです。 どうぞご期待ください!
なお、当日は通常通りお食事も召し上がっていただけますのでご安心ください。お勧め料理は寺井尚之特製:「牛肉の赤ワイン煮込」です!
ところで、8月からジャズ講座で注目されているベーシスト、レッド・ミッチェル、チェロやヴァイオリンと同じ5度チューニングを使って、ホーン奏者やボーカリストのように歌うサウンドが心の中で響いています。来月10月10日のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェルのデュオ名盤、“You’re Me”が登場しますので、ぜひ来てくださいね!
レッド・ミッチェルさんには生前何度もお目にかかったことはあるのですが、タートル・ネック姿のにこやかな瞳の奥に一体何が隠れているのか、仙人のようで正体がさっぱり掴めません。ずーっと興味津津だったのですが、最近ネット上に、インタビュー記事を発見、直後にG先生の蔵書から、インタビューの元本("Cats of Any Color / The Return of Red Mitchell” Gene Lees 著)のコピーもちゃっかりゲットして、思いがけず連休中に、空気のきれいな屋外でゆっくりと読むことが出来ました。
少年時代は発明家を志し、名門コーネル大に入学したものの、兵役後、ベーシストへと人生航路を舵取りし、ジュリアードで破門されてもへこたれず、独自の5度チューニングを開発したレッド・ミッチェルは結婚歴4回、スエーデンに移住し、米国に戻り没しました。ジーン・リースが晩年のミッチェルに訊いたインタビュー、「レッド・ミッチェルの帰還」から、類まれな巨匠、論客の足跡を少し辿ってみましょうか。
<レッド・ミッチェル、そのキャリア>
レッド・ミッチェルこと、キース・ムーア・ミッチェルは1927年9月20日NY市に生まれ、川向うのニュージャージー州に新興住宅地として作られた町で育ちました。ミッチェルをあまりご存じない方の為に、初期の共演者をメモしておきます。
’48年、ジャッキー・パリス(vo)、マンデル・ロウ(g)と共演、’49年、チャビー・ジャクソン(b)楽団にピアノ兼ベース奏者として加入、’49-’51ウディ・ハーマン楽団に加入しレコーディングする。’52-’54人気ヴァイブ奏者レッド・ノーボのトリオに加入し、ビリー・ホリディ(vo)や、ジミー・レイニー(g)とレコーディングの後、ジェリー・マリガン(bs)4で活動、’57、ハンプトン・ホーズ(p)3で活動した後、自己カルテットを結成する。’59にはオーネット・コールマン(as,tp,vln)と共演。ジャズだけで生活するのが困難になった’50年代終盤からはハリウッドMGMのスタジオOrch.で主席ベース奏者として10年間勤務する傍ら、名指揮者、ピアニストであるアンドレ・プレヴィンのジャズ・トリオなど、西海岸で活動した後スエーデンに移住し、帰米前にはスエーデン王立アカデミーから勲章を授与。
<父の肖像>
「貧富に関係なく、ジャズ・ミュージシャンの殆どは、大なり小なり、両親の応援のおかげで今の地位がある。」:レッド・ミッチェル
こう語るレッド・ミッチェルの音楽性には、お父さんの影響が色濃く出ています。
そkっくりなお父さんに抱かれたBaby Red Mitchellhttp://www.redmitchell.com/より。
ミッチェルの父、ウイリアム・ダグラス・ミッチェルは米国の大手電話会社、AT&T社の重役でした。技術畑の人でしたが、三度のごはんより好きだったのがクラシック音楽でリンカーン・センターのオペラハウスの特等席を50年近くの間、年間予約し、自らクワイヤーを設立し声楽をたしなみました。あらゆるオペラを正しく歌うために6ヶ国語を習得していたといいます。ステレオ以前の時代からオーディオ・マニアで、幼いレッド・ミッチェルにクラシック音楽を盛んに聴かせ、ピアノを習わせました。
このお父さんが、一般的な音楽マニアと一線を画している点は、音響工学についての科学的な知識が豊富で、それを幼い息子に判り易く伝授したところです。レッドの証言によれば、自宅にパイプオルガンまで手作りして設置したほど凝り症で、その際にしたためた、「パイプオルガンのチューニング」に関する論文は、精度と詳細さで、音響工学の決定版とされ広く紹介されたそうです。ハンパじゃないですね。
また、レッド・ミッチェルが後の五度チューニング奏法に向かう下地となるような父親とのエピソードが本に紹介されています。
ハイフェッツは20世紀を代表するヴァイオリニスト(1901- 87)
レッド・ミッチェル:「私が、まだほんの子供の頃のことだ。ある日、父親がラジオでヤッシャ・ハイフェッツ(vln) の演奏を聴かせた。父は「ハイファイ」という言葉が出来る前から、高性能のオーディオ装置を持っていた。まだ’30年代初めで、モノラルだったけど、とても良い音質だった。ハイフェッツを聴きながら、父は言った。「これこそ最高だ。彼は巨匠だよ。」
「確かにいいとは思うよ、パパ、だけど、こう言っちゃなんだけど、この人ちょっと音程がはずれてところがあったよ。そこと、あそこと・・・」
父:「なるほど、それが判るとは嬉しいね。お前は平均律を基準にしてるいるからアウトして聴こえたんだよ。ハイフェッツは自然音階を使っているからね。」
「父さん、自然音階って何?」
またもや僕はラッキーだった。だって父は自然音階と平均率の違いを説明することが出来たんだから。ハイフェッツの三度の音程は、その時、少し「いやらしい」ものに聴こえてしょうがなかったんだけどね。
<発明狂時代>
 子供の頃から、レッドは発明家を目指し様々な製品を発明しました。最大のヒット商品は、洋服のハンガーの針金で作ったゴム仕掛けの6連発拳銃で、1丁10¢払って近所の子供たちは全員購入したそうです。するとお父さんは、このゴム拳銃で特許を取得するための方法を色々伝授してくれて、レッドに製品化する為の材料やマーケティングを勉強させました。その煩雑さのおかげで、レッドは発明で一攫千金することの難しさを自覚したと告白しています。つまりお父さんは息子に「発明家」という職業の困難さを上手に教えたわけですが、やがてレッドはジャズの即興演奏を通じて、新たな「発明」の喜びを味わうことになります。
<ジャズとの出会い>
幼い頃から9年間クラシック・ピアノの稽古を続けたレッドでしたが、ピアノの恩師が突然亡くなります。そんな時に出会ったのがジャズ!レッドは大きな衝撃を受けます。
レッド・ミッチェル:「ラジオで偶然カウント・ベイシー楽団を聴いて、すっかりジャズの虜になってしまった。楽団全体から愛のメッセージが発信されているような音楽だったよ!ダンスなんて今でも出来ないけど、とにかく踊りだしちゃってね、居間で踊りまくった。そして「こういう音楽を演らなくちゃ!」とひそかに誓ったんだ。そして、テナー・ソロが聴こえて来た。その時は、それがテナーサックスかどうかも知らなかったんだけど、すぐにこれこそが世界最高の演奏者だと思った・・・レスター・ヤングだよ。人生の決定的瞬間だ、12才か14才かその辺りだ。
ベースを演るようになったのは19才の時で、それまではクラリネットやアルトなど、色んな楽器をかじった。」
その頃のレッドは、まだ発明と音楽の志が相半ばしていて、ホーボーケン(NJ)の工業高校から奨学金を取得し名門コーネル大学へと進学し、学業の傍らピアニストやクラリネット奏者としてジャズの仕事もしていました。
<兵役そして破門>
http://www.redmitchell.com/より。
コーネル大では、宿題はサボるものの、結構優秀な生徒であったミッチェルですが、2回生で徴兵されドイツに駐留、その間ピアノ兼ベースでアーミーバンドとはいえ、ジャズ専門の楽団で活動します。そのバンドはトニー・ベネットなどが在籍した名バンドで、レッド・ミッチェルの人生は急速にジャズ・ベーシストとして転換していくのですが、思わぬ難関に遭遇します。
レッド・ミッチェル: 「任期満了で帰国した1947年、私は両親にジャズ・ミュージシャンになるつもりだと話した。それは確かに風変わりな決意だったね。コーネル大に復学すれば奨学金とGI特典によって無料で卒業できることは判っていたのだが、復学するつもりはなかった。当然、家族、友人はこぞって忠告した。
"もしも音楽家になりたいのなら、少なくともジュリアード音楽院に通って学位を取得しなさい。万一演奏家として成功しなくとも、教師として生活していけるように。"
それでジュリアードには3ヶ月間通った。私は音楽鑑賞とベース演奏の二つのコースを選択した。私のすぐ後にフィル・ウッズ(as)が入学している。私の成績は音楽鑑賞で最高点のA、ベースでは最低のCだった。3ヶ月間師事したのはあいつだよ。NYでベースを勉強するならあいつしかない。誰かって?フレデリック・ジマーマンだ。ジマーマンはNYフィルの次席奏者で、彼はそのポジションを非常に不服に思っていた。巨匠コントラバス奏者、ヘルマン・ラインスハーゲンのスター格の弟子で、最初は首席奏者だったのに降格されたんだ。ヘルマンは文字通りNY中のベース奏者のボスで、NYフィルのトップ・プレイヤーだった。良い学生も、良い仕事も、全てが彼のものだったんだ。引退時、ヘルマンは自分が持つ全ての権力をジマーマンに譲ったんだ。ところがそれもつかの間で、上層部がフレデリック・ジマーマンを降格した。何故なら、彼にはセクションのリーダーシップがなかった。もちろん優れたベース奏者だったんだがね。私は彼のアパートで演奏を聴いた事がある。私なら彼が私にくれたのと同じCの点をやるよ。
ミッチェルを破門したジマーマン先生は左から3人目です。
ここで言っておかなければならないのは、当時私はジュリアード入学前、たった三ヶ月しかベースを練習していない初心者だったということだ。色んな楽器にトライしてみたけど、どれもうまく行かず、だんだんベースが一番向いていることが判ってきた程度だったんだ。単細胞で、常に事物の根底を掘り下げるタイプだからね。月並みに聴こえるかもしれないが、そういう事はとても深い関係があるんだよ。とにかく3ヶ月フレデリック・ジマーマンに師事し、挙句の果てに彼はこう言ったよ。
「坊や、もう止めとけよ。世の中にベーシストは掃いて捨てるほどいるんだよ。この世界は厳しいぞ。ベースの他にやりたいことは何かね?」
『発明家です。』私は答えた。
「Yeah、そいつはいい!ベーシストより儲かるぞ。」
名門音楽院のベース教師から破門されてから5年後、レッド・ミッチェルはプロのベーシストとして、人気ヴァイブ奏者レッド・ノーヴォ3で活動していました。
その事件はロサンジェルスのクラブで起こります。
<真のベース教師と出会う>
レッド・ミッチェル: 「私がノーヴォやタル・ファーロウと演奏していると、ロマンスグレーの年配の夫婦が現れた。1セット目が終わると、私は彼らに紹介された。なんとそれがベースの巨匠ヘルマン・ラインスハーゲンと奥さんのミュリエルだったのさ!二人は私の評判を聞いて、わざわざ聴きに来てくれたんだ。奥さんがとてもいい人で、僕の車の中でこんな風に耳打ちしてくれた。
「ハーマンは引退していて、お弟子さんはもう取っていないの。でもね、あなたが頼めば、きっと教えてくれると思うわよ。」僕は、奥さんに礼を言って、そのとおりにした。そして、僕は6ヶ月間に師事することになったんだ。全く素晴らしい先生だった。」
ジュリアード音楽院でジマーマンに冷たく破門を宣告されたレッド・ミッチェルの才能を一瞬に看破し、弟子に迎えたのは、そのジマーマンの師匠だったんです。人生ってほんとに不思議ですね!
続きは次回!CU
非常に興味深い内容・文章にワクワクします。
続きが、とても楽しみです。
レッド・ミッチェルは、ネット上でデータが驚くほど少なくて、「生」が命のアーティストの宿命かなと寂しく思ってます。
入手した本には「なぜ5度チューニングなのか?」というミッチェルの主義主張もかなり詳しく書かれていました。私は専門家でないので、どこまで正しく日本語にできるかわかりませんが、ベストを尽くしますので、ベーシストの方に楽しんでいただければ光栄です!
来週のエコーズは、初めてのお客様からご予約を頂戴していますので、どうぞよろしく~!