台風一過で秋本番の大阪です。今朝はJRのダイヤも大混乱でしたが、いかがお過ごしですか?皆さんの町やご家族の誰にも被害がなければいいのですが・・・
<私が故国を去った理由>
レッド・ミッチェルが住みなれたLAを離れストックホルムに転居したのは1968年ですが、初めてスエーデンを訪れたのは’54のツアーで、ビリー・ホリディも一緒だったと言います。リムジンで街を案内された時、ビリー・ホリディはてっきり景観の良い場所だけをドライブしているのだと思いこんで、「スラム街に連れて行ってよ。」と言いだしました。すると、現地の人たちはこう言って、レディ・デイを驚かせたそうです。
「この町にスラム街はありませんよ。」
「そのかわり、この国にはビヴァリー・ヒルズもありませんがね。」
アメリカン・ドリームの裏側にある、構造的格差社会の米国に失望したミッチェルは、第二の人生の舞台に、平等社会スエーデンを躊躇なく選んだのかも知れません。
ジーン・リース著、「Cats of Any Color」の中で、レッド・ミッチェルはスエーデン移住の動機について語っています。
レッド・ミッチェル:「二度目の妻と暮らしていた時のLAの自宅はシャロン・テートを惨殺したマンソン・ファミリーの活動場所の近所でね、近所の老夫婦が殺害され、私の家のガレージが荒らされた。彼らの仕業だと思うよ。当時、ショウビジネスの人間は戦々恐々としてしていて、スティーブ・マックイーンですら拳銃を携帯していたほどだ。だが、あの事件は米国全土に蔓延する暴力主義の氷山の一角に過ぎない。
私がアメリカを去ったのは、ホワイトハウスから地下鉄に至るまで、全米を覆い尽くす暴力と人種差別が原因だ。具体的には、ごく短期間に続けて起こった6つの事件が、移住の理由だ。ひとつは二度目の結婚の破たん。ふたつめは、ヴェトナム戦争から街で起こる事件など様々な暴力の悪循環に加担したくなかったから。そして、僕たちが演奏する音楽にも、社会の暴力的な要素が反映されていくのに耐えられなかった・・・」
レッド・ミッチェルの最後の妻、ダイアンはスエーデンを含め3つの大学で社会学を修め、反戦運動に関わった社会活動家ですから、実存主義的でリベラルな思想は、ひょっとしたら彼女の影響なのかも知れません。
<スエーデン時代>
ペデルセンと、二大巨匠の2ショット。
スエーデンに渡ったレッド・ミッチェルはアーティストとして大歓迎を受け、フリーランスで活動します。その頃レギュラーで共演していたのが、12月のジャズ講座に登場するテナー奏者ニセ・サンドストローム(ts)です。
’77年から’90年までは、毎年必ずNYに3か月間滞在し、「ブラッドリーズ/ Bradley’s」を拠点にして、トミー・フラナガン、ジム・ホール(g)、ハーブ・エリス (g)と共演。辛口コメントで知られる評論家レナード・フェザーに「ジャズ・ベース最高のソロイスト」と賛辞を献上させています。
ベースだけでなくヴォーカルやピアノも演奏、そればかりか詩人としても活躍しました。91年にはスエーデンのグラミー賞を受賞、同年ソ連にホレス・パーラン(p)とツアーしています。演奏の傍ら、欧米をまたにかけ”Communication”, “ベース・ワークショップ” “五度チューニング・ベース” などのテーマで講義、講演し、教育者としても実績を挙げました。チャーリー・ヘイデン(b)や、モンティ・アレキサンダー(p)のレギュラー・ベーシストであるハッサン・シャカール(Hassan A. Shakur aka.J.J. Wiggins)もレッド・ミッチェルの愛弟子なんです。
<ズート、サラ、マイルス・・・レッド・ミッチェルのアイドルたち>
音楽や社会問題、何でも徹底的に論じ尽くすレッド・ミッチェルの発言を読んでいると、もし彼が日本人なら、TVコメンテイターに成れたのに・・・と思うほどです。そんな彼の音楽的アイドルは、ベーシストでない人ばかりでした。
レッド・ミッチェル:私のアイドルは、ベーシストとは限らない。たとえばズート・シムス(ts)、それにサラ・ヴォーン(vo)だ。彼女の数え切れない美点の中でも、あのイントネーションが最高だ。彼女の音程は完璧だ。ど真ん中に命中した音程が、次にはさらにその中心に、その次には、さらにその針の穴のど真ん中にヒットしていくのが堪らない。それだけで鳥肌が立って泣いちゃうよ。
自分の生徒には、ベースでなくホーン奏者を見習えと常に言っている。特に心から薦めたいのが’50~’60年代のマイルス・デイヴィスだ。
なぜなら、マイルス・デイヴィスにはトランペッターとしての天賦の才はないからだ。マイルスはトランペットを演奏する為には、ありとあらゆる問題を克服しなければならなかった。そのため、マイルスは考えに考え抜いた。問題と闘いながら考え抜いたんだ。だから彼のプレイは実にシンプルで深みがあり、ベース奏者でも演奏できるし、オクターブ低く引けば一層深みが増すフレーズが多い。だから、ホーンならマイルスを聴けと言っている。
マイルス・デイヴィスは自分の欠点を、最高の長所に変えた。彼の吹く音は、様々な問題と格闘した結果だ。彼が考えることなく出した音などただ一つとしてないよ!
私にもベーシストとして致命的な欠陥がある。一番の欠陥は、極端な「右利き」であること:普通ベースの演奏は8~9割までが左手の仕事なんだよ。左手と右脳を柔軟に活用して、右手はとれとれの魚みたいなもんでいいんだ。左手を自由に使えるよう努力してみたが、どうにも無理だった。それで、「右利き」を最高に活かせるようフィンガリングを工夫して、自分の奏法を編み出した。マイルスのように欠点を長所にしようと格闘したわけだ。
<晩年>
G先生のお話によれば、’92年にレッド・ミッチェルが故国に戻り、オレゴン州のサレムに転居したのは、ダイアン夫人のお父さんがそこに住居を持っていたのと、ストックホルムのアパートで近隣から演奏による「騒音」の苦情が来たためであるそうです。
この頃からミッチェルはしばしば狭心症の発作が激しくなり、痛みをこらえて生活していたそうで、ひょっとすると、アメリカに帰ったのは、自分の死期が近いのを予感していたせいかも知れません。トミー・フラナガンやレッド・ミッチェル、サー・ローランド・ハナ・・皆心臓疾患を抱えていたんですね。
帰国後、大統領選挙戦たけなわの’92年10月、ミッチェルは軽度の心臓発作で入院、リベラルでジャズ・ファンであったビル・クリントンに不在者投票しています。11月3日、心臓検査の結果は良好、またビル・クリントンが大統領に選出され、レッド・ミッチェルは最高の上機嫌でLAにいる弟のゴードン・ミッチェルと、長距離電話で互いに祝い合いました。
その夜遅く、レッド・ミッチェルは脳卒中の発作に見舞われ5日間昏睡状態となり、1992年11月8日、帰らぬ人となりました。
先月から、三回に分けて、レッド・ミッチェル(b)について書いてきましたが、ちょうど、この時期にレッド・ミッチェルのメモリアルサイトがオープンしていました!ダイアン未亡人が作成しているサイトで、まだ工事中の箇所もありますけれど、写真やヴィデオも沢山Upされていて、とても嬉しく思いました。「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のレッド・ミッチェル時代にこのサイトが出来たのは、ミッチェルの言葉を借りるなら、神様ではなく”母なる自然”の思し召しかも知れません。
今回のレッド・ミッチェルの写真はすべてhttp://www.redmitchell.com/からのものです。
土曜日のジャズ講座では、レッド・ミッチェルの饒舌な語り口そのままのベースを楽しもう!
お勧め料理は、レッド・ミッチェルと同じくらい饒舌なペッパー・アダムスの名盤「The Master」の中のオリジナル曲に因んで、メキシコ料理「エンチラーダ」を作ることにしました。中身はピリ辛のお肉と、あっさりマイルドなマッシュルーム&ホウレン草、ソースもホットチリ味とサワークリームの2色作って待っています。
CU