ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(3)

 今年最後のSeptember in the Rainで路地裏もしっとり濡れてます。大阪も急に寒くなりました。皆様、お風邪など召されていませんか?国際事情ややこしいようで、北京駐在の常連KD氏はお変わりありませんか?

 ジャズと関係ないけど「俺達に明日はない」の監督、アーサー・ペンが亡くなったそうですね。トランペットのKD(ケニー・ド-ハム)の幼少時代最も記憶に残る犯罪者だった”ボニー&クライド”の物語。スローモーションの鮮烈なラスト・シーンが忘れられません…

 さて、「ジミー・ヒース伝」第3回目は、ジミーのジョン・コルトレーン観について、抜粋しようと思います。プレイも作編曲も、あくまでも端整でクリアカットなジミー・ヒースと、濃密でアヴァン・ギャルドなジョン・コルトレーンは、前のエントリーで書いたように、40年代~50年代の初めにかけて、バンド・メイトとして、友人として、一緒に稽古し、ハーモニー論議を展開した親密な間柄。初期の二人は、ほとんど同じ音楽的方向を目指していたといいます。

 後にジョン・コルトレーンはBlue Noteレコードと契約し、ジミーは当時Blue NoteのライバルだったRiversideレコードに。レコード会社の資本力と命運が、批評界の評価の相違に大きく関係しているようにも思えます。

 ジミー・ヒースのジョン・コルトレーン観についての項に書かれている「ジョン・コルトレーンのどこがいいのか?」は、今まで読んだどんな批評よりも「なるほど!」と納得できるものでした。

ジミー・ヒース自伝 :Second Chorus (1949-1969)よりbook_300.jpg

(p.136~)

<葬儀にて>

 1967年7月17日、ジョン・コルトレーンが亡くなった時、私はアート・ファーマー(tp, flh)とイースト・ヴィレッジのクラブ『Slugs』で仕事をしていた。夜遅くの出番だったので、21日に行われた葬儀の時は非常に疲れていた。場所は、レキシントンAve.54丁目にあるSt.ピーターズ教会、ルーテル派の古風なゴシック様式で、現在のシティ・コープビルに建て替わる前、ジョン・ゲンゼルが牧師を勤めている頃のことだ。告別式ではソニー・スティットが隣の席だった。私は棺を担ぐように言われたが、どうにも出来なかった。棺のトレーンを見ると涙が止まらない。死に顔はトレーンとは思えず、空気で膨らませた人形にしか見えない。そして私は手を見た。間違いなくそれはトレーンの手だった。その途端に、私はジョンの死を実感した。彼の人生が私の中でフラッシュバックし、悲しみが私を打ちのめした。ディジー・ガレスピー楽団や、様々なセッションで共演した時期は、とても近しい関係だったのだ。フィラデルフィアで一日中一緒に練習したり、遊び歩いた思い出が一気に甦った。

John+Coltrane.jpg

 葬儀は盛大でアメリカ全土のみならず世界中から大勢が参列しており、私はそれまでより更に、彼が最初は私と同様、地味な存在であったと認識した。これほど大物になりながら死んでしまったトレーン、『人生は40歳から』という格言を思い出す。棺の彼は40歳で死んでしまった。彼はもうこの世にいないのだ。それは圧倒的な事実で、どうにも受け容れ難いことだった。ディジー(ガレスピー)が私の後ろに座っていて、バルコニーではフリー・ジャズが演奏されていた。

 ディジーはこう言った。「もし俺がくたばって、葬式でこんな音楽を演られたら、ロレイン(ガレスピー夫人)が全員撃ち殺しちまうだろうな・・・」(中略)

<私たちのつながり>

 私とコルトレーンの音楽的関係は、お互いの初期には非常に強いものだったが、私の服役中にその絆は絶たれた。私がジャズ・シーンから消えた4年半の間も、彼は自分のやるべきことを、しっかりやり続けた。常に修練を続ければ、必ず熟達する。私が戻ってきたとき、彼は大物になり、すっかり多忙になっていたが、それでも時おり会っていろんなことを話し合った。1959年に復帰してからは、私より彼の方がずっと大物になっていたので共演はしていない。そして彼の目指す音楽的方向もまた、彼を取り巻くミュージシャンたちと共に変化していた。トレーンが私を思いやって、「自分の後任はジミー・ヒースにして欲しい」とマイルス・デイヴィスに宛てて要請した葉書を、私は持っている。

 後年、私はTrane Connection”と題するオリジナルを作曲し、ジョンに捧げた。彼の名声と音楽的地位は誰よりも勝っている。

John Coltrane - Ascension.jpg

 彼は明らかに新しい音楽的方向の開拓者だ。つまり、彼は今までとは異なった流儀で演奏する事をめざし、紛れもなく「コルトレーン」というスタイルを作り上げた。しかし『Ascention』というアルバムは濃厚すぎて好きではない。一度に皆が口々に演奏する形式は重層に過ぎ、私個人の意見としては、どうも無秩序に聴こえてしまう。

 確かにニュー・オリンズ・ジャズのスタイルで、3、4人が一度にプレイするということはあるし、J.J.ジョンソンも”clam bake”(騒々しい集まり)と名づけて、そういう形式を取り入れていた。3人が口々にプレイしても、まだ各人の相違や関連が判るが、『Ascention』では、もっと大人数で一度に演奏しているので、いささか興醒めする。

<ジョン・コルトレーンの『泣きのサウンド』について>

 思うに、レコーディング内容なら『Count Down』『Giant Steps』『至上の愛』、楽曲なら『Naima』『Count Down』といった辺りが、彼の最高作ではないだろうか。特に『Naima』は他のどの作品よりもレベルが高いと思う。ただし『Naima』の後期ヴァージョンはよりフリーで濃密だ。

 コルトレーンはテナー・サックスという楽器で最も説得力のあるサウンドを持っていた。だが彼のソプラノは甲高く、私は余り好きではない。いずれの楽器にせよ、テクニックも創造力も素晴らしいものだが、ここではトレーンのテナーについて語りたい。彼のテナーのサウンドには「泣き(Cry)」がある、そしてその「泣き(Crying)」には尊厳がある。「叫び」のテナーは「懇願するような趣」を持つ種類のプレイヤーがいる。ケニーG、デヴィッド・サンボーンといった人たちは,言わば「泣き虫の子供」だ。だが、コルトレーンの「泣き」はそういう種類のものではない。尊厳と品格のある「泣き」で、神々しく精神性の高いものなのだ。

 それ以外の「泣き」のテナーたちは往々にしてハンク・クロフォードのような黒人ソウル系サックスの模倣だ。グローヴァー・ワシントンもそういう系統に属しているものの、サウンドはけた違いに凄い。

 トレーンのサウンドは、「一緒にベッドに行こうよ」とおねだりするような種類のものではない。「好きになって欲しいとは言わないが、真実の表現なのだから、否応なしに、好きにならなければならない!」というところがコルトレーンならではだ。

 テナーの歴史上そんなプレイヤーはいない。多くのテナー奏者がコルトレーンのスタイルやフレーズを模倣しているが、あのサウンドを会得した者は皆無だ。あのサウンドは、トレーンの高い精神性や音楽への献身、それに休みなく続けた修練の賜物で、彼だけのものなのだ。

 彼は自分の求めるサウンドが何かをよく知っており、それを自分のものにした。初期の『Naima』を聴くと、それを実感することが出来る。彼はストレートなトーンを使っているので、冷たい印象を受けるかもしれない。しかし、ストレートなトーンから独特の「温かみ」が発散しているのがわかるだろう、後に彼が駆使するヴィブラートにも、その「温かみ」があり、それらは全て、上に書いたようなトレーンの非常に個人的な修練に根ざしたものなのだ。

jimmy_heath61.jpg○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  ○  

 皆さんはどう思われますか?My Favorite Thingsだけでは、ジョン・コルトレーンの本当の凄さは判りませんね。

 OverSeasで聴く寺井尚之の『Naima』も、ぜひ一度聴いていただきたいです!

 明日は鉄人デュオ!お勧め料理はほっこりジャガイモ&きのこのグラタンを作ります。

CU

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