1958年10月、J.J.ジョンソンは、他2名のミュージシャンと共に、キャバレー・カード申請で、人権を侵害されたとして、NY市警察本部長と警察年金基金の理事13名を相手取り、NY州上級裁判所に告訴した。
あと二人の原告は、ジョニー・リチャーズとビル・ルビンスタイン、リチャーズはフランク・シナトラでヒットした”Young at Heart”の作曲者として名を残すバンドリーダー。彼は自分の楽団にルビンスタインをピアニストとして雇用する予定だった。ところが、ルビンスタインが過去の麻薬問題を理由に、キャバレー・カードの再申請を却下されたことで、演奏活動に大損害を受けた。
原告団の代理人、マックスウエル・コーヘン弁護士は、バド・パウエルのキャバレー・カード事件以来、キャバレー法の制度的問題を追求してきたリベラル派の弁護士。同志には、マフィアと警察の両方に、みかじめ料を払っているのにも関わらず、バド・パウエル出演の一件で煮え湯を飲まされた「バードランド」の経営者、オスカー・グッドスタイン、”Jet” や”Ebony”など黒人向け人気雑誌の編集長、アラン・モリソンがいた。この訴訟を、バックでサポートしていたのは、”Local 802″(NY地域のミュージシャン組合)、”American Guild of Variety Artists”(演劇、演芸など、舞台人の組合)という、芸能関係の労組で、キャバレー法が違憲であることを主張し、無効にすることを目標としていた。
つまり、この訴訟は、労働争議的な性格があるのですが、ジョンソンとしては、自分の生活と、仕事場から閉めだされ、破滅させられた仲間の十字架を背負ったイチかバチかの勝負でした。
注射針の所持だけで逮捕されたJ.J.ジョンソンは、本当に潔白だったのでしょうか?
ジョンソンの音楽評伝”The Musical World of J.J.Johnson”には、「決して麻薬中毒ではなかった。」とはっきり記されています。その一方で、終生親交のあったジミー・ヒース(ts)は、自分とドラッグとの関わりを赤裸々に告白した自伝”I Walked with Giants”に、コルトレーンやマクリーンと同様、「札付きのヘロイン中毒」であった仲間の一人と語っています。
いずれにせよ、J.J.ジョンソンが、進んで原告となった際には、かなりの勇気と覚悟が必要だったはずです。
法廷でのジョンソンは、品格と知性に溢れる一流のアーティストで、どう見てもジャンキーではなかった。『J.J in Person』のMCさながらに、自分のカード申請が却下された顛末を、明瞭に証言し、裁判官に「人権を守る正しい法的な手続を受けられなかった善良な市民」であることを、強く印象付けました。
審理は二日間に渡り、コーヘン弁護士は、ジョンソンの証言を裏付ける強力な証人を用意していました。
<証人登場>
まず、J.J.ジョンソンの妻、ヴィヴィアン(上の写真)が出廷、夫の家族愛について感動的に証言した。そして業界の著名人がどんどん証言台に立ちました。
大レコード・プロデューサー、カウント・ベイシーからボブ・ディランまで、多くのスターを育てたジョン・ハモンドもその一人。
「キャバレー・カードは、ミュージシャンがNYで生活費を稼ぐため、当然持つべき権利のあるカードです。それにも関わらず、申請する際、まるで犯罪者のように指紋をとられている。明らかにハラスメントですよ。」 ハモンドの証言は、警察が憲法と人権を冒涜しているという原告の主張と完璧にマッチしたものでした。
TVでおなじみの人気司会者、スティーブ・アレンも証言した。黒縁メガネがトレードマークのアレンは放送作家出身でジャズ通、自ら音楽もたしなむ。ちょうど大橋巨泉の元祖みたいな人です。全米の人気番組だったTonight Showの初代ホストだった大物タレント。ジョンソンは彼の番組にしょっちゅう出演していた。
「私の番組には、健全な人物しか出演させません。麻薬犯罪者を、自分の番組に出演させたことなどないですよ。まして出演者がスポンサーや視聴者と問題を起こしたこともありません。はい、もちろんジョンソン氏には何度も私の番組に出演してもらっています。」
そして、意外にも、法廷で最大のインパクトを与えたのは、歌手でTVタレントのデヴィッド・アレン!ヴォーカル通なら、彼がジャック・ティーガーデンやボイド・レイバーン楽団で人気を博した後、麻薬で逮捕され引退していたことをご存知かも。(左は’70年代にザナドウから出たバリー・ハリスとの共演盤)
アレンは、リハビリ後、カード再申請の際、警察の妨害を受けたことを証言した。その内容もさることながら、第二次大戦の功労者であることが重要だった。前線でマラリアに罹り負傷、勲章を授与された退役軍人だったんです。米国社会で戦争の功労を無視するというのは、日本人が考えるよりずっと理不尽なことだった。
幸か不幸か、おまけに法廷で大ハプニングが!アレンは、戦場で罹ったマラリアの発作に襲われて、法廷で倒れたんです。これがホームラン!気の毒に・・・お国のために戦った人が、なんと気の毒に・・・審理の流れが一挙に優性になった。
「デイヴが法廷でマラリアの発作に襲われたことが、審理に新しい展開をもたらした。証人でありカードの申請者であるデイヴが、判事や傍聴人の面前で、国のための戦いで負った痛みに襲われた。我々の証言者や目撃者は、もはや単なる法廷の申請者ではなく、苦悩し涙する人間となったのである。」コーヘン弁護士の著書”The Police Card Discord”より
ジェイコブ・マコーウィッツ裁判長は、原告、被告の代理人達と非公開審議を行った後、判決を言い渡した。
- NY市警は、原告ジェームズ・ルイス・ジョンソン、ビル・ルビンスタイン両名に対し、直ちにキャバレー従業員身分証を発給すること。
- 人権重視と人道主義にのっとり、キャバレー従業員身分証発給の指針を緩和すること。
ジャズ研究の大御所、ダン・モーガンスターンは喝采を叫びます。「J.J.ジョンソンこそが、不愉快極まりないNYのキャバレー法の化けの皮を引っ剥がしてくれた!」
裁判所命令に添って、即刻キャバレー・カードを支給されたジョンソンは、数週間後にヴィレッジ・ヴァンガードに出演を果たしました。
めでたしめでたし、というわけではない。結局キャバレー・カード制度を違憲とするコーヘンの主張は認められず、制度が廃止されるのは、これからまだ8年の歳月がかかります。有名コメディアンがカード申請のトラブルの間に死亡したり、麻薬前科のあるフランク・シナトラが、当局の「お目こぼし」によって、カードなしに堂々と高級クラブに出演していたことが発覚し、NY市警本部長が退任するほどの大スキャンダルを巻き起こしてからのことです。
その後のJ.J.ジョンソンの人生も、決して平坦なものではなかった。常に「明瞭かつ論理的」をモットーにした天才にとって「明瞭でなく理に叶わない」ことは耐えがたいことだったのではないだろうか?自ら銃を取って幕引きをした彼の人生そのものが、激烈な闘争だったように思えてなりません。
「暮らしの術を奪うとは、俺の命を奪うも同然。」
シェークスピア:「ベニスの商人」 第4幕1場。
tamae様、今晩は。
毎回、読むストーリーはハラハラ、ドキドキの連続です。
とても面白くて後編が待ちどうしいでした。
未だにアメリカの警察はなんとなく恐いという印象のある私はきっと時代錯誤なんだと思うけど、南や中部の方に行くとそんなに昔とは変わっていないと聞いたりするとやはり長い差別の歴史がそう短い間に変わるとか思えないような気もしました。
ここでの講座は本当に興味深いです、ありがとう!
クミさま、素敵な音楽と美味しい食べ物のあるカナダから、大阪のおばちゃんブログにようこそ!
この争議は公民権法成立以前ですから、黒人ミュージシャンが原告の一員になって勝訴したというのも、大変なことだったんでしょう。
後の裁判は、クインシ―・ジョーンズやニーナ・シモンが関わって、全米の話題になったということです。
なんか、突拍子もないテーマに首を突っ込んで、本読むのにも法律用語ばっかで辞書と首っ引きで、えらい目に会いました。またコレに懲りずに、今後共よろしくお願いします♪