先日、英国BBC放送のドキュメンタリー番組「The Jazz Baroness(ジャズ男爵夫人)」を観ました。The Jazz Baronessとは、言うまでもなく、パノニカ男爵夫人、数年前に出た「三つの願い」は、パノニカの孫娘によって編纂されたものでしたが、この作品は、パノニカの実家、兄の孫娘である放送作家、ハナ・ロスチャイルドが、パノニカ本人や、自分の一族、モンクゆかりの人々を入念にリサーチしながら、ヨーロッパの名家、ロスチャイルドの親族としてまとめ上げた興味深いドキュメンタリーでした。
ハナ自身がナビゲーターとして、ヨーロッパ大富豪の末裔であるニカと、西アフリカ出身の黒人奴隷の子孫である天才音楽家セロニアス・モンクの生い立ちをシンクロさせながら、二人の結びつきが必然的なものだったことを暗示していきます。
以前、パノニカ夫人、Kathleen Annie Pannonica de Koeningswater について散々書いたのですが、この番組を観たら、また話題にしたくなりました。
証言者として登場するのは、パノニカの姉(昆虫学の世界的権威 ミリアム)や甥(ハナの父)、デヴォンシャイア公爵夫人といった上流階級、そして、セロニアス・モンクの息子、TS.モンク、クインシ―・ジョーンズ、ジョージ・ウエイン、アーチー・シェップ、ロイ・ヘインズ、チコ・ハミルトン、それにモンクのドキュメンタリー、『Straight No Chaser』を作ったrクリント・イーストウッドなどなど。ヨーロッパ、米国、色んな立場の証言で、一見かけ離れた二人の接点を見事に浮き彫りにしていました。
<ヒントは『Thelonica』に!>
ハナは1962年生まれ、私のように出来の悪い子は「名門ロスチャイルドの一員としてふさわしくないのではないか?」というプレッシャーを常に抱えてきた女性。彼女にとって大叔母であるパノニカ(1913-88)は家の恥、下品な女、はみ出し者として、話題にすることすらタブーだったのですが、自分と似ているように直感し、強い興味と親近感を覚えるようになります。パノニカを探る旅は、作者ハナ自身を探す旅でもあります。
パノニカを訪ねて、彼女がロンドンから初めてNYに旅をしたのが1984年。偶然にも私がヴィレッジ・ヴァンガードでニカを観たのと同じ年でした。
NYに着いたハナはニカに電話をかけます。
「大叔母様、私は今、NYにおります。ぜひお目にかかりたいのですが。」
「それじゃ、真夜中にダウンタウンのジャズクラブにいらっしゃい。」とニカは神経質そうにクラブの住所だけ言った。
「住所だけで判るのですか?」 物騒なNYの町で右も左も分からないハナが不安気に言うと、
「目印はベントレー。」それだけ言って電話は切れた。
地下組織で活躍したニカらしい逸話です。
毛皮のコートに真珠のネックレスのニカは、お決まりのテーブルに陣取り、いかにもくつろいだ雰囲気だった。71才の大叔母はジャズのために、家族を捨てた人。彼女は初対面のハナにこう言います。
「覚えておおき。人生は一度しかないのよ。」
ニカに会って、ハナはますます興味を掻き立てられます。そんな彼女の元に、ニカは2枚のLPを送ってきた。一枚は、”Pannonica”を収録したモンクの『Brilliant Corners』、そしてもう一枚がトミー・フラナガンの『Thelonica』だった。
ホレス・シルヴァーやソニー・クラーク、ジジ・グライス・・・数多の音楽を献上されたニカは、多くのレコーディングの中から『Thelonica』を選んだ訳は、音楽を聴けばよく分ります。フラナガンが、モンクとニカの関係を、最善の形で音楽として表現していたということに違いありません。
<Pannnonicaは蝶ではなかった>
ニカとその兄弟:(左から、ヴィクター、ミリアム、リバティ、パノニカ)
“パノニカ”という名前が、父の発見した新種の「蝶」に因んだものだということは、以前Interludeに書きましたが、このドキュメンタリーでは、実際の”パノニカ”は美しい蝶ではなく「蛾」だった。英国王立自然史博物館に所蔵される標本を観たハナは、その蛾の色を、ヒトラー以前、ロスチャイルド家のハウス・ワインであった、「シャトー・ラフィット・ロートシルトに浸したような色と表現している。
その逸話が象徴するように、令嬢パノニカの子供時代は決してバラ色でなかった。一家の住居は、人里離れた丘の上に建つ ワデスドン・マナーと呼ばれる城、英国王や首相を始め各国の要人が客として訪れる。ロココ風の豪奢な調度品や、当主が集めた珍しい動物の剥製の数々!
紅茶に入れるミルクだって、3種類の牛からお好みの乳を選ぶんですから、私のようなドブ板庶民には想像もできない世界。
でも、子どもたちにとって、その城は、おとぎの国どころか、息の詰まる場所だった。清潔過ぎる部屋、看護婦や召使に囲まれて、鬼ごっこすら出来ないし、好きな洋服も食事も選べない。
女の子はドレスのリボンの色まで決められていた。
母親ロジツカに会えるのは寝る前に、お祈りする時だけ。
そして何よりも驚くべきことは教育。女の子には高等教育が許されなかった。美しく成長したら、社交界にデビューし、よき伴侶をゲットし、多くの子供を作ることが女の努め。
ロスチャイルド家だけでなく、名家というものはそういうものだったそうです。
<モンクとロスチャイルドの共通点>
女性の教育を嫌ったロスチャイルド家ですが、ニカの姉上、ミリアムは「蚤の研究家」として生物学史に名を残しているし、父チャールズ、兄ヴィクター、銀行家として投資に勤しむ傍ら、科学の研究でも成果を残しています。彼らのペットがフクロウで、まるでハリー・ポッターの魔法学校!
パノニカだって英国女性として初めてA級パイロット免許を取得しています。(だから、兄ヴィクター・ロスチャイルドは、ニカの結婚祝いに飛行機(!)をプレゼントした。) 脳のCPUが並外れた家系なのかも知れません。
その反面、パノニカの姉、リバティは統合失調症で苦しみ、父チャールズはうつ病のために自分の喉をナイフで掻き切ったという負の歴史を背負っています。
チャールズ・ロスチャイルド卿の自殺のニュースは国中を駆け巡りましたが、母ロジツカは子供達にその不幸な事実を隠して、病死を偽った。子供達が成長して、悲惨な事実を知った後も、家庭でその話をすることはなかったといいます。パノニカが家庭を捨てて、ジャズメンと人生を共にした遠因はそこにあったのでは、とハナは感じています。
一方、セロニアス・モンクの父親も警察署長になったほどの優秀な人でしたが、後に精神を病み療養所で亡くなり、モンク自身も精神を蝕まれて亡くなった。
ニカの子どもたちの親権は全てケーニグスウォーター男爵に。
<ニカはモンクの愛人だったのか?>
パノニカがモンクに惚れこんだのは1948年、まだモンクが無名の頃、兄のピアノ教師であったテディ・ウイルソンに”Round Midnight”のレコードを聴かされたのがきっかけでした。それからニカは20回以上立て続けにこのレコードを聴き続けたと言います。モンクの音楽のおかげで、彼女はアルコール中毒から立ち直った。
ニカの非凡なところは、その時の思いを一生持ち続けたところ。
ニカはモンクのためなら何だってやってのけた。自らマリファナ所持の罪をかぶって拘置所に入った。何故ならモンクは黒人で無防備なアーティスト、自分は白人女性で金持ちだからダメージは少ないと。チャーリー・パーカーが彼女の住むホテルの部屋で「変死」し、黒人と共に逮捕されたパノニカは、変態、淫乱男爵夫人として、マスコミから大バッシングを受け、ロスチャイルド家からも見放され、夫から離婚を言い渡されても、モンクとジャズへの愛情は揺るがなかった。
ニカはモンクだけでなく多くのジャズ・ミュージシャンの面倒を観ていました。
ハナは、彼女の信念が、ロスチャイルド家で父を亡くした生い立ちと、ホロコーストにつながったユダヤ人差別に密接に関わっていることを映像で証明していきます。
モンクにはジャズ界で良妻の誉れ高いネリーといういう妻と子供がいましたが、ニカとの関係は男女のものだったのか?これまでの伝記と違って、ハナはその辺りを興味本位でなく、真摯にクローズアップしています。
晩年、ネリーは精神に以上をきたしたモンクに付き添い、ニカの邸宅”キャット・ハウス”に移り住み、葬儀には、ネリーとニカが並んで参列者に挨拶をした。 妻妾同居? 息子のTSモンクは、「そりゃニカはモンクに惚れてたんだ。」とシニカルにコメントしています。一番上の写真でも、ニカのモンクに対するまなざしは愛情に溢れています。 それでも、三角関係のややこしさの痕跡はどこにもありません。夫や子供を犠牲にしてモンクの元に走った女なら、それこそ財力にモノを言わせて、モンクを離婚させる事だって出来たかもしれない。 でもそんなことは全然起こらなかった。確かに愛していたのでしょうが、私たちの定規を越えた愛だったに違いない。
トミー・フラナガンの名作『Thelonoca』の硬質なバラードを聴くと、二人の稀有な友情が、色恋を超えたものだったことが、何となく分るように思えます。 私も、まだまだパノニカに夢中、今度はハナ・ロスチャイルドの書いた伝記本も読んでみよう!
今回、貴重なDVD、『The Jazz Baroness』を見せてくださったサックス奏者、高橋氏に心より感謝します。
CU